『やまない微熱』第3章その4
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 十一月の朝は寒い。

 そんなのは当たり前。

 日本にいる限り四季はずっと私達に付きまとうし、死期に至っては、ずっと私の側にいる。

 なんて言葉遊びが頭を過ぎっても、自虐ネタでは笑えないのが私の性分。

 今日は憂鬱にうつつを抜かしている暇はありません。

 

 頴田君への手紙を出すために、早起きした私を待っていたのは前岡盆地特有の濃い霧だった。

 霧ヶ屋の地名の由来となった濃霧は秋から冬にかけて毎朝のように発生する。

 

 だから私を含めて霧ヶ屋の住人にとって霧は慣れ親しんだもの。

 それでも霧の中を登校するのって、結構恐いものです。

 道ばたにある用水路は特に注意。

 霧でよく見えずに落ちてしまったなんて話も聞きます。

 そんな霧もあと数時間で晴れてしまうでしょう。

 地元民の読みほぼ確実にあたるんです。

 

 そういう判断は長年の経験がなせる業なんですが、

 毎日遅刻気味にしか登校しない私にとって、誰よりも早い朝は未知の領域。

 まさか校門が閉まってるとは思いもせず、白い息を吐いて私は佇むしかありません。

 

 さて、どうしたものでしょう。

 普通の人なら校門を乗り越えて入るところでしょうが、私の身長と体力ではそういうわけにもいきません。

 この様子なら裏門も開いてないでしょうし、職員用の通用門があるという話も聞いたことがありません。

 

 折角、気合いを入れて学校に来たものの、これでは八方ふさがりです。

 

「マコっ!」

 

 聞き覚えのある声が、早朝静かな街にこだまする。

 霧の中にぼんやりと人影が浮かび出す。

 

 今日は朝からついていない。

 私が最も苦手とする人物に、こんな朝早くから会うなんて。

 

「マコ、なんでいるのよ!」

 

「要さん、朝から声うるさい」

 

 要葉子は、なぜか少し怒った様子で私の方に駆け寄って来る。

 それはいつも私に対して、にやついた笑みで接する要さんにしては、珍しい表情でした。

 

 一体何があったというのでしょうか?

 最近、要さん関係であったことと言えば、文化祭で少し言葉を交わしただけ。

 要さんを怒らせるようなことは……。あったかもしれません。

 

 いつも悪態を吐いてる私です。いつどこで、人の癇に障ることをしているかわかりません。

 ただ私にしてみれば、文化祭で私が頴田君を好きだということを感づかれてしまったようなので、

 要さんには会いたくありませんでした。

 

「なんであんたがこんな朝早くにいるのよ」

 

 要さんの言い分は正論で、普段の私なら校門も開いていない早朝の学校にいるはずがないんです。

 だけど「頴田君の靴箱に密かに手紙を入れに来た」なんて要さんには言えません。

 

「そんなの私の勝手でしょ。あなたこそ、どうしているのよ」

 

「マコ、また何か企んでるわけ? どうせ去年と同じで周りに迷惑かけてるんでしょ。私は朝練よ。マコとは違って、暇じゃないの」

 

 朝練。そのキーワードに私は苛立ちを覚えます。

 

 女子バスケ部の大物ルーキーとして去年から騒がれいた要さん。

 去年のクラスメイト。私の数少ない『友人』。私が大っ嫌いな『友達』。

 

「そりゃあ、バスケ部のエース様は違うわね。朝練にも一番のりで」

 

 私はいつもの如く、悪態を吐く以外の言葉が思いつきません。

 

「キャプテンが遅刻するわけにいかないでしょ」

 

 そう……。要さん、キャプテンなんだ。

 そういえばそんな噂も聞いたことがありました。

 今年も帰宅部一年生の私には、全く関係のない話だから忘れてました。

 

 二年生のエースなら三年生が引退したこの時期、キャプテンに就任していても、なんら不思議ではありません。

 

 元々、要さんは部活動の中心人物になる素質は十分です。

 私とは何から何まで違う。世話好きで誰に対しても臆することなく接する要さん。

 その堂々とした押しの強い風格は集団をまとめる才覚を感じさせる。

 だからこそ私とは最悪の相性。まるで鏡、全てを逆に映し出す鏡。

 私には絶対に出来ないこと、私には成れないもの、私が欲しくても手に入らないものを持っている人。

 要葉子、私の天敵。

 

「そう、主将になったの。おめでとう」

 

 私のお祝いの言葉は、ひねくれの言葉ではありません。

 素直にそう思ったから言ったのです。

 今更そんなことまで羨ましがるほど、私は身の程知らずではありません。

 

「……どうも。マコ、体の調子はどう?」

 

「いつも通り最悪よ」

 

 一昨日まで学校を休んでましたし、昨日の夜は血を吐いて睡眠時間も短い。

 体調がいい理由がありません。

 

「なら、どうしてこんな朝早くに学校に来てるのよ?」

 

「私にも用事ぐらいあるの」

 

 私の返事がお気に召さなかったのでしょう。

 要さんはムスッと不満そうな顔して私近付いてくる。

 

 ほのかに柑橘系の香り。

 要さんが好んで使うエチケットグッズの香り。去年から変わっていない香り。

 私の顔と要さんの胸がぶつかりそうな距離に、私は体を強ばられる。

 

「だったら、もうちょっと暖かい格好をしなさいよ」

 

 要さんの言葉が耳元で聞こえる。

 

 首筋にざらついた感触。

 要さんの意図を知り、私は下唇を噛みしめる。

 いつの間にか私の首に要さんが着けていたいたはずのマフラーが巻かれていた。

 私の白い息はマフラーに遮られて見えなくなった。

 要さんの匂いが鼻につく。

 

「私がマフラーとか、ざらついて嫌いだって忘れたの?」

 

「ええ、もちろん覚えてるよ」

 

 健康な女の子が病弱な女の子にマフラーを巻いてあげる。

 なんて感動的な構図なんでしょう。

 校門を開けに来た用務員のおじさんも、微笑ましく私達を見守ります。

 

 さすが要さんです。

 私がされて嫌なことをサラッとやってのける。 だから嫌い。

 それが決して単なる嫌がらせでないこともわかる。だから苦手。

 

「知ってた? 校門が開くのは七時だって」

 

 白々しく要さんは言う。

 私の行動なんてお見通しだって感じの態度も気に入らない。

 

「そんなの初耳」

 

「マコの用事のおかげで、マコは一つ賢くなったわけだ」

 

「そういうことにしておきましょうか」

 

 私は悔し紛れの言葉を吐く。

 やっぱり要さんは意地悪です。

 

「……マコ、ちょっと変わったね」

 

 私の何が変わったっていうのでしょう。

 私は変わらない。私の体は病弱のまま。

 いや、むしろ最近は血を吐く回数が増えている。

 私の体調は悪くなるばかり。

 

 要さんは私の体調悪化を見抜いているのでしょうか?

 私の顔色、そんなに悪い?

 

 確かに昨日も血を吐いたし、かなり無理をした。

 でも、今朝起きれば胸焼け程度。

 私が今日生きるには問題なさそうだったのに。

 

「先輩」

 

 ザラついた低い声が頭の上から聞こえてきた。

 気がつけば私の後ろに長身の女性が立っていた。

 

「先輩、早いっすね」

 

「葛城〈かつらぎ〉も早いね。朝練前にトレーニングもいいけど。オーバーペースには気を付けなよ」

 

 要さんは優しい声で言う。

 要さんはちゃんと先輩をしています。

 部活なんてやったことのない私には先輩のありがたみも、後輩の可愛さもわかりません。

 

「はい。でも……頑張らないと私、背が高いだけだから」

 

「いや、身長ってのは立派な武器だよ。春にはセンター張ってもらうからね」

 

「ういっす」

 

 私の頭上でよく見えないけど、要さんの後輩らしい長身の子は照れて笑っているようでした。

 

「どうでもいいんだけど、私の頭越しに話するのやめてもらえる?」

 

 いくら私の身長が低いからって、それは失礼でしょ?

 

「ああ、ごめんごめん。この子はバスケ部一年の葛城」

 

 バスケ部の後輩……。

 顔は見たことがある。四組あたりにいる有名人。

 女子で百八十近い長身はよく目立つ。

 

「要先輩、これ、知ってるんですか?」

 

 ほぅ、私を『これ』ときましたか。

 なかなか正直でよろしい。好感が持てます。

 留年生の私も有名人。一年で私を知らない方がおかしいです。

 

「ああ、去年クラスが一緒でね」

 

 要さんはショートの髪をかき上げて言う。

 

「そういえば、留年してたんだっけ」

 

 ……どうやら私は『留年生』の方ではなく、『血吐きっ娘』として名が知られているようです。

 

 それにしても、後輩さんは言いにくいことをズバっと言ってくれます。

 ますます私好みの性格をしている。

 

「初対面でなかなか言ってくれるわね、要さんの後輩は。後輩の指導、なってないんじゃない?」

 

 私がそう言うと要さんも苦笑する。

 

「そう? マコはこういう子の方が付き合いやすいんじゃなかったっけ?」

 

「そうね。身長以外は今のところ合格ね」

 

 目線を上げるどころではない。

 ここまで近づかれると、首をしっかり曲げて顔を上げないと視線が交わらない。

 私の顔は後輩さんのバストの下。

 モノが頭上に来られては邪魔ったらありゃしない。

 

「へぇ、先輩仲いいんすね。意外だなぁ」

 

「去年はあなたの先輩によく絡んで頂きましたから。こんな素直じゃない人間になってはいけませんよ、葛城さん」

 

 私は出来るだけ嫌みったらしい口調で言う。

 

「そうそう、マコみたいな性格がねじ曲がった奴にはなっちゃだめだよ。

 まぁ葛城は頑張り屋だから、コイツみたいには、どうやってもならないよね」

 

 要さんもそれに真っ向から返してきた。そんなことしたら仲がいいと誤解されるじゃない。

 

「あら。それはまるで、私が何の努力もしてないみたいじゃない。これでも私は苦労してるのよ」

 

「……そういうことにしておきましょうか」

 

 要さんが私の口まねをする。全く腹立たしい。

 それを見て後輩さんは完全に私と要さんが仲がいいと誤解したのでしょう。

 中性的な顔立ちに笑みを浮かべてた。

 

「先輩。先、行きます」

 

「私も行くよ。それじゃあマコ、精々用事とやらを頑張りなさい」

 

 そう言う要さんは私にウィンクして見せた。

 芸能人でもあるまいし、気持ち悪い。

 まさか私の『用事』に感づいたのでしょうか?

 

 私は体育館に向かう彼女達に偽物の笑顔で手を振る。

 さっさと行けっていうの。私の『用事』を邪魔したら許さないんだから。

 

 私は早速、下足室に向かう。

 まぁ校門を入れば、運動部の部室に直行するでもない限り誰でも下足室に向かうものです。

 

 私の予想に反し、校門が開いたばかりのこんな時間帯でも登校して来る生徒はいるもので、

 一人、二人とそれぞれの靴箱に流れていく。

 

 こんな早い時間に、なんて暇な人達なのでしょう。

 知った顔がいないのはせめてもの救い。

 さっさと頴田君の靴箱に『手紙』を入れてしまいましょう。

 

 それは簡単なこと。頴田君の靴箱を開けて『手紙』を入れるだけ。たったそれだけのこと。

 

 だったら、どうしてまだ出来ていないの? 二十秒もあれば出来ること。

 

 開けて、入れて、閉める。たったそれだけ。

 開けて、入れて、閉める。たったそれだけ。

 開けて、開けて……、開けられない。

 

 足が震えてる。手が動かない。

 『手紙』を握り締めた手が、私のいうことを聞かない。

 

 ここまで来たのに。ここまで来たのに、どうして躊躇するの?

 

 もう覚悟したはず。私は覚悟したんです。なのにどうして……。

 

 一体それから何分かかったのでしょう。

 まるで時間が止まっているみたいでした。

 私の手が頴田君の靴箱に伸びたのを、まるで余所から眺めているみたいに現実感なく私は見ていた。

 

 全てが終わり、頴田君の靴箱を閉めたとき、再び時は動き出す。

 

 私は上の空だった。

 達成感とか、そういうものもない。後悔もない。

 

 なんだろ? 真っ白だ。

 私は真っ白に燃え尽きたんだ。

 『手紙』を出したというだけで、結果が出てないにもかかわらず、私の満足してしまったのでしょうか?

 

 今度は私の靴箱を開け、上靴に履き替える。

 そこからは毎日やっていること、教室に向かい廊下を行く。

 やはりこんな時間に学校に登校する人物は部活動関係者ばかりのようで、どの教室にも人のいる気配はない。

 

 こういう登校も、たまにはいいのかもしれない。

 普段見れない学校の姿を目の当たりにするのも悪くない。

 

 そんな感慨も、自分の教室まで来て吹き飛んだ。

 教室までも鍵が閉まっているとは何たること。

 

 え〜っと、教室は誰が開けるものなのでしょうか?

 校門は用務員のおじさんが開けてくれました。教室の場合はどうなるのでしょう?

 用務員? 宿直の先生? それとも最初に来た生徒?

 残念なことに、今までこんな体験をしたことのない私には、どうすればいいのかわかりません。

 

 こういう時は保健室にでも逃げ込むのが常套手段なのですが、

 教室が閉まってるような時間帯に保健室が開いているとも思えません。

 合コン好きの由利先生のことです。

 ひょっとすると、二日酔いで朝はダウンしてるなんてこともありえます。

 

 結局、職員室に行くしかないというのは確実なようで、私は踵を返します。

 

 はぁ。

 私は絵に描いたような溜息を吐く。

 そこまでして朝早くに来る必要もなかったかもしれません。

 

 つまりは頴田君本人に手紙を入れているところを見られなければいいんです。

 確かにラブレターを出す所を誰かに見られれば恥ずかしいですが、

 それで関係ない人に何と思われようと私にはどうでもいいのです。

 何らかの追求があれば多少面倒臭いことになりますが、

 そんなのは適当にあしらうだけ。問題ありません。

 

 そう考えると、普通に登校して頴田君の靴箱にさり気なく入れておけばよかったんじゃないですか?

 

 ……さり気なく?

 手紙を書くだけで、手紙を靴箱に入れるだけで、あんなにも躊躇した私が、さり気なく?

 

 冗談も程々にしなさい私。

 そんなこと出来るわけないでしょ。

 だったら、この時間に登校して正解なのよ。

 

 うん、そうに決まり。もうウジウジしない。

 私はそう結論付けて、意気揚々と職員室に向かいます。

 

 そろそろ登校してくる生徒も増えてきたようで、職員室付近は人気が目立つ。

 

 私の横を行き過ぎる生徒。なんてことはない、普通の生徒。

 ただ単にいつも通り登校してきた生徒。その姿を見て私は急に不安になります。

 

 登校してきた生徒は皆、下足室を通ってくる。それに例外はありません。

 頴田君だって、もうすぐ登校して来て、靴箱の扉を開けるのです。

 

 それは必然。確定された未来。

 何らかの事情で頴田君が学校を休まない限り、決められた未来。

 

 あああああ、どうしよう? どうしよう? どうすればいいの?

 

 ついさっき悩まないと決めたはずなのに、不安が私を襲う。

 残酷な未来を思って祈る。未来を憂いて喘ぐ。

 

 はは、なんだ。

 将来のない私が未来を想ってる。

 未来を夢見て楽しんでいるんだ。

 

 これまで私には閉塞的な未来しかなかった。

 病弱な体を抱え、日々堪え忍ぶことしか出来なかった。

 そんな私が一歩、たった一歩だけど前進しようとしている。

 それが嬉しいんだ。だから未来を悩むことを止められない。

 止めたくない。いつまでも続けたい。

 

 そんな簡単なことに、どうして気付かなかったのでしょう。

 それなら我慢する必要なんてない。

 私は私の今出来ることを楽しめばいい。

 

 私は職員室を通り過ぎ、通用扉から中庭に出る。

 

 黄赤に色づいた榎が葉を散らせ、鯉の泳ぐ池を色付かせる。

 校舎に囲まれ、決して広いとは言えない中庭。

 それでもこの町一番の大きさを誇る榎の木は我が校の自慢。

 過ごしやすい春と秋の昼休みには、お弁当を食べに来る人で賑わいを見せる。

 

 そんな中庭も、この早朝では人っ子一人いない。

 朝っぱらから鯉に餌をやろうだとか、樹木を観賞して和もうとか、そんな奇特な人はいないのでしょう。

 

 私は校舎の壁に張り付き、ひょいと背伸びする。

 何とか窓枠ギリギリに顔を出せました。

 

 うん、これなら見える。

 通用口から下足室に突きあたれば、その壁の向こうは中庭。

 つまりはここ。この位置からなら下足室の様子がよく見える。

 身長の低い私が窓の外から見ていても、下足室から目立つことはないでしょう。

 ここからならゆっくり下足室のを見ることが出来ます。

 

 前言撤回。背伸びしていた足が、もうピクピクしてます。

 一分とたたずに体力の限界です。

 体力がないことは自覚していますが実際にその事実を突き付けられるのはちょっとショック。

 

 何か踏み台になるものは……、ありました。

 中庭の反対側に、ぽつんとコンクリートブロックが。

 

 苦せずして丁度いいサイズのブロックが見付かりました。

 なんて都合のいいお話でしょう。私はそのブロックを持って……。

 

 お、重い。こんなの、私に持ち上げられるわけないじゃないですか!

 私に箸より重い物を持てだなんて冗談じゃありません。

 

 これは何たる罠。

 背伸びし続けるか、このバカ重たいブロックを運ぶのか、選べというのですか!

 

 といっても、背伸びし続けることが無理なのは、先ほど証明されてしまいました。

 だったら残る選択肢はブロックを運ぶしかありません。

 

 まぁ、おおよそ十キロぐらいの物です。

 引きずって行けば、中庭を縦断するぐらいなら。

 

 ギーコ……。 ギーコ……。

 

 こ、これは怪し過ぎです。

 こんな朝っぱらから、私のようなか弱い女生徒がブロック引きずってるんですよ。

 しかも、中庭のコンクリート舗装とブロックが擦れて、物言えぬ怪奇音が中庭に響いている。

 

 ふふふ、その怪しさときたら……。

 いえ、誰にも見られなければいいんです。幸い、中庭から見える場所に人の気配はありません。

 見られる前にブロックを運びきればいいのです。

 

 ええ、もう鬱陶しい。

 ブロックを引きずる為に下を向くと、私の長い髪が眼前を覆い、視界を塞ぐ。

 首を振って払ってみても、私の髪は私の頭に付いているもので、振りほどけるわけがありません。

 

 もう、なんで朝っぱらからこんなことしなくちゃならないのよ。

 そう思う反面、内心はやっぱり楽しい。

 

 普段しないことをする。

 出来ないことが出来る。

 私にパワーをくれているのは頴田君。

 頴田君の為なら何でもしてやる。

 頴田君が手紙を手に取る瞬間を隠れ見れるなら、そんな重労働もへっちゃら。

 恋のパワーを甘く見るなよ、このブロックめ!

 

「うりゃりゃ」

 

 奇声の一振りで、なんとかブロックを台として使える位置にすえました。

 

 私は肩でする息を整えてブロックに乗る。

 うん、丁度いい高さ。苦労の甲斐あって、これならゆっくり下足室の様子を見ることが出来ます。

 

 ふふふふ、早く頴田君来ないかなぁ。

 私の気持ちは逸ります。期待と不安が混ざり合う緊張感。

 私の人生でこんな積極的な気持ちになったことはあったでしょうか。

 鼓動が高鳴り、私の体を打ち付けます。

 

 我ながら、こんなにウキウキしていいのでしょうか?

 もっと頴田君にゴメンナサイされたときのことを、心配した方がいいんじゃないでしょうか?

 

 私の手紙を見たとき、頴田君はどんな反応をするんでしょう?

 全く想像がつきません。

 寡黙な頴田君は黙々と手紙を読むのでしょうか?

 それとも気恥ずかしさで、どこか一人になれる場所に飛んで行くのでしょうか?

 頴田君の行動パターンを鑑みても、私の貧弱な頭脳ではわかりません。

 

 徐々に下足室を通る人は増えていく。

 「おはよう」「うっす」そんな明るい声。私だけが一人取り残された朝。

 私はただひたすらに頴田君を待つ装置。

 『頴田君が来なければ』『頴田君さえ来れば』。

 そんな思考を繰り返すだけの人型装置。

 それ以外のことなんてどうでもいい。

 私には頴田君さえいればいい。

 ただそれだけを願うお人形。

 

 突然に下足室は混雑を迎える。普通の生徒の通学時間。

 皆が皆申し合わせたように同じ時間に集まる不思議な時間。

 遅刻のチャイムがあと五分とせまれば、刻限まで人の波は途切れない。

 

 ちょっとちょっと。あなた達ちょっと邪魔です。

 中庭から見てる私の視界を遮るとは、誰に断って下足室を歩いているんですか!

 

 ちょー、ちょー。どいて! 見えない!

 

 ああああ、来ました、頴田君が来ました。

 いつもながらやる気のない顔をした頴田君。とってもステキです。

 

 さて、遂に来ました。運命の時です。

 あああ、待って、待ってください。心の準備が……。

 

 私の心が読めるはずもない頴田君が待つはずもなく、靴箱の扉に手を伸ばします。

 後は開けるだけ。そうすれば、中には私の手紙が……。

 

 私は目を背けてしまう。

 折角、ブロックを運んでまで見ようとしていたのに、私は本当に根性なしです。

 頴田君が私の手紙を手に取ってくれる瞬間を見れないなんて、私って、最低です。

 

 頴田君、私の気持ちです。受け取ってください。

 

 私は祈りながら視線を頴田君に戻します。

 頴田君は手紙を手に取って、取って……、取ってない?

 

 頴田君の手は靴箱の扉を開けたまま止まっています。

 さすがの頴田君もびっくりしたのでしょう。

 今時、手紙のラブレターなんて前時代的な物を受け取るなんて、そうそうないことです。

 

 頴田君はゆっくりと靴箱の中に手を差し伸ばし、人差し指と親指で私の手紙を摘み取ります。

 

 封筒の表、裏と、なめるように見回して、頴田君は再び固まりました。

 

 頴田君、開けて見て! 私の気持ちが詰まってるの。

 

「おい、頴田。なんだそれ?」

 

 頴田君に声をかけたのは、私のクラスの佐武〈さたけ〉。

 友達ではないにしろ、頴田君とは比較的仲のいい男子。

 下足室という場所だから横を通るのは仕方がないとして、今いい所なんだから邪魔しないでください。

 

「さぁ?」

 

 頴田君は首をひねる。

 そりゃ、私が入れた手紙です。頴田君が知っているはずもありません。

 

「汚いねぇな、それ」

 

 なんですと! このクソ佐武。

 私の手紙が汚いですって!

 

「ああ、汚いな」

 

 ああああ、頴田君。同意しないでぇ。

 一生懸命、書いたのにぃ。

 

「イタズラか?」

 

「さぁ」

 

 ちょ、ちょっとちょっとちょっとー。

 私の手紙がイタズラですって! 何言ってるんですか!

 

 あ、頴田君ダメ! ゴミ箱に捨てないで! それゴミじゃない! 私の手紙〜〜ぃぃ。

 

 捨てられた。私の手紙、捨てられた。

 そんなのって酷い。酷すぎる。

 なんで? どうして? せめて開けて中を読んでくれたっていいじゃない。

 それなのに……。

 

 はははは、私なんて相手にされてないのか。

 そんなのわかってたけど、白日の下に晒されると、私もショックぐらい受けるわけでして、なんかもう……。

 

 気が付けば辺りに人の気配はありません。

 いつの間にか刻限のチャイムは鳴り、朝のホームルームの時間になってしまったのでしょう。

 遅刻者の堂々とした足音が所々で聞こえてくる。

 

 私はどうしたらいいのでしょう?

 まだ断られた方がよかったのかもしれない。

 それならまだ諦めもつく。

 でも全く相手にされないとは、私は途方に暮れる。

 

 それでも、いつまでも中庭に座り込んでいるわけにもいきません。

 朝から外気に晒されて私の肌は冷たく乾ききっている。

 要さんがマフラーを巻いてくれなければ、とっくに凍えていたでしょう。

 

 私は登校者のいなくなった下足室に足を踏み入れる。

 その一角に備え付けられたゴミ箱。

 私の手紙が捨てられたゴミ箱。

 私はその前に立ちつくす。

 

 私は地域指定のゴミ袋の中から茶封筒を拾い上げた。

 

「やっぱり書き直した方がよかったのかな?」

 

 私の吐いた血に濡れた封筒は、黒く汚れていた。

 

 

 

(第四章につづく)

説明
幾度となく血を吐き捨てる私。
いつに死ぬともわからぬ私。
惨めに死を待つしかない私。
そんな私でも恋をした。
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