こはるびより探偵日記 第一話『黒板の裏側』前編
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   Prologue

 

誰にも知られたくない。

 

誰にも見られたくない。

 

皆そんな事言って、大事なモノを隠してる。

 

 

――――あたしは、自分自身。

 

ヒトに見られて、見失いたくないの。

 

 

いつかは、朽ちてしまうこの身体で――……

 

あたしはいつも、あたし自身を見つめている。

 

 

 

 

そしてまた、毎日を繰り返して。

 

 あたしの街は、夜明けを迎える――――

 

 

   *

 

 信じらんない。この寒い中あの子供ら、何がどうなったら好き好んであんな薄着で遊んでいられるんだろ。――ま、あたしには全然関係無いっちゃ関係無い事だけど。

 

 窓からの風景を見てそんな事を考えながら、あたしはまた布団の中に潜り込んだ。さすがに一晩中自分が寝てた布団はあったかい、あったかい。せっかくの冬休みなんだもん、寝られるだけ寝とかなきゃ。そして、あたしが瞼を閉じようとしていた時だった。

 

「楓ッ!かーえーでッ!!おい起きろ、起きろーッ!」

 

――……ヤな声聞いた。2つ年上の兄さんの、軽そうな声だ。室内なのにバタバタ音を立てながらあたしのベッドの横に立つ。そして布団の中のあたしを揺さ振る。

「な、起きろってば楓。頼むからさぁ、な、お願いッ」

「うるさいなー、もう!何なのよ?何しに来たの?」

布団の中から声を張り上げてみる。兄さんはあたしを揺さ振るのを止めて、答えた。

「だから、楓に頼みたい事があんだよ。父さん母さんからも頼まれてんだってば」

この言い草……あーもう、腹が立つ。

「『だから』とか『だってば』とかッ、そんな話あたしは1回も聞いてないわよッ!!」

布団を押し退けて叫んだら、兄さんは呆気に取られたような顔になった。ざまーみろ、ってトコかな。

「何よ、何固まってんのよ。で?頼みごとって何?」

「いや……買い物頼もうと思っただけでさ」

慌てたような仕草で答える兄さん。呆れた。

 あたしはベッドから足を下ろして、いい加減な口調で兄さんに尋ねた。

「はいはいはい判った判った。何買ってくればいいの?」

何か、嫌な予感がした。

「え、あ……うん、餅を5袋……そこのスーパーで……」

「……5キロ?」

「…………うん」

答えながら兄さん、部屋から出て行こうとしている。

「食いすぎーッ!!つーかそんぐらい自分らで買えッ!!」

そう叫んであたしが枕を投げようとした時には、兄さんは既に逃げてドアを閉めてしまっていた。ったく、抜け目無いヤツ。枕はドアに音を立ててぶつかり、無力にも床に叩き付けられた。

 もう――……しょうがないな。ため息が零れる。

 あたしは机の上に放り出してあった財布の中身を確認してから、朝食を食べる為に部屋を出た。ま、どうせ今日の朝も餅なんだろうけど。いい加減飽きてきたのにまた5キロも買わせるんかい、このか弱い娘に。

 

 何て言うか、この何でもない――いや、餅5キロはそうでもないか――買い物が全ての始まりだったと考えると、不思議な感覚に陥ってくる。

 

―――世にも不思議な物語の、始まり始まり……に、なるといいな。

 

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第一章「聖者の街」

 

   1

 

 正月とは言え、駅前の街はにぎやかだった。結構駅近くに一軒家を構えさせてもらってるお陰で、あたしが買い物に行かされるスーパーは駅前の割と大きなチェーン店。チラシに『2日より初売りィ!』なんて変な文字で――多分、店長の手書き――大書きしてあっただけあって、なかなかの盛況振りだった。酷い人込みはあんまり好きじゃないけど、まぁにぎやかなのは嫌いじゃないから許した。

 でもやっぱり、5キロって重いね……駅前から5分の道のりが物凄く長く感じられる。あたしは息を切らしながら歩いて、一歩ずつ着実に家に向かって進んだ。

 

……………………。

 

やっぱり無理だと確信。ちょっと休憩するかな、とあたしが荷物を地面に置いて、ふと周囲を見回した時だった。

 

「……?お茶屋さん?」

ちょっとアンティークな感じの建物の上部に、新しそうな木の看板。確かに茶屋って読めた。

 

 その前の文字は――……小春?全部通して小春茶屋?

 何で?人名?小春さんって女のヒトが主人なの?――……なんて妄想膨らましても無駄か。店名にツッコんでてもしょうがないし。そう思って、あたしはまた出発しようと荷物を持つ。

 

 ドアが開く音がした。キィキィなんて云わせないで、すぐに閉まる音が聞こえた。

 その、一瞬の間に。

「……お茶、つーか……紅茶の匂い?」

が、した。あたしがまたそっちへ振り向くと、そこにはさっきまで居なかった人が立っていた。

 体格からして、男の人。背は、高いような……いや、普通。茶色い和服を着てるけど、何とも生地が薄くて寒そう。細めのレンズの縁なし眼鏡を掛けていて、髪は真っ黒でやや短い。目は――……少し、灰色?

 で、こっちを見ていた。端から見ると、見つめ合ってる状態。

「紅茶で何か――……いけないか?」

不思議そうな顔で、その人は言った。低めの、大人しい声。台詞は喧嘩売ってるけど、口調は全然そんなじゃなかった。そもそも表情が怒ってない――って、訊かれてるじゃないか、あたし。答えなきゃ――……。

「いや……ただ、お茶屋さんで紅茶って、珍しいかなって思って」

あたしの答えに、その人はやっと納得がいったらしい表情になった。それから、あたしの荷物を指して言う。

「――それ、重そうだな」

「かッ、構わないで下さい!急いでますんでッ」

ダメダメ、知らない人の誘いにノっちゃいけないの。あたしだってまだ高校生なんだし、気付けないと。別に――……今の人が悪い人だって思った訳じゃないけどさ。

「あ、ちょっと――」

その人があたしを呼び止める声が聞こえたけれど、あたしは無視して、逃げるように走った。

 なんか、不思議な人――……態度っていうか雰囲気っていうか、それが何か、普通と違う気がした。だからって何がどうって訳でもないけど、とにかく不思議に思えた。抱えてる5キロが、全然重く感じられないくらいに――……。

 

 

―――……って、あれ?

 

 

一袋足りないじゃない!!どっかに……落とした?おいおい、4キロ持って彷徨わなきゃいけないのかい……正月から酷な運命だねぇ、楓さん。ため息2回。そんなことやってても埒が明かない。とにかく、拾いに行かないと。

 あたしは3回目のため息を吐きながら、今来た道を引き返してトボトボ歩いた。で、4回目のため息を吐きそうになった時、あたしの肩が誰かに叩かれた。

「え?」

勿論、あたしは驚いて振り向く。そこには――……さっきの、不思議な人が立っていた。片手に、餅の袋を抱えて。

「あ……これッ」

「あぁ、落としたから呼び止めたんだが――……走って行っちゃったんで」

「ご、ゴメンなさいッ!拾ってくれてありがとうございます、それじゃッ」

関わっちゃいけない。そんな気がした。この人と関わったら――何か、後でものすごい事になる気がする。そう、第六感みたいなもので、感じた。

 

   *

 

「不思議な、子だなぁ」

 

相手も相手でそんな事を言っていた事を、楓は知らない。

 

「サネが怪しいからじゃねェのー?『お嬢さん、ちょっと』って……森の熊さんみたいな?」

 

何処かから、高い声がする。姿は見えない。そして1人で笑っている。

 

「……ハル。ぴったりすぎる比喩で私を落胆させないでくれ」

 

ハルと呼ばれた『声』は尚も続ける。

 

「まぁまぁ、そーゆー事もあるってぇ。サネのケーキ美味いんだしよ、お前に落ち度はねェぞ?」

 

「褒めきれてないお世辞も止めろ。お前、ケーキなんて食えないだろが」

 

「バレたかッ!」

 

またも高笑い。全てが冗談のような口調だ。サネと呼ばれた男がため息を吐く。

 

「とにかく――――……もうそろそろ、開店だ」

 

「へいへい。素直にキッチンで待機してます、隊長」

 

「全く……せっかく1人なのに落ち着かない家だな」

 

「サネぇ、俺様を入れないつもりかよぅ」

 

「ヒトじゃないだろう?単位が違う」

 

それからしばらく、その空間には物音一つ立たなかった。

 

 

「どーせ……猿ですよ……」

 

 

数分後にようやく、そんな呟きが聞こえただけで。

 

 

   2

 

 餅5キロでさえも、大食いな兄と父、そして母の手によって冬休み中に消え去った。それこそ信じられないっつの。あたしは数学の宿題をやりながら、色んな事を考えていた。

 3学期のマラソンとか。運動しといた方がいいかな、とか。その為には外に出ないとな――……とか。外、か――……そういえば、5キロの件以来出かけてないや。特に買う物も無かったし、友達からも特に誘われなかったし。多分、皆宿題で忙しいんだろうけど。

 あたしは最後の問題の答えをレポート用紙に書き終えて、ようやくシャーペンを置いた。背伸び。うー、答え合わせ答え合わせ。これで間違ってたら、もう1回やり直しの悲劇――……なんだけど、どうやら間違いは無さそうだった。これでも数学は得意科目なんだから。あたしは使ったレポート用紙をまとめてホッチキスで止め、名前を書いた。で、机の右端に置いておく。これで宿題も完了!後の休みは思う存分遊ぶだけ!

 肩に掛かった髪を払って、もう1回背伸び。それから立ち上がった。背中まである髪を少し手で梳かして、今度はベッドに座る。

「外……行こっかな」

このままだと家に居ても暇だし。特にやりたいゲームとかもある訳でもなし。

 それじゃ――……行ってみるか。

 あたしはまた立ち上がって、タンスの中から服を引っ張り出した。

 

   *

 

 やっぱり、外は寒い。マフラー巻いても、手袋してても、何してても寒いモノは寒かった。あたしは白い息を吐きながら、いつもの道を早足で歩いた。でも、目的地が決まってない。現在時刻は午後1時、本当なら一番あったかい時間のはずなんだけど――……頼みの綱である太陽の陽射しも、空全体に掛かった雲に遮られている。もう、何であたし、こんな日に出かけようとしたんだろ。息を吐いて、ふと立ち止まる。意味は、無かった。立ち止まったことに、あたしは何の意味も見出してはいなかった。

 

――でもやっぱり運命みたいなモノって、あるのかも知れない。

 

 あたしが止まった場所は、この前の不思議な人と、出会った場所だった。

「小春……茶屋」

お茶屋さん。お菓子。お店の中はあったかい。

 そんな連想が、あたしの頭の中で駆け巡った。関わっちゃいけない、この前はそんな風に思った癖に――……何故か今日は、惹かれていた。ただ単に、あったかいお茶が飲みたかっただけなんだろうけど――あたしの手は無意識の内に、その店の扉に触れていた。

 古そうに見えて、新しいドア。自然に開いて、あたしをその不思議な世界にいざなう。

 店内は雰囲気だけ和風。床にテーブルと椅子がある辺り、既に洋風。木のテーブルが1、2……6つ。それぞれに椅子が4脚ずつ。満席で24人、か。結構、広く見える。でもお客さんは、居ない。入り口左の小さなカウンターで、優雅に白いカップで紅茶を飲んでいる――……主人が、ひとりだけ。

「いらっしゃいませ」

この前の、不思議な人だ。あたしが戸惑っていると、彼はカウンターから一声。

「ご自由に、お好きな席へどうぞ」

そんな事、言われたって――……24席もあるんだぞ?どうやって選べっての。仕方なく、あたしは一番近くの椅子を選んで座った。人が入って来た時に、一番最初に目に付く場所。あちゃ、すごいトコ座っちゃったな。

 なんて思っても後の祭り、主人の彼がカウンターからメニューを持ってきてくれた。ついでに、水。寒いちゅーに……まぁ、しょうがないけど。とりあえず、あたしはメニューを開く。開いてまた、驚いた。

「……ケーキ?」

お団子とかじゃないの?このお店。別に、ケーキが嫌いって訳じゃないけど……まぁよく考えてみたらあたし、さっき『雰囲気だけ和風』って思ったっけ。その印象に間違いはなかった、って言う訳か――恐れ入りました。

「お望みなら和菓子も出しますが」

「甘味処って言うよりもカフェなのね、実は」

「えぇ――……一応」

不敵な笑みだ。やっぱりこの人の不思議な印象は変わらない。

 ん?待てよ、この人が主人って事は――……小春って、店主の名前じゃないんだ――。

 って、何考えてるのよ。お茶飲みに来たんでしょうが。そのはずなのに、どうしてだか、妙に緊張した。メニューを持つ手が震え始める。いけない、こんなの見られたら嫌!さっさと注文しなきゃ――……、

 

「レモンティーと……レアチーズケーキを」

「……以上で宜しいですか?」

心臓がドキドキする。何で?あたし、どうしてそんなに緊張してるの?自分で自分がよく判らない。主人はメニューを持ってカウンターに戻っていく。あたしはその後姿を見送りながら、必死で心臓を抑えつけた。

「ハル、レアチーズだ」

「はいはいッ」

高い、子供のような――……いや、子供の声が聞こえる。あの人の子供?いやいや、そんな歳でもないと思う。いいトコ30だって、あのひと。じゃあ、誰だろう?――なんて、どうでもいいような事を考えている間も、心臓の拍動は激しいまま。

 一体、何がどうしたって言うのよ――……!!

「……貴女はどうやら、感受性が強いようだ――……これはいけませんね」

主人がさっきと同じ、白いカップに紅茶を注ぎながら言う。あたしに、向けられた言葉?あたしが、感受性が強いって?何の話をされているのか、よく判らない。あたしはひたすら深呼吸して、心臓が落ち着くのを、待った。その間に、主人はチーズケーキと紅茶を持って、あたしの横までやって来ていた。皿とカップをあたしの前に置いて、呟く。

「大丈夫です。店に仕掛けをしている以上、こういう事があるのもやむを得ない――……」

そして彼は、あたしの耳元でパチン、と指を鳴らした。

 異常なほどに拍動していたあたしの心臓は、ようやく、落ち着いた。

「申し訳ありません、普通の人間には効かないんですが――……時々、貴女のように『力』の強い方がいらっしゃると、色々と弊害が起こってくるのです」

「何が……何が、効かないって?店に何の仕掛けしてるの?それに……何の話?」

「いきなり貴女に話すのは早い――……今はとりあえず、紅茶をどうぞ」

落ち着いた口調。忘れてた、あたしお茶を飲もうと思って――。

 白い湯気の立っている紅茶を、一口、飲んだ。

 あったかくて、少し酸っぱくて―――……美味しかった。さっきまで緊張していたのが嘘みたいに、あたしの身体は一気にリラックスモードに入っていく。それこそ、不思議。チーズケーキも、すごく美味しかった。あの人がひとりで……いや、あの子供と2人でやってるお店なんだったら、きっとあの人が作ってるんだよね。似合わないって言ったら失礼だけど、でも、本当にそう思った。

 

――こんなお店、滅多にない。この近所には、間違いなくココしかない。友達にも教えよう。

 

「あの――……お名前、なんておっしゃるんですか?」

訊いてみた。答えてくれるかどうかは、判らないけれど。

「私の、名前ですか?」

きょとんとした顔。えっと、初対面の時もこんな感じだった気がする。あたしがコクコク頷くと、彼は少しはにかんだような顔で、答えてくれた。

「桧村……直実、と」

「……なおざね、さん?」

珍しい名前。えーっと、確か……そうそう、熊谷次郎直実ぐらいしか思いつかんって。平家物語の敦盛最期でかきくどいてた人。

「はい。――貴女は?」

「え、あ、あたし!?」

何で訊き返されてるのよ?いや、でも、訊かれた事には答えないと。

「あたしは――……泉谷、」

「しげる?」

 

…………は?

 

「ち、違うわよッ!!性別すら違うって……あれ?今の声……」

「……少なくとも私じゃないぞ」

うん、間違いなく直実氏の声じゃない。もっともっと高い……あぁそーだ、あの子供の声!!

「俺おれ。やっほー、見えるぅ?ここ、ここー」

ちょっと待ってよ、何処に居るの?いくら子供だって、声のする距離に姿が見えない。まさか、幽霊!?――って、そんな訳ないって。じゃあ一体何処に?

「……ハル、からかうのも程ほどにしろよ」

「だって……」

「なーにが『だって』だ。――ほら、こいつです」

直実氏が何かを摘み上げている。よく見ると、それは――――……猿、だった。それは途轍もなく小さなサイズの、猿。体長、10センチくらい。

 

 

 

え?

 

 

 

さっきあれ、喋ってなかったっけ?

 

 

なんか、ますます訳が判らなくなってきた。

「サネ、お前の術の所為で混乱してるぞ?ほら、さっさと術を解きなさいッ」

猿がじたばたと手足を動かしながら喋る。直実氏反論。

「解いてやるものか。掛けるのに何日掛かったと思ってるんだ」

「サネの薄情者ー」

猿、一気に脱力。

「ハルがはた迷惑な事するからだろッ」

あぁ、ごもっとも。それはともかく、説明してもらわなきゃ!

「ちょっと特殊な事情がありましてね――……こいつには、人間サイズで居て貰われると困るもので」

「はぁ……」

よく判らないけど、大きいといけないって事か。うーむ、不思議な事情だ。

 

 で。

 

「魔法……?」

 

呟いたら、何故かそこには沈黙が流れた。

 

あたしが直実氏の方を見たら、彼は顔を赤くして咳払いをした。あー、ごまかし入ってる。でも、問い質すに問い質せない。それで――……あたし、何となく気まずいまま、お金払って出てきちゃった。

 

 よくよく思い出したら、結局、下の名前を名乗ってなかったって事に気付いた。クソゥあの小猿め、あたしの事「泉谷しげる」で覚えてるな。今度行ったらちゃんと訂正しないと――――って。

 

 

 どうしてあたし、また行く気になってるんだろう――……?

 

 

 やっぱり、よく判らない店。店自体も不思議だけど、中の人たちも変わってるし。第一、人間じゃないのも居るし。『術』とか言ってたし。うーん、この事は家族に話すべきか、話さないでいるべきか――――……。

 

 

 

 小春茶屋。

 それは郊外の街にひっそりとたたずむ、何とも奇妙な和風カフェなのでした。

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第二章「失望の彼方で」

 

   1

 

 あの店に出会ってから、既に2週間。3学期が始まって、あたしはまた退屈な日々を送っていた。何かこう、面白い事とか無いのかな……って、そんな事考えても無駄か。この平和すぎる学校で、何かが起こるなんて事もないだろうし。なんか、ため息が零れる。授業を受けていても、今日は特に興味がある話もなくて、ただただ退屈な時間が過ぎていくだけ。受験はしないで内部進学するつもりだから、受験勉強とかもしないし。

 教卓に立って栄養について語ってる先生の顔を見る。50過ぎのおばちゃんで、軽くパーマの掛かったショートの髪はところどころ白髪が見える。せっかちな上に厳しくて、生徒たちにはあまり人気が無い。ちなみに名前が松井だからって事で、裏では皆ゴジラってあだ名付けてる。まぁあの東京を壊滅させる怪獣ほど怖い顔してる訳じゃないけどさ。そんな人の授業だから、下手に寝てるとその学期の成績がどうなるか、判ったもんじゃない。

 あたしは板書をノートに写しながら、また色々なことを考え始める。

 来週の授業は調理実習――……特に嬉しくも嫌でもないけど、あの先生相手なのは少し頂けない。ここはひとつ、気分転換に別の先生に教えてもらって――……無理な話。またため息。

「泉谷さん?聞いてるの?ここ大事なところなんですからねッ、ちゃんと聞いときなさいよ」

「あ……はい」

しまった、ボケッとしてた。

「全くもう、みんな正月ボケしてるのかしらねッ、前のクラスでも半分以上寝てたわー」

幾らなんでもそりゃ無いだろ。きっとゴジラの気のせいだよ。

 気付けば時間は過ぎていって、2時間続きの家庭科の講義はようやく終わった。あたしは教科書をロッカーにしまってから自分の席に戻った。次は現代文か……うぅむ、この先生もあまり好きではないんだな。一昨年……中3の時の国語の先生は好きだったんだけど、何かの事件で死んじゃった。詳しい事は、知らない。それ以後の国語はずっと今の人。あぁもう、退屈。

「楓、起きてるー?」

友達……美佐の声。んにゃ?あたしは寝ていたか?

「起きてる……何かご用事?」

「いや、何かボーっとしてたから。それより――……今日のゴジラ、調子奇妙しくなかった?」

「調子も何も……いつもあんなんじゃないの?」

「そうじゃなくて、えーっと……あんたの方がボケてんじゃない、みたいな。私今日の授業中で誤字5回みっけたよ」

「うぞッ」

それ困るって。あたしはさっき仕舞ったノートを開いた。

「えーっとねぇ」

美佐が探し始める。あたしも同時に探す。やっぱりあたしもボーっとしてたんだな。

 あたしはそれを直しながら、今日のゴジラの不調について考えた。何か彼女の調子を狂わせる事が起こったのか、なんなのか――……息子の受験地獄?いやいや、子供が居るなんて話も聞かない。あるいはスランプ?何処が。あるいは……自分がゴジラって呼ばれてることに気付いたとか?いや、そんな事でボケられちゃ堪んない。

 結局、当然ながら結論は見つからなかった。

 そしてまた、退屈な授業が始まった――……。

 

   *

 

「あ、松井先生――……次の実習の準備なんですけど」

家庭科・調理室。松井都美子が室内に入った途端、助手の1人・田宮が駆け寄ってきた。

「えぇ、すぐに準備して下さい。あと10分で生徒が来ますからね」

「それが、あの――……」

「何ですか?」

申し訳なさそうにしている田宮に都美子が尋ねる。

彼女は小さな声で真相を明かした。

「どうやら、卵が足りないようなんです――……残っている物で足りると思っていたらしいのですが」

その言葉に都美子がキレた。

「ならすぐに買ってくるなりすればいい事でしょう!今の時間は実習入っていなかったでしょうッ」

「それが、そこのスーパーが休みで……」

都美子がため息を吐いた。

「じゃあ分量を変えるしかないですね。時間も無いですから」

素っ気無い都美子の答えに、田宮は申し訳なさそうに準備室に走っていった。

都美子がため息を吐く。

「全く、あの子はなんだろうね……気が利かないというか。使えないわねぇ」

 

――その言葉を、背後にいた誰かが、聞いていた。

 

「そんな風に言うものじゃありませんよ、松井先生。彼女は彼女なりに頑張ってるんですから」

都美子がハッとして振り返った。

「! やだ、小杉先生……盗み聞きだなんて酷いですわ」

小杉夏江。もう1人の家庭科の教員だ。

「盗み聞きじゃありませんよ、たまたま通りかかっただけです。それに――……今回の件は田宮さんだけの所為じゃありませんよ。初島さんも気付かなかったらしいですし、スーパーが閉まってたのも仕方の無い事ですし」

「そんな事を言っているから……彼女だっていつまで経っても成長しないんですよ?小杉先生が甘いんですッ」

「松井先生が厳しすぎるんですよ……」

「そうでもありませんわ」

会話はそこで終わった。都美子はすたすたと歩いて準備室の方へ向かう。

 夏江がため息を吐き、その場に静寂が流れた。

 

   2

 

 あたしが家に帰ると、リビングで兄さんがテレビゲームをやっていた。何をやってるのかと思えば、巷で随分前に流行った……いわゆる、恋愛シュミレーション。敢えてタイトルは言いません。兄貴……廃れるなよ?

「お帰り、楓。テーブルに草餅あるぞ」

「……いただきます。兄さん、そんなん持ってたんだ?」

「昔買ったんだよ。お前は知らなかったかも知れないけど」

「で、それをまたやり直してると……」

「部屋の掃除してたら出てきてさ。なんかやりたくなったんだよ」

「そうですか。勝手にやってて下さい」

「楓ー、素っ気無ェな?」

当たり前です。

 あたしは袋から草餅をひとつ取り出して、椅子に座って食べ始めた。それから何となく、テレビ画面を眺める。画面には今、有り得ない事に青い髪の女の子がアップで出ている。理由は判んないけど顔を赤らめてる。何て言うか、仕草が女の子女の子してるっていうか……。兄貴、こういう子好きなんか?

 あぅー、あんこが美味しい。

「おいー、何で怒るんだよー」

兄さんがテレビ画面に向かって呟く。それはアナタの接し方が悪いのです。

「楓だったら爆笑するところなんだけどなぁ……」

どういう意味ですかそれ。少々ムッとしたけど、言わなかった。

 要するに、あたしとその青髪の子は違うって事なのです。それぐらい判りなさいよ、兄さん。大体そのゲーム、1回クリアしてるんじゃないのかな?あ、判った……全然クリアできなかったから、部屋の片隅に放って置かれたんだな。うん、きっとそうだ!兄貴め、ゲームですら振られるの巻。道理で彼女が出来ない訳だ。

「ところで兄さん、学校は?」

「今日は休講だと」

「……それでその子と遊んでるって訳ですか。名前は?」

「…………茜ちゃん」

「ち……ちゃんとか付けるなッ」

全くもう、そんなんだからダメなんだよ兄貴ィ。

 茜、かぁ。嫌いな名前じゃないけど……あの子……髪青なのに似合わないぞ?どんなネーミングやねん、制作会社よ。

 あたしは草餅の最後の一口を飲み込んで、部屋に上がろうかと椅子から立ち上がった。

「楓、やってみねェか?」

「やりませんッ」

「んだよ、つれないな。クリアしてくれたら1万やろうかとも思ったんだけど」

そんなのにつられるほど子供じゃありません。

「べーだ。ゲームは自分でクリアしてこそ楽しいんです!自分でやって」

「お前、金困ってるとか言ってただろうに」

「……言ってたけど。でも自分で何とかするわよ」

「来月分の小遣いも先払いしてもらってただろ?」

「…………なんでそんな事まで知ってんのよ」

その場にいた訳でもあるまいし。

 兄さんはこっちに振り向いて、自信満々な顔で言った。

「オレの情報網ってのは侮れないんだよ、楓」

「……どうせ母さんか父さんに聞いたんでしょうが。でもあたし、兄さんにまで恵んでもらうつもりは毛頭無いよ」

「お年玉も使い果たして、来月分の小遣いも貰って……今はそれで生活してるってところか?」

「衝動買いさえしなければ食費だけで何とか持つわよ、再来月……」

3月――……クッ、食費だけでも少々辛いな。

 あたしが詰まったのを、やはり兄さんは見逃さなかった。

「ほら見ろ、ここに綺麗な1万円札がありまーす」

諭吉のお札をびらびらとあたしに見せつける。確かに今あたしの財布の中に諭吉さんは居ませんけども。それどころか漱石さんですらも危ういけども。

「その手には乗らないからッ!!そんなんで女捨てたくないしッ」

「捨てる訳じゃねェだろ。オレを助ける事だと思ってさぁ」

「彼女は現実で作りなさいよッ!」

それを最後の台詞にして、あたしがリビングから出ようとした時だった。

 思いっきり、ドアを開けて入ってきた母さんと鉢合わせ。

「うわッ。楓、帰ってたんだ」

「……た、ただいま」

「今お茶淹れようと思って下りてきたんだけど、ちょっと飲んでかない?」

「今草餅食べたけど……」

「甘い物の後はお茶よー!昔からそう決まってるのッ」

母さんはノリノリの口調でそう言って、急須の準備を始めにキッチンに向かう。鼻歌を歌っている。全く、どんな親?

「<RUBY>柘榴<RP>【</RP><RT>ざくろ</RT><RP>】</RP></RUBY>も飲むー?」

母さんが兄さんに向かって叫ぶ。ちなみに柘榴ってのが兄さんの名前ね。壮絶なくらいに命名意図が判んないけど、訊きたくもなかったから訊いた事は無い。ガンダムが流行るたびにザクって呼ばれてたけど、喜んでたんだかどうだかも、知らない。

「おー、飲む飲むッ」

「ちょっと待っててね」

お湯を注いだ急須を強請りながら……違う違うッ、揺すりながら母さんが言った。急須から金巻き上げてもしょうがないでしょうに。むしろ売っても今じゃお金にならなさそう。

 あたしはさっき立ち上がったばっかりの椅子にもう1回座りなおして、草餅にまた手を出した。こういうのは食べた者勝ち。

「あい、楓の」

母さんがあたしに湯飲みを差し出す。あたしは「さんきゅ」と言いながらそれを受け取る。まだ熱そうだからしばらく草餅に専念。

「あい、柘榴」

「うぃ、どーも」

兄さんのところまで行って湯飲みを渡した母さんは、テレビ画面に興味を示す。あーだから、見せない方がいいって、そういうの――……!!

「何これ、どーいうゲーム?」

「あぁ、この女の子を落とすんだよ」

「『落とす』?」

「だから、例えばこの子を――」

おいおい、説明し始めるなって。母さん、一旦興味沸いたら止まらないんだから――。

 そんな事をあたしが考えている間にも、兄さんは説明を続ける。いい加減にした方がいいんでは。

「へぇ、面白そうね!ちょっとやらして?」

「おぉ!大歓迎ッ!!むしろクリアしちまってくれいッ」

「よーし、じゃあ徹底的にやるわよー」

腕まくりまでしてるぞ、この人――……勘弁して下さいよ、おにーさん、おかーさん。

 あたしはまたため息を吐く。残り半分の草餅と熱いお茶を相手に、なるべくテレビ付近の修羅場を見ないようにして、こっちはこっちで格闘した。

「!! やったわ、これっていい反応なんでしょッ!?」

「おーっ、すげぇ!!母さんやるじゃねーか」

「当然よッ」

もう、聞いてらんないって、こんな会話…………。

 あたしは草餅の欠片をお茶で流し込んで、さっさとリビングから退散した。

 母さんの戦いの結果は知らないけど、夕飯の時に2人が物凄く嬉しそうだったから、多分クリア出来たんだと思う。全く、この中にあたしも紛れ込んでるって言うのが頂けない――……。

 

   *

 

 それから一週間近く経った、夜だった。

「眠れない……」

明日は調理実習、変に寝不足で行くのも困る。ちゃんと寝とかないと後々大変だろうし。でも――眠れないのは眠れない。ただ、あたしにはその理由が、さっぱり判らなかった。遠足前日の小学生じゃあるまいし、興奮して眠れないなんて事も無いのに――……。

 あたしはベッドから起き上がって、何となくカーテンを開けてみた。

 綺麗な、月が見えた。部屋が暗い所為か、雲が無い所為か――……いつも思うよりも、眩しく見える。月って、こんなに眩しかったっけ――――?

 

 そんな事を考えながら、何となく、真っ暗な空を見上げる。郊外とは言え東京の空に、星は点々としか見えないけれど。理由もなく妙に不安が募るあたしには、それを落ち着かせるにはぴったりの風景だった。

「……この感じ……は」

 前にも、感じた事があるような気がする。何処、だっただろう?あんまりよく、思い出せない。

この感覚と同時に、思い出されるのは――……?

 

 

 

あの店?

 

 

―――……まぁ、気のせい、って事にしよう。

 

とりあえず今は、

 

 何とかして寝付くことを考えなきゃ―――……。

 

 

   *

 

 どうやらその後、あたしはすぐに寝付けたらしい。気付くと目覚し時計が鳴って、あたしはそれを止めて、いつものように起き上がる。カーテンを開けて、ベッドから下りて、部屋を出て、顔を洗って――……1階に下りた。

「あら楓、今日は早いのねー」

「……偶々。調理実習1,2だから早く行かなきゃなんないし」

「そう、大変。今目玉焼き焼くから」

「うん」

で、あたしはパンをオーブンに入れまして、しばらく待機です。現在時刻は朝6時。冬のこの時期、まだ夜明け前。まぁ、家を出る頃にはもう日が昇ってると思うけど。

 朝刊の見出しを眺めながらも、特に興味は無かったので本文は読まなかった。とりあえず目の前に用意されてる紅茶だけちびちび飲みながら、オーブンが鳴るのを待った。

「柘榴はまだ起きて来ないのかしら」

母さんの呟きに、父さんが答えた。

「まだだろ。思うに7時7分前にノロノロ起きて来るな」

7分前とは、妙に律儀な。まぁでも、父さんってそういうところの勘が何でだか鋭かったりするから、あたしからは何とも言えないんだけど。しかし『勘』って、女のが鋭いんじゃなかったかい?――……ま、逆になる事もあるって事だね。母さんの勘が鋭いとはとても思えないし。

 オーブンがお知らせ音を鳴らす。あたしはそれに反応して、皿を持ってキッチンに向かう。パンを取り出して、ついでに冷蔵庫からマーガリンも持ってきて、また着席。マーガリンをパンに塗ったりしてる間に、母さんが目玉焼きを持ってきてくれた。ちなみにあたしは半熟派。

「うーわ、完璧液体じゃん。お前よく平気だな」

――……父さんは固い方がお好みらしい。

「平気って、あたしはこれが好きなの」

人の好みにケチはつけない!これが鉄則なんだから。

 あたしはパンを齧ったり目玉焼きを食べたり紅茶を飲んだりしながら、朝の空気を楽しんだ。この場に兄さんが居ないのも、ある意味幸運だったかも知れない。

 朝食を終えて、あたしはまた着替えに部屋に戻る。制服を着て、リボンの長さを整えて、それから――……鞄の中身を確認。エプロンと三角巾――という名のバンダナが入っている事も確認。あと忘れ物はとりあえず無いはずだから、これで出発できるはず。現在時刻――午前6時35分。家から学校までは自転車で10分足らずの距離だから、1時限目、8時半まで時間はまだまだたっぷりある。さて、その間に何をするかい?

 宿題とか、残ってなかったよね。特にやる事も……無かった。テレビでも見ていく事にするかな。

 あたしは鞄を持った上でコートとマフラーを引っ張って、また部屋を出た。

 

   3

 

 その日兄さんは父さんの予言通り6時53分に大あくびをしながらリビングに現れた。あたしはそれに爆笑してから、7時45分に家を出た。

 学校に着いたのは8時ちょい前。まぁ大体予定通りと言ったところ。普段よりは少し早いけど、調理実習だから早く来ておいて損は無い。あたしは自転車を自転車置き場に止めて、鍵を振り回しながら下駄箱に向かって歩いていった。「おはよ、楓ー」

「おー、おはよう」

下駄箱で美佐と鉢合わせる。まぁ、いつも通りの事。雑談をしながら靴を履き替えて、教室……というかロッカーに教科書を取りに行って、それから家庭科室に向かう事になった。

「弁当箱持ってきた?それともすぐ食べる?」

美佐からの質問。

そっか、調理実習で作る料理、時間無いから弁当箱に詰めて昼御飯にしてもいいんだっけ。

「あー、忘れた!あはは、でもだいじょぶだいじょぶ、すぐ食べられるって!」

「そーだよね、楓だもんね」

「あははッ、そうそう……うぅ、泣けてくるぞッ」

ワタクシ泉谷楓、自他共に認める早食いなもので――……。

 美佐が慰めてくれた。

「問題ないよー。楓、食べるの早いだけでいっぱいは食べないし。それで大食いだって言うんなら話は別だけど、太ってる訳でもないしさ」

「そう言ってもらえるとありがたいです、はい……」

「やだなぁ、朝から沈まないでよッ」

そして2人で笑った。相変わらずの事だけど――……でもそれが今日は、出来なくなるって事をあたしたちは知らなかった。その日は笑っていられるほど、あたしたちは持たなかった。理由?それはこれから説明します――。

 

 あたしは鞄の中に教科書を詰め込んでそれを背負いなおし、美佐と一緒に階段を下り始めた。それがある意味、運命の階段――……だったのかも、知れない。ま、シャレた言い方をしてみれば、ってところだけど。

 

 

 各教室のあるホームルーム棟2階から、渡り廊下で特別棟に移る。ここには音楽室から家庭科室から何から、職員室までが揃っている。まぁ、それぞれのホームルーム以外は全部ここにあるって事。だからはっきり言って、こっちの方が建物は大きかったりする。

 特別棟同じく2階、家庭科調理室。廊下から聞く限り、中から人の声はしなかった。まだクラスの人は来てないって事かな――……なんて思いながら、あたしたちはその入り口の扉に、手を掛けた。

 

 

 そして、開けた。

 

 

 

 

開けた瞬間――……すぐにその異変は判った。判ったけど、あたしには――……叫ぶ事すら、ままならなかった。

 

「か…………かえで……ッ、楓ッ」

 

美佐の声が、聞こえる。

あたしの身体を、揺さぶって――……いる。

 

あたしには、声を出す事も、出来なかった。

 

ただ、今あたしの目の前にある惨状から、必死に目を逸らすだけ――……。

 

「楓ッ、きゅ、救急車呼ばなきゃッ」

「……みさ……ゴメン、あたし…………無理、みたい」

 

 

あたしの心臓は、これまでに経験したことの無い速さで動いている。

救急車を呼べるほどの落ち着きは、その時のあたしにはなかった。

 

美佐が頷いて、携帯を取り出して、電話を掛け始める。

 

 

 

部屋の中で、血を流して、人が――……いや、ゴジラが……先生が、倒れていた。

 

 

あたしは、何をすればいいんだろう――?

 

とりあえず壁に沿ってゆっくりと歩いて、家庭科準備室の方に、向かった。

そこに誰か、他の先生が居ないかと思ったから。

 

でもその前に、この心臓――……何とかしない?

 

「楓ッ!!」

 

最後の記憶は、美佐があたしの名前を呼んだ、その声だった。

 

   *

 

 目が覚めると、あたしは保健室のベッドの上に居た。

「――……あれ?」

あたしの声に反応して、保健室の先生がこっちにやってきた。

「泉谷さん、大丈夫?もう落ち着いた?」

「あたし――……何でここに」

「気を失っちゃったのよ、もう大丈夫そうね。教室戻れそうかしら」

「教室、って、えっと……クラスの?」

家庭科は、?

時計を、見る。

「うん、あ、でももう4時間目終わっちゃうわね。お昼休み始まったらまた加賀見さん来てくれるって言ってたから、それまで待ってたら?」

美佐、か――……。

「――はい」

「お水か何か飲む?」

「あ……いただきます」

何だか判らないけど、喉が渇いていた。

 ところであたし、どうして気を失って――……?

 

 

って。

 

 

ゴジラが倒れて…………。

 

あたしは、それを見て―――……。

 

「せ、先生ッ、あたしやっぱり戻ります!」

「え、でも今行くと――」

こんな呑気な事やってる場合じゃない。

確かめに行かなきゃ!ゴジラが無事なのか、どうか――……家庭科の先生に聞けば、何かしら答えてくれるだろうし!

 

 あたしは水を飲むのも忘れて、保健室から飛び出した。

 

   *

 

 特別棟の階段を、保健室のある1階から2階に上っていくと、いつになくにぎやかな人の声が聞こえた。

 そして、階段を上りきる。

「あれ――……?」

 

あの人たちの格好は、警察?

あたしがそれに気付いたのと、ほぼ同時に。

「あ、きみ君ッ!今ここ入ってきちゃダメだよ!授業戻りなさい」

警官の格好をした人……いや、警官のひとりが、あたしに定番の台詞を、言う。

 

定番?

それって――……どういう事?

 

でも、あたしは一番最初の疑問の答えを確かめないといけない。その為にここに来たんだから。

「あたし……さっき先生が倒れてるの見て気絶しちゃってッ、今先生大丈夫なのかと思ってッ」

あたしの言葉を聞いて、その警官さんが固まる。

「君……が、第一発見者か……」

「だいいちはっけんしゃ、って……それ」

その単語は普通、どういう時に使われるモノでしたか、楓さん?

確認したくもない事実が、頭の中を駆け巡る。

 

どう考えても判り切っているのに、それを言葉にする事が、怖かった。

「どーしたのー?あれ、」

「茨木さんッ、この子がどうやら第一発見者の生徒のようですッ」

「あ、ホント?どうもどうも。じゃ、戻っててください」

「はいッ」

警官さんは戻っていく。あたしの前には、代わりに茶髪の刑事さん……らしい人。

「あれ、授業は?」

「保健室で寝てたんですけど……で、先生は……やっぱりこれって」

「……あぁ、多分その認識で間違いはないかと」

敢えて直接的には表現しない刑事さん。警察が居るって事は、結局、死んじゃったって事か―――……ため息が、零れた。むしろため息と言うよりは――……肩を落とした、っていう感の方が強いけど。

「純?どうしたんだ?」

家庭科室の方から声がして、誰かがこっちに近付いてくる。茶髪の刑事さんは振り返って、その人に向かって手を振っている。

「おぅっ、朗報だッ」

何が朗報だって?あたしが来た事?結局そんな風にしか見てもらえない訳か――……少しムッとした。

 刑事さんに連れられて、あたしは家庭科室の方に少し、近付く。でも一定以上は、とても近寄れなかった。向こうから来た人も、刑事さんなんだろうか――?いや、知らない人だったら、警察関係者以外は考えられない。

「この子が第一発見者らしいぞ」

「あぁ……起きたのか」

そう、ぶっきらぼうな口調で言ったその人の顔に、あたしは見覚えがあった。

「あのお店の――……ッ!!」

思わず指差して叫んでから、慌てて右手を仕舞いこんだ。いけないいけない、人を指差しちゃいけない。

 今日は洋服、というか――周りに刑事さんたちが居て何ら奇妙しくない、スーツ姿。服装だけで人の印象ってかなり変わるとは思ってたけど、ここまで激しい人も初めて見た。もっとも、第一印象が特殊だったって言っちゃえば同じなんだけど。

 と、思ってた間に。

「あれッ、道理で見覚えあると思ったら泉谷しげるさんだッ」

「だから違うってーの…………ッ!!」

あの小猿の声に、あたしは思わず速攻で突っ込んだ。

 

――あれ、何処に居るの?

 

あたしがきょろきょろ周りを見回してると、目の前に子供が現れた。一見して、普通の子供とは違う。髪の色は……何コレ、緑?黄色?変な色。大きな目は綺麗な蒼色。楽しそうに笑った口には、キバみたいなものが見えた。

 

…………おい、こいつ人間か?

 

あたしと小猿もとい人間もどきと睨み合っていると、直実さんが話を再開してくれた。

「それじゃ、本名を教えてもらうついでに――……事情聴取ってところだな、純?」

「どーいう関係かは知らないけど……知り合いな訳ね、君ら」

純と言うらしい刑事さんはあからさまにため息を吐いて、あたしに付いて来るように言った。

 

 完全に麻痺していたけど――……この状況が決して、笑っていられるものじゃない事は、確かだった。

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第三章「硝子の向こう側」

 

   1

 

 連れて行かれた先は、家庭科準備室。普段、家庭科の先生とか助手さんとかが居る場所。どうやらこの刑事さん、この部屋を簡易事情聴取部屋にしているらしい。あたしの前には、茶髪の刑事さん――純って呼ばれてた、かな?それと、直実さん。しかしどうして彼が?もしかして、実は警察関係者とかですかね?でも刑事さんが自分のお店持ってる訳が無い。そんな暇あったら仕事しろよって話になるし。

 話を訊かれる前に勝手に色んな事を考えていたあたしは、今の状況を半分忘れかけていた。

「とりあえず先生には話をつけて――……午後の授業を公欠にしてもらうって事になったから、安心して」

茶髪の刑事さんが言う。あたしは頷く。やった、授業サボれる!!って……これは、あんまり、嬉しくない。だって、警察に事情聴取されるんだよ?自分は関係無いとは言え……ただの第一発見者とは言え。

「あ、あの――……直実さん、どうしてここに?」

気になりすぎる。この刑事さんとも仲が良さそうだし、知り合いって事は確か、のはず。

 直実さんは頭をかきながら少し考えて、ゆっくりと答えた。

「――警察の仲間だから、かな」

「仲間?でも警察じゃなくて?」

直実さんが答えに詰まる。変なの……と思っていたら、刑事さんの方が答えてくれた。

「そ、こいつはただの『協力者』。刑事でもなければ警察官ですらない。でもこうやって事情聴取に立ち会う程度のことはさせてもらえるくらい、警察に信用されてる人間です。ほら、よく居る『名探偵』みたいな扱いされてるんですよ。あ、それと――俺、『刑事さん』とかって呼ばれるの苦手なんで、名前で呼んで下さい。茨木と言います」

「イバラキ、さん?」

「えぇ、『ギ』じゃないです」

茨城県……今でもイバラギって言ってる人多いけど。

「判りました」

「ありがとうございます。それじゃあ――……本題にでも、入らせてもらいましょうかね」

刑事さ――茨木さんの目つきが、何となく変わったような、気がした。仕事と私事を混同しないタイプってところ?そういえば、あの子供との会話を聞いていた限り、直実さんも似たようなところあるけど――。

 ん、この2人の関係は何なんだろう?刑事と探偵って、仲が良かったり悪かったりしてるイメージはあるけど。それだけの関係とは、思えない。ただの仕事上の関係だったら、ファーストネームで呼んだりしないだろうし。まぁ飽くまでもあたしの想像だけど。

「とりあえず、お名前をどうぞ」

あたしだってそれぐらいは答えられる。

「泉谷、楓です」

「楓さんね」

刑事さんが手帳にメモしている。この場合、ファーストネームで呼ぶ必要は無い気がする。

「ではまず――……発見した時刻は覚えていらっしゃいますか?」

急に言葉が丁寧になった。

 質問に答えよう。

「――自転車置き場に着いたのが、8時5分前……それから靴を履き替えて、一旦教室に上がって……それから下りて来て、特別棟に移って……渡り廊下から家庭科室はすぐです。細かい事は判らないですけど……多分、8時過ぎぐらいだったと思います」

「友達にひとり会ってるだろう?」

「あ、はい、美佐……加賀見さんです」

今の質問は刑事さんじゃなくて、直実さんの方だった。何だかお店にいる時よりも口調が厳しい。お店で会った時は、何となく柔らかい感じがしたんだけど、今度はその正反対。うーん、尚更不思議な感じ。

「彼女と立ち話したとか、そういう事は無いな?」

「はい――……話はしましたけど、歩きながらでした。早めに来いって言われてたので」

「運悪く一番乗りになってしまったという訳ですね」

刑事さん、フォローしたつもりらしい。でも『運悪く』とか言われて、余計に気分が沈んだ。

まだあたし、全然実感が湧かないんだけど――。

「……8時過ぎ、か。他に何か見たものは無いですね?ここに来る途中で、とか」

「何にも……いつも通りでした」

「うーん、やっぱそうだよな。うん、じゃあとりあえず……連絡先だけ教えて下さい」

笑顔で刑事さんが言う。あたしは差し出されたメモ帳に家と携帯の電話番号を書いて、渡した。

「はい、ご協力ありがとうございました。また何かあったらご連絡するかも知れませんが、その時はよろしくお願いします」

「……はい」

そして、あたしは椅子から立ち上がる。それから部屋を出ようと、ドアに手を掛けた時だった。

「明後日また、店の方に来てくれないか?――出来ればで、構わないけど」

直実さんの声だ。あたしは振り返って、彼の顔を見る。さっきまでの硬い表情とは違って、幾分か柔らかかったけど――……何かが、違うように思えた。

 ま、気のせいって事にしとくかな。

「……判りました。その代わり、紅茶一杯くらい奢って下さいね」

「あぁ……そうだな、それぐらいは出させてもらうよ」

その返答を聞いてから、あたしはニッコリと笑顔を作り、2人に向かって会釈をして――……部屋から出た。

 出たところで、さっきの子供があたしを待っていた。

「ご苦労さん、しげるさんッ」

「だから違うの!あたしは楓、かーえーで。覚えた?」

「うーん……全然違うなぁ。サネ、人の名前覚えんの遅いから、俺がずっとしげるさんって呼んでればそう覚えるかと思ったんだけど」

こいつめ、かなりあくどい子供だな。

「あんたねぇ…………人の名前でもてあそんでッ、」

「あ、そーだ、楓さん?事件の話、全然聞いてないっしょ」

素直なのはいいけど、そういう事をしらっとした顔で言うなっつーの。大体そんな話、こんな子供から聞きたくなんか無い。

 どうやらこの子供――そういえば、ハルって呼ばれてたっけ?――、あたしがそう思って明らかにムッとした顔になったのが判ったらしい。

「知りたくないなら、別に俺だって話さないけど。でもサネがわざわざ店閉めてまで捜査に来てるんだぜ?普通の事件だなんて思わないだろ」

「……直実さんがどれだけの名探偵なのかは知らないけどさ……あたしは探偵でも何でもなくて、ただの学生なの。事件の話聞いたところで…………何にも判んないし、役にも立たないの。それじゃね、えっと、ハル君って言ったっけ?あたし授業戻らなきゃ」

「あ、おい!!まだ話が残って――……ッ」

聞いてやるもんか。あんたの話なんて――……聞きたくも、ない。

妙にあたしは怒っていた。

誰に対してだろう――……ハル君か、それとも直実さんか。

 

答えは全て闇の中。

あたしにも判らない、あたしの心の中なんて――……誰にも、判るはずがない。

 

あたしは教室までひたすら走った。結局一度も、止まらなかった。早くあの部屋から離れたい、一心だった。

 

   *

 

 その日の授業は勿論面白くなんてなくて、いつも以上に頭には入らなかった。これじゃー学年末が心配だよ……全く、誰がやったのか知らないけど、今度の事件の所為だぞ。

 大体、そんな事件があったんなら授業なんてさっさと止めて解散すればいいのに。どうしてこう、隠したがるって言うか何て言うか。まぁ、あんまり騒いで大変な事になってくれても困るけどさ――。

 

 家に帰って食事をしてから、あたしはすぐに布団に潜り込んだ。今日あった事は、家族になんて絶対話したくない。そんな事話したって――……何の解決にも、ならないんだから。兄さんは興味なさげに「へぇ」とか言って、「珍しい経験できたじゃん」とか、妙な事を言ってくるんだろう。母さんも似たような反応だ。間違いない……え、何?パクリ?ま、見逃して。

 

 明後日、日曜日――……また、あの店に、行く?

 冗談じゃない、って思った。でも――直実さんに、行くって言っちゃったしなぁ……気は乗らないけど、せめて行くだけ行ってみよう。ゴメンなさい、事件の話はどうも性に合わなくて。紅茶だけ貰って帰ればいいし、今後は普通の客として行けばいい。あの鬱陶しい子供だって、店ならあの小猿になってるんだし。え?合ってるよね、あの小猿があの子供なんだよね。声一緒だし。間違ってたら切ない。

 

 ひとりでそんな事を考えながら、あたしはすぐに眠りについた。

 

   2

 

 そして次に目が覚めた時には、既に日は高く上った、午前10時になっていた。あたしはゆっくりと身体を起こし、目を擦りながら部屋を出る。軽く朝食を取って、着替えて――……はて、何をしようと考える。

 あの店に行くんだ、そうそう、忘れちゃいけない。

 あたしは財布だけ鞄に突っ込んで、それを持ってまた、部屋を出た。

 

 自宅から駅に向かって歩いて約50M。そこで右に曲がった、駅に向かう道の途中にその店はある。綺麗な看板には、印刷された毛筆の書体で「小春茶屋」と書かれていて、一見和風な雰囲気を漂わせている店だ。でも実際には紅茶とケーキの、カフェ。そこの何となく怪しい店主が直実さんで、かなり怪しい小猿が、ハル君……って、もう紹介しなくてもいいよね。

 あたしは店の前で何度か深呼吸した。前回と違って――……何となく、ドアを引くのが怖かった。どうしてかは、判らないけど。

 

――そしてその運命の扉を、開けた。

 

「いらっしゃいませ――……おや、ようやくいらしたようだね」

カウンターに座って紅茶を飲んでいた和服姿の直実さんが言った。あたしは何となく反論したくて、答えた。

「……これでも起きてすぐ来たんです」

「まぁとりあえず、好きな席にどうぞ。紅茶淹れますから」

「はい」

店用の台詞の時は敬語、それ以外は敬語なし、ってところか。使い分けが上手いのか、なんなのかよく判らないけど……統一して下さい。

 あたしは前回とは違う、店内向かって左側、カウンターの隣の机の、一番左……窓際の席を取った。入り口左にあるカウンターからはすぐ傍だ。話がしたいんだろうから、これぐらいの席の方がいいはず、とあたしは直実さんの方を覗き見た。

 でも当然、彼は慣れた手付きで紅茶を淹れているのみ。何だか、ポットの揺らし方なんかも板についてる感じがする。

「はい。砂糖とかレモンとかミルク要ります?」

「いえ、ストレートで頂きます、ありがとうございます」

「いえいえ」

そして彼はカウンターに戻っていく。

 あたしは何となく、尋ねた。事件の話とは、全然関係なかった。

「――……このお店、いつ開いたんですか?あたし、全然知らなくて……」

「ここは2年前です」

「そういえば、歳をお伺いしてませんでした」

「……25です」

直実さんは苦笑しながらも答えてくれた。まぁまだまだ、恥ずかしくない歳だからかも知れない。

 しかしよくよく考えてみると、あたし、質問内容飛びすぎだ。あたしが黙り込んだ所為で、その場が急に静かになった。

「――……あの高校の生徒さんだったとは、知りませんでした」

直実さんが静かな口調で言う。

「知ってたら怖いですよ、それ」

あたしが冗談交じりに答えると、直実さんはそれを受けて笑ってくれた。うん、冗談の通じる人だ。

「今度――……そこの中学を、ウチの弟が受けるつもりらしいんです。だから少しだけ、調べてはいたんです」

「弟さんがいらっしゃるんですね」

「……義理の、ですけどね。もし受かったら、ここで預かる事になりそうですけど」

そして苦笑。

「にぎやかになりますね」

「だったらいいんですけどね」

じゃあ、ならないんですかい?お兄さん。でもあたしにそこまでは、訊けなかった。その代わりに、何となく――思った事があった。

「そろそろ願書受付の頃ですよね……こんな事件があって平気なのかな、中学」

「さぁ、それは中学校に訊いてみないと判りません。少なくとも弟は、それでも受けると言ってましたけど」

「そうなんですか。じゃあ、あたしが先輩になったら、宜しく言っておいて下さい」

「えぇ、言っておきます」

で、会話が終わる。またその場が、静かになった。

 そういえば、あの小猿は居ないの?あれが居れば、多少は楽なんだけど――……でも、気配すら感じない。前回感じた、あの『術』とやらの威圧感も無い。あの小猿、出掛けてるんだろうか、こんな時に。

「――泉谷さん」

「あ、あの……楓でいいです。名字で呼ばれると、またハル君がしげるしげる言い出すから」

「…………そうですね。じゃあ、楓さん――」

「はい」

「……事件のことで、少し思う事があった」

口調が変わった。

「何ですか?」

あたしは敢えて普通に応答する。こんな事でいちいち反応してたら始まらないんだから。

「……驚かないな」

「何がです?」

「いや――……普通の人は大体、人が変わったみたいだと言って驚くんだ。友人たちは敬語を使う私を、お客様は敬語を使わない私を。どちらも全く同じ人間で、決して人格がふたつある訳でもなく――……その使い分けぐらい、普通の人だってやっている事のはずだろ。でも何故か私の場合は――、印象がまるで違うらしい」

言い訳みたいにそう言って、彼は紅茶を飲む。

まぁそれは、確かに言えてるかも知れない。自分がそう言われたら、不思議に思うのも仕方ない。

「でも確かに……ただ敬語を取っただけ、っていう感じじゃないですよね」

「……そう、か?」

うーん、でも「そうですか?」から「です」取っただけか。やっぱり変だ、不思議な人だ。

「た、多分」

「私は何も変えているつもりは無いんだけどな――……人って不思議だ」

「……そうですね」

要するに、結局みんな不思議って事ね。

「で、思う事って言うのは?」

このまま行くと本題忘れそうだったから、あたしは直実さんに問い掛けた。彼は「あぁ」と言って、答えてくれた。

「忘れかけてた。――そう、思う事――……どうして学校で殺したのか、って事だ」

それは、どういう意味でだろう?あたしの方が判らない。あたしが首を傾げていると、直実さんは話を続けた。

「学校には入り口という門がある。そこには見張りとも言える守衛が居て、時にはカメラなんかが仕掛けられている場合だってある。……仕掛けられているという表現は奇妙しいかも知れないけど。とにかく、学校……特に私立校と言うのは何でも揃って良さそうに見えて実は捕まりやすい場所のはずなんだ」

あぁ、なるほどね。確かに学校によっちゃ、警備はものすごいもんね。ウチの学校だって、それなりの警備システムが働いてたはず。あたしは頷いた。

「それでも敢えて自宅を選ばずに学校……つまり職場を選んだ。その時点で、犯人はその方が都合のいい人間、自宅は遠く、職場でしか会わない相手となる」

「それじゃあ、家庭科の――……」

「いや、家庭科とは限らないな。もしかしたら、他の科目の先生かも知れないし、生徒かも知れない。そこまで細かい事まではまだ判らないけど、とにかく学校関係者の中に犯人が居るって事は確かだろう。外部犯の可能性は99%以上の確率で無いな。入るにしても、行く場所が特殊すぎる」

そりゃそうだ。特別棟、それも家庭科室なんて行っても何の意味も無い。強盗しに行くなら、校長室とか、職員室、事務室辺りが筋かな?

「――……悪い、そういえば楓さんが第一発見者なのを忘れていた。こんな話して大丈夫か?」

「とりあえず――……あたしが見たのは、一瞬ですから。それに、あたし一応生徒なんですし、関係者でもありますから、何か情報が提供できれば、しますよ」

自信満々にそう言って見せると、直実さんは久し振りに嬉しそうに笑ってくれた。

「そうか――……ありがとう。協力者を探していたんだ」

「じゃ、適度に協力させてもらいます。あんまり踏み込んだ事は出来ないですけど」

「あぁ、それでも構わない。店もあるから――……私はそうそう実地調査に行けないからな」

「じゃ、あたしは実働部隊ですか?」

「そうなってもらえるのか?」

「あたしで良ければ、やりますよ。難しい事は出来ないかも知れませんけど」

あたしがそう答えると、直実さんは優しく笑って、「それで充分」と答えた。何となく、ため息が零れた。でも飽くまでも、嫌な意味のため息なんかじゃない。その点、お間違えのないよう。

「それで――……あたし、事件のこと、よく判ってないんです。昨日も帰りにハル君に言われて、別にいいって言って帰ってきちゃったので」

「うーん……でもそれほど特殊な事があった訳じゃない。ただ単に、学校の中、家庭科室……はちょっと特殊かな、そこで事件が起こったっていうだけの話だ」

「先生は……どうやって、殺されたんですか?」

「包丁で正面から胸を刺したらしい。あそこは家庭科、しかも調理室だ。凶器は正直、ため息でも吐きたくなるくらい沢山あった」

「……それはそうですよね」

包丁を人をも殺せる凶器と考えると、家庭科室は相当怖い場所になる。

……そんなときに、あたしの頭の中で全然関係の無い疑問が浮かんできた。

「あの――……あの刑事さんと、直実さんの関係って……?お友達ですか?」

直実さんはきょとんとした顔になって、それから少し考えるような仕草を見せる。上手く説明出来ないような、微妙な関係なんだろうか……おいおい、どんな関係やねんって。

 10秒近く考えてから、直実さんが答えた。

「あれは元は幼なじみで――……、一時期は敵にもなった。でもまぁ今は、あっちの仕事の依頼人ってところかな」

結局は、幼なじみで仕事仲間って事ですか。ちょっと気になる一文もあるけど、ここは敢えて訊き返さない。こんな事訊いて、悪く思われたくも無いし。

「へぇ……あたしにはそういう人居ないから、幼なじみってうらやましいです」

「そう良いモノでも無いぞ。私の場合は男同士ってのも重なって」

まぁ、男女だからどうなるって訳でも無いんだろうけど――多少は違うんだろうね、感覚が。あたしは軽く頷く。

 それからまた、疑問が浮かぶ。これを訊かない訳にはいかない――……何となく、そう思った。

 

 

「――術って、何ですか?」

 

直実さんの表情が微妙に変わった気がした。驚いたような顔をして、それから少し、切なげな顔になって。静かな口調で、話し始めた。

「術は術。そのままの意味だ。ハルを小猿にしたり、黙らせたり、壁に貼り付けといたり……まぁ色々と」

 

………………それ、虐めじゃないっスかお兄さん。

 

あたしが焦った顔をしていたのに気付いたんだろうか、直実さんは苦笑した。

「あいつはあぁ見えてかなりの問題児だから、それぐらいやらないと治らないんだよ」

「はぁ……」

まぁ、そんなモンか。

 

おっと?

話を逸らされた気がするぞ。

 

あたしは訊き返そうとして、ふと考え直す。

話を逸らしたからには――……直実さんにもそれなりの考えがあった訳で。

一般市民のあたしには触れられたくない話題なのかも知れないし。

まだ3回しか会って話した事のない、ただの『知り合い』なんだし。

 

今日は、この辺で――……終わりにしておこう。

「えっと、それじゃ――……紅茶、ごちそうさまでした。えっと、お金は」

「いや、今日は私が出すって言ったんだから――要らないよ。あ、それから」

「? 何ですか?」

「出来れば、でいいんだけど――……亡くなった先生の周りにいた人、まぁだから他の家庭科の先生方とか。その人たちに、これを訊いて来てくれないか?」

そう言って、直実さんが一枚のメモをあたしに差し出す。あたしはそれを受け取って、そこに書いてある内容を眺める。一見、ものすごく一般的な質問のように見えた。

「……判りました」

「それと、守衛さんにもこれを。どちらかと言うとこっちを優先的に」

「はい」

もう一枚の紙に書いてあったのは、似たような質問。あたしがそれを確認して、もう一度顔を上げると――……、直実さんは急に表情を変えた。今まではずっと穏やかな感じだったんだけど、何故か、冷たい印象を覚えるようになった。

 そして、周りには誰も居ないと言うのに――耳打ちで、言った。

 

 

「――術の事は、誰にも言わないように。特に私の事を知らない人間には、絶対だ」

 

 

何だか判らないけど、不意に恐怖を感じたような気になった。

別に、言われたことは何ら怖くなんて無いのに。

強烈な寒気が、あたしを襲った。

 

慌てて直実さんの顔を見たら――……、色味の無い灰色だったはずの彼の右の瞳が、碧色に見えた。

 

あたしは言葉を失って、とりあえず必死に頷いておいた。

うーむ、やっぱり変な人だ――……どうも、信用ならない。

 

あたしがそう思っていたのを見抜いたのかなんなのか、彼はまた穏やかに微笑む。

「調査の方、宜しくお願いします。少しでも回答が得られれば、何らかの答えは出るでしょうから」

いきなり敬語モードに戻るか、この人は――……。

あたしはもう一回頷いて、それから思いっきり腰を曲げて会釈して、店から飛び出した。

 

   *

 

「あーあ、あの子にも振られたか?サネぇ」

 

カウンターの影からひょっこりと顔を出した小猿が楽しそうに言う。

 

「……うるさい。別に、愛の告白なんかをした訳でもない」

 

「でも期待はしてたんだろ?」

 

「…………何処が」

 

「今の間は何だよー」

 

きゃっきゃっ言いながら笑う様はまさしく猿だ。

 

直実がため息を吐き、カウンターに戻る。

 

それからまた、紅茶を淹れる準備を始めた。

 

「サネ、今日何杯目だ?飲みすぎじゃねェの?」

 

「ハルに心配される事じゃない」

 

「眠れなくなっても知らねーぞッ!明日の仕込みは誰がやるのかなッ?」

 

「寝る頃にはカフェインの効果なんて切れてるさ。それにもしまだ効いてたとしても――……」

 

「しても?」

 

直実がハルの目の前で指を鳴らした。

 

「ぐああッ、何しやがるッ」

 

ハルの動きがぴたりと止んだ。

 

 

 

「――……自分で術を掛けてでも寝るさ」

 

 

 

少し切なげな声に、動けなくなっているハルが静かに応答する。

 

「……ったく、世話の焼けるヤツだなッ」

 

「誰がだ」

 

「もがッ」

 

 

 

 

 

数十秒後――……窒息死寸前のハルの叫び声が、冬の住宅街に響き渡った。

説明
『名探偵』は喫茶店の店主にして和装の魔法使い、ワトソン役は女子高生。ミステリらしきものと現代ファンタジーの混合物。
第一話、出会いは森の熊さんで、再会は殺人事件現場にて。

現在、サイトでメインに更新しているものの第一話(前編)です。四年前の作品。
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現代 ファンタジー 推理 学園 和風 魔法 長編 

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