雪の邂逅 |
空は厚い雲に覆われて、絶え間なく純白の結晶が降り注ぐ。
外灯は細々と灯り、シャッターが下ろされた無人の商店街を、私は一人歩いている。
商店街とは名ばかりでこっちの道にアーケードはない。アーケードがあるのはもっと駅の近くにある商店街で、こちら側は寂れているため実装されていない。
傘では防ぎきれない雪は冷たく、身を切るような凍えた空気が風となって、容赦なくコートの上から肌を突き刺す。
純白の、誰にも踏まれていない道を、私の足跡だけが踏みしめていく。
不規則な足跡は私が歩いてきた道そのものだ。
こんな日に出歩く人は私しかいないのか、他には誰もいない。昼間でも人通りは乏しい。夜ともなれば人っ子一人いないのも普通だ。
女の子が一人で歩いていれば、無用心かもしれないが、こんな雪の日は皆、家の中で暖をとり、外に出てくることはない。
今はまださほど積もっていないが、この調子で行けば朝には相当な高さまで積もっているだろう。この時期ともなれば、雪が降ることが当たり前だ。積もらないことのほうが異常といっていい。
今日もそんな一夜だ。月をめでる代わりに、私は雪をめでる。
昼間の雪は溶けていく途中の産物に過ぎない。夜の帳のなかで、誰にも求められることなく積もっていく雪は純粋を表している。
そんな気がして私は好きだ。
めでるのに他人は必要ない。できることなら明かりも必要ないといいたいのだが、それは人の身である私には無理なことだ。
雪が降る中、山に踏み入るのは死に行くようなもの。海に至るには距離が遠すぎる。
私は諦めて、できる限り明かりの少ない場所から雪をめでる。
これから行くところもお気に入りの場所だ。
人目がないどころか、人が踏み入ることすらない。天気がよければ中天に懸かった月の輝く姿を拝むことができる絶好の穴場だ。
今日は音もなく降る雪の静けさを味わうだけで終わるだろう。
それがいつもの、人が紡いでいく日常という物語の一ページだった。
――そうなるはずだった。
私は外灯の下に立ち尽くしたまま動けないでいた。
向かっていた先には先客がいた。先客がいるという想定はしていない。それでも普段の私なら憤りを感じて別の場所に移動して終わっただろう。
他者とのかかわりを嫌う私は、最低限度以外の付き合いをしないようにしている。
それをしなかったのは――できなかったのは、その人の姿が目に止まったからであった。悲しそうな表情でどこかを、ここではないどこかを見ているような気がしたからであった。
別にそのひとがハンサムだとか、そういったことではなくて、なんとなく、本当になんとなくその人に目を奪われていた。
そもそも灯りがかろうじて届く程度の距離では、相手の顔すらよく見えない。それなのに、何かに惹かれるように目が離せない。
お気に入りの場所に他人がいるという理不尽な怒りは、少しも湧いてこなかった。
しんしんと降り注ぐ雪の中、木の枝を傘にするようにもたれかかっている。本物の傘は差しておらず、その人を囲むように降り積もっていく雪が浅く地面を覆う。
その人がいるのは商店街のはずれに位置する、樹齢百年は当に過ぎているとされる大木の下だ。
大木は、観光客を呼べるほどの話題はなく、少子化や高齢化による影響をもろに蒙っているこの町では、大木を切り倒すだけの余裕も意味もなかった。そのため、この辺の木々は切り倒されずに、今もそびえている。周囲にはその恩恵を預かった木々が、中心の大木を護るように乱立して林を形成している。
この場所が私のお気に入りの場所であるのだが、人の姿を見るのはこれが初めてだった。誰にも省みられなくって、整備すらされていないむき出しの林に、好んで来る人はいない。
ここに生まれた若者は都会へと出て行き、そのまま帰ってくることはない。このままひっそりと誰からも省みられることなく、緩慢な滅びを享受しようとしている町だ。
そのため、大樹に身を預けているその人のような年齢の人が留まっているのは不自然だった。
町内には高校までしかなく、大学に行くには電車を利用するか、アパートを借りて一人暮らしをするぐらいだ。そして大抵が後者を選択してこの町を離れていき、そのまま帰ってこなくなる。
かくいう私もその一人で、他県の大学への入学が決まったため、春からは一人暮らしである。
この町のことはけして嫌いではなかったが、このまま一生をここで過ごすかと聞かれるとためらいを禁じえない。
時代の流れから逆行こそしていないが、流れに乗っているわけでもない。ただなんとなく乗りそびれて、そのままでいるだけ。
――大木と同じである。ただそこにあり続けることを望んだがごとく、どっしりと根を張り、空に向かって枝を張り巡らす。誰にも望まれず、ただ自身を誇る。
いくつもの四季を巡って行き、いくつもの変遷をみながら自分も枯れていく。
ただあるがままに生きるのだという意志を具現化させている。
その生き方はすごく純粋だと思いながら、自分がそうなれるかというと必ずしもそうではないし、その生き方を選択するほど私は強くない。
周りに流されるように大学へと進学したに過ぎない。それを言ったら、私は自分自身の意志だけで物事を決めたことがないように思える。
私には十八年間分の記憶がない。あるのは十歳から十八歳までの八年間分の記憶と経験でしかない。そのためか、今ひとつ感情とか自己に対する意識というものが欠けている。何をしても満たされることがなく、ここにいる自分が本当に自分自身なのだという確信ももてない。
それ故に、こうしてひとつの物事に気をとられている自分というものはひどく頼りなかった。なにか自分が決定的に間違ったことをしているのではないかという気がしてならない。
どうしてその人のことが気にかかって、目を離せないでいるのかがわからない。
珍しい人であるのは確かだ。
この町に青年という人種を見かけることは少ない。いいところ高校生ぐらいで、それ以上となるとまずいない。小学生ならまだ見かけないこともないが、それもとんと姿を見せなくなってきている。理由は私と同じようなものである。
待ちぼうけというのも珍しい。この大木の下というのは昔から待ち合わせ場所として利用されることはあったが、それも昼間の話であり、十数年は前のことである。最近では待ち合わせるほどのことがないのか、ほとんど利用されていない。
放置された林の中心に踏み込むような物好きもいない。
時刻は夕方を当に過ぎ、冬の夜という凍てつく寒さの中待ち合わせるのは奇妙としか言いようがない。
せめてどこかの店の中にして、屋外で待つことはないだろう。といっても、コンビニはないからこんな時間にあいている店自体が存在しないのだが。
それに、その人はどこにもあせった様子がない。待ち人がいるという発想自体が間違っているのかもしれない。
こんな時間に待ち合わせというのも不自然で、私と同じで雪をめでるために散歩している。そしてたまたま私のお気に入りの場所にいる。それだけのことかもしれない。いや、そのほうがよっぽどか自然だ。
夜の闇の中で見出せる純白の結晶。
雪という存在がもっとも輝いて見えるのが夜だ。であるならば、私のように雪をめでる者が他いたとしてもおかしくはない。
――こうして馬鹿みたいに突っ立っていても仕方がない。
私は行動を再開することにした。そこは私のお気に入りの場所である。とられたままでいるわけにはいかない。
それにどうせめでるのなら人間より雪である。
当然のように、というわけにはさすがにいかなかったが、大木の隣に生えているなもない木に身を預ける。
そう、これは先客がいたというだけの話だ。それ以上でもそれ以下でもない。ただそれだけのことだ。
それだけのはずであるのだが、どうやら一度けちがついたことは最後まで進めないと気がすまないらしい。
偶然は必然であると誰かが言っていた。
偶然が起こったということは、そうあるべくして起こったということである。だとしたら、この出会いにはどんな意図が隠されているのだろうか。
「ひとつ、話でもしてみないか?」
その人は私のほうを向いてそう話しかけてきた。
「ご自由に」
下心や、いやらしい笑みでも浮かべていたなら、躊躇わずに断っていたところだが、その人の表情はなかった。
無表情を装っているわけではない。私に話しかけておきながら、どこか別のところを見ている。
どういうつもりなのかまったくわからない。が、聞いてみるのも悪くはない。
雪が降る夜に、行きずりの男女が話をする。
たまにはそんな日があってもいいだろう。
「君も雪をめでに来たのかな」
「ということは貴方も」
「そう、特にこの位置からは雪が綺麗に見える」
「どうしてそのことを知っているの」
いつもこの時刻には雪をめでに来ていたのだからであったことがないというのは少しおかしな感じがする。
「ずっと昔に来て知っていたからさ。それから今日までは来る機会がなかったけどね」
私が疑問に思ったことを察したのか、正確に言い当てる。
「なるほど」
八年間分の記憶しかないのだ。彼のことを知らなくてもおかしくはない。
「君はいつからここに来ているんだい?」
「八年ほど前からよ」
記憶がない私が唯一固執していたのが、この場所に来ることだった。それからほぼ毎日ここを訪れている。
「なるほど」
「何が?」
「いや、こっちの話だ。気にすることはない」
「そう?」
なんだか釈然としないものを感じたが、深く突っ込むようなことはしない。私たちの関係はどんな気まぐれの神様が介入しようとも、それ以外の関係になるはずがなかった。そんなことを望むのは失礼なことだ。
行きずりの関係こそが私たちにふさわしい。
それから、本当になんでもない。戯言のような、戯れのような、生産性の欠片もないただの会話をした。
少し笑い、少し戸惑い、気に障らない沈黙があったりして、久しぶりにほかの人と話ができた気分だった。
雪が静かに振り続ける。雪の重みに耐え切れなくなった枝から落下する物音があるだけ。
こんな夜には出歩く人もいないので、誰にも邪魔されることはない。望むがまま私たちはたわいもないおしゃべりを続けていた。
不意に訪れる沈黙は、全然気にならなかったが、今回のは外界の変化によってもたらされたもので、やや性質が異なっていた。
月が厚い雲の隙間から顔をのぞかせていた。雪原に投げかけられた淡い月の光が私とその人を照らすように降り注ぐ。
厚い雲が立ち去ったわけではないため、鈍い鉛色の雲と漆黒の空、雪化粧が施された町の三色が、ここから見える世界のすべてだった。
すごく綺麗な光景だと思う。
幻想的という言葉は陳腐だと思うが、この光景を言い表すにはその言葉が適切だろう。
「……月か。雪も……いや、雪のほうが好きだが、月の優しい光は好きだな」
「そうね。特にこんな日に月をめでることができるのは僥倖というべきね」
二色の世界に差し込まれた新しい色。雲のベールに覆い隠された月から発せられた光が二人の間を照らす。
「――僥倖か。まさしくそうだね」
「?」
何かそこに深い意味が込められた気がした。
今までの会話が本当に戯言に過ぎなかったことを知らせる調べのように思えた。
「君は偶然とか運命という言葉を信じてる?」
「私と貴方が会ったのは偶然。運命には遭遇したことがないから知らないわ」
「僕たちの出会いは偶然じゃないよ。もっとも運命だという気もないけどね」
「偶然でなければ必然?」
「そう。僕たちはこの雪の日に、月光が降り注ぐ大樹の下で邂逅を果たすと決まっていたんだ」
「そいった現象のことを運命というんじゃないの」
「想定していなかったらそうだろうね。でも、僕はここで君と出会えることを知っていたんだ。もうずっと前から」
「ずっと前から?」
何? この突き刺すような痛みは。
「九年前のあの日。君と最後に出会ったあの日から、僕はずっと待っていた」
九年前という言葉は、八年間分の記憶しかない私には想起することができない。目の前に立つその人は自分の知らない過去を知っている。
何故か一度たりとも遭遇したことのなかった事態であった。
「……嘘よ。そんなはずがないわ」
やけに冷静――いえ、自分でも信じられないぐらい冷徹な言葉が口から出ていた。一切の希望が込められておらず、すべてを否定するかのごとく拒絶している。
「あの人はもういない」
あの人? いったい誰のことをいっているのか自分でもわからない。しゃべっている自分を遠いところから見ている感じ。
自分のことなのに現実味がまるでなかった。
「違うよ。君はそう思い込んでいるだけだ」
「いや……そんなはずがない」
何に怯えているのだろうか。いや怯えなのか。それはむしろ喜びが入り混じった奇妙な感情ではないか。
記憶を失う前にも私という存在がいたということに安堵を覚えている。しかし、現実問題としては、その事実に私の思考は停止していた。
「恐れないで」
雪の上でもかまわずふさぎ込もうとした私の手を取って、その人はまっすぐ私の目を覗き込んできた。
交じり合うことのなかった視線が初めて交差して、その人の瞳の中に私がいるのを見て、私はようやく思い出した。
私が誰であるのかを。
私は記憶をなくしたんじゃなかった。十歳の時に私という存在が生まれたんだ。記憶自体が存在しない。今ここにいる私は仮初の者、偽りの者に過ぎない。
けれどもそれは関係ない。自己の否定ではなく、自己の肯定。
私はその事実を当然のこととして受け入れることができた。
そして訪れるであろう結末を知って、その上で微笑むことができた。
気づいた時、その人は私の前から姿を消した。
まるで、そんな人は存在していていなかったとでも言いたいのか、再び降り始めた雪が林を包み込んでいく。その人が立っていた場所は覆われていき、雪という存在に埋め尽くされてしまった。
最後に少しだけ微笑んで見せたその人の笑顔を私は一生忘れないだろう。雪と月をめでた夜の、幻想じみた一夜の、ほんの少しだけの邂逅。私はずっと忘れないだろう。
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雪が降る町で出会った二人の物語。 |
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