虚界の叙事詩 Ep#.17「極北の真実」-1
[全8ページ]
-1ページ-

 

紅来国 綱道地方

 

γ0057年11月30日

 

6:22 A.M.(現地時間)

 

 

 

 

 

 

 

 不時着したジェットの機体から、必要な荷物だけを下ろすと、『SVO』の4人とリアン達は、現

在位置を確認した。

 

 リアンが持ち出した物の中には、電子パットがあり、それは衛星を使った高解像度写真を手

元へと送り届けてくれるものだ。彼女はそれを慣れた手つきで操作し、現在の場所を表示させ

よとしていた。

 

「あの人達、あのままあそこに放っておいていいのかな?」

 

 すでに不時着したジェットからかなり距離が離れている。

 

 白い雪が覆っている大地。何も無い所に一機だけ乗り捨てられたジェットは、周囲の光景の

中であまりに不釣合いだ。

 

 香奈や、他の者達は皆、厚手の上着を着込み寒さに備える。《綱道地方》の気温は今の季

節では零下になると言っていたが、それは防寒の為の最新技術繊維のフードを被っても、まだ

体が冷えてくる、そんな寒さだった。

 

「彼らは放っておけばいい。余計な手出しをすれば、どうせまた面倒になるんだから」

 

 防寒具姿になった登が、遠目にジェットを望みながら言った。

 

「何も考えねえで、そのまま不時着しちまったからな。下が雪ってのは好都合だったかもしれな

いが。もしかしたら、とんでもない所に降り立っちまったかもしれない。どうだリアンさん。ここは

どの辺りだ?」

 

 一博は特注サイズの防寒コートを着込んでいる。よく彼ほどの体格のものの防寒具があった

ものだ。

 

 彼は、縄を肩に回して持っている。それは雪原を滑るソリに繋がっていて、ソリには必要な物

資が乗せてあった。雪の上で荷物を運ぶために持って来られたものだ。

 

「出ました!ここは、目的地である《綱道大学》から約15キロ離れた場所になります。大学跡

はここから南東に15キロの場所にあります」

 

 電子パットをいじっていたリアンが声を上げた。

 

「15キロ、もしかしって歩くの?」

 

 不安げな声で沙恵が言った。彼女も防寒具を身に着けていたが、体を震わせ、いかにも寒

そうな雰囲気だ。

 

「他に行く手段はありませんね。ジェットはあんなですし、元々が、それほど長い距離を歩くつも

りではありませんでしたし」

 

「元々が、そのまま『タレス公国』に折り返すって予定だったんだしな」

 

 リアンの言葉に、皮肉交じりに一博が言った。

 

「す、すみません。私も、昨日呼び出されただけで、何もさっぱり知らなかったんです。まさか、

あんな事になってしまうなんて」

 

「気にするな、リアンさん。あんたの責任じゃあない。それにたかだか15キロだ。歩いていけな

い距離じゃあない」

 

 と、登が言った。

 

「あたしさあ、人一倍寒がりなんだよね。行きたくないなんて、言ったりしないけれどもさ」

 

「現在の気温は零下2度です。時刻は、現地時間で午前6時30分頃。これから暖かくなります

が、天候が急に変わり、更に冷え込むこともあります。雪も降って、吹雪になる事もある季節で

すから」

 

 電子パットを見続けているリアンが言ってきた。彼女の持つその情報機器には、《綱道地方》

に関するリアルタイムの情報が、常に衛星から届けられている。

 

「つまり、さっさと行動した方が良いって事か?」

 

 リアンの説明に、一博が質問した。

 

「ま、まあ、そういう事ですね。あと、本国に連絡して、救援を待つとか」

 

「そんな事をしている暇が無い事は、あんたも分かっていると思うが?」

 

 彼女の言葉を遮って登が言った。

 

 少しの時間の後、リアンは何か思いついたようだ。

 

「じゃあ、こうしましょう。私達は、まず本国へと連絡を入れます。それから、私達だけ先に《綱

道大学》へと向かいます。それで状況を確認して、本格的な調査は、本国からの調査団が到

着してからと言う事で」

 

「15キロ、歩いていける距離って言っても、あたし達だけでも行けるんですか?ここは、何も無

い場所なんですよ」

 

 と、心配そうに沙恵が言った。

 

「天候が急激に変わらなければ、多少時間はかかりますが、私達にも大学跡まで辿り着くこと

はできます。食糧もありますし」

 

「随分と、詳しいようだなリアンさん。あんた、政府の研究員なんじゃあないのか?」

 

 再びリアンの言葉を遮って言った一博。

 

「ええ、ですが、極地調査に参加した事もありますので。ただ、この《綱道地方》は初めてになり

ますが」

 

「ああ、そうかい。分かったよ」

 

 リアンがちゃんと答えてきたのが、一博には逆に不自然に映った様だ。彼女から目線を外

し、半ばぶっきらぼうに返事をする。

 

「準備はできましたか?地図は私が確認しますので、すぐにも《綱道大学》へと向かいましょう」

 

 リアンが呼びかけ、一博は、ソリから伸びた縄を、肩に回しなおした。そして、荷物が載せら

れたソリを雪原の上に滑らせ出すのだった。

 

-2ページ-

 

 急激に天候が変わるような事は無かったが、一面が雪の大地では思ったように脚が進まな

いでいた。

 

 《綱道地方》の南部、《綱道大学》のある、元都市郊外一帯は、12月、つまり冬には雪に覆

われ、真っ白な大地と化す。1メートル以上も積もった雪には脚を取られ、思うように先には進

まない。

 

 15キロという道のりも、ナメクジが這って進むような速さで進むしかなかった。

 

 辺り一面が、雪、雪、雪だ。ゆるやかな上り坂は、綱道南部にある都市郊外の山。《綱道大

学》は一度山を登り、更に下山した場所にある。ジェットは山間部に不時着していた。

 

 リアンが本国へと連絡を入れた後、『SVO』と彼女は動き出す。

 

「それで、大統領は何てよ?」

 

 衛星電話をかけ終えたリアンに、一博は尋ねていた。

 

「大統領と直接話したわけではないので。ええ、でも補佐官の方は、大統領と軍にすぐ連絡を

入れ、応援部隊を送ると言っていました」

 

「そう、良かった」

 

 香奈はそう言ったが、形式的なものだ。安心するような素振りではなく、ただ相槌を打っただ

け。

 

「彼らの言っていた、議員については何か言っていたかい?」

 

 更なる質問をしたのは登だ。

 

「それについても追って調査をすると。後は私が何かありましたらすぐに本国へと連絡を入れま

すので、その時でも」

 

「ああ」

 

 一博はそう答え、『タレス公国』への連絡を終えた彼らは雪原を再び進み出した。

 

 

 

 

 

 

 

8:14 A.M.

 

 

 

 

 

 

 

 上り坂でソリを引く一博は、まだ疲労の色を浮かべておらず、頼もしい存在だ。彼の強靭な肉

体があるからこそ、大きな荷物を運んでいける。しかし、彼に任せ切りというわけではなく、他

の仲間達も協力してソリを引っ張った。

 

「進む方向はこっちでいいのかい、リアンさん?」

 

 一博は時々、最も先頭を進んでいるリアンに尋ねた。

 

「ええ、間違いありません。このまま進んでいくと、大きな岩のある場所があります。そこで休憩

しましょう」

 

 そう言われ、香奈や一博は周囲を見回してみた。見えるのは、所々に見える針葉樹と、真っ

白な雪、そして、変わらぬ山々の形だけだ。

 

「信用、できると思うか?」

 

 一博が、リアンには分からないであろう、自分達の言葉で尋ねてきた。

 

「彼女も、あいつらと一緒にいたはずだ。何も知らないふりを装っている事は十分にありうる」

 

 そう言う登の顔は警戒色に染まっている。

 

「あんな人が、あたし達相手に裏切れるって言うの?」

 

 と、沙恵。体を震わせている。

 

 リアンは、さっき一博に銃を突き付けたシークレットサービスの者達に比べれば、遥かに小柄

な体格で、眼鏡をかけて防寒具の下は白衣姿。とてもそんな大胆な事ができるようには思われ

ない。

 

「人は外見によらないってね。何も知らなかったって割には随分と取り乱す様子も見せていな

いし、今じゃあ、自分から率先してあたし達を引っ張っていこうとしている」

 

 香奈も、リアンを疑いの眼で見ていた。

 

「それは、極地調査をした事があるって言っていたし」

 

「疑いの眼で見る事に変わりは無いさ」

 

 すかさず登が言った。

 

「さっきの電話だって、ありゃあ誰にかけていたんだ?大統領の補佐官に報告したと言ってお

きながら、実は違うのかもしれねえ」

 

「じゃあ、彼女をこのまま連れて行っても大丈夫なの?」

 

 と、沙恵。

 

「僕らがしっかりと見ているのならばな。だが重要なのは、あくまで僕らはここへと調査に来た

のであって、科学者である彼女の力が必要と言う事なだけさ」

 

 登が答えた。

 

「でも、もしも科学者なんかじゃあなくって、ただのスパイだったら?」

 

 登の真剣な顔を覗き見て沙恵は尋ねた。

 

「その時は僕らで何とかする。そうするしかないさ」

 

 と、彼は変わらぬ口調のまま言うのだった。

 

 踏みしめる雪が冷たい。この誰も住んでいない雪の大地の中、香奈は自分達を誰かが陥れ

ようとしていると思うと、不安で仕方がなかった。

 

-3ページ-

 

ユリウス帝国首都 ユリウス帝国

 

9:16 A.M.(ユリウス大陸東部時間)

 

 

 

 

 

 

 

 何日経っても、首都の暴動が鎮圧される事は無かった。戒厳令は返って火に油を注ぐような

結果になり、今では軍と市民との間での激突が幾つも起きていた。

 

 日に日に悪くなってゆく情勢。マスコミは閉じ込められた住民と、政府の出した外出禁止令の

存在に疑問を投げ打ち、非難していた。

 

 政府は、一週間もすれば、首都の情勢は鎮圧されるだろうとの見方を強めていたが、どうや

らそれも楽観論に終わるだろうと言う話だった。

 

 

 

 

 

 

 

「陛下。どことなく不穏な動きを感じませんか?」

 

 ここは、『皇帝』の執務室だ。相変わらず執務室で椅子に座っているロバート・フォードに、今

は彼の補佐官、ジェームズ・マクエムが話しかけていた。

 

「不穏な、動きとは」

 

 ロバートは別段動じるような素振りも見せず、ただ尋ねた。

 

「あなたの政党の動きにです。思った通り、次々とあなた側から離れていきます。中には、あの

ブラウンの言う事の方が正しいと思う連中もいるくらいで。これからのあなたの立場が懸念され

ます」

 

 マクエムは、ロバートに対し、恭しくそう言った。

 

「それは、不穏な動きとは言えない。前から承知していた事だ」

 

 当然であるかのように言ったロバート。そんな彼に対し、マクエムは咳払いをしながら話を続

けた。

 

「怪しいと思われるのは、『ユリウス帝国軍』内部の事です。どうも軍の動きが、報告書と食い

違っている所があるようで」

 

「具体的には?」

 

 勘定の篭ってない声のロバート。

 

「報告されていない行動が見受けられます。『ユリウス帝国軍』は、国の防備と首都の鎮圧が

最優先命令として発令されていますが、オメガ部隊の一部が、作戦本部などに姿を現している

と報告されています」

 

「我が国の軍を直接動かしているのは、アサカ国防長官だ。彼女ならば、何か知っているだろ

う」

 

 アサカ国防長官のする事ならば信用できる。そのような態度を取る『皇帝』に、マクエム補佐

官は、ある話を持ち出した。

 

「どうも、今、軍内部では、あなた側と、国防長官側、二つの派閥のようなものが存在するよう

なのです。これ以上の有事が起った際、どちら側に着くか、そう言った話が軍の内部で起って

います」

 

「何だと?」

 

 ここに来て初めて、ロバートはマクエムと目線を合わせた。

 

「アサカ国防長官が軍を使い、この有事に何かをしでかすのではないのかという、噂が政権内

で立っています」

 

「軍の最高責任者は、国防長官でなく、この私だ。私の許可なしで軍を動かすことはできない。

法律でそうなっている。くだらん噂だ」

 

 強い口調でロバートは制す。

 

「私の申し上げた不穏な動きとは、軍の不穏な動きです。我が国の要とも言える軍が、水面下

でざわついております。高官達の中には、あなたの命令を無視したような行動を取る者も多く」

 

「そう言った者達は、厳重に処罰されるべきだろう」

 

 ロバートは相手の言葉を遮るようにして言った。

 

 だがマクエムは、さらにそんな『皇帝』を制すかのように、構わず話を続けてくるのだった。

 

「つまり、こういう事です。今回の一連の事件の後、軍が一人歩きを始めていると言う事です」

 

 マクエムの言葉で少しの間。その間にロバートは思考を巡らせているようだ。

 

 やがてロバートは口を開いた。

 

「一人歩き。私の意思決定を超えた存在になりつつある、という事か。軍を直接動かしている

のは、アサカ国防長官。彼女の影響力の方が強くなっているという事か、なるほどな。

 

 今、首都は戒厳令下だ。国民よりも政府の方が力が強い。誰かが何か、何かをしでかすと言

ったら、今が良い時期かもしれん」

 

 ロバートは呟く。彼は、浅香国防長官を名指しで指摘はしなかった。しかし、それは政権内に

謀反を企む者がいる事を示唆していた。

 

 それに感づいたマクエムは、すでに考えてあった言葉を使った。

 

「万が一の事ですが、『皇帝』陛下。最近の国防長官の動きは、どう見ても出しゃばり過ぎてい

る。幾ら脅威に対しての措置とは言え、軍をまるで自分のものであるかのように動かしている

姿は、眼に余りませんか?」

 

 再び思考するロバート。

 

「彼女は立派な人物だ。軍を動かすだけの器量と、国を守る事のできる責任感を持つ人物。そ

れは分かっている。だが、彼女は時として、自分の責任をも省みない行動に出る事がある」

 

 彼から出てきた言葉は、独り言のような響きだった。

 

「『皇帝』陛下。お言葉ですが、あなたはアサカ国防長官を買い被り過ぎです。いくら優秀とはい

え、彼女はまだ39歳で、経験に乏しい。このような有事の際に、全てを見極める事は難しいと

思われます。

 

 全て、と言うのは、軍全体という意味ではありません。この国を取り巻いている全て、ですよ。

国防長官が勝手に軍を動かす事になれば、それはあなたに対しての謀反です。そして、それ

がどう言った事を意味するのか、あなたにはお分かりのはずです。

 

「覚えておこう。アサカ国防長官に眼を見張らせておく」

 

 再び感情の篭っていないロバートの声。それは、彼が職務上の命令を下す時の、典型的な

サインだった。

 

「承知しました」

 

 その言葉を待っていたと言いたげなマクエムだった。

 

-4ページ-

 

国防総省 ユリウス帝国

 

 

 

 

 

 

 

 自らのオフィスにいる浅香舞国防長官は、ある人物へと電話連絡を取ろうとしていた。但し、

ただ電話をかけるのでは危険すぎる。彼女は信頼できるオペレーターに、安全な回線を用意

するように命じ、それが繋がるのを待っていた。

 

 彼女が、机の上を指で叩きながら待っていると、やがてスピーカーから連絡が入る。

 

「できました、安全な回線で通話ができます」

 

 若い女の声。

 

「どうも」

 

 舞はそれだけ言うと、同じく机の上に置かれていた電話を手に取り、締め切った部屋。広々

とした重厚なデザインの長官室で、舞はある番号をプッシュする。

 

 テレビ電話。舞の机の最も見やすい位置の空間に画面が現れ、通話したい相手と、あたか

も直接話すかのような感覚になる。

 

 舞の目の前の画面に、金髪で白い肌の女が現れる。それは、マーキュリー・グリーン将軍だ

った。

 

「こんにちはマーキュリー。折り入った話があるので連絡しました」

 

「どうも、アサカ国防長官」

 

 マーキュリーは、不審げに、画面の中の舞の姿を思ったようだ。

 

 舞は、以前とはさして変わっていないかのようにも見える。だが、その表情には以前にも増し

て危機感が現れ、一層怪訝で無表情になっていた。

 

「これから、ミッシェル・ロックハート将軍もこちらに同席させます。彼女と連絡が繋がってから

話をしましょう」

 

「はい」

 

 舞はそのように言い、彼女とマーキュリーは、もう一人の同席者が現れるまでほんの数秒だ

け待った。

 

 やがて、マーキュリーの現れている画面のすぐ隣にもう一つの画面が現れ、そこに赤毛の女

が姿を見せた。

 

「こんにちは、国防長官」

 

 電話に現れた女、ミッシェル・ロックハート将軍も、舞の怪訝な表情を不審に思ったようだ。

 

 だが舞は、構わず話を切り出した。

 

「あなた方に連絡したのは他でもありません。非常に重要な話で連絡を入れたのです。これか

ら話す事は、決して外部に漏らす事のできない話だと思ってください。良いですか?」

 

「そのような事は日常的にありますが、分かりました。国防長官からの命令です。しかと受け止

めましょう」

 

「私の方も承知しました」

 

 マーキュリーとミッシェルの二人ははっきりと言った。

 

「では重大な話をしましょう。心して聞きなさい。

 

 私は、我が国の『皇帝』陛下が、人道に反する犯罪を犯した、確かな証拠を手元に持ってい

ます。これを利用し、私は彼の政権に対し、総辞職を求めようかと思っています」

 

 舞のその言葉が、電話先の二人の頭の中に意味として届くまで、ほんの少し時間がかかっ

た。

 

「そのような話を我々にするという事はもしかして」

 

 そのように言ったのはマーキュリーで、

 

「はい。事は穏便に進めたいのですが、『皇帝』がこのような話を、例え証拠を突き付けられた

としても、簡単に飲み込むとは思いません。ですから、時が来たらあなた方にお願いしたいの

です」

 

 舞は、しっかりとマーキュリーとミッシェルの方を見て話した。彼女の顔は一層険しい。

 

 しかし話す言葉は、はっきりとした発音で正確に話されていた。

 

「国防長官。それがどういった事を意味するのかお分かりでしょうね?」

 

 ミッシェルは、再度舞に確認しようとして来る。だが、舞の返事は変わる事はなかった。

 

「ええそうです。もしもの時は、我々は現政権を攻撃します。なぜここまでするのか、理由はお

分かりでしょうね?『ゼロ』の発見。そして抹殺の為です」

 

「国防長官。それは、つまりあなたはクーデターを起こすという事になります。

 

 ですが、そんな事をなさっても、『ゼロ』を発見する事ができるとは限らないのではないのでし

ょうか?」

 

 マーキュリーが、その冷たい眼で舞を見てくる。

 

「私が入手した証拠は、我々の国の最高権力者である『皇帝』が、『ゼロ』発見を妨害している

可能性を示唆するものです」

 

「何ですって!」

 

「そんな事が!」

 

 電話先の若い軍の高官二人は、相次いで声を上げた。

 

「そう、ですから、我々はこの国のみならず、全世界を守る為にも、『皇帝』陛下に対して攻撃を

行わなければなりません。ですが、我が軍が政権を掌握しているのも、『ゼロ』を発見し、始末

するまで、そう考えております」

 

 舞は慌てる二人を抑える為にも、冷静な口調と表情で話した。

 

「し、しかし国防長官、クーデターなどという大胆な行為を我が国が行えば、国民が混乱しま

す。ただでさえ今、首都において反戦デモが過熱化しているというのに、ここで軍を動かし、政

府を攻撃すれば、国が保っていられるかどうか分かりません」

 

 と、マーキュリー。普段、大胆で冷徹な判断を下す彼女も、舞の申し出には随分と慎重だっ

た。

 

「今は、そうするしか無いのですよ、マーキュリー。いえいえ、国民も今の政府が倒れる事を望

んでいる。そうじゃあありませんか?

 

 しかし、彼らの行動はデモや破壊行為であって、それは訴えに過ぎません。我々軍が動け

ば、政府は必ず揺らぎますし、倒す事だって可能です。

 

 無謀な行為だとは思えませんね。今、首都に戒厳令を敷き、実際に掌握しているのは、他の

誰でもない、『ユリウス帝国軍』なのですから、この時期を狙って行動するのです」

 

 舞が話してしまうと、そこに少しの間が開いた。

 

 マーキュリーとミッシェルの二人がいれば、『ユリウス帝国軍』を大きく動かす事ができる。国

防長官の命令があればなおさらで、軍全体に命令を行き通らせる事も可能だ。

 

 しかし、クーデターともなると、軍の高官二人であっても、そう簡単に決断を下す事はできない

ようだった。

 

「国防長官、『皇帝』陛下は、本当に、『ゼロ』の捜索を妨害しているのですか?証拠を持ってい

らっしゃるそうですが?」

 

 ミッシェルは、疑うというよりも確認するかのように舞に尋ねて来る。

 

「ええ、間違いありません。あまりに重大な話ですので、電話で言うわけにはいきませんが」

 

「ですが、長官。あなたの言う事を疑うつもりはございませんが、証拠をこの目で見ない限り

は、そのように大胆な行動に出るわけには行きません」

 

 マーキュリーは、簡単には動かなかった。クーデターが失敗すれば、自分が国家反逆罪に問

われる危険性がある。

 

「良いでしょう、マーキュリー。ミッシェル。お二人には、すぐにもこの首都へと来て欲しいので

す。それから、行動の段取りを決めましょう」

 

 と、舞。

 

「『皇帝』陛下が、『ゼロ』の捜索を妨害しているとならば、それは重大な事ですが、武力行使に

出るしか無いのですか? 国防長官?」

 

 ミッシェルが心配そうに尋ねてきた。

 

「ええ。陛下の不正を暴き、彼を失脚させる事はできますが、そこを突いて、野党議員のブラウ

ンがのし上がってくるのは目に見えています。彼は『ゼロ』について何も知らない。そんな者に、

この状況を乗り越えるのは不可能です。

 

しかし、忘れないで下さい。私は、『ユリウス帝国』の覇権が欲しいのではなく、この危機を乗り

越えたいだけなのだと、正にそれだけです」

 

 二人の軍の高官を見つめ、舞は、電話越しに決意を露にした。電話先の二人は、舞の表情

からその決意を読み取れたのだろう。

 

「了解しました」

 

 二人からそう返事が返って来るまで、長い時間はかからなかった。

 

「ですが、国防長官。これは、正に歴史的な事件になりそうですね。我が国ほどの規模の国家

でクーデターを起こすなど、あなたの行動は、後世の歴史に多大な影響を及ぼす事になるかも

しれません」

 

 マーキュリーがそう言って来た。だが、例えそうであっても舞の意志が揺らぐような事は無い。

 

「歴史に影響を及ぼす事ならば、すでに幾つも起こっています。『NK』の未来は大きく変えられ

てしまいました。犠牲になった1000万という人々の未来もです。それが、たった一つの『ゼロ』

という存在によって引き起こされたのですから。もはや手段を選んではいられません」

 

「全ては、『ゼロ』の抹殺の為、ですか」

 

 そう呟いたのはミッシェルだ。

 

「ええ、その通りです。早速ですが、お二人にはすぐにでも首都へと来て欲しいのです。あなた

方の行動が、この計画を左右すると言っても過言では無いでしょう。あなた方が早ければ早い

ほど、計画は早期に実行できます」

 

「では、私はすぐにそちらに向かいたいと思います」

 

 マーキュリーが言った。

 

「私も、そうしたいと思います」

 

 更にミッシェルが続いた。

 

「お二人の理解を感謝します。ですが、これだけは忘れないで下さい。絶対に外部にこの事を

漏らさないようにと。こんな話をあなた達にしたのも、あなた方を信頼しているからこそなので

す」

 

「それは、もう。決して外部には漏らしません。首都へ向かうのも内密に行動したいと思います」

 

 マーキュリーが言った。

 

「了解しました」

 

 二人の返事を聞くと、舞はひとまず安心した。彼女は手元にあるファイルに指を載せ、マーキ

ュリーとミッシェルの二人を見据える。今では彼女達は、計画を聞いた直後とは違い、迷いや

疑いの眼を向けて来ていない。

 

 舞が指を載せているファイル。それこそまさに、『ユリウス帝国』の未来の運命を動かした、

『皇帝』の行った行為に関して書かれたファイルだった。

 

-5ページ-

 

紅来国 綱道地方

 

8:14 P.M.(紅来国現地時間)

 

 

 

 

 

 

 

「今日、動けるのはここまで、だな」

 

 疲れ切った声で一博は言い、ずっと引っ張ってきたソリの縄を緩めた。手や肩は痺れ、体は

冷え切ってしまっている。雪原の中を休み休み進む事十数時間。『SVO』とリアンの一行は、

未だに目的地に辿り着けないでいた。

 

 一面が雪の大地。それは何時間歩いても変わらないような光景だった。日が沈めば、全く灯

りのない世界になる。曇りの日では星明りなども無い。

 

 雪の大地は、その冷え込みと、脚を取る積もった雪で、彼ら一行の歩く脚を遅めていた。しか

し、まるで倒れるかのように雪原にへたり込みつつも、香奈はまだ先を急ぎたい気持ちで一杯

だった。

 

「リアンさん。ここは今、どこだ? 僕らはどのくらい歩いて来たんだ?」

 

 登がリアンを尋ねている。彼の口調は変わらなかったが、彼も一博と交代で重いソリを引き

ずってきた。相当に疲れているはずだ。

 

 絶えず、電子パットを確認していたリアンは、登の質問に対し、すぐに答えようとした。

 

「今、《綱道大学》から、約3キロの地点にいます。明日、天候が大きく崩れなければ、目的地

に着きますね」

 

「ねえ、後、たった3キロなんでしょ? このまま、歩いて行っちゃおうよ。こんな雪が積もってい

るんだから、屋根のある所で寝たいよ」

 

 ずっと体を震わせていた沙恵が訴えた。

 

「できればそうしたいんですが。誰もいない土地での夜の行動は危険なんです。どこに何があ

るか分かりませんし、いくら衛星で現在位置を確認して行っても、暗闇では迷う危険があるんで

す。狼のような生き物も潜んでいますし」

 

 と、リアン。

 

 一行がそれぞれ持っている懐中電灯では、雪原の夜を照らし出すにはあまりに心細いもの

だった。誰もいない土地での暗闇は、都市の闇よりも遥かに暗いものだ。

 

「焦っても仕方が無い。明日には着けるんだ」

 

 と、登はずっと寒そうにしていた沙恵に言った。彼女はただ、こくりと頷く。

 

「よし、じゃあ今日はここにキャンプだな。テントを張ろう」

 

 一博は早速、ソリの中に積んであるテントを引っ張り出した。

 

「何かあるとまずい。交代で見張りにつこう」

 

 そう言うと、登はリアンの方を向いた。

 

「リアンさん。あなたにも頼めるか?」

 

 登は、相手の表情を伺いつつ尋ねる。

 

「え、ええ。もちろんです」

 

 リアンの返事はすぐに返ってきた。

 

 

 

 

 

 

 

 テントを張り、『SVO』とリアンを含めた一行は、雪原の移動で疲れきった体を休めた。交代

で見張りに付くと決めた彼らは、2時間交代でテントの外の見張りを立て、残りの者達はテント

の中で休息、という形になった。

 

 まず最初に登が見張りに立ち、残りの者達はテントの中で休む。テントは見晴らしの良い場

所に張られ、何かがどこから来てもすぐに分かるようになっていた。

 

 誰か、人が近付いてくるわけでもない。しかし、この土地は狼などが生息し、彼らは雪の中で

獲物を狙っているはずだった。

 

 登の番は無事に終わり、次に見張りになったのはリアンだった。

 

 リアンは、テントの外に立ち、ただ一時間ほど周囲に眼を光らせていた。他の『SVO』の4人

は眠っている。ただ一人だけで起きている。

 

 一人だけになった時の彼女は、『SVO』のメンバー達の前で振舞っていた時と顔が違った。

まだ若い、愛想を振りまいている女科学者としての姿ではない。顔からは表情が消え失せ、眼

は幾分か細まる。

 

 氷のような表情の目つきは鋭かった。そこには科学者のような面持ちはまるで無い。この雪

原のどこかに潜む狼のように、彼女の顔は鋭かった。

 

 彼女はその視線のまま、背後のテントを少しだけ開き、中の様子を伺った。

 

 『SVO』の4人は、ずっと歩いて来た事で疲れたのだろう。ぐっすりと寝入っている。今起きて

いるのは彼女だけだった。

 

 そう、自分だけ。リアンはこの機会を待っていた。

 

 彼女はずっと手に持っていた携帯用端末の画面を切り替えた。そして、端子に通信機をセッ

トする。

 

 再び『SVO』の4人が寝入っている事を確認するリアン。今、彼らにバレるとまずい。

 

 携帯端末の表示に、通信可能と現れる。するとリアンはテントの前から走り出し、近くにあっ

た針葉樹の影に立った。テントからは大分距離がある。ここならば話をしてもテントの中までは

聞えないだろう。

 

 やがてリアンが耳の中に差し込んだ、小さな通信機から、音が漏れて来る。

 

「報告が遅れています。いかがなさいましたか?」

 

 若い女の声が聞えてきた。

 

「あいつら、なかなか寝付かなかったのよ。すぐに議員に繋いで」

 

「只今」

 

 携帯端末と衛星を通じ、リアンは『タレス公国』の《プロタゴラス》への通話をしていた。『SV

O』に隠れて行う必要がある。

 

 彼らには、通信機の調子が悪く、『タレス公国』との通信ができないと言っておいた。だが実

際はいつでも通信する事ができたのだ。

 

 リアンはそれを彼らに教えなかっただけ。今は、『SVO』と本国の間に連絡が取れてしまって

はまずい。

 

(どうした、リアン?)

 

 しわがれた初老の男の声が、通信機の先から聞えてきていた。

 

「事は難しくなっています。あなたが送り込んだ、他のシークレットサービスの者は皆、ジェット

の中で倒されてしまいましたよ。本国に引き返し、彼らを人質に取るという作戦はもはやできま

せん」

 

 テントの方を伺ったまま、リアンは言った。

 

(ああ、そのようだな。私もこちらで、大統領達が彼らと連絡が取れないので、応援部隊を要請

したとの情報を得たよ)

 

「応援、部隊、ですか?」

 

 リアンは思わず声を漏らした。

 

(明日にでも、そちらには『ゼロ』調査団の増援部隊が到着する。軍の特殊部隊も引き連れて、

だ)

 

「我々は、まだ《綱道大学》には到着していません。まだここから距離があります。現在位置

は、送ります衛星写真を、通信係に渡してください。明日には大学へと辿り着けますが」

 

(ああ、分かった。君は、大丈夫なのか? あのシークレットサービス達の正体がバレたのなら

ば、君は)

 

「当初の作戦通り、私は調査団の一人と偽っております。ストア達にも、私への行動には一芝

居打ってもらいました」

 

(そうか、だが、気をつけろよ。大統領はまだ、君がその場にいるという事を知らない。もし、増

援部隊が到着したら、君の正体がバレる)

 

「私の事などより、あなたは、大丈夫なのですか?」

 

(私、私か? まだ、君達を送り込んだのが私だという事は、誰にもバレておらんよ。だから、

大丈夫だ)

 

「必ずや、大統領とあの『SVO』が手に入れたいものを、彼らよりも先に手に入れ、あなたにお

届けすると約束します」

 

(だがリアンよ。忘れるな。君の任務は、大統領と対等に立てる立場の情報の入手、だけでは

なく、私の関与を裏付ける証拠をも消していく、という事だ)

 

「承知しています」

 

 リアンははっきりとした口調で答えた。

 

(よし。この任務を成功させれば、我が国と『ユリウス帝国』との関係は、ひとまず落ち着く。こ

の国の平和の為に、勤めてくれ)

 

「はい、分かりました」

 

 ものの3分ほどの会話。通話は相手側から切れた。

 

 リアンは通話が途切れた事を確認し、すぐに通信機を耳から取り外した。そして、今度はゆっ

くりとした足取りで、『SVO』の四人が寝ているテントの元まで戻るのだった。

 

-6ページ-

 

12月4日

 

7:22 A.M.

 

 

 

 

 

 

 

 前日の曇り空とはうって変わり、翌日の《綱道地方》は、雲が全て消し飛んだような快晴だっ

た。テントに差し込んでくる強い日光の中で眼を覚ます『SVO』。彼らは早々に起き出してい

た。

 

「昨日は、何事も無かったようだな」

 

 眠い眼をしながら、テントから顔を出した沙恵。そんな彼女に、見張り番だった一博は呟いて

いた。

 

 外は、日光が雪に激しく反射し、それだけでも眼を開けていられないほどの光。強い日差しだ

った。

 

「これだけの快晴ならば、今日中に《綱道大学》には着きそうだな、リアンさん」

 

「ええ、そうですね」

 

 同じようにテントから起き出して来たリアンが言った。彼女は昨日は寝付けなかったのか、あ

まり気分の良さそうな声ではなかった。

 

「香奈、眠れた?」

 

 と、沙恵が奥の方で眠っていた香奈に尋ねた。

 

「ううん、全然眠れない」

 

 彼女ははっきりと眼を開いたままだった。香奈は、思うように熟睡できなかったのではなく、全

く持って寝る事ができなかったかのよう。

 

「確かに、寒かったからねえ。でも、あたしは疲れていたからさ、寒くても熟睡だよ」

 

 テントの外で立ち上がった彼女は言った。

 

「さーて、皆さん。急いでテントを畳んで出発しましょう。天候が変わらない内に」

 

 突然、リアンは皆を遮って言い出した。寝付けなかったであろう体を奮い立たせながら、彼女

は自分だけ行動を始めようとしている。

 

「ああ、分かっているが、そんなに張り切りなさんなって」

 

 そんなリアンはなだめるかのように言う一博。

 

「香奈? どうしたの?」

 

 テントの中の寝袋に入ったまま、ぴくりとも動こうとしない香奈に、沙恵は気に掛かったように

声をかける。

 

「ううん。何でもない」

 

 香奈は、沙恵の方は見ずに、それだけ答えるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 テントを畳み終わり、簡単な食事を済ませると、『SVO』の四人とリアンは、昨日と同じように

雪原の上を進み出した。

 

 リアンが最も先頭に立ち、衛星端末を使い、衛星写真をチェックしながら先へと進む。《綱道

大学》への一つの峠を越えていた彼らにとって、そこまでの6キロの道のりは、それほどの重

労働にはならなかった。

 

「おい、あれじゃあないのか?」

 

 一つの雪で覆われた山を降りて行く時、視界に入ってきた建物を登は指差し、皆に呼びかけ

た。

 

「そうです、あれです。あれが《綱道大学》です」

 

 リアンが衛星写真を確認し、答えた。

 

 彼ら一行の視界に入って来たのは、《綱道大学》の建物郡とその敷地。雪に覆われてしまっ

ていては、そのどこまでが敷地なのかは判別できないが、大学の校舎は山を降りてすぐの場

所にあった。

 

 5、6階建ての建物が2、3ほど建っている。その他、背の低い建物がそれを取り囲むように

幾つか。どの建物も、人が住んでいるような気配は無く、全くの無人だ。それもおそらく何十年

も前に打ち捨てられている。

 

 山を下った一行は、その大学の敷地跡へと脚を踏み込んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

「ようやく着いたようだが、こう、寂れた風景を見ちゃあ、あんまり喜べる気分じゃあないな」

 

 ソリを引き続け、廃墟となった建物に接近する。一博は建物郡を見上げて呟いた。

 

「『紅来国』の国中が、どこもこうなってしまったそうですよ。3次大戦の破壊と混乱で、ひどく傷

つけられた国民は、まるでかつての悲劇を忘れたいかのように、新しい自分達の国、『NK』へ

と移り住んでいったそうです」

 

 リアンが、廃墟となった建物からかつての面影を読み取ろうとしている四人に言った。

 

 『SVO』にとって、かつての『紅来国』で起きた悲劇は、知識として知った事だ。歴史を学ぶよ

うに、あくまで知識。彼らは『紅来国』の住人だったはずだが、その記憶は消され、3次大戦で

の出来事は経験していたとしても、覚えてはいない。

 

 もともとこの国の住人だったと言われても、全くその実感が彼らに沸いてこないのも、そのせ

いだ。

 

 元々は学生で賑わっていたのだろう、門をくぐり、敷地内の遊歩道を歩く。雪に覆われた道。

その両側には、これも雪が降り積もった木が立ち、そして、道はずっと正面の建物へと伸びて

行っている。

 

 大学の建物は、少なくとも60年は建て替えられていない。その間、雪や雨風にさらされて来

ている。窓には埃が覆いかぶさり、割れているものもあった。コンクリートの壁はひび割れてし

まっている。

 

「おれ達が目指すのは、近藤大次郎の研究室だ。それは、どこにあるのか?」

 

 一博は、建物の有様を見回しながら言った。すぐ様、彼の背後で、リアンが携帯端末をチェッ

クする。

 

「ええと、ですね。今、大学の昔の地図を出しました。近藤大次郎は、生理学研究所という所に

研究室を構えていたそうです。その場所は、B棟の更に向こう側ですから。正面の建物の右側

の建物の、さらに奥になりますね」

 

 リアンは、一行が歩いている遊歩道の正面にある、最もこの敷地で高い建物を指し示した。

 

「なるほど、あそこか」

 

 そう呟き、一博は再びソリを引き出した。

 

 中央の建物の脇をかすめ、遊歩道を外れて行き、敷地の反対側へと向かって行く。近藤大

次郎の研究室があるという、生理学研究所は、大学の敷地の北側の隅に建っていた。

 

 3階建ての、高さよりもワンフロアの方が広い建物。研究所らしい佇まいだ。飾り気も窓も少

なく、外の雪に埋もれていた看板には、生理学研究所とだけ書かれている。

 

「コンドウ・ダイジロウの研究室は、一階にあります」

 

 建物を前にしたリアンが、再び告げた。

 

「そこに、おれ達の探しているものがあればいいけどな」

 

「ソリはどうする?」

 

 ずっとソリを引き続けてきた一博に、登が尋ねた。

 

「中までは引っ張っていけないから、とりあえずはここに置いて行こう。後で必要なものだけ取り

に来ればいいさ」

 

 そう一博が言うと、リアンはソリに積まれていたものから、何かを探し始めた。それは小型の

ビデオカメラだった。

 

「記録をしておく為です。この場所にどんな手がかりがあるか、分かりませんからね」

 

 不審げにその行為を見てきた『SVO』に、リアンは答える。

 

「鍵が、かかっているようだ」

 

 そう呟くのが早いか、一博はドアノブを引っ張っただけで、その鍵を破壊してしまう。

 

 一博はその行動が当然であるかのように、研究所の扉を開くのだった。

 

 ひんやりとした空気が、内部へと流れ込んでゆく。灯りが消され、何十年も経っているであろ

う研究所。ひどくかび臭く、更には埃っぽい空気が、溢れるように内部から漏れ出してきた。

 

「凄い。何十年もここは誰も訪れていないようですね」

 

 一行は、研究所へと足を踏み入れた。

 

 中はがらんとしていた。人の気配だけでなく、ものの気配も無い。人々がここを移って行った

際、あらゆる物資さえも一緒に撤去してしまったようだ。研究所入り口から廊下までには、ほと

んど何も置かれていなかった。非常扉の案内さえもその灯りが消え失せている。

 

 『SVO』の4人、そしてリアンはそれぞれが懐中電灯を持ち、中の様子を照らし出した。研究

所だけあって、北向きの建物。外の日差しは強くとも、周りに立つ大きな建物郡のせいで、ここ

は日陰になる。

 

 埃の被った廊下に足跡が残るほど。照明に照らされた空気は大量の埃が浮かんで見えるほ

どだった。その光景に思わず皆が顔をしかめる。

 

「近藤大次郎の部屋は、どの辺りなんだ?」

 

 気を取り直し、登はリアンに尋ねた。

 

「1階の最も奥の方の部屋です15号室」

 

 登は埃っぽい空気などに動じず、廊下を進み出した。静かだった。彼らの進む足音だけが、

研究所の廊下に響き渡る。

 

 開け放たれた扉がある。他の研究室の中には何も無い。机も機材も何もかもが取り払わ

れ、がらんとした空間だけがそこに広がっていた。

 

 一直線に伸びる廊下を5人は進む。そしてやがて、登の懐中電灯が、一つの扉の部屋番号

を照らし出した。

 

 115とそこには書かれていた。

 

「1階の15号室。ここに違いない」

 

 その扉には研究室名も何も書かれていなかった。だが、登はドアノブに手をかけそのスライド

式扉を横へと開く。

 

 広い空間がそこには現れた。中の空気は一層埃を含んでいて、がらんとした空間は異様に

広く感じられる。

 

 しかし不思議だった。この部屋には何も入れられていない本棚だけが並んでいる。その本棚

さえも、本は入れられていない。だから本棚の一つ一つの空間さえも、部屋の空洞を形成して

いるようだった。

 

「ここには、何も無さそうだな」

 

 次々と室内に入ってくる。一博は辺りの様子を見回しながら言っていた。外からの灯りが薄っ

すらとだけ差し込んでくる部屋。昼だというのに薄暗かった。

 

「でも、こうも本棚だけ並んでいると不気味よね」

 

 と、香奈が部屋の光景を見て言った。

 

「ああ、不気味というよりは不自然さ。どうもおかしい」

 

 そう言って登は、本棚の一つ一つを探り出した。

 

「ねえ、何、この変な臭いは?ただかび臭いだけじゃあないよ。この部屋、どこかから変な匂い

が漂ってきてる」

 

 沙恵が皆に訴えた。

 

「僕らは、目的の場所に辿り着いた。だが、どうもこの部屋がそうではないような気がする。そ

れは部屋を間違えたというわけじゃあなくて、まだこの部屋に何かがありそうな気がしてならな

い。リアンさん。図面を見た限りでは、この建物に構造的に不自然な点は無いかな?」

 

 リアンは登に言われ、すぐさま携帯端末に眼を落とした。彼女はそこに載せられている図面

を操作し、拡大した。

 

「いいえ、図面を見た限りでは何も」

 

「だったら、こっち側の壁は、少し手前に来過ぎていやしないかい? 実際は部屋から入って右

側。つまり本棚の並んでいる側の壁は、もっと奥に無けりゃあならないんだ」

 

 そう言って、登は本棚の一つをどかし出した。

 

「その本棚の向こう側には、何かあるって事だな」

 

 一博に答えるかのように、登がどかした本棚の先には空間が現れた。

 

 彼の照らす懐中電灯によって明らかにされる空間。大量の埃と共に現れるそこには、一つの

鉄扉が現れた。

 

「番号認証とカードキーが必要だ。かなり頑丈な扉だ。解除する事ができればいいが」

 

「ああ、その扉でしたら、何か解除できるものがあったはずです」

 

 そう言ってリアンは、懐中電灯を下に置き、防寒着のポケットから、カード付きのアダプターを

取り出していた。

 

 彼女はそのカード部分をスロットへと差し込んだ。

 

「近藤大次郎の部屋に、これだけ頑丈な扉だ。何かが無いはずがない」

 

 一博は呟く。『SVO』の4人は、その扉が開かれるのをじっと待った。

 

 リアンが差し込んだアダプターが、軽い電子音を立てる。そして扉の方からもその鍵が外され

る音が聞こえてきた。

 

「所詮は大戦前の扉ですからね。簡単に鍵ぐらい外すことはできますよ」

 

 鉄扉は一博が開ける。とても重い扉で、大の男の力に丁度良いくらいのもの。

 

 一博が扉を開いたその先には、照明の無い空間。更には地下へと階段が続いていた。

 

「これは、何かありそうだ」

 

 登が呟く。彼らは近藤大次郎の研究室に隠されていた扉の奥へと、脚を踏み入れていった。

 

 相変わらずの埃が漂う空間。暗さは増し、もはや外からの光は全く差し込まない。階段は地

下階へと伸び、その深さはかなり深い。

 

「何だろう、この臭い」

 

 沙恵が再び言った。先程から、強い臭いが漂って来ている。

 

「この階段の先の方から漂って来ているな。だが、この臭いは」

 

 と、登が呟く。彼が最も先頭となって階段を降りていた。

 

「ここで階段は終わっている」

 

 登は周囲の様子を懐中電灯で照らし回した。

 

 階段を降り切った先は広い空間になっていた。そこには戸棚が幾つも備え付けられ、更に

は、大型の機材なども設置されている。

 

 登は更に先へと進み、順々に内部の様子を照らして行った。

 

「この外はあれだけがらんとしていたのに、なぜここだけ」

 

 リアンが呟いた。

 

「さあ、さっぱり分からない。しかも、ここにはもっと最近まで誰かがいたんじゃあないかって感

じがする」

 

 と、登。

 

「いたって、誰が?」

 

 地下室の奥行きはかなりあった。登はその突き当たり近くまで歩いて行った。彼はそこでふと

足を止める。

 

「どうした、登?」

 

 一博が不審げに尋ねた。

 

「変な臭いがするって言っていただろ? その臭いの原因は、これかもしれない。いや、彼と言

った方がいいかな?」

 

 登が懐中電灯で照らし出したものがあった。

 

 それは、彼の胸の高さまで達するもので、少し見ただけでは、この暗い空間では何があるか

分からない。

 

 だが、登のすぐ側まで近寄り、その、ものを間近で見た一博は、思わず声を上げた。

 

「こ、こりゃあ!まさか!」

 

「一体、どうしたの?」

 

 と、香奈が尋ねる。

 

「人間の死体だ!しかもこの死体、ミイラ化しているぜ!」

 

 声を上げて答える一博。

 

「ええ?うそ!じゃあこの臭いは!」

 

「ああ、この死体の臭いだよ。だけど、普通の環境だったらもっと腐っているはず。この部屋は

密閉されていた。しかも、まるで冷蔵庫のような寒さだ。保存状態が利いていたようだな」

 

 死体をまじまじと見た、登がそう言った。

 

「この死体。死亡してから相当経っていますね。30年、40年、もっとでしょうか? しかも、死ん

だときは、大分老人だったようですね。そうすると、死因は、多分老衰だったんじゃあ」

 

 今度はリアンが死体に近付いて観察した。

 

「この死体の顔、どっかで見た事ある」

 

 そう一博が呟いた。

 

 すると、リアンははっとしたように手を叩き、持っていた電子パットの画面を切り替え始める。

 

「もしかして、その死体の顔は」

 

 そして彼女はある画面で手を止めた。

 

「近藤、大次郎か。おれ達の研究をしたって言う」

 

 一博は死体と、画面の顔写真を見比べ、疑うことも無くそう言った。

 

「死体の正体は、ここまでミイラ化していちゃあ分からないし、名札も付いていない。だが、白衣

を着ているし、顔立ちもそんな感じだ。

 

 さっき僕は、この部屋は60年前よりも、ずっと最近まで使っていた形跡があるって言った。ど

うやら近藤大次郎は、死ぬまでここで研究を続けていたらしい」

 

-7ページ-

 

ユリウス帝国首都 防衛対策本部

 

11月30日 11:44 P.M.(『ユリウス帝国』東部時間)

 

『SVO』の一行が、《綱道大学》に到着する前日の夜

 

 

 

 

 

 

 

 舞は、十数人の将軍達に囲まれて座っていた。大柄な体の者や、知的なエリートの顔立ちの

中に混じって、マーキュリーとミッシェル、二人の将軍もその中にいた。

 

 ここは、国防総省の防衛対策本部。しかもその中枢に位置する場所。本来ならば、『ゼロ』の

緊急対策が行われる場所だった。だが今はそうではない。

 

 舞や、将軍達の囲むテーブルの上には、電子の立体画面で、大きく《ユリウスユリウス帝国

首都》の地図が広げられていた。

 

 その前に堂々と立つ、マーキュリー・グリーン将軍。彼女は地図の操作盤の前に立ち、直接

それを操作している。

 

「首都は現在、戒厳令下にあります。我々軍が完全に掌握していると言えるでしょう。ですか

ら、軍事作戦を展開するのは不可能ではありません。軍は最初に、《セントラルタワービル》を

包囲し、政府の機能を麻痺させます」

 

 と、そこでマーキュリーの言葉を遮る一つの声。

 

「グリーン将軍。それが何を意味しているのか分かるのか?」

 

 知的な顔の男がそう言った。軍人というよりも、大企業の管理職に就いている方が似合って

いるだろう。

 

「ええもちろん。あなた方もそれを承知で、この場所に集まられたのでしょう?」

 

 マーキュリーは、まるで動じもせず、平然と答えるのだった。

 

「国防長官、それは、つまり」

 

 一人がそう言った。すると、国防長官、浅香舞は皆の前に立ち上がる。

 

「我々は、この国の政府に対して軍事攻撃を行います。理由はただ一つ、この国の現在の状

況では、世界を恐怖に陥れているあの存在を阻止する事はできない。

 

 この行動は、決して我々だけの利益の為に行う攻撃ではありません。止むを得ない行動で

す」

 

 部屋にいる者達はざわついた。国防長官が言った言葉が本当であるのか、その言葉を疑っ

ている。

 

 すると、舞は皆を制止するように、

 

「これは!ただ単に個人的な利益や、国益を考えた事でもありません!重要な事は、今、この

世界を覆っている危機を乗り越えるという事です!『NK』の惨事を見れば、火を見るよりも明ら

か。しかし、今の政権や国の状況を見る限り、この国がその危機を回避するという事は、とても

できない!

 

 我々が軍事作戦を展開するのは、政権を乗っ取るという事ではなく、世界を救う為です!」

 

 彼女は周囲の視線を注目させ、力説した。周りの者達はどう思っただろうか。ここにいるの

は、舞の呼びかけで集まった『ユリウス帝国軍』の高官達。彼らは、『ゼロ』について知ってい

る。それに、国内のあらゆる場所での軍事展開に影響力を持つ。世界最大規模の軍を直接動

かすのは彼ら。

 

「しかし、国防長官。今、この国が危機に瀕しているのは事実です。しかし、危機は『ゼロ』だけ

でしょうか?国際的立場も非常に危ういのですから、クーデターなどを起こしたら、この国の威

信に関わります」

 

 一人のいかめしい顔つきの将校が言った。

 

「威信。そんな事を言っている状況で無い事は、あなたにも理解頂けるでしょう?『ゼロ』を発見

し、阻止するには、国がどうとか言っている場合ではない。手段を選んでいては、彼を止める事

などできません!」

 

 舞はそのように反論したが、

 

「例え、『ゼロ』を阻止する事ができたとしましても、問題はその後です。その後、この国が正しく

機能できるかどうか、保障はありません。いや、無理だ」

 

「『ゼロ』を阻止できなかったら、その後などという事は無いのですよ?分かりませんか? もは

や国がどうだとか言っていられなくなる。彼は、使い回しのできる核ミサイルと同じ!そんなも

のが、我々の手を離れ、世界のどこかを飛び回っている!全ては『ゼロ』捜索の為です!」

 

 舞は凄んだが、彼女に反論したいかめしい顔の将校は、納得がいかないようだった。

 

 国防長官の命令とあらば、軍全てを動かす事ができる。舞の命令一つで、クーデターを引き

起こし、国を掌握する事ができる。

 

 しかし、舞は軍の高官達を納得させたかった。納得は信頼に繋がり、裏切りを防ぐ。計画の

遂行に裏切りは危険だ。

 

「私は、『皇帝』陛下が、ある陰謀に加担していた確かな証拠を持っています。それは今、この

私の手元にある。彼は『ゼロ』に関してのある研究に支援を行っていて、それを故意に隠してい

た。今回の事件にロバート・フォード『皇帝』陛下は、少なからず責任があるのです」

 

「しかし、それは」

 

 一人が言い出そうとする。しかし舞はそれを遮って話す。

 

「我が国の『皇帝』は、故意に『ゼロ』の捜索を妨害しているという疑惑があるのです。もし、こ

のままあのロバート・フォードが最高権力にいる限り、『ゼロ』を阻止する事はできないので

す!」

 

「た、確かな証拠ですか?」

 

 そう尋ねてきたのはミッシェルだ。

 

「ご覧になりますか?これは15年前の『ゼロ』発見時の報告書と、それに関連づいたファイル

です」

 

 皆の視線が、舞の取り出したファイルの方へと向かった。紙が黄ばみ始めている古めかしい

ファイル。その表紙には、γ0042年と打ってある。

 

「どうぞこれをご覧下さい」

 

 舞に渡され、最初にそのファイルを手に取ったのは、マーキュリー・グリーンだった。彼女はフ

ァイルの内容をざっと流し読みする。

 

「なるほど、そう言う事ね」

 

 と、それだけ言うと、隣のミッシェルにそのファイルを渡した。彼女は、それをしばし長い時間

眺めた後、

 

「しかし、これは、アサカ国防長官。まさか、あなたが?」

 

 ほんの数秒の後、ミッシェルが驚いたように眼を見開いて言って来る。

 

「ええ、そうです」

 

 舞は、ミッシェルからファイルを受け取ると、今度は、その場にいる誰もがその内容を読み取

れるよう、司令室のテーブルの上に広げる。

 

 そして、皆を前にし、堂々と話し始めた。

 

「陛下は、15年前から、コンドウ・ヒロマサに支援を行っていた。彼がまだ上院議員だった頃の

事です。彼は十何年もかけ、コンドウに『ゼロ』を完全な状態で逃亡させるように支援を続け

た。

 

 それは今も続いているのです。陛下は、今も、行方不明となっていたはずのコンドウと一緒に

いるのです」

 

「しかし、そうなりますと、あなたが渡された、『ゼロ』逃亡の日の監視カメラの映像はどうなるの

です?あれを渡したのは、『皇帝』陛下だとあなたはおっしゃっていた」

 

 一人の軍の将軍が言って来た。

 

「私の目をそらす為。自分から疑いを背けさせ、近藤一人の行動だったと思わせる為かもしれ

ません。はっきりとした証拠を渡されれば、彼を疑う事はありませんし、近藤も、彼が匿ってい

るのならば、捕らえられる心配もありません。あの証拠の映像は事実なのでしょうけれども、ロ

バート・フォードを疑う証拠にはならない」

 

 室内はざわついた。皆、何かを言いたげだったが、何も言ってこない。その心中は様々だろ

う。

 

「私のいない方が話しやすいですか? 良いでしょう。これは国家の存続をも危うくする問題で

す。どうぞ、あなた方だけでも話し合ってください。私は数分だけ席を外しますから。その時間

で決めてください」

 

 舞は言い、司令室から退出した。

 

 軍の高官達だけで話し合わせるのは、どれだけの人間が舞に付いて来るか、それを確認す

る為だ。

 

 彼女のいない場で話し合わせれば、本音が出てくる者もいる。それは、マーキュリー達が監

視している。

 

 舞はすでに、何人かの者達の不穏な気配を感じている。昨今の自分の行動を見ていた、反

対派達の差し金だろう。

 

-8ページ-

 

 舞が戻って来ると、司令室にいた者達は、一斉に舞の方を振り向いてきた。

 

「国防長官、我々はあなたの意見に賛成です」

 

 そう言ったのはミッシェルだった。

 

「ええ、私達はあなたについていきます」

 

 続いてマーキュリーもそう言った。

 

「そうですか、ありがとう」

 

 舞はそう答えたものの、作戦室内にいる何人かが、反抗的な表情を自分に向けているのに

感づいていた。

 

「では、この場は解散します。この事は決して外へと口外する事の無いように。攻撃が開始され

る際には、各方面へと命令が向かいます。その際には私の命令に従うように」

 

 各方面の将軍、『ユリウス帝国軍』の実力者だけを集めた秘密会議は、その場で解散した。

 

 舞は、最後まで作戦室の中に残り、マーキュリーと二人だけになるのを待った。

 

 彼女達二人だけになると、マーキュリーは変わらない表情で言って来る。

 

「ロード将軍と、ウォーレス将軍は、未だに不服のようでしたわ。そうなると、北岸部隊は動きま

せん。後、どちらに傾いたら良いか、分からないような者達もいましたから、実質、首都の部隊

だけで動く事になるかもしれません」

 

 マーキュリーが、小さな声で舞に耳打ちした。

 

「そうですか。だとすると、思ったよりも制圧には時間がかかるかもしれません。全ての将軍に

は監視を付けなさい。重要な情報を、『皇帝』陛下に漏らしてもらっては困りますからね。

 

 軍は何時ごろ、攻撃を開始できますか?」

 

 舞は、マーキュリーの冷たいガラスのような青い瞳を見て尋ねる。すると彼女は、凛々しい返

事を返した。

 

「準備は今晩中。攻撃は早朝にも開始できます」

 

 

 

 

 

 

 

紅来国 綱道地方

 

10:34 A.M.(現地時間)

 

 

 

 

 

 

 

 死体は腐臭を放ち、鼻をつんざく様な臭いが地下室内に充満している。長年その臭いを溜め

込んでいたせいか、それは拭い去れないような臭いだった。

 

「なあ、この死体は、本当に近藤大次郎のものだと、思うか?」

 

 鼻を押さえながら一博は尋ねる。

 

「そうだって可能性は高いな。この部屋に入れたのは、彼ぐらいのものだったろう。それに、死

んだのが、3、40年前だったって言うのなら、それは大戦後って事になる。大戦後までここにい

るのは、彼ぐらいしか考えられない。白衣を着ているが、身元を示す物は、持っているのか?」

 

 死体を前にしても、登は冷静に答えていた。

 

「彼が、老衰で死ぬまで、ここで何かの研究をしていたという事は、考えられますね」

 

 と、リアンも死体を観察しながら言った。

 

「一体、何の、研究を?」

 

 沙恵は、部屋中に充満している匂いに鼻を押えつつ、後ずさりしている。香奈も、ミイラ化し

た死体の方へと嫌悪の眼差しを送っていた。

 

「死ぬまで研究していたような事だぜ。それに、多分、誰にも言えないような研究だ。たった一

人でいたんじゃなきゃあ、こんな所でミイラになっていたりしないからな」

 

 そう言いつつ一博は、死体に向けていた懐中電灯を、別の方へと向けた。

 

 机には資料らしきものが散らばり、何冊かのノートがある。コンピュータディスクもあった。

 

 部屋には、機材のようなものが他にもあった。大型の機械だけでなく、多数のコンピュータも

置かれている。全て60年以上も前の戦前のもので、『紅来国』の会社の製品だ。

 

「古い事は古いが、動いているんじゃあないのか?この機械達は?」

 

 登も、死体からは懐中電灯を背け、周りにある機械達へとそれを向けた。

 

「何の研究をしていたんだろう?リアンさん。このコンピュータを動かす事はできるかい?」

 

「ええ、動力があれば、ですが」

 

「ねえ!ちょっと、ちょっと!」

 

 沙恵が、一博とリアンの間に割り入った。

 

「この臭い、何とかならない?それに、目の前にそんな死体があるって言うのに、よく、安心して

られるよね?」

 

 彼女は不平を漏らす。確かに室内には腐臭が漂う。それは、いくら緊迫した状況であろうとも

耐え難いような臭い。

 

「だとよ、リアンさん」

 

 そう一博はリアンに言ったが、

 

「あの死体が使っていたであろう機材は、ここにしか無いんです。直接動かして調べていくしか

無いんですよ。ここの臭いが嫌なのでしたら、ソリで引っ張ってきて頂いた、機材を持ってきて

いただけません?」

 

 彼女は室内に死体があっても、まるで動じない様子で答えた。

 

「ああ、じゃあそうするよ。おれだってここの臭いは我慢できない。そうそう、それに、無線が通

じるかどうか、試して見るよ」

 

 そう言って、一博は沙恵と香奈を引き連れて地下室から出て行こうとしたが、

 

「ちょ、ちょっと待って下さい!」

 

 突然、慌てたようにリアンは彼らを引きとめようとする。

 

「何?どうかした?」

 

 と、香奈。

 

「あなた達では、無線の使い方が分からないでしょう?私も行きますよ」

 

 そう言って、リアンは機材から離れた。

 

「照明のスイッチがあった。点くかもしれない」

 

 登の声が聞えてきた。彼の声が聞えたかと思うと、地下室内に大きな機械音が響き渡り、部

屋全体の照明が次々と点灯していく。

 

 照明によって明らかにされた地下施設は、一辺が10メートルほどの正方形型に部屋になっ

ていた。天井は高く、二階部分にも足場がある。

 

 そして、中央には、巨大なタンクのようなものが置かれ、ミイラ化した死体は、そのタンクの方

に向かう形で座っていた。

 

「こりゃあ、思っていた以上にでかい施設があったもんだ」

 

 感心したように一博は呟く。地上にあった研究室の一室よりも、遥かにこの地下施設の規模

の方が上だった。

 

「あの大きなタンク。何が入っているんだろ?」

 

 香奈が見つめた、部屋の中央に置かれている巨大なタンク。そこには太いパイプや配線が

幾つも繋げられている。この施設はそのタンクがあってこその施設。そのような配置と大きさだ

った。

 

「あの死体は、あのタンクの中に入っている何か、を研究する為にここにいたってのか? そも

そも、動力はどっから来ているんだ?おおいリアンさんよ。ここへと電気はどうやって来ている

んだ?」

 

 そう尋ねる一博。

 

「わ、分かりません。どこかに発電機があるんじゃあないでしょうか? 使い切っていない燃料

で発電しているのかもしれません」

 

「でも、僕らが来た時には、まだここの機材は動き続けていた。60年間も?そこにいる人が死

んでから3、40年も経っているのに、一体、どうやって?」

 

 そう言った登の視線も、中央の巨大なタンクの方へと向けられた。人ならば数人はそこに入

れてしまえそうな大きさのあるタンク。

 

「全ての機材やコンピュータが、あの中央のタンクへと繋がっています。この人物が死んだ後

も、ずっとここではコンピュータ制御で勝手に研究が続けられていたようです」

 

 リアンも巨大なタンクを見上げていった。

 

「あの中には、一体何が入っているってんだ?」

 

 一博は、疑いも露に地下施設を見回し、そう言ったが、今のままではどうしようも無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 一行はソリに積んできた機材を、近藤大次郎の研究室まで持ち込み、リアンがそれを設置、

そして機械類との接続を行った。

 

 ただ、地下施設はミイラ化した死体のせいで酷い臭い。なので、必要以外は地下には入って

いかない事になった。

 

「あの死体を無闇やたらに動かすわけにはいかないからな。おおいリアンさんよ、本国との連

絡は通じたのかい?」

 

 そう尋ねる一博だったが。

 

「いいえ。全く駄目でした」

 

 リアンはそう答えるだけ、しかも、一博の言った事など聞えていないかのように、地下で機材

の設置に集中している。

 

「あの人、あの臭いが気にならないの?」

 

 香奈は思わず呟いた。人間が腐敗している臭いに比べたら、外の寒さの方がまだましだ。

 

「ああ、気にならないんだろう、ぜ」

 

 一博は、思わせぶりに言った。それと入れ違いに、登が地下から姿を現してくる。本棚の間

に隠された通路から出てくる彼は、脇にポータブルサイズのコンピュータを持っている。リアン

が持ってきたもので、『タレス公国』からの支給品だ。

 

「せっかくだ。調査団が来るまで、僕らも調査に協力するとしよう。地下にコンピュータディスク

が何枚かあった。それに、直筆の日誌だ」

 

 薄汚れた黒い皮の手帳のようなものを、登は掲げて見せる。名前も入っていた。近藤大次郎

と。

 

「日誌か。おれ達にも分かればいいが」

 

 そう言って一博はページをめくる。黄ばんでいる紙に書かれている字は、彼らが今使っている

字と同じだった。

 

「ちょっと古臭い言葉回しだけど、何とか読めそう」

 

 香奈は、行に並んでいる達筆な字を見て言った。近藤大次郎は几帳面な性格だったのだろ

う。日付をページ毎に変え、字も丁寧に書いている。

 

「最後の日付が、γ0015年の6月だ。日記の量も減ってきている。おそらく、この日まで生き

ていたんだな」

 

 そう呟き、一博は、日記の適当なページをめくり出した。それは、側にいる香奈や沙恵にも見

えるようにだ。

 

「『ゼロ』って言葉が良く出てきている。ほとんど毎日は出てきているな。

 

 なになに?

 

 今、続行中のこの研究が、あの『ゼロ』を上回る事は決してないだろう。全てにおいてあの

『ゼロ』は完璧だった。たとえ未来永劫、この研究が続けられたとしても、『ゼロ』を上回るような

研究成果は出ないはずだ、か」

 

 一博は日記を読み上げた。

 

「今、研究中の研究が、『ゼロ』を上回るって、やっぱりその人は、ここで『ゼロ』の研究を?」

 

「この日記は、多分、奴がつけていた最後の方の日記だ。年毎に日記を新しい本に書いている

ようで、これは15年の日記だからな」

 

 

 

 

 

 

 

γ0015年6月11日

 

 体がだるい。もはやペンを握る手も震え出している。字も思うようにかけないし、研究もコンピ

ュータ任せだ。たった一人でこの地で研究を続けるのも、この老いた体では無理があっただろ

う。

 

 明日には天に召されているのだろうか? 残念だ。心残りな事が多すぎる。

 

 私達の国がこのようになってしまったのは、残念でならない。そもそも『ゼロ』の研究は、国を

守る為に行ってきたようなものだと言うのに。今では『ゼロ』は、青戸市の地下で瓦礫の中に埋

もれてしまった事だろう。

 

 だが、私の考えが正しければ、『ゼロ』は瓦礫の下から自力で這い出す力があるはずなのだ

が。もはやあの惨劇から15年も経ってしまっていては無理だろうか。せめてもう一度、我が子

とも呼べる存在に出会いたい。

 

 私の息子は、私と同じ道を歩んでいる。ああ、我が息子、もしかしたら『ゼロ』の研究を引き継

いでくれないだろうか。孫の、そのまた孫の代でも良い。私が死んだ時、君達には、極秘の研

究データが送られるようになっている。それから『ゼロ』の事を知ってくれ。

 

 私の言い残したい言葉はただ一つ。これを読む者よ、これこそ、私の出した、長年の研究の

結果だよ。一言で表せてしまうというのは、研究の期間に比べれば割に合わないが、これほど

合う言葉は無い。

 

 『ゼロ』は、人間の進化の先にある生命体である

 

 

 

 

 日記にはその続きがあるべきだったのか、そうでなかったのか、忽然と文字は途切れてい

た。

 

説明
北の大地で明かされる、主人公達の過去とそこに隠された陰謀が明らかになり、また戦いが展開します。
総閲覧数 閲覧ユーザー 支援
371 331 1
タグ
オリジナル SF アクション 虚界の叙事詩 

エックスPさんの作品一覧

PC版
MY メニュー
ログイン
ログインするとコレクションと支援ができます。

<<戻る
携帯アクセス解析
(c)2018 - tinamini.com