君と空と
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「散歩に行こう」

 

おそらくその時の俺は、文字通り鳩が豆鉄砲を撃たれたような顔をしていたと思う。

呆けたままの俺が無視をしていると思ったのだろうか、しつこく何度も繰り返す。

 

「散歩だよ散歩。ほら外はこんなに晴れているんだよ。こんな日に家でごろごろしてたらうしさんになっちゃうんだから。ねぇ、聞いているの?」

 

初めは声だけだったのに、それが袖の先を引っ張り、今はもう背中を押して無理やりにでも散歩に行かせようとしている。

 

「そんなに押さなくても行くって。ほらっ、歩きにくいから押すのはやめてくれ」

 

結局玄関まで押されることになってしまったが、流石に靴を履くときは止めてもらった。と言っても実際は、先に靴を履いて表で俺のことを急かしていたが。

 

「・・・っと、お待たせ。確かにお前の言うとおり雲ひとつなくて散歩にはいい陽気だな」

 

「でしょ。今日は私がいい場所に連れて行ってあげるね」

 

珍しい。いつもなら俺に行き先を決めさせるのに、どうやら今日はお目当ての場所があるようだ。

 

「それじゃあ戸締りの確認も済んだから出発するか。山と海、どっちのほうだ?」

 

俺達の住む町は軽いピクニックに丁度いい高さの小さな山と、夏になればそこそこ人気の出る海水浴場がほぼ同距離に存在する。散歩というのならばこのどちらか一つが目的地であろうと考え聞いてみた。

 

「山の方だよ。でも頂上まで行かないで途中の公園までだけどね」

 

それに海だと髪の毛がべたつくし。とその肩に少し掛かるくらいにまで伸びた髪の毛をくるくると弄ったあと、俺の右手を掴んで引っ張った。

 

「それじゃあ、散歩にしゅっぱーつ」

 

 

 

まだ春になったばかりだと言うのに陽気のせいかちょっと斜面を登っただけで額に汗が滲んでくる。

しかし彼女は気になるものを見つけては走って行き、俺以上に動き回っているのに全く汗を掻いていない。

そのことに納得できないものを感じたが、いつも以上にはしゃぐ彼女を見るとそれも気にならなくなった。

 

「あ、たんぽぽが咲いているよ。あっちには土筆も生えている。こうしているとなんか春って実感するね」

 

彼女が指差す方を見れば確かに土筆が三本生えていた。そしてここ何年も土筆はおろかタンポポすら意識して見ていなかった自分に気が付いた。

いつからか身の回りの景色にすら意識を向けず、ただ当たり前の様に何か変化を求めることなく過ごす毎日に満足していた。

それが悪いとは思わないが何処かで何かに乾いていたと思う。次第に目に映る景色は色彩を無くし、モノクロの世界に身を沈めていった。

その中で尚最後まで色彩を持っていたのが今目の前を歩いている彼女だった。

出会いなんて覚えていない。気が付いたらよく一緒にいて、なんとなく一緒に過ごすといった生活だ。

いつもの俺ならすっぱりと切り捨てるのだが、唯一の色を持つ彼女を俺はどうしても捨てられなかった。

 

「とうちゃーく」

 

彼女の言葉にいつの間にか公園に着いたことに気が付いた。

 

「こっちこっち。あ、どうせだから目を瞑ってくれるといいかも」

 

うん、その方が多分すっごいから。と行って目隠しをさせるために何処から取り出したのか少し大き目のハンカチを手渡してきた。

ここまできたら最後まで付き合ってやるかと思い、素直に受け取りそれを目に巻く。

そして手を出して連れて行ってくれとジェスチャーをした。

 

「ではでは連れて行きましょう。きっとすっごく驚くから期待しててね」

 

そして俺は彼女に引っ張られるまま素直に付いて行った。

最初は公園で遊んでいた子供達の声も聞こえていたが、だんだんと声も遠くなっていった。

次第に声は聞こえなくなり、今度は鳥の声がよく聞こえるようになった。

どうやら広場ではなく、林の中に進んでいるようだ。この公園には確かちょっとしたハイキングコースがあることを思い出した。

 

「ここからちょっと道を外れるから気を付けてね」

 

そう言うとがさがさと音を立ててさらに奥に進もうとする彼女の手を離さないように握り直し、俺は今まで以上に慎重になりながら林の奥に足を進めた。

 

「はいっ、今度こそ本当に到着だよ。ハンカチ取ってみてよ」

 

言われるままにハンカチを取り、目の前に現れた景色に驚いた。

 

「これは・・・・・・すごいな」

 

「でしょ。私も初めて見たとき感動しちゃったよ」

 

目の前には自分の住んでいる町が一望でき、その奥には太陽の光を反射した海が一面に広がっていた。

空には雲ひとつ無い何処までも透き通った蒼い空。

水面に反射する光が目の錯覚を伴って町全体を包み込むように輝きを放っている。

そこはぽっかりと林の木々が途切れた空間だった。

そして前方は崖になっているらしく、木の柵で誤って落ちないようになっていた。

その柵が一種の境目になっているのか、まるで一枚の完成された絵画を見ているように感じられた。

 

「幸せってさ、よく失って初めて気付くって言うけど・・・」

 

目の前に広がる景色に圧倒されていると、彼女がゆっくりと唇を開く。

 

「私はね、そんなこと無いって思っているんだ。もし本当に失ってからじゃないと気付けないって言う人がいたら、そういう人はきっと前しか見られない人だよ」

 

眩しそうに眼下に広がる世界に彼女は目を向ける。

 

「ほんのちょっとでいいから足を止めてさ、今自分がいる場所を見渡せば絶対に見つけられると思うよ」

 

「世界っていうのは思っているよりずっとゆっくりと歩いているんだよ。それに気付くことができればきっと・・・」

 

そして彼女は振り返った。

春の穏やかな風が彼女の髪を揺らし、風に乗って運ばれてくる優しい匂いが辺りを包み込む。

 

「だって私は今、こんなに幸せでいっぱいなんだから」

 

気が付けばモノクロだった世界は色彩を取り戻し、より一層彼女の美しさを引き立たす。

まいった。ちょっと考えてみればそれはすぐにわかることだったのに・・・。

肝心なことには気付かないように、目を背けていただけだったらしい。

 

「ねぇ・・・・・・あなたは今、幸せですか?」

 

空を見上げる。そして瞳を閉じて大きく息を吸う。

春という季節が好きになった瞬間だった。

俺は今日という日をおそらくずっと覚えているだろう。

 

穏やかに微笑む彼女。

そして俺は彼女に口を開いた。

 

「俺は―――――」

 

 

 

 

 

 

 

FIN

説明
全てがつまらないと感じて惰性で生きる男性が変わることが出来たきっかけ・・・そんな何処にでもあるようなエピソード。
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