不思議的乙女少女と現実的乙女少女の日常 『平等な世界1』 |
暗く、寒い空間。
地面は土で覆われており、壁もまた、至る所が木材で補修されてはいるものの、やはり土で覆われていた。
そのため、纏わりつくような湿気が充満しており、不快な空気が充満していた。吐き気を催すような。嫌悪感を剥き出しにしてしまいかねない様な、そんな空間。
そこは地下室だった。閉塞感激しく、不衛生極まった空間だった。何も動く物が無いと錯覚してしまうほどの、凍てついた空間だった。
全てが停滞してしまっているかの様な錯覚を覚えるその空間で、しかし、動くものは確かに居た。
1つは虫の類。見ただけで気持ちの悪くなるような類の虫。害虫。堆積した灰褐色の何かに、無限にすら感じられるほどに蠢いている。
そして、もう1つは、良くわからないもの。良くわからない、物。あるいは者。
物なのか者なのか、一見しただけでは判別が付けづらいそれは、しかし間違いなく人だった。
一見して判別が出来ない理由は、彼の…………彼はまだ幼子だった…………その姿形にあった。
ボロ雑巾ですら、その形容としては生温い。手を加えていない小麦粉をそのまま食べて、大量の胃液と共に吐き出せば、恐らくそれに相応しい何かになるだろう。ただの嘔吐物に近かった。
しかし、本当に嘔吐物の様になってしまえば、たかが人間が動き回れるはずが無い。言うまでも無く、死んでいる。だが、彼は生きていた。死に向かう途中だったが、確かに生きていた。生き長らえていた。
ただ死んでいないだけ。そういう状態では有ったが。
そう、故に嘔吐物では無い。彼は人間なのだから。しかし、一見してそれに近い何かに見えてしまう雰囲気が、彼には有った。もちろん、地下室の不快な空気がそれに一役買っている事は間違いないのだろうが。
ともあれ、彼がボロ雑巾以下、嘔吐物以上の何かに見えるのには、確かな理由があった。
まず1つに、彼の全身は赤黒く、無残に腫れ上がっており、特に右肩と左脇腹、膝の皿部分は、同年代の子供と比べても倍程度に膨れ上がっていた。
次に、その衣服は、それがかつて衣服だった過去を、それそのものが忘れてしまったかの様に、それとしての機能を果たしていないほどにボロボロで、大量の血液を吸って凝固していた。最早、凝固した血液そのものと言っても差支えが無かった。
そして最後に、地下室のそこかしこに糞尿が垂れ流されており、黒く蠢く害虫や、無分別に動き回る蝿の群れ。普通の人間が見れば耐え難くおぞましい虫の、群れ。
そうした状態の彼は、そうした状態の地下室とほとんど同化しており、故に嘔吐物的な雰囲気を垂れ流していた。
彼が言葉を発する事は無い。彼の様な年代の子供ならば、当然の如く発せられる意味の無い奇声や独り言に近い何か、あるいは泣き声。そして、彼の様な状態に有る者ならば、やはり当然の如く発せられる、苦しみによる呻き声等。それが無かった。
それが出来ないほどに消耗しているのか。あるいは、声を出す事すら忘れるほどに、彼が人間扱いされてこなかったのか。
ただ、痙攣に見間違うほどの微妙な動きを繰り返すばかりで。
緩やかに、しかし確実に、彼は死に向かっていた。
彼をこの様な状態にしたのは、彼の養親だった。義理の父、義理の母、共に彼を引き取って間も無く、虐待に次ぐ虐待。彼にとって不幸だったのは、彼の養親がその様な虐待に対して快楽を感じており、また、とても慣れている事だった。引き取られてからの2年間、虐待が途切れることは無かったが、最終的にこの様な姿に彼を追いやるまで、彼が死ななかった事からも、如何に彼の養親が生かさず殺さずを心得ているかが理解出来た。
彼が痙攣に似た微妙な動きをしているのには、理由があった。実際、彼のしている動きがただの痙攣で無いと言えるのは、それが理由だった。
彼は理解していた。あるいは悟っていた。
もう間も無く死ぬ。
そう理解していた。
少なくとも、次に養親がこの地下室へ降りてきた時。それが確実な死に直結するだろうという事を、理解していた。
だから、死ぬ前に、外の世界を見たいと。
そう考えていた。
だから、蛆虫の様に全身をくねらせて。しかし、実際にはほとんど痙攣にしか見えないような動きで。前進しているのかしていないのか分からないほどの動きで。それでも前に進んでいた。
このまま行ったならば、いずれは外へ辿り着くだろう。それが、何時間か後の事になろうとも。何日か後の事になろうとも。時間をかければそうなるだろう。
だが、当然そうはならない。
何故なら、一日に一度は養親が地下室へ降りてくる事と…………彼の両手両足が鎖に繋がれている事と。
その2つの要因が、彼を地下室という限定空間の、さらに限定された場所に縛り付けているからだ。
だから、地下室から彼が脱出する事は、事実上不可能で有った。地下室から出るための扉は、今や死への門よりも遥かに遠い。
その事実を彼が理解しているのかいないのか。肉体を激しく損傷し、精神が極端に磨耗した現在の彼では、あるいは過去に理解していたとしても、現在的に理解不能に陥っているだろう。
それでも、彼は前へと進む。
前へ。
前へ。
助かりたいのでは無く。
ただ、外の世界を、もう一度見たいから。
そのためだけに。
ただ、前へ。
だがもちろん。
外へ出られることも無く。
数時間後、地下室の扉が重々しく開かれ。
死への扉がいとも簡単に開かれ。
そして、彼は。
肉体と精神を極限まで磨り減らした彼は。
人生で初めて、人を殺した。
彼の養親達が、不自然な凍り付けで死亡しているのを発見されたのはそれから2日後で、彼の姿は何処にも見当たらなかった。
「リコ、ねぇリコ。何してんのぅ? ねぇ、何してんのぉ?」
「…………暑い。そして鬱陶しい」
ここはリコの部屋。時間は…………学校が終わって、何処かへ寄り道する事も無く、直ぐに家へと帰れば、このくらいの時間帯になる。そんな時間。夕方でも無く、かといって昼は大きく過ぎた、そんな微妙な時間帯。
リコは机に座って、本を読んでいた。勉強では無い。いや、ある意味、勉強では有るのだが。ネクロノミコンと題されたその本を読む事は…………厳密にはそれは本では無いのだが…………明日控えた日本史の小テストのために教科書を読むよりも、遥かに重大だった。
中学時代の先輩、ミーコと出会ってから数日。リコは毎日それを読んでいた。ネクロノミコンが何時どんな形でリコに関わって来るか分からない以上、早急にその存在に対する理解を深めておかなくてはいけなかったからだ。事態が混迷している以上、何をすれば最善の対処になるかは分からないが、敵を理解しておく事は損では無いだろうから。ネクロノミコンという存在が、果たして本当に敵なのかどうかも分からないのだが。
とはいえ、この本を読む事で、その理解の助けになるかどうか、リコは怪しく感じてきた所だった。
なにせ、書いている文章が無意味に長ったらしく、無意味に主観の入り混じった劇場型の口語体で書かれている箇所も有る上に、基本的に哲学染みていた。
リコの知りたい、ネクロノミコンという存在に対する言及は多くされている。だがそもそも、この本の元になった人物…………魔法使いだとかなんだとか…………も、その存在について良く理解していたとは言い難い様で、推測でしか語られない観察日記のようであり、ページによって言っている事が2転3転する事など当たり前で、酷い場合は行ごとに思考の飛躍が見られる。
だから取り敢えず、この本を一通り、その内容が理解できるかどうかは構わずに読んでみる事にした。だが、そうしているうちに気がついたのだが、終わらない。読み終わらない。読み終えることが出来ない。本のページ数から考えて、本来なら読み終わって然るべき時間をかけても、ページ数は全く進んでいなかった。ノンブルが振られているわけでは無いので、厳密なページ数は分からないのだが、感覚的になんとなく理解出来る。不思議に思って、試しに最後のページを開いてみた。だが、開かれたページは、本当なら最後のページでなければならないのに、結果として本の真ん中辺りのそれが開かれていた。有り得ない事だが、最後のページと間違えて真ん中辺りのページを開いてしまったのかと考え、もう一度チャレンジしてみたが、結果は同じだった。嫌な予感がして、試しに、ページを流すようにヒラヒラと高速で開いてみた。そうすると、嫌な予感は的中した。1分ほどページを流し続けてみたが、一向に本の終わりが見えない上に、嫌になって手を止めてみると、やはり、本の真ん中辺りが開かれているのだ。
どうやら、終わりの無い、無限のページ数が自慢の本だったようだ。燃やしてやろうかと思った。
そこまで思い返して、それでもしつこく本を読み続けていたリコだったが、
「リコ、何処で買ってきたか知らないけどさぁ、そんな難しい本読んでると、大脳がゴシック体になるよ」
「どんな状態なのよそれは!? …………ていうか、元々はあんたが拾ってきた本でしょうがこれは」
家に居ると、大抵はヤカに邪魔されるので、この時間帯の読書は不可能に近い事実を改めて思い知らされるのだった。
嘆息しながら机に突っ伏すと、ヤカが本・ネクロノミコンを手に取った。そしてやや真剣な表情で、
「えぇー、そうだっけ? 1マイクロ平方センチメートルも記憶に無いや」
単位の表し方が間違っている事を指摘するべきか迷ったが、止めた。ともあれ、覚えていられるとやや面倒な事にもなりかねないので、ヤカの興味が無い事に対する、クラミドモナス並の記憶力に感謝した。興味が有る事に関しては背筋が寒くなるほどの記憶力を発揮するのだから、両極端である。
体を起こして、リコはノビをした。座っていると、1時間に1度はそうした方が良いらしい。事実、肩も楽になる。
体を逸らすと、後頭部が何やら柔らかい物に当たった。大きくて柔らかくて、暖かくて、ヤカの香りがした。枕代わりにしても違和感の無い感触だった。
端的に言うと、ヤカの胸に後頭部を預ける形になっていた。
「ああ、世の中って不公平ね…………」
後頭部に体重をかける毎に沈み込んでいくのだ。ヤカのバストが大きいのは知っているが、改めて現実を思い知らされるのだった。
悩ましげにやはり嘆息すると、リコの胸の辺りに、というよりも胸に手が置かれる感触が有った。
まあ、実際置かれたのは手だったし、置いたのは当然ヤカだったので、取り立てて騒がないが。
「…………何やってるの」
それでも意図が分からなかったので、リコは尋ねた。
「そろそろ洗濯の時間じゃないかと思ってねぃ」
「それほど無くは無い!」
腹を凹ませて水を溜めればナイアガラ・オン・ザ・レイクだねとはどういう事だと、両頬を叩くのだった。
説明 | ||
結構長くなりそうな章。 ほんとはもっと百合百合した話を描きたかったりする。 |
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