【加筆修正版】Two-Knights Vol'04 第一章「Wheel of Fortune」 |
<1>
その部屋は、静寂と宵闇が支配していた。
可視なる光は、大きな窓から差し込む月と星の光。そして、部屋の奥で揺らめく蝋燭の灯のみ。
銀の燭台に立てられたそれは、卓上に広げられた羊皮紙を淡く照らしていた。
それは、大陸西方部の地図。その傍らにあるのは、まだ灯のついていない燭台と、乱雑に並べられている白と黒の二色から成るチェスの駒一式。
闇の中から、白く細い手が現れ、駒の一つを掴んだ。
美しい女性の手。その手が掴んだのは、純白なる王の駒。
程なく、それは地図の上に置かれた。
地図の最西端に描かれた、街を指し示す記号の上に。
記号の傍、街の名が記されて然るべき位置にそれはなく、黒く塗り潰され、その下に新たな名が書き加えられていた。
──『神聖ソレイア公国』と。
窓の隙間より入り込んだ、穏やかな夜風が蝋燭の炎が静かに揺らし、それは地図上に駒を置いた女の姿を一瞬だけ照らした。
闇の中に浮かぶは、豪華な椅子に腰をかけた、少女の面影を残す若い女。
女は唇には紅を施し、胸が大きく開いた黒い薄絹の衣を纏っていた。こぼれんばかりの豊かな胸、絶妙な曲線を描いた細い腰。およそ男を誘惑するには理想的な程の姿態を晒している。
その服装は、清純な印象すら与える顔とは、到底釣り合わぬもの。
黒髪を飾る、純白の羽飾りがひとたび揺れた。
「東方へと派遣しました、有翼鬼からの情報によりますと──」
暗闇の中から声がした。それは、女の正面──卓を挟んで遥か前方、部屋の入口付近に立つ人影より発せられた。
「騎士団長シェティリーゼと、司教ウェズバルド、そして、グリフォン・ハートのウェムゾン侯爵を先頭とした一団が、グリフォン・ブラッドの街に向かっているようです。数は五千ほど。その半数が騎士団に属する者。三割がウェズバルド配下の神官戦士。そして、残りがウェムゾン侯爵の私兵団と思われます」
「なるほど」
黒き薄衣を纏った女は呟き、もうひとつの燭台に火を灯す。
光量が増し、部屋中の光景を淡く照らすほどに視界が広がると、やがて二つの蝋燭の炎は部屋の入口付近に立つ、二人の人間を照らし出した。
一方は男。飾り気の一切ない、全身を粗雑な甲冑で包んだ、まさに流浪の戦士の風貌。
兜はつけておらず、褐色で彫りの深い顔を晒し、全く手入れされた様子がない黄土色の髪は、蝋燭の光を浴び、更にくすんだ色へと変じていた。
もう一方は女。腰に太刀を佩き、白色の衣服を着ていた。しかし、その裾からは鎖帷子が覗き、時折、布と金属が擦れる音を立てる。
肌の色は褐色。背まで伸ばされた長い髪の色は銀。背格好は違えども、隣に立つ男と、どこか似た印象を与える風貌であった。
黒衣の女が静かに煙管を吹かす。艶やかな唇から吐き出された煙は、やがて地図の上を覆う真白き雲へと化した。
「我々への包囲網を敷く為の準備と見て間違いないでしょう」
銀髪の女が声を発した。
「彼らの目的は、我がソレイア公国の南方と東方の街道を全て封鎖すること。その為の派兵である事は明白。臨戦を視野に入れた行動──といったところでしょう。なにしろ、我々は人としての禁を犯し、かつて聖都と称された、このグリフォン・テイルを滅ぼし、新国を建立したのですからね」
「無論、想定の範囲内よ」黒衣の女が、皮肉めいた言葉を発する銀髪の女に冷淡な視線を向けた。「私は、一国の君主となったのです。この程度の苦難など、易々と乗り越えて見せましょう」
そう言い放つと、再び傍らのチェスの駒へと手を伸ばし、三つの黒き駒を掴んだ。一つは騎士、一つは司教。そして城兵の駒を、先刻、彼女が白き王の駒を置いた箇所から少し下にある地図記号──グリフォン・ブラッドの街を指し示す位置に置いた。
「想定の範囲内であるのならば対策は容易い。そうでしょう?」
可憐な顔に純然たる悪意の満ちた笑みを浮かべる──この表情こそが、この女の紛れなき本性であった。
彼女の名はソレイア。かつてのこの地、聖都グリフォン・テイルと呼ばれていた宗教都市に住まう高僧であり、議会の有力議員の一人であった女。
己の出世にのみ執心し、聖職者としての地位も、彼女にとっては『出世の為の踏み台』に過ぎず、本来聖職者が尊ばねばならぬはずの信仰とは無縁の、まさに歪なる心の主であった。
本来、神への信仰こそが、聖職者個々の思想の基盤となる。だが、己の利権──政治的影響力を高めるために、信仰を都合よく捻じ曲げる様は、大陸中に散在する聖職者であるのならば、名を聞いただけで地に唾するほどの評価を下されているという有様。
策を弄し、様々な政治家に取り入り、己の派閥を大きく育て上げた事に成功したものの、それ以上に地位に就くためには、民衆の支持が必須。それは、悪評高い彼女にとって、到底手に入れることのできぬ代物。
それはまさに、飼い殺しの様相。ソレイアは己の招いた悪評によって、出世の芽を潰してしまい、野望は志半ばで潰えるものと思われていた。
だが、それは彼女の前に、この二人──黄土色の髪の男・ヴェクターと、その実妹にして妻である銀髪の女・カレン──が現れた事により、運命は大きく変わることとなる。
騎士を何よりも憎み、『騎士不要論』を掲げた第一人者にして生命操作術の権威として、その名を知らぬもののいない天才錬金術士レーヴェンデ=アンクレッドに師事している二人は、途方に暮れていたソレイアに、錬金術の知識──生体の脳に埋め込む事により、他者を意のままに操る技術──『黒い蟲』を授けたのだ。
そう、ソレイアはその技術の力を借りて、グリフォン・テイル議会最大派閥であるユージン派の領袖ユージンを操り、議会の票を意のままに操る事のできる地位を手に入れると、ヴェクターらの事前に提示した交換条件に従い、権限を行使して、聖獣グリフォンの魂が眠る霊峰の解放を実現させた。
聖獣グリフォンは昔日の戦において、魔物でありながらも人間の側に与し、その膨大なる魔力をもって数多の魔物を撃退した獣。それ故に魔物は恐怖し、聖獣の死後、その魂が眠るこの地方に魔物が接近することはなかった。一般には、聖獣の魂が魔物を遠ざけるための波動を出し続けていることに起因しているという、誰が吹聴したかもわからぬ諸説が、定説として扱われていた。
だが、それもソレイアが霊峰の解放を実現させ、調査の手が入ると、その定説とは似て非なる真実を白日の下に晒すこととなった。
確かに聖獣の魂は存在していた。だが、その実は異なり、聖獣の魂の正体は只管に無味無臭、無指向性の純粋なる『力』の塊であり、諸説で語られるような類のものに非ず。即ち、魔物にとっても一切『無害』な存在であるという事を。
それを知った錬金術士レーヴェンデ=アンクレッドの門弟にあたる錬金術士達。『騎士不要論』を唱える師の教えに盲目的に従う狂人の群れは、『蟲』の力を用いて魔物を率い、グリフォン・テイルへの侵攻を始めたのだった。
定説を信じていたが為に、魔物に対する本格的な武力を持ち合わせていなかったグリフォン・テイルは瞬く間に陥落することとなる。
それこそが、ソレイアと錬金術士の狙い。
錬金術士らにとって、この侵攻は師の思想を叶える為──魔物に対する武力である騎士の地位を失墜させる為の手段を世に示す事であり、そしてソレイアにとっても、自分に否を突き付ける民衆を粛清し、新たなる支持基盤を構築するために必要な過程であったからだ。
こうして、かつての聖都グリフォン・テイルは魔物らにより蹂躙・占領され、彼らを新たな臣民と定めた『神聖ソレイア公国』の建国へとなった。
それが、二ヵ月前の事である。
だが、魔物による占領・支配こそ成功したものの、逃亡する元聖都住人らの追討に失敗してしまったことにより、事の次第が周辺地域のみならず、遥か東方の王都に至るまで、この事実が白日の下に晒される事となった。
無論、このような非人道的な行為は公に認められる筈もなく、周辺地域からの非難は必至。国の武を担う騎士団や、教を司る神殿、そして政を担う議会が総力をもって、やがてこれを討ちにかかるであろう。
故にソレイアは直属の配下たる錬金術士兄妹に、周辺地域の動向を監視するよう、命令を下していたのだ。
「恐らく、彼らは一度グリフォン・ブラッドの街に集結した後、グリフォン・ブラッド、グリフォン・リブ、フラムへと兵力を分散してくるものかと思われます」銀髪の女、カレンが言った。「そうなれば、もはや我々は封鎖されたも同然。この国は標高が高く、土地が痩せている以上、今後、必ずや食糧の問題が浮上する事でしょう。せめて麓との交易経路を確保せねば、逼迫した事態に発展しかねません」
声は平静を装ってはいたものの、心底に渦巻く焦りの感情は隠しきれぬ。
そんな部下の言葉を、黒衣の司祭は頬杖をつき、黙して聞き入っていた。端正な顔に、冷ややかな笑みを浮かべたまま。
数瞬の後、ソレイアは静かに口を開いた。
「その目論見は、成功し得ぬ」──と。
いつの間にか地図上の駒が動かされていた。先刻までグリフォン・ブラッドの位置に置かれていたはずの三つの黒い駒のうち、一つ──城兵の駒のみが、遥か北方にあるグリフォン・リブの街を示す位置へと置かれていた。
「因縁というものは、とても面白い。長き歴史の中で構築された茨の如き繋がりは、時にして必要以上の痛みを伴うもの」
意味深長な発言であった。だが、その真意は聴衆であるヴェクターとカレンには到底理解できぬ。疑念に満ちた二組の視線が、ソレイアへと突き刺さっていた。
見れば地図上のフラムの地は、未だ空白。
この駒の動きこそが、彼女の真意を指し示すのだろうという直感が錬金術士の脳裏をよぎった。だが、それは確信には程遠い思考の産物であり、兄妹にして夫婦たる男女の疑念を拭い去るまでには至らぬ。
ソレイアは、そんな二人の思考など意に介した素振りすら見せず、更に続けた。
「この包囲網作戦は、グリフォン・ブラッド騎士隊が中核を成すことでしょう。西方地域最強の騎士隊である所以、それは道理。だが、その軽率な道理こそが罠であり隙。そして、それは我々にとっての好機と成り果てる──」
「グリフォン・ブラッド騎士隊が中核を成すことと、作戦の失敗に何の因果があると言うのだ?」
不可解な発言を繰り返し、一向に詳細を話さぬ眼前の女に心底苛立ったヴェクターが口調荒く問い詰めた。
しかし、公国の新君主たる女は、悠然とした様子で頷くと、まるでヴェクターを挑発するかのように、更に穏やかな口調をもって彼の詰問に応じた。
「禍根の根は深く、それは眼前にある一大事すら見えなくさせてしまう程。グリフォン・ブラッド騎士隊とフラムの間にある、深き因縁──強者と弱者の間に生まれた、永遠に埋まることなき溝の介在がある以上、奴らの足並みは揃わぬ」
そう言い、もう一つの駒──純白の兵士の駒を手にし、地図上に置いた。それはまるで、地図上の黒い駒による侵攻を防ぐ為の絶妙な一手を打つかのようであった。
駒が置かれたのは、地図上のフラムの街。
「ところで『あれ』の完成まで、どの程度の日数が必要でしょうか?」
そして不意に、カレンに問いかけた。
それは、第三者には全く通じぬ問い。だが、この場に居合わせた者は皆、笑みを浮かべ、その問いが指し示す真意を瞬時に理解した。
そして、回答者たる銀髪の女は即座に頷く。
「──調整が必要であるため、あと三週間程かかるかと」
「では『あれ』の試作品が完成次第、それを携えてフラムの街へ向かって頂きます。領主のところへ赴き、交易経路の確保のため尽力してほしいとの旨を伝えるのです」
「──なるほど。フラム領主様には、そのような御性癖が」
ソレイアからの指示を聞き入れ、得心した様子のカレンは、その顔に邪悪な笑みを浮かべた。
「それならば、我々の陳情に御耳を傾けて下さることでしょう」
「ええ。ですから完成を急いでください」
「わかりました。──では、早速」
そう言い、恭しく一礼をすると、カレンは足早に部屋を後にする。軽く、弾むような足音。それが次第に薄れて聞こえなくなるまで、ソレイアとヴェクターは、開け放たれた扉を静かに見つめていた。
「さて、ヴェクター」カレンが去るのを見届けた後、ソレイアはヴェクターの方へと向きなおった。「貴方にも、お願いしたい事があります」
彼女の手には、もう一つの駒が握られていた。先刻と同じ、白色の兵士の駒。ソレイアは、その駒を黒き騎士と司祭を示す駒の傍に静かに置いた。地図上のグリフォン・ブラッドの街の位置に。
「無論、フラム領主を堕としたところで、抜本的な解決にはなりません。騎士団・神殿・議会の三勢力の足並みを乱すことこそが肝要──わかりますね?」
ヴェクターは頷いた。彼の表情から疑念に満ちた感情は、既に消え失せていた。胸中に渦巻く疑問に対し、彼なりの結論を見出したのだろう。その納得した様子を見て、ソレイアは笑顔で頷いた。
「手段は問いません。貴方にお願いしたいことは──騎士団長・シェティリーゼと、司教ウェズバルドを闇に葬ることです。グリフォン・ブラッドは西方地域最強の騎士隊を擁する大都市でありますが、大都市ゆえ、その恩恵を授かれず、影の中に生きる事を余儀なくされている者もまた数多。この使命を全うする為に、彼等は十分にも利用出来るでしょう」
それは、暗殺の命令であった。
この国の二大巨頭として名高き、武の英雄・騎士団長シェティリーゼと、教の筆頭・司教ウェズバルドの抹殺。一筋縄では行かぬ使命であることは明白であった。だが──
「御意」
ヴェクターは首を縦に振り、その命令を聞き入れた。
──俺には、この女がいる。一介の破戒僧から公国の君主へと成り上がった、この女の後ろ盾さえあれば、如何なる事も不可能ではない。
この国の建国を、ソレイアに示唆したのは自分と妹である。この国が発展するという事は、即ち己の発展でもある。
目障りな固定観念を打ち破り、新たな技術を開発することを至上の喜びとする錬金術士にとって、これ程までに楽しいことはあるだろうか?
歓喜は錬金術士の脳を刺激し、思考の歯車を急速に回転させる原動力となり、また潤滑油となった。さまざまな計算・打算が彼の脳内を侵し、ソレイアの計画を実現させる為の考察を開始する。
一説には、人間と生き物は、脳を思考によって刺激されることに快楽を覚える生物であると言われている。
ヴェクターは己の肉体もって、その説が正しいという事を証明していた。
「では、早速。グリフォン・ブラッドへ向かい、計画を実行させるための準備に取り掛かるとしよう」
そう言い、踵を返すと、彼もまた弾むような軽い歩調で、部屋を後にした。それは先刻、この部屋を去った彼の妹・カレンの歩調と酷似したものであった。
こうして、室内にはソレイアが一人残された。水を打ったかのような静寂が、辺りを支配する。
「──肉親とは、ここまで似るものなのか」
声がした。彼女の背後、様々な家具や調度品が置かれた物陰より、己の気配を悟られぬよう、それは細心の注意をもって発せられた。
明らかな男の声──いや、薬品で声帯を潰した女の声なのかも知れぬ。物事の一端を垣間見ただけで、事の全てを察したかのように振舞うのは愚行の極み。ソレイアのような人の胸中に渦巻く闇を知る人間であるのならば、それは身について然るべき思考。
だから、彼女は声の主に対する勘繰りを止め、声のした方に振り向かず、視線すら向けず、姿勢を保ったまま、その声に応じた。
「夫婦も、お互いに似ると言いますから」
「──実妹を妻として娶ったのならば、似るのも道理か」
「そうですね」
ソレイアが微笑する。
「──冗談はさておき、貴殿のような方が、あのような児戯めいた策略だけで満足するとは思えぬが」
「だから、貴方を呼んだのでしょう?」
「──なるほど、愚問であったか」
「この包囲網を突破するためには、外からの破壊を促すだけでは却って奴らの結束を固めることになります──そう、肉体が傷つけば体内に流れる血液が傷口を固め、強固な瘡蓋を作るようにね──ですから、外側だけではなく内側から崩壊させる手段も同時に講じなければ意味を成しません」
そう言い、黒衣の君主は軽く天を仰いだ。傍目には聖女が神に祈りを捧げる仕草にも見える。だが、彼女の頭の中を渦巻くのは、背筋の凍るような冷徹なる計算であった。
「無論、これは錬金術士らに任せるわけにはいきません」
ソレイアは、再び傍らにあるチェスの駒に手を伸ばし、三度白き兵士の駒を手に取ると、地図の右側──大陸の東方地域を記している只中に、それは置かれた。
「──なるほど。これは確かに錬金術士殿には頼めぬ」
「でしょう? だから、貴方にお願いしたいのです」
「御意。我々のような、闇の世界にしか生きることが出来ぬ者にとって、この国は是非とも存続して頂きたいと切に願っている。故に我々は貴殿に対する協力は惜しまぬものと考えよ──」
「ありがとう」
ソレイアは静かに礼の言葉を述べた。だが、声の主が潜んでいたと思しき物陰に、既に人の気配はなかった。
三度、静寂だけが室内を支配する。
卓上にある地図──遥か東方の都市グリフォン・フェザーの上に置かれた真白き兵士の駒が、蝋燭の灯を反射し、妖しい輝きを見せた。
<2>
旧グリフォン・テイルの街より、南に七日ほどの距離にある街──グリフォン・ブラッド。
中心街より、やや北に外れた一角に、騎士隊の詰め所や宿舎、訓練場が併設されている施設がある。
その敷地内にある石造りの壁に囲まれた円形の部屋。
まるで闘技場を思わせるような構造の部屋の壁には、剣や槍、斧などといった様々な武具が掛けられていた。これらは訓練用の武具であるため、安全の為に刃は丸めてある。だが、これらも本気で扱えば、その重量だけでも命を奪いかねない危険な代物だ。
そして、その壁沿いに所狭しと並んでいるのは、重厚な甲冑に身を包んだ戦士達。その胸当てには、意匠を凝らした紋章が燦然と輝いていた。それは西方地域最強の騎士隊として名高いグリフォン・ブラッド騎士隊の紋章──そう、彼らはこれら西方最強の騎士隊に所属している者達である。
そんな強者達が一点を見つめ、まるで何かに憑かれたかのように黙し、今度は何かに魅入られたかのように、時折感嘆の声を漏らす。
そんな単純な動作を延々と繰り返していた。
彼らが注目しているのは、部屋の中央。そこで先刻より訓練用の剣を合わせ、剣の試合をしている若い男女の騎士の姿であった。
重厚な金属製の鎧を身に纏った二人は、その重さに屈することなく、各々の得物たる剣を恐るべき速度と精緻さをもって縦横に操り、技を繰り出しあう度に観衆は歓声をもって称え、またそれを盾や、巧みな体術をもって避ける度に、更に歓声があがった。
それは試合が長引くごとに大きくなり、眼前の一戦が名勝負であることを物語っていた。
気合の入った声をあげ、女騎士が鋭く踏み込み、鋭い剣の一撃を繰り出した。その時、短く切り揃えた髪が揺れ、その前髪の隙間から美しい髪飾りが覗く。
彼女の名はエリス。このグリフォン・ブラッドよりも遥か東方に位置する都市、グリフォン・フェザーの街に駐留する騎士隊、グリフォン・フェザー騎士隊に所属する女騎士である。
この国の全騎士隊を総統する男を父に持つ、由緒正しき武官の娘である彼女の剣技は、父親譲りの天賦の才能と、彼女自身の努力の賜物。
二度、三度と相手の動きを牽制するかのような攻撃を繰り返したのち、巧みに手首を返し、鋭い斬撃を見舞う。
それら一連の所作は瞬く間に行われ、その攻撃は如何様なる手練な剣士であっても、防ぐことは出来ないと、観衆の誰もが思っていた。
だが、その必殺の一撃も虚しく空を切る。
観衆より、一層深い感嘆の溜息が漏れた。
エリスは、対戦相手たる黒髪の男を睨みつけ、心の中で毒づいた。
一撃で勝負が決まる剣術試合において、絶対なる防具であるべき盾を用いず、両手持ちの太刀一本で、剣技の達人たるエリスと対峙する様は、周囲の観衆を驚きと感嘆の渦へ飲み込ませるには十分。
そんな装備上の圧倒的なる不利をものともせず、彼女の絶妙のフェイント、絶対の自信をもって繰り出した一撃を寸前で見切り、そして、紙一重の距離で避ける──まさに、己の尋常ならざる動体視力と、人間離れした身体能力の持ち主であることを周囲に見せつけているかのようであったからだ。
黒髪の男の名はレヴィン。エリスと同じグリフォン・フェザーの街に駐在している騎士隊に所属している若き騎士。
学者の家に生まれた、エリスの幼馴染である。
本来ならば、今頃は書物に囲まれ、学問を究めているはずの家柄。
だが、彼は幼少の頃にエリスと出会い、騎士となる道を選んだ。
それが、彼の内包していた類稀なる身体能力を開花させる結果となり、このように剣の名手たるエリスを体術のみで翻弄するほどの剣士へと成長を遂げていた。
そのレヴィンが、攻めあぐねているエリスに向かい挑発めいた視線を送る。
「……このぉ!」
挑発に乗せられ、苛立ったエリスが放った大振り気味の一撃。それは、冷静さを失った者が放つ典型的な悪手。人並外れた動体視力を持つレヴィンが、そのような粗末な一撃を見切るのは容易い。
また、このような大振りで放たれた一撃は、体の芯がぶれやすい為、次の動作へ移るまでに一瞬の遅れが生じる。
レヴィンはその隙を突き、攻勢へと転じた。
下段に構えた太刀をエリスの胴を目掛けて叩き込む。
それは、軽量であるエリスの片手持ちの剣の一撃よりも鋭く、そして重い一撃。
「!」
空を切り裂き、唸りを上げて襲いかかる剛剣を前に、エリスの表情が恐怖に凍り付く。
まさに、命を刈り取る死神の鎌の如き剣圧。その魔性の剣に魅了され、彼女の思考が一瞬だけ停止した。
レヴィンの剣は、エリスの胴を捕らえんとしていた。呆然と、そして陶然と立ち尽くす彼女が敗北を喫するのは時間の問題と思われた。
だが、エリスの剣士としての本能が──誇りがそれを許さぬ。
恐怖を必死に振り払い、左手の盾を太刀の軌道へと滑り込ませる。
刹那、けたたましい衝突音が室内に鳴り響いた。そして辺りに漂う、焦げ臭い匂い。
レヴィンの剛剣は、盾によって見事に阻まれていた。だが、縁を金属で補強しただけに過ぎぬ木製の盾は、剣より受けた衝撃と摩擦によって一部が黒く焦げ、表面より微かな白煙を上げる。
「この、化け物め!」
エリスが悪態をつく。
レヴィンの剣は、まさに彼女の言葉に集約されているかのような、常軌を逸した一撃であった。
だが、それこそ類稀なる身体能力を持つ者が、長きに渡り研鑽を積み重ねた成果である。努力を厭わず、己を鍛え続けた彼でなければ放つことの出来ぬ離れ業ともいえよう。
この恐るべき攻防の応酬に観衆がどよめく中、二人の間に訪れる数瞬の静止。
やがて、二人の騎士は静かに距離を置いた。呼吸を整え、エリスは正眼に、レヴィンは下段に剣を構えなおす。
再び攻防の応酬に臨む姿勢であった。言葉を用いずとも構えだけで伝わる意思。やがて、その意思は場内にいる全ての者に伝播し、場内の空気が急冷させていく。
その時、張り詰めた空気が室内を支配しようとした瞬間──凛とした声が響いた。
「それまで!」
その声は、観衆の中よりあがった。
人垣を分け入って、部屋の中央──レヴィンとエリスのもとに歩み寄ったのは、美しい金色の長い髪の女。身に纏っている青と白を基調とした神官衣の肩を超えたあたりまで伸ばされた髪を、簡素なヘアバンドで飾られていた。彼女が歩くたび、しなやかに揺れるそれは、まさに神話の世界にある金色の河の如し。
彼女の名はセティ。ここより遥か東方にある街──グリフォン・フェザーの街の神殿に勤める神官である。
彼女の手の上にあるのは、砂時計。見れば、中の砂が全て下の管に落下し終えていた。
「規定の五分経過ですよ」
それは試合終了の宣言であった。二人の騎士が全身の緊張を解く。構えられた剣が降ろされ、切っ先が石畳の地面に向けられた。
刹那、堰を切ったかのように喝采の声が沸き起こった。
若き天才同士による、想像を遥かに絶する試合を眼福にあずかり恐悦至極と浴びせられるそれは、二人の健闘を称える最大級の賛辞であった。
だが、絶賛の対象となった東方からの騎士の表情は晴れやかではない。むしろ、口惜しげな印象すら窺える。
それを見た、セティが心底呆れたような苦笑いを浮かべた。
「決着がつかなかったのを悔やむのも、向上心が旺盛なのも結構なのですが、今日が何の日なのか理解してくださいね」
腰に手を当て、不満そうな表情を浮かべる二人の騎士を諌めた。
それはまるで、子供の喧嘩を仲裁する母親の姿のようにも見えたのか、観衆より穏やかな笑い声があがる。
「そうだね」エリスが息をつく。肩の力が抜け、彼女の顔に本来の魅力ある自然な笑みが浮かんだ。
「そろそろ来る頃かな?」
「正午には出迎えの準備を始めないと間に合わないでしょう」
「あの悪夢のような戦いから二ヵ月か。短いようで長かったな」
笑顔を浮かべるセティの隣でレヴィンが静かに呟き、天を仰いだ。
エリスとセティ、そして観衆であったグリフォン・ブラッド騎士隊の面々──その場に居合わせた全ての者の表情が、一際引き締まる。
彼の言葉の真意は、二ヵ月前の起こった悲劇に起因する。
悲劇の舞台は、ここより北西の高山地帯を七日ほど登ったところにある、宗教都市として名高き聖都グリフォン・テイル。セティが所属する一大宗教組織の総本山である都市──いや、正確には総本山で『あった』都市。
レヴィンらの故郷・大陸東方地域は、錬金術士レーヴェンデ=アンクレッドが編み出した生体操作術『黒い蟲』の被害に悩まされており、その対抗策を求め、騎士団と神殿の命により、レヴィンとエリス、そしてセティの三人は遥か西の果てにある聖都を訪れていた。
霊術士と呼ばれる異能者──聖都のある高山地帯の中にある最高峰の山、霊峰に眠る聖獣グリフォンの魂と交信し、己の肉体を媒体とし聖獣の奇跡の力を行使する者と接触し『蟲』への対抗策、その手掛かりを模索するために。
だが、レヴィンらが訪れた時、聖都はまさに権力者が鎬を削る政争の坩堝の只中にあった。
そこで出会った新たな友──霊術士リリアと、その母、グリフォン・テイル議会の下級議員カミーラと共に奮闘するが、レーヴェンデ=アンクレッドの門弟である錬金術士と、彼らが操る魔物らの後援のもと議会を裏より席巻していた女司祭ソレイアの野望を防ぐに至らず──やがてグリフォン・テイルは彼女の手に落ちた。
そして、魔物による聖都占領の真実を外部に漏れることを恐れたソレイアは配下の僧兵、そして錬金術士らが操る魔物らに命じ、かつてのグリフォン・テイル住民に対しての大規模な粛清を行おうとしていた。
それを事前に察したグリフォン・テイルの前領主は、自らの命と引き換えに、住民を率いて安全な地へ逃げるようカミーラに命じ、レヴィンらの協力のもと、多大なる犠牲を払いながらも、ソレイアの魔手より聖都の住民を守り抜き、このグリフォン・ブラッドの街への逃亡に成功を遂げた。
その壮絶な撤退戦を生き抜いたレヴィンらは、生還するや即刻行動を起こした。
王都に向け、事の次第を王都の議会へ陳情する内容の書簡をしたため、早馬を走らせ、辛抱強く待つ事一月。
事の次第を重く受け止めた王都は、早急に議会を招集し、西方への派兵を含めた対応を検討していること。そして、準備が整うまでの間レヴィンとエリス、セティの三人には占領された聖都の動向を監視しながら、グリフォン・ブラッドで待機する旨を記した返答の書簡が届いた。
そして、その指示に従い待つ事、更に一月──
「──とはいえ、二ヵ月も居候生活を強いられるとは思わなかったけどね」
何気なくエリスが呟いた。レヴィンの顔に、乾いた笑いが浮かぶ。
噂では、旧聖都のある高山地帯の麓にある農村では、日々魔物やソレイア配下の兵らによる略奪が横行していると聞く。
彼らを救うため、救援に向かい成功する時もあれば、虚偽の情報を掴まされ、思わぬ痛手を追う時もあった。
無論、人員不足をはじめとした様々な理由により歯を噛みながら、救助を断念せざるを得なかった時もあった。
毎日が、神経をすり減らす日々であり、そんなレヴィンらにとって、二ヵ月という期間がいかに長いものであったかというのは、言うまでもない。
対応の遅い王都の議会に対し、苛立たぬ日は無かった。
そして、待機命令が下されてから一月経った昨日。王都の使者により、このグリフォン・ブラッドに派遣された兵が到着するとの知らせが入ったのだった。
「では、午前の訓練は、これにて終了とする。直ちに東方からの兵達を出迎える準備にかかるよう──」
グリフォン・ブラッド騎士隊の長より、一時解散の号令がかかると、上位の騎士らを先頭として、居合わせた全ての者らが、次々と室内から退出していく。
やがて、殆どの者が退室をし、室内にはレヴィン、エリス、セティの三人と、グリフォン・ブラッド騎士隊長の男が残った。
「流石は数千人もの聖都の民を守り抜き、生還を果たした勇者というべきか。私も騎士として二十余年に渡り、国に仕えているが──この若さにしてこれ程までの使い手を、私は知らぬ」
「恐縮です」
レヴィンが軽く頭を下げ、賛辞に答えた。
だが、三人の顔は苦渋に満ちており、この最大級の賛辞に対する歓喜は微塵も感じられなかった。
──千三百人。
それは二ヵ月前、グリフォン・テイルより住民らを逃がす為に、ソレイアの派遣した兵と戦い、死んでいった者の数である。
レヴィンとエリスは、彼らと同じ戦場で戦い、目の前で、その死の瞬間を垣間見た。
ある者は、汚らわしいゴブリンの錆びた槍によって串刺しにされ、またある者は火矢によって焼け死に、そして、またある者は戦の壮絶さに心を病み、錯乱して死んでいった。
その光景は今も尚、二人の騎士の瞼の裏に焼き付いている。故に、戦いの功績を称える言葉も、彼らの心の中で、ただ虚しく響くのみであった。
──仇を取らねばならなかった。
ソレイアを討ち、聖都を取り戻す。そして死んでいった者達──旧聖都太守の配下であった僧兵らが取り戻したかった日常を、再びこの手で蘇らせなければならない。
それを成し遂げずにして、このような称賛の声を素直に受け入れられることができようか?
二人の騎士、そして一人の神官の目に決意の光が宿り、西方の騎士の心を射抜いた。
「東方からの客人を迎え入れる準備は、我々グリフォン・ブラッド騎士隊に任せて頂きたい。貴殿らは、それまでの間、ゆっくりと休むといい」
「わかりました」
今度はエリスが答えた。試合が終わった後に一瞬だけ浮かべた魅力ある笑顔は既になく、真剣でありながらも、どこか苦悩を感じる表情であった。
それを見て、騎士隊の長は軽く溜息をつく。
「頭から水でも浴びて来るといい。それとも東には、汗臭い体のまま客人を迎える風習があるのか?」
「そんな風習、どこの世界にもないと思いますが……」
騎士隊長の品のない冗談に、セティが苦笑を浮かべると、三人の若者の顔に少しだけ笑顔が戻った。
<3>
太陽が南の空より少しだけ西に傾きかけた時刻。
レヴィンとエリス、そしてセティの三人は、整列する騎士らの先頭に立ち、施設の正門前にて、王都からの兵の来訪を待ちわびていた。
「そろそろ来る頃ですね」
セティは隣のエリスの顔色をうかがった。
兵らは、王都の重鎮らにより引率されているとのことであり、そのうちの一人が、騎士団長シェティリーゼ卿──エリスの父親であるという。
「うん……そうだね」
エリスは、複雑な表情をしていた。
使者の通達によると、この度、派遣された騎兵の数は五千余。騎士団から派遣された騎士が半数以上を占める混成軍であった。残る半数は神殿より派遣された神官戦士団と、議会の代表として派遣された貴族が個人的に抱える私兵団によって構成されている。
戦を想定した派兵であることは明白である。
戦いに対する不安が、父との再会──その喜びを遥かに凌駕しているのだろう。
故に、エリスの表情は暗い。
見れば、レヴィンも同じ表情をしていた。
今日という日が、新たな戦いの幕開けの日となる──
聖都を奪回し、戦を終えるその日まで、どれほどの時間が要するのだろう? どれほどの命が失われるのだろう?
時間よ戻ってほしい。ソレイアが聖都を蹂躙する前まで。
しかし、現実は非情。
数多なる者らの死によって血塗られた運命の歯車は既に動きを始め、静かに時を刻み出したのだ。それは何人たりとも止める事は叶わぬ。
「来たぞ!」
誰かが声を発した。
レヴィンらは、南の方角──まるで太陽を背負うかのようにして現れた軍勢の姿を見た。
甲冑、鎖帷子、革鎧など、身に纏う防具は様々。掲げられている旗も、騎士団を象徴する旗もあれば、神を意匠化した聖印を刺繍したものもあり、名立たる貴族家の家紋を記した旗も目に付いた。
そして、ある者は馬に騎乗し、ある者は馬車を用いて、またある者は徒歩にて歩む様相を見れば、それは統一された軍勢ではなく、多種多様な勢力が一堂に会した混成軍のそれであることは瞭然。
民にとっての心の拠り所であり、僧にとっては信仰の対象の一つとなっている聖都が魔物に占領されるといった前代未聞の事態に対する怒りや、関心の高さがなければ成し得ぬ光景ともいえる。
「父さん……」
エリスが呟いた。
軍勢の先頭を行く馬上の男──重厚な甲冑、その胸当てに騎士団長を表す文様を刻んだ男の姿。それこそがエリスの父、騎士団長シェティリーゼ卿。
そして、そのすぐ後ろを行く、馬車の中には赤と白を基調とした神官衣を纏った翁の姿があった。
その衣を身に纏うことを許されているのは、この国では唯一人。
司教と呼ばれる高位の僧であり、司祭たちを管轄し、束ねる役目を担う。故に、司教は国政にも意見できる権限を持ち、政教の繋がりの深さを示す象徴的な存在でもある。
その翁の名はウェズバルド。
白く枯れた顎鬚は鳩尾のあたりまで伸ばされ、小奇麗に手入れが施されていた。
老いてはこそすれ、幌の中で静かに体を休める姿も姿勢良く、その様は外見にそぐわぬ程に若々しい。その肉体を覆う覇気は威風堂々たる風貌。
顔に刻まれた年輪は、老いの象徴ではなく、その威厳を更に高める装飾の役目を果たしていた。
それを視認したグリフォン・ブラッドの騎士らが直立不動の姿勢をとり、出迎える。
レヴィンとエリス、そしてセティもそれに倣った。
やがてその軍勢は、レヴィンらの目前に辿り着いたところで、騎士団長シェティリーゼ卿の号令により、その歩みを止めた。
下馬し、従者に手綱を託すと、騎士団の長はレヴィンとエリス、セティの前に歩み出た。
「聖都から民を守りながらの撤退戦は熾烈を極め、多大なる犠牲を払いながらも、完遂したそうだな」
威厳に満ちた声を聞き、反射的に三人は跪く。
「はい。犠牲となったのは千三百名程。全て聖都の前太守直属の僧兵らにございます」
レヴィンの声は苦渋に満ちていた。犠牲者に思いを馳せたのだろうか。三人の表情が暗く沈む。その姿を見て、騎士団の長は威厳に満ちた視線を向けたまま、黙した。
司教ウェズバルドが歩み出て、代わりに口を開く。
「だが、その犠牲と貴方たちの働きにより、聖都の民数千名の命が救われたのです。犠牲になった者らに思いを馳せるばかり、己の成し遂げた功績から目を背けてはなりません。貴方たちはその功績を誇り、戦い、生き抜く事を心掛け、前を向いて歩かねば、その犠牲となった者らは到底報われぬ」
それは、慈愛に満ちた言葉であった。司教のその言葉を聞き、三人の顔から少しだけ暗さが消える。
「騎士団史上、至極稀にみる大儀であり、この私ですら羨むほど名誉である。そして──」
ここで、騎士団の長は一瞬の間を置き、そして続けた。
「よくぞ、生き残った」
刹那、歓声が沸き起こる。
割れんばかりの歓声の中、三人は静かに目を閉じ、そして軽く頭を下げた。それは、騎士団の長や司教の言葉を噛みしめているかのようであり、また、先の犠牲の壮絶さゆえ、このような賛辞の言葉を素直に受け入れられぬと聞き流し、表面上は形式上の礼を装っているかのようにも見えた。
「さて、早速ではあるが、我々の受け入れ準備を頼む。この老体にとって一月にも及ぶ移動は、かなりの負担となったからな。会議の準備が終わるまで、しばし休ませて頂こう」
一同から笑いが漏れた。その笑いには追随の気配はなく、心底からの笑い。
騎士団総帥の気さくな性格が現れた一幕であった。
<4>
「旧聖都を封鎖せねばならぬ」
王都からの騎兵が到着した翌夜。グリフォン・ブラッド騎士隊詰所敷地内の一角にある会議室。その上座に座する壮年の男が熱弁を奮っていた。
傍らに控える者らも、声にこそ出さなかったものの、その表情からは、声を荒げる彼と同様の怒りと、強い意志の存在をうかがえた。
熱弁を奮う男の名はウェムゾン侯爵。王都グリフォン・ハートに拠点を置く有力貴族の一人であり、この度、議会の代表として自ら兵を率い、戦線への参加を表明した者である。
傍らに控える者らは、騎士団長シェティリーゼ、司祭ウェズバルドといった、国の重鎮をはじめとし、各組織の幹部──国内で名を馳せる将軍や、高名なる司祭などといった、錚々たる顔ぶれが連ねた。
下座に座するのは、グリフォン・ブラッド騎士隊の長と、幹部数名。その隣に座するのは、このグリフォン・ブラッド同様、旧聖都グリフォン・テイル近隣の街──グリフォン・リブの太守と、フラムの領主。
そして、彼らの傍らに控えるのは聖都蹂躙の事実を知る者として、会議に招致された者、五名──騎士レヴィンにエリス、神官セティと、聖都の司祭にして住民脱出の総指揮を執った元下級議員カミーラに、その娘にして霊術士のリリアであった。
前置きの後、ウェムゾン侯爵の口より伝えられた王都議会の案とは至極単純なものであった。
かつての聖都は、標高が高い都市である為、土地は農耕に向かない。その為、食糧の殆どは近隣の山村からの税と、巡礼者からの寄付金を元手とした周辺地域との交易によって賄われてきた。
だが、ソレイアと錬金術士によって占領された聖都は、この近隣の山村からの略奪によって糊口を凌いでいる現状。そんななか、この二月の間でレヴィンらを主体としたグリフォン・ブラッド騎士隊が、その魔手より次々と農民を解放、逃亡を支援することにより、今はその食料の確保すらままならぬという。
この窮地を脱する為、ソレイアは一刻も早く交易経路を確保することが肝要と思われた。
故に王都議会は旧聖都へ至る陸路を封鎖し、交易経路を断絶──食攻めにすることにより国力の低下を誘発させ、ソレイアの出方を伺う策を打ち出した。
妥当な判断だと、レヴィンは評価した。
聖都の西方は、更に標高の高い地帯であり、北方は人の手の入らぬ不毛の地。これらの土地の開墾は到底望めぬ。自給による食糧確保は絶望的。
聖都の南方を管轄するグリフォン・ブラッド、そして、東方を管轄するグリフォン・リブとフラムが手を組み、街道を封鎖するだけで、ソレイアに多大なる打撃を与えることが出来る。
窮地に陥ったソレイアは兵を出し、周辺地域に対する侵略行為に出る可能性がある。故に、この五千余人にも及ぶ規模の派兵は、万一の時に備えた防衛の為の人員であろう。
そうやって外堀を固めつつ、余剰の戦力をもって、未だ略奪の被害にあっている農村の解放活動を続けていけば、遠くない将来、必ずやソレイアは音を上げてくることだろう。
食糧問題という切迫した事情があるのは明白である以上、足元を見るのは容易い。それを算段に入れた上での方策であろう。
「その為に、グリフォン・リブとフラムにも御協力を願いたい」
無論、この作戦を実行させるには、グリフォン・リブとフラムの協力は不可欠。
ウェムゾン侯爵は頭を下げ、現在この街に滞在している騎兵の一部受け入れと、街道封鎖に関する連携、及び協力を依頼した。
だが、各街の主たる二人は終始無言。
「そりゃ、即答できないでしょうね……」
レヴィンの耳元で、エリスが呟く。
思わず、レヴィンも頷いた。
この作戦に協力することは、即ちソレイアと錬金術士を、そしてその配下である魔物の群れに対して、明確な敵対の意思を表明することに他ならない。
二ヵ月前、占領されようとしている聖都より脱出する住民を追討する為、ソレイアが即席で組織し、派遣したゴブリン兵の数は、八千にも及ぶと言われている。
即ち、あの戦はソレイアの支配する旧聖都が、繁殖力の旺盛な魔物を用いて、数千単位の大軍をいとも容易に準備できるという、恐るべき兵力を擁しているという事実を知らしめた戦であったとも言えよう。
万一、その武力が周辺地域に向けられた時、五千程度で、十分な対応ができるのだろうか?
王都議会が下した結論は、西方の太守達に対し、長年守り抜いてきた街を──民を戦禍に晒せと命令しているようなもの。
しかし、為政者として魔物の跋扈を許す道理はなく、ウェムゾン侯爵の口を介して伝えられた王都議会の提言、その根幹にあるのは紛うことなき正論。
その決して背くことの出来ぬ正論を突き付けられ、街や民を危険に晒すことを厭う、街の主としての心は、今まさに強く揺れ動かされているのだろう。
即答できぬのも、また道理であった。
「──では、グリフォン・リブとフラムは、この急を要する事態に対し、傍観に徹すると仰るか?」
俯き、黙して語らぬままの二人に対し、ウェムゾン侯爵より厳しい言葉が飛んだ。
「この国にとって、聖都がどれだけ重要な場所であるか、知らぬとは言わせぬ。我々議会が民の暮らしを守り、騎士団が魔物の脅威より民を守り、そして神の教えが民の心を支える──この三つが顕在であるからこそ、民に安寧をもたらすことが出来るのだ。だが、その掛け替えのない『教』が──聖職者にとっての心の故郷。民にとって心の拠り所となっている地が危機に瀕している。この窮地に直面した今、そうやって手をこまねいているようでは、国や騎士団、神殿の信頼は地に落ち、民との信頼関係の根幹が覆されることは必至。ならば、貴殿らの出すべき結論は明白ではなかろうか?」
「母様……」
霊術士リリアが、隣に座る母の腕のそっと触れた。盲いた瞳に愁いの色が帯びる。
カミーラは、そんな娘の手に自分の手を重ねた。そして彼女も黙したまま、不安そうに事の成り行きを見守る。
「落ち着かれよ、侯爵殿」
司教が、穏やかな口調で宥めると、流石のウェムゾンも溜飲を下げたのか「失礼しましたと」一言詫びると、再び席に着いた。
「兎に角、一日も早く聖都をソレイアと錬金術士、そして魔物らの手より奪還せねばならぬ。王都での決定に従い、我々ウェムゾン私兵団は明朝グリフォン・リブの街へ向かい発つ事にする。騎士団は、このグリフォン・ブラッドの街に滞在。及び、司教殿率いる神官戦士団はフラムの街へと赴き、旧聖都との陸路を閉鎖するための準備を整えること。そして、各街の太守、及び領主殿は、兵の受け入れ体制を早急に整えよ──これは勅命である」
ウェムゾン侯爵が、厳しい口調で告げた。それは、今日より任務を開始する宣言のようでもあり、態度を明らかにするのを渋る二人の太守に対する叱責のようにも聞こえた。
「これにて会議を終える。各人は明日より任務遂行の為の準備に取り掛かるよう、そして同様の指示を下の者にも行うように」
そして、間もなく解散を宣言され、居合わせた全ての者らが、次々と室内から退出していった。
最後に、ウェムゾン侯爵の退室を見送り、会議室にはシェティリーゼ卿と、司教ウェズバルド、レヴィンとエリス、セティ、カミーラとリリアの親子、そしてグリフォン・ブラッド騎士隊長の八人が残った。
「これで、大丈夫なのですかね?」レヴィンが不満を漏らした。「各々が様々な事情を抱えているとはいえ、ここまで足並みが揃わないとなると──」
「この程度の事、覚悟はしていたがね」レヴィンの失礼とも思える発言に、シェティリーゼ卿が答えた。「ウェムゾン侯爵は、明日にでもグリフォン・リブへ押し掛ける為に出発するつもりのようだな。作戦の遂行の為、この現状を打破する為には、あのような図々しさや強引さが必要なのかもしれぬが」
「あのウェムゾン侯爵という方は一体?」
「王都グリフォン・ハートを拠点とする中堅議員の一人だそうです」
セティの問いに、司教ウェズバルドが応じた。
「保守派の議員の中で、最近頭角を現している男だ。あのソレイアと同様、多くの錬金術士を囲うが故に、その姿に自らの姿を重ね見たのか、今回の派兵に対して消極的な革新派との調整の末、議会の満場一致にて、自らの私兵を率いて参戦を承諾してくれたのだ。国に対する忠誠は厚い者として評判のある人物だそうだが」
シェティリーゼ卿が司教の語を継ぐ。
「そうですか……」
セティが頷いた。だが、釈然とした様子は欠片もない。
先刻の会議の際の態度──議会の結果を一方的に押し付けるような強引な態度が気に掛かっていたからだ。この足並みの揃わぬ不安定な現状に、彼女は行く末の不安を感じていた。
室内に重い沈黙が支配する。
騎士団の長は、ゆっくり頷いた後、その場にいた者達の顔を見回し、最後に一度レヴィンとエリスに視線を合わせる。
「……レヴィン、エリス」
「はい」
二人の騎士の声が同調した。
「この作戦には、お前たちが本来所属しているグリフォン・フェザー騎士隊も参加している。二人は、明日より彼らと合流し、このグリフォン・ブラッドに留まり任務にあたること。この作戦の成否はお前達二人の双肩にかかっていると心得よ」
「了解しました」
また、二人の声が同調する。
二人の騎士は全身全霊をもって、任務にあたること、それをこの場で宣誓した。
「セティは神官戦士団の一員として、向こうの受け入れ体制が整い次第、フラムへと向かう手筈となるでしょう。同様にカミーラ殿とリリア殿も、私の補佐役として同行を願います」
次いで司教が言うと、三人の顔を静かに見回す。
三人の表情を彩るのは、不安と疑念。
無理もない。そう、司教の翁は思った。
先刻までの評議は、第三者から見ても、明らかに異様なものであった。会議や評議とは名ばかりの、ウェムゾン侯爵の独壇場とも言うべき惨状。
しかし、一刻を争う事態である故、彼のような強引さも必要かと思い、司教もシェティリーゼ卿も、表だって彼に口を挟むような事はしなかった。
しかし結果は、太守らの理解を得られぬまま終わった。むしろ、ウェムゾン侯爵の強引すぎる方策に対し、不信感すら抱いているようでもあった。
そして、一方の傍観者であるレヴィンらも、同様の印象を抱いていることだろう。
「──しかし、簡単に受け入れ体制を整えてくれるのでしょうか?」
誰もが思いつくであろう疑問を、口にしたのはリリアであった。
「私が見るに──特にフラム太守からは、この作戦に対する前向きな感情は感じられなかったように思えますが」
「その心配は無用だ」
疑問に答えたのは、終始沈黙を守っていたグリフォン・ブラッド騎士隊の長。
「それは、どういう事ですか?」
レヴィンが、その根拠を問いた。疑問を口にせずにはいられない彼の性分。それこそが彼の体内に学者の血が流れている所以である。
騎士隊の長は胸を張り、豪語した。
「あの街は、かつて農村だったのだよ。この地域では珍しい肥沃な土地である故、そこの村でとれた作物は、毎年高値で取引されていて、それによって潤い急速に発展していったという過去を持つ。だが、当時のフラムは発展途上の街。魔物との防衛に関する整備が行き届いていない為、今もなお、我々グリフォン・ブラッド騎士隊より人を送っている──実質我々の庇護下に置かれて運営されているようなもの。その我々の要請であるのならば、彼も嫌とは言えますまい」
「……」
その返答に対し、質問者であるレヴィンは黙したまま、何の反応も示さなかった。
ただ、強い疑念の感情を、その顔に浮かべるのみ。
再び、重い沈黙が室内を支配する。
無限に続くかと思われた沈黙の時間であったが、騎士団の長がついた小さな溜息によって、それは終わりを告げた。
「今宵は長きにわたる議論、大儀であった。各自部屋に戻り、十分な休養を取り、明日の備えること──以上だ」
シェティリーゼ卿が、そう宣言すると、司教とグリフォン・ブラッド騎士隊長を引き連れ、部屋を後にした。
「……さて、もう夜も遅いですし、私達も休みましょう」
横からセティの声がかかる。だが、レヴィンの耳に友の言葉が届いた様子はなく、ただその場に立ち尽くしたままであった。
「レヴィン?」
エリスから声に掛かり、レヴィンの意識は現実へと引き戻された。
「どうしたの? 呆けちゃってさ」
「……ああ、なんでもない」
そう言い繕うが、声に覇気がない。彼の言葉とは裏腹、釈然としない様子が窺える。
「何か、引っ掛かるのですね?」
彼の声に込められた感情を鋭く察知したリリアが問うとレヴィンは素直に頷いた。
「今日の様子を見ると、今の我々に一枚岩の結束があるとは言い難い状況。一刻も早く、結束を固めねばならないのだが」レヴィンが腕を組み思案する。「さもなくば──ソレイアは、足並み揃わぬ俺達の隙を突くべく早急に動いてくるだろう」
第三者から見れば、悪い方向に考え過ぎとも思える発言。だが、それを指摘する者は皆無。
レヴィンの言葉は、ソレイアの底知れぬ悪意を垣間見た事のある者であればこその発言であった。
それ程までに、ソレイアとは恐るべき女である。
「今、あれこれと考えても仕方ありませんね。今日は早々に休むことに致しましょう。明日より我々は行動を起こさねばならないのですから」
話を締めくくるように、カミーラが言うと目の見えぬ娘の手を取り、出口へと向かった。
その後ろをセティが追い、最後にレヴィンとエリスが続く。
ふと、二人の騎士の足が止まり、後ろを振り向いた。誰もいない会議室の室内に、数刻前まで行われていた会議の様子を幻視する。
己の主張を繰り返し、強引な方法をもって遂行せんとするウェムゾン侯爵。
過去の恩義を持ち出し、大義名分を振りかざすグリフォン・ブラッド騎士隊。
そして、終始沈黙し、一切の発言や主張のなかった、フラムとグリフォン・リブ両領主。
様々な事情を考慮せぬまま、執政の中枢より導き出した結論を只管に押し付けるだけの不平等極まりない評議の構図。
だが、その王都も苦しい事情を抱えている。
慢性的な人員不足に喘ぐなか、周辺地域の協力のもと身を削る思いで、数少ない兵力を捻出したのだろう。それ故の焦りすら窺えた。
それでも、西方の領守達は、長年守り抜いてきた街を危険に晒しかねぬという事には変わりはない。万一の際に王都が背負う損害とは、到底釣り合わぬ。
だが、王都が出した結論は紛うことなき正論が根幹にあり、西方の領主らが、この決定に従わねばならぬ理由は十分に備わっている。
逆らえば、論破されることは明白。
それだけではない。ソレイアと錬金術士、そして魔物の脅威に屈したという烙印を押され、日和見の臆病者と評され、西方地域の名は地に落ちる。過激な者であれば国への反逆と捉える者もいるだろう。
故に、両領主が打ち出す結論は、既に決まっており、各街が騎兵の受け入れ体制を整えるのは時間の問題と思われた。
──だが、本当にこれでいいのだろうか?
二人の騎士の脳裏に、そんな思考がよぎる。
己の胸中に渦巻く、正体の判らぬ暗雲──決して結論の出る事がない疑念の存在を認識していた。
それは、彼らの前を歩く三人の仲間も、同じ考えを抱いているだろう。
だが、それでも自分達は前に進まねばならぬ。
漠然としていた。だが、その意思こそ聖都を取り戻すために一歩に他ならず、騎士である二人にとっての義務であり責務でもあった。
山積した問題の中、使命を全うすべく足掻かねばならぬ。
たとえ砂を噛み、泥にまみれようとも──
疑念を振り切り。
愚鈍に。無欲に。
一歩、一歩──と。
「行こう」
再びレヴィンは歩き出した。エリスが無言で、相棒の後に続く。
その時、レヴィンは己の思考の中で音を聞いた。無論、それは現実に起こった音ではない。
──足音。
地面を引き摺るかのような、摺り足のそれに酷似した幻聴。
それは、彼の知性が無意識に発した警鐘であった。
騎士は足音の正体を知らぬ。だが、いずれ知る。
それが、内部崩壊へと導く破滅の足音であるという事を。
説明 | ||
全8巻で構成される長編ファンタジー小説 "Two-Knights"第4巻の第一章を公開いたします。 現在、本作品は同人ダウンロード専門店「DLsite.com」「とらのあなダウンロードストア」「DiGiket.com」での購入が可能となっております。 http://www.dlsite.com/home/work/=/product_id/RJ099766.html http://dl.toranoana.jp/cgi-bin/coterie_item_detail.cgi?cf_id=260001755600 http://www.digiket.com/work/show/_data/ID=ITM0069658/ |
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