【加筆修正版】Two-Knights Vol'03 第一章「宗教都市」 |
<1>
険しい山々を連ねる尾根。
地面には草木の類はなく、その殆どが薄茶色の土が露出している不毛の地。
眼下には、低い建物が立ち並ぶ町並みを一望できる。
そんな心寂しげな場に、その館はあった。
高い石壁に囲まれた敷地の中、花崗岩で作られているその館は、乾燥味を帯びた地を静かに彩っていた。
長年に亘り砂塵混じりの風に晒され、外壁は薄汚れてはいたものの、石本来の持つ美しさを純粋に表現された建造物は、見る者に素朴ではあれど荘厳な美しさを伴った印象を与えていた。
外壁の南側、道に面したところに門が設けられてあった。金属で補強された木製の門が、内側に向かって開け放たれている。
その門をくぐり向け、敷地内へと入ってきた者達がいた。
飾り気の一切ない甲冑で全身を包んでいる男の姿。
一見すると、どこかの隊に所属している騎士とも思われた。
しかし、その胸には所属を表す紋章は無く、背中に吊り下げられた剣の鞘、そして甲冑もまた血で汚れ、所々錆付いているという有様。本物の騎士であるならば、決して身につけることのない粗雑な代物。
兜はつけておらず、褐色で彫りの深い顔を晒していた。黄土色の髪は、全く手入れされた様子もなく、無造作に肩のところまで伸ばされている。
まさに流浪の戦士の風貌。
ふと、一陣の風が吹き、木製の門、その蝶番が軋む音が鳴った。
麓より吹き上げるかのような、この高山地帯特有の風。
ここは、高山都市として知られるグリフォン・テイルの街。この地こそが、大陸の宗教勢力の本拠地。辺境の街にも関わらず、大陸中に散在する聖職者を統べる大聖堂が存在する聖地であり、一大宗教都市であった。
男は、その街の外れにある館の前に佇んでいた。
門をくぐると、綺麗に手入れされた小道があり、正面に立っている館の方へと続いている。
戦士は、その館に向かい静かに歩きはじめた。
伴の者と思しき二人がそれに続く。
片方は女。腰に太刀を佩き、白色の衣服を着ていた。しかし、その裾からは鎖帷子が覗き、時折、布と金属が擦れる音を立てている。
肌の色は褐色。背まで伸ばされた長い髪の色は銀。背格好は違えど、彼女の前方を歩く男と、どこか似た印象を与える風貌。
そしてもう片方は、全身を覆い隠すかのような長衣を纏い、フードを深く下ろしている為、その顔の詳細を伺い知ることは出来ない。
白き手が長衣の袖から覗く。明らかに女性の手であった。
その白さたるや、常人の色とは到底思えぬほど──喩えれば病人の肌の色に近く、まるでその肌の下には青い血が通っているのではないかと疑うほど。
彼らは一様に無口。慣れぬ高山での旅路の所為か疲労は色濃い。だが、顔を視認できる二人の目には覇気にも似た光が宿っていた。
男を先頭に、三人はやや緩やかな足取りで前庭を歩いていく。
近くを通りがかった館の使用人が、無言で近付いてくる一団に目を止めた。突然の来訪者に対し、如何様な用件で訪れたのかを問い、内容如何によっては、使用人長に伺いをたて、追い返さなければならぬ。
だが、三人の発する異様な雰囲気に圧され、声をかけることが出来なかった。
ただ、無言で三人を注視する。
三人は、そんな使用人の挙動を気に留める様子もなく、館の玄関に近付いていった。
玄関の前に佇み、彼らの様子を窺っていた、また別の使用人の女が、慌てて立ち塞がる。そして、懸命に声を搾り出し、眼前の三人に問うた。
「何用でしょうか?」
「ここの主──カミーラ議員に、嘆願をする為に参じた」
ぽそりとした声。その声が先頭の男より発せられたものであると認識するまでに、数瞬の時間がかかった。
「あ……」
男の声を認識した瞬間、使用人の女の意識がふっと途切れた。時間にして数秒。まるで、重い眩暈にも似た感覚。脳を揺さぶられたかのような不快感に襲われ、顔色は瞬時に蒼白と化し、吐き気を催した。
咄嗟に壁に背を預け、転倒こそは避けたものの、両の脚より一切の力が抜け、立っていることすらままならず、女はその場に蹲った。
「今のは……」
顔中に噴出した玉の汗が、顎と鼻の先より滴り落ちる。
蹲った使用人の女の前には、既に三人の姿は無く、玄関の扉が開け放たれていた。
一陣の風が吹き、玄関の扉の蝶番が軋む音が鳴った。
館の一番奥の部屋では、女が書物に読み耽っていた。
齢は四十程であろうか。顔には薄い皺が刻まれ、頭は斑白の髪で覆われていた。肉体は衰えの途上、その只中に彼女は存在する。
そんな彼女の耳に届いた、次第に大きくなる複数の足音。女は手にした書物をそっと閉じ、やや緊張した面持ちで入り口の扉を注視する。
かのような枯れかけた肉体であれど、背筋を伸ばし、かつ自然と椅子に腰掛ける姿勢は美しく、その瞳に宿る光もまた、生気に満ちた若々しきものであった。
彼女の名はカミーラ。この館の主であり、このグリフォン・テイルの大聖堂に務める司祭の一人である。
やがて、扉を叩く音がした。
「──どうぞ」
カミーラは外の者に向かい、そう声をかけた。
「失礼します」男の声による返答。それと同時に、扉が開く。
声の主と思しき黄土色の髪の戦士が姿を現した。後に控える二人の伴の者。合わせて三人がカミーラの部屋に入ってきた。
腰に太刀を佩いた銀髪の女が後ろ手に扉を閉めると、改めて三人は女司祭に一礼した。
カミーラも軽く会釈を返す。
四人の間に流れる沈黙。数瞬の間を置き、カミーラは静かに口を開いた。
「錬金術師殿がこのような隠遁者に、如何様な御用ですか?」
「──見抜かれてしまいましたか」
男は、その顔に軽い笑いを浮かべながら、首飾りを外した。銀色の鎖の通されているそれは、カミーラにとって大変見慣れているものであった。
聖印──この世界で、広く信仰されている神を示す紋章が刻まれた金属板。聖職者であれば、誰もが身につけているもの。
しかし、それを見たカミーラの表情が嫌悪に歪む。
男が身につけていた聖印が錆び付いていたからだ。金属板の角は崩れかけ、表面に刻まれた神の紋章も、既にその原形をとどめてはいない。
全ての聖職者が我が命と等しく尊ぶ聖印を、これほどまでに粗雑に扱う事。それは神に対する冒涜。
無論、かのような代物を平然と身につけられる者など、聖職者である筈がない。
それこそが、錬金術師の証であった。
錬金術とは、発端は化学的手段を用いて卑金属から貴金属に精錬する、その手段を模索することに始まる。
そして、その真髄はそれだけではなく、果ては人間の肉体や魂をも対象とし、それらを完全な存在に錬成するに至ることにある。
それは神が世界を創造した過程を再現する大いなる作業であるとされる。
究極は世界の全ての事象は、全て人の手によって解明できうるという唯物思想を根底に持ち、研究の日々を送っている者達を、人は錬金術師と呼ぶ。
その性質上、錬金術師には無神論者が大多数を占める。
神を信じぬという、彼ら特有の強い信念があるが故、このような宗教に対する激しい敵意とも受け取れる行動を取る者も多い。
「我々は貴方に嘆願の為、馳せ参じた次第」男の軽い笑顔めいた表情が、真剣なそれへと変貌する。
「無神論者である錬金術師が、司祭である私に?」眼前の男の変化を、カミーラは鼻白んだ様子で受け流した。「筋違いも甚だしいとは、まさに──」
「貴方が派閥の意向に反し、反対票を投じようとしている、例の法案──」男の後ろに控えていた銀髪の女が静かに話を切り出した途端、女司祭の言葉は遮られ、同時に表情が瞬時に固まった。
「考え直して頂けるよう、お願いにあがりました。カミーラ議員」
カミーラの変化を見た女は、曰く有り気な笑みを浮かべる。
この街では、議会を構成する議員の半数が貴族。そして、残りの半数近くが、カミーラのような宗教関係者で占められる。
それは、このグリフォン・テイルの街が大陸中に散在する聖職者を統べる大聖堂が存在する聖地であるが故。
大陸各地よりこの地を目指す巡礼者は後を絶たず、寄付金の総額たるや莫大であり、それらの殆どは医療や街の整備などといった、グリフォン・テイルの街全体の利益の為に転用されている。
元来、信仰の対象である大聖堂が、目に見える形をもって、人々に財を再分配しているのだから、そんな彼らの行動に異を唱える者は皆無。
大聖堂は、人々からの絶大な支持を受け、グリフォン・テイルの街にとって、無くてはならぬ存在と称される程の絶大なる影響力を持ち、磐石なる地位を築き上げていた。
その構成員である司祭や神官が、この街で政治的な力を持つのは道理──それが、このグリフォン・テイルの街が宗教都市と称される由縁である。
司祭カミーラは、議会での投票権を持つ議員の一人であるのだ。
カミーラは女の言葉に対し、思わず「どうしてそれを──」と声を上げようとしたが、咄嗟に思いとどまり口を噤んだ。
グリフォン・テイル議会においての議決の際、誰が賛成票を、誰が反対票を投じるかといった情報は、議員の保護の一環として、その一切が非公開であることが原則。他言も厳しく禁じられている。
その原則通りであるのならば、目の前の三人が、議会での自分の行動を知る由もない──先刻の女の言葉は、鎌をかけているのだろうと結論づけた。
「法案──とは?」カミーラは自分の動揺を悟られぬよう、無表情を装う。
「白々しいことを!」語気鋭く、男が怒鳴り声を上げた。「霊術士が管理しているグリフォンの魂が眠る霊峰──封印の地への一般の者の立ち入りを認めて頂きたい。議会では今、そのような議論が成されている事など、我々にはわかっているのだ」
「何故、貴方がそれを知っているのです? 根拠は如何に?」
「それは、そのように議会に嘆願したのは我々だからだ。正確には貴方の恩師であり、貴方の派閥の主である、司祭ティール殿に」
「貴方がたが──」カミーラの表情が、険しいものへと変わった。「しかし、錬金術師である貴方が、何故グリフォンの魂を求めるのです? 錬金術は万物を人間の手により作り上げることを至上としている学問であると聞きます。その学問をもってすれば、グリフォンの魂の力を借りずとも、事足りるのではないのでしょうか?」
「錬金術は発達の途の産物。貴方が仰る程、万能なものではありません」銀髪の女が答えた。「千年前、人と魔物の軍勢との戦いの中で、聖獣グリフォンは元来魔物に属する種でありながらも人間の側に与し、共に戦ったと言われております。そして、魔物の軍勢を相手に単身で戦いを挑み、その果てに命を落としたとも」
「そして、聖獣はその壮絶な死後、戦で腐り果てた大地を蘇らせ、生命力の溢れる世界を構築する基盤を築いた」黄土色の髪の男が続いて語り出した。「故に、我々は調べ尽くす必要がある──何故、グリフォンが魔物でありながらも、人間の側に与したのか? そして何故、死後にあのような奇跡をもたらすことが出来たのかを……」
「知ってどうするのです? あれは所詮、我々人間の手には余る代物。故に霊術士らに守られております。安易な考えで近付こうと画策せぬよう」
カミーラが厳しい口調で言い放った。
「そして、我々のような議会の人間は霊術士──及び、彼らが管理する霊峰に関して一切関与する事は出来ません。それは、霊峰の力を政争の具に使わぬよう、議会と霊術士との間では、相互不干渉が掟となっている故」
「その掟は知っている」その厳しい口調に触発されたのか、男の口調も少し荒くなる。「だから我々は、貴女に嘆願しに来たのだ。その霊術士を娘に持つ貴女が賛成を表明して頂ければ、議会の方々も掟に関して改めて考える契機となる。霊術士と対話をもってすれば、閉ざされた霊峰を開く事も不可能ではないと思っている。そして、グリフォンの魂に関する研究が可能となれば、このグリフォン・テイルの発展にも、必ずや貢献できることでしょう」
「あいにく、私は掟を守り抜くことこそが、このグリフォン・テイルに益を為すものと信じております。錬金術師の興味本位による嘆願如きで動かせるほど、事は単純ではないのです」
「興味本意ではない!」挑発めいたカミーラの言葉に激昂し、男は怒りで声を荒げた。「私には、早急に研究を進めなければならぬ理由がある」
男の必死とも思しき訴えに、カミーラは沈黙した。沈黙したまま、男の次の言葉を待った。
「我々の子供が──」黄土色の髪の男と、銀髪の女の声が同調した。「──呪いにかかっている」
「貴方達は、夫婦なのですか?」
カミーラが聞き返すと、二人は頷いた。
その様子を見た女司祭は、やや得心した様子で頷き返すと、「呪いとは?」と、更に問うた。
「全て、死産するという呪いだ」呻くような声で、男が言った。
「授かった子は三人、その全てが──」
苦悶に満ちた二人の表情を見て、カミーラは沈黙した。
その様子は、一見すると目の前の二人に対する同情の気持ちより、慰めの言葉を模索しているようにも見えた。だが、その実は違う。
カミーラは、目の前の夫婦の顔を観察し、言葉を交わした結果、ある違和感を抱いていたからだ。
──二人は、あまりにも似すぎている、と。
髪の色こそ違えども、浅黒い肌や、その色艶。顔つき。発声の癖など、様々な要素が似ていたのだ。
そこから推察出来る事。それは、目の前の二人は血縁的にも近い関係なのだろうという推論。
即ち──近親結婚なのではないか、という仮説。
もし、その仮説が真実であるのならば、彼らの言った「呪い」というものにも合点がゆく。
血縁者同士の間で出来た子供では乳児期死亡、先天的奇形、知的障害などといった、様々な問題が発現する確率が高くなるとも言われている。
無論、死産の可能性も然り。
かつて、このような縁組は、主に権力者など、騎士を除いた上流貴族らの間では、五百年程前まで慣例的に行われてきたことである。
理由は、一族の権力を長期に渡って維持し、親族の財産や権力の散逸を防ぐことが目的であると言われている。
だが、長きに渡るこのような交配の繰り返しは、皮肉な結果をもって破綻が生じることとなる。
死産や乳児期死亡が多発し、生まれた子供の殆どが五年も生きられぬ有様。
五歳まで生き抜いたとしても、心身に重い障害を残す者も数多。四十年と生きられる者は稀有という、深刻な事態にまでに陥った。
結果、彼らの最大の責務である執政を行うことすら満足に行えず、かつての世は大いに乱れた。
その惨状の原因を当時の司教は、かのような縁組・交配の繰り返した為であると説き、これを新たな宗教的禁忌として定め、今に至る。
目の前の二人も、この禁を破った者なのだろうか?
しかし、それは推論・仮説の域を出ぬ邪推。だから、カミーラは敢えてその疑問を口にはせず、沈黙を守った。
ただ、静かに「それは、お気の毒です」と、当たり障りもない言葉を発しただけだった。
「だから、私達はグリフォンの魂を求めている──千年前の戦いで疲弊した大地を蘇らせた奇跡の力、その根源であるのならば、我々の呪いを解く手がかりを得られるのではないかと思っている。その為に、カミーラ議員にも協力頂きたい。お望みであるのならば、礼金を出す事もやぶさかでは……」
「あいにくと、私は金などいりません。今の生活に十分満足しておりますから」カミーラは厳しい口調でそう言い、男の言葉を遮る。
「それに、我々議会の人間達は、今まで厳正なる執政によって、人々より多大なる信頼を勝ち取って参りました。そのような人間に対し、このような賄賂をちらつかせ揺さぶろうとは、誠実な人間の行いとは到底思えません」
彼女は更に怒気を強め、椅子を蹴るように立ち上がった。
「貴方達が我が派閥の長・ティール様を如何様に説得させたかは知りませんが、本日起こったことは、私よりティール様に進言し、このような不誠実なる者の言葉など、聞き入れぬよう──法案を取り下げていただくよう説得しようと思います」
「人に神の理を説き、人に道徳を教える身でありながら、目の前で苦しまれている人間に、救いの手を差し伸べぬというのか!」
カミーラの怒りに触発されたかのように、男も語気を強めた。
「ティール殿は、苦しんでいる我々に大変同情してくださった。そして、霊術士が管理している霊峰への立ち入りを検討し、議会に持ちかけてくださった。その暖かさに我々は心底感動したものよ。それに引き替えて貴女は──」
「貴方達の過去の不幸に関しては、私も同情致します。ですが、それが封印の地への立ち入りを許可するための正当なる理由にはなりません。あれは、何度も申しあげました通り、人の手に余る程に強大な代物。安易に人前に晒せるようなものではありません」
「貴様はわかっておらん!」男が更に激昂し、立ち上がった。
男とカミーラの、鋭い視線が衝突する。
緊迫した沈黙が辺りを支配した。
だが、それは数瞬の後にあがった笑い声により破られた。喉の奥より静かに鳴らされた、挑発めいた笑い声だった。
その声は、入室時より沈黙を続けていた、長衣を纏った女。
「だから言ったじゃない──説得など意味はないと。所詮この女司祭は、あのティールという嫌らしい男の下で働く派閥の構成員の一人に過ぎぬ。我々の支配下にティールがいる限り、この女も我々の恣意によって動かざるを得ないのだから」
フードの奥より聞こえた声。明らかに女の声であった。だが、その声色は美しくも、どこか蠱惑的な色を帯びていた。
そして、ゆっくりとフードを外した。現れたのは美しい女の顔。漆黒の髪と、雪のように白い象牙の如き肌をしていた。
やや虚ろに見開かれた瞳が初老の女司祭を見つめる。その瞳に生気めいたものは一切感じられぬ。気だるさと媚びが入り混じった視線に射抜かれたカミーラは生理的な嫌悪感を抱かずにはいられなかった。
「……それは一体、どういうことです?」初老の女司祭が、媚びた目の女に厳しい視線を向けた。「ティール様に、何をしたのです?」
聞き捨てならぬと言わんがばかりに語気を荒げ、詰め寄った。その表情には、明らかな動揺の色を帯び、先刻の言葉が与えた衝撃の強さを物語っていた。
そんな動揺した様子に、訪問者の三人はほくそ笑んだ。
「どんなに知恵に優れ、誉高き人格を備える者であれども、隙というものは必ず存在する。その隙がわかれば突くのは容易」
「──どういうことです?」
「人は物を食べ、水を飲まねば生きてはいけぬ。同様に眠らねば、人は生命を維持できぬ。そして人は眠れば、夢を見る──」
長衣の女が、その虚ろに見開かれた瞳はそのままに口元を歪め、笑みを浮かべた。その様は、人のものとは思えぬほど異様。言い換えれば、魔性めいてさえいた。
「まさか、貴女は──」そんな長衣の女の、異様な様子を視認したカミーラは尋常ならざる恐怖に駆られていた。発する声が震え、二の句が出ないという有様。
恐怖に震える司祭に、長衣の女は笑みの度合いを強めた。
その青白い肌に浮かぶ笑みは、常人のものとは思えぬ程の悪意に満ちていた。
その笑みで、カミーラの疑念は確信へと変わった。
「夢魔──」
カミーラが、ようやと言葉を絞り出す。
夢魔。夢を操る魔物。男の夢の中に美しい肢体をもった女性の姿で現れて淫夢を見せる悪魔。
その夢は魔性を帯びており、見た者に抗うことの出来ぬ程の快感をもたらすと言われている。そして、獲物とされた者は漏れなく快楽の虜となるとも。
無論、それは破滅への序章。
絶大な快楽を前に殆どの人間は無力。更なる快楽を求めんと夢魔にすがり、やがて籠絡される。
それだけではない。夢魔が織り成す夢の魔性に浸され続けた者は、善と悪の判断、夢と現実の区別が次第に朧げとなり、やがて心が腐り、堕落し、遂には人の皮を被った魔物同然の存在へと変貌を遂げるのだ。
「あぁ……なんということを」
カミーラは頭を振り、この事実を嘆いた。
カミーラの派閥の主・司祭ティールは、このグリフォン・テイル議会を構成する数々の派閥の中で、最も大きな派閥の長。
そのティールが魔物の手に堕ちたということは、即ち議会が魔物の手に堕ちたことと同義。議決の際、誰が賛成票を、誰が反対票を投じるかといった情報を仕入れることなど、造作にもないこと。
古の時代より築き上げた厳正なる執政の基盤が、崩れ落ちた瞬間であった。
だが、それは同時に、目の前の三人は紛れもない悪であるという事実を明確なものとした。
魔物の手を借り、議会を混沌に陥れようとする唾棄すべき存在。無論、自分とは相容れぬ。
そう悟った瞬間、カミーラは今後の己の行動について、即座に答えを導き出した。
「ならば、私は恩師と決別しなければなりません」
「出来るのですかね? 貴女に」黄土色の髪の男が、薄ら笑みを浮かべながら、小気味よさそうに言った。「ティール殿は、今は亡き貴女のお父上の、かつての部下であり、同時に貴女を執政の世界へと導いた恩師。家族同然の存在と言っても過言ではない。そんな人を裏切ることが」
「だからと言って、このまま正義なき者の下で働くわけにはいきません」
「気丈ですな。だが、人間というものは権力の前には無力。貴女が一人で粋がったとしても、状況はそう変わりますまい」
「神は常に御照覧されております。そして、正義を貫かんとしている者にこそ、祝福を授けてくれるのです」
「──なるほど」男が豪快な笑い声をあげた。
そして、鎧を鳴らしながら、立ち上がる。
「本来ならば、平和的に交渉をしたかったのですが、誰かが勝手に手の内を明らかにしてしまった所為で……これでは交渉どころではない」
そう言い、後ろに控える夢魔の女を一瞥すると、夢魔は血に濡れたかのような赤い舌で、己の唇を舐めた。
「これ以上、言葉を交わす意味は失った。我々はここで暇させてもらう──無礼があったことは、お詫びしましょう」
そう言い、軽く一礼する。後ろに控えていた銀髪の女と、夢魔もそれに倣い、一礼をする。
「それよりも、貴方達の名を伺っておきましょう──今後、またどこかでお会いすることもあるでしょうから」
「ヴェクターと申します。錬金術師レーヴェンデ=アンクレッド様に師事し、錬金術を身につけた者にございます」
男が再び軽く一礼をする。
「その妻、カレンでございます」と、銀髪の女。
「……フェイ」夢魔の女は、声を潜めるかのような小声で名乗り、再びフードを被った。
そして三人は最後に一礼し、背中を見せて扉から出て行った。
カミーラは、その後ろ姿を静かに見送った。やがて、複数の足音が遠ざかる。
その音を聞き届けながら、カミーラは目の前が闇に包まれたかのような絶望感に陥っていた。
恩師が、議会が魔物の手に堕ちたという事実に。そして、この街を実質的に支配している議会の最大派閥の長に単身立ち向かわねばならぬという事に。
現状を打破する策は皆無。
「カミーラ様──」
その時、扉が開き、一人の使用人の女が入ってきた。先刻、玄関の前で訪問者の三人と鉢合わせとなり、急に体調不良を起こし、倒れてしまった女。主に万一の事がないかと思い至り、様子を窺いにやってきたのだ。
それを見たカミーラは我に返り、その使用人の女を呼び寄せた。
「何か──?」呼び寄せられた女は、軽い一礼の後、どこか不安げな表情を浮かべながらカミーラのもとへと歩み寄った。
「忙しいところ申し訳ないのですが、火急の用がありまして、麓に住む娘のところに行かねばならなくなりました。暫くの間は戻れぬと思いますので、留守を任せましたと、使用人長に伝えては頂けませんか?」
「……かしこまりました」
恭しく頭を下げて返事をした後、使用人の女は主の部屋を後にした。
やや慌ただしく、廊下を駆ける足音を背中で聞きながら、カミーラは窓の外、その眼下に広がる町並みを眺めた。
そして、忌々しそうに呟く。
「錬金術師──神の領域に土足で踏み入らんとする不心得者どもめ」と。
──今に天罰が下るであろう。それまで、首を洗って待つがよい。
そう、強く念じて、司祭は外出の準備に取り掛かった。
成り行きとはいえ、議会の有力者と通じている者に、敵対の意を口外してしまったのだ。間違いなく、この情報は派閥の長の耳に入るだろう。
刺客を送られる事も十分に考えられた。いち早く、ここより離れる事こそ肝要と判断しての行動であった。
ヴェクターと名乗った黄土色の髪の男を先頭とした一行は、終始無言のまま、麓へと至る下り坂道を歩いていた。
「ねぇ」
不意に、ヴェクターの妻・カレンが夫を呼び止めた。
無言のまま、そして後ろを振り向かぬまま、ただ足を止め、ヴェクターは妻が隣に並ぶのを待つ。
そして、妻が隣に並んだのを確認した後、再び歩き出した。
「私たちの本当の関係──あの、カミーラは気付いたのかしらね?」
「──さぁな」素気なく、ヴェクターが答えた。「相手は執政の世界に身を投じている政治家だ。他人に対する観察眼は我々の想像を絶するだろう。──とはいえ、確信には至ってはいないだろうが」
「そうね」
カレンが足を止め、再び夫との距離をとる。そして再び、その背中を追いかけるように、また歩き出した。
「私達の絆は、並の夫婦のそれとは違う。新しい概念の介入を嫌う頭の堅い奴等に知らしめてやりましょう」
妻の声を背中で聞き、ヴェクターは静かに頷いた。
「グリフォンの魂の力により呪いさえ解ければ、神殿の連中も私達のような縁組を認めざるを得ないだろう。それまではもう少しの辛抱だ」男の瞳に強く、そして少し暗い光が宿る。「──そして、その為には手段は選ばぬ」
「ええ」カレンの目にも、同様の光が宿った。
「どこまでも共に行きます。あなた」
言葉を噛みしめるかのように口を噤む。そして数瞬の後、カレンは口を開き、静かに呟いた。
「──いえ、お兄様」と。
その声は、麓から吹く風に溶けていった。
二人の後ろで終始に渡り、沈黙を守っていた夢魔の女の口元に、淫靡な笑みが浮かんだ。
<2>
カミーラの館より、南に徒歩で数時間の距離にある山中。
その乾いた大地に、赤い飛沫が舞い落ちた。
今、この場では十人余りの男女が入り乱れ、刃を合わせる激しい戦闘が行われていた。
怒声と金属音が木霊する。
その殆どは、この地帯一帯を縄張りとしている山賊。
彼らの狙いは馬。戦いの輪の中で、嘶く二頭の馬であった。片方は黒鹿毛、もう片方は純白の毛をもつそれは、そのいずれも輝かんとばかりの毛並みだけではなく、均整のとれた体躯、隆々とした筋肉──全てにおいて名馬と称されるに相応しき風貌であった。奪い、売り飛ばせば相応の値がつくと思われた故、山賊らは持ち主と思しき者たちを襲撃することとなった。
それに抗い、迎え撃つのは、これら二頭の名馬の持ち主と思しき三人の男女。
彼らは、各々の武器を見事な技量をもって縦横に操り、その一振りをもって、襲撃者を切り伏せ、または薙ぎ払い、そして殴り倒していた。
多勢に無勢という様相。だが、その数的不利とは真逆の戦況。
一人は、美しい金色の長い髪の女。身に纏っている青と白を基調とした神官衣の肩を超えたあたりまで伸ばされた髪を、簡素な髪留めで飾られていた。激しい戦闘の最中であれども、その髪は動きに合わせてしなやかに揺れる。
右手には戦鎚。左手には小盾。神官衣の袖の下からは銀色に輝く鎖帷子が覗いた。
彼女は、相手の一瞬の隙を見逃さず、鋭く重く、そして的確な鎚の一撃を襲撃者へ叩き込む。戦士としての技量も相応なるものが備わっているのだろう。
彼女の名はセティ。ここより遥か東方にある街──グリフォン・フェザーの街の神殿に勤める神官である。
そのセティと背中合わせとなる位置にて、懸命に剣を振るう者がいた。
短く切り揃えられた髪と、美しい額飾りが印象的な女性。
右手に握られているのは剣。刃は片刃。やや肉厚に作られたそれは、耐久面を重視した造りとなっている。また、その外観に反して軽い。
襲撃者の攻撃を、左手の大きな──彼女の半身を覆い隠せるほどの盾で防ぎ、瞬時に攻勢に転じ、剣を繰り出す。
二度、三度と相手の動きを牽制するかのように剣を繰り出した後、がら空きとなった脇腹に、鋭い横薙ぎを見舞う。
その一撃により蹲り、痛みに苦しむ襲撃者を視認し、これ以上、戦う意思がないと判断するや、彼女は地を蹴り、次なる標的を目指して駆ける。
その時、鳥類の翼を模した紋章が刻まれている、彼女の胸当てが揺れた。
彼女の名はエリス。セティと同じグリフォン・フェザーの街に駐在している騎士隊に所属している女騎士である。
この国の全騎士団を総統する男を父に持つ、由緒正しき武官の娘。
エリスは次なる標的を定め、一気に加速する。その速度を緩めぬまま、標的の肩口目がけて剣を突き立てた。利き腕の肩を刺し貫かれ、得物を落とし叫び声をあげる賊を足蹴で突き放すと、エリスは周囲を見遣る。
彼女の視界の隅で、威勢よく声を張り上げる数人の襲撃者らの前に立ち、悠然と剣を構える男の姿を視認した。
黒髪の青年。全身を包むのは重厚なる甲冑。両の手に握られているのは両刃の剛剣。それを構えながら歩み出るその歩調は、重厚な鎧を纏っているとは思えぬほど軽く、まるで闇に潜み獲物を狙う獣の足取りの如く、静かで力強い。
数人がかりで取り囲み、一斉に声をあげて圧倒しているにも関わらず、それを軽く聞き流し向かってくる様は、襲撃者らを恐怖に陥れ、戦慄させるに余りある光景。
青年が一歩進み出ると、それに呼応するかのように、襲撃者らが一歩後ろに下がる。それはまさに、たった一人の青年が、数人の襲撃者を圧倒している確固たる証。
その時、襲撃者のうち、一人が眼前の青年に対する恐怖に耐えきれず、右手の得物を振りかざし、地を蹴った。
青年は、奇声をあげながら飛び掛かる男の胴に狙いを定め、左足を大きく踏み出し、横薙ぎに剣を繰り出す動作へと移った。青年の眼が一際鋭くなり、そこにぎらりとした光が宿る。
刹那、剛剣が一閃した。それは、細身の体躯より繰り出されたとは到底思えぬ程の速度を伴い、大きな唸り声をあげる。
その一撃の威圧は嵐の如く。並の剣士のそれとは数段も速く、鋭く、そして何よりも重い。
剣の標的となった襲撃者の男は、その刃に死神の鎌を幻視した。肌が粟立ち、全ての思考が止まり、動作が止まった。
やがて、魔性とも称すべきその剣は、相手の胴を捕らえ、一刀のもとに両断した。血飛沫が男の顔にかかる。
そして、男はゆっくりと他の襲撃者を睨みつけた。その様は、神話の中に登場する鬼神の如し。残った襲撃者の全てが、眼前の鬼神の姿に畏れ、次々と腰を抜かし、這う這うの体で退散していく。
襲撃者が去り、その姿が視界から消えた時、男が天を仰ぎ、軽い安堵の息をついた。
彼の名はレヴィン。エリスと同じグリフォン・フェザーの街に駐在している騎士隊に所属している若き騎士である。
学者の家に生まれた、エリスの幼馴染の男。
本来ならば、今頃は書物に囲まれ、学問を究めているはずの家柄。
だが、彼は幼少の頃にエリスと出会い、騎士となる道を選んだ。
それは、彼が類稀なる身体能力を内包しており、それをエリスの父──現騎士団の長にそれを見出されたが故に。
彼の太刀筋こそが、その確固たる証明。
類稀なる身体能力を持つ者が、長きに渡り研鑽を積み重ねた者でなければ到達出来ぬ、離れ業といえよう。
レヴィンは、エリスとセティの方を振り向き、ゆっくりと口を開いた。
「二人とも、大丈夫か?」
「ええ、大丈夫よ」
そう言って軽く手をあげ、エリスは自分の無事をレヴィンに示した。その隣でセティが微笑む。
「頼もしい限りだ」
レヴィンは軽く頷き、微笑んだ。
「当たり前じゃない。こんな野盗ごときに後れをとるような私達じゃないでしょう?」
「そうですね」
エリスとセティの顔にも笑みが浮かんだ。
先刻の、緊迫した空気が一気に弛緩し、穏やかな時間が流れる。
二人の騎士、そして一人の神官。彼ら三人は今、旅の途にある。
それは騎士団と教団、両方からの使命を受けての旅。
その使命とは、ある『秘術』を授かって来る事。
──それは、ある邪法への対抗手段である。
千年前、魔物の大量繁殖が起こり、人間らとの間で大規模な戦争が勃発した。今も続いている人と魔物との戦いの歴史の中で、最も熾烈を極めた時代にそれは生まれた。
それは『黒い蟲』と呼ばれる異形の物体を用いてのもの。
『黒い蟲』とは、毒々しい臓物にも似た表面と、無数の触手を持った物体。それを魔物の後頭部に取り付け、触手を脳に埋め込むことより、その脳を他者の意のままに操ることが可能となる。
昔日の戦いの折、愚鈍な為に、群れても烏合の衆にしか過ぎなかった下級の魔物らは、この邪法により訓練された軍隊へと変貌を遂げた。
組織的に運用されたそれらは、当時の人間たちを存分に苦しめたと伝えられる。
その邪法が、悪意ある人間の手により復活を遂げた。高名な錬金術師である男の手によって。
その男の名は、レーヴェンデ=アンクレッド。グリフォン・フェザーの街の由緒正しき貴族家に生まれ、幼少の頃に受けた心の傷の影響で騎士を怨むようになり、その存在意義を奪う為に一生を費やした男。
そんな彼が生み出したもの──それは、数々の生物兵器。
その生物兵器を作り上げる際、彼はその邪法を利用した。それは、偶然なのか必然なのかは誰にもわからない。
だが、彼は昔日の戦いの時に失われたはずの『黒い蟲』を作り上げ、それを魔物だけではなく人間にも適用できるように改良を施していた。
実験はある程度の成功を遂げた。
その手法は、門下生である多くの錬金術師に伝授され、今では全大陸規模で人体実験が行われているという。
各地で、脳に『蟲』を埋め込まれた者による凶悪な犯罪が多発し、人々を恐怖へと陥れている。
無論、これを看過することは出来ない。
その為、騎士団及び教団は、その対抗策を講じなければならなかった。
──『霊術士』と呼ばれる者達がいる。
彼らは、西の果ての霊山に眠ると言われている聖獣グリフォンの魂と交信し、己の体を通じ、奇跡の力を行使する者。
昔日の戦いの時も、『蟲』を用いての邪法は、天から舞い降りた聖獣グリフォンの奇跡の力──閃光によって打ち破られ、人間らを苦しめた魔物、その殆どは滅ぼされた。
即ち、その聖獣グリフォンの閃光を再現する事が可能となれば、邪法への対抗手段に成り得ると、騎士団と教団の長は考えたのだ。
かのような『秘術』が存在しているかは、誰にもわからない。だが、『霊術士』の知恵を借りれば、何らかの糸口を見出す事が出来るのかも知れない──
騎士団と教団は、藁にも縋る思いでレヴィンらを、この西の地へと派遣したのだった。
そして、三人が旅を始めて一月余り、彼らは西の最果ての街である高山都市・グリフォン・テイルに辿り着こうとしていた。
「日が暮れる前に山を下りてしまおう。急ぐぞ」
レヴィンは、返り血で汚れた顔を手拭いで拭い、出発の準備を始めていた。手早く手荷物をまとめ、黒鹿毛の馬に跨る。
「そうだね」エリスが元気よく頷くと、彼女もまた手早く荷物をまとめ、白馬の上に跨った。そして、セティに手を差し伸べる。
セティは、彼女の手をとり馬の後ろに跨った。
これらの馬は、騎士団より貸与された駿馬。主に任務により遠方へ派遣される際、早馬として使用されるものである。
「さぁ、行こう!」
エリスが元気な声をあげ、手綱を引き、馬首を巡らせた。慌ててセティがエリスの背中にしがみつく。
白馬は気品に満ちた声で嘶くと、颯爽と丘の斜面を駆け降りた。
それに少し遅れ、レヴィンを乗せた黒馬が続く。
空を見上げると、少し日が高くなってきたように思えた。昼に近い時刻なのだろう。
この丘陵を下りれば、目的の地・グリフォン・テイル。このまま急げば、日没までには辿り着くことが出来るだろう。
──今夜は野宿をせずに済みそうだ。
そんなささやかな幸せに、エリスは思わず笑顔になる。
麓から吹きあげる風が、二頭の馬の鬣と、三人の若者の髪を揺らした。
<3>
──高山都市・グリフォン・テイル。
宗教都市として名高く、この国で唯一、騎士団の保護下に置かれず、大聖堂の管理下に置かれる『僧兵』と称される神官戦士らによる自治が認められている街。
目指すは太守の居城。騎士団の長がしたためた親書を携え、協力を仰ぐ為に。
時は夕刻。間もなく日没の刻を迎える。居城は夜盗への警戒の為、既に門扉は固く閉ざされていた。その為、夜間に外部の者が城内の者に面会を要請することは原則禁止されている。
レヴィンは、門前の衛兵に翌朝に改めて訪問する旨を伝え、城を後にした。
手頃な宿を探すため街中を歩く馬上の三人は時折、巡礼用の神官着を纏った人と擦れ違った。その度にセティは略式の挨拶を交わす。
「さすがは宗教都市。巡礼者が多いわね」
エリスが素直な感想を漏らした。
騎士団も保護下に置かれている他の街で、街中の警護を行っているのはレヴィンやエリスのような若い下級の騎士。そして、騎士団の管理下に置かれている民間の巡回兵らである。普段、街中を歩いているだけで、容易に彼らと出会う事が出来る。
そんな環境下で育ったエリスにとって、騎士や巡回兵の姿が全くないグリフォン・テイルの街の光景は、極めて新鮮なものであった。
「静かでしょう?」
セティが微笑みながら、街中の光景を懐かしそうに眺めた。
グリフォン・テイルの街は教団の大聖堂がある総本山。巡礼の旅の終着点。神官である彼女は幾度となく訪れたことがある。まさに第二の故郷──そう言っても過言ではない。
「──心が落ち着く静けさだ」
レヴィンが頷く。彼もまたエリスと同様、都会では決して味わうことの出来ぬ、夜の静寂を堪能しているようだった。
こんな静かな夜ならば、好きな読書もはかどる事だろう。レヴィンはそう思った。だが、今は任務の最中。余計な荷となる書物の類は持参してはいなかった。その事を少し後悔する。
「では、今晩はここに泊まりましょう」ふと、セティが前方を指差す。その先には、質素な看板を掲げた建物があった。「ここの宿が、食事も美味しくて安いのです。巡礼の旅で、この街を訪れるときは必ずこの宿に滞在することにしています」
「じゃあ、ここにしようよ」
「そうだな」
二人の騎士も同意する。異邦人である二人が、土地勘のある者の案内に異議を申し立てる理由はない。
目的の建物の前で馬を止め、下馬した三人は外で待機していた使用人を呼び寄せ、馬小屋の手配を指示した後、建物へと足を踏み入れた。
「セティ」
宿屋の一階にある酒場を兼ねた食堂。喧騒の極みにある中、三人が食卓を囲い、遅い夕食を取り終えた頃。エリスが不意に声を発した。
レヴィンとセティの視線が一斉に彼女に集まる。名前を呼ばれた女神官は、怪訝そうな顔をしながら小首を傾げた。
「どうしてこの街に、騎士団が常駐していないの?」
次いで、エリスの口より発せられたのは素朴な疑問であった。この大陸の殆どの街では、その多寡はあれども王都より騎士を派遣され、街の防衛の為に常駐しているのが常。
街の外には、人の手の入っていない地域が多々あり、それらの殆どが魔物達の住処となっているが故。彼らは時折、人里に下りてきては、人間を襲うからである。
だが、このグリフォン・テイルの街は、騎士団の保護下に置かれない、教団による自治が認められている、この国で唯一の街。
故に、この街には騎士の姿はない。無論、騎士隊の詰所らしき建物も存在しない。
それならば、人間にとって外敵となる魔物に対する防衛はどうしているのだろうか?
ましてや、この国で広く信奉されている一大教団の総本山──国民の求心力の中枢と言っても過言ではないこの街を、騎士の存在なくして如何様にして護り通す事が出来るのだろうか?
この国の住人であるのならば、誰しもが思い至る疑問。
「そういうお話でしたら、レヴィンさんが詳しいのではないのでしょうか? 家柄上、説明も上手かと思いますけど……」
セティはレヴィンに視線を投げかける。
「俺も知ってはいるが──これは、所詮は文献で得た知識に過ぎないさ」騎士の男は、軽い自嘲めいた笑顔を浮かべた。
「文献というものは得てして情報が偏っているものだからな」
「なるほど。百冊の本を読んで得た知識よりも、一見によって得た知識の方が、役に立つってことね」エリスが得心した様子で頷いた。「それなら尚更、何度もこの街に訪れたことのあるセティから、ご教授願いたいものね」
「そうだな。明朝早々に太守に接見するのだからな。何かあっても失礼の無いよう、この街の特殊な事情に関して勉強しておかなければ」
レヴィンのこの発言にエリスが笑顔で頷いた。そんな親友の屈託のない笑顔に、セティは仕方ないと言わんがばかりに、軽い溜息をつく。
「千年前、人と魔物の軍勢との戦いの末、魔物の殆どが聖獣グリフォンによって滅ぼされました。ですが、ご存じの通り全ての魔物が滅んだわけではなく、今でも我々人間の脅威となり続けています。その脅威より人々を守るために、この国では騎士団を組織し、各地に派遣しているのですが、例外として騎士の力を必要としなかった地域が存在します」
「それが、この街なのだな」
「ええ」レヴィンの問いに、セティが頷いた。
「理由は、ここより西方にある霊山に眠ると言われている聖獣グリフォンの魂の存在があるからです。魔物は聖獣の力を畏れるあまり、この地域には一切寄り付かないとも言われております。それ故に、この街を防衛するには騎士の持つ武力は過剰なものでありました」
「だから、騎士は必要とされてなかったのね」エリスの納得した様子に、セティは頷く。そして彼女は少し間を置き、続けた。
「とはいえ、これだけ人が集まる街ですから、中には過ちを犯す者も出てきます。罪を犯した者を取り締まるのは、本来騎士や民間の巡回兵の役割なのですが、騎士隊のないグリフォン・テイルの街では、それに代わる組織が別途必要だったのです──そして、その役目を担ったのは大聖堂でした。大聖堂は、大陸中に散在する神殿を統べる聖地であり、巡礼の旅の最終目的地です。大陸各地よりこの地を目指す巡礼者は多く、毎年多額の寄付金を確保しておりました。ですから、このような組織を結成し、維持できる基盤は十分に整っていたのです。また、大聖堂は人々の信仰の対象であり絶大な支持を受けていた為、これらの武力と権限を持つことに異を唱える者はいませんでした」
「──こうして、大聖堂による自治体制が自然と構築されていった訳だな」レヴィンが頷く。「俺の読んだ文献によると、大聖堂は議会にも多大なる影響力を持っているそうだ。議員の半数近くは司祭や神官などといった、教団関係者で占められているとか」
「その通りです」セティが即座に肯定した。「大聖堂は人々の心の拠り所とされ、民意を反映させる目的があるそうなのですが……」
「でもさ」エリスが遠慮がちに言った。「余所者である私達から見ると、少し大聖堂に権力が傾いているような気がするね」
その発言に、レヴィンとセティが頷く。
この国の殆どの地域では、武を司る騎士団、教を司る神殿、そして貴族らが担う議会を明確に別組織化し、権力の均衡化を図っている。
しかし、例外として騎士団長や司教など、各々の組織の頂点に立つような者、またそれらに相当する地位にいる者であれば、国政に対して意見をする権限を持つが、基本的にこれら三組織は独立しており、権力が偏らぬよう牽制しあっている関係にある。
無論、騎士の中でも神殿勤めを兼任する敬虔な信者も存在している。セティのように積極的に騎士と接触を図り、交流を持つ者もいる。しかし、これらはあくまで個人の問題の範疇であり、世の常としては騎士団と議会、そして神殿が、表立って手を組むことはない。
そういう環境で長年暮らしてきた三人にとって、この宗教都市特有の体制には、少なからず違和感を覚えるのも道理。
「この街が、宗教都市と称される由縁か……」
レヴィンが呟く。改めて話を聞くと、その土地によって様々な事情、それによって築き上げられた歴史や、文化、思想、政治体制が存在しているということを痛感する。
自分より二つ程年下であるセティが過去に巡った旅で培った知識と経験──それが、いかに大きいものであるかということを思い知る。
そして同時に、自分の知識の狭窄さを情けなく思う。レヴィンは、改めてセティに対する尊敬の念を抱いた。
エリスも同じ思いだったのだろう。彼女がセティに向ける輝かんばかりの眼差しがそれを物語っていた。
セティは、二人より向けられた視線を、恥ずかしそうに受け止めていた。
「さぁ、勉強会はここまでにして、お茶にしましょう。安全な街での夜なんて久しぶりなのだから、少しくらいは肩の力を抜かないとね!」
エリスが明るい声でそう言うと、使用人を呼び、好物の香草茶を注文した。
香り高い茶が卓へと届けられると、三人の間で交わされる話題は他愛もないものへと移った。口調は快活に、しかしその眼は、お互いを思い遣る友愛に満ちた光を宿し、夜が更けるまで、彼らの語らいの場は一向に幕が降りる気配はなかった。
夜半に差し掛かった頃。酒場の喧騒が不意に失われた。
店の看板をくぐって戸口に立つ一団がおり、それが原因であった。この不意なる静寂に不審を覚えたレヴィンとエリス、そしてセティの三人は、戸口を振り返る。
それは、旅の一団と思しき三人の男女であった。
先んじて、戸口より歩き出したのは、一団の先頭に立ち、血で汚れ、所々錆びついている粗雑な甲冑で全身を包んでいる男。
褐色で彫りの深い顔。全く手入れされた様子もない黄土色の髪は、無造作に肩のところまで伸ばされている。
伴の者と思しき二人がそれに続く。
片方は女。腰に太刀を佩き、白色の衣服を纏っていた。彼女が歩を進めるたびに、布と金属が擦れる音が鳴った。恐らく、衣服の下に金属製の防具を仕込んでいるのだろう。
背まで伸ばされた長い髪の色は銀。肌の色は褐色。背格好は違えども、先頭を歩く男と似た印象を与える風貌。彼らを視認した者のうち洞察力のある者は、二人はある程度近しい血縁関係にあるだろうと勘繰る。
そしてもう片方は、全身を覆い隠すかのような長衣を纏い、フードを深く下ろしている為、その顔の詳細を伺い知ることは出来ない。
長衣の袖から覗く手は明らかに女性のものではあるが、驚く程に白い。巡礼の最終地として名高く、道行く者の殆どが、長旅の果ての巡礼者や旅人の類で占められるこの街では有りえぬ肌の色であった。
彼らは一様に無口。だが、顔を視認できる二人の目には覇気にも似た光が宿っていた。
その一団を視認した者たち全てが、息をのんだ。ある者は、彼らの発する覇気に気圧され、またある者は、その覇気の奥にある毒気めいた異様さを察したが故に。
衆人が環視する中、一団は戸口近くの卓へと歩み寄り、席に腰をおろす。
そして黄土色の髪の男と銀髪の女は、首に下げていた装飾物を外し、まるで忌々しいものを扱うかの如く、卓上へと放り投げた。
それを視認したセティの表情が、嫌悪のそれへと変わる。
銀色の鎖の通されているそれは、司祭や神官らが身に付け、我が命と等しく尊ぶとされる聖印。
だが、卓上に放り投げられたそれは、ひどく錆びついており、もはや原型を留めてはいなかった。
聖印をこれ程までに粗雑に扱う事は、即ち神に対する冒涜である。
ましてや、巡礼者が多く集うこの街において、人前で、かのような態度を晒すこと自体が、醜態と称されても過言ではない。過激な信者であれば、殺意すら抱く事だろう。
セティだけではない。彼らのその粗悪なる態度に、酒場の雰囲気は瞬時にして険悪なものへと変じた。
レヴィンやエリスの眼光も鋭くなる。
だが、旅の一団は、周囲の憤怒に満ちた視線を意に介した様子はない。
数瞬の後、黄土色の髪の男が周囲を見回した。その視線は他者を見下すかのような高慢的なそれであり、まるで己の挑発めいた行動によって得られる反応を楽しんでいるかのようだった。
場は最早、興醒めの体。食事を早々に済ませ席を立つ者、床に唾を吐き、悪態をつく者。多種多様な悪意が渦巻いた。
セティは、小さく神の御名を唱え、祈りを捧げる。
エリスは一瞬、頭に血がのぼったものの、セティの落ち着き払った様子を見て、溜飲を下げた──愚者の挑発を親切に相手する必要もない。そう自分に言い聞かせ、黄土色の髪の男より視線を外す。
悪意渦巻く空間の中、ただ一人、冷静な視線を投げかける者がいた。
レヴィンだった。
彼は一団の行動に、不可解な点を見出していた。観察めいた視線を外さぬまま、卓上の余った茶に口をつける。
──何故、あの男女二人が、一様に錆びた聖印を持っていたのだろうか?
過激な無神論者であろうか?
無神論者にも様々な形式があり、眼前の一団のように、宗教に対して反立を掲げる者もいる。
しかし、無神論者の殆どは反立を掲げる事による社会的制裁を恐れ、人目につかぬよう活動するのが常。故に、彼らは決して徒党を組むことはない。
ふと、レヴィンが視線を落とす。そして彼の鎧、その胸当てに刻まれた、グリフォン・フェザー騎士隊の紋章を見る。
騎士の紋章──それは、この者が騎士であるという証。言い換えれば、騎士道という思想に強く賛同し、遵守する事を誓った者であるという証。無論、エリスの胸当てにももちろん、同様の紋章が刻まれている。
即ち、自分とエリスが、騎士道という思想を共有している事を、外部に証明しているということ。
──なるほど、な。
改めて、レヴィンは黄土色の髪の男を見る。
あの錆びついた聖印は、騎士の紋章と同様、何らかの思想を共有している証。彼らは何らかの形で徒党を組み、教団に敵対しようとしているのではなかろうか?
騎士の青年は、そう仮定した。ならば、あの挑発めいた行動にも一定の合点がいくというもの、と。
その時、レヴィンの視線と、黄土色の髪の男の視線が合った。レヴィンの思考が中断する。
悪意めいた視線が渦巻くなか、レヴィンより投げかけられる一際冷静な視線に気がついたのだろうか? 二人はしばしの間、視線を衝突させていた。
その異変に気がついた、エリスとセティが心配そうにレヴィンの顔を覗き込む。
やがて、黄土色の髪の男の卓に注文の食事が届けられたことにより、長きに渡り行われた視線の衝突は中断された。男は視線を逸らし、静かに食事へと取りかかる。
──不可解な奴等だ。
レヴィンは、己の胸中に暗雲が広がっていくことを自覚していた。
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全8巻で構成される長編ファンタジー小説 "Two-Knights"第3巻の第一章を公開いたします。 現在、本作品は同人ダウンロード専門店「DLsite.com」「とらのあなダウンロードストア」「DiGiket.com」での購入が可能となっております。 http://www.dlsite.com/home/work/=/product_id/RJ099306.html http://dl.toranoana.jp/cgi-bin/coterie_item_detail.cgi?cf_id=260001745000 http://www.digiket.com/work/show/_data/ID=ITM0069312/ |
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