蝉の声
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功刀姉妹(くぬぎしまい)

 

 太陽光線が燦々と降り注ぐ、午後二時。八月ともなれば、何処へも彼処へも光が差し、肌を焼く。街路樹にとまっている蝉が騒々しく鳴き立てた。夏休み中の部活動を終えた瑠璃は高校の校舎の隅にある自転車置き場で、深緑色の塗装が施された自転車の傍らに立っていた。コンクリートから照り返される日差しの眩しさに目を細めながら、手にした携帯電話の画面を見つめている。

『もう行く。待ってて』

 瑠璃の見ている画面には、素気なくそれだけ書かれたメールが表示されていた。差出人は、『朱理』となっている。

「瑠璃、帰らないの?」

 瑠璃より数歩先の自転車を出していた同じ部活の友人が、声をかけてきた。顔を上げた瑠璃は、困ったように微笑む。

「朱理……妹、待ってるんだ。一緒に買い物行く約束してるから」

「あ、隣の高校通ってる、あの双子の妹さん? 可愛いって評判の」

「そ。……なんかあたしが可愛くないみたいな言い方」

「気のせい気のせい。じゃーね」

「ばいばい」

 自転車に跨ってすいと走り出す友人の背中に、瑠璃はなおざりに手を振った。折りたたみ式の携帯電話を閉じてポケットにしまうと、瑠璃はぼんやりと上を見上げた。

 視界の端に自転車置き場の屋根が見える。屋根は幅があまりなく、瑠璃の立っているところは半分くらいしか日光が防げずにいる。目を射る陽を直接に見て、思わず目を閉じる。

 瑠璃の首筋を汗が伝った。暑い。いくら夏仕様で生地が薄いと言えど、セーラー服は気温に対して調節がしづらい上に、制服の下にTシャツを着込まないと透けてしまう。しかも紺色のプリーツスカートは足に纏わりついて鬱陶しい。

 暑さに頭の中まで霞がかったような気分でいると、自転車置き場のすぐ傍の通用門から、少女が駆けてくるのが見えた。

「瑠璃」

「朱理、遅い」

「ごめん。部活が長引いちゃって」

 茶色の癖毛を汗で額に貼り付かせて、少し乱れた呼吸で朱理は言った。彼女は白いブラウスの上にクリーム色のサマーベストを着て、チェック柄のプリーツスカートを穿いていた。

「あっつーい」

「そうね。帰ろうか」

「うん」

 瑠璃は自分の自転車を置き場のラックから引き出して、先程朱理が走ってきた通用門に向かって自転車を押しながら歩き出した。朱理も瑠璃の隣に並んだ。アスファルトの照り返しが下からも肌を焼く。

 高校の一角に造られた小さな薔薇園を通り過ぎる。薔薇園の方から、蝉の声が微かになっている。ふと瑠璃が目をやると、薔薇の木は青々と茂り、枝は野放図に伸びていた。休みの間は薔薇園の管理をしている園芸部の活動もまばらなのだろう。

「夏休みも毎日部活だなんて、剣道部は大変だね」

「大会近いし仕方ないけど、やっぱりちょっと面倒だよ」

 諦念の笑みを浮かべる朱理に視線を戻す。部活動自体は楽しいのだろうが、練習ばかりというのに、朱理もめげているようだ。

「大会かあ。今年はどんな感じ?」

「今年は結構いいよ。三年生は今まで通り強者揃いだし、一年生も上手い子多いから個人戦も期待できそう」

「ふーん」

「『ふーん』って、自分から聞いてきた癖にその反応はないんじゃない?」

「ごめんごめん。調子よさそうでよかったね」

「まあねー」

 高校の通用門を出ると、夏特有の陽炎が道路の向こうで公園に生える芝生の緑を揺らしていた。陽炎の揺らめきは青空をくゆらせるほど、大きい。あまりの陽炎に瑠璃が思わず瞬きをすると、次の瞬間には陽炎も普段見かける規模に戻っていた。

 相変わらず他愛のない会話をしながら二人が帰路に着いていると、単調な電子音が響いた。立ち止って二人が音の出所を探ると、朱理の鞄からである。

「あ、電話だ」

「早く出なよ」

「……ん。あ、もしもしー」

 いつも一定の場所に携帯電話を収納しない朱理は、電話がかかってきているというのに能天気に学生鞄の中をさらい回して、ようやく電話に出た。会話の端々を聞く限り、部活動についてのようだ。しばらく朱理が喋るばかりという一方的なやりとりをした後、その電話をこれまた強引に切って、自分の隣で立ち止まっていた瑠璃を見た。楽天家な性分の朱理にしては珍しく顔を曇らせている。

「瑠璃、ごめん。今から学校引き返すことになった」

「聞いた限りそうかなって思った。気にしないで行ってきて」

「ありがと。行ってくる」

 そう聞くや否や朱理は素早く踵を返し、元来た道を飛ぶような速度で引き返していった。瑠璃はあっという間に見えなくなった双子の妹の運動能力に最早呆れつつ、家のある方に向き直った。相変わらず辺りは蝉の大合唱である。その声がいつもより煩く聞こえる。

 瑠璃は数瞬思考した。朱理がいないので自転車を押していく必要もない。自転車に乗って早く家に帰ってしまおう。ひらりとサドルにまたがって、軽快に自転車を漕ぎ出した。瑠璃の長く黒い髪が風に煽られてなびく。セーラー服のカラーや、紺のプリーツスカートも同時に翻った。

 車道に出て道路脇で快走を続けていた瑠璃は、しばらくしてある場所の前で自転車を漕ぐのを止めた。自宅近くのとあるコンビニエンスストアである。店内は、暑さを忘れるほどにエアコンが効いていて、涼しい。涼を求めて来たのだろう客も多くみられる。瑠璃はコンビニに入ると、真直ぐに飲み物の販売コーナーまで行って、自分の好物であるアイスミルクティーのペットボトルと、朱理が家に帰って欲するだろうスポーツドリンクのペットボトルを買い求めた。

用事を済ませてすぐにコンビニを出た瑠璃は、歩道の隅に停めた自転車の前カゴに、何か入っている。瑠璃がカゴの中を覗き込むと、それは蝉の抜け殻だった。

「うわ、懐かしい」

 瑠璃の脳裏に、その昔朱理と集めた記憶がよみがえった。籠の中をしげしげと眺める。茶色の薄い殻は、脆そうに思えて意外と丈夫である。大量に集めた抜け殻を、姉妹二人で大事に箱に保管していた。あの箱は何処へやったっけか、と瑠璃が思案に耽りかけた、その時だった。

 瑠璃が自転車を停めていた場所のすぐ脇に生えていた街路樹から、一匹の蝉が今まさに力尽きたとばかりに瑠璃の頭上に落下してきた。瑠璃の頭の上で最期の一声を上げる。

「っ!?」

 初めは何かが落ちてきた、という認識しかなかった瑠璃も、蝉の上げた断末魔にも似た鳴き声に、事態をすぐさま理解した。頭の上の手で払おうとしたが、それが蝉に触ることだと気付いて手を止めた。パニック状態に陥りながらも頭を前に倒してようやく蝉を落とす。蝉は瑠璃に落とされた瞬間に僅かに動いたが、間もなく息絶えたようだった。

 瑠璃はおぞましい物を見る目付きで蝉を見た。茶色の薄羽が力なく垂れている。片羽は落とした拍子に衝撃でもげてしまっていた。蝉特有の黒光りする体が、物寂しげに路傍に落ちていた。

「あー、もうやだ」

 瑠璃は世の生物の中でも一、二を争うほどに昆虫類が苦手だった。嫌悪感ばかりが体を駆け巡り、その場に凍りついてしまっていた。瑠璃が動けるようになったのは、数分が経った頃だった。丁度、携帯電話に電話がかかってきたのである。やっと我に返り、ポケットから携帯電話を取り出して番号を見ると、先程別れたはずの妹の朱理だった。

「もしもし?」

「……」

「何、どうしたの」

 通話開始のボタンを押して話しかけるが、朱理は答えないままである。

「朱理?」

 呼びかけると、電話の向こうで物音がするのが聞こえた。聞こえづらかっただけのようだ、と瑠璃が安堵した瞬間、電話の向こう側でジリ、と聞き覚えのある音がした。瑠璃の携帯電話を持つ手が汗ばんでいく。

その音を皮切りにして、一斉に蝉の鳴き声が木霊した。

「えっ、な、何……!」

 蝉は鳴き続けている。瑠璃は咄嗟に電話を切ったが、今しがた聞こえた音声は耳に反響してなかなか消えない。起きたことが理解できずに呆然としていた瑠璃だったが、額から伝った汗が目に入り、瞬きをしたところでようやく正気を取り戻した。何が何やらも解からないまま自転車に跨り、瑠璃は家路を急いだ。

 

 

 夜。雲が霞掛かって、朧月夜というに相応しい情景である。湿気を含んだ風が、夏だと言うのに生温く流れていく。

 瑠璃が夕飯を食べ終わり、風呂に入る頃になって、朱理がようやく家に帰ってきた。瑠璃は急いで風呂からあがり、ダイニングのテーブルで一人食事を取っている朱理の向かいの椅子に腰かけた。朱理は瑠璃が食べたものよりもかなり増量されている夕飯を黙々と平らげていた。朱理の部活動が運動部ということで、母親から配慮されているのである。向かい側に瑠璃が座ったのを見て、朱理は箸を止めて指摘した。

「瑠璃、髪の毛濡れたままだよ」

「後で乾かすからいいの。それより、昼間私に電話した?」

「電話? してないけど」

「そっか」

「何、どうしたの?」

 瑠璃は蝉が鳴くばかりのあの電話のことを突き止めたかった。瑠璃の唐突な質問に、朱理は怪訝な顔をして知らないと答えた。携帯電話の通話履歴を見ても、確実に妹からかかってきているというのに。

 瑠璃が仕方なく朱理に事の顛末を話すと、当の朱理はその出来事を一笑に伏した。曰く、

「白昼夢だよ、それ」

ということらしい。朱理にわざわざ見せてもらったが、不思議なことに朱理の携帯電話には瑠璃に向けての発信履歴が残っていないのだ。

「どうして……」

「だから、白昼夢だってー」

「そんな、確かに蝉は落ちてきたし、電話もかかってきたんだもの」

「全部夢だよ」

「……朱理?」

 朱理が厭に白昼夢という推測を押してくる。流石に瑠璃がおかしく思って朱理の顔を覗き込むと、朱理はいたずらっぽく笑った。

「だって、そっちの方が面白そうじゃん」

「面白がらないでよ。私は真剣に」

 幾分の安堵と怒りが、瑠璃の心の中でないまぜになった。妹のはずの朱理に違和感を今の一瞬、覚えたのだった。

「きっと図書館で本ばっかり読んでたからだよ。部活で今日はホラー小説しか読んでないって言ってたじゃない」

「うーん……」

 明るい顔で、軽い調子で朱理にそう言われてしまうと、瑠璃も自分の体験したことが段々と現実だったのか、夢だったのか曖昧になってきた。元々嫌いなものなのだから、夢に出ても現実と同程度のおぞましさを感じたのだろうか。

「さてと、ごちそうさま。怖いんなら早く寝ちゃった方がいいんじゃない?」

 いつの間にか食事全てを胃袋に収めていた朱理は、使っていた食器を器用に全部重ねて、流し台に運ぶのに立ち上がりながら、茶化す子どものような口調で瑠璃にそう言った。

「別に怖い訳じゃないんだけど……。でもそうする、変に眠たくって」

「ふーん。毎日夜更かししてるからじゃないの?」

「私は睡眠時間少なくても平気だからいいの」

「美容には悪いんだよ。歳とってから泣きを見ても知らないからね」

「うわ、酷い」

 話が横道に逸れていく。瑠璃は昼間の一件を追及するのを諦めた。

「じゃあ、今日は美容の為にもう寝ることにする。おやすみ」

「あ、ちゃんと髪の毛乾かすことっ」

「はいはい」

 流し台で食器を洗いながらまるで母親のように口煩く言う朱理を横目に、瑠璃は洗面台へ向かった。髪の長い瑠璃は、ドライヤーを使って髪を乾かそうとすると悠に十分以上かかる。夏は熱風を浴びる気にならなくて濡れたままにしがちだが、あれほど朱理に言われてしまうと乾かさざるを得ない。

 洗面所に着く。作り付けの引き出しからドライヤーを取り出し、コンセントを差してスイッチを入れる。轟音と言うほどではないが、耳元で大きな音を立てて風が送られてくる。正面にある大きな鏡を見ると、自分の顔が映っている。

 双子である朱理とは、あまり似ていない。昔聞きかじりの知識で母親に質問したところ、二卵性だから、と一蹴されてしまったことをふと思い出す。そのとき無性に悲しくなったことまで思い出されて、ドライヤーをかける手を止めた。髪を生乾きにしたまま、瑠璃は自室へと引き上げた。

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 白刃のきらめきが目蓋に焼き付く。世界が暗転した。

 光が瑠璃の眼球を刺す。刺激に耐えられず目を開けば、人の顔が飛び込んできた。

「朱理……?」

「瑠璃!? 目、覚ましたの? ……良かった!」

 瑠璃は視界に大映りになった自分の妹の名を呼んだ。彼女は目を一杯に見開き、瑠璃の首にかじりつくようにして抱きしめ叫んだ。双子であるのに似つかない朱理の長く茶色い癖毛を横目に、瑠璃は見える光景について思案する。

 味気のない白い天井、端の黒ずんだ蛍光灯。向こうに見えるは金属製の細いレール。淡い、水色のカーテンがかかっている。どうやら此処は病室らしい。

「私、どうして……」

「覚えてないの? 瑠璃、刺されたんだよ」

 耳元で鼻を啜りあげる音に混じって、答えが返ってきた。瑠璃が記憶を掘り返してみれば、確かに意識が落ちる瞬間に目にしたのは刃物の光だった。思い出すと、途端に刺された箇所が疼き出してきた。鈍痛はまるで、鉄の棒で突き刺され抉られているようである。

「でも、本当に良かった」

 暫くして朱理の抱擁から解放された瑠璃は、違和感に気付いた。病室にいるはずの自分は、布団を掛けていない。頭を起こして視線を巡らせる。それどころか、自分が制服のままであることも見て取れた。夏仕様のセーラー服は、襟は紺色で他は白である。同じく紺のプリーツスカート。白いソックスに革靴まで履いたままで、ベッドの上に横たわっている。

 瑠璃は異様な事態に戸惑っている。一方朱理は無邪気な笑顔で、無垢な声音で瑠璃に言った。

「瑠璃が全快したら、また二人でバディ組めるね」

「バディ?」

「バディ。何、変な顔して。瑠璃がいなくちゃ、あたしお仕事できないからね」

「な、んの……」

 瑠璃の耳にしたことのない情報ばかりを、朱理は口にする。さながら外国語を聞いている気分だ。決定的だったのは朱理の次の言葉だった。呆れながらも茶目っ気に、朱理は言葉を紡ぐ。

「瑠璃、どうしちゃったの? 『キャッチフレーズは見えない双子の暗殺者』の功刀姉妹、ただ今休業中ってね。かなりご批判を頂いたんだから」

「……!?」

 瑠璃は最早、何を言っていいのかわからなかった。自分が暗殺者であるなんて、そんな記憶もなく到底信じられない。此処は自分の世界ではない、という想いさえ浮かんだ。

「朱理、私には何の話だか……」

「まさか忘れちゃったとか、言わないでよね。あ、そっか、目が覚めたばっかりで混乱してるんだね?」

「違う……違う、私は、本当に」

 力なく周囲を見渡せば、今さらになって気が付く。大部屋の病室なのに、瑠璃の他に病人がいる気配はない。しかも周りは奇妙に明るい。それどころか、風景が歪みだしている。

「瑠璃、瑠璃ってば! ねぇ!!」

 遠くから朱理の呼ぶ声がする。やはり此処は自分の世界ではないのだ。夢を見ているのだ。早く、早く目を覚まさなくては。ぼやけてきている靄が、切り裂かれた。

 

「瑠璃!? 目、覚ましたの? ……良かった!」

「……朱理?」

 瑠璃は目を開けた。涙を目一杯に溜めた朱理が、眼前にいる。瑠璃のすぐ脇に手をついて、瑠璃を覗き込んでいた。何処かで見た光景だ。朱理の方を見ようと顔を傾けると、自分の真直ぐな黒髪が顔にかかった。

「私……刺されたんだっけ」

「そうだよっ……生きてて良かった」

 涙の所為で鼻声になりながら、朱理が答えた。腹部の鈍痛が重苦しくのしかかる。

首だけを巡らせば、朱理の頭の向こう側に味気ない白い天井が、端の黒ずんだ蛍光灯が、病室に必ず付いている金属製のカーテンレールが見える。水色のカーテンも引かれていた。やはり、病室である。

 瑠璃は唐突に思いだした。自分はこんな場所でのんびりしていてはいけない。やるべきことが、もっとあるはずなのだ。

「朱理……仕事は、どうなってる?」

「仕事?」

 朱理は小首を傾げて聞き返した。

「バディ、組んでたじゃない」

「何、言ってるの」

 朱理の顔が強張った。瑠璃の言っていることが通じていないらしい。瑠璃は何とか身を起し、怪訝に思いながらも朱理に畳みかけた。

「何って、暗殺の仕事。大体この怪我だって、どうせあの仕事絡みなんだろうし。朱理まさか、私が寝ている間ずっと忘れてたとか言わないわよね?」

「!? 瑠璃、どうしちゃったの? あたしには何言ってるか、さっぱりわからないよ」

 朱理は驚愕に包まれたようだった。瑠璃からしてみれば、まるで外国人と話している気分だ。中学校の時にある事件に巻き込まれて以来、朱理と二人で組んで何人もの人を殺してきたというのに。

 一拍置いて朱理が得心がいった、という顔をした。子どもと接しているような慈しみをたたえた笑顔で瑠璃に話しかける。

「あ、起きたばっかりで混乱してるんでしょ? そうだよね、普通刺されるなんて体験ないもん」

「私は混乱なんかしてない。ねえ、覚えてるでしょう?」

「瑠璃……。今お医者さん呼んでくるから、ちょっと待ってて」

「朱理!?」

「すぐだから! 診てもらわなくちゃ……!」

 朱理は慌ただしく病室の外へと駆けて行った。部屋にいる他の病人たちが、何事かと此方を見る。だが、瑠璃はそんな人々の視線には目もくれなかった。ただ一人の双子の妹である朱理の目が、姉を見る目ではなかった。其処には恐怖が映っていた。そのことに、瑠璃は絶望を覚えた。

 何故だろう。朱理は、忘れてしまったのだろうか。自分と過ごしてきた日々を。それとも、自分の記憶が間違っているのだろうか。暗殺なんて物騒なことをせずに過ごせた道が、あったのだろうか。否、それでも。

 瑠璃にあてがわれているベッドは、病室の窓に一番近いところだった。黄緑色の遮光カーテンが、開け放たれていた窓から入ってくる風にはためいている。知らぬ内に刺されていた点滴の針を強引に引き抜き、鈍く痛む腹部を何とか押さえ、瑠璃はベッドから降りて立ち上がった。リノリウムの床が、瑠璃の裸足に踏みしめられ音を立てた。銀色をした窓枠に手を掛ける。丁度朱理が医者を連れてやってきた。瑠璃に気付いて慌てて駆け寄ろうとする。

「瑠璃! 待って!!」

「功刀さん!」

 瑠璃は朱理の方を一瞬向いて、微笑んだ。窓枠を乗り越える。重力に引かれて、落ちていく。

 

 瑠璃は目を覚ました。見開いた視界には自分の部屋の天井が映し出された。ベッドから起き上がって辺りを見渡す。部屋はまだ暗く、夜半であることが見て取れる。瑠璃は朱理の言った通りに早めに布団に入ったのだが、普段夜更かしな性分もあって、変な時間に目が覚めてしまった。

 「夢……」

 夢にしては最後の瞬間、空中に投げだされた感覚まで鮮やかに感じられた。それでも妹がおかしなことを言っていたり、かと思えば自分がおかしなことを言っていたりと、その全てが夢の中の出来事だったことに酷く安心した。今さらになって身震いがする。夢の中で、瑠璃と朱理がかなり危ない橋を渡っていたのは確かだったが、夢から覚めてしまえば、それが何だったのかはもう思い出せなかった。

 夢見が悪かった所為か、瑠璃は到底寝直す気になれなかった。仕方がないので読書をするか、そうでなければリビングまで降りて何かテレビでも見ようか。幸い、明日は予定が何もない。瑠璃はぼんやりと思案しながら、枕元に置いた携帯電話を開いた。液晶画面が灯りの付いていない部屋に目映く光る。二時二十分。

 眩しさに目を細めながら画面を見ていた瑠璃は、片隅に目を止めた。不在着信のアイコンが出ていた。その件数たるや、十七件に上っている。緊急の用事でもあったのだろうか。着信履歴を見てみると、その全てが『朱理』からだった。最新のものは、僅かに二分前である。

 瑠璃は総毛だった。朱理はこの時間なら隣の部屋で寝ているはずだ。そもそも、こんな近距離で電話をする必要性がない。その着信履歴の異様さに負けて、瑠璃は携帯電話を閉じた。

 その瞬間、瑠璃が手に持っていた携帯電話がメロディを鳴らした。瑠璃は人によって着信メロディを変えているので、聞けば誰から掛かってきているかがすぐにわかる。……朱理からだった。

 出ない、という選択肢も瑠璃には勿論あった。あったのだが、どうしても出なければならない気が、瑠璃はしてしまった。再び携帯電話を開いて、通話ボタンを押す。耳に当てると、空気の音が一条聞こえてきた。

「もしもし?」

「るり?」

 瑠璃が恐る恐る声を発する。その呼びかけに、紛うことない、妹の朱理が応答した。息が荒いのは、気の所為だろうか。

「瑠璃、どうして、来なかったの。約束したじゃない。今日は一時半に公園でって。作戦はその時に言うからって。瑠璃が来なかったら、あたしだけじゃ、仕事なんて出来ないのに」

 朱理は長々と瑠璃に文句を言ってきた。瑠璃にはまたも理解のできない内容だった。しかし、その声は段々掠れて、小さくなっていく。

「朱理!?」

「でも良かったよ、来なくて。……瑠璃は、逃げてね」

 朱理が夢の中と同じようなことを言っていたが、今の瑠璃に頓着している余裕はなかった。双子の妹が窮地にいるのだ。それだけで、理由は事足りる。瑠璃は部屋を飛び出した。朱理が居る公園とは、自宅のほど近くにある公園だろう。部屋着のまま、靴を適当に突っ掛けて、慣れない全速力で走る。夜だというのに、街灯に止まっているのか蝉が多く鳴いている。

 所謂児童公園の程であるその公園は、決して広くはない。お決まりのブランコや滑り台、ジャングルジムといった遊具がこじんまりと置いてあるだけだった。この公園の何処かに、朱理がいるのだろうか。

「朱理! 何処!?」

 瑠璃が叫べば、公園を囲う木立の陰から小さな呻き声が聞こえてきた。声のする方へ歩いて行くと、樹木に凭れて朱理が蹲っていた。

「大丈夫!?」

「逃げてって……言ったのに」

 瑠璃が呼びかけると、蹲っていた朱理は大儀そうに顔を上げた。なんとか笑みを作り、飛んできた瑠璃に苦言を呈す。朱理の着ている制服は、白いブラウスもクリーム色のベストも土で汚れていた。ところどころ何か飛び散っているのは、血のように見える。

「逃げないよ。朱理が大変な目にあってて、私だけ逃げる訳ないじゃない」

「瑠璃」

 朱理は瑠璃の服を弱弱しく掴んだ。

「……これで、終わるよ」

「え、何?」

 漸く体を起こした朱理は、瑠璃の耳元でそう囁いた。瑠璃には言葉の意味を捉えられず、聞き返したが、そのときには朱理は再び木に凭れて目を閉じてしまっていた。呼びかけても、反応がない。

 動かなくなった朱理の傍らで、不意に何かが動いた。ジリ、と音を立てる。音のした方へ目をやった瑠璃の前で、一匹の蝉が身じろぎした。片羽を失い、飛べぬようだった。その蝉を、瑠璃は何処かで見たと思った。

説明
大学の課題で書いた作品です。姉妹の絆を描きたかった……はず。
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双子  幻想 

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