おれと彼女の境い目(前編) |
彼女が死んだ一週間後、形見分けだと言って彼女の母に一冊のノートを手渡された。表紙を縁取るレースは新品だった頃とは見違えるようにくたびれて、ヤニと劣化で黄ばんだ布地のところどころに小さな赤いシミが散らばっていた。それが彼女の血痕だと意識してしまう前に手早く表紙を開き、さっさとページをめくった。横書きのページは、どこも丸っこい字で綴られた散文や詩で覆われていた。ちゃんと読んでいるともいないともつかないであろう適度なスピードをたもちながら、時折思い出したように目に飛び込む古びたシミに思わず顔をしかめそうになるのを我慢して先へ進むと、ノートは三分の二程いったところでぷつりと白紙になり、そこでおれはやっと顔をあげることができた。
「最期まで迷惑をかけ通しで、本当に山岡さんには何てお詫びを言ったらいいのか……」母親は瞼を伏せた。「折角山岡さんに優しくしていただいたのに、あんな形で発作的に死んでしまって……あの子もずっとあんな状態だったから、私達も内心覚悟はしていたんです、けどね、やっぱり実際こうなってみると、辛くて」
おれは唇の端を微笑で固めたまま、長くなりそうな泣き言を遮るように音をたててノートを閉じ、両手で差し出した。
「これはおばさんの手元に置いてやって下さい。大事な形見ですし、その方が彼女にとってもいいと思うんです」
「そう? そうね、そうかもしれないわね」
おれの返事が少々期待はずれだったのか母親は一瞬顔を曇らせたが、ふと、今思い出したのだとでもいうように一つ気になることがあると切り出した。
「あの子、このノートの一番終わりのページに妙なことを書いているんです」
受け取られないままのノートを掲げて行き場のなくなった手で裏表紙をめくると、そこには罫線を無視し、難儀してようやく読み取れる程の乱暴さで書き殴られた一文があった。
「多分死ぬ直前の最期の書き付けだと思うんだけど、どうしてこんなことを書いたのか全くわからなくて。いえね、正直言うとここに書いてあることのほとんどがよくわからないんですよ。詩のつもりなんでしょうけどねえ……母親なのに理解してやれないなんて情けないことだけれど……、結局私達には最後まであの子のことがわからなかったのね。でも、あの子が一番信頼していたあなたになら、もしかしたらと思って」
おれはもう一度ノートを閉じ、答えた。
「さあ、僕にもわかりません」
** 彼女を殺せない理由 **
苛立ちと切実さで精製された涙の塊が電話線を介しておれの部屋を占領し、おれはあっという間に内蔵までびしょ濡れになる。一定の間隔で鳴り響く電子音が子供の悲鳴のようだ。螺旋を描いた電話機のコードが、直立不動のおれの腕に蔓のように巻き付いてくる──気さえする。あと何コール我慢すれば、この悲鳴は止むのだろう。
……こっちの事情などお構いなしに鳴り続ける無機質な電話のベルを、出来ることならば完全に無視しこの場から逃れ記憶から抹消したいと願っていた。それが無理な話だということは、おれ自身が一番よくわかっている。記憶は消えない。きっと一生、何十年も先、おれが死ぬか痴呆の渦に飲み込まれおれがおれでなくなるまで、記憶はおれを苦しめ続ける。仮にこのまま受話器を取らず逃亡したとしてもことあるごとに──通り掛かりに突如鳴りだす公衆電話、確実におれ宛ではない誰かの携帯電話の着信音にすら──今夜の電話の主の顔とそれに伴う全ての出来事を克明に思い出し、果ては無音状態ですら幻聴が襲い、ありありと蘇る怒り、恐れ、恥、後悔、思い出した回数とともに濃度を増していく罪悪感、陳腐な単語にすれば何てこともないような有刺鉄線で出来た感情で、短針ほどのスローペースで締め上げる万力のように、ゆっくりとこの身は押し潰される。おれがおれを許し、記憶と感情に器用に折り合いを付けられる日などきっと一生来ない……まだ五コールか。くそっ。
おれの手はたっぷり十秒ためらってから、今夜も諦めを持って六コール目で受話器を上げる。思った通りアケミの母親だった。
「もしもし山岡で──」
「ア、明美がまた手首を切って、あの、あの子が蓮治蓮治って山岡さんの名前を呼んでいて……」
また泣いていたのだろう、鼻にかかった声で、けれどまくし立てるようなその勢いにはおれの意志の介入する余地はない。そもそも受話器を上げてしまった時点で、おれにはそんな権利を行使する勇気はなかった。
(もううんざりなんだ)前歯の裏側で辛うじてとどまっている本音が溜息となって吐き出されるのを最後の理性で引き剥がし、飲み込んで、やっとの事で返事をした。
「わかりました。今寝間着なので、着替えてすぐに伺います」
「お願いしますなるべく早くお願いします。いつも明美が迷惑をかけて本当に申し訳なく思ってますけど、本当にあの子にはあなただけで……こんな夜中に本当にすみません」
ホントウは繰り返すほど白々しく聞こえるものだが、彼女の言葉は嘘偽りない本心そのものだった。その真実の言葉の根底にあるのは、乞食が物乞いするように無節操に救いを欲する切実さ、あるいは腹の減った赤ん坊の鳴き声だ。無視する権利と引き換えに罪悪感を植え付けていく悪魔の所業だ。それを受話器を下ろすことによって一旦遮断する、それだけがおれに出来る唯一の抵抗だった。それ以上もそれ以下も何一つ出来やしない。
おれは着替えたばかりのパジャマをのろまな亀よりは速いスピードで脱ぎ替え、会話中押さえていた溜息を一気に吐き出しきると、タクシーを呼ぶため再び受話器を取った。
寝静まった住宅街に点々と続く街灯の光の中を駆け抜ける車内は、驚くほど静かだった。まるでこの世に俺と運転手の二人しか──いや馬鹿げてる。それほど静かだった。タクシーの運転手は商売柄、客の気分を読み取ることに長けているのか、それともこんな時間の近場の客に不機嫌になっているのだろうか、行き先を訪ねてからずっと無言のままだった。あるいはおれの根底にある濁った性根まで見透かされているのか──それこそ馬鹿げてる、被害意識もいいとこだ。とにかく、沈黙のおかげで考えたくもない余計なことばかり考えられる。
おれはサイドミラーに流れる反転の世界をぼんやりと確認しながら、なぜ彼女の母親はああも本気になって嗚咽出来るのかを考えた(アケミの自傷行為なんて毎度のことなのに)。やはり母子だからなのだろうか。それならば、今自分がこんなにも冷めきった心持ちであるのは、当然他人であるがゆえなのか。しかし執着も情熱もないはずのアケミの命のほんの一つをどうしておれは見すごせないのだろう。いつもいつもおれを苦しめる問い──今夜の電話を無視したら、あるいは母親の申し出を断ったとしたら、アケミは死んだだろうか? いや今日だって、おれが行ったところで手後れなのかもしれない。今日こそとうとう、本当に死んでしまうかもしれないし、死なないかもしれない……。その答えは、自分でもわかっているし誰でもわかるだろう。結局のところ、俺はアケミの命そのものよりも、アケミの死におれの存在がかかっているという事実が怖いのだ。アケミの命に執着がないと言ったそばから矛盾した話だ。いったい命の重さとは何なのだろう。命は大切、命は大事、命は一つ。そんなこと誰が言い出したのだろう。おれはけしてダーウィニズム論者ではない──と思う──が、後に何の語り継ぐべきものもない平凡な人生のために、有限である資源を食い付くさせるのは無駄ではないかと思うことがある。……未来への可能性? ……詭弁だ。おれ達はもう器から溢れた過剰な命の一部だ。これは多分真実だ、おれもアケミも……。しかしその代表格である自分に、けして矛盾しない生への執着があるのも事実なのだ──おれは死にたくない──なるほど命は大事だ。なんて単純な話なのだろう。
死にかけのアケミ、という事実に直面するのが嫌でうだうだと考え事をしているうち、やがて車はお洒落でモダンな住居の立ち並ぶ住宅街の一角に止まった。おれは心を空っぽにし、なるべく事務的に処理しようと努めた。代金を払い座席から降りるとすぐ、玄関先で待っていたのかドアの閉まる音と同時に父親が現れ、傷が思いのほか深かったのでアケミは母親と病院へ行ったのだと告げられた。その言葉に次の取るべき行動を察したおれは、車庫に戻ろうと方向を変えていたタクシーを引き止めた。慌てて転ばないように、かといって冷静すぎず、不自然にならないよう足を運んで。
「山岡君には本当に申し訳なく思っている」
再び乗り込む間際、目の下に重くどす黒い陰をこしらえた中年男はそう言って深々と頭を下げた。一年前より大分薄くなった後頭部が見える。そのまま地面に吸い込まれてしまいそうなほど弱々しいその姿は、容易にいつかのおれと重なって、折角真空だった頭の中へ不安や苛立ちといった不必要な感情がポンプのように吸い上げられてしまった。おかしなことだが、おれはこの時この人を心底哀れに思った。救ってやりたいとさえ思った。そしてその通り、おれはこいつにかわって病院へ行こうとしている──哀れに思えば思うほど怒りも倍増する。いったいおれはどうすれば、こんな風に思わずに生きていけるのだろう?
アケミさえ最初からいなければいいのに。
その想念が外側あるいは内側に向かって爆発する前におれは早足で座席に乗り込んだ。ドアが完全に閉まるのを待って、握っていた拳を開いた。真っ白になった手の平に見事に四つずつ爪の跡が刻まれている。それを擦りあわせながら行き先を病院へ変更する旨を伝えると、運転手はバックミラー越しに好奇心混じりの──今度はおれの被害妄想ではない、正真正銘の──視線を投げ掛けて言った。
「急ぎますか?」
「いや」おれは溜息まじりに告げた。「必要ないよ。是非とも安全運転で行ってくれ。料金稼ぎに遠周りしてもいいくらいだよ」
運転手のもっと何か言いたげな様子に気付かないふりをして目を瞑り、薬臭いシートに背を預け──おれはこの匂いが苦手だ──あいつが既に死んでいた場合のロールプレイを繰り返した。病院へ向かった数だけ繰り返した模擬試験、想像のようにうまく満点を取れるだろうか?
おれはまだ微かに震える手をもう一度握りしめた。
「二度手間になってしまってすいません。病院へ来る前にご自宅には電話を入れたんですけど、もう遅かったみたいで」
病室へ着くなり母親の口から出て来た謝罪を、瞬間的におれがいまどき携帯電話を持たないことへの非難だろうかと勘ぐってしまった。もちろんそれはおれ自身の天の邪鬼さがなした愚問だ。これこそ被害妄想以外の何ものでもない、この母親はそんな悪の機転の利くほど器用な人間ではない。しかし悪意のないことが余計におれを苛立たせるのだ。
「それで、アケミの具合は?」
架空の敵に腹を立てる自分が情けなく、さらに無駄に苛ついてついつい早口になる。それが母親には『女性の身を心から案じる男性』として映るらしいから、世の中も上手く(おれにとっちゃ上手いことなんか何もないが!)出来たものだ。
「ついさっきまで興奮していたんですけれど、今は先生に鎮静剤を打ってもらって寝ています。出血も何とか止まったみたいで、命には別状無いそうです。ああ、本当に良かった!」
最後の安堵の溜息に、そのツラを平手でひっぱたきたい衝動に駆られた。……いっそ本当に殴ってみようか。母親からの信頼は一気に崩れ、もう二度とアケミに近寄らずにすむかもしれない……その澱みきったドブ沼のような計画も、看護婦の「お母さん、明美さんが」という一言でおじゃんになった。ホッと胸を撫で下ろしている自分がいて、舌打ちをしている自分もいた。
母親の後に続いて個室に入ると、すでに医者の姿は見えず一人の看護婦がつきそうだけだった。清潔さを強調する消毒薬の匂いと束の間の静寂のあと、アケミの手がもがくように空中を掻き、母親は慌ててベッドに駆け寄った。
「目が覚めたみたいだわ」
「……はやくきて」
「大丈夫よ明美、山岡さん来て下さったわよ」
「……はやくきてよ、レンジ」
アケミの唇は二、三のうわ言を紡いで、ふっと力が抜けたかと思うとまた寝息を立て始めた。ドアの側にぼんやりと突っ立っていたおれは、母親と看護婦の無言の催促に負けてためらいがちに歩み出た。端に避けた母親の代わりにベッド脇の椅子に座った。そうしてソレを見た。静かだった。真っ白いベッドの上に青白い棒切れがあった。摂食障害で無残に痩せ細ったアケミという名の棒切れは、眉をしかめながら横たわっていた……早く帰って寝たい。
横に居る母親が頷くのを見て、おれはアケミの手を取った。そして、いつものセリフを三・二・一……。
「大丈夫だよアケミ、おれはここにいるよ」
早く自分のベッドで寝たい……。
それからのおれはほぼ無意識で、次に頭がはっきりとしたのはトイレに駆け込み個室の鍵を締め、便座に座って頭を抱えた時だった。
ああ、我ながら虫酸が走る! 毎度毎度、こんなことに何の意味があるのだろう。眠っているだけのアケミの手を握りにわざわざ来たのかと思うと自分が可哀想になってくる。まだ手のひらにあのいつ握ってもゾッとするかさかさの肌の感触が残っている。乾燥して骨張って枯れ枝のようなあの手が無遠慮におれを求める。振り払うおれの手をアケミの手が握り返す。やはり夜中の電話など出なければ良かった、だが出なかった時──彼女が死のうが死ぬまいが──おれはどうなる? くそっ、畜生、くそっ。
どうしてこれ程アケミのことで悩まなければならないのだろう。おれは血の因縁で結ばれた父親でもなければ、契約で結ばれた夫でもないし、ましてや精神科医でもない。なのになぜ、おれはこうしていつまでもアケミの手を握っているのだろうか、ただ恋人だというだけで!
* とろけるくも *
とけ落ちる雲。
とけ落ちる雲の波間にのぞく人々の家。
地上に残るその跡は次第に彼等を包囲していく。
誰も気付かず 物音もせず 見渡す限りは灰に染まる。
たった一つ
輝く庭と家とその主とだけを残し 見渡す限りは灰に染まる。
主は雲のきまぐれに ほんの一歩の自由もない。
庭には一つの銀色の 馬に跨がる騎士の像。
窓から見える小さな騎士の像だけが、主の一つの希望だった。
窓辺に佇む微笑みだけが、騎士の一つの希望だった。
** 腐臭の街 **
ナースステーションにあったカレンダーの曜日をもう一度チェックして、今日が確実に休日であるのを確認してから病院を出た頃には、すでに朝の九時をまわっていた。病院で一晩明かした──おまけになんやかやと一睡もさせてもらえなかった──おれは、まだ目覚めないアケミとアケミの母親を残し家へ戻ることにしたのだ。(病院のゲートをくぐった途端に弱々しくなる)外来患者の間をすり抜け、太陽を反射してギラギラと輝く二重扉の正面玄関をくぐって外の空気を吸ってはじめて、昨夜から何も口にしていなく腹が減っていることに気付いた。胸のすぐ下の部分が捻り上げられているように痛む。
おれはタクシー乗り場を通り過ぎて、病院の向かいにあるファミリーレストランへ立ち寄った。
クリーム色の壁紙に、渋めのオレンジ色のソファ、白い天板の貼られたそっけないテーブルセット達がおれを迎え入れた。男も女も子供も年寄りも、前科者や人殺しや自殺未遂者さえも何者をも拒む意志のない、大量生産品に囲まれた万人に開かれたデザイン。天国というものがあるなら、きっとそれはこんなものだろう。その隅の席に天使には程遠い中年女の案内で腰掛けたおれは、差し出されたメニューの一番上にあったランチの、さらに一番最初にあったAセットをパンとアイスコーヒーで注文した。天使は愛想を振りまきもせずさっさと行ってしまった。
おれは取り上げられたメニューの代わりに、壁にかけてあったランチセットのポスターで頼んだばかりの内容を確認した。誰もが不味くなく食べられる冷凍ハンバーグと冷凍ベジタブルの盛り合わせ、それになぜかハーフサイズのカルボナーラがついてくる。いつ見ても奇妙な取り合わせだ、天国の食事というものは。そんなくだらないことを考えながら、料理より先に運ばれた、これだけはどうしても美味しいと思えないファミレス独特のアメリカンコーヒー──の水割り──を啜っていると、鼻の奥から喉をえぐるような……すりおろしたまま蒸し暑い納屋に放置した安物のパルメザンチーズのような匂いが漂って来た。臭気の元は禁煙席の奥に陣取った若い母子で、すぐに赤ん坊の吐いたミルクの匂いだと気がつかされた。母親はぐずる赤ん坊の口の周りをタオルでさっと拭うと、誰とも目を合わさないようにして足早にトイレへ消えた。辺りには気まずい空気──文字通り本当にマズい空気!──だけが残った。おれの向かいでスポーツ新聞を広げていた背広の男が新聞の影に隠れて舌打ちを一つ。
噎せ返るような母性の匂いと男の舌打ちが、やっと蘇った食欲をあっという間に削り取っていった。おれはきっちり一秒ためらってから、パスタが運ばれてくる前に(もしかしたらまだ冷凍フード用のレンジのスイッチさえ押していなかったかもしれない)ウェイトレスに詫びを入れ、千二百六十円の後悔を払って店を出た。病院に戻りタクシーを拾った次の瞬間には、マンションの前で運転手に肩を揺すられていた。自宅の冷蔵庫の中身を考えるには、おれはいささか寝不足すぎたようだ。
*
年を追うごとに老朽化の痣に侵食されていくおれのマンション。晴れた日に干した洗濯物がいつまでも湿っぽい北向きのおれの部屋。ヘドロまみれの貯水庫と錆びた給水管を通ったぬるい水が、洗ったばかりの顔に淀んだすじを描いている。水分を排出するばかりの皮膚は乾燥してささくれ立っている。昨日までは無かったはずの吹き出物が鼻の横で赤く膿んでいる。口の中で粘膜が死んでただれている。
日中には思わずスーツの上着を脱ぎたくなるほど温かくなる、春の終わりの一日のはじまり。ほどよい風が汗ばんだ肌を心地よく冷ましていく、そんな最高な日の朝。朝日の見えないおれの部屋。おれの洗面所。錆びた鏡の中のおれの顔。
「疲れた……」
耳の下側から聞こえる音がまるで他人の声のようだ。顔を洗っても、まだ目覚めた気がしなかった。
身体のあちこちから休息を要求するサインが出ていたが、おれはあと一時間で出社しなければならない。こんな状態で仕事をしたのではミスも多そうだが休むよりはマシ、休むよりはマシ、そう自分に他人の声で言い聞かせながら下着とワイシャツを羽織る。スラックスにベルトを通し衣擦れの音が止んだとき、このままでは倒れてしまいそうで、普段見もしないテレビをつけた。囲碁の盤面が小さな画面いっぱいに映し出される。何かの法則に沿って敷き詰められた白と黒の石と(おれは囲碁のルールを知らない)、無音というBGMをバックに抑揚のない女の声で淡々と読み上げられる意味不明のナレーション。おれはわかりもしないのに、ネクタイを首に掛けたまま小一時間囲碁番組を眺め続けた。
一日の活動が始まる音──誰かが道路に箒を掛ける音、商店街のシャターの開く音、低空飛行の雀の鳴き声、葉を霞めた朝の陽射しでアスファルトが温もる音──をこんなにも不愉快な気分で聞いたことがない。朝からの呼び掛けがこれ程不快な刺激に思えたことはない。始まりの音なんて今のおれには不似合いすぎた。おれには腐った天国が相応しいのだ。おれは口の中でパチンと小さく舌を打った。その音は今日一日おれの身体から離れることはなかった。
* ひとりぼっちのうちゅうじんの記憶 *
「音も言葉もなにもない世界に住みたいな。わずらわしさもなにもない、理解する必要も理解してもらえないもどかしさもなにも──」
「理解しようとする努力もなにも?」
彼女は苦々しく首を振る。
「そこで……ずっと、寝て過ごしたい。その世界の住民のすることといえば、瞼を閉じることだけなのよ。閉じたらもう一生、開ける必要もないの」
「ひどく退屈な世界だね」
「退屈のほうがずっとマシ」アケミは煙草に火を入れて深く吸い込んでから、こんなものも必要ないの、と不器用に微笑んだ。
「地球にひとりぼっちで残された宇宙人は、どうするかしら」
「さあね、お迎えのUFOを待つんじゃないの?」
「きっと誰にも知られない場所でひっそり死ぬのよ。死ななければ人間達に捕まって実験体になってしまうもの」
「そうかな、もっと友好的に出来ないかな」
「無理よ。同種同士ですら理解しあえないのに、どうしてたった一人の何の力もない宇宙人と友好条約を結べるかしら。異種の知的生命体同士は共存しあえないに決まってるわ」
「決まってるのか?」
「決まっているのよ」
「見た事もないのに?」
「知ってるもの、私。蓮治も知ってるでしょ」
「……そうだね」
「でも、二人だったら……二人なら手をつないで一緒に眠ることも出来る」
アケミの頭の中の幸せで退屈な世界は、けして現実に現れる日のないことを二人ともよく知っていた。今日もチンケで意味のない会話をしながら一日が終わるのを待つだけ。そうしていれば、永遠にこの世界の住人で居続けられることを二人はわかっていた。アケミはおれの手を取った。おれは握り返さず、かといって振り払いもしなかった。目を閉じた後は開かなければならないだけ。この時そのことを知っていたのはおれだったのだろうか、それとも実はアケミだったのだろうか。
** 忘れるための会話を忘れるためのわずかな努力 **
その日会社から戻ると、友人の敦から留守電が入っていた。大学時代の友人達と集まっているので、久しぶりに一緒に飲まないかということだった。相田、田中、後藤、名前だけはよく覚えている。顔はぼんやりとしか思い出せない。おれは一時間前に入っていた留守電を聞き終えるとすぐに着替えて、すでにメンバーの集まっている駅前の居酒屋へと急いだ。
敦と、ぼんやりとした顔の面々はすっかり出来上がっている様子だった。勧められるままビールジョッキを空け、大学時代にやったバカなこと、会社の業績、減る一方のボーナスのこと、どうでもいい世太話を延々と聞き続けたあと、おれは摂食障害で自傷癖のある女の子の話をした。酔った勢いで、というのは口実だ。むしろ残っている理性が口を開かせた。
途端、相田の大きな目に何かが宿ったのを感じた。この視線をおれはごく最近感じた覚えがある。ああそうか、あの夜のタクシーの運転手と同じ目をしているのだ。
「なるほどねー」相田は不揃いな歯でナンコツ揚げを噛み砕きながら言った。「俺が思うにその彼女は別に死にたくてリストカットしているわけじゃないんだよ、傷つくことでしか出来ない存在証明ってやつ」
続けて田中と後藤も身を乗り出した。
「たんなる自己憐愍じゃないの、カワイソウなアタシ?ってさ」
「何かで読んだんだけど、そういう病気の人ってさ、一日の行動を全て管理された矯正施設に入るとピタッと自傷が止むらしいよ」
相田がパンと手を鳴らす。
「あー戸塚ヨットスクールとかそういうのね、あったあった! そういや戸塚ヨットってどうなったんだっけ?」
どうなったんだっけ? と振られても、おれには何も言えることはなかった。こんな酒の肴に丁度好い話題は、少なくともおれ自身が笑い話に出来るまで──そんな日は来るのか?──するべきではなかった。やはり残り半分の酔いが判断を鈍らせてしまったのかもしれない。
彼等の、それぞれにバリエーションに富んだ同じ意見を聞くうちに、頭の上の方から血の気が引いて行くのがわかった。戸塚ヨットの校長の激が飛ぶ中タナトスに従って細すぎて血液すら通らない腕を切り刻むカワイソウなアケミ、切っても切っても血は流れずにそのうち腕がコロンと転がって、それを校長が拾っておれに手渡す……死ぬ程くだらないイメージ。
「蓮治? 大丈夫かお前、真っ青だぞ」
敦がおれの異変にやっと気付いた頃には、既に限界だった。トイレとだけ言って席を立つと、敦は慌てて付き添ってきた。
「おれ帰るから」一歩後をついてくる敦に言った。「お前からあいつらに言っといて」
「そんな、帰ることないだろ。蓮治の気持ちもわかるけど、軽々しく言い出したお前も悪いぞ」
おれは歩くのをやめ振り返った。
「おれ、そんなに軽いノリで話してたか?」
「え? ああ、うん、何だかゲラゲラ笑いながら喋ってたけど。もしかして酔ってるのか?」
おれには……おれは本当におれ自身を理解しているのだろうか。今まではそのつもりだった。だがこの頃はわからなくなってきた。だんだんと気が遠くなっていくのを堪え、震えそうになる足をトイレへ向ける。敦は心配顔で洗面所の中までついてきた。一人になりたかった。
「まあとにかく、今お前が怒って出てったら雰囲気悪くなっちゃうからさ……な、頼むよ」
おれはさっさと蛇口を捻ると両手ですくってうがいし、ヤニとアルコールの混じったえぐみと本音を温い水と一緒に吐き出した。
──わかった、お前には隠していた本当の事を言う、俺はアケミを忘れたいんだ。アケミの腕の醜い傷跡もあのカサカサの感触も、顔も名前も存在も全て忘れたいんだよ! なかったことにしてしまいたいんだ! アケミなんて、おれの知らないところに消えちまって勝手に死ねばいい!
「──おい、聞いてる?」
「ああ聞こえてる……わかってるよ、話を持ち出したおれが悪かった、そんだけ」
「そっか。そうだな……あ、そういえばさ、こないだ偶然俺の同僚と会ったろ」
敦はこの場の雰囲気を変えようと思ったのか、不自然に見えるほど明るい口調で話を切り替えた。おれはその努力に報いねばならないと思った。
「いつ?」
「先々週かな。二人で飲んだ夜さ。入ったバーに同僚の女の子が居て、紹介したろ。笹原さん、結構可愛い子だったろ」
先々週、バー、笹原さんか……会ったような気もしたが、酔いも手伝ってか霞がかっておぼろげにしか思い出せない。
「ああ、そうだったかも」
「お前のこと気に入ってたぞ」
どうにか思い出そうとしても無理だった。実を言えば敦と飲んだのが先週だったのか先々週だったのか一ヶ月前だったのかもあやしい。
「なんか言ってた?」おれは持っていたハンカチで口元をぬぐった。
「すごく感じのいい人だって」
「……おれその笹原さんって子と何か会話したか?」
「何だよ忘れてんのかよ。まあ会話ってほど話したわけでもないけど、ちゃんと挨拶してたぜ」
「そうか」
もう一度、唇が擦り切れるほど強くこすった。
すごくいい人、まったくだ。この世はいい奴だらけだ。おれだって場の雰囲気なんておかまいなしに怒鳴って帰れるような奴になりたい。一度しか顔を合わせていない笹原さんに、すごくやな奴と言わせるような、そう思われて意にも返さないような、ごきげんな奴になりたかったよ。
「今度二人で会いたいってさ。どうする、やめとくか?」
「いいよ、会うよ」
敦は「そっか」と言うと、嬉しそうにおれの肩を軽く叩いて席に戻った。
おれは想像の中で、顔も思い出せない笹原さんを犯した。振り上げた拳を結構可愛い笹原さんの小さな唇の間にねじ込んで、髪の毛を鷲掴んで、濡れてもいない粘膜に突っ込んで……吐き気がする。
*
敦と外で会う時に、その恋人である奈緒子もくっついてきて三人で話をすることがままあった。相田達と飲んだ後だったか先だったか、正確には思い出せないが、この日もそんな一場面だった。
「蓮治君は冷たいよね」
奈緒子の大きすぎる黒目が、シャンデリアの丸い灯りを反射しながら、細めた眼の中でくりくり動いている。ドナルドダックとあだ名を付けられた唇を突き出す子供っぽい癖は、いまだ健在だ。
おれたち三人は駅ビルの一階にあるカフェの丸テーブルを囲むようにして座っていた。大学のゼミが一緒だっただけの友人奈緒子は、敦の恋人でなければ卒業後交流などなかっただろう。相田達もそうだ。敦が仲介しなければおれは彼等の中で忘れられた想い出になるはずだったし、おれにしてもそうだった。
奈緒子はアイスコーヒーのストローを弄りながら続けた。
「冷たいし、酷い人だね。蓮治君の話を聞いたら、きっとみんなそう思うよ」
「おいナオ、そういう言い方はよせよ。蓮治はそんな奴じゃない」
敦のフォローが聞こえなかったふりをして、おれは奈緒子を睨んだ。
「そう言うけど、じゃあ、おまえだったらどうする?」
「あのさぁ、私蓮治君の彼女じゃないんだからオマエとか言わないでくれる?」
「彼女だったらいいのかよ」
「うっさいなあ、いちいちあげ足取らないでよ」
敦がまあまあと言っておれたち両方の肩を小突く。またドナルドダックの癖。
「まあ、そうだなぁ……」奈緒子はふん、と軽い吐息をついた。「私だったら一緒に泣いちゃうかな」
おれは感情論ばかり並べ立てる奈緒子に苛ついて、むきになって言い返した。
「泣いてどうすんだよ。泣いてあいつの自傷癖が治るのか? もっと具体的な打開策を教えてくれよ。病院へ連れていく、なんてのは駄目だぞ、もうとっくにやってる」
奈緒子も俄然対抗心を燃やし、ますます唇を突き出して早口におれを攻撃する。
「充分具体的じゃん。人が自分を傷つけたり拒食症になったりするのは、生きてて辛いよ、誰か助けてよってSOSなんだって。一緒に泣いて彼女の辛いとか苦しいとか、そういう感情を共有してあげんの。ほらよく悲しみは二人で背負えば半分っつうっしょ。論理っつーの? そういうのは必要ないんだよ、ココロだよココロ。うん」
「だったら奈緒子が一緒に泣いてやれよ、心なんだろ」
「なんで私がぁ? 明美ちゃんが助けを求めてるのは蓮治君じゃん、なすりつけないでよ」
満足気に頷きながら底に残ったコーヒーをすする彼女を、椅子の前足ごと蹴り飛ばしたくなる衝動を押さえて、おれは反論しようとした。だがそれより先に開かれた奈緒子の口には、おれも諦めざるを得なかった。
「だいたいさあ」もうよせよという敦の言葉を振り切って、奈緒子はおれを永遠に黙らせる一言を言った。「そんなにイヤならさっさと別れちゃえばいいのに」
そうだよ。イヤならさっさと別れちゃえばいいんだ。正解だ!
「おいナオ、おまえいい加減にしろよ。他人がアレコレ言う問題じゃないだろ」
恋人に諌められ、だってーとつぶやいてまた唇を尖らせた奈緒子を、おれは殺してしまいたくなった。だがおれは一生人を殺さないだろう、きっと一生誰のことも殺せないだろう。頭の中では数えきれない死体の山が築かれているというのに。
いったいぜんたい実際に人を殺すことと、こいつを殺したいと思うことの間にどれだけの差があるのだろう。おれは確かに思ったんだ、こいつを殺してしまいたいと。そして思ったが最後、おれはそいつ一人分の重荷を背負うことになる。いったいおれはどれだけ罪を背負わねばならないのだろう。いや違う、おれは殺人そのものについての罪を感じているわけじゃない。
おれは誰よりも誠実なふりをして、自分の命が死体の山一つ分よりも大事に思っている。それがおれの一番の罪過だ。
*
人間が痛みを耐えられるのは、いずれその痛みを忘れられるからだそうだ。人に一番の苦痛を与えるには、肉体への物理的な痛みよりも心理的な痛みのほうがより効果的だってこと。それなら、心理的な痛みを与える要因を取り除けば、もしくは他人を全て排除してしまえばこの世は楽園なんじゃないか……
「山岡さん?」
「あ、どうも、おれが山岡蓮治です」
無駄な考え事をしているところへ唐突に話し掛けられて、間抜けな自己紹介をした。ショートボブというのだろうか、明るい栗色の髪の中で、天井のライトを受けて光る丸い瞳と鼻の頭が間接照明のようだ。
「お待たせしちゃってごめんなさい、えーっと庄田君から聞いてますよね。笹原美穂です、はじめまして」
「はじめましてじゃないですよね」
「あっ、そだそだ、あはは、ごめんなさい。ちょっと緊張してるみたい」
そんな緊張することないですよと口先で言って向かいのチェアを引くと、彼女はどうもと言って腰を掛けた。
敦の指定した和風ダイニングバーの店内は、平日の夕方にも関わらずほとんど満席になっていた。あちこちで賑やかな話し声が咲いている。
「夕飯、まだですよね」
まだと言うと、笹原さんはテーブルの端に立てかけられていたメニューを取り、先に注文した中ジョッキが出て来るまでに真剣な表情で選びだした。
笹原さんはよく食べよく笑う人だった。目の前に人の形をした相手さえ居れば地球が崩壊しても口だけは動いているのではないかというほど、いつまでも饒舌にお喋りを続けた。大きな瞳は全方向に向けて笹原さん自身を放射していた。
年齢の話からはじまり、昨日見たテレビの話、会社の愚痴、同僚の女の子とそのだらしない彼のこと、おまけに昨日見た夢の話──信じられるか? 本当に夢の話までしたんだ──時折相槌を打つのを忘れると、無邪気できょとんとした表情で顔を上げた。それは睨むとか見つめるとかではなく、両親の情事を見つけてしまった子どものように、何で? とでもいうように。
おかげでおれは自分のことをほとんど、アケミのことも含めて何も話さずにすんだ。女の子は未知の存在に対していつも尊敬の眼差しを向ける……というのは酷い偏見だろうか。自分に対する言い訳を考える間でもなく、おれには二人に対する罪悪感があきれるほどなかった。
それでも途中、唯一の共通の知人である敦の話題にだけは口を挟んだ。
「敦……っと、庄田って職場ではどんな奴なの?」
「うーん、いい人ですよ」
それからバーに場所を変えて飲み直し、目的もなく街を歩き、夜九時半を少しまわった頃、笹原さんが部屋に行きたいというのでタクシーでマンションまで連れて来た。
「ねえ、テレビつけていい?」
「いいよ」
笹原さんは部屋に対する簡単な感想(綺麗な部屋ですね)を述べてからベッドの淵に腰掛け、手慣れた様子でリモコンを操作した。おれはキッチンから戻ると、日本ではないどこかの青い海岸線を楽しそうに走る、かろうじて顔だけは見覚えのある女優と男優の顔を横目で見ながら、リビングテーブルに冷えた缶ビールを二つ、コップと一緒に置いた。
「間に合った、まだ主題歌だ。私、このドラマ好きなんだ。来週で最終回だから、どうしても今回見たくって」
「ああ、それで」
自分の家へ帰って見たらどうだ、ということは勿論言わない。
「ごめんね、何か見たい番組あった?」
「いいよ、元々あまりテレビ見ないから」
「あ、それじゃドラマつまらないかな」
「平気。見なよ」
一缶を半分ずつコップに注ぎ、わずかに余った分を補充したコップを笹原さんの前へ置く。コップを手渡すと、笹原さんは満面の笑みでそれを掲げた。
「ありがとう、じゃ、かんぱい!」
「はい、かんぱい」
コップ同士のカチンという音と同時に、あ、始まったと言って笹原さんがドラマに集中し出したので、おれはようやく相槌から解放され、無言でビールに口を付けた。ドラマが二度目のCMに入り、どうにも座りが悪く二缶目のプルトップに手を掛けた時、突然笹原さんが口を開いた。
「よかったぁ」
「なにが?」
当然訝しがるおれに、ほとんど減っていない飲みかけのぬるいビールを両手で包むように抱えて、上目遣いに続けた。
「やっぱり、山岡さんっていい人」
軽々しく手を出さないことへの安直な感想だった。
正直言って抱くような気分ではなかったし、ここ数カ月ときたら別の女性(勿論アケミだ)のことで肉体的にも使い物にならないだけなのだと言ったら、笹原さんは怒るだろうか。怒らせてみたい、という気もする。一方でわざわざ恥を増やすようなことはしたくない、と思う自分もいる。まるで悪意を表にだすことが英雄的行為のようだ。自分には絶対出来ないヒーローの超能力に、例えば、半端な少年が路地裏で取引されている違法ドラッグに憧れるように──憧れた。そう、まるで麻薬みたいだ。判断力を奪い、理性を奪い、痺れさせ、徐々に命と精神を蝕むアケミという麻薬──アケミ。
おれは笹原さんを通してアケミを意識しながら、あるはずもない盗聴器の存在を疑った。むしろ仕掛けられていればいいのだ。彼女が聞いているとも知らずに漏らした独白や笹原さんとの会話を聞いて彼女が死んだならば、彼女を殺したのはおれではない。彼女自身にある。……なぜおれはいつも言い訳を探しているのだろう。
気が付けばおれは、笹原さんをアケミを満足に殺すための道具に見立てていた。どうりで罪悪感が湧かないはずだ。彼女(笹原さんのことだ)はおれのなかで人ではなく、道具だった。
おれは多分、半分おかしくなりかけているのだろう。見方を変えれば正常に戻りつつあるのだろう。アケミによって間接的に気づかされたおれ自身の問題で。
「ドラマ終わったよ」
笹原さんの言葉でおれは我に返った。テレビはエンディングテーマにのってタイトルバックを流していた。
「じゃあ駅まで送るよ」
「そんな、いいのに」
「ここら辺は街灯が少なくて危ないんだ」
さっさと立ち上がって玄関に向かうおれの背中に、笹原さんは言った。
「山岡さんって、本当にいい人だね……」
駅へ向かう途中、笹原さんは人が変わったように無口だった。駅前のロータリーまでつくと、やっぱりタクシーで帰るというので乗り場まで案内した。次はいつ逢えるのかという問い掛けに曖昧に敦を通して連絡するとだけ答えた。タクシーに乗り込む際、わたし結構本気だから、と言って唇が触れるだけのキスをされた。おれの気持ちを勝手に解釈しやがって、とか、人前でなんてことをしやがるんだ、とは勿論口が裂けても言えない。例え道具相手でも。
*
電話が鳴る前に、敦の携帯へ電話する。アケミの自傷には周期が無く、一ヶ月以上何も行動を起こさないかと思えば三日連続して自傷に走るといったこともあり、いつ母親からあの涙声の電話が来るかわかったものではなかった。ただ決まっていたのは、いつも深夜だったということだ。まともなリズムで暮らしている日本人が電話をする時間ではない。そんな時間帯に掛かって来る電話は親戚の訃報か、悪戯電話か、考え無しの国際電話だけだ。おれの電話番号を知る親戚は少ないし、海外に知人もいない。
それが確実におれが自宅に居る時間帯だ、ということは、考え過ぎだろうか? いや、きっとアケミは全てわかってやっているのだろう。アケミはおれのことをいつも見ている。おれが彼女の手を離れそうになった瞬間にアケミは腕を刻む。なぜならおれたち二人はひとつの──敦が出る。おれは受話器を左手に持ち替えて、煙草に火を付けた。
「昨日、笹原さんと会ったよ」
「ああ、彼女から今日聞いたよ。お前のことえらく気に入ってたぜ」
「そう」
「すげえいい奴とかなんとか」
「前も聞いたし、本人からもそんなこと言われたな」
敦はははっと軽く笑ってから少し黙った。笹原さんの中では、異性の評価は「いい奴」と「そうでない奴」の二種類しかないのだろうか。
「なあ……」電話口を通して聞こえる敦の声は、ひどく言い辛そうだった。「余計なお世話かもしれないけど、お前明美ちゃんと別れた方がいいと思うよ」
「おれもそう思う」
おれは正直に答えた。
「相田達じゃないけどさあ……明美ちゃん、お前に依存しすぎてると思う。偏愛にしか思えない。ナオはあんなこと言ってたけどおれはそんなレベルで納まる話じゃないと思うんだよ。まあ、直接彼女に会ったこともないのに偉そうなこと言える立場じゃねえけどさ……お前にとっても明美ちゃんにとっても、その方がいい気がする」
「おれもそう思うよ」
「だから、さ。笹原と付き合えとは言わないけど、これ以上お互いの傷が深まらないうちにケリつけたほうがいいと思うんだ」
「そう出来ればいいと思ってる」
肺に溜まった煙草のけむりを窓に向けて吐いた。網戸に止まっていた一ミリ程の小さな羽虫が、電池切れの玩具のようにぽたっと落下した。
「そっか、それならいいんだ。わりぃな、色々突っ込んだこと口出しちまって。でも最近のお前ちょっと変だったから、心配なんだよ」
「大丈夫だと思う」
「本当に一人で大丈夫か?」
「多分ね」
おれは頭の中で笹原さんを抱いてみたが、手も足も上手く動いてはくれなかった。代わりに笹原さんのドナルドダックみたく尖った唇だけが、愚にも付かないようなお喋りを延々と続けているだけだった(アケミは可哀想、アケミは女の子、助けてあげなくてはならないならないならない……)。
敦は続けた。
「仮に……仮にだよ、別れがきっかけで明美ちゃんが死んでしまったとしても、それはお前のせいじゃないからな」
「そうかな」
「そうだよ」
「法律的にか?」
「法律的にも、倫理的にも、他人から見てもそうだよ」
「でもそれは、おれがそう思えないと意味がないことなんじゃないか?」
「……そうだな。やっぱりお前は優しすぎるんだよ」
違う。おれはおれしか可愛がれない残酷な奴なんだ。奈緒子の言った通り、自分のことばかり考える冷酷な人間なんだよ(だっておれは、お前に代わってほしいとさえ思ってるんだぜ?)。
おれは奈緒子のことでひとつ嘘をついたことを謝らなければならない。
おれにとって奈緒子は忘れられた想い出なんかじゃなかった。おれは奈緒子と一度だけ関係をもった、大学三年のゼミ合宿でのことだ。当時はまだ彼らはつき合っていなかったし、おれと奈緒子とはその一度きりだったし、三人とも誰ともつき合っていなかった。当時も今も、奈緒子のことを性的に見ているわけじゃない。なのにそれ以来、ずっと敦には負い目を感じていた。おれは敦に会う度に自分を恥じた。敦は本当にいい友だ……いい奴で……彼を裏切ったことを、裏切っているように感じていることを心底恥じ入っていた。
だからおれは、敦も奈緒子もいなくなってしまえばいいと思った……思ったのだろうか?
本当はきっとどうでもいいんだ。おれの気持ちに修復不可能なヒビが入ることだけが怖いんだ……。そうだろう? おれたちはみんなそういう生き物じゃないのか? それともおれは、まだおれの気持ちを偽って──偽っていることに気づこうとしないで──いるのだろうか?
彼女を殺すための言い訳が、そのまま彼女を殺せない理由になっている。
アケミさえ、最初からいなければいいのに。
(後半へつづく)
説明 | ||
自傷行為を繰り返すボーダっ娘の「彼女」をうとましく思いながらも見捨てられない「おれ」のエグい話。ちょっとウジウジとした暗めの一人称短編です。2005年の作品になります。 後半 http://www.tinami.com/view/19887 |
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