爛漫天使綺譚 |
Prologue
――神は存在しないのか?
存在しないと、誰が証明できると言うのだ。
――なら、存在すると言うのか?
存在すると、誰が証明できると言うのだ。
――それならいったい、どちらだと言うのか?
どちらでもない。何故なら―――、
1
彼は見上げていた。
青く澄み渡った空、爽やかにそよぐ風。その中にぽっかりと浮かぶ、真っ白な雲。その雲の端に、小さな影が見えた。その影の姿を追い、正体を見極めようとする。
――……見えない、か。
彼にそんなこと、出来るわけがなかった。
*
「街、街、街―――憧れるわ」
少女の静かな笑みと呟くような声。それは彼の視界の端から、白い雲の端から聞こえてくる。彼は少女の方へと歩いていった。
「沙羅。そろそろ戻りなさい」
「! 父様、もうそんな時間?」
少女は彼を父様と呼び、残念そうな顔をして言った。
「もう午后だ。仕事があるぞ」
「はーい。サボる訳には行かないのよね」
「行く訳がなかろう、現代っ子だな」
彼は半分呆れて、パタパタと彼女が駆ける足音を聞きながら城へと戻っていった。
城内には幾人ものガードマンが槍を持って立ち、彼が前を通ると毎回敬礼をした。忠誠心の旺盛な、元気な若者たちである。しかしこの世界に於ける「若者」というのは、10歳やら20歳やらの年代の人間ではなかった。そもそもここに生きる者と言うのは、正確な意味での「人間」つまりヒトではないのだから。その説明は、後ほどゆっくりとするとしよう。
少女は彼の1人娘だった。ずっと独り身だった彼に妻が出来て、すぐに生まれた子供だった。しかしその妻も今では彼の傍にいない。彼女はこの世界を去り、「新しい世界」へと旅立ってしまったからだ。それから何年経っただろうか。少女はようやく彼の言葉を解し、「仕事」という名の「新しい世界」の監視を行えるまでに成長していた。
ここと「新しい世界」には大きな隔たりがある。「新しい世界」に住む人間はこの世界のことはまず理解できていない。存在を信じている人間は多数いるのだが、正確に理解出来てはいない。そんなことが出来る人間がいるとすれば、それはこの世界にとって大変なことだ。
少女が城内に入ってきた。まだパタパタと駆けながら、ガードマンたちは少女にも敬礼をする。少女はついに追いつき、彼の腕にしがみついた。
「もう、父様ってば速いんだからっ」
「もうちょっと落ち着きなさい、沙羅。私はそんなに暇ではないんだぞ」
「判ってるわ。仕事があるんでしょ?あたしにも手伝わせて」
「私はそれでお前を呼んだんだろうが――」
しかし今でも時々、少女は可笑しな事を言うときがある。
「で、仕事は?」
「いつもの通り、監視だ。静かに見てろよ」
「はーい」
少女は城内を駆け回り、まっすぐ監視室に向かった。もう何年ここで過ごしただろうか、彼女も広い城内の全てを記憶している。どの部屋がどこにあって、そこにはどのように向かえばいいのか――。彼は少女の姿を追って、監視室に入った。少女はモニターを眺めていた。「新しい世界」の全てを映すモニターは、数え切れないほどに多い。しかし彼女はそんな事とは露知らず、1つのモニターだけを真剣な顔をして眺めていた。
「こいつ、怪しいわね」
少女は真面目な顔をして、挙動不審な男の姿を指差して言った。
「……それは判ったから、他のも見てくれよ?」
「判ってるわよ、父様。あたしだってバカじゃないわ」
(……ホントか?)
突っ込みたくなったが、自分で自分を抑え込んだ。ここでもし声に出してしまったら、後で彼女にどう言われるか判らない。
「ところで父様?あたしみたいなのが、『新しい世界』に行く事は出来ないの?」
「またそんなことを言っているのか、沙羅。その話は二度としないと言っただろう」
彼は慌てて彼女の言葉を制した。この話は――……触れてはならない。この城内に於いては禁句だと言って奇妙しくない。
「でも、一度行ってみたいの――色んな人がいて、色んな事が出来る。ここじゃ出来ないことだって、向こうなら何でも出来るじゃない」
「それはこの世界と向こうの世界の相違点だ。それを受け入れなければ、ここに暮らすことは出来ないよ。もうちょっと社会勉強をする事だな」
彼が撫でると、不満げな声色で少女は呟いた。
「……そんなの屁理屈よ」
彼はすぐさま否定した。
「屁理屈な訳があるか。次の鐘が鳴ったら食事だ。ちゃんと来いよ」
「もちろん、行かない訳ないでしょ?」
少女はコロッと笑顔に戻り、鼻歌を歌いながら変化のない画面を見つめた。監視しているのやらしていないのやら――……彼には、ため息を吐く事しか出来なかった。
*
その日も少女は雲の端に座っていた。緩く2つに分け、肩の位置で赤い紐で束ねた薄色の髪が風に揺れる。胸のリボンもパタパタと風になびいていた。少女は鼻歌を歌いつつ、街の風景を見下ろす。ビルの立ち並ぶ大都市、ビルなど存在しないこの世界の住民には不思議な光景だ。少女はそれに興味を抱きながら、のんびりとまた、声を出して歌った。
――何時間が過ぎただろうか。
少女は毎日、仕事の声が掛かるまで、1日のほとんどをここで過ごしている。城内で1日を過ごすことなど信じられない。こうして知らない世界を眺めながら、日がな一日ゆっくりとするのが良い。これが少女の好きな、時間の使い方だった。
ふと見れば、太陽が沈みかけているのが判った。地平線はにわかに赤く染まり、視界に赤いフィルタが掛かったような感覚になった。しかし太陽が沈むまで仕事の声が掛からないのは奇妙しい。昨日だって、午后になってすぐに、太陽が南にある内に声が掛かったのに―――。
別に仕事がしたいとかいう訳でもない。仕事をしなくて構わないのならそれ以上の事はない。しかし、少女の立場上、仕事の勉強をしていかないと大人になった時に大変なことになってしまう。だから、父は毎日毎日少女を仕事に連れ出して、何時間もモニタの前に座らせるのだ。それが普通で、それが当たり前だと思っていた。そう、少女にとっては当たり前だった。
「…………『新しい世界』には、何があるのかしら」
少女は静かに、ゆっくりと呟いた。ここでは風の音にかき消されるから、半径1M以内にいないと聞こえないくらいの声だと思う。
その声を、聞き取ることの出来た人間が――……否、人に非ざる者が居た。
―――……ドンッ。
肩を押されるような感覚。身体が前のめりになり、保たれていたバランスが一気に崩れる。
(いけない!)
少女がそこまで思う前に、少女の小さな身体は雲の端から空中に投げ出されていた。視界が回転する。少女に――空を飛ぶ能力などない。ぐんぐん降下していく。
(誰?誰が突き落としたの?)
少女は回転する視界の中、雲の端を凝視した。もしかしたら、誰が居るか見えるかも知れない――。
(誰?)
少女はその人物をとらえた。
その瞬間、少女の意識は途切れた。
*
少女は目を覚ました。慌てて起き上がり、周囲を見回す。どこだろう?木がある。少女自身は――3人掛けの椅子に座っている。だが、その椅子に座っているのは少女だけではなかった。少女の隣に座っていたのは、薄茶色の髪をした少年で、起き上がった少女に静かに声を掛けた。
「―――……おはよ」
若干釣りあがった目がどこか、少女を馬鹿にしているような目つきに見えたが、何も言わないで置いた。
「ここはどこ?」
少女はまず、場所の判断から入った。
「ここか?わかば公園」
「コーエン?」
「…………あんた、頭大丈夫か?」
大丈夫だ。何も奇妙しくはなっていない。少女はそれを言いたくて、まず自己紹介から始めた。
「あたし、沙羅って言うの。天子の子よ、神様の娘なの」
「……は?」
少年はいかにも不審そうに沙羅の目を見た。
「貴方は?」
「貴方は、って…………見りゃ判るだろ」
少年は両手を広げて見せる。襟の立った紺色の服――普通に着るような物ではなさそうだ。しかし、「新しい世界」の監視の際、何度か見た事があることは確かだった。父はその時、何と言っていただろうか。
「判らないわ、名前教えて」
「圭史。栗丘圭史だ。一人暮らしだから親の心配はするなよ、ってする訳ねェか」
圭史と名乗った少年は、頭を掻きながら立ち上がった。
「あんた、もう平気なんだろ?道端で倒れてたからさすがに放っておけなかったけどよ」
「え?」
「紫の髪なんて変わってんだな、お前。外人でもなさそうだし。神様の娘?どっかの宗教の奴か?」
圭史は沙羅を馬鹿にするような口調でまたまくし立てた。
「違うって言ってるじゃない!判ってよ」
「そんなコト一言も言ってねぇだろ…………ねむ。俺は帰るぜ」
「ちょっと待ってってば!」
沙羅はすたすたと歩き出す圭史の腕にしがみつき、彼の進行を阻害した。
「んだよ……俺は眠ィんだよ」
「あたしだって寝たいわよ!寝る場所くらい提供してもらえないかしら?」
「食事抜きでいいんだな?」
圭史は面倒臭そうに言い捨てた。沙羅は少し悩んだが、仕方なく肯定の返事をした。
「……それは妥協するわ」
「判った、しゃーねぇな……今夜だけだぜ。明日からはちゃんと寝る場所探しとけよ」
「ええ……ねぇ圭史、ここって『新しい世界』なのかしら?」
圭史は一瞬、また沙羅を不審がるような目つきを見せたが、足を止めてため息を吐いた。
「あんたの世界とこことは何か違うみてーだな。ちょっとばっか説明してくれねェか?話が合わないのは困るんだけど」
「説明、するの?」
「あんたの住んでる、妙な世界のコトだ。判るだろ」
要するに、沙羅の住んでいた雲の世界を説明しろと言っているのだ。沙羅は頷いて、説明の順番を考えた。
「――空よ。空から、ここを見ていたのよ。あたしたちは、ここのことを『新しい世界』って呼んでたの。普通のと違う、特別な雲の上にお城があって、そこに生活の道具は揃ってるわ。あたしは雲の端っこからこの世界を眺めて、ずっと憧れてたのよ」
「…………空?あんた、本気で言ってるのか?やっぱり宗教の回しモンか?」
信じかけて緩んでいた圭史の顔が再び歪んだ。
「もうっ、どうしたら信じてくれるのよ、馬鹿っ」
「あー判った判った、とりあえず家来い。ここ寒ィぜ。俺は明日も学校あるから、あんたの相手は出来ねェけどな」
「ガッコウ、って?」
「……話にならんわ」
その後、圭史は彼の家に着くまで一言も声を発さなかった。その間、沙羅は何度も彼に質問をしたが、彼は何の反応も示さなかった。
「新しい世界」はこんなに冷たい世界なのかと、痛烈に感じた。
*
翌朝。沙羅は圭史の家の部屋で目を覚ました。ベッドではなく床に直接敷かれた布団で、慣れない枕に少々戸惑ったが、よく眠れたらしい。しかし、家の中に圭史の姿はなかった。
「どこ行ったのよ?」
と、独り言を零した時、沙羅は昨夜の彼の言葉を思い出した。
「ガッコウ?」
いったいいつ帰ってくるのかも知れない。沙羅はため息をついた。
「何なのよ、いったい、ガッコウって?……とにかく食事、しなきゃ」
沙羅は起き上がり、その部屋から出た。しかし『新しい世界』の家と言うのは狭いものだ。あの広い雲にどでんと立つ城と比べるのもなんだが、周囲の家を見ても明らかにその大きさは小さかった。
それでも充分生活していく事が出来るのだと一晩で実感した沙羅は、城をもっと有効活用すべきだと感じた。
「とにかく、食事……とは言っても、圭史の家のものだし〜」
しかし、圭史は一人暮らしだと言っていた。つまりここには圭史以外の誰も住んでいない。
「……作戦決行、ね」
沙羅はニヤリと笑った。
2
栗丘圭史は戸惑っていた。
遊んだ帰り、歩いている途中に倒れていた紫の髪の少女。髪型だけでなく、服まで奇妙なものだった。中国風と言おうか、クリーム色の変わった服だった。いったい何者なのか、想像もつかなかった。
話をしても通じない。ここのことをどれだけ理解できているのか、全くできていないのか。学ランを着ていた圭史を見て、「判らない」と答えたのだから、学生だと言う事など全く判らなかったのだろう。
嘆願されて家に泊めはしたが、食事はさせなかった。食料など大してないのだ。圭史の食事は大概コンビニ弁当かおにぎりだし、あんな話の通じない小娘に食事を恵んでいる余裕はない。
しかし、起こさず家に放っておいて良かったものか。家の中を勝手に荒らされているかも知れない。何より学校も知らず、公園って何なのだと圭史を問い詰めるような、この世界に於ける常識のない少女だ。名は沙羅だと名乗ったが、歳も判らなければ空に住んでいたなどと言い始めるし、ワケが判らない。
――神の子、だっけ?
圭史が彼女の台詞を1つずつ思い出している時だった。
「おい、栗丘!お前聞いてるのか?おい、ちょっと答えてみろ」
突然、数学教師の怒号が耳に入ったのだ。白衣を着た彼はどうやらイライラしているらしく、チョークを教卓にカンカン打ち付けていた。その内折れるかも知れない。否、今はそんなことを考えている場合ではない。圭史は即座に問題を解いた。
「はい……4です」
「おー、合ってるよ。そう。おいお前ちゃんと聞いてろよ?まぁこれは簡単だったな。Aは1でCが4だからな」
教師は教卓に打ち付けていたチョークで黒板に解答を書こうとして、思いっきりチョークを折った。教室に少し、笑いが起こった。が、教師は何の反応も見せなかった。
「じゃあ次4番。おいちょっと栗丘言ってみろ」
圭史はため息をついた。
*
「……ただいま」
珍しく一直線に帰宅した圭史が玄関に入ると、中は静まり返っていた。
(さすがに出てったか?)
半分期待してリビングに上がった。ソファに鞄を放り出し、座る。深呼吸。あの娘がいないかどうか、確認。
「圭史っ!!」
「げ」
やはり、まだ居たようだった。
「遅いわ、ガッコウって何?何なの?強制労働所?それとも仕事場の名前?」
「…………俺らが勉強するトコだ」
「勉強、するところ。学舎とおんなじ……」
沙羅が不思議そうな顔をして言った。
「何だよ。判ったんだろ?」
「……圭史、歳は?」
そう尋ねた沙羅の顔は明らかに不審そうで、圭史のことを疑っているように感じられた。
「16。高校1年だけど?」
「じゅ……じゅうろく?116の間違いじゃないの?」
真剣な顔だった。意味不明だ。
「……は?何で100も足す必要があんだよ。じいさんになっちまうじゃんかよ。ていうか、世界最高齢記録達成じゃねェか」
「だ、だってどう見たって圭史、16歳の子には見えないもの!」
「……おい、それはどういう意味だ?俺がガキっぽいってことか?おい」
圭史が半分キレかかって脅すと、沙羅はムッとした顔で言い返してきた。
「違うわ!だって……あたしの世界じゃ、16歳なんてすごく小さい子だものっ、確かに、勉強するのはそれくらいかも知れないけど……圭史はそうは見えないでしょっ」
「あんたの世界とここじゃ、激しく食い違ってるみてェだぜ、価値観。フツー、ここじゃあ20歳で大人になるんだよ。判るか?100歳までなんか生きられねェの。平均寿命は80くらいってとこか。ったく、それくらい勉強しとけよな……来るなら」
イライラしてまくし立てると、沙羅はついにキレた。髪を逆立てて、拳を握り締めて。
「い……いきなり突き落とされたんだからしょうがないでしょっ!?雲の上からよ!?あれから落っことされたのよ!こっちの気持ちも考えなさいよ!!」
「はいはい、判った。雲の上から落ちてどっかおかしくしたんだろ」
「し、してないわ!これくらい平気よ!全部……全部っ、父様の陰謀なんだわっ、あたしをこんな状況に陥れて笑ってるんだわっ」
沙羅は何を言っているのか、とんでもないことを言い始める。
「何を1人で語ってるんだよ、お前。出てけよ、1日だけ泊める約束だろ」
「! そんなの、約束なんかしてないわよ!しばらく泊めて」
そんなに嘆願されても、いい加減に出て行ってもらわないと困る。
「……泊める代わりに何かしてくれるなら、な。例えば食事作ってくれるとか、洗濯しといてくれるとか、よぉ」
「あ……あたしにやれって言うの?」
「例えばの話だ。別にいいんだぜ?俺の宿題手伝ってくれるとか、そういうことしてくれるんならまた別だ」
「シュクダイ」
沙羅がまた、きょとんとした顔になる。圭史が仕方なく、簡単に説明した。
「……家でやる勉強のこった」
「あたしがそれを手伝えばいいの?」
「手伝えんのかよ?」
半分バカにしていたのが判っただろうか。沙羅は物凄い叫び声で、堂々と宣言した。
「て、手伝えるわよっ、あたしだって伊達に圭史より長生きしてないんだからっ」
「へーえ。そんじゃやってもらうか、その自信を買ってな」
沙羅は今時誰もやらなさそうなアカンベをして、廊下へと走り去っていった。
「…………何なんだよ、あいつ」
圭史がため息をついても、誰も彼の味方になる者はいなかった。
3
その翌日、圭史が帰宅すると、沙羅は玄関でいきなり圭史を睨みつけてきた。
「……何だよ」
「遅いわ」
「まだ5時じゃねェか。充分早ェよ」
部活を終えて帰ってくればそれでもかなり早いはずだ。
「あたしが何時間待ったと思ってるのっ」
「あんた、飯食ってんのか?」
訊いてみたものの、自分で家事をすることが出来ないことを昨日宣言しているのだから――食べられるはずがない。朝食は圭史が情けで用意したが。
「お昼御飯は抜いたわ、しょうがないから」
「どうでもいいからラーメンでも食っとけよ。今から腹減ったって騒がれても困る」
「これ?どうやって食べるの?」
沙羅が早速カップ麺を発見してはしゃぎ立てる。
「湯注いで3分待ちゃ出来るだろ」
圭史は鞄をソファに放り出して、中から数学のプリント3枚を引っ張り出した。
「食い終わったらやってくれよ?」
「――やるのは圭史。あたしは手伝うだけ」
「何でだよ」
「圭史が何をやらせたいのかは判るけど、それじゃ圭史の為になんないしっ、圭史の字じゃなきゃ判っちゃうでしょ、ほら何だっけ、センセイに」
――正論かも知れない。
「……ったく、しゃーねェな」
「とーぜんでしょ。でも口頭で言ってあげるから苦労はしないよ。あたしだって圭史の気持ち判るもん。面倒なの判るもん」
沙羅はニコニコ笑いながらポットの湯を悪戦苦闘しつつカップに注ぎ終えた。
「あつっ、あ、それ?見せて見せてっ」
「……麺伸びるぜ?」
「まだ3分も経ってないわ。食べながら見るわよ」
「汚すなよ」
圭史がプリントを出し渋ると、沙羅がまたも怒る。
「失礼ねっ!あたしそんな汚らしく食べないわよっ!」
「……お前、怒りっぽいな」
「別にいいでしょ」
「そういやお前昨日、突き落とされたっつってたよな」
「……言ったわ、それが?」
沙羅は圭史からプリント3枚を強引に奪い取ってそれを眺めつつ、紙で顔を隠した。恐らく、触れられたくないのだろう。が――状況を知らない事にはいつまで経っても話の噛み合わないままだ。
「誰に落とされたんだよ……返せ」
「嫌、面白いんだもん………………父様だったわ。微かに見えたのよ……雲の端っこに立って、あたしのことをすごい目で睨んでた」
「へーぇ……父親に見捨てられた?」
「ち、違うわ!そんなコト、そんなの有り得ないもの!」
沙羅はプリントを机に押し付けて、息を切らしながら叫んだ。
「じゃあ何で突き落としたりなんかするんだよ。親だろ」
「……父様が言う所の『社会勉強』をさせる為よ、きっと」
「そう信じ込んで、現実を認めたくない、とかな。よくある事」
「…………違うわよ」
半分泣き掛けている沙羅を見ながら、圭史はため息をついた。
――こいつは自分なんかよりよっぽど子供だ、と。
話によれば数百年は生きているのだろう彼女は、精神年齢が全くの子供だ。外見とさほど変わらない、幼い子供と同じ――。
「はいはい、判ったよ――……沙羅」
沙羅がはっと顔を上げる。
「初めてあたしのコト、」
「そういうコトは気にしない。で?あんたどうしたいんだよ?雲の上に戻りたいんだろ?だったら何をすりゃいいんだよ」
「判らないわよ……だから、だから困ってるんじゃない」
「ま、そりゃそうかな」
圭史は立ち上がり、鞄からペンケースを取り出して沙羅に投げつけた。沙羅はそれを受け取り、プリントの上に置いた。
「3分。経ったぜ」
圭史が声を掛けると、沙羅は思い出したように笑顔になった。
「わわっ!それじゃあいただきます!!」
ラーメンが熱いとよく聞き取れない声で文句を言いながらも、沙羅は嬉しそうな顔でそれを平らげた。
「圭史、だから―――……手伝ってよ、あたしがちゃんと戻れるように」
「そりゃ……受けられない相談だな」
圭史が反射的に断ると、沙羅はまたも膨れっ面になって、叫んだ。
「判ったわよ、じゃあ1人で何とかするもん!」
4
「それも無理だろ」
圭史が宣言してやると、沙羅はあきらめたらしく膨れたまま項垂れた。そして、突然顔を上げたかと思うと怒り始める。
「う、受けられない相談って、あたしがどれだけ困ってるか、判ってるんでしょ?圭史の人でなしっ!圭史だって、圭史の父様に突き放されたら嫌でしょっ?」
「……全然。あんなの親だとも思いたくない」
「何で?その人がいるから圭史、普通に生活できるんでしょ?」
「まーな。だからって自分の奥さん放り出して、自分の夢ばっかり追ってアメリカに高飛びした似非家族想いの男をどう尊敬しろってんだ」
沙羅は何も言わなかった。
「アメリカで実業家やってんだよ、あいつ。一応こっちに生活資金だけは送ってくるけどな、母親が死んだ時も帰ってきさえしなかった。冷たいヤローだぜ。いわゆる仕事人間、ってのかな。家族のコトなんて、かけらも思っちゃいねェんだよ、あいつは」
「……よく判んないけど、大変そう、ね」
「あぁ、大変だよ。あんたとは多分、桁違いにな。あいつとはもう金輪際関わりたくねェってくらいに嫌いだ。少なくともあんたの親は、あんたが尊敬できるくらいまともな親らしいな。で?どうよ、宿題。出来そうか?」
「え?あ、うん、大丈夫!判るわよ、あたしだって伊達に長生きしてないんだからっ」
沙羅はそれまで見せた暗い表情を一気に消し去って、多分、とびっきりなのだろう笑顔で振舞った。
「――じゃ、よろしく頼むぜ?」
「勿論!はいっ、じゃあ圭史が書いてねっ」
沙羅が差し出すプリントを受け取り、圭史が再び席につくと、沙羅がその後ろに回って途中の計算と答えを読み上げていった。
――その日はいつになく、家の中がにぎやかだった。
*
「どうだった?ばれなかった?」
翌日圭史が帰宅すると、沙羅がいきなり尋ねてきた。
「――ばれるワケねぇだろ?俺がちゃんと書いてんだから」
「そうよね、ばれないわよねっ」
圭史はいつものように鞄をソファに放り投げ、その横に座りながら尋ねる。
「で?帰る秘策は見つかったのかよ?」
「……暇だったから、そこの公園でずっと空眺めてたの。何も起こらなかったわ」
「ま、当然か。その内見つかんだろ」
正直、神の子など信じられる話ではなかった。しかし一時でも信じておかないと、この子供は延々と怒り続ける。それだけは避けたかった。
「ねぇ、圭史」
「んだよ」
「ここには何があるの?今日もお昼御飯、ラーメン食べたの。他にも何かいろいろあるんでしょ?」
「……あんたの世界に何があるのか知りたいよ、俺は――……疲れる」
「うーんっとね、いろいろあるわ、でも名前は知らない」
沙羅は悪びれもなく言った。
「ったく……外行くか?」
「うんっ」
圭史は立ち上がり、ついてくる沙羅に目もくれず玄関から外へ出た。近所のオバサンがこちらを怪しむような目で睨んでいることに気付いたが、無視した。
「圭史、どこ行くの?」
「さぁ――……どこ行くかな」
こんな子供を連れていても怪しまれない場所。どこがあるだろう?
「あたしガッコウ行きたい、見てみたいっ」
「あ?んなコト言っても……」
「見るだけでいいんだよっ、センセイに怒られないように、ねっ」
沙羅が圭史に飛び掛かって言う。
――学校。悪くはないか。ここから少し遠いのは難点だが。
「……わーったよ」
「やった!」
「ただし、30分は掛かるぞ」
「結構、あたしは行けるだけで充分」
沙羅がくすくすと嬉しそうに笑う。その仕草が妙に大人びている気がして、圭史は少し焦った。
――マイペースで歩く圭史の横を、跳ねながら歩く沙羅に周囲の視線が集まっている事に、彼女自身は全く気付いていなかった。
*
電車に乗せるだけでもかなり苦労したが、ようやく学校の門まで到着した。『関係者以外立ち入り禁止』の紙が貼ってあるが、無視した。
「ここだ」
「厳重警備?」
「どこがだよ。入れ」
「うん」
黒い、大きな門が半分くらい開いている。そこから沙羅と圭史は中へ入った。ここは正門ではないから守衛もいないし、簡単に入ることが出来る。ここから校舎へ回っても、見回りの人間にばれなければ大丈夫だろう。
圭史はとりあえず、部活の生徒たちにばれないよう、慎重に歩いて校舎へと向かった。3階へと上がり、圭史のクラスへと沙羅を押し込んだ。1つの場所に留まっておかなければ、いつ誰に見咎められるかも判らないのだ。
「ここにいつも、圭史が座ってるのね」
「――あぁ」
沙羅は圭史の席にちょこんと座った。椅子が高くて、足が床に届いていない。
「あそこにセンセイが何か書くんだ」
黒板を指しながら言う。
「そう。物分かり良いな、珍しく」
「判るわよっ、圭史、失礼だわ」
「静かにしてろ」
圭史は唇に人差し指をあてがって牽制した。音を聞きつけられたらたまらない。
「判った。でも、面白い。あたしは一緒に来れない?」
「無理だ。お前、隠れられる場所なんかねェだろ」
「でも……暇なんだよ」
沙羅は不満そうに圭史を見上げる。上目遣いをされても、全く動じなかった。
「そういやあんたって、天使だっつってたか?」
「関係ないわ。それと、一応エンジェルでもあるけど、天子、だから神の子だって言ったじゃない」
「ホントなのかよ?」
「だからホントだって何回も言ってるでしょ!?信じてよ、もうっ」
「空とか飛べねェのかよ?」
「――飛べたら苦労しないわ」
なるほど、飛べるのならそのまま帰ればいい。
「じゃ、1回落っこちたら終わりなんだな」
「普通なら誰かが助けてくれるもの。でも、今回は違ったの――突き落とされて、誰も助けてはくれなかった。あたしを突き落としたのは父様、つまり神よ、神のご意志に、誰が逆らえるの?」
その目つきは妙に鋭くて――不思議な力を持っているような、妙な感覚だった。
「逆らえる人間なんて、いないんだろうな」
神の存在を信じている訳でもない圭史には、推測で答える以外になかった。あの目でにらまれたら、否定することなど出来なくなってしまったのだ。
「そうよ。父様があたしを突き落とした理由さえ見つかれば、あたしは帰れるかも知れない」
「あんたがあまりに我がままだから、いらなくなったんじゃねェの」
「ひ、酷いわね、圭史っ」
「だーから静かにしてろって」
圭史がもう一度牽制して、沙羅は何もしゃべらなくなった。ただ、黒板のほうを見つめているだけだ。綺麗に掃除された黒板には、何も書かれてはいない。だが、沙羅はその方向だけをずっと見つめていた。あの平凡な黒板の裏に隠された何かを読んでいるかのような、不思議な雰囲気をまとって――。
「――……圭史」
「?」
「あたしは、父様をずっと頼ってたの。いつもいつも『社会勉強をしろ』って言われてた。でも、あそこじゃそんな訳にも行かなくて、あたしはいつも、同じコトばっかりしてたかも知れない。あたしはあそこで生まれて、あそこで育った。ここで生まれて、ここからあそこの世界へ移ったワケじゃない。この世界のコトなんか、何にも知らなかったわ」
「そりゃ――そうだろ?来た事もねェ場所なんか、知ってるワケねェよ」
「でもあたしは、いつもこの世界を見てた。雲の端っこから見下ろしたり、モニタで見てたり。でもそれだけじゃ何も判らなかったの、多分。父様はきっと、そういう意味での『社会勉強』をさせたかったんでしょ、あたしに」
「実地体験ってヤツかよ。面倒だな、神サマもそんなことしなきゃいけねェ何てな」
「あたしはまだ神様じゃないわ」
「未来の、だろ」
沙羅が、照れるような仕草を見せた。
圭史は自分が、それを信じているのかいないのか、自分でも判らなくなってしまっていた。ただ――思いつく言葉を発するだけで、沙羅は充分満足しているようだった。思い通りの答えだったのだろうか。
「あたしは、圭史と話せて良かったよ、多分だけど」
「多分かよ」
「新しい友達だわ」
「勝手に決めんなって」
「あら、『未来の神様』を味方につけて、損はないと思わない?」
沙羅は怒らずに笑った。珍しい――……そうとしか思わなかった。でも、それ以外の意味が含まれているのであろうコトは容易に判った。それが何なのかは、圭史には判らなかった。
5
「―――……そろそろ、だな」
全知全能とまではいかないが神である者として、彼は雲の端から世界を見つめていた。
――娘をここから突き落としたのは、彼自身。
それは周知の事実だ。彼の城に住む者は皆が知っている。そしてその理由も、皆完全に理解しきっていた。
彼は元々、人間だった者だ。しかし娘――……沙羅は、この世界に生まれこの世界に育ったもの。人間界の四苦八苦を知らずにのんびりと暮らしてきた彼女にとって、人間を本当に理解することなど出来るのだろうか?彼が危惧していたのはその事だった。
少なくとも、彼がいなくなった後にはきっと彼女が『神』として崇められる存在になるのだろう。だから――今から彼女には知っておいて貰わなければならない、恐らくは。
だから、彼は彼女をここから突き落としたのだ。
人間界の街に憧れていた彼女ではあったが、それがどういう世界であるかは充分に理解した頃であろう。恐らく冷たくあしらわれ、誰かに拾われてハッピーエンドレス。終わらせてはならない、人間の世界に完全に慣れてしまう前に、こちらへ引き戻さなければ。
突き落としてから今日で5日。もうそろそろ、彼女をこちらに引き戻してもいい頃であろう、と判断した。彼女は空を飛ぶ事が出来ない故、勝手に戻ってくる事が出来なかったはずだ。だから、こちらから引き戻してやらなければならないのである。面倒な話だ。彼がやる気になった時以外には到底やってやるような事ではない、かなりの重労働なのである。
彼は立ち上がった。そして、城へと戻る。
「沙羅様は今どちらへ?」
臣下の1人が彼に尋ねる。
「私は知らぬが、これからすぐに引き戻すつもりだよ。あっちの世界に慣れてしまって、俗世間に溺れる前にね」
「そうですか……では、わたしもお手伝いしましょうか」
「いや、大丈夫だ。1人でやろう」
「しかし」
「平気だよ。私の力をバカにしてはいけないよ」
彼はにっこりと笑い、臣下から離れた。そして、モニタ室へと向かう。ここて沙羅をまず探さなければならない――……今、どこにいるだろうか。
彼は目を瞑り、沙羅の姿を探った。
すぐに見つかった。落下地点から大した距離ではない一軒家の中。暇そうにしてテーブルに座り、足をブラブラ揺らしている。いつもの姿だ。
彼が精神をそこに集中させて、力を送り―――彼女をこちらへと呼び戻す。光の線がここからそこへと一気に走り、また戻ってくる。そして、彼女が叫び声をあげると同時に、床へ落下した。
「痛い、父様!何よ、突然なんて卑怯だわ」
「突然じゃないさ。お前が落下してから丁度5日、ぴったりだろう?」
「……そんなの数えてる訳ないじゃない」
「まぁいいさ」
彼は立ち上がり、モニタ室から出る。
「ちょっと、父様!」
沙羅が彼の姿を追いかける。
「沙羅、どうであった、向こうの世界は」
「――素晴らしい世界よ、夢のようだわ」
「誰かに親切にしてもらったんだな?」
「えぇ」
沙羅はにっこりと笑った。
「どんな紳士、いやレディだった?」
「どうしてそんな言葉使うのよ。それに言語統一してよね。男の子よ、16歳って言ってたわ。その子が1人で家に住んでるの。意地悪だけどいい子」
「どっちだよ」
彼はくすくすと笑う。
「ガッコウも見に行ったの。すごく面白いところね。電車にも乗ったのよ、父様乗った事ある?」
「いや、私は昔の人間だからね――……さぞ速かっただろう。私たちの時代とは比べ物にならないくらい、交通手段は発達した」
「父様、いつあの世界にいたのよ?」
沙羅が不審そうな目を彼に向けると、彼はしれっと答える。
「さぁ、今からざっと千年くらい前かな…………それよりも沙羅。私と一緒に散歩に行かないか?城の周りを歩こう」
「――……ご一緒するわ、喜んで」
にっこりと微笑む沙羅の姿を、彼は優しい目で見つめていた。
――きっと、何か学ぶものがあったのだろう、彼女にも……。
そして、廊下をゆっくりと歩く2人の姿を、周囲の臣下たちが静かに見届けていた。
*
あの少女が来てから5日。栗丘圭史はまた、学校にいた。今は数学の授業中だ。またあの白衣の数学教師が黒板に公式を書いている。沙羅がじっと見つめていた黒板だ。圭史はそれを丸写しして、やる予定であろう問題の答えを速めに導き出しておいた。予習というヤツだろうか。そう言っても多分、数分では予習にもならないだろうが。
圭史はその日、授業の『主役』にならないで済んだ。目をつけられたら最後、何度も当てられるハメになってしまうのだ。それだけを避けたくて、圭史は授業だけは真面目に受ける性質だった。本質が真面目な訳ではないから、それがいい事とも思えなかったのだが。
圭史が予想しておいた問題は別の男子に当てられて、解答が黒板に書かれる。先程と間違っていなかったので、ノートには何も書かなかった。
――ここに沙羅が座って、黒板を見ていた――。
圭史はため息をつき、その方向を眺めた。次の問題に移っている。圭史は更に先の問題を解いた。間違っていたら直せばいい、それだけの話だ。これほど効率のいい授業の受け方はない。
そして、授業は時間ぴったりに終わった。いつも通りだった。これで全ての日程は終わり、圭史は帰路につく。
電車に乗って2駅下り、そこから20分ほど歩く。すると、いつもの自宅が見えてくる。圭史は、鍵を開けた――。
予想とは違った。
家の中は静まり返っていて、誰の気配もない。
「沙羅?」
声を掛けるが、返答はなかった。まさか倒れてなどいないだろう、と一瞬焦ってリビングに入ると、テーブルにカップラーメンのカップだけが残っている。食事を終えて、どこかへ出掛けたのだろうか?にしても、帰りの時間にはいつも家の中にいたはずだ。
「――……帰った?」
もしそんな事があるのなら、それ以上の事はないのだが――……有り得るのだろうか。しかし、いないのはそういう事だと自分自身に言い聞かせなければ、不安が募るだけだ。そう、帰ったのだ。自分で帰ることが出来たのだ。もう、ここには訪れる事はない。
そう考えるとどこか妙な感覚が残る。最後に一言ぐらい言ってくれれば良かったものを、とも思う。でも、今更そんな事を考えても無駄だ。忘れよう、全て忘れてしまえばいい―――。
圭史はふと、ある事を思い出した。
――あの時、雲の端に見えたのは―――……?
圭史はプラスチックのカップをごみ箱に捨てて、鞄をソファに放り出した。
――……家の中から何の物音もしない事が、不思議に感じられた。