黄花秋桜 |
「ユウちゃん、今日は一緒にお泊まりだよ。よろしくね」
学校から帰った僕を迎え入れたのは、隣の家のお姉ちゃんだった。
「一緒にお泊まりっていうのはちょっとおかしいか。ここ、ユウちゃんのおうちだしね。
んーと、今夜一晩、よろしくお願いします」
そう言って頭を下げたお姉ちゃんに、僕は慌ててならう。
「えっと、なんだかよくわからないけど、よろしくお願いします」
お姉ちゃんとは、僕が生まれたばかりの頃からの付き合いで、というより僕のパパとママがこの家に引っ越してきてからの付き合いだ。お姉ちゃんは高校生で、お姉ちゃん家のパパとママは忙しくて、僕のパパとママもたまに遅くなるから、そういうときはお姉ちゃんと一緒にお留守番をしているのだ。
「ママたち、どこか行ったの?」
ランドセルを置きながら聞く。
「あれ、聞いてなかった? ユウちゃんのパパのお仕事が忙しいから、ママもお手伝いに行ったんだよ」
言われてみれば、朝ご飯を食べているときにそんな話をされたような気もする。ご飯を食べるのに夢中で、よく聞いていなかったみたいだ。
「ふふっ、仕方ないなあユウちゃんは」
言いながら、僕の頭を撫でてくるお姉ちゃん。
恥ずかしいのでやめてほしいけど、でもお姉ちゃんの手が温かくて、気持ち良くて、そう思うと僕はなにも言えなくなってしまう。結局今度も、さんざん撫でまわされたあとに、ようやく僕の頭は開放された。お姉ちゃんは、嬉しそうにニコニコしている。
「ユウちゃん、頭撫でられるの、いや?」
突然、頭のなかを見られたような質問をされて、僕は驚いた。
「頭撫でてるとき、ユウちゃん我慢してるみたいな顔してるから」
どんな顔なんだろう。鏡で見たりできないかな。できないだろうな。
でも、いやじゃない。そう思ったから、思ったままを正直に言った。
「そっか。もしいやだって言われちゃったら、もうユウちゃんの頭撫でられなくなっちゃうから、よかった」
「でも、いやじゃないけど、恥ずかしいよ。外ではしないでね」
「はいはい、わかりました。じゃあ、おうちのなかでだけ、ね」
そう言って、お姉ちゃんはにっこりと微笑む。
春の日だまりみたいに、やわらかくて優しい笑顔。そんな風に笑うお姉ちゃんが、僕は大好きだった。
◇
「さあどうぞ、召し上がれ」
おお……と、思わず声が漏れた。
お姉ちゃんの料理上手は今に始まったことじゃないけれど、今日はいつにも増してすごい。気合が入っている。
「餃子に麻婆豆腐に八宝菜、青椒牛肉絲に魚介のサラダ。デザートには杏仁豆腐もあるよ!」
どうだと言わんばかりのこのメニュー。でもひとつ、問題がある。
「これ、全部食べられるの……?」
お姉ちゃんはうっ、と一瞬詰まったあと、
「だ、だいじょうぶよ! 余った分は冷凍しておけばいいんだから!」
と、投げやりぎみに答えた。どうやら、食べきれないのを知ってて作りすぎてしまったらしい。
「パパとママも食べるかもしれないしね」
「あ、そうだね。お帰り、何時くらいになるのかな。冷蔵庫に入れておいて、だいじょうぶかなあ。でもとりあえずは」
お姉ちゃんは椅子を引いて、僕の向かいに座る。
「食べちゃおっか。はいっ、いただきます」
「いただきまーす」
お姉ちゃんに続いて、手を合わせる僕。
お姉ちゃんが料理を小さいお皿に乗せて、僕の前に置いてくれる。それをやけどしないよう息を吹きかけて冷ましながら、食べる。
うん。お姉ちゃんの作る料理は、やっぱりおいしい。おとなになったらコックさんになるんだと言っていたけれど、お姉ちゃんなら世界一のコックさんになれると思う。
「そこまで言ってもらえると、がんばって作った甲斐があったかな。
ねえユウちゃん。わたしがコックさんになったら、ユウちゃん、わたしのお店に食べに来てくれる?」
「うん、行くよ」
「とっても高いかもしれないよ?」
「じゃあ、おこづかい貯めておかなきゃいけないね」
お姉ちゃんはふふっと笑って、それからいたずらっ子みたいな顔をして。
「なんてね、うそうそ。そのときは、お姉ちゃんが招待してあげるから、だいじょうぶだよ」
「ショウタイ?」
「お金はいらないってこと」
「そうなの?」
「そうなの」
よくわからないけど、おとなはいろいろすごいらしい。
大人はすごい。お姉ちゃんは、すごい。
「ユウちゃん、お風呂沸いたから入ろっか」
ご飯を食べて、余った分にラップをかけて冷蔵庫へ入れて、ふたりでお皿を洗ったら、次はお風呂だ。今日は暑かったから、汗をいっぱいかいた。僕はお風呂が大好きだけど、今日はちょっと気が進まない。お姉ちゃんが一緒だからだ。
「ねえ、お姉ちゃん。ひとりで入っちゃだめかな」
「えっ、どうして?」
「だって、その……」
言葉は詰まり、視線だけが上を向く。
お姉ちゃんは、おっぱいが大きい。僕はそれが、なんだか気になってしまうのだ。
つい目がいってしまって、でも見てしまうと妙に居たたまれなくなって。だから最近の僕は、お姉ちゃんとお風呂に入るのが苦手になってきていた。
ふわりと甘い花のようなにおい。お姉ちゃんの顔が、僕と同じ高さにあった。
「だいじょうぶ、だよ。恥ずかしがることなんてないんだからね」
しゃがみ込んで、ニコニコしながら僕の頭を撫でて、そんなことをお姉ちゃんは言う。
僕はやっぱりなにも言えなくなってしまって、そしてそのまま一緒に入ることになってしまった。
「ユウちゃん、熱くない? だいじょうぶ?」
僕の肩にお湯をかけながら、お姉ちゃんが聞いてくれる。
「だいじょうぶ。ちょうどいいよ」
お姉ちゃんはそれから身体まで洗ってくれようとしたけれど、それは頭を撫でられるのより恥ずかしいと思ったので、自分で洗うことにした。いつもは自分でやっているから、なんてことはない。
「ユウちゃんのいじわる……」
お姉ちゃんは、よっぽど僕の身体を洗いたかったみたいで、さっきからずっとすねている。
「いじわるしたわけじゃないよ」
僕は苦笑いするしかなかった。
このままでいるのも居心地が悪いので、僕はささっと頭と身体を洗って流すと、すぐに湯船へ飛び込んだ。
「ユウちゃん、ちゃんと洗った?」
お姉ちゃんは、腕をスポンジでこすりながら聞いてくる。
ちゃんと洗ったよと答えて、ちょっと熱めのお湯のなかに身体を浸していく。熱さが全身にしみて、ビリビリするような感覚。僕はこれが結構好きだった。大きくひとつ、息をつく。
「ねえユウちゃん、どうしてそっち向いてるの?」
「えっと、その、壁」
「壁?」
「壁を見てるの」
「どうして?」
「……見たかったから」
本当は、お姉ちゃんの方を見ていたら落ち着かないから。
でも、それをそのまま言うのはよくない気がしたので、僕は嘘をついた。
「ふふっ、変なユウちゃん」
お姉ちゃんは笑ってくれたけど、僕の心は曇っている。
嘘をつくのは悪いことだ。僕はお姉ちゃんに、嘘をついてしまった。
「ユウちゃん、ちょっと詰めてもらってもいいかな」
ふと気付くと、身体を洗い終わったらしいお姉ちゃんが、浴槽の壁面をはさんですぐ後ろにいた。
僕は反射的に、身体を隅に寄せる。
「ありがと。……ユウちゃん、まだ見たりないの?」
「……うん」
やっぱり居たたまれないので、浴槽に入ってきたお姉ちゃんにも背中を向けたままだ。申し訳ないような気はするけれど、でも仕方がない。
「ユ〜ウちゃんっ!」
「わわっ!」
なんて考えていたら、突然飛びつかれてびっくりした。
お姉ちゃんが、僕の背中からギュッと抱きしめてきたのだ。お姉ちゃんの身体はやわらかくて、温かくて。その腕に包まれていると、溶けてしまうみたいに気持ちいい。僕は、さっきまでの暗い気持ちを忘れてしまいそうになる。ふしぎと心が安らいでいく。
「ユウちゃん、だいじょうぶだからね」
「なにが?」
僕はなんのことかわからずに聞き返す。
「恥ずかしがらなくても、だいじょうぶなんだよ。ユウちゃんも、大きくなったらわかるから」
ユウちゃんのパパとママも大きい方だからね、と続けるお姉ちゃん。僕が、背の高さとか、身体の細さを気にしていると思っているのだろうか。たしかに僕は、クラスでも背の低い方だけれど……
「だから、心配したり、恥ずかしがったりすることないんだよ」
抱きしめる手に、力が籠められる。
お姉ちゃんの言うことはよくわからないけど、でもお姉ちゃんがだいじょうぶと言うからには、きっとそうなのだろうと思う。だから僕も、抱きしめられるその腕を、そっと握るのだった。
「暑い……」
調子に乗ってお湯に浸かりすぎたみたい。入る前より汗をかいてしまいそうだ。
クーラーは身体に悪いからだめだってお姉ちゃんに怒られるから、扇風機で我慢する。
「もう、ユウちゃんったら。そんな風にごろごろしてちゃ、牛になっちゃうよ」
僕と同じだけ浸かっていたはずなのに、お姉ちゃんは汗もかかずにいつも通りの顔をしている。どうしてなのかと聞いてみたら、
「決まってるじゃない。お姉ちゃんは、強いんだから」
そう言って、力こぶを作ってみせる。でもお姉ちゃんの腕は細いので、こぶはできないのだ。
「さ、お布団敷けたから、今日はもう寝よっか」
「え、もう?」
「もうって、こんな時間だよ」
起き上がって時計を見てみれば、たしかに寝る時間はもうすぐだ。今日は意外なほど、時間のたつのが早い。
「お姉ちゃんと一緒にいるせいかな」
「えっ、なぁに?」
「ううん、なんでもない」
お姉ちゃんがふしぎそうな顔をする。
思わず声に出してしまった。でもたぶん、きっとそうだ。お姉ちゃんと一緒で、それがとっても楽しいから、時間が早くたつように感じてしまうのだろう。このまま寝るのが惜しいくらい。
階段を上がって僕の部屋へ行くと、ベッドの隣にもう一枚布団が敷かれていた。
「お姉ちゃん、別に寝るの?」
「そっちの方がいいかなと思ったんだけど、ユウちゃんは一緒の方がいい?」
僕は少し考えて、思い出す。お風呂での、お姉ちゃんの温かさを。抱きしめられた腕の感触を。そして答えは、あっけないほど簡単に出る。
「一緒の方がいい」
「そっか。じゃあ、一緒に寝ようか」
お姉ちゃんは特に気にした風でもなかったけれど、でも心なしか嬉しそうに見えたのは、僕の見間違いじゃないと思う。
お姉ちゃんと並んで、ひとつの布団に寝る。少し狭いけど、でもなんだか楽しくて、どきどきして、わくわくして、とても眠れそうになかった。お姉ちゃんと一緒のときは、いつもこうだ。
それでもいつの間にか眠ってしまって、気がつくと朝がきている。いつもそうだった。
でも、今日は。せめて今日だけは、このまま終わってほしくない。僕は、そう思っていた。
「お姉ちゃん、起きてる?」
「うん、起きてるよ。どうしたの?」
布がこすれる音。頭を傾けてみれば、お姉ちゃんが身体ごとこっちを向いていた。
僕も身体を動かして、お姉ちゃんと向かい合わせになる。
お姉ちゃんはやわらかく微笑んで、どうしたのという風に僕の言葉を待っている。
僕のなかにある、この気持ち。言葉にしようとしてもうまくできなくて、もどかしいような、じりじりするような、でもとっても熱い、ふしぎな気持ち。これを、どうしたらうまく伝えられるだろう。
僕は考える。
お姉ちゃんは、待ってくれている。きっと僕が口を開くまで、いつまででも待ってくれる。お姉ちゃんなら、きっとそうしてくれる。
そんな優しいお姉ちゃんに、誰より大好きなお姉ちゃんに、どのように言えばそれが伝わるだろう。
そうして考えて、ひとつの言葉に行きついた。それしかない、と僕は思った。
「お姉ちゃん」
「なぁに、ユウちゃん」
「僕、お姉ちゃんと結婚したい」
「えっ?」
「お姉ちゃんの、お婿さんになりたいんだ」
お姉ちゃんは、ものすごくびっくりしたような顔をして、目をぱちくりさせている。
「だめかな」
「だめというか、それはちょっと、無理じゃないかなあ。だってわたしたち」
お姉ちゃんが、僕の頬にそっと手を寄せる。
「女の子同士、だしね」
眉根を寄せて、困ったようにお姉ちゃんが言った。
「女の子だと、だめなの?」
「法律でね、そう決まってるの」
「どうしてもだめなのかな」
「どうしても、かな」
そうなのか。無理なのか。
女の子同士だと、だめなのか。
僕は初めて知る現実にひどく驚いて、打ちひしがれていた。
「ごめんね」
お姉ちゃんは悪くない。悪くないのに、なのにお姉ちゃんは僕に謝ってくれようとする。僕のことを思って、そうしてくれてる。僕は情けなくて、申し訳なくて、涙がこぼれそうになってしまう。
そのとき、僕の頭に稲妻がはしった。女の子同士がだめなのなら。
だめじゃなくできる方法が、ある!
「じゃあ僕、男の子になるよ! テレビでそういうの、前にやってた!」
「そそそっ、それはだめだよ! いやっ、ユウちゃんが本当にそうしたいのなら、わたしは止めたりしないけど、でもわたしと結婚したいからとか、そんな理由で男の子になっちゃうのはだめ! 絶対だめ!!」
お姉ちゃんがすごい勢いでまくしたてる。僕はそれに圧倒されて、呆然となってしまう。
いい考えだと思ったのに、どうやらこれもだめみたいだ。
「ねえユウちゃん、わたしと結婚したいって、本気で思ってる?」
「うん」
「本当の本気?」
「うんっ!」
何度も確認されるまでもなかった。
ずっとお姉ちゃんと一緒にいたい。大好きなお姉ちゃんと、死ぬまで一緒にいたい。ほかの誰でもいやなのだ。お姉ちゃんがいいのだ。
もっと別の言い方があるのかもしれない。もっと別の答えがあるのかもしれない。けれど今の僕には、これ以外に思いつかなかった。だからその答えを、全力で守り通すのだ。
「そっか……」
お姉ちゃんはするりと仰向けになって、天井を見ながらなにかブツブツとつぶやきはじめた。
「オランダとか、アメリカの一部の州だとオッケーなんだったかな。あと、カナダやベルギーなんかもそうだったっけ。でも移住しなきゃだし、渡航にも結構かかるし、うーん……」
なんの話なのか僕にはよくわからないけど、大事なことなのだろうというのは何とはなしにわかった。
「よし、ユウちゃん。じゃあこうしようか」
お姉ちゃんがこちらを向く。目線と目線が、こんな近くで交じり合う。
「ユウちゃんがおとなになって、それでもわたしと結婚したいって気持ちのままだったら、そのときは、しよう」
「でも、女の子同士だとだめなんでしょ?」
「だいじょうぶ。お姉ちゃんがなんとかしちゃう」
「そんなことできるの? ほんとに?」
「本当だよ。だってお姉ちゃんは」
強いんだから、と。そう言って、ひまわりみたいな笑顔をくれる。だから僕は、信じた。本当にだいじょうぶなんだと。お姉ちゃんならなんとかできるのだと、そう信じることができた。
僕はいろいろたまらなくなってしまう。胸のうちで暴れているこの気持ちをどうしていいのかわからなくて、身体が命ずるに任せてそのまま動いた。
「……っと、びっくりした。ユウちゃんの方からこうしてくれるのって、久しぶりだね」
答えるのが恥ずかしくて、お姉ちゃんの胸に顔を押しつける。抱きしめる腕にも力を籠める。花みたいに甘くて優しいにおいが、胸一杯に広がっていく。
すっ、と後ろに手が回された。そのままふわりと抱きしめられる。
「ユウちゃん──」
そして耳元でささやかれる。僕が一番欲しかった言葉を、くれる。
それは誰にも渡せない、僕だけの宝物。決して壊れない、心のなかのダイヤモンド。
この日はふたりで、抱き合ったまま眠った。
黒いタキシードを着た僕が、真っ白なドレスを着たお姉ちゃんの手を引いて、赤い絨毯の上を歩いていく。
まどろみのなかで見た風景には、そんな僕とお姉ちゃんが映っている。
それは何年、十何年先かわからないけれど、きっといつか訪れる。そんな未来の、青写真。
<了>
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姉ショタを書こうと思って書いた記憶があります。 | ||
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