オセロ
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 車窓を流れるビルが、オレンジに染まる時間。

 帰宅ラッシュに逆らうように、都心へ向かう一時間の車内。

 数ヶ月に一度、二人が逢った帰り道は、いつも平日のこの時間、彼女の部屋から都心行きの電車だった。

 この帰り道の車窓が、彼女は嫌いで仕方ない。

 

 焦点の合っていない瞳に夕焼け色の街並みを映しながら、彼女の意識は、この車窓が嫌いな訳に囚われていく。

 オセロのようだ、と思う。昨日の夜に、新幹線からホームへ降りる彼を見つけてからは、盤上のコマは全部白だ。それまでの負の感情は全て、目の前に彼が居る事によって上書きされる。ところが、このオセロにはタイムリミットがある。夜に彼と落ち合ってから、翌日の夕方まで。時間が経つにつれ、盤上には少しづつ黒が増えてゆき、この帰り道では何時ものように全て黒になり、数ヶ月に一度、盤上に白がある瞬間はあっさりと終わる。

 

 不意に、車窓の景色が暗転し、車内にも大きく響くレールのジョイント音が、電車が地下区間に入った事を告げた。

 聞き慣れた日本語と英語のアナウンスの後に、電車は前のめりに減速を始める。何時もなら、隣の彼にそのまま肩を預ける所が、なんだかそれをするには忍びなくて、少しだけ腰に力を込めて、減速に逆らった。

 みるみる速度を落とした電車はやがてぴたっと停まり、そのドアを開く。ラッシュとは逆の、都心へ向かう電車。がらんとした車内。がらんとしたホーム。

 地下駅の反響と空洞が、駅の持つ雑踏を遠くして、微かに違和感を覚えるほど静かな空間は、誰かの足音を小さくする。

「今度」

 声を掛けられ、彼女は彼を向き直る。

「多分秋口になるけど……旅行でも行こうな」

 何時ものように、優しく微笑む彼の目を見る。やけに大きく聞こえる、彼の声。

 どこか旅行に行きたい、という愚にもつかない会話を覚えていてくれた彼の気遣いは、彼のこういう所を好きになったんだと思い起こさせてくれた。

 笑顔を作り、頷いて見せる。満足そうな表情で彼が正面を向き、それからドアが閉まり、電車は加速を始める。

 ちゃんと、笑顔を作れていたろうか。

 タイムリミットまで、あと三十分と残されていない。

 

 彼女の続けるゲームは、角の取られたオセロだ。

 幾ら白を増やしてみても、それらはあっさりと、いとも簡単に黒へ置き換えられる。

 角を占める要素。それは新幹線を乗り継いで三時間の距離であり、数ヶ月に一度、彼が出張を装ってでしか逢えない事情であり、それらがもどかしさ、後ろめたさ、不安へ取って代わって、盤上を黒くする。

 彼が手の届く距離に居る間だけ、オセロは白くなるが、それもすぐ黒に侵食される。それが、また彼と離れる時間が近づいてくるから、なんてしおらしい理由では無くなっているのはとうに気づいていた。

 優しい彼は、彼なりに彼女に気を使って、負担を掛けまいとして、その言動が却って彼女の負担となっていたのが最初。

 やがて彼女は、彼の言葉と、それに対する彼女自身の反応を、白々しいと感じている自分が居るのに気づいて、それに気づいた時にはもう、この一時間の帰り道が嫌いになっていた。

 

 長い発車ベルが鳴り、お定まりのアナウンスが流れる。

 ドアの向こう、デッキへ乗り込む彼と、ホームに立ったままの彼女。彼の着崩したスーツを見て、それすらも白々しいと思う彼女自身を、彼女は否定しなかった。

「それじゃ、またな」

 そう言って手を軽く挙げる彼へ、また笑顔で頷いて見せる。

 泣くのは嫌いだ、と言われた事がある。もう逢えなくなる訳じゃないんだから、とも言われた。それを彼女は覚えているが、いつしか泣くのを我慢する努力は、必要無くなっていた。

 ドアが閉まり、ゆっくりと動き始める車内から、彼が手を降る。彼女は同じように手を振り返すが、それも加速する車両に遮られ、すぐにお互いが見えなくなる。

 焦点の合っていない彼女の瞳を、次々と車両が行き過ぎる。ふと、まだ最後の笑顔が顔に貼り付いているのに気づいて、彼女は少し俯いた。

 

 角の取られたオセロに、勝ち目は無い。

 発車案内の電光掲示板から、彼の乗った電車が消えて、彼女は携帯を取り出した。

「楽しかった、また逢いたい」とまで打って、メールの送信をやや逡巡する。

 勝ち目の無いオセロ。角を取らせてくれる気は、彼にも無い。現に、このメールに幾ら想いを込めても、それは彼の携帯に残らないだろう。彼女の携帯には、彼の言葉が幾つも幾つも「保護」してあるが、彼の携帯には彼女の言葉の痕跡どころか、名前すらも無い筈だった。

 元々、そういうルールで始まったオセロ。勝ち目なんか、最初から無かった事を、彼女は知っている。

 バイブレータが振動し、メールの着信を告げる。彼からのメール。

「逢えて嬉しかった」と綴られたメールは、秋口に逢いに来ると締めてあった。

 何時ものように、彼女はメールを「保護」して、書き掛けていたメールを返信する。

 旅行に行こうと彼は言ってくれたが、旅行など無いのを彼女は知っている。そもそも、一日にも満たない時間を、彼女の部屋で一緒に過ごす以外の選択肢は無い。

 そういうルールのオセロ。

 盤上はまた、黒一色になる。

 彼からのメールを「保護」したのは、惰性なのか、それともまだ感情が向いているのか。

 答えは出ている。

 それでも、触れられる距離に彼が居ると、その答えを掻き消してしまうのは、きっと馬鹿だからだろう、と思う。

 またしばらく、盤上が黒い時間が続く。

 いっそゲームに負けてしまえばどんなに楽だろう。

 彼女は、これから始まる、ただ待たされる時間が嫌いで仕方ない。

説明
あまり幸せででない二人。
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