祝いの奏楽(後編)
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 東京カテドラルの広い構内へ出、ふたばは改めて大聖堂を見上げた。

 八面の双曲抛物面(そうきょくほうぶつめん)を垂直近くに建てた構造は、直上から見ると、巨大な十字架を形作っている。

 外装のステンレス・スチール板仕上げは、社会や人の心の暗闇を照らすキリストの光を表している、という。

 関口教会は、一八九九年(明治三二)に聖母仏語「まい魂塾(かいじゅく)」の付属聖堂として造られたが、翌年、関口小教区の聖堂となり、やがて東京大司教座聖堂となった。

 当時は、木造ゴシック式の聖堂で、信者席には畳が敷かれ、信者達は履き物を脱いで聖堂へ入っていた。昭和になって、中央信者席に椅子が設けられたものの一九四五年(昭和二十)の東京大空襲によって焼失したが、ドイツのケルン教区の支援によって、一九六四年(昭和三九)十二月に現在の大聖堂が落成し、献堂式が行われた。

 大聖堂は内外共にキリストの救いを表しているが、自分にはボーイフレンドの一人も与えられない。それどころか諸橋君の長姉のツテで、思いもかけず諸橋君とオルガンコンサートに足を運ぶ機会を得たものの、既に次姉の友人が姉さん女房然とした振る舞いを続けているという。ぬか喜びをさせておいて、足をすくわれたような思いを味わされては、十字架や聖堂が目に入れば、石の一つも投げつけてやりたくなる……

 ふとふたばは前方を見ると、駐車場をはさんで整然とした構内には不釣り合いな岩場がある。一体、何だろうと思い、近づいてみると、「ルルドの岩場」と名付けられた一角だった。

 洞窟の中に祭壇が祭られ、花が献じられている。知識のないふたばにも由緒のある場であることが解る。

 洞窟の右上には純白の聖母像が置かれている。

 信者席とも呼べないわずかに並べられただけのベンチの一つに腰を下ろすと、ふたばの目に解説パネルが映った。

 ルルドとは、フランスの片田舎にある小さな町で、そこに約百五十年前、聖母マリアが出現し、難病を治すなどの奇跡が相次ぎ、以来世界的な巡礼地となっている、という。この「ルルドの岩場」はマリアへの信心のために、一九一一年 (明治四四)にフランス人宣教師よって、現地そっくりに造られた祈りの場であった。

 都心にまさかこうした空間があるとは思いもよらず、ふたばが見入っていると、小型犬を連れた中年の外国人女性が手を合わせ、祈りを捧げていった。

 祭壇が置かれた洞窟の内壁には、「東京大司教区創立百年」や「ケルン・東京大司教区友好」二十五年と五十年を記念して造られた石碑が掲げられている。

 このとき、ふたばの傍らで何者かが食パンの切れ端を、餌を求めて洞窟の中に降り立ち、辺りをついばむ鳩に投げ始めた。鳩は、人間が投げて寄こす餌は、ぬか喜びだけさせておいて後で取り上げられるなど、邪推はせず、純粋についばんでいる。

 ふたばはまたも身の置き場のない思いに苛まれたが、鳩から純な心を引き出している人に興味を感じ、ふと目を遣ると、中肉中背の中年男性であった。高級注文紳士服に身を包み、白くなり始めた頭髪を櫛の後もくっきりとオールバックにしている。

 息を呑むほど理知的な面差しが印象に深い。

 男は、コンビニから買ってきたカツサンドを頬張りながら、時折、カツを挟み込んだ食パンだけを千切っては、鳩に投げつけている。

 ふたばは自分の父親よりも、もう少し年齢はいっていたが、野鳥を慈しむ男の姿にふと心が和み、

「こんにちは、わたし狩野ふたばといいます」

 おずおずと言ったとき、あっと素っ頓狂な声を上げた。知性に富んだ目をした男には見覚えがあった。誰であったかと、ふたばが記憶を巡らしていると、男は、

「県民ホールのコンサートは気に入ってくれましたか? なるべく明るい感じの曲を選んだつもりでしたが」

 柔和な瞳でふたばを見つめ、尋ねた。男は、県民ホール小ホールで開催されたパイプオルガンコンサートでオルガニストを勤めた天城 凌その人だった。

 聡に入場券と共に手渡されたリーフレットによれば、天城は東上野学院の大学教授で、教鞭を執るばかりか、池袋の帝国芸術ホールでオルガン主任に就き、一般愛好家を対象としたオルガン関連の啓発活動を積極的に行っている。

 その経歴も抜きん出ており、帝国芸大音楽部と大学院を終え、ドイツ国立の音楽大学を卒業し、独奏会の他、多くの交響楽団でオルガンを担当し、国営放送の教養番組にも頻繁に出演していた。

「わたしのこと、覚えていてくれたんですか? あんなにたくさんの人がいたのに?」

 ふたばが四百三十三席の小ホールを満席とした観客の中で、ステージ上からふたば一人を記憶していた天城に驚いて尋ねると、

「最前列のど真ん中で、演奏中はじっと私の背を見つめていてくれました。パイプオルガンの演奏席には、指揮者を確認する目的でバックミラーがついていましてね、オルガニストは観客の反応を見ているものです。それから、クラシック演奏会を訪ねるのは年配者が多く、学生さんは目立つ、というのも印象に残った理由の一つです」

 こともなげに答えた。

 ふたばは天城の手許に、ぼろぼろに使い古した楽譜の束があることに気付いた。先程、大聖堂でオルガンを弾いていたのは、天城なのだろう。

「天城先生は、この教会でオルガンを弾いている、ということは、カトリックの信者さんなんですか?」

「いえ。僕は上野でオルガンを教えているのと、池袋の劇場に設置してあるオルガン担当というだけです。毎月第二金曜日の夜に、この教会でオルガン演奏会が開かれるんですが、今日はそのリハーサルです。どこの教会やホールでも専属のオルガニストはいるのですが、コンサートの数に比べて演奏出来る者が圧倒的に不足しているので、互助精神というか、依頼があればどこへでも出掛けていかなければならないし、利益が上がる演奏会も頻繁に企画し、開催しなければならない。それでも、クラシックはお堅い、難しい、というイメージが先行し、なかなかお客さんが集まらない。我ながら儲からない商売を選んだものです。

 カトリックに関した質問があるのなら、教会事務所へいけばよいでしょう」

 天城が言うと、ふたばは、

「いえ、質問と言うよりは……あの……わたし、男運がないんです。ボーイフレンドの一人ともおつき合い出来ないんです。どうしたらいいですか?」

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 自嘲しながら言い、聡との出会いと別れを話した。天城は誠実にうんうんと頷きながら、ふたばの一言半句に耳を傾けた。ふたばの話が終わると、ふたば自身が何一つ聡に直接に確かめたわけではなく、無責任な美那の言葉を鵜呑みにして、振り回されているだけだった。それが中学生の恋愛と言えば微笑ましかったが、ふたばが一途なだけに不憫であった。天城は、

「運がいい、悪い、とよく言いますが、では、運命とは一体、何だと思いますか?」

 ふたばに真摯に問いかけた。ふたばは、ままならない人生と、不幸にして行き着いてしまった結果を言い表したもの、と答えようとしたが、適切な言葉が見つからず、黙り込んでしまった。天城は、

「世間では誤解されていますが、人間が生き甲斐を感じる人生を歩むための道筋やそれを成り立たせるための生命力のことです。

 いつだったか、アイドル歌手が難聴であったことを公開し、作詞作曲活動に専念する旨、発表しました。正に、人生の正道を歩む姿です。決して、不幸を嘆き悲しむための方便ではありません」

「どうすれば、その運命を知ることが出来るんですか? 占いのおばさんに高いお金を払って聞いたり、教会に足繁く通って祈り暮らせばいいんですか?」

 どうせつき合うことの出来ない男の子に振り回されるのなら、始めから興味をもたない方がはるかに楽で、ふたばは思わず天城に尋ねたが、天城は柔和な表情一つ崩さずに、

「人生とは人と物との出会いで成り立っています。例えば、無人島に流れ着き、誰とも会わず、話さずに一生を終えることを考えれば、今の環境がいかに恵まれているか、解ると思いますよ」

 ふたばが不承不承頷くと、天城はふと「ルルドの岩場」に目を遣り、

「しかし、自分が疲れるだけの出会いはご免被りたいのが人情です。例えば、このルルドの聖母マリアの出現です」

 思いもかけないことを言った。天城は言葉を継いだ。

「ルルドはフランスとスペインの国境になっているピレネー山脈の麓にある人口一万五千人程の小さな村です。

 一八五八年二月に村の十四歳の女の子が郊外のマッサビエルの洞窟のそばで薪拾いをしているときに、初めて聖母マリアが出現した、とされています。当初、聖母出現は当然ながら村民は勿論、教会関係者にも認めてもらえませんでした。そこで、女の子は牧師の指示により聖母の名を尋ねると、『無原罪の御宿り』と当時のいわゆる最先端の教会用語を用いたことから、聖母出現の決定的証拠となり、以後、十八回にも渡って、聖母は女の子の前に姿を現し、聖堂を建ててほしいなどの指示をしたそうです。

 これにより、村人が聖母像を建てるなどにより、世界的な巡礼地になりました。こうなると、聖母出現は女の子の手を離れ、一人歩きを始めてしまいました。

 女の子にとって不思議で楽しいはずの神との対話が大人達によって奪われ、観光の目玉となったのです。結果、泉の水は万病に効く、医師に見放された不治の病が完治した、など噂が噂を呼び、女の子は一回として口にしていない言葉を誰ともなく預言や奇跡としてぶち上げられてしまいました。

 女の子は恐れおののき、修道院へ入り、シスターとなって外界から遮断された生涯を送り、三十五歳のとき肺結核で亡くなったそうです」

 ふたばはルルドの村娘が自分と同じ十四歳であったことに、引きつけられるものがあった。

 思いもかけず、『神』と対話したことにより、いい面の皮にされた女の子であったが、それでは『聖母』とされた存在に十八回も会い、何を話していたのだろうか。『聖母』から指示を受けることも多かっただろうが、年齢からして、極貧生活を送る家族の救済や生来、病弱だった自分の将来も尋ねたに違いない。

 天城は柔和な面差しのまま、

「しかし、学ぶこともありますよ。女の子は、『神』と対話出来ても、自分の短い寿命を長くしてほしい、とは頼まなかった、あるいは、頼む必要がなかったのかもしれません、これから得られるものは何だと思いますか?」

「仕方がないこと、諦めることですか?」

 ふたばは聡が既に上級生に食事を作ってもらえるような仲になっていたことを思い返して言うと、天城は首を左右に振り、

「いえ。思うに、自分の短命を認め、心素直に受け入れる、という思いを得ていたのだと思います。あなたは大自然の壮大な景観を体験はしていなくとも、テレビ放送やカレンダーの図版で目にしたことがあるでしょう?」

 ふたばが頷くと、天城は、

「そこには人智を越えた存在が、確かに表現されています。そうした景観は恐れるよりも敬いをもって見つめると、人の手にはどうにもならないにも関わらず、人を大きく感動させるものが、この世には絶対に存在しているという実感が得られるます。その人智を越えた存在に、自分の人生を預けて生きる自信をもつのです。

 これは、信心、信仰とは全く異なる人が生きていく上での智恵を手に入れることです。こうした知恵を生かしていくことで、必要以上にこだわる思いはなくなり、ひきずる生き方はしなくなります。そのすがすがしく生きる姿勢から他者の信頼が得られ、人生は可能性に満ちて、末広がりに伸びていきます」

 ふたばは神の啓示のごとくの言葉に凝然として、

「天城先生は、本当にカトリックの信者さんではないんですか?」

 今一度、確かめる思いで尋ねると、天城はカツサンドの最後の一切れを口に放り込むと、

「違います。カトリックは聖書以外は信じないそうです。したがって、つき合い程度にも雑誌の星占いは見てはいけないそうです。そういう社会性のないところが受け入れられませんね。でも、僕は、あなたの無限に拡がる将来を信じています」

 巧みにふたばにも智恵にあふれた生き方が出来ることを示した。ふたばは頬を赤くしながら、

「先程、パイプオルガンで弾いていた曲は何という曲ですか?」

「フランスのオルガン奏者で、シャルル=マリー・ヴィドールという人のオルガン交響曲第五番の第五楽章です。ヨーロッパでは結婚式などの祝いの席で弾かれる曲です。さあ、少しはリハーサルをやっている振りを続けてきます」

 天城がぺろりと舌を出して言うと、ふたばは声を上げて笑った。

 ふたばは、天城について大聖堂へ戻っていくと、すぐに聞き覚えのある明るい楽曲が聞こえてきた。

 それは、J・S・バッハの教会カンタータ「主よ人の望みよ喜びよ」BWV147をオルガン独奏に編曲したものであった。クラシック音楽のクの字も知らなかったにも関わらず、求めずとも知識が拡がっていくのがふたばには不思議だった。

 大聖堂を背としたふたばを見送るように、天城の祝いの奏楽は続いていた。(完)

説明
東京カテドラルの構内にある「ルルドの泉」の前で、狩野ふたばが天城 凌に告げられた一言は……
小市民の短編小説新作の後半です。
物語中で天城がふたばを励ます台詞に「カトリックは聖書以外信じないけれど、私はあなたを信じている」というシーンがありますが、我ながらいいセリフだと思います。
天城の経歴が「十五年前のクリスマスプレゼント」女主人公の経歴そっくりですが、女主人公の方が天城の経歴を真似ているんです。作者は全知全能ではありません、あしからず。
さて、天城のモデルは誰だかバレバレですが、まあ、気づかない振りをしてお楽しみ下さい、ええ、創作ですから。
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コメント
どこのどなたか、支援をいただき、本当にありがとうございます。(小市民)
ヴィドールのオルガン交響曲第5番第5楽章はきれいな曲です。機会があれば、是非お聴き下さい。(小市民)
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東京カテドラル関口教会マリア大聖堂 ルルドの泉 聖母出現 オルガン交響曲第5番第5楽章 「主よ人の望みよ喜びよ」BWV147 

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