『記憶録』From Heaven To Hell 前編
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―――それは二二一六年の夏のことだった。

 

 

 

 

 

 

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 二百年ほど前、世界の常識は崩壊した。

 世界合併現象によってSFやファンタジーでの話でしかなかった非日常が入り込み、世界が今まで築いてきた常識や文化は通用しなくなった。世界の破綻を機に燻っていた問題は一気に加熱して紛争に陥り、さらに異邦人の登場によって一度は衰退の道を歩んだ。

 故に、二十一世紀以前の歴史と今を歩む歴史とはまったく異なるろいう。

 そんなことを霜野春香が聞いたのは中学に入ってすぐの歴史の授業だった。

 

「………―――ぇ?」

 

 目を覚ましたばかりで、まだ寝ぼけている。

 変な夢だったことは覚えている。しかしそれがどのような夢だったかは定かではない。ぼんやりとする頭の中をフル回転させ、ところどころに残る切れ端を辿ろうとして、ふとやめた。

 

「ま、いっか」

 

 所詮は夢だ。そこまで追求する必要はない。

 ベッドから起き上がる。微妙にサイズが大きいパジャマの裾を引きずりながらクローゼットに歩み寄り、開けて制服に手を伸ばす。

 入学したばかりの頃にあった真新しさは最初の一ヶ月ぐらいでなくなり、ほぼ毎日来ているせいでくたびれているように見える。それでもあと二年以上はこれを着なければならない。もう少し大事にするかと着替え始める。

 世界は変わったと誰もが呟く。

 と言っても、それを春香には実感することができなかった。朝日が昇り沈む時間帯も、窓から吹き込んでくる夏の風も、幼い頃の記憶から変わることなく続いている。覚えているものでは、欧州では紛れ込んできた異邦人と紛争になったり、中国の内陸部では海が出現したなどなど。少しばかり気象の度合が強くなっているのは確かだが、世界合併現象による影響とは思えない。

 つまりところ、それが春香の日常に深く影響することはない、ということだ。

 しかし、変わったといえば最近変わったことはある。

 

(――あ、起きた…こんばんわ、だっけ? うなされていたけど、大丈夫?)

 

 突然、脳内に誰かの問いかけが響いた。

 

「あ〜うん、大丈夫。それと起きた時の挨拶はおはーだから」

 

(――え、あ。そうなの? ごめんね…お、おは〜…)

 

 今にも消えそうなか弱い口調で謝ってくる声。

 声色から自分よりも若い女の子な感じだろうと思う。この声を初めて聞いたのは今年の 。最初は電波でも飛んできたかと思って無視していたが、あまりにも悲しい声をするものだからつい応答してしまい、今では慣れたもので親しい友人のように話をしている。顧みれば半年近い付き合いだ。

 だがしかし、彼女に名前はない。

 

(――はぅ。こっちはまだ暗いから、どうも分からなくて)

 

「まぁ時差ってやつだろうし仕方ないね。あれからどっかに出れた?」

 

(――えっと…どこだろう、ここ…?)

 

 彼女のことはほとんど分からない。

 だから昔、問うてみた。

 あなたはどこにいるの、そう訊けば――ここはどこなんだろうね…。

 あなたは何がしたいの、そう訊けば――どう…したいんだろうね…。

 彼女が自身を一番分かっていなかった。何を訊いても、返ってくる言葉は“わからない”。全てこの脳内に響く会話だけで、ついには“自分が分からなくてごめんね”と謝る始末。当然、彼女と顔を合わせたことはない。

 

「まぁ、あたしでよければ話し相手になってあげるからゆっくりしていきなされ」

 

(――うん。ありがとう)

 

 彼女は独りぼっちで、寂しがっていること。それが分かってしまったから、だから春香はこの会話を続けようと思った。

 会話(ひとりごと)をしながら着替え終わり、リビングに入ると一匹の式神がいた。

 

「にゃー(ぃょぅ)」

 

 小さなネコ耳をぴくぴくと動かしながら円盤状の自動掃除機に乗り、部屋のあちこちをちょろちょろと掃除していた。短い尾でバランスを取って拳二つ分しかない身体が落ちないように必死にしがみ付いている。

 掃除しているようにも見えるし、ただ遊んでいるようにも見える。

 

「あ、おは〜メトにゃん。今日も忙しそうにブルブル猛ってるわねぇ」

 

「にゃあにゃあ(今日も寝ぼけているな、ご主人)。にゃあ(まだ眠いの)?」

 

「うん、あそこがあたしの帰る場所、あたしにも帰れる場所が…布団に帰っていい?」

 

「にゃ(だめ)」

 

「けち」

 

 何だかんだと言いながらも、足の周りをぐるぐると、構ってくれと動き回っているその姿はとても愛らしく、ついつい頬が綻んでしまう。

 降魔連名で働く両親が、寂しくならないようにと小学四年の頃に貰ってきた新しい家族だ。

 式神といっても血による契約などしていないし、そこらで漂っていた猫の魂を紙に付加させているわけでもない。人の手によって人工的に生み出された生命体――ホムンクルスに近いらしい。しかも肉体を維持する魔力は餌として市販されている。昔はファンタジーの中での話だった式紙も、これでは言葉が通じるペットと変わりない。

 しかし、孤独ではない安心感を与えてくれたかけがえのない家族だ。

 ちなみにメトにゃんは雌である。

 

(――メトにゃん、今日も元気?)

 

「元気すぎるくらいよ。まぁこれもあたしの教育?…の成果ってやつよ」

 

「にゃ〜(また春ちゃん独り言しゃべってるよ)…にゃふぅ(禿げても知らないよ)」

 

「その前にあんたの髪をむしろうかしら」

 

「にゃっ(ダメッ)!」

 

 頭をサッと押さえ、自動掃除機の赴くままにメトにゃんは逃げだした。

 しかし両手を離したことで身体が振動で動き出し、情けない悲鳴のような鳴き声を漏らして掃除機から落ちた。あまりの滑稽な光景だったので、春香は噴き出した。

 その光景を彼女に伝え、かすかに聞こえる笑い声を聞いて今日は始まった。

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 結局、遅刻した。

 自動掃除機から落ちたメトにゃんが泣き出し、あやすのに時間が掛ったからだ。母親のようなことをよく口にするが、生まれてまだ十年も経っていない。背伸びしても、まだまだ子供ということだ。

 一度泣き出したメトにゃんはいっちゃやだと駄々をこねては靴下を引っ張り、急ごうと玄関に向かう春香の靴の中に入って動かなかった。そして説得する度に目尻に涙を溜め、悪戦苦闘すること一時間、春香は靴を履くことができた。

 そんなことを言うわけにもいかず、担任にはひたすら平謝りすることでどうにか許してもらえた。

 遅刻の原因は、今は春香の頭の上ですやすやと気持ち良さそうに眠っている。

 

(――大変だったね)

 

「まぁメトにゃんもまだ子供だからねぇ」

 

 周囲に聞こえないように声を小さくする。

 三時限目からの参加となった授業は数学。無駄に長い数式なんて覚えきれるはずもなく、当然のように数学の評価が低い春香には鬼門だった。教科書と黒板を見比べれば見比べるほどやる気が失せていく。

 なので、朝のゴタゴタで朝食も間に合わなかったため一足先に昼食を頂くことにした。

 仕方ない、これからの一日を無事に過ごすための重要なエネルギーになるのだと後悔を滲ませながら、教師の目を盗んで机に引っ掛けてあるバッグから弁当箱を取り出す。教科書を周囲から――主に教壇に立つ男から見えないように立てておく。

 

「さすが昨晩の残り物。味が染みてるわ」

 

 昨晩にも同じものを食べたはずなのにどうしてこうも違う味がするのだろうか。残ったおかずをラップして冷蔵庫で一晩寝かせただけで美味しくなるのなら、今度から事前に作っておけばいい。と思いつつ面倒なので一蹴した。

 

「にゃふ…(ん、おはよ〜)」

 

 もそもそと頭を動かしていたからだろう、メトにゃんが目を覚ました。弁当を見つけるなり尻尾を振って机に降り、手を振ってねだってきた。

 

「にゃあ(僕にもちょうだい)」

 

「仕方ないな」

 

 残っていた鶏肉を摘み、メトにゃんにあげると美味しそうにかぶりついた。

 小さい手で支えながら汚れるのも構わずに食べている姿を見ていると、昨晩一緒に食べたものでも作った甲斐があるというものだ。与えた鶏肉が大きかったのか、少し悪戦苦闘する姿もどうしてか和んでしまう。

 

(――あれ?)

 

 ご飯を掻きこんでいると、彼女から間の抜けた声が出た。

 

「ん? どしたん?」

 

(――なんか、向こうから光が――っ!)

 

 小さく呻く声とともに会話が途切れた。

 

「え、ちょ…! 大丈夫…?」

 

 突然の出来事にご飯をこぼしながら戸惑う。一応いまは授業中なので声を大きく張れないが、飛び散るご飯粒など気にせず呼び掛ける。それを見たメトにゃんが首をかしげる。

 それから何度かして、ようやく彼女から反応らしい反応が返ってきた。しかしそれは、小さく呑み込んだ息とわずかに漏れた吐息だった。

 

(――光が…溢れてる…)

 

 そんな声色から伝わる驚きと感動。

 この会話が始まってから初めて聞いた声だった。彼女が何を見て何に心を震わせているか。半年の間ずっと会話してきた春香だからこそ、実際に見なくても分かる。

 

「朝になったんだね」

 

(――これが、アサ…?)

 

「空? 空は見たことあるでしょ」

 

(――ずっと真っ暗だったから。ううん、今も周りは暗いけど、下の方はとても明るいよ。これがアサなんでしょ?)

 

「それってどういう…?」

 

「おいそこっ! 旨そうな早弁しているな!」

 

 どこか怒気がこもった声のする方に振り向けば、そこには満面の笑みで見下ろしてくる数学教師の姿が。

 

「しかも学校に無許可で式神を連れてくるとは、度胸がいいというか勉強する気がないのか…どっちなんだ?」

 

「ニャ(触るな)!」

 

 メトにゃんに伸ばそうとした教師の手を、メトにゃんは爪を立てて払った。

 小さいとはいえ、メトにゃんは式神。個体差はあるが持っている力は普通の猫よりも強く、人のそれと変わりない。それが爪を立てて払ったとなれば、手には鋭い爪跡とクッキリと浮かび、しかも皮と肉が裂けるだろう。

 と、春香が考察している間に血が床に滴り落ちた。

 

「霜野…」

 

「先生これあたしからの気持ですそして廊下に立ってきますジャ!」

 

 食いかけの弁当を先生に渡し、メトにゃんを摘まみあげて春香は教室を飛び出した。

 廊下に半ば自主的に立たされ、次の授業には平然と戻る。

 そして時間が過ぎて訪れた昼休み。

 

『――政府は市民の避難勧告および軍の出動を決定しました。しかし政府は、あくまで警戒のための出動だとして――』

 

 春香はふらふらと身体を揺らしながら学生ホールを通り過ぎようとしていた。

 

「昼飯買い損ねた〜」

 

 三時限目の数学で弁当を失った春香は四時限目の国語が終わったと同時に職員室に呼び出しをくらった。当然、お説教である。逃亡と自主的反省からみて十分で終わったことは幸いだった。

 しかし、問題はそこではない。

 帰ってきた弁当の中身は一飲みすれば終わってしまう程度。

 すぐさま購買へ向かったが、そこには完売の看板が掲げられていた。そして思い出す。ここの購買の売れ時は昼休みではなく、二時限目が終わった直後であることを。

 そして学生ホールを通り過ぎる。

 

「にゃふ…にゃふ…」

 

 主人が空腹で倒れそうだというのに、メトにゃんは幸せそうな表情のまま頭の上で寝ている。解せぬ。

 式神は飼い主の性格に似るというが、メトにゃんの人見知りは固有のものだった。春香とその両親にしか懐かず、友人他人関係なく近づこうとする人間には威嚇する。彼女は顔も名前も知らないので激しい反応はないが、もはや拒否反応かアレルギーである。

 

「まったく。誰のせいでこうなったと思ってああお腹が…」

 

 女子にあるまじき響く腹の音。

 ここの学生のほとんどが弁当ではなく購買のパンや弁当を昼食としている。しかしあまりに多いため、かつては怪我人が出るほどの激戦区になったとか。そこで購買の営業開始時刻を早まらせ、少しでも緩和しようとした結果、三時限目の終わりにはほとんど残っていないのが現状。

 弁当組である春香が、そのことを忘れるのも仕方ないことだった。

 

(――あ、また赤い光が来た。すごいすごい!)

 

 そして独りで楽しそうに彼女ははしゃぐ。初めて遊園地に連れてこられた子供のような、満面の笑みを浮かべ無邪気に言葉を並べていく。顔は見れないが、間違いないだろう。

 それが二時間余り。

 しかし、そこが春香にはどうにも納得できない。

 

「光ぐらい見たことあるでしょ。それともどっかの部屋に引き籠ってたの?」

 

(――部屋じゃないけど籠ってるのは間違いないかな。光は見たことあるよ。でも、こんなに好きじゃなかったなぁ)

 

「好きじゃなかった? どれもこれも同じじゃない」

 

 窓の向こうを仰げば、さんさんと降り注ぐ太陽と雄大な入道雲。そして全てを包み込んでくれる青く澄んだ空が広がる。視線を降ろせばビルの中にも人工の光が灯してある。

 波長や強さなどの差はあれど、そこに光としての差はないと春香は思う。

 

(――違うよ。ずっと前に見た光は、こんなに眩して綺麗じゃなかったもの)

 

「ずっと前って…いつのよ?」

 

(――思い出せないくらい…かな)

 

 トーンが落ちたその声は、思い出せないのでなく思い出したくない。

 そう聞いて思い出すのは六年前のニュース。

 欧州で続いている戦争で、大規模な戦闘が起きた。戦火が飛び火していない町に異邦人が襲撃される事件が起き、それが生放送で実況がされた。テレビ越しに見た映像は爆発に次ぐ爆発。建物が燃え、崩れ落ち、そして人が巻き込まれていく映像は鮮血が飛び散る映像で中断され、のちに報道陣が殉職したという。

 ごく一部でのみ起きていた異邦人との領土戦争の映像は、日本のみならず世界中、そして人々に衝撃を与えた。

 

「――確かに、あれは酷かったからなぁ」

 

 時間に経つにつれて、記憶は薄れて固有の情報だけが残っている。思い出すような軽い口調なのはそのせいだ。

 だが、彼女の重々しい声は春香とは重みも想いも違う。経験して心に刻まれたからこその言葉なのだろう。

 

(――あ、何か近づいてきた)

 

「近づいてきたって何が?」

 

(――えっと、なんか回転する円盤が付いてる長細い身体の…)

 

「ごめん、意味がわかりません」

 

(――ぁぅ…ごめんなさい)

 

 彼女の声だけが聞こえ、そしてそれ以外すべての情報が遮断された中では断片的なものしか感じ取れない。それがとてもじれったい。

 

「ほらすぐに謝んないの。でもそれは見たことないの?」

 

(――ない…かな。うん)

 

「ないから仕方ないって。じゃあ聞くなよって言わないでお願いします」

 

(――そんなお願いしなくても…うん、言わないから…あ、どっか行っちゃった…)

 

 寂しそうに彼女が呟いたのが子供のようで、思わず微笑む。

 そして忘れた頃に強大な敵が盛大な音をたててやってきた。

 いわゆる、空腹感。

 

「あ〜にしても腹減った〜」

 

 彼女から微笑の息が漏れる。

 けれどそれが妙に心に引っ掛かり、適当に空腹を訴えて紛らわせようとしたがやめた。

 

「…ねぇ、もしさぁ――」

 

(――うん、何?)

 

「こっちに来ることがあったら、どっか食べにいかない?」

 

(――ぇ? それまでご飯我慢するの?)

 

「いやいや、そういうボケはあたしだけにして」

 

 まさかの言葉に脱力する。

 

「つまりさ、まぁあれだ。今はこうして会話だけだけど、会えたら今度ご飯を食べよう!」

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『――政府は夜が明け次第、攻撃に移るそうです。国連は日本の特別護国局の出動を申し出ましたが――』

 

 改札口から流れるニュースの音声を聞き流し、春香は駅を出た。

 部活動などに入っていないが、今朝の一件でやはり呼び出されて担任からネチネチと突かれながらお話合いをしていたせいで遅くなってしまった。蒸し暑いのと合わさって変な汗を掻いたからシャツが肌にくっついて気持ち悪い。

 しかも下校する時間帯がズレたので駅から家まで向かうバスがない。夕刻になると極端に本数が極端に減るので、なるべく乗り遅れないようにしていたがこうなっては仕方ない。長い時間待ち惚けをくらうくらいならとのんびり歩いて家まで向かうことにした。

 

「にゃふにゃふ(まぁこう日もあっていいんじゃない)?」

 

「歩く奴のことを考えて言ってほしいんだけどなぁ。それとも自分で歩く?」

 

 にゃ〜、と鳴きながらメトにゃんが頭の上で離れまいと抱きつく。

 日が暮れて風が吹くと涼しくて気持ちがいい。都会から離れた場所だけあって遠目には山並みが見え、山と山の間に太陽が沈んていく。

 世界合併現象の影響で季節が色濃く、夏季は常に猛暑、冬季は常に吹雪と最悪の天候になったが、汗ばんだ肌を風が撫でる風は昔から変わらない。今見ている風景だって、かつて見せられた母親の写真と変わりない。

 どれだけ世間や世界が不安定だ戦時だと叫ばれていようと、ところどころで不吉なニュースが流れていても、今ここで感じている日常は平和だ。

 

「そういえば、黙っているけどどうかした?」

 

「にゃふ(あたし)?」

 

「いや、メトにゃんじゃなくて。つか一番騒いでるよ自重しなよ」

 

 ヴニャ〜と暴れるメトにゃんを無視して、彼女に呼び掛ける。

 しかし返事はない。

 基本的には帰宅中はほとんど会話しない。というのも、会話しているように見えて他人から見れば独り言を呟いて変なことをしているようにしか見えない。駅やバスの中や人込みの中では、余計に浮いてしまう。だから、彼女にも多少遠慮はしてもらっている。

 だが今日はバスに乗り遅れ、時間帯もズレたので、周囲に人はほとんどいない。たまにすれ違う人もいるが、自転車なので聞こえることはないだろう。

 

「もっしも〜し。聞こえてる〜?」

 

 普通に会話するくらいなら大丈夫だろうと呼び掛けているが、反応が返ってこない。

 

「…返事がないただの独り言のようだ」

 

「………にゃ(知ってる)」

 

「五月蠅い!」

 

 気恥ずかしくなってきた。

 誰にも言われないのも辛いが、誰かに言われるのも辛いものだ。

 

(――あ、え…あ…)

 

 と、今まで黙っていた彼女から会話が開かれた。

 声を荒げたことに驚かしてしまったのか、困惑のような戸惑っているような、すっとんきょな声が返ってきた。

 

「あ、ごめん。もしかして驚いた?」

 

(――え…ううん、驚いたことには驚いたけど、ちょっと違うことで――キャッ!)

 

「? どした?」

 

(――分からない。さっきから三角形が近くを飛び回ってて、下の方でも騒がしくしてるし…どうしたんだろうって)

 

「三角形?」

 

(――筒のようなものをこっちに向けてジッとしてて、ちょっと怖いかなって)

 

 “三角形”に“筒”。

 昼間には“回転する円盤が付いてる長細い身体”の物体が近付いてきたという。

 意味が分からない。

 そうこうしている間に家に到着した。両親はまだ帰ってきていないようだ。

 

「そんな未確認生物がいる国って聞いたことないよ」

 

(――う、うん。あたしも初めて見たよ…キャッ! や! 変なもの打ってきた! ヤ、やめ…やめてよ…!)

 

 彼女の周りに変な虫が飛び回ってちょっかいを出しているようだ。

 彼女が気弱いことは知っていたが、まさか悲鳴を上げるほど苦手だったとは。弱々しい声におもわず呆れてしまう。

 家に辿りつき、玄関を開ける。まだ親は帰ってないらしく中が薄暗い。

 

「虫ぐらいでそこまで恐れなくてもいいんじゃない? 邪魔なら掃えばいいんだし」

 

(――は、掃う?! 虫ってこんなに大きいのに、春香は掃えるの?)

 

「まぁ、普通の大きさなら片手で十分でしょ」

 

 夏季だけあって虫の数も増している。特に蚊はウザったいことこの上ない。

 閉め切りだったので部屋が尋常なほど暑い。すぐさま冷房と扇風機を起動させ、その前に立って熱がこもった身体に冷気を当てる。素晴らしい。ほぼ毎日していることとはいえ、この涼しさは犯罪的だ。あまりに気持ち良すぎて昇天しそうだ。

 

(――か、片手?! え…あ、頑張ってみる…んっ!)

 

 怖気づきながらも可愛らしい声で頑張っているようだが、あまり芳しくはないようだ。何度も気合が抜ける声が聞こえてくる。

 虫と戯れられる彼女を放っておき、扇風機の前から離れる。頭上で同じ格好をしているメトにゃんは名残惜しいのか、降りて少し離れたテレビの上に乗り、掠める程度の風を浴びて再び同じ格好を取った。

 

「そこまでして風に当たりたいの? ならゴーランドでもやってあげようか?」

 

 ゴーランドとは、掌にメトにゃんを乗せてグルグル回る行為のことを言う。悪戯心で様々な方向に回転させるものだからメトにゃんは気持ち悪くなり、自身も回るものだから春香も気持ち悪くなるという利点など何一つもない遊戯である。所謂、ジャイアントスイングを真似たメリーゴーランドの略である。

 

「にゃにゃ(あれは気持ち悪くなるからヤダ)!」

 

 そう言うと気持ちよさそうに横になって丸くなった。

 最近メトにゃんが我侭になりつつあるのは気のせいだろうと考えつつ、テレビをつけた。

説明
世界合併現象によって混沌へと突き落とされた世界。魔法や魔獣が現実のものとなり、各地で終わりの見えない戦争や紛争が巻き起こった。それから約200年が経った日本で、なんの力もない少女は、平凡な日々に起きた小さな変化を満喫していた。
当HPで公開している『記憶録』の閑幕の一つ。その前編です。
※誠に勝手ながら、話の都合により追記しました。
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