とある樹木の白昼夢
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目覚めて最初に見えたのは、遮る影の彼方、雄大に広がる蒼だった。

周囲にはその遥か先、天を衝くかのように立ち並ぶ大樹。

風に揺れるさざめきは柔らかな音色を響かせ、朝靄の水分が葉の上に集い、一粒の雫となって伝い落ちる。

傍らでぽつりと爆ぜた飛沫が、私に触れた。

冷たい。しかし、その心地良い冷たさは『芽吹いた』という実感と歓喜の感情を、私に与えてくれたのだ。

 

どれほどなのかは解らない。

悠久とも思えるような月日を、一筋の光すら届かぬ暗闇の中で、私は過ごしていた。

私にとってはそれが日常であり、その事に対して私は疑問など何一つ抱いていなかった。

しかし、その一瞬を境に、私の日常は一変した。

暗闇を突き破ったその先は、彩りに満ち溢れていた。

雲の白に、大地の黒。木々は深緑に生い茂り、晴れ渡る蒼穹は沈み行く陽光で茜に染まり、漆黒の夜空には幾千万の星々が煌びやかな輝きを放つ。

時折空を滑るように視界を横切る影が、草花を踏み鳴らす足音が、私以外の生命の存在を如実に物語っていた。

諸行無常。刹那として同一の瞬間など無く、緩やかに移りゆく景色に、私は心より見惚れていた。

永久の暗闇しか知らずにいた私はこの日、初めて『光』という存在を知ったのだった。

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それからの日々は、疑問符と感嘆符が頭の中に延々と浮かび続ける日々であった。

見る物全てが知らぬ物ばかり。

『あれは何だろう』

『そうか、こういう物なのか』

際限なく沸き上がる知的欲求を、私は次々に満たしていった。

漆黒と静寂だけではない世界を知ったこの時の私を衝き動かしていたのは『知りたい』という願望、ただそれだけだった。

真綿に水滴を落とすかのように、私は自分の中身を新たな知識で埋め尽くしていった。

私には思考に耽る時間は掃いて捨てるほどあり、何よりも知る事が私にとっての最大の歓びであった。

見上げるだけの世界ではあったが、それでも疑問は湯水のように浮かび上がり、いつしかそれに対する思考錯誤が当然の行動、所謂『習慣』という物になっていたのだ。

 

そしていつしか私は私自身に対しても多くを考えるようになり、次第に私がどのような存在なのかも理解し始めた。

寸分たりとも動く事の叶わぬこの身体は、恐らく周囲に立ち並ぶ大小様々な植物達と同一の類であろう事。

影の隙間より降り注ぐ暖かな光と、大地より吸い上げる水分と、それに含まれる養分が私にとっての糧であり、私達植物を糧とする動物達、その血肉を糧とする更に大きな動物達が存在する事。

彼等の死骸を大地や微細な生物や昆虫達が分解し、分解された血肉に含まれる成分が私や植物達にとっての糧である事。

命の輪廻、実に興味深い事例であった。

後に知ったのだが、人の世ではこれを『食物連鎖』と呼ぶらしい。

成程、実に合点がいく呼称である。

そして、私もその一要因である事。

ならば私もいつか彼等の糧として摂取されるのだろうかと思っていたのだが、幸運に恵まれているのか、私は彼等に摂取される事無く現在に至っている。

 

そのような月日が流れる内に、見上げるだけだった私の世界にも見下ろす物事が少しずつ増え始め、視界に収まる事例が増えた事により、私の世界も更に広がっていった。

見上げるだけの頃には解らなかった景色が、そこには確かに存在した。

見渡す限りに広がる多種多様な木々の幹や枝葉。

足音や至近距離でしか確認の叶わなかった動物達の姿や影。

細く弱々しかった私の身体は徐々に太く逞しくなり、小さな虫達が私の身体に卵を産み付けたり、孵った彼等の幼虫が私の葉を糧にしたり、彼等が私の葉や枝の裏で雨露を凌ぐ事もしばしばあった。

そして、その逆もまた然り。

自らの時を駆け抜け、最期を迎えた命。

天寿か、病か、爪牙か、不慮か。

時を選ばず、因果も問わず、大小動静すら関わらず、生きとし生けるもの全てに訪れる終幕の瞬間。

私は多くを見届けて来た。

時には、徐々に枯れ行き舞い散る木の葉を。

時には、大量の緋色を流し冷たく倒れる肢体を。

その度に私は、言い表し難い、しかし正負で言えば間違いなく負に属するのであろう感情を抱かずにはいられなかった。

この世界に芽吹いて幾星霜。私は、思わずにはいられなかった。

この世界は、何と慈悲深く、何と残酷で、そして何と愛おしいのだろうか、と。

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再び、多くの年月が過ぎ去った。

正に、光陰矢のごとし。

今日と言う日で何度、あの光は地平線へと沈んだのだろうか、最早数える気も失せていた。

いつしか私は周囲の大樹達を遥か下に見下ろすほどにまで成長していた。

私の身体は大樹達の何十倍にも膨れ上がり、昔とは打って変わって私が彼等の多くに影を落としている程である。

見渡す世界は一面深緑に染まり、遠方には青々と映える山脈が長々と連なっている。

形様々な白雲はくっつき千切れを繰り返し、吹き抜ける風に身を任せながら緩やかに空を漂っている。

その風に混じって、様々な香りが此処に届けられる。

木々の香り。大地の香り。動物達の香り。

時折微かに混じる何処かべたつくような塩辛い香りは、遥か彼方に見える青く大きな水溜まりから辿り着いているのではないかと、私は踏んでいる。

そんな私の眼下では、今日もまた多くの命が日々を生きていた。

私の枝にてその翼を休める者もいれば、私の肌より滲む液を糧とする者もいる。

中には私の身体に塒を作り、そこで一生を終えるというものもいる。

それがこの世界の摂理であり、それが私にとっての日常になっていた。

私が彼等を育む助けとなり、私が彼等の最期を看取る。

この場所で、一体何度繰り返しただろう。

どんなに風雨に曝されようと、私は倒れなかった。

どんなに大地が揺れ動こうと、私は動かなかった。

見上げていたばかりの日々が過ぎ、見下ろす日々が徐々に増え、いつしか私は見守る存在となっていた。

いずれ訪れるであろう最期の時まで、彼等を見守り続けるのだろうと、そう思っていた。

 

蒼穹の彼方より流れ落ちる、一筋の流星を見るまでは。

 

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その輝きは、明らかに異質だった。

過去に流星を目にした事はあるが、それは常に空が暗くなってからであった。

現在、頭上に広がる空は雲一つ無く快晴。

降り注ぐ陽光が何処か熱く感じられるほどである。

何より、その流星が放つ輝きは今までに目にして来たどの流星のそれとも異なっていた。

刹那、鮮やかな煌きを放ちながら消えていく、それが私の知る流星。

しかし今現在、私が目にしている流星は未だ途切れる事無く、放つ輝きも何処か無骨な印象を受けるものであった。

やがて流星は遥か彼方、あの大きな水溜まり方面に着弾したかのように見えた。

響く轟音。揺れる大地。着弾地点周辺から小さな影達が一斉に舞い上がった。

また、私の世界が変わる。何故か私の胸中には、そんな確信めいた何かが生まれていた。

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それから数日ほどが経過した、とある日の事だった。

私の膝下に、見知らぬ生物達がやって来た。

四足歩行を行わず後ろ足二本だけで歩き、発達している前足で大小長短様々な道具を携えている。

護身の役割を果たすのであろう黒い光沢を放つ、見るからに堅牢な繭や蓑のような物を身に纏ったその姿は、私の知るどのような生物達とも異なっていた。

私がそのような事を考えていると、彼等の内、先頭に居た者が私へと近付き、幹に触れながら私を見上げて、

 

「凄いな……遠目に見てもかなり大きいのは解っていたけど、実際に目の当たりにすると桁違いだ」

 

驚いた。初めてだったのだ。明確な『言語』を耳にしたのは。

勿論、私が見届けてきた者達にも声は存在した。

ある者は甲高く響く高周波。

ある者は重苦しく轟く重低音。

ある者は喉を震わせて。

ある者は翅を擦り合わせて。

求愛、報告、威嚇、催促。術や音色は数あれど、そこに籠められるものは皆同じ。

しかし、明確な言語を用いた意思や感情、思考の伝達を行う生物の存在を、私はこの時まで知らずにいたのだ。

私が前述のように心中で愕然としている間も、先程の声の主は私の幹に触れたまま、輪郭をなぞる様に私の周囲を一歩一歩ゆっくりと、歩いていた。

やがて一周歩き終えた後、彼はゆっくりと頭部の黒光りする何かを取り去ろうとし、その後ろで周囲を警戒していた者達の内の一人がその行動を諌めようとする。

「せ、先生、ヘルメットを脱いでは、」

「大丈夫、濾過マスクは外さない。それに、強化ガラス越しじゃなくて、直接見たいんだ、この『霊樹』を」

その忠告を無視して彼はゆっくりと、『へるめっと』だったか、それを外した。

現れたのは何処か癖がついてぼさぼさした黒い体毛と、それとは対照的な白い肌。

鼻と口は身体に纏うそれとは違う光沢を放つ何かに覆われており、両目の直前には何やら円形の透明な物質が二つ、枠に嵌められて並んでいる。

そして、その透明な物質越しに見える彼の漆黒の双眸は、何処か輝きを放っているように、私には見えたのだ。

 

これが彼、柳堂一麻と私の出会いだった。

 

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その翌日より、彼等は私の周辺の調査を始めた。

範囲は陽光が落とす私の影よりも僅かに広い程度。

彼等の会話や呟きから推測するに、調査内容は生息している動植物や正確な地形の把握が主たるものらしい。

しかし、彼等が周辺の調査を行っている間、一麻だけは私の調査に没頭していた。

私の各所の大きさはどれくらいなのか。

何処にどのように枝葉が生えているのか。

私の身体に訪れたり、住んでいる生物達はどのような種類なのか。

周辺調査に出ている彼等とは違い、例の黒い光沢の蓑は纏わず、何やら大きな荷物を背負い、爪や蔓のような道具を使って器用に私の身体の上を行き来しながら、解った事を一つずつ、『めもちょう』だったか、それに記していた。

その際の彼の呟きで、私と長年共に過ごしてきた動物達の名前、正確には種族の呼称らしいが、それを初めて知った。どうやら彼は相当な勤勉家らしい。

日が昇っている間中、彼は疲れなど欠片も感じぬように私の上を縦横無尽に動き回り、日が沈むと共に、周辺調査に出ていた者達と合流し、近くに作ったらしい塒へと帰って行く。

時には本物の蓑のような物で全身を包み、私の枝の上で眠りに就く事もあった。

彼は実に不思議な雰囲気の持ち主だった。

何か新しい物事を見つける度に表情を輝かせ、誰に聞かせるわけでもないのに興奮気味に、その知識や考察を口に出すのだ。

それは時として、永き月日をこの場所で過ごしてきた私さえも驚かされるようなものであり、知らずにいた新しい物事を知る事が出来るので、彼の行動に対して私の不満は一切無かった。

そして、何より私が彼を不思議だと思う要因は、彼が私に話し掛けてくる事であった。

「僕は、一麻。柳堂一麻って言うんだ」

「君は本当に凄い木なんだね。一学者として、とても興味深い事ばかりだよ」

「今日で解った事はこれくらいかな。明日もまた、宜しくね」

今現在まで私を拠り所にした者達は数多くいたが、私が話し掛けられる事など、果たして一度も経験した事が無かったのだ。

無論、私は言葉を発する事が出来ない為、彼の話を一方的に聞いているだけなのだが、それだけでも私は充分に楽しんでいた。

彼は実に多くの事を私に教えてくれた。

自分達は『人間』という生物である事。

自分達がこことは違う『地球』という星よりやって来た事。

自分は植物に関する研究が主たる生物学者であり、とある人間に雇われてこの星の調査にやって来た事。

地球の生命達が持つ文明や技術。

そんな彼の話に寄れば、この時点で私がこの世界に芽吹いてから優に数千年の月日が経過していたと言う。改めて思えば、私はそれだけの月日を孤独に過ごしてきたという事になる。

その事実に気付いた時、私は初めて理解した。彼が、私に気付かせてくれたのだ。

永き日々を共に暮らしてきた彼等との死別の際に抱いていた負の感情は、寂寥の念だったのだ、という事に。

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やがて、二週間ほどが経過した頃だろうか。

いつものように調査に訪れた一麻が、私に話し掛けてきた。

「今日はね、ちょっと残念な御報せがあってさ」

その表情が何処か翳りを帯びている事に気付いて、私は疑問を抱き、

「今日でね、この星の調査期間が終わっちゃうんだよ」

その疑問は、直ぐに氷解した。

「もっと君を調べたかったんだけど、僕の雇い主に『これだけ解れば十分だから、早く帰って報告しろ』って言われちゃってね……残念だけど、一度帰らなきゃならなくなっちゃったんだ」

苦笑混じりに呟く彼の表情は『残念』という心中が一目で解るほどに如実に表れていた。

そして同時に、彼の話を聞いて落胆を感じている自分にも気付き、私はそんな自分に対して苦笑を浮かべてしまう。

そんな私の心中を知ってか―――いや、知る術などない筈なのだが、彼はふいに若干俯いていた顔を上げ、

「だから、今日はいつも以上に、君をとことん調べさせて貰うよ。今日も宜しく」

その表情は、今まで見て来たどの彼よりも晴れやかであったように、私には見えた。

その日の彼は宣言通り、今まで以上の速度で調査を行い、日没の頃には汗だくになっていた彼は突如降り出した雨に私の根元、剥き出しの根の下に出来た空洞の中で雨宿りしながら、無線とやらを使って仲間達に迎え頼む連絡を入れていた。

仲間への連絡の後、私の身体に凭れ掛かりながら、彼は私を見上げてこう言った。

「また、此処に来るよ。今度は本格的に腰を据えて、君やこの星の生態について研究させて貰える事になっている。その時は、また宜しくね」

笑う彼の表情には今朝に見た翳りはなく、迎えの仲間達と共に去って行く背中と、夜空を一文字に裂くように飛んでいく一筋の閃光を、ほんの少しの寂寥感と共に、私は見送ったのだった。

 

彼といた時間は、それこそ私が今までに生きて来た時間の何百、何千、何万分の一でしたない。

だというのに、彼は私の世界を更に大きく広げてくれた。

動く事の叶わない私に、この場所からだけでは知る事の出来ない世界を、私に教えてくれた。

それは私にとって間違いなく僥倖であり、彼が私に齎したものは、私にとっても実に好ましいものであった。

再び彼がこの地を訪れるのは、約一年後だという。

果たして、次はどのような話を聞かせてくれるのだろう。私にどのような歓びを与えてくれるのだろう。

今まで私が生きてきた数千年が短く感じられてしまうほどに、彼が再びこの地を訪れるのを、私は心待ちにしていた。

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しかし、その一年後。

この地を訪れたのは、彼だけではなかった。

轟く爆音。

鋼鉄の鎧を纏った重機。

薙ぎ倒される木々。

逃げ惑う動物達。

齎されたのは、多くの殺戮。

私の世界の、破壊だったのだ。

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真っ先に感じたのは戸惑い。

あまりにも一方的な虐殺。

介入などという生易しいものではない。

侵略、正にその一言に尽きた。

やがて、躊躇いがちに一麻が私の元を訪れ、

「済まない……僕の力では、守り切れなかった」

まるで懺悔のように、彼はぽつぽつと話し始めた。

一麻の依頼主の目的は、この星に眠る膨大な鉱山資源であり、それを手にする事が出来れば、人の世では莫大な富が得られる事。

その為にはこの星がどのような環境下にあり、どの地点にどれほどの資源が眠っており、それらを採掘するのに最適な拠点は何処に配置するべきか調査する必要があった事。

その調査員として一麻に白羽の矢が立ち、この星の生態環境に多大な興味を抱いていた一麻は即座に承諾、しかし直に目にした自然の雄大さに惚れこみ、可能な限り自然に影響を与えないよう、最低限の施設の設置や投入する重機の削減を進言したのだが『不要だ』と一蹴されてしまった事。

「僕がここを訪れた時点で、既にほぼ決定事項だったんだよ……『計画を変更する必要はない。我々にとって最優先するべきは利益であり、大量の機器を投じた方が合理的な採掘を行える事は明白だ』何度交渉しても、その一点張りでね。妥協案として、僕の研究で最優先対象だった霊樹、つまり君の保護しか、認めてもらえなかったんだ」

沈痛な面持ちで俯く彼を見ていると、怒りの感情は沸き上がって来なかった。

彼はこの地の生命達の為に、私が見守って来たこの世界の為に、持てる力の全てを尽くしてくれたのである。そんな彼に、どうして憤慨できようか。

弱肉強食。弱き者の血肉を、強き者が糧とする。それがこの世の唯一の摂理。

幾度となく見届け、知り尽くした事なのに何故、今更になって私は疑問を抱いたのだろう。自分が、解らなかった。

その日、一麻は私の調査を行わなかった。

 

木の葉が一枚、私の枝から舞い落ちた。

その青緑の中に、小さな赤褐色の斑点が混じっていた事に、私達は気付かなかった。

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開拓は僅か一月ほどで終了した。

私の視界全てではないが、一部にぽっかりと穴が開き、そこには鋼鉄の四角柱が所狭しと並んでいる。採掘した資源を加工する施設らしい。

その区画の、私から見て手前側の端に一際大きな施設が建てられており、細く長い蔦のような何かが空の彼方へ延々と続いていた。

時折、あの蔦の上を巨大な鋼鉄の塊が定期的に行き来する事から察するに、あれは彼等がこの地へ辿り着く為の道標なのだろう。

あの塊に加工した資源を積み込み、彼等の故郷へと運送するらしい。

その一月の間、一麻は殆ど私の元を訪れなかった。

時折訪れても、依然と比べて調査は何処か消極的であった。

彼自身に非はないのだから気にする必要はないと思うのだが、それでも自ら遠慮してしまう辺り、彼の人柄が容易に窺える。

そして、受け入れられていなかったのは、私も同じだったのだろう。

「―――なんだ、これ」

私の枝の一つの観察中、突如一麻が愕然とする。

彼は生えている葉の一枚を摘み取り、

「明らかにおかしい……こんな色、してなかった筈なのに」

呟き陽光に透かすそれは、深緑の名残を欠片も残さず、毒々しい赤褐色に侵されていた。

私もその際に初めて気が付いたのだが、摘み取られた葉の生えている枝やその周囲一帯はこの時既に赤褐色に染まり切っていた。

「赤褐色……葉枯病か、それとも褐斑病か。でもどっちも斑点が出る程度で、葉を塗り潰すほどに広がる事なんて……僕達と一緒に紛れこんだウイルスが、この星の環境下で変性したのか。どちらにしろ、持ち帰って早く調べてみないと」

一麻は更に数本の枝ごと赤褐色の葉を摘み取ると密封された容器に入れ、直ぐに開拓拠点へと帰って行った。

あれほど焦燥感に染まった彼の表情を私は未だ知らず、その時私は初めて、私の体内を何かがじわじわと蝕んでいるような、そんな気味の悪さを感じている事に気付いたのだった。

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それから数日後、頭は寝癖でぼさぼさに、両目の下を真っ黒にした一麻が私の元を訪れた。

その表情が暗く見えるのは、決してその隈だけが原因ではないと、直ぐに解った。

「……はっきり言わせて貰うよ。君は病気だ。原因は葉枯病のウイルスなんだが、どうやらこの星の環境下で変性してしまったみたいでね、本来であれば湿度が高くないと発症しないんだけど、このウイルスはどんな環境下でも繁殖を続け、しかも体内を徐々に浸食していく。最終的には君が発生源となってここら一帯の植物全てに伝染し、やがては星全体に広がってしまう。最悪なのが、感染した植物は強い毒性を持ってしまう事だ。植物が毒性を持てば、当然それを糧とする昆虫や草食動物達も生きられないし、その動物達を食べる肉食動物達も生きられない。……最悪の場合、この星そのものが死んでしまう事になる」

その言葉は、あまりにも衝撃だった。

病であろう事は予測してはいたが、まさかそこまでの脅威だったとは塵芥程も考えていなかった。

私一人が死ぬのは別に構わなかった。

生きている限り、死は必ず訪れる。

それこそ何千、何万、何億もの命が消える瞬間を、私は見届けて来た。

それに、私の出生の時を知る者は皆、遥か昔にその最期を看取ったほどに、私は生きたのだ。

今更最期を迎える事に、何の躊躇いも無い。ただ最期の時を待つだけだ。

が、それがこの世界に生きる皆を巻き込んでしまうとなれば話は別だ。

皆が生きるこの世界を、他ならぬ私が滅ぼしてしまうなど、どのような艱難辛苦よりも耐え難い。

「本来の葉枯病なら水和剤を散布するのが主な防除法なんだけど、こいつは湿度は無関係だからね。罹病した葉を集めて焼却するしかない。でも、既に浸食が三割以上に達してしまっているし、多発した際に使う殺菌剤もどうやら効かないみたいなんだ。……早い話が、君そのものを焼却するしか、方法がないんだよ」

―――成程。そういう事か。

つくづく、優しい青年だと思う。

言葉も返さない、意志も解らない、研究対象である筈の、ただの樹木である私に、ここまで感情移入出来るのだから。

「事は一刻を争う。既に、君の焼却処分が決まった。執行は一週間後。それまでに君は隔離されて、燃やされる。それまでの間、君は自分が蝕まれていく恐怖に、真っ向から向き合わなければならなくなる。……何を言ったら解らないけど、最期まで、頑張って」

それはつまり、私の身体を蝕んでいる病原体を、他の誰にも感染させる事なく処分出来るという事。

私にとって最大の問題が解消されるのだ、何一つ反対の意など浮かばない。

『宜しく頼む』

俯き去り行くその背中に、ゆっくりと語りかけるように、心でそう念じてみた。

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一日目。

感じていた違和感が増大し始めた。

まるで自分の中がどろどろとした異物で満たされていくかのような気色悪さ。

その日は一日中、少しでも多くを私の中に残しておこうと、全感覚を研ぎ澄ませて、世界を感じる事に没頭した。

 

二日目。

触覚が無くなってきた。

鳥達が枝に留まっても、昆虫達が肌に触れても、微かにしか感じとれない。

人間達が私を取り囲むように何やら線を引き、それに沿って多くの鉄柱が埋め込まれた。

 

三日目。

触覚は完全に失せた。

徐々に嗅覚も消え始めた。

いつもは感じられた森や海、命達の匂いが、徐々に薄れていく。

人間達が埋めた鉄柱にそって金属の板を嵌め、壁を作り始めた。

 

四日目。

感覚が二つ、消え失せた。

聴覚の消失も始まり、木々のさざめきも、風の嘶きも、遠く感じられる。

覚悟していた筈なのに、私の胸中には黒い何かが生まれ始めた。

日に日に高くなる壁がその何かを増幅させ、私は自分への戸惑いを抑え切れなかった。

 

五日目。

ついに聴覚も消えた。

視界が徐々にぼやけ始め、あれほど彩りに満ちていた世界が白黒に変わり始めた。

私の世界の終りが近付いている事を明確に感じさせられ、私の中の翳りが更に増していく。

その時、やっと理解した。これは『恐怖』なのだ、と。

私を囲む壁は既に私の八割以上を覆い、色彩の削られていく視界は黒に塗り潰されていく。

 

六日目。

壁が既に私全体を覆い射し込む光が皆無なのか、それとも視界が消え射し込む光が全く感じられないのか、その判断すらつかない。

既に私はあの頃と同じ、永久の暗闇の中にいた。

しかし、あの頃と決定的に違うのが、今の私にはこの暗闇が日常ではなくなっている事。

あの頃は何も感じなかったが、今は違う。

人の世には『青い鳥』という話があると言う。

傍にあるものの有難みは失って初めて解るもの。

今ならば身に沁みて理解出来る。

怖かった。恐ろしかった。

明日、私は燃やされる。

刻一刻と迫る刻限が私の恐怖を加速させた。

 

『生きたい』

いつしかそう思っていた自分に、他ならぬ自分自身が最も驚いていた。

 

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そんな時、ふとぼんやりとした光が視界に射し込んだ。

ほんの微かではあるが、私の視覚は未だ健在だったようだ。

見回せば既に壁は私の頭上を優に越え、真上を仰げば千万の滲んだ光の粒だけは見る事が出来た。

―――夜、か。

そして眼下、多くの照明に照らされており、最後に夜空を見る事が叶った理由に気付いた。

そしてその逆光の中、こちらへと歩み寄る小さな影を一つ、視認した。

はっきりとは見えない為、正確な姿は解らないが、何故かあれほど怯えていた心が嘘のように、今は穏やかに凪いでいた。

やがてその影は私の身体を昇り始め、

『――――――――』

失った聴覚では、影の主の言葉を聞きとる事は叶わなかった。

何故ここを訪れたのかは、解らない。

しかし、私はその影の主に多大なる感謝の念を抱く。

『有難う。最後にもう一度、私に光を見せてくれて』

視界をゆっくりと閉じた。

もう構わない。

消え行こう。

永遠に眠ろう。

世界と繋がる最後の糸を、私はそっと、手放した。

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そこには、何もなかった。

上下左右前後、全てにおいて際限なく、ひたすら無限の空間が続く。

光や闇という概念すら存在せず、比喩し難いその空間の中を漂っていた。

既に恐怖はなく、むしろ仄かな暖かさに包まれているようで、心が安らいだ。

ここが死後の世界なのだろうか。何処か靄のかかった思考でそんな事を考える。

 

―――はて、死んだ後でも思考という行為が可能なのだろうか。

 

ふと思い浮かんだその疑問に、私は首を捻った、その直後。

漂っていた私の意識は、緩やかに浮上を始めた。

深き海溝より沸き上がる泡沫のように、水面を目指してふわりふわりと。

やがて辿り着いたその先、真白に染まった私の視界が徐々に輪郭を帯びてゆき、真っ先に見えたのは、明らかに人工的な射光。

周囲は透明な壁で覆われており、その向こうには様々な植物やその種子が同じような透明の箱の中に管理されていた。

全く以て覚えのない光景。

しかし、その中に一人佇むその背中には、心当たりがあった。

何処かくたびれた白衣に無精髭。

振り返った眼鏡越しの双眸は、あの時と同じように何処か輝いていた。

「―――おおっ、やった。成功したんだ」

こみ上げる歓喜に浮足立つその表情は、私に死を告げたあの時とは正反対。

見ていてま全く飽きが来ない。

現状に対する疑問は大量にあるが、今はまず、この幸運に感謝しよう。

私に二度目の命すら与えてくれた、柳堂一麻という一人の人間との出会いに。

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資源惑星『肆之弐―弐』號

雄大な自然と生態系に恵まれたその惑星が嘗て有していた膨大な鉱山資源は我々人間に多くの技術革新を齎した。

しかし、とある事象によりその環境は激変。

命の輪廻は崩壊し、現在は読んで字のごとく『死の星』と化している。

しかし、そんな劣悪な環境下、未だ威風堂々たる風貌を残す樹木が存在する。

 

『霊樹』

 

嘗てこの星の生態系の重要なファクターとして惑星南部に広がる樹海の中心に鎮座していたのだが、惑星の環境下により変性した新型の葉枯病に感染、被害拡大防止の為、焼却処分となった。

しかし日本の植物学者、柳堂一麻氏が事前に採取していたその枝より挿し木を行い、新株を得る事に成功。彼の手によって再び樹海に植林され、以降の彼の主たる研究対象となる。

初代は四三五八年で発症した為不明であったが、我々の研究によれば、霊樹の寿命は個体差こそあれ優に一〇〇〇〇年を越えるであろう事が発覚。

その種子は数千年に一度しか生成されず、新株の培養を試みたが柳堂氏の一件以外の成功例は確認されていない。

当時の柳堂氏の記述に寄れば、彼は常に植物達と言語におけるコミュニケーションを図っていたという。

当然ながら霊樹が言葉を返したという記述は無いのだが、他種においては『話しかけると成長が促された』という例も幾つか確認されている。

 

果たして、植物にも『心』は存在するのだろうか。

我々は今も真相の解明の為、より一層の奮起と共に研究を続行している。

『彼等も生きているのだ』と声を大にして叫び続け、あの霊樹と共にその生涯を駆け抜けた、今は亡き彼の意志を絶やさぬ為に。

 

≪終幕≫

説明
投稿51作品目になりました。
以前文芸部の原稿として執筆した、ちょっとしたSFものです。
……はいそこ、タイトル詐欺とか言わないように(これしか思いつかなかったんだよ!!)
拙い文章ではありますが、いつものように感想質問その他諸々、一言でもコメントして頂けると嬉しいです。
では、どうぞ。
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コメント
サラダさん、コメント有難うございます。人は一人で生きられないと言いますけど、それは何も人間に限った事ではないのです。互いの損得を噛み合わせ、互いの命を糧にして初めて、生きるという事が出来るのです。(峠崎丈二)
感謝しよう。私たちを生きながらえさせてくれた全ての命に。 感謝しよう。私たちに命の尊さを思い出させてくれた一つの命に。(R.sarada)
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