雨音語り |
右手に握る傘に、小さな雨音が響く。電灯の光が無ければ見ることも叶わないような霧雨ではあるが、私の足元は見事に水浸しになっていた。そうなってしまうのには十分過ぎるほどの時間、私はここに立っていた。
風は無い。気温はそれほど高くは無いが、湿気のせいでむしろ蒸し暑くすら感じる。半袖のシャツがじっとりと肌にまとわり付く。久々に履いたサンダルは何だか頼りなく、気付いたらどこかに落としてきてしまいそうだ。左手に持った帽子も少しずつ湿気を帯びてきた。正直に言ってあまり良い気分ではない。
だけど、私はここを離れることが出来なかった。ここに居ても、別に何かするべきことがあるわけでもないというのに。私はただ、ここに居た。
すっ、と夜の空気を吸い込む。水分を多く含んだ空気は、それだけで肺の中が黴だらけになるのでは無いかというくらい重い。そのまま何秒かその空気を味わった後、ゆっくりと息を吐いた。呼吸の音は雨音に同化して霧散した。
そろそろ帰るべきだ。そうは思っても、足が動いてくれない。思索はどんどんと過去へ遡る。今私の足を重くしているのは、私が二十年ほどの月日をかけて積み上げてきた記憶の重みだ。そう考えるとその重みが何だか愛しく感じられて、無理にそれを払いのける気にはなれなかった。
もう少しだけ、ここに居よう。何度そう言って自分を誤魔化しただろうか。ここに立っているだけで、出来ることなんて何も無いというのに。
もし今が冬だったら、寒さに負けてこうも長くはここに居られなかっただろう。もし今が昼だったら、他人の目が気になってすぐに引き返したことだろう。もし今何かの用事があれば、すぐにそのためにここを後にしただろう。
私が今求めていたのは、他の何でもない、ちょっとしたきっかけだった。何でもいい、誰でもいい、誰か私を現在へ引き戻してはくれないだろうか――そこでPDAが鳴った。夜の静謐さなどお構いなしに金切り声をあげるそれを取り出すと、私は静かに耳に当てた。
「蓮子、今どこにいるの」
五分ほどでメリーは公園にやって来た。すぐに帰ると言ったのだが、私がそっちに行くと言って聞かなかったのだ。いつもの帽子は被っていない。Tシャツにショートパンツというラフな格好は、明らかに急いでこちらに来たことを物語っていた。まだ洗濯したてのハリを保っているその服も、すぐに私のそれと同じように湿気に毒されるだろう。
「こんな時間にお一人で、何をしていたのかしら」
メリーの声には叱咤とも心配とも取れる微妙な感情がこもっていた。電灯の暗い光を受けたその表情は、あまり機嫌が良いようには見えなかった。
「目が覚めたら驚いたわ。蓮子が居ないんだもの。見慣れない部屋で一人ぼっちってのは、あまり良い気分じゃ無かったわ」
「ごめんなさい。ぐっすり眠ってるみたいだったから、起こす気にはなれなかったのよ」
「今度同じようなことがあったら、部屋の中を隅から隅までひっくり返してあげるんだから」
言っていることは明らかに叱責のそれだが、口調にはそのような刺々しさは感じられなかった。それは困るわ、と慌てたふうに言うと、メリーはそこでやっと少しだけ微笑んだ。
「それで、何をしていたの」
メリーは静かに繰り返した。私はすぐに答えようとしたのだけれど、言葉が上手く出てこなかった。私が慎重に言葉を選ぶのを、メリーは静かに待っていてくれた。
「昔、ね」
「うん」
「昔、小学生の頃なんだけど、猫を飼っていたの」
「うん」
ただ静かに、メリーは頷いてくれる。私が次の言葉を探すのをじっと待っていてくれる。私はそれに甘えて、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「飼っていたって言うのもちょっと違うかもしれないわね。時々私の家の庭に遊びに来ていたんだけど、餌をあげたら懐かれちゃって。困った子ね、なんて母さんには叱られたけど、私もその猫を気に入っちゃって」
「可愛い猫だったのね」
「私にとってはね。リビングに居るときはいつも庭が見えるソファに座ったわ。ほんとは父さんがいつも座ってる場所だったんだけど、私が取っちゃったの。あの時は悪いことをしたわ」
ふふ、とメリーは笑った。私も一緒に笑って、そこで気付いた。メリーがここに来た時には彼女が緊張しているように見えたのだが、どうやら一番緊張していたのは私だったようだ。らしくないな、と思って照れ笑いをすると、それに合わせてメリーもまた笑った。
「じゃあ、その猫ちゃんのせいでお父様は居場所を無くしちゃったのね」
「そうなの。でも私が居ない時にはこっそりその猫に餌をあげたりしてたみたい。母さんが言ってたわ。二人して困ったものねって」
私は目を閉じて当時の記憶を振り返る。小学生には大きすぎるくらいの一人掛けソファに座って庭を眺めていたことを。父さんと母さんが仲良く二人掛けのソファでお茶を飲んでいたことを。鼻腔をくすぐるそのお茶の香りを、今でも鮮明に思い出せた。
「この公園は学校の帰り道にあったの。野良猫がよく集まっていて、あの猫もその中に混じってよく日向ぼっこしていたわ。近所の猫のたまり場だったんでしょうね」
「良いわね。私も見てみたいわ」
「人に慣れた猫ばかりだったわ。みんな野良猫らしく綺麗な風貌とは呼べなかったけど、個性的で可愛い子たちばかりだった」
「でも、一番可愛かったのはさっきの猫ちゃんだったんでしょう」
「そりゃあね。親馬鹿の気持ちが初めて少しだけ分かったわ」
そこまで話して、私は少しトーンを落とした。そろそろ本題に入らなければいけないと思うと少し気が重くなったが、ここで話を終える訳にはいかない。メリーも私の雰囲気に気付いたのか、表情が少し強張った。
「初めて餌をあげてから半年くらい経った頃かな。こんな雨の日だったわ」
「うん」
私が言葉を詰まらせる度にメリーは小さく、でも誠実な相槌を打ってくれる。それに勇気づけられながら、少しずつ私は言葉を続けた。
「朝起きてリビングに行って庭を見たの。すっかり習慣になっちゃってたのね。リビングに行ったら庭を見る。いつも通りの何気ないことだったわ。でもその日、猫は死んでいたの。雨に打たれてすっかり濡れて。目を閉じて。鳴きもしなかったし髭も動かさなかったわ。当たり前なんだけど」
「うん」
「最初に見たときは眠っているのかと思ったわ。でも猫は雨に濡れながら寝たりしない。すぐに庭に出て猫に触れてみたわ。とても冷たかった。どれくらい前にここに来て、どれくらい前に死んだのかも分からなかったわ」
メリーは静かに私の隣に立っていた。ちょうど傘ひとつぶんの距離をあけて。ただ静かに頷いてくれていた。
「変な話なんだけど、私はその頃、猫は死なないものだと思っていたの」
「どういうこと」
「どこかで聞いて知っていたのよ。猫は飼い主の前では死なないって。死期が近づくとふとどこかに行ってしまって、そのまま帰ってこなくなるって」
「うん」
「だから私、猫はもしかしたら死なないんじゃないかと思ってたの。どこかに行ってしまった猫は死ぬんじゃなくて、全く別のところで生き続けてるんじゃないかって。でもあの猫は死んでいたわ。何の間違いも無いくらい確実に」
そこで私の言葉はぷっつりと途切れてしまった。まだ話すべきことは沢山あった。その日私は学校を休んでずっとベッドから出てこなかったこと。母さんが手配してくれた業者に頼んで、その猫を火葬したこと。その後私の特等席は再び父のものになったこと。でもそれを言葉にしようとしても、夜の暗闇の中へ溶けていってしまった。私はただ黙って立っていた。雨は変わらない強さで降り続いている。
「蓮子は、ずっとその猫に生き続けてもらいたかったの」
ずっと沈黙を続けていたメリーが口を開いた。その問いかけを、私は頭の中で反芻した。
「分からないわ。当時も死については一応分かっていたつもりだったし。でも少なくとも今は、死なない生物のことなんて考えられないわね。だってそうでしょう。死なないことは私たち人間を含めた生物にとって、本当に幸せなことなのかな。御伽話の中には不滅の生命の話もあるけど、それを得たから幸せになった、みたいな落ちは聞いたことがないわ」
「そうね。不死の苦しみについてはいろんな話を聞いたことがあるけどね」
「そういうこと。だから結局、あの猫も死ぬべくして死んでいったのよ。時々それが、とても寂しいことのように思えるけど。それはきっと生きている者のエゴね」
「でも蓮子は、この公園に来たでしょう」
メリーがそう聞き返してくると、確かにそうね、と私は苦笑いした。結局私は、あの猫の幻影を求めて、こんな夜中に公園に来ていたのだ。雨に濡れることも厭わずに。
「ねぇ蓮子。もしなんだけど」
「なに」
「もし私たちが、気が向けば霊の居る世界とか、天国とか地獄とか、三途の川の向こうとか、そういう場所に気軽に行けるような世界があったらどうする。これも私たちのエゴかもしれないけど」
メリーの突拍子も無い提案を、私はしかし真面目に考察してみた。生と死の境界が曖昧な世界、ということだろうか。それともそれらの概念はきちんと対立したまま存在するのだろうか。これはもう私たちの想像の枠外の世界のように思える。
「毎日がお盆ね。それともハロウィンか」
「それじゃ毎日誰が来てもいいように、沢山お菓子を用意しておかないとね」
私が冗談を言うと、メリーもそれに合わせておどけてみせた。私たちはくすくすとお互いの提案を笑い合った。笑うしかないくらい、メリーの言う世界はあまりにも現実離れしていた。まるで幻想の世界だ。
「でも、そうね。そんな世界があったら、もう一度あの猫に煮干をあげたいわ」
「一度なんて言わず、沢山用意しておけばいいじゃない。そしたらきっと毎日来てくれるわ」
「だけど、あんまり太らせても可哀想じゃない」
「それもそうね。でも沢山可愛がってあげたら、もしかしたら鶴みたいに恩返しに来てくれるかもしれないわよ」
「人の姿になってね。そしたらメリーのことなんて構ってあげる余裕なくなるわね」
「さっきの提案は撤回してもいいかしら」
そこで私たちは声を出して笑った。どうやら私たちには、この世界がお似合いのようだ。
「ねぇ、蓮子」
「なに」
「ひとりでそんな世界に行っちゃったりしないでね」
そういうとメリーは自分の傘をたたみ、私の傘に入ってきた。私の左手から帽子を取り上げるとそれを被り、ぎゅっと私の手を握ってきた。私もその手を握り返す。
「それは私の台詞よ。あなたの方が居なくなっちゃいそうで怖いんだから」
「もちろんよ。行くとしたらふたり一緒に、ね」
そう言ってお互いに少しだけ、手を握る力を強めた。メリーの目は真っ直ぐに私を見つめている。私もじっとメリーを見つめていたが、すぐに照れくさくなってしまった。
「さぁ、もう帰りましょう」たまらず私はそう切り出した。
「そうね。風邪をひかないように、この濡れそぼった猫ちゃんをお風呂にいれてあげなきゃ」
「それ、誰のこと」
「ふふ」
雨はまだ降り続いている。夜はもうすぐ明けるだろう。雨が止んだらメリーと一緒に野良猫たちに餌をあげに来よう。そんなことを考えながら、私達は帰路についた。
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