『机上探偵ファンタジア』その5(終)
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   *

 

 妙に静かな放課後だった。

 まだ四月だというのに照り返しの強い太陽が音もなく校舎を熱してした。

 

 正明はその静寂を楽しむかのように箱装丁の小説を蕩々と読みふける。

 ミステリ研究会のボックスには、彼以外に誰もいない。

 窓から陽が差し、風通りのいい元教室は暖かな絶好の読書日和。

 そうして集中すれば正明の読書スピードは、周りで菖蒲達が騒ぎ立てるときの一,七倍。

 ページをめくる手も軽やかに舞っている。

 

 もう正明がボックスに来て小一時間はなろうとしているのに、誰も現れる気配がない。

 会長の九路州辺りは何の予兆なく顔を出しそうな気もしていたが、まぁそんな日もあるか、と正明も穏やかな心持ちで小説にのめり込んでいた。

 今日はハリウッドで映画にもなったサイコスリラーだ。こんな穏やかな日にどんでん返ししかしない怒濤のストーリーはいいアクセントになる。

 だが、自分の足をノコギリで切る痛々しい話は、九路州会長なら喜ぶところだが、正明としては少し興ざめする感も否めない。

 

 遠くに聞こえる放課後の喧噪すら聞こえぬ程の集中した時間。

 本とそれを読む自分しかこの世に存在しないような、いや、既に自分という個すら失って、小説という世界に全てが溶け込んでしまう。それこそが読書の醍醐味という奴だ。

 

 それなのに、正明の意識は急に現実に引き戻される。コツコツと、足音が聞こえてきたのだ。

 

 誰もいない廊下を歩く足音。

 ボックスの中からは窺い知れぬ廊下の情景を、校舎に響く靴音が教えてくれる。

 どうやら二人の人間が歩いているようで足音は輪唱を奏でているが、それはミステリ研究会の生徒のものではないようだった。

 

 別に正明が足音を全て聞き分けられるわけではない。

 この西加茂高校は校内は上履き指定で、生徒は皆決められたサンダルを履いている。

 そのサンダルを履けば、今、近付いてくる足音のような硬い足音は絶対に鳴らないのだ。

 つまり、足音の主は生徒ではない。それだけは確か。

 

 ミステリ研究会のボックスの周りにも、同じような非公式サークルのボックスがいくつかある。

 どこも無断で空き教室を占拠しているが、それを教師が知らないわけではない。

 どこかのボックスに教師が来たのだろうか。そんな考えが脳裏に浮かんだが、別段、正明が気にするべきことでもなかったのだろう。

 彼の小説を読む姿にわずかな変化も見られなかった。

 

 足音は徐々に近付いてくる。そしてミステリ研究会のボックスの前を通り過ぎて行く。

 そう思ったのに、その足音はそこで途切れてしまう。

 正明は顔を上げた。ノックの音が聞こえてきたのはそれと同時だった。

 

「失礼」

 

 ノックの返事待たず、正明のいるボックスの扉が無造作に開けられた。

 

 そこには高校という学びの場としては少し違和感のある、それこそ学校では式典の場や新任の教師しか着ないであろうスーツ姿の女性が立っていた。

 しかし、その女性にはそんな肩肘張った雰囲気はない。衣装に着せられているという言葉があるが、彼女は完全にそのスーツを着こなしていた。

 正明の姿を見付け、凛々しい顔立ちの口元が不敵に笑う。

 

 意外な来訪者に、正明も小説に目を戻すことが出来なかった。

 

「刑事さん?」

 

 生徒ではない足音を鳴らしていたのは、一週間程前、殺人現場に菖蒲を迎えに行ったときに出会った女刑事だった。

 その後ろにはパトカーを運転していた後輩らしい男の刑事もいる。

 

「ほう。お前一人か。都合がいい。麻家、廊下で人払いをしておけ」

 

 威勢のいい返事と敬礼の元に、後輩刑事は廊下に残った。そして女刑事は無遠慮にボックスの中に入ってきた。

 

「失礼するよ」

 

 やはり許可など待たずに、女刑事は我が物顔で正明の座する長机の真正面に腰掛けた。

 出してあったパイプ椅子が軋みをあげる。

 

「……何か、用ですか?」

 

 それは当然の疑問であろう。高校の、それもサークルの有志メンバーが集まる憩いの場所に、刑事が現れたのだ。そう聞かざるを得ない。

 

「お前と少し話しがしたくてな」

 

 綺麗に整った顔立ちの女刑事の目が見開いた。その黒き瞳が力を帯びていた。

 

「令状はお持ちで?」

 

「無論、任意さ」

 

 通常の警察捜査で『任意』といえば、容疑確定寸前、いつでも令状が下りるという状況であることがもっぱらだ。

 だが目の前の女刑事には、そこまでの物々しい空気はない。

 しかし一方で、有無を言わさず話を聞かせてもろうという、張り詰めた気迫のようなものが感じられた。

 

「……まぁいいですが、学校側には許可を取ったんですか?」

 

「取るわけないだろ。勝手に入らせてもらった。放課後だと部外者もあまり目立たないものだな。学校側の警備体制には疑問を感じるよ」

 

「後で苦情がいっても知りませんよ」

 

 正明の気のない指摘に、女刑事の頬がにやりと緩む。

 

「その時は警察権力で黙らすさ。その為の警察組織だ」

 

 その言葉は本気に聞こえた。権力を振りかざすとは聞こえは悪いが、この社会で最も合理的で効果的な方法の一つだ。

 それを躊躇なく使うと宣言したのだ。正明はこの女刑事が一筋縄でいかない相手なのだと知った。

 

「なかなか、手強そうですね刑事さん」

 

「そう固くなるな。単に世間話に来ただけだ。木城正明」

 

 フルネームで呼ばれたことで、正明の頬がわずかに上がった。

 しかし、直ぐにいつもの無表情に戻り、視線も今まで読んでいた小説へと戻ってしまう。

 

「話だけですか? なら本を読みながらでいいですか? 今、いいところなんです」

 

「ああ、別に構わないさ。お前のしたいようにするがいいさ。これは取調でもなんでもないんだ」

 

 それはどうも、と正明は小説をめくった。

 

「まだ自己紹介してなかったな。私は貴槍朝、刑事課の警部補だ」

 

 名乗りを上げる警察官に付き物の警察バッジの提示はない。

 それはこの場にいるのが警察の捜査には関係ない、非公式のものであるという表れなのかもしれない。

 

「へぇ、その歳で警部補ですか」

 

「私が何歳に見えているのかは知らないが、誉め言葉として受け取ろう。しかし、階級の価値がわかるとはさすが詳しいようだな」

 

 貴槍は正明の言葉から、警察組織の階級への理解度を感じたのだろう。

 『警部』や『巡査』など、階級名なら一般の人でも知っているだろうが、それぞれの階級の重みまで真に理解している人は少ない。

 

「ミステリマニアなもので」

 

「よくもぬけぬけと言う。まぁいい。用件はもちろん、先日の『有頼町OL首切り殺人事件』についてだ」

 

 つい先日、事件現場へ菖蒲を迎えに行った正明だ。その用件は簡単に予想出来た。

「俺が犯人だとでも?」

 

 正明がそう言ってみせた。突拍子もないことだ。見ず知らずの人間が死んだ殺人事件の犯人が自分でないことは、正明本人が一番よく知っている。

 

「お前の回答如何では、『秘密の暴露』で引っ張ってもいい」

 

「本気ですか?」

 

「冗談だ」

 

 しかし、貴槍の顔は冗談を言っているように全く見えない真剣なもの。

 

「秘密の暴露とは、犯人しか知り得ない情報を知っていたということですね」

 

「そういうことになるな」

 

 話が早いと貴槍。彼女は気怠いと言いたげに長机に肘をついて、上目遣いに正明を見た。

 本来なら美人の貴槍朝にそんなことをされれば、健全な男子高校生として動揺の一つでもするのが筋だろう。

 しかし、正明はそもそも貴槍と顔を合わせていない。その目はずっと手に持った小説の文章を追う。

 

「じゃあ、やはり犯人は俺ですか?」

 

「いや、犯人は別だ。今頃は逮捕に向かっている。今回も私は逮捕メンバーからは外されたわけだ。

 いや、それはお前には関係ないことだな。

 明日には記者発表もするだろう。あれだけマスコミに騒がれた事件だ」

 

 正明は犯人の逮捕が警察官にとってどんな意味を持っているかも知っている。

 捜査に関わって、逮捕にも立ち会えないのは相当に悔しいはずだ。

 それなのに、貴槍の口調にその悔しさはにじんでいない。

 

「それじゃあ、何の為にここに来たんです?」

 

「お前に聞きたいことがあってな。

 だからこう聞こう。『お前はどこまで知っている?』と」

 

 迫るような力強さがあった。やり手刑事、貴槍朝の本領が発揮されようとしていた。

 

「俺が何か事件の情報を知っているか、という質問ならノーと答えさしてもらいます」

 

 その答えも想定の範囲内なのだろう。貴槍が自笑気味に笑う。

 

「言い方が悪かったな。『お前はどこまでわかっている?』これでいいか?」

 

「そう言われても困ります。俺は事件を捜査したわけじゃありません」

 

「だったらなぜ、首が燃やされていると思ったんだ?」

 

 それは正明が言ったことだ。菖蒲を迎えに行ったあの日。貴槍達との別れ際に、正明が「どうせ燃やされている」と言った。貴槍はそれを聞き逃していなかった。

 

「……単なる予想ですよ」

 

「ほう、ならその予想とやら、詳しく聞かしてもらいたいものだ」

 

 コツコツと、貴槍が長机を小突いた。それだけで、正明ですら本を読む集中が途切れ、貴槍に注意が引かれてしまう。

 

「首の隠し場所、いえ、処理法を考えただけです」

 

 正明はまた一枚小説をめくる。

 

「人間の頭というのは意外に大きな物です。成人女性の今回の件でも、大体縦二十センチ、横十五センチ、重さは四キロはあるでしょうね。

 そんな大きな物が、あれだけ警察が躍起になっても見付かってない。

 なら現場周辺には本当にないんでしょう」

 

 それは警察の捜査力を信じればこその言葉だった。

 たった数日の捜査でも、警察が見付けられないなら、『ない』という答えが順当であると正明は考える。

 

「考えられるパターンは多くないです。人目に付かない山中や川辺などに捨てた。どこかに埋めた。犯人が占有する屋内の中に隠す、等々。一般的にはそんな所でしょうね。

 ただ、それでは殺害現場から持ち運ばないといけない。不審な目撃情報がないので、これらのパターンは保留するしかないです。

 それこそ、まず犯人を見付けてからになりますね」

 

「その通りだ。実際、警察もそう動いていた」

 

 貴槍も賛同する。それこそ、逮捕された容疑者が首の隠し場所を自供し、そしてその隠し場所から首が見付かれば、『秘密の暴露』でその者が真犯人である。

 しかし、それは犯人の自供があってこそだ。

 

「それでは他の方法はないのかと考えたわけです。

 もちろんあります。燃やす、砕くなど、頭を本当に処理する方法です。

 しかし、人間を燃やすとなると、ある程度重油などの可燃燃料が必要ですし、燃えかすも残る。異臭だってするでしょう」

 

 正明は被害者の首は「燃えた」と言った。しかしそれは「犯人が燃やしてしまった」のとは違う。

 

「アメリカでは人間を丸ごと破砕して、粉微塵にして川に流したというケースがあったらしいですが、それには特殊な機械が必要です。

 大規模の家が多く、機械的な大型農耕具が普及しているアメリカならまだしも、日本の都市部でそういう機械は一般的ではない」

 

「だったらどうだというのだ?」

 

 貴槍の挑戦的な言葉に、正明はわずかに息を呑んだ。

 しかし、直ぐに続きの言葉を紡ぐ。それは貴槍の挑戦を受けて立つという心構えに他ならなかった。

 

「今あげたような可能性は他にもいくらでもあるわけです。けど、それよりも効率的な、この日本で一番簡単に人間の首を処分する方法があります」

 

 正明はその答えに対する自信に溢れていた。一瞬、読んでいた本から目を離し、貴槍を見た。

 彼女の瞳が正明を捉えて放さないのを確認して、正明は小説に目を戻す。

 

「恐らくはその方法を使ったんだろう、そう思っただけです」

 

「ほう」

 

 それは単なる相づちではあったが、正明に対する感嘆の評価も含まれていた。

 

「人間の生首を一番簡単に処分する方法。それは『ゴミに出す』ことです」

 

「一般の家庭ゴミの収集に出す。というんだな?」

 

 その確認の言葉を発し、貴槍は腕組みした。

 まるで相手を見下すようなその姿は、雄麗な彼女によく似合っていた。

 

「ええ、行政地区にもよりますが、ゴミの収集というのは案外ずさんです。

 仮にゴミ袋が透明指定であっても、中のゴミが新聞紙でくるまれていたとしても回収してくれる。

 ゴミの中身はプライバシーだと、隠したがる人は多いですし」

 

「ゴミ回収の清掃員は中身が生首だろ気付かないというのか?」

 

「死後半日程度の死臭なら、ゴミ袋の口をしっかり締めれば漏れ出ない。

 いや、むしろ生ゴミの腐臭に慣れた人なら気にならないでしょうね。

 けれど血や重さから、もちろん気付く可能性がないとは言いません。

 ただ、ゴミを回収するときに回収の如何を判断する基準は、規則を守っているか否か。

 確か有頼町はこの辺と同じゴミ分別だったはずなので、燃えるゴミと粗大ゴミの境界は三十センチ角以内で二、三キロ、別に一々ゴミ袋を計測するわけではないので、その辺は曖昧です。

 血抜きをすれば多少重いですが人の首は『燃えるゴミ』に入ってしまう。

 もし、首を切り落とし血を抜いた後に、新聞紙にでもくるんでゴミ袋に入れれば……、俺はそんな想像をしただけですよ」

 

 それが正明の考える『生首の最も効率の良い処理法』だった。

 もし本当に一般ゴミとして回収してもらえるなら、そんな楽なことはない。

 

「はっはっはっっは。これはいい。全く勝手な推論だな。

 しかしだ。そんなお前に朗報だ。ゴミとして回収された被害者の首は、既にゴミ処理場で燃やされている。お前はそう考えたようだが、まだあったぞ。ゴミ処理場のゴミタンクの中に」

 

 貴槍朝は嬉しそうだった。純粋に笑みを漏らしていた。

 そんな貴槍の表情は、普段はなかなか見られないだろう。警察内部では彼女に睨まれればその日一日良いことがある。そんな風にいわれほど険しい顔ばかり。

 そしてまた、険しい表情がよく似合う貴槍だ。楽しそうな笑いなど滅多にしない。

 

「……発見したんですか?」

 

「ああ、どうやら回収車のプレスプレートで押し潰されて、原型を留めていなかったがな」

 

「ゴミ処理場のタンクをひっくり返したんですか。よくやりますね」

 

 おそらく何メートルと積まれた廃棄物の山を、ゴミまみれになって探し続けたのだろう。その苦労がしのばれる。

 

「ああ、勝手にゴミ処理場をストップさせたものだから、上から大目玉食らったがな」

 

 そうしてでもやる。その覚悟こそ、貴槍朝が有能であるという所以だ。

 もし一分一秒遅ければ、本当に遺体の一部、大事な証拠が超高温の焼却炉で完全燃焼していたかもしれない。

 

「さて、なかなかの推理だったが、無論、犯人もわかっているのだろう?」

 

 むしろ、それが当然といわんばかり。刑事の貴槍が犯人を当てろと言う。彼女の瞳に正明の顔が映る。その姿が大きく揺れた。

 

「……叔母、ですよね?」

 

 自信はあった。しかし貴槍刑事相手に断言していいのか、その逡巡がわずかな間を産んでいた。

 

「ああ、被害者の叔母、宮井叔子、三十五歳。彼女の犯行の様子も言い当てられるか?」

 

 刑事の貴槍朝が、犯人でもない、目撃した訳でもない、単なる学生の木城正明に犯行の様子を聞くなど、こんな奇妙なことがあるだろうか。

 そしてなぜ、貴槍朝はこうまでして正明に突っかかってくるのか、今更になって疑問に思う。

 

「犯行時刻は、日曜の日中、恐らくは午前中です」

 

 貴槍は何も言わなかった。その沈黙は肯定ともとれるし、単に正明の推理を最後まで聞いてからと考えているのかもしれない。

 

「被害者宅を訪れた叔母は、被害者とトラブルを起こした。近所で怪しい物音を聞いた人がいないということは、ケンカにすら至っていない突発的な、しかし姪を殺したくなるようなことがあったのでしょう。

 一瞬の殺意。それは無計画な咄嗟の犯行だった。

 犯行に使われた凶器が被害者宅の包丁だったのがその証拠です。

 被害者は悲鳴を上げる間もなく胸を刺され絶命した」

 

 貴槍は正明の話を聞き入るように、そっと目を閉じた。まるで、クラシック音楽でも聴くように正明の推理に耳を傾ける。

 

「そこで叔母は我に返った。

 目の前には姪の死体、血まみれの自分。叔母は窮地に立たされたわけです。

 そこで考えた。どうすれば自分が疑われないかと。

 金目の物を持ち去り、強盗に見せかけるのも手だが、それはありきたり過ぎる。そこで首を切り落とし、猟奇殺人に仕立てることを思い付いたのです。

 咄嗟の犯行ならまだしも、親戚の間柄、普段は仲が悪かったわけでもない叔母が、まさか首切り殺人を働くなどとは普通思いません。

 首が見付からなければ捜査の攪乱にもなるかもしれません」

 

 実際、捜査が攪乱出来たのかと言えば、それは疑問だ。警察は首を探してはいたが、首がなければ犯人がわからないというわけではない。

 むしろ、首を切り落とす作業をした為に、余計に証拠となるものが現場に増えたかもしれない。

 捜査に参加していない正明にその真偽はわからない。

 ただ、マスコミの注目度が違ったことは確かだろう。

 

「首を切るのには随分時間がかかったと思います。音を立てないよう、証拠を残さないよう、慎重に作業をしないといけない。

 時間は昼を過ぎ夕刻になっていた。さて、早く現場を去らなくては。そう思ったとき、自分の服が血まみれになっているのに気付いた。

 このままでは外を歩けない。そこでまた思い付いた。姪の服を着ればいいと。

 二人は姉妹に間違われるほど似ていたそうです。服のサイズもほとんど同じ。姪の服を着ても違和感ない。

 そうして姪の服を着て、生首の入ったゴミ、自分の血の付いた服もそこに入れていたのかもしれません、それが警察が彼女を犯人と確定した物的証拠だと予想します。

 その生首入りのゴミ袋をアパートのゴミ捨て場に出して、部屋に鍵を閉めて堂々と事件現場を去っていった。

 普段から世話を焼いていたという叔母です。合い鍵ぐらい持っていた」

 

「そこを、アパート向かいに住む男性に見られたと?」

 

「ええ、顔が似ていたのか、帽子を目深に被っていたのか。運良く姪になりすますことが出来ました。もしかすると、普段からアパート向かいの人からゴミ出しで文句を言われていることを聞いていたのかもしれません。むしろそれを利用して、姪になりすまし部屋を出ることで、目撃証言から犯行時刻をずらす。それすら考えてやってのけたのかもしれません」

 

「随分、憶測が多いな」

 

「ええ、部外者の勝手な推理ですから」

 

 正明は自分の推理を振りかざさない。

 自分が言っていることが、どれほど真実味がないのかを知っている。

 正明の口から出る推理に裏付けなど何もない。

 

「しかしだ。ほぼ当たっているだろう。いや当たってしまっていると言った方がいい」

 

 貴槍が苦々しく言う。それはある意味、正明の推理を認める言葉だ。

 

「当たってしまう? ……粗が多いからですか?」

 

「ああ、そうだ。お前の推理にはほとんど証拠がない。単なる状況からの想像の域を出ない。それなのに当たってしまっている。これは異常だ」

 

 異常、だから貴槍が来た。部外者の勝手な意見では済ませられない何かを正明が持っているからこそ、あちこち難事件の捜査に駆り出される貴槍がわざわざ木城正明に会いに来たのだ。

 

「何せ、俺は捜査をしていませんから、マスコミの報道と菖蒲が持って来る情報しか俺は知りません。

 それなのに当たっているというのなら、単に運がいいんでしょう」

 

「木城。そんな言い口は、まるで慇懃で嫌みな探偵に聞こえるぞ。お前は探偵ではないのだろう?」

 

「ええ、俺は単なるミステリマニアです」

 

 それだけは自信を持って言える。木城正明はミステリマニアである。誰が何と言おうと、正明自身がそう認める。

 

「なるほど、捜査もしなければ、犯人も捕まえることもない。自分の推理を自分の中だけでする、まさにミステリマニアか」

 

「わかってもらえましたか?」

 

 正明は実際の事件になんて関わりたくない。彼はミステリマニアとして事件を分析して推理する。

 それ以上でもそれ以下でもない。それが木城正明という存在だ。

 

「なら、どうして警察に協力した? あのお前達を送り届けたときの去り際の会話。あれは私達に聞こえるよう、わざと声を大きくしていたのだろう?

 お前の一言がなければ、被害者の首は本当に燃やされていた。私が言うのだから間違いない」

 

「誤解しないでください。俺は好きで警察に協力したつもりはありません。俺は降りかかる火の粉を払っただけです。

 あれ以上捜査が進まなければ、殺人に寄せられる菖蒲が事件にのめり込んでいく。それが嫌だっただけです。

 それに貴槍さん。あんたなら俺の一言がなくても見付けることが出来たはず」

 

 互いに謙遜のような言葉が飛び交う。実際に正明があの一言を言わなかった場合のもしもの話にどんな価値があるのだろうか。

 

 しかし正明は断言出来る。正明が貴槍朝に会ったのはこれで二度目だが、それでもわかる。貴槍朝は有能だ。正明がヒントを出さなくても、たとえ首が見付からなくても、この事件を解決に導いたと。

 

「言ってくれるな。全くその発想力。部下に欲しいぐらいだ。ただし、警察として従事する捜査員として」

 

「そんな。俺は警官になる気はないですよ。それに部下ならあの刑事さんがいるじゃないですか」

 

 廊下で人が来ないように見張りに立っている麻家刑事がくしゃみでもしそうな言葉。それに貴槍は愛想笑いを浮かべる。

 

「私はな。私を越える人材が欲しいんだ。残念だが、今の警察に私を越える人物はほとんどいない」

 

 無論、麻家刑事も貴槍を越えることは出来ないと、貴槍は思っている。

 

「結構、自意識過剰なんですね」

 

「自分と現状を知っているだけさ。警察ってのはいつだって人材不足なんだよ。

 さて、そろそろ私は行こう。警察官はそんなに暇じゃない。お前のように本ばかり読む時間はないんだ」

 

「随分嫌みですね」

 

「ああ、今日はお前に釘を指す為に来たんだ。嫌みにもなるさ。

 そう、私が来た本題はまだこれからだ」

 

 もう行くと言って今まさに席を立とうとする人間が本題はまだだと言う。その矛盾。それはさすがに意外だと、正明が本から目を離し顔を上げてしまった。

 

 それが貴槍の誘導だと気付き、まんまとのってしまった正明は苦虫を噛み潰したような、歪んだ顔をした。

 

「木城。犯人は叔母だ。それは恐らく間違いないだろう。犯行の様子もほぼ当たっていると私は思う。

 なら動機は何だ?」

 

「動機……」

 

 女刑事が言い放った問いに、正明の口元が引き締まる。

 

「ああ、普段から世話を焼く仲のいいはずの叔母が、姪に対して咄嗟に殺意を覚えた原因だ」

 

「それは……」

 

 正明が黙り込む。あれほど饒舌に自らの推理を披露してみせたのに、何も言えなくなっていた。

 

「わからないか。当然だな。お前の話すことはお前の頭の中の想像ばかり。

 実際の現場を知らないお前に、人が人を殺す本当の動機はわからない」

 

 それが貴槍の言う本題で、釘を刺すということなのだろう。どんなに推理を働かせようと、正明はどこまでいっても真実に辿り着けない。そう言われたのだ。

 

 正明が本を閉じ、貴槍の顔を正面に見据えた。その顔はいつもの冴えない表情ではない。

 

「……認めます。貴槍さん。その通りです」

 

 澄んだ声だった。声変わりを果たした青年が、素直に純粋に、自らの無力さを認め澄んだ声を出した。

 

 正明に悔しさはない。貴槍朝の言う通りだ。正明自身が痛いほどわかっている。だから正明は実際の事件に関わろうとしない。自分が不完全な存在だと知っているから。

 

「ふふ、そういうことか。だからお前はキジョウ探偵。机上の空論しか語れない木城正明。真に探偵にすらなれぬ幻想か」

 

 踵を返し、出口に向かう貴槍刑事。その背中が大きく見えた。

 それは現場を知っている大人と、学生という世間知らずの子供の差というには大き過ぎる隔たりだった。

 

 正明はその現実から目を背けるように視線を小説へと戻した。

 あの刑事に見送りなど不要。正明は見事に斬り捨てられたのだ。

 

「木城。私の推論も聞いてもらおう」

 

 今まさにボックスを出て行こうとしていた貴槍朝が立ち止まって言った。

 

「犯行動機は、姪に馬鹿にされたから。

 三十路を越えて結婚も出来ぬ叔母を、男遊びに勤しむ姪が男が出来ないと馬鹿にした。だから頭に来た。

 自分の女としての人生を全て否定された気がした。ゆえに姪の男が寄ってくる顔が許せなかった。

 血のつながりがある同じ女なのに。この差は何だ。どうして自分は。

 その悔しさが、妬ましさが、姪の首を落とさせた。

 ……さて、私の推理が当たっているかどうか。取調にでも行ってくるか」

 

 正明の反応を待つこともなく、女刑事はミステリ研究会のボックスから姿を消した。彼女とその部下の足音は、来たときよりも更に力強く、足音すら凛々しく霧散する。

 

 再び静けさを取り戻す校舎。その静寂に正明の声なき苦笑が溶けていく。

 

「幻想か、言えて妙だな……」

 

 そう漏らして、正明は短い前髪を一度掻き上ると、再びミステリ小説を読むのに集中し始めた。

 

 それは貴槍朝が来る前となんら変わらない、変わるはずがない。

 

 木城正明はミステリ小説を読む以外にない、単なるミステリマニアなのだから。

 

 

 

 

 

 

 

(机上探偵ファンタジア 了)

説明
安楽椅子探偵を目指して書いてみました。


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