【加筆修正版】Two-Knights Vol'08 第一章「その『嘆き』は名も知らぬ『誰か』の叫び」 |
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眼下に雲海が広がる崖の上に、その光景は存在していた。
崖の淵より数十歩程の位置に聳立している巨大なる石英の碑。それは燦然と輝く太陽の光を浴び、様々な色彩を織り成して絶えず輝きを放ち続けている。
ここは霊峰の頂上。聖獣グリフォンの魂が封じられ、祀られた碑。
霊術士と呼ばれる数少なき異能者のみが立ち入る事の許された聖域。人の手が入る事なき聖地。
だが、その地には本来存在している筈のない──いや、存在するべきではない明らかなる『人工物』が新たに備えられていた。
それは祭壇。銀で造られた祭壇であった。
そして、その上──両脇に設けられたふたつの柱に銀の鎖にて両手を拘束され、倒れることすらままならず、力なく項垂れている女がいた。
妙齢と思しき女であった。
それはまるで、石英の碑に捧げられた生贄の様相。
長く伸ばされた赤い髪を、髪留めを用いて後ろに束ね上げており、その身を纏うのは、この寒冷な高山には不向きと思われる程の薄着。胸を純白の布で覆い、腰を覆うのは腰布のみ。
この露出の多き肌のうち、両の腕と足。そして腹には植物の蔦めいたものを意匠化された刺青が刻まれていた。
生贄とはリリアであった。
数日に亘り満足のいく食事など与えられていないのだろう。痩せ細った腹部には肋骨が浮き出るほどの有様。元々痩身な彼女であれど、その衰弱ぶりは顕著であった。
素肌の色は蒼白。生気の類は一切感じられぬ。
リリアは時折、短くもか細き呻き声とともに微動をする。必死に命を繋ぎ止めんとしているかのように。
その度、周囲の景色に三つの変異が生じた。
第一の変異は電光であり、それは左方の中空より生じていた。二重、或いは三重の円形の黄色き光を伴って現れては、乾いた音とともに消失する。
第二の変異は火炎。それは右方の中空より生じていた。無より小さな赤き旋風が生じたかと思うと、それはこの地に吹き荒れる強風によって掻き消された。
そして第三の、即ち最後の変異は霧氷。これは彼女の足元にて吹いていた。凍てつく冷気は、銀の祭壇の表面に薄き氷の層を作り上げ、そして、リリアの体温によって温められたそれは瞬く間に霧消した。
各々の変異、その規模たるや微々たるものであったが、三種の変異が同居しているこの光景は、自然の法則上において大きな矛盾の上に存在する現象に他ならなかった。
雷雲なくば雷光が生まれぬが故。そして、炎と氷が同時に存在する事が出来ぬ故。
だが、その矛盾を現世において発現させたのは、リリア自身と、彼女の背後に聳立する石英碑による奇跡であった。
霊術士とは、この石英碑に眠る聖獣グリフォンの魂と意思の疎通を行う事によって、おのれの肉体を媒介として聖獣グリフォンの力を召喚。強靭な精神の力をもってして、その純然たる力を制御して様々な奇跡の術を行使する異能者である。
だが、術の行使者たるリリアは今、飢えと渇きによって、その生命の維持すら危ぶまれる状態にある。心も衰弱の果てにある彼女に、そのような力など残されている筈などなかった。
そう、本来であるのならば、霊術の行使などままならぬ筈。にも関わらず、彼女の肉体には聖獣グリフォンの力が召喚され、不完全ではあれど、術の行使が実現しているのだ。
理由は唯一つ──リリアが霊術士として極めて優秀な人物であるが故。彼女の肉体が霊術によってもたらされる力の奔流に順応しすぎているが故。
剣を振るうのが戦士の本能であるかのように、そして論を説くのが賢者の本能であるかのように、この聖獣グリフォンの力を体内に召喚する行為こそが霊術士たるリリアの本能となっていたのだ。
その為、リリアは無意識のうちに、術を行使するための準備段階たる召喚儀式を自動的に執り行い続けていたのだ。
だが、召喚儀式を完成しても、その力を制御する精神力がなければ、術の行使は成立せぬ。
祭壇にて繰り返し発現している、この三つの現象は──言わば、発動へと至らなかった力の残渣。
心の衰弱によって、背後の石英碑より与えられし力の奔流を制御する事が出来ぬまま、排出された残滓。
その変異の源泉であるリリアの姿を冷淡に、そして笑みをもって見つめる二人の女がいた。
ソレイアとカレンであった。
ソレイアはリリアのもとへと歩み寄ると、その細い指先をリリアの顎に当て、項垂れた頭を押し上げた。青褪め、疲弊しきった顔を視認するや満足そうに頷いた。
「もう少しね」ソレイアは強風で乱れる髪を右の手で押さえながら、不敵な笑みを浮かべた。「この雷光、炎、霧氷の発現こそ、この娘の衰弱の証。心身が衰弱すればするほど、霊術士はおのれの肉体を媒介として召喚した聖獣の力を暴走させていくのですね?」
「そう、今の彼女はまるで壊れかけた水門。小さな破損箇所より堰きとめた水が流れ出るかのように、体外に小さな霊術の奔流を発現させているのです」その後ろに控える錬金術師が恭しくも、その顔に悪意めいた笑みを浮かべながら頷いた。「衰弱を極め、死に瀕した瞬間こそ、水門が崩落した瞬間こそ奔流の強さは最高点に達する。このリリアという娘の技量より察するに、その刹那に発生する力の強度たるや峻烈。その一瞬さえあれば、全ての自然法則、生命の法則を狂わせる事など造作にもないことでしょう」
「そうね」そう言い、ソレイアは天を仰いだ。
「騎士団は私の息の根を止めぬ限り、肉体に宿る命の灯火を掻き消さぬ限り、戦を止めようとはしないでしょう。この秘術は、その短絡な思考を逆手に取る為の切り札──成功すれば、私は世界にとって唯一無二の脅威となる事でしょう。世界中の全ての者達が、全ての王、聖職者の長、権威、天下に轟く威名ですら畏怖し、恐れ慄き、跪き、平伏させる事の出来る『至高なる存在』へと生まれ変わる」
「この世には、『転生』という概念は存在せぬ。肉体が死すと、その魂は天へと昇り、神の御許で永遠の安楽を得られると信じられているが故に。やり直しの効かぬ一度のみの人生を全うせよと神が教えているが故に。その神ですら忌避すると考えられている『魂の再生』と『進化』──それを人工的に再現する。まさにこれは魂の練成を最終目的とした、錬金術の至高なる形という事にございます」
錬金術師のカレンが、恭しい口調で語る。
「全ての手筈は整っております。既に懐妊したホムンクルスのうち最も容姿の美しく、かつ出産まで間もなき者を選別し、用意しております。即ち、未だ魂の定着しておらぬ胎内の赤子──将来、必ずや美しく成長する子こそがソレイア様という『存在』の新たなる受け皿となるのです」
ソレイアは恍惚とした表情をもって、眼前にて輝く石英の碑と、リリアの姿を交互に眺め遣った。
「肉体が死に、剥離した魂は神の御許とやらに向かう。だが、その霊格が高き者に限り例外として、聖獣の魂へと誘引される──」
カレンは淡々と知識を披露し始めた。だが、無神論者で唯物主義な錬金術師が、そのような超自然めいた概念など持ち合わせている筈などなく、これはかつてグリフォン・テイルを蹂躙する際に霊術士らが遺した書物を奪って得た知識であった。
「──そして、善なる魂はやがて聖獣の魂と同化し、邪なる魂は聖獣の魂と反発し消滅、或いは浄化される」
「その性質を、逆に利用する」ソレイアが語を継いで言うと、心底愉快そうに笑い声を上げた。
「戦を──大規模にして凄惨なる戦を幾度となく引き起こしたのよ。グリフォン・クラヴィス西の平原での戦いは、幾多もの騎士と、卑しき魔物どもが血の海に沈み、更にはグリフォン・ブラッドの街では騎士や民が同士討ちするように仕向け、そして、我が領土内の第一の砦でも、沢山の生命が失われたという──こうして、数千、或いは数万の非業なる死を嘆く哀れな魂の群れは、やがて漆黒の気配を帯びた瘴気となって石英碑に誘引され、浄化すら間に合わぬ有様。暗鬱なる魂はやがて聖獣の魂を食い荒らし、本来の霊格をも覆い尽くそうとしている」
「御意にございます」主君の言葉を、忠実な配下たる錬金術師が肯定する。「それにより、ソレイア様の御霊が再生する為に必要な、石英碑内の通り道──言わば、魂の産道を作り上げる事に成功したのです」
「私はいずれ騎士の刃にかかり、その魂は一時的に肉体より離れて石英碑の中に留まるも、それはリリアの死によって発現する膨大なる力の奔流とともに解き放たれ、そしてホムンクルスの胎内より生まれし赤子に憑依することによって『転生』の秘術が完成する」
「それだけではございません。ソレイア様の御霊を乗せた力の奔流ごと、新たなる肉体へと宿る為、その子は生まれながらにして高位の霊術士としての素養を十分に備えている事と同義。面倒な儀式や修練を行わずとも、聖獣の理を学ばなくとも、幼くして天才的な霊術の使い手として──そう、全ての自然法則、生命の法則を狂わせる程の力をもって、この世に再臨されるのです」
「ああ、なんと素晴らしい──」そう言うと、ソレイアは蠱惑めいた溜息を洩らした。「聖獣の力を手にする事。それは即ち、それは神に等しき力を手にする事と同義」
公国の主が笑う。そして、錬金術師が笑う。
「流石は、私が最も信頼する最高の錬金術師。貴女の恩師たるレーヴェンデ殿の書物に記された、禁断の錬金術──巨人の練成方法より、よくぞこの方法を導き出してくれました」
絶賛する主君の言葉を聞き、満足そうに頷くと、カレンは謙虚な表情を繕い、その賛辞に答えた。
「造作にもないこと」──と。
「巨人の練成も、私の錬金術も根本たる理論は同種のものにございます。あの石英碑に秘められた力を引き出すに相応しき術士が現世には存在してはおらぬ故、当時の理論では人間の母の胎内より巨人へと成育する──言わば後天的なる奇形の赤子を造り出すのが限界とされておりました。ですが──」
そう言うと、カレンは憎悪と羨望が混じった眼差しを、眼前にて項垂れる霊術士リリアへと向けた。
そして、続けた。
「この女の存在が、私に新たなる可能性を示唆したのです──この女の力を使えば、聖獣の力の断片を抽出して錬金術を行使するのではなく、力そのものを根こそぎ石英碑より引きずり出す事も可能であるのではないかと」
「聖都を蹂躙した際、全ての霊術士を絶滅させた筈でしたのに」ソレイアが悪意に満ちた表情で、冗談めかして言った。「まさか、我々の目的を達するに必要な力を持っている者だけが生き残っているとは──その幸運たるや、まさに神のお導きに他なりませんね」
再び二人の狂いし女が笑う。
その嘲りめいた二つの笑い声が木霊する中、リリアが静かに顔を上げる。
だが、その所作、その視線には一切の覇気はなく、また、次の瞬間に発せられた声もまた小さな虫の羽音の如く、か細く、弱々しきものであった。
『また、暴動が発生……食人鬼兵隊は……三番通りへと急げ』
それは確かに、そして微かなる声として発せられた。命の灯火が消え失せんとしている彼女が必死に絞り出した声であった。
疲弊の為か、はたまた敢えてそのような声を発しているのか、リリアの声は男の声を真似ているかのような低音であり、更にそれは途切れ途切れ。所々、まともには聞き取れぬ。そして、言葉の意味も支離滅裂であり、傍目には、この霊術士こそ狂気に憑かれてしまったのではないかという錯覚に陥るであろう。
だが、そのような拙速な結論を下すような者は、この場に誰一人として存在していなかった。
ソレイアとカレンは、リリアの発した言葉の意味を察していたからである。
「そのような体でありながら、小賢しい事を──」
ソレイアが毒づくと、リリアの口元に微かな笑みが浮かんだ。
リリアは術を行使していた。それは、遠方にて交わされた会話や音声を盗み聞くという極めて初歩的なものであったが。
術の対象となったのは、遥か眼下に望む公国の首都にして、かつては聖都グリフォン・テイルと呼ばれていた街。そして、その通りを駆ける兵士達の間に交わされた会話音声である。
騎士団及び神官戦士団の攻撃に呼応するかのように、圧政に苦しむ旧聖都住民が次々と暴動を起こしたのだろうか。
『だめだ、月影様に救援を要請するのだ。我々だけでは、この暴動を抑えきれない……』
恐らく、公国側も次々と鎮圧の部隊を派遣して対応にあたるも、それを上回る速度で各所にて暴動が発生しており、到底追いつかぬといったところであろう。
リリアが術にて盗み聞いた会話には、このような旧聖都の現状が集約されていた。そして、その有りの儘の言葉を、おのれの肉声を用いて、更に声真似をしてまで、眼前の二人に示したのだ。
宿命の敵たるソレイアとカレンに少しでも重圧を与える為に。
底無しの気力の成せる技であった。そして、その根幹に存在しているものこそが──最後の霊術士としての誇り。
まさに高潔の証であった。
「……貴女が敗れるのも時間の問題ですね」
挑発の言葉を発するリリアに、ソレイアとカレンは憎悪に満ちた視線を投げかけた。最大級の侮蔑と、軽蔑の感情を込めて。
だが、リリアは意にも介さぬ。生来より光を知らぬが故に。その悪意に満ちた視線が示す意味を察するには至らぬが故に。
「……私は死にはしない。レヴィンさんやエリスさん、セティさんが、必ずや貴女達を滅ぼし、助けに来てくれる日まで──絶対に」
囚われの身でありながらも毅然に振る舞う様が、ソレイアの癇に障ったのだろう。公国の主は、霊術士の無防備な腹部を、その爪先で鋭く二度、三度と蹴ると、程なくリリアは口より胃液を吐き、再び項垂れた。咳き込むたびに、リリアの両腕を拘束する銀の鎖が軋み声をあげる。
「自分の置かれた身というものを、もっと理解することね」そして、ソレイアは吐き捨てた。「私はいつでも、貴女を殺す事など出来るのですから」
「──では何故、今すぐそうしないのですか?」
リリアが咳き込みながら問う。そのあまりにも白々しい口調に、ソレイアは眉根を寄せた。
リリアは知っていた。ソレイアが欲しているのは、自分の自然死である事を。
かつて、ソレイアとカレンが行っていた実験では、霊術の資質を持つ子供達が今際の際に霊術に酷似した現象が発現するという結果が存在しており、その現象は外傷による死ではなく、飢えや病などといった、自発的な生命の喪失時に発生するという。
無論、子供たちに霊術を行使した経験は皆無。
だが、その現象について錬金術師カレンは、こう結論付けていた。
『彼らは霊術士となるには十分な素養──聖獣の力を肉体に蓄積することの出来る器、皿、杯──を備えており、肉体に蓄積した聖獣の力が、その死──肉体から魂が剥離すると共に一斉に解放される』
その結果と、先刻より交わされる会話の内容を鑑みれば、リリアにとってソレイアとカレンの狙いは明白であった。
──正当な訓練を受けた霊術士である自分が死に瀕した場合、発現する霊術的な現象の規模は、術士の能力に比例して強力となるのではないか?
そして、その力を邪なる方法を用いて、自らに取り込もうと考えているのではないか?
恐らく──いや、間違いなくソレイアは、それを狙っている。
即ち、今のソレイアに自分は殺せぬ。霊術士の自然死に拘っているが故に。
リリアはそう結論付けていた。
直接手を下せぬ事情がある者に、幾ら脅迫をしようとも、ただの虚仮脅しに過ぎぬ、と。
「自分の立場というものを、理解せねばならないのは──むしろ貴女のほうね」
リリアがその顔に笑みを浮かべた。だが、その表情の変化たるや弱々しく、ソレイアやカレンに対する挑発には至らぬ。
だが、霊術士は続けた。眼前の敵に怒りをぶつけるかのように。そして、おのれの霊術士としての誇りを示すかのように。
「聖都を奪還せんと、東より進軍を始めている騎士団や神官戦士団も、あと数日もすれば辿りつき、都を包囲するに至るはず。やがて、断罪の刃は貴女を滅ぼすことでしょう。その誰にも覆す事のできぬ窮地に立たされている貴女がすべきなのは──無駄な足掻きは止め、今までの罪を悔い、そして、騎士の刃にかかる覚悟を決める事なのではありませんか?」
「違うわね」ソレイアは決然と言い放ち、答えた。「たとえ騎士の刃にかかる事が、私の運命だというのならば簡単にこの命を狩らせるものか。存分に足掻き、名誉や秩序の名のもとに殺傷を行う公僕や、神の遣いを僭称する妖教徒どもに、このソレイアの名を未来永劫忘れる事の出来ぬほどの悪夢をみせてやろう。世界に大きな傷跡を遺して、この世を去ってやろう──私を討った事を後悔する程に」
語るソレイアの表情には、一切の苦悩めいた色はなく──むしろ恍惚としていた。
そして、最後にこう付け加えた。
「そう──その為に貴女がここに存在しているのですから」
「そんな事の為に貴女達は、沢山の子供達を、ホムンクルスとされた女性達を攫い──殺めたというのですか?」
リリアが非難の声をあげた。
「ええ、そうよ」ソレイアが即答する。それを聞き、青褪めたリリアの顔色に少しだけ血の色が差し込んだ。
怒りの為の上気であった。
「そうはさせません。必ずや私が聖獣の魂を浄化し、その卑しき野望を潰えさせてご覧にいれましょう……」
だが、怒りの為に込み上げた力も、一瞬の活力に過ぎなかった。衰弱しきった心身を鼓舞させるには至らず、リリアの身体は崩れ落ちるかのように力を失った。
両腕を縛る銀の鎖が再び軋み声をあげ、霊術士の身体を支えた。
立つことも叶わず、倒れる事も叶わなかったリリアは、やがてぐったりと項垂れ、気を失った。
最後に仲間にして親友たる二人の聖騎士と、一人の神官。そして最愛の母の姿を脳裏に浮かべながら。
その様を公国の主と錬金術師は冷淡な眼差しをもって視認するや、厳しい表情をもって、互いの顔を見合わせた。
そして、公国の主ソレイアは、配下たる錬金術師カレンに問うた。
「──戦況は?」
「騎士団は、第二の砦へ向かって進軍を始めている模様です。明日中には攻撃を開始するものと思われます」
「……思った以上に早いわね」言葉の内容とは裏腹、ソレイアの口調は淡々としていた。「最初は十日ほどで聖都に到着するものと考えていたけれど、このリリアという娘が我々の手に落ちたと知って、強行軍に出たのかしら?」
「恐らくは、この女の体調を考慮した行程に切り替えたのでしょう」
答える錬金術師の口調もまた、淡々としたものであった。
「そう考えると──」ソレイアは数瞬ほど思案する。「あと四日か、五日といったところね」
「これは相当な強行軍ですこと。まるで戦闘後、崩れかけた指揮系統の立て直しにかける時間を無視しているかのよう」
カレンは嘲笑めいた口調で感嘆の声を発した。
報告によれば、騎士団は第一の砦を突破した後、数刻も経たぬうちに第二の砦へと向かって進軍を開始しているのだという。
騎士団──特に、南方より攻める『双翼の騎士隊』は、第一の砦における攻防戦で奇策を用いて、損害を最小限に止めていたとはいえ、死傷した兵は皆無という訳ではない。
負傷した兵の手当てや、重傷や戦死による損害規模の確認と、それを踏まえた上での指揮系統の再構築など、戦闘後に必要とされる作業は多岐に渡るのが常。
常軌ならば戦闘が行われた後、これらの作業に数日はかかると言われている。それも有能なる指揮官が統率する隊という仮定の上の話である。
だが、中央より攻める本隊を率いるアルファード騎士団副団長、そして北より攻める隊を率いる元グリフォン・クラヴィス騎士隊長レンダーならばいざ知らず、南より攻めている隊を率いているのは、騎士隊の幹部経験すらない若き二人の騎士──『双翼の騎士』レヴィンとエリスなのである。
そのような人物が、隊の立て直しを一切行わず行軍を続けているのだ。
カレンは、その無謀さを嘲笑していた。
だが、その配下の悪態を見つめるソレイアの表情は、冷静そのものであった。
希代の狂人たる彼女は、彼ら騎士団の行動──いや、この強行軍を進言したと言われている『双翼の騎士隊』を率いるレヴィンとエリスの行動に、一種の不気味さめいた感情を抱いていたからであった。
あの『双翼の騎士』の事──長きに亘り、このソレイアと対等に渡り合ってきた人物の事、ただ闇雲に事を進めようと考える筈が無い。
況してや、この戦いは国家の命運を賭けた、宿命の戦であるのだ。無策による突撃とは到底考えられぬ。
──『双翼の騎士』よ、一体何を考えている?
ソレイアは雲ひとつなき天空を眺め、問いかけた。
だが、彼女の視線の先に問いに答える者などいる筈もなく、燦然と輝く太陽だけが静かに光を投げかけていた。
<2>
西の果てにある高山、その中腹に怒声と悲鳴が木霊する。
頂上に位置する聖都を起点として、東、北東、そして南東の麓に向かい、峠の道が三本伸びている。
各々の山道、その四合目に築かれた三つの砦──今、そこでは一進一退の攻防が同時に繰り広げられていた。
大規模な戦闘であった。
砦を攻めている一方は、重厚なる甲冑に身を包んだ騎士の軍勢。王都より派遣された師団。各砦に送られた騎兵の数は三千騎ほど。
合計九千騎以上にも及ぶ軍勢による大攻勢であった。
それを迎え撃ち、砦を防衛しているのは、半数が人間、そしてもう半数が魔物から成る軍勢。本来、合一するはずもない──大同してはならぬ種族同士が結託した異様な兵団。
そのうち人間の兵は皆、およそ戦士、或いは兵士とは思えぬ容貌をしていた。
身に纏う革鎧より露出する四肢、そして顔は青白く痩せ細っており、その様はまるで飢餓の只中にいるかの様相。
だが、得物を振るい、或いは弓を引く仕草はまるで歴戦の戦士の如く。そして、痩ける頬の上──双眸には濁った狂気の光が宿っていた。
彼らは旧聖都の住民達。ソレイア政権下では最下層民として位置づけられ、圧政と搾取によって苦しめられている者達。皆、ソレイア直属の今は亡き天才錬金術師ヴェクターの手によって開発された薬によって知能と人格を破壊され、本来仇なすべきソレイアの走狗と成り下がっていた。
穢された聖なる民と肩を並べて前線に立つのは、褐色の肌をもった怪物。食人鬼より一回りも二回りも大きな体躯をもつ、古代伝承に登場する巨人の如き外見。
肉体の全ては隆々たる筋肉に覆われており、それらは恐るべき膂力の源泉であると同時に、おのれの汚れし命を守る頑強なる鎧の役目を果たしていた。
これらは『原始食人鬼』と呼ばれる食人鬼の上位種族であった。
食人鬼は生殖能力が極端に偏っており、種としては雄しか存在していない。それ故、繁殖する為には人間の女の胎を借りなければならず、その性質上、他種族との混血を繰り返す事を余儀なくされ、時が経つに従い本来の種より遠退き、次第に人間のそれに近づいていく。
即ち、次第に小柄に、そして非力となっていく。また、その戦闘能力も比例して衰えていく。
だが時折、血の巡りあわせか、食人鬼という種の邪悪さ故か、先祖返りにも似た現象が発現し、かつての強靭で邪悪な肉体をもって生まれる場合がある。
ソレイア配下の錬金術師団は、この『原始食人鬼』を生み出す為に必要な先祖返りを偶発的な現象を借りずして発現させる方法、更には誕生から成体へと至る成育の速度を短縮させる品種改良の方法を確立しており、その結果、公国軍はこの三年間で兵団を戦闘力で劣る食人鬼中心のものから、この『原始食人鬼』中心の兵団へと刷新させ、武力の爆発的な向上に成功させていた。
しかし、それが本格化したのはここ一年ほどの事。故に満足のゆく兵数の確保には至らず、公国首都と、この第二砦の一部の兵を刷新するのが精々。最前線には、未だ戦闘力の劣る下級魔族や、食人鬼に頼っているのが現状であった。
それが、第一の砦において、騎士団の攻略を許した理由の一つでもあった。
そして、この第二の砦を防衛しているのは、言わばソレイア公国軍の主力部隊。無論、その戦闘力は第一の砦のそれとは比較にすらならぬ。
事実、国内最強の王都騎士団の精鋭は、この二種から成る敵兵団を前に苦戦を強いられていた。
本来は助けねばならぬ筈の人間達を相手に戸惑い、その鈍った戦意の間隙を鬼に突かれた前線は思わぬ損害を受けていたからである。
北の砦を攻めるレンダー率いる隊も、中央の砦を攻める騎士団副団長アルファード率いる本隊も、この第二砦の攻略──その糸口を掴めずにいた。
第一砦攻略の際に見せたレンダー隊の山津波の如き突進力も、『原始食人鬼』らによって占められた強靭なる尖兵らによって阻まれ、また心理戦に長けたアルファード本隊の圧倒的な恫喝も、薬によって知能と人格を破壊された旧聖都住民と、そもそも恫喝の意味すら理解できぬ愚鈍な鬼には一切通用しなかったのだ。
北と中央、この二つの砦における戦況は膠着の様相。
だが、第二砦群のうち南にて展開される戦場だけは、その様子が異なっていた。
砦の城壁、四方八方より鉄の梯子がかけられ、騎士達が次々と、その梯子を伝って城壁内に侵入をし、奇襲を仕掛けていた。
敵兵も、この多方向からの侵入を防ぐべく梯子の撤去を試みるものの、手持ちの武器だけで、この頑丈な鉄製の梯子を破壊する事は困難。更にはその先端には鉄爪が仕込まれており、それが城壁に架けられるや、梯子の自重によって深く突き刺さり、食い込むような工夫が施されていた。それ故、人力による撤去は不可能であった。
また、梯子を登ってくる騎士を弓や槍、投石による妨害を試みるも、頭上に掲げられた騎士の盾によって、それは悉く阻まれていた。
この鉄梯子は一段一段の間隔が若干広く造られていた。隙間に足を突き入れ、引っ掛けられるように出来ており、このように盾をもつ為に片手が塞がっていたとしても落下しないよう、片腕と両足だけで梯子の昇降が可能となるように設計された代物であった。
だが、この砦は高山地帯の四合目に位置している。更にはここへ至る行程の殆どが狭き峠の一本道によって占められており、このような重量をもち、且つ嵩張るものを持ち込む事など不可能であろう。
しかし、南からの攻撃隊は、この原始的ではあれど利便性に優れた道具を現地調達することに成功をしていた。
騎士の鎧──第一の砦での戦いにおいて、不幸にも戦死をしてしまった仲間の遺品を原料とすることによって。
これらを掻き集め、あらかじめ持参しておいた──本来、武具の修繕に使用する為に使用する炉を利用して溶かすと、道中に立ち寄った山村の廃墟に遺されていた木製の梯子を型取りして造り上げた即席の金型へと流し込んで、この鉄梯子は造られていたのだった。
そして梯子の先端に備えられた鉄爪は、同じくこれらの山村跡に打ち捨てられていた鎌や鍬などといった農具を改造して取り付けられたものであった。
まさにそれは、ソレイアの手によって滅ぼされた者達の無念が集約した形であるとも言えよう。
その無念の産物、復讐の結晶が無数に架けられている、南側の城壁の上に一人の女が立っていた。
彼女は声を嗄らさんがばかりに声を張り上げ、次々と壁の内側へと侵入していく仲間達を誘導、或いは檄を飛ばし続けている。
その身に纏うは白銀色の鎧。そして天に翳されしは同じく白銀色の盾。燦然と輝く太陽の光が反し、それは更なる輝かしき色彩を帯び、放たれた。
目が利く者が見れば、彼女が所有するそれら武具は希少にして、武具の原材料としては最高品質の金属──純正のエジッド銀によって造られた逸品であると見抜く事が出来よう。
女とはエリスであった。
今は亡き、前騎士団長シェティリーゼの正当なる嫡女にして、この南方からの攻撃隊を率いる司令官の一人。
三年前、グリフォン・ブラッド解放の武功により『聖騎士』の称号を授かり、名実ともに新たな騎士団の中核を担うであろう人物として、この隊の指揮権を副団長アルファードより委任されていた。
「戦え、名誉の代弁者達よ。聖都の解放の為に! 我が国民全ての心の安住の地を取り戻す為に、逆賊ソレイアとそれに与し魔物達を一人残らず征するのだ!」
エリスが声を発するたび、檄を飛ばすたびに割れるような歓声が湧き起こった。
また、そのエリスも幾度も湧き起こる歓声に、そして無限に上がり続ける仲間の士気に煽られ、声を上げ続けた。
見れば、城壁の上で味方の侵入を妨害していた敵兵は全て倒されており、騎士達は次々と城壁の内部へと傾れ込み始めていた。
攻撃力の高い部隊は、既に敵軍勢の中心核へと迫る勢いを見せており、妨害せんと迫る敵兵を悉く地に沈めていく。
その勢いたるや苛烈の極み。神話の世界に登場する武神の軍勢ですら、彼らの突撃を止めることは出来ないのかも知れない。
エリスは、最前線を駆ける一人の騎士の姿を視認した。
その騎士もまた、エリスと同じくエジッド銀の甲冑を纏っていた。また、両の手に握られているのは同材質で造られた大剣。
重く、そして鋭く縦横に操られたそれは、迎え撃たんとする屈強な原始食人鬼の首を軽々と刎ね、狂いし旧聖都住民の胴を両断した。
その刃には一切の迷いはなく、錬金術師の手によって狂わされたとはいえ旧聖都住民を討ち、屍山血河を築く様は、あまりにも無慈悲にも見えた。
だが、誰もが知っていた。この旧聖都住民は絶対に助からないという事を。
錬金術によって破壊された知能と人格を──凶暴化された心の赴くまま無意味な殺傷を繰り返す破壊の権化と化した精神を──元に戻し、完治させるといった都合の良い手段などあるはずもなく、無論、これは時が経てば癒える類のものではない。
騎士団とはいえ、訓練された戦闘集団である。たとえ戦の中であっても彼らに手心を加え、生存させようと努力する事は出来よう。そして、一定の結果を残す事は出来よう。
だが、それによって生まれる結果になど、社会にとって害を与える事を生業と定められた者達の生存など、誰が望んでいようか?
無論、それは当の旧聖都住人にとっても本意であろう筈がない。
この戦における最大の被害者たる者達の死こそが──強要されし呪われた生の束縛より、彼らを解放する事こそが最高にして最善の手段であった。
その残酷なる事実を知るが故、エリスは采配を振るう。
その冷酷なる真実を知るが故、前線にて刃を振るう騎士──レヴィンも前進を止めなかった。
その無情なる真理を知るが故、後続の騎士達も眼前の感傷に流されぬよう鬨の声をあげる。
騎士達は皆──泣いていた。涙を流しながらも、悲しみに押し流されようとしている心を必死に繋ぎ止め、一心不乱に剣を振るう。
そして、木霊するエリスの声に呼応し、鬨をあげる。このような悲劇を引き起こした張本人──この砦の遥か先に存在する都の主ソレイアに届けとばかりに向けられた苛烈なる怒りの声を。
その時、最前線で大量の血飛沫が舞い上がった。先陣を駆ける隊による無数の槍によって串刺しにされ、頽れた鬼の首を、隊を率いるレヴィンが一刀のもとに刎ねたのだ。
降り注ぐ血の雨が、レヴィンを、後続の騎士達を真紅に染める。
聖騎士は慟哭した。猛者達は涙を滂沱と流した。
だが、彼らは歩みを止めぬ。戦いを止めぬ。
その様は、まさに狂戦士の群れ。レヴィンを先頭とした怒れる騎士達の突撃によって、外庭に展開していた敵陣は中央より真二つに分断され、更に四方より壁を乗り越えた追撃隊によって囲われ、やがて消滅していった。
「外庭の防衛は崩れた。残るは敵の本陣と、それを護衛する幾つかの小隊のみだ!」
「最早、これらなど恐れるに足りぬ。私達の勝利は目前よ!」
「──全軍突撃!」
天より、そして軍勢の先頭より発せられた二人の聖騎士の声が同調する。
砦を包囲する二千の騎士が、そして、レヴィンを先頭とした千騎もの突撃隊が割れんばかりの歓声をあげる。
突撃の勢いは苛烈を極めた。砦の内壁を守衛する小隊を瞬く間に殲滅するや、その内部に陣取る敵の本陣へと迫っていく。
その様子を眺めた後、エリスは眼下に広がる光景を──山と築かれた屍へと視線を送る。
そのうち、力なく横たわる旧聖都住民達の変わり果てた姿、その一つ一つを眺め、静かに、だが懸命に謝罪の言葉を述べ始めた。
それは呪文の如き長い独白。
無論、幾ら言葉を紡いでも、悲しみに暮れる心は晴れぬ。
だが、彼女はそうしたかった。いや、自分はそうすべき立場であると信じていた。
人、魔物問わず、おのれの采配を振るう戦によって失われていく命というものを、真正面より受け止める為に。
そして、この命に報いる為──大義を成さんと誓いを立てる。
──『聖騎士』の名において、そしてシェティリーゼ家の正当なる嫡女・エリスの名の下に誓おう。
『すぐに貴方達の本当の仇をとってあげるからね』
エリスは呪文の文句にこの言葉を静かに添え、そして、最後に一つの単語を足し加えた。
『絶対──絶対に!』
この長き独白が終わった頃、遥か遠くより勝利の鬨があがった。
戦の後、レヴィンとエリスの姿は、砦の外に張られた天幕の中にあった。
刻は既に夕刻。砦の中では、いまだ遺体の片付けが粛々と続けられている中、本来はそれを指揮せねばならぬ筈である中隊及び小隊の隊長らが集められ、緊急の軍議が開かれていた。
「忙しいところすまないが、緊急に集まってもらった」
上座に座するレヴィンが口を開く。
彼は敵兵の返り血で汚れた鎧を脱ぎ、真新しい服に着替えていた。
急いで水をかぶり、全身の血を洗い流したのか、荒れた前髪から薄赤色の水滴が滴り落ちる。
姑息的な身滌であるが故、その身を纏う血腥さを拭い去るには到底至らなかったが、その壮絶な姿は集められた猛者達を慄然とさせる程に圧倒させ、この急なる軍議の開催に不平不満を一切口にさせぬ。そんな圧力めいた装飾の役割を果たしていた。
「皆も知っての通り、今は一刻を争う事態。本当は命を落とした仲間の弔いをしたいのでしょうけど、ご辛抱を」
エリスが語を継ぐ。
二人の聖騎士には──いや、この部隊のみならず、王都より派兵された九千騎の師団は、戦を急ぐ理由があった。
それは、レヴィンとエリスの仲間である霊術士リリアが敵の手に落ちた事に起因する。
ソレイアは直属の錬金術師団の力と、現在自分の支配下にある霊峰の力を合わせて、自らの窮地を脱する何らかの手段を企てているという。
それは、錬金術師団の祖とも言えるであろう今は亡き天才錬金術師レーヴェンデ=アンクレッドが遺した書に記された邪法──人間を基とした巨人を造り出すという技術を応用した何かだと思われたが、委細は誰にもわからぬ。
だが、相当なる脅威である事には間違いはないと思われた。
敵の目的──その全容を知らぬ不気味さが漂う中、ソレイア公国は巨人の基たる懐妊したホムンクルスを多数回収し、多くの幼き子供達を攫う事に成功し、そして更には霊術の行使者たるリリアの拉致に成功したのだ。
これで、ソレイアは欲する手札を全て手にした事と同義である。
この優位を一日も早く崩す為、ソレイアの野望を阻止する為、そして、掛け替えのない仲間を救うため──騎士団はリリアの救出を急がねばならなかった。
「まずは、この戦いにおける被害の状況を教えて下さい」
エリスが促すと、下座に座する一人の騎士が立ちあがり、恭しく一礼をすると、淡々と語り出した。
「第一中隊。前線の主力部隊に対する補佐の任ゆえに、幾度か敵との戦闘が発生。それにより二百名中、死者十余名、負傷者五十余名──うち、以後の戦闘が不能とされる者の数は約半数。指揮官など、部隊の幹部に死者及び、怪我人はおりませんが、隊への被害が想像以上に多く、これ以上、中隊としての機能を果たせるかどうか……どこか、余力のある隊と合併させ、新たな指揮系統を構築すべきかと」
「第二中隊。後方支援ゆえに、死者はなし。負傷者は流れ矢等による数名のみ」
隣に座する中年の騎士が報告を終えると、また別の騎士が立ちあがり報告を始める。次々とあがる報告を二人の聖騎士は真摯な眼差しで拝聴した。
──損害は想像以上に大きかった。
第一砦の攻略より然程の間をおかず、この山岳を登り、この第二砦の攻略へと乗り出したのだ。
十分ではないにしろ、時間の許す限りの最善の方策をとってきたという自負はある。その為の然るべき準備も行っていた。
しかし、状況は芳しくなかった。
王都からの長きに亘る行軍と、慣れぬ山岳での連戦による疲労。そして、敵の中核に近付いた事に伴い、敵兵の質も主力或いはそれに近しいほどに強力となり、騎士団の行方を阻んでいるのだ。
犠牲者が多くなるのも当然であると言えよう。
全ての報告が成された後、レヴィンは新たな隊の編成を後ほど伝えるという旨の発言をした後、静かに解散を宣言した。
一人、また一人と、天幕を後にし──そして、レヴィンとエリスの二人だけが、その場に残った。
二人の聖騎士は、大義を成す事の難しさを改めて思い知らされていた。
この第二砦の攻防により、約三百名にも及ぶ騎兵が死傷し、戦線離脱を余儀なくされていたのだ。
先日の第一砦の攻略と合算すると、脱落した騎兵の数は五百にも達している。レヴィンとエリスの指揮命令系統の維持能力を考慮すると、これ以上の損害を出す事は、兵の脱走を誘発させる危険性を孕む。最悪の場合、隊が霧散消失しかねない。
無論、それだけは避けねばならぬ。
事前に義勇軍のレオンより入手した情報によると、この第二砦と聖都の間には、もう一つの関門が設けられているという。
レヴィンらが聖都のソレイアを討つには、その関門を突破せねばならぬのだ。そこを守衛する兵らは数、質ともに、この第二砦と同等、或いは上回る勢力を誇っているであろう──それは予想に難しくない。
今、その情報を引き出す為、別の隊がある人物に査問をしている頃である。
その相手とは、昨日までこの砦の主であった者。
名はエセルワルドという老人。かつては旧聖都太守の遠戚関係にある僧正。聖都陥落の際、ソレイアに家族と腹心の配下を人質に取られた事を契機に、その軍門に下る事を余儀なくされた悲運の人物。
その経緯を知るレヴィンは、査問の後、彼を調略によって味方に引き入れるよう、指示を下していた。
「レヴィン……」エリスが、心配そうに相棒の顔を覗き込む。
彼は無表情のまま思案を続けていた。それは、本当に追い詰められた時──それを周囲に悟られぬよう、無意識のうちに出るレヴィンの癖であった。
「──エセルワルド老からの情報を待つしかない」
心配そうな表情を見せるエリスの瞳を見つめ返し、レヴィンは気遣うかのような笑顔を見せる。
「そうね……」
エリスは静かに頷き、先刻まで行われていた軍議の参加者が消えていった天幕の入り口を見遣った。
そろそろエセルワルド老に対する調略を行っている交渉部隊の者が現れ、何らかの報告があがってくる頃合い。
朗報であれば良いのだけれど──エリスは彼らの戻りを待ちながら、そう願わずにはいられなかった。
待ちわびること数刻。二人の聖騎士は、天幕の外に帯びる気配の変化を察した。
それは、明らかに複数の人間による気配。二人の表情が一変する。
程なくして、気配の主より声が発せられた。
「──失礼いたします。エセルワルド老との交渉、只今終了いたしました」
「入れ」
言葉少なにレヴィンが返答すると、騎士の甲冑に身を包んだ男が三名と、彼らを左右と背後に──まるで従えるが如く同行する、一人の翁が入って来た。
皺の刻まれた顔の奥に帯びる、鋭い眼差しがひどく印象に残る老人。
「エセルワルド老──ですね?」
「──いかにも」エリスの問いに老人は頷き、そう答えた。
答えを聞き、エリスは満足そうな笑顔を見せた。その理由は、翁が拘束される事なく、自らの足でこの天幕を訪れた事。
即ち、調略の成功──眼前の老人を、味方に引き入れる事に成功した証左であった。
「歓迎致します、エセルワルド老」レヴィンも同様の結論に至ったのだろう。立ち上がって一礼し、老兵の英断に敬意を表した。
「聞けば、エセルワルド老はソレイアに家族や、直属の配下を人質に取られているとか? 我々に与する事は、無論ソレイアに対する背反と同義。それが敵に知られれば、捕らわれの者達も無事では済まされますまい。本来でしたから彼らの救助を優先すべきでしょうが、今は非常時ゆえ、それすらも我々には困難。それでも、貴方は我々に与する御覚悟か?」
「詮無き事よ」翁は答えた。「皆、既に鬼の餌とされ、或いは見ず知らずの男に抱かれる為、自我を奪われ、何処かへ売り飛ばされてしまった。私も月影という男に脅され、あの悪女ソレイアの走狗──この南方第二砦の主として生き恥を晒しておった。だが、砦が陥落し、城主としての役目を終えた私は、ソレイアの拘束より救出されたも同然」
「……」
敗戦の将でありながらも心底安堵している老兵の姿を見て、エリスは押し黙った。
ソレイア政権下に置かれた聖都では、かつての住民を最下層民と定め、様々な不当なる差別を謀り、搾取や弾圧を日常的に行っているという。
それは、たとえ伝聞であれど、エリスも承知していたが、それらの苛酷さたるや想像を遥かに上回っていたのだ。
故に、彼女は言葉を失っていた。
同時に、ソレイアに対する怒りが胸の奥より沸き上がり、伴って卓上で握られた拳が静かに震えだす。
エセルワルドの表情は暗く沈んでいた。語り、その壮絶なる記憶を蘇らせているのは、誰の目にも明らかであった。
その沈痛な様を見かねたレヴィンが、まるで話題を変えるかのように、事の本題へと話を進めた。
「現状、我々はこの第二砦より聖都までの道中に、最後の関門が設けられているという事実を突き止めております。ですが、先日からの二連戦において我々の受けた損害は想像を上回っており、これ以上の犠牲は最小限としたく考えており、本日までソレイアの先鋒として国防の任にあたっていた翁ならば、その関門に関する情報を握っているのではないかと考えるが故、調略をもってして我が味方へと引き入れた所存にございます」
「なるほど、事情はわかった。では、私の知る限りの情報をお伝えしよう」
「お願いいたします」
レヴィンが促す。その声に応じて、老兵が軽く頷くと、重々しき口調で語り始めた。
「三年前にこの道を用い、民を連れて聖都からの撤退を行った貴殿らであれば重々承知しているであろうが、聖都へと至る道は、ここから先の伸びる崖に囲まれた細い一本道のみ。ソレイア軍はこの地形の理を最大限に利用し、崖上からの横矢と落石部隊を用いて行く手を阻むであろう。崖は高く、下からの反撃は不可能ゆえに、貴殿らが前進するごとに、崖上の連中も追いかける──つまり、前に進めば進むほど、攻撃は激しいものとなっていく」
「今までとは比べ物にならないほどの難関ね……」
エリスが苛立ったかのように親指の爪を噛む。
「御心配召されるな。その防衛部隊を指揮する将のうち、数名は元来私の部下であった人物。その忠義ゆえに、ソレイアの軍門に下った私に従ってくれた者達だ。私が騎士団に保護されたと知れば、貴殿らのもとへと寝返らせる事は容易であろう」
「しかし、どうやって彼らに接触を図るんだ?」
レヴィンが問うと、エセルワルドの横に控えていた交渉部隊に属する騎士の一人が答えた。
「これより我々は日没を待ち、老と共に秘密裏に彼らの陣営へと赴き、その者らと接触をはかろうと考えております」
「──大丈夫なのか?」レヴィンが更に問う。
「彼らも、第二砦陥落の報を受け、翁の安否調査の為に斥候を放っている頃と思われます。無論、彼らの中にその顔を知らぬ者は皆無。故に翁が先頭となって接触を図れば、我々に危害が及ぶ事はない筈」
答弁をする騎士の隣で、翁が静かに頷く。
「彼らの持ち口は、聖都へと至る最後の防衛陣のうち手前半分。事実上、それらを無力化することができよう。そして──」
「そして?」エリスが小首を傾げる。
「道中、聖都より兵や資材運搬を円滑に行う為の隠し道が存在している──聖都の南門へと直結している道が、だ」
「その道に対する監視は、いずれの隊が担当しているのかしら?」
「無論、その隠し道の監視も、私の元部下たる将の担当。故に、緘口令を布いて、後ろに控える公国軍に対して、貴殿らが隠し道を利用したという事実を、隠し通す事も可能」
「では──」
「そこを通れば、最低限の戦闘のみで、聖都へと辿りつく事が出来るだろう」逸るエリスを制し、レヴィンが言った。
頷きあう二人の聖騎士の様子をしばし眺めた後、老人は言った。
「だが、その南門こそが聖都解放への最終関門であろう」──と。
「最終関門?」レヴィンが問うた。「三年前まで、あそこは街の内外を仕切る通用門としての役割だったはずだが?」
「ソレイアが、街の外壁を改造し、防衛に適したものへと造り変えたのだ」
至極単純な話であった。
かつての聖都は霊峰の影響により、魔物一匹寄りつかぬ平和な地域であった。
故に騎士による守衛も必要とせず、また、執政の中心である東方地域と最も遠く離れているにも関わらず、土着した宗教の中心的役割を果たす土地、民衆にとっての心の拠り所──信仰の対象とされているが故、国内で頻発する地域同士の小競り合いとも無縁であった。
その為、あの街には防衛という概念がない。
太守の居城に至っても、聖都の特殊な土地柄ゆえか、権力を誇示するのを主目的とした絢爛さと利便性に特化した造りとなっており、外からの武力に対抗する為のものとして適しているとは言い難い有様である。
ソレイア政権下の聖都は、王都グリフォン・ハートを含めた全ての地域、騎士や神殿勢力は無論のこと、王侯貴族や民衆に至るまで、国内殆ど全ての者達と敵対関係を構築している現状、これらからの攻撃に対する抑止力の構築は最優先事項であったのは言うまでもない。
街の外壁のみならず街や城塞に至るまで、戦を意識した構造のものへと造りかえられていると考えるのが自然であった。
「有事における門の防衛に関しては、極めて重要な軍事機密ゆえ、防衛を任された隊の者以外には一切口外されぬ。無論、私も委細は判らぬ」
「だが、あのソレイアの事。最大級の防衛線を引いているのは間違いなかろうが──」
「その時は、強行突破もやむなしよ」エリスが決然と言った。
「──そうだな」レヴィンも相棒に同意し、頷く。「多数の犠牲を生じかねない難関を回避し、突破できる手段が発見できたというだけでも、素直に喜ぶべきだろう」
「では、如何なさるか?」
老兵が、自らの新たなる主となった若き聖騎士に、判断を委ねる。
レヴィンは一度瞳を閉じ、数瞬の間を置く。
開眼し、彼は言った。
「エセルワルド老と交渉部隊は、今晩、敵前線へと赴いて老の元配下であるという敵将と接触して懐柔を謀れ。明朝の報告をもって、進軍を開始する」
<3>
レヴィンとエリスらが駐留する砦の西南西。リリアが囚われし霊峰より南の方角に位置する海岸に設けられた小さな港。
そこは今、割れんばかりの大きな歓声に包まれていた。
この小さな港に集っているのは、青と白を基調とした神官衣を纏った僧たち。彼らは皆、眼前に聳える高山の六合目より上がる三本の狼煙を見ては歓喜の声をあげ、隣の仲間と抱き合い、或いは肩を組んで喜びを露わにしていた。
あの三本の狼煙こそ、聖都へと至る高山の六合目の三箇所──北、南、そして央に聳える第二の砦が、騎士団と義勇軍らの手によって陥落させた証。
聖都奪還を目指す彼らにとって、それは大いなる前進を意味していた。
「流石はアルファード卿。たったの四日で第二砦を攻略なさるとは、亡きシェティリーゼ卿も、さぞお喜びであろう」
「北からの攻撃隊を率いる騎士レンダー、彼の率いる隊の勇猛さと、突撃力たるや比類なきものであるという。彼らの力をもってすれば、魔物で構成されたソレイアの走狗どもなど恐れるに足らぬ」
口々に砦を攻略した隊を称賛する。
だが、中でも最も声の多かったのは、南からの攻撃隊に対する絶賛の声。三つある第二砦のうち、最も早く勝利の狼煙を上げた──そう、レヴィンとエリスが率いる『双翼の騎士』隊に対する称賛であった。
レヴィンもエリスも、長きに亘るソレイアとの戦いの中で様々な武功をあげ、聖都奪還の求心力として相応しき名声を得てはいる。だが若さによる経験の浅さゆえ、司令官としての能力は成熟しているとは言い難く、事実、この戦の直前までは、彼らの隊が最も進軍が遅れるであろう、最も苦戦を強いられるであろうという厳しい評価を受けていた。
だが、その予測に反しての快進撃である。
信仰深き者達は、嬉しい誤算に驚き、この幸運を授けて下さった神に感謝の祈りを捧げた。
喜びのあまり祝杯をあげる者まで現れ、港は祭り騒ぎの様相を呈している。
その光景を、詰所の二階の窓から眺めている者がいた。
長い金色の髪をもつ女──セティであった。
彼女の立っている詰所は、かつてソレイア公国の警備隊が使用していた詰所。神官戦士団によって制圧された今、そこはセティと神官戦士団長カミーラの執務室兼、宿直所として利用している。
「どうやら、レヴィンさん達は本当に六日で聖都へと辿りつくつもりのようですね」
そう言い、セティは後ろを振り向き、室内の奥に備えられているソファに静かに座しているカミーラに優しく声をかけた。
「……ええ」
程なく力のない返事が、セティの耳朶をうつ。
返事の主たる初老の女から、生気というものがまるで感じられなかった。不浄なる地に現れ、呪詛を撒き散らす悪霊の類のほうが、まだ存在感を感じられるのではないかとセティは思う。
この港の戦以降、カミーラは一睡もしてはいなかった。
自分の不手際により、娘リリアが敵の手に落ちたのだと思い込んでいるが為に。
「本当であれば十日で聖都へと辿りつく予定でありました。ソレイア正規軍との連戦を考慮すると、それでも相当に厳しい日程であるはずにも関わらず、それよりも更に早く事を進めているのですから、騎士団の皆様には相当なる負担を強いているのでしょう。死者の供養も、重軽傷者の手当てもままならず、指令系統を再構築する時間的猶予もなき強行軍であるのは明白。出る事のなかった犠牲を出しているのではと考えると──」
「カミーラさん」
セティは、カミーラの自虐めいた言葉を遮り、小さく溜息を吐いた。
カミーラの真意は彼女も痛いほど理解している。
セティ自身も掛け替えのない友──リリアの身を案じる者の一人。その胸中に逸る気持ちがないと言えば嘘になる。
自分もまた、リリアの意思を尊重したとはいえ、敵の手に落ちようとしている彼女を見過ごしてしまったのだ。その失敗の皺寄せを騎士団に──レヴィンとエリスに押しつけてしまっている格好となっているのだ。
どの面下げてあの聖騎士に会えようか?
だが今、必要な事は猛省でも自虐でもない。
少しでも戦況が好転する為に尽力する事である。
眼前の山中より立ち昇る狼煙は、セティとカミーラの失敗を必死に補わんとする騎士団の努力が結実した成果であると言えよう。
「恐らく明後日には騎士団は聖都へと辿りつく事でしょう。我々も準備に取り掛からねばなりません」
仲間の努力に報いる行動を取らねばならぬ。その為に今、二人が成すべきは聖都攻撃に備えて準備を怠らぬ事──
この事実を知るが故、セティは意気消沈するカミーラを鼓舞せんと、懸命に語りかけていた。
「……」
「失敗を恐れているのですね?」
尚も沈黙を続けるカミーラの心情を察し、セティは鋭く指摘する。
図星を突かれたカミーラは観念したのか、静かに首を縦に振った。
「思えば、私の戦いとは常に失敗続きであったような気がしてならないのです。ソレイアとの政争に敗れて聖都から落ち延びた先でも、計略に嵌ってしまい、神官戦士団を孤立させ、司教様にこの上なき心労を負わせてしまいました。そして、騎士団が西の三拠点に戻られ、司教様が亡くなられた後でさえも、私の独力では瓦解しかけた神官戦士団をまとめ上げる事はできず、レヴィンさんやエリスさんのグリフォン・ブラッド解放の功績に便乗してようやと──という始末。挙句の果てには、港の戦において、敵の本拠地たる館の庭に火薬が撒かれていた事を見抜けず、更に詰所周辺に潜伏していた敵の存在を見抜けなかった結果、味方を不必要な危険に晒し、そしてリリアまでも──」
カミーラは泣き崩れた。
「このような私を誰が信用をするのでしょう? 私に神官戦士団を統べるのは不可能だったのではないのでしょうか?」
──無理もない。そう、セティは思った。
カミーラは三年前までは、聖都に拠点を置く一介の下級議員であり、自身が所属するユージン派の一員としての役割を果たしてきただけに過ぎぬ。
また、盲いたリリアを一人前の霊術士として育つまで待った後、政界の道を歩み始めたという経緯ゆえに、このような年齢であれど議員として、論客としての経験も浅い。
そして、カミーラのような聖都に活動拠点を置く聖職者は巡礼の慣例がない為、長旅の中で魔物から自衛を行う為の武力を身につける習慣がない。
騎士のように、有事の際には隊を率いて武力で事を成すような世界とは程遠い世界に彼女は住んでいるのだ。
冷静に考えると、そのような人物に聖都解放を掲げる部隊の一翼を担える程の実力などあろう筈が無い。
では何故、司教はカミーラに後を任せたのだろう?
あのような偉大な人物が、ただの無能者に未来を委ねるはずなどない。
セティは少しの思案の後、一つの結論を導き出した。
「──これも試練なのかも知れませんね」それは、聖職者らしい結論であった。「これも全ては神と、司教様より授かりし試練なのです。私とカミーラさんに対する最終試練とも言うべきでしょうか──」
「最終試練?」カミーラは顔を上げ、不意に浴びせられた意味深長なる言葉を復唱し、金髪の神官に問う。
「はい」
セティは頷いた。
「全ての発端はソレイア──聖職に身を置く者の中より生まれ出た膿の存在にあります。本来は、それが深刻な病巣へと育たぬ前に膿を全て出し切って浄化せねばならぬはずでした」
「それが出来ずに今の深刻な騒乱を生み出した責任の一端は我々聖職者達にもあると言うのですね?」
「ええ」そう言い、セティは窓の外へと視線を戻した。
彼女の視線の先には、いまだ祭り騒ぎの様相を見せる神官戦士達の姿があった。だが、狼煙を見た直後のような狂喜めいた熱気は次第に冷めつつあり、一人、また一人と普段の真摯な表情へと戻っていく。
空気が次第に張り詰めたものへと変容していく。
皆、現実を直視していた。明日、或いは明後日より始まるであろう、聖都での最終決戦を強烈に、そして鮮烈に意識をし始めていた。
だが、彼らがソレイアと相対し、これを討つ事は出来ぬ。
何故ならば、この戦の主導権はあくまで騎士団にあり、セティら神官戦士団の役目は、この港より逃亡を図ろうとするソレイア公国重鎮の足止めと捕縛、及び、聖都に攻め入る騎士団の後方支援であるのだから。
王都より派兵された師団の規模は約九千騎。対して、この港に滞在する神官戦士団の数は二千弱。
規模の差は歴然。それ故に、このような役割分担が成されるのは至極当然と言えよう。
「本心では、誰もがソレイアを討ちたいと願っているに違いありません──それが叶うはずがない現実を直視しても尚、どうしてここまで士気が高いのでしょうか?」
カミーラが疑問を口にする。
しかし、初老の神官はしばしの熟慮の後、自らその結論を導き出した。
「なるほど──答えはすぐ近くにありましたね」
そう呟くと、カミーラはゆっくりと立ちあがり、セティの隣へと歩み出た。そして、北の山の六合目より天に向かって立ち昇る真白い煙を眺める。
「『双翼の聖騎士』──グリフォン・ブラッドを解放する為、シェティリーゼ卿の魂に安楽を与える『覚悟』を決めた勇者。その結果、今の優勢の基盤を作ったのでしたね」
「ええ」セティが頷いた。「実子であるエリスさんは勿論の事、レヴィンさんにとってもシェティリーゼ卿は大恩ある御方。喩え、錬金術と病魔に侵され助からない命である事を悟ったシェティリーゼ卿が、その二人の手によって最期を迎える事を望んでいたという事情はあれど、あの二人にとっては大変な苦悩であった事でしょう──ましてやエリスさんにとっては『親殺し』の恥辱すら受けかねなかったのです」
「恥辱すら恐れぬ覚悟──」
カミーラは小さく呟くと、今も尚、異様な熱気に包まれている神官戦士団の姿を眺めた。
「本来であるならば、我々自らが先頭に立ってソレイアを討たねばならぬはず。だが、戦力的にそれが不可能である今、騎士団の力に頼らねばならぬのは我々にとって『恥』とも言えるでしょう。ですが、そのような瑣末な事に拘るよりも、現実にソレイアを討ち、大義を全うする事こそが肝要である──その真理を知るが故に彼らの士気は高いのですね」
「騎士団の力を信じ、彼らに最大限の力添えをする事こそ、聖都解放への唯一の道、光明であると考えているが故です」
セティが恭しく頷き、更に続けた。
「瑣末な『恥』に捉われる事なく、現実を見据え、大義を全うせよ──これこそ神が、そして司教様が私とカミーラさんに授けて下さった試練であると考えております。その言葉を心に刻んでいる限り、カミーラさんの心の迷いは晴れるはずです」
「私の──心の迷い?」
カミーラは釈然としない様子であった。俯き、軽く唸りながら、おのれの心に問いかけんとする。
そんなカミーラの顔を見据え、セティは静かに告げた。
「貴女は全てを自分で背負いこもうと考えています。その為、過去の失敗を責めるが余り、これ以上の失敗を恐れ、前に歩む事を恐れているのではありませんか?」
「──!」
頭から水を浴びせられたように、カミーラははっと頭をあげた。
言葉が出なかった。
セティの言葉はまさに正鵠を射ており、弁士たるカミーラの反論を封じるには十分にして余りあるほどの鋭き指摘であったからだ。
「聖職者にとって神への信仰こそが唯一無二の栄誉。そんな我々が、騎士のように武功を立てる必要など、どこにあるのでしょう? そもそも、このような大局的な戦に慣れぬ私やカミーラさんに、そのような期待を寄せるのは、余りにも酷な話であるとは思いませんか?」
「確かにそうですが……」
尚も口籠るカミーラに、セティは更に畳み掛ける。
「恐らく──私達がある程度の失敗をするという事を、騎士団は既に織り込み済みであったのではないのでしょうか? そうでなければ何故、たったの四日で第二砦まで突破することが出来たのでしょうか? 本来、十日で到達する予定であった行程を六日に修正するという決断を即座に出来たのでしょうか?」
「やはり、まさか……」
カミーラは言葉を詰まらせた。
「騎士達は、私達の為に……」
そして──再び涙した。
それ以外に、考えられなかった。
騎士団はカミーラの失敗を、セティの失敗を、神官戦士団の失敗を全て考慮に入れた上で行動をしていたのだと。
では、何故──足手纏いであるにも関わらず、この戦に神官戦士団の参加を認めたのか?
その答えは明白であった。
ソレイアを──聖職に身を置く者の中より生まれ出た膿、聖職者にとって最大にして唯一無二の汚名を、共に浄化し、返上する為。
信仰の大きな拠り所たる聖都を取り戻したいと願う敬虔なる神の信徒の意思を尊重するが故。
そして、娘と共に故郷への帰還を願うカミーラの意思を最大限に尊重するが故。
「その騎士団の努力に、今度は我々が報いる番です。その為には、当初の役目を遂行する事だけを──我々に出来る最善の判断をもって行動する事だけを考えるのです。それこそが、騎士団に対する最大の支援となり、聖都奪還という大義を全うする、最大の近道となるのですから」
そう、神官戦士団の為すべき当初からの役目とは、この港の制圧と、逃亡を図ろうとするソレイア公国重鎮の足止めと捕縛。そして、聖都に攻め入る騎士団の後方支援なのだ。
敵の策を見破れなかった事による犠牲、そしてリリアの拉致という多大なる失敗は犯したものの、港の制圧という目的は十分に果たしたのだ。
この失敗は、騎士団が必ずや取り返してくれるだろう。その騎士団が心置きなく任務を遂行できるよう、神官戦士団には以後の任務を完遂する事を求められる。
カミーラにとって娘リリアの拉致という事実は、重き心労として圧し掛かっているはずである。だが、彼女は司教ウェズバルドより引き継いだ神官戦士団の長として、その心労・重圧を撥ね退けねばならぬ。
悩み、この場で足踏みをし続けているままでは、事態は決して好転する事はない。聖都を奪還し、リリアを助け出したければ──今こそ歩みださねばならないのだ。
狼煙は二人の聖職者に、この真実をそっと示唆していたのだった。
セティは、狼煙を眺めて涙するカミーラの、その生気に戻った表情を視認するや、安堵の息を洩らした。
そしてカミーラに背を向け、静かにこの場を去ろうとする。
彼女は明日、聖都を攻撃する騎士団──レヴィンとエリスの支援をする為、隊を率いて聖都へと向かって出発しなければならないのだ。その出発の準備をする為に。
その背中に、カミーラが問いかける。
「まさか、セティさんは初めから騎士団の思惑を知っていて……」
「いいえ」セティは振り向かず、だが笑顔で即答した。
「では、どうして?」
「簡単ですよ」金髪の神官は静かに目を伏せ、少しの間思案する。
そして、優しい声で言った。
「レヴィンさんとエリスさんなら必ず──そう考えるだろうと思ったからです」
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全8巻で構成される長編ファンタジー小説 "Two-Knights"第8巻の第一章を公開いたします。 現在、本作品は同人ダウンロード専門店「DLsite.com」「DiGiket.com」「とらのあなダウンロードストア」での購入が可能となっております。 http://www.dlsite.com/home/work/=/product_id/RJ118879.html http://www.digiket.com/work/show/_data/ID=ITM0085668/ http://dl.toranoana.jp/cgi-bin/coterie_item_detail.cgi?cf_id=260002047500 |
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