蒼い鳥・異聞
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『切欠』

それは何時だってほんの些細な言葉。

感情の水面に落ちた、小さな一粒の雫が立てる僅かな波紋。

しかし、それはやがて大きなうねりとなって、心を苛みささくれ立たせる。

 

「だから、何故なんだ? 何故、今じゃ無きゃダメなんだ?」

彼の顔に浮かぶ、私への疑問。

相互に信頼を勝ち取っていた私達の間には、久しく見なかった表情だ。

「そんなの…さっきから言っているじゃないですか!?」

苛立ち。不信。猜疑。疑念。

私の心を急速に覆っていく暗雲。

 

先程からの話し合いが既に口論に変わって、もうどれ程経つか。

彼の言葉が重なる度に、心と言う名の小船は新たな荒波に襲われ続けていた。

 

「いい加減にして下さいっ!」

臨界点を超えた感情の爆発。

目の前のこの人に私の怒声が飛ぶ。

 

黙ったまま見つめ続ける彼の瞳。静かな色 ―――― そして何処となく哀しそうな。

 

「ご存知じゃないですかっ――」

―― この人だけは、判ってくれてると思ってた。

「―――私が、この先に何を求めているかを!」

―― 誰が判ってくれなくても、この人だけは。

 

だが、それが自分の余りにも幼い幻想に過ぎなかった事を教えてくれたのは、この人の答え無き答えだった。

 

けれど止まらない。

いや、止められない。

今のこの気持ちを、私は抑える事が出来ないから。

私には、ある予感めいた物がずっと有った。

   ・・・            ・・・・

『今、この時を逃しては、絶対世界では歌えない』

この気持ちは、歌う事と同じだから。 ―――― あの子への、感謝と届けたい想いは。

目指す高みを教えてくれたのは、今はいないあの子なのだ。

この想いをもって進まぬ自分は自分では無い。

そう自分は誓ったのだから。

だから、言ってしまえば終わりだという事が判っていても止められないのだ。

心がそれを赦してくれない限り。

 

 ――――何時まで意地を張ってるの?

 

やめて…。

 

 ――――あの子が、本当にそんな道を貴女に望んでいると思うの?

 

…やめてっ!

何故貴女は、そんな事を言うの!?

 

 ――――あの子が本当に望んでいたのは――

 

やめてっっ!!!!

もう、止めてっ!!

 

もう一人の自分は判っているのだ。

宿阿の妄執なのだと。

いや、違う。

自分を縛る呪詛にも似た固執か。

 

薄幸な少女が心の中に築いてしまった、歪んだ原風景。

皮肉な事に、それは心の拠所が無かった少女の心に確固たる物として存在し、彼女を縛り続けて来たのだった。

 

 ―――だめ。

――― 何故?

「知ってるでしょうっ――――」

 ―――だめだ。言っちゃいけない、この先の言葉だけは。

――― 私が私である事を否定するの?

「―――私が求めている物をっ!?」

 

 ―――もう、判ってるでしょう?

 ―――彼の言葉に苛立つ理由も。

 ―――今のまま世界へ飛び立つには無理だという現実を、痛切に感じているのは自分なんだという事も。

 ―――それでも、貴女は――

 

それでも。

それでも、口を付いたのは呪詛の言葉。

 

「歌を―――高みを追い続ける姿勢の、何処が…何処がいけないって言うんですかっ!?」

 

痛いほどの沈黙。

 

「……未だ、言う必要が有るのか?」

 

ある訳なんか無い。

この人が言ってる事は正しいって判ってるのに。

それでも―――それでも、私は言ってしまったのだから。

 

「なら…、俺からはもう言う事は無い。後は…君が決める事だ」

 

無言で立ち尽くす私。

彼がゆっくりと踵を返して立ち去り始める。

 

待ってくださいっ

彼に向かって手を伸ばした。声を上げた。

―――上げたつもりだった。

 

彼を引き止めて、一体何が言えると?

今、終わりを告げたのは、自分からじゃないか。

 

部屋に響くパタリと閉まるドアの乾いた音。

聞えた音は、ただそれだけのみ。

 

膝がガクガクする。力が入らない。

身体を支えられずに、足元から崩れる様に床にへたり込む。

 

私は…私は何て馬鹿な…

 

 

震える。

ただ、肩だけが静かに。

 

空港の広いロビーを見渡す。

 

佇むのはこの身のみ。

他には何も無い。

何時もの顔も。何時もの煌びやかな、あのステージの雰囲気も。

そして、何時も居てくれた ―――― 私の隣のあの人も。

 

「本当に、…いいの?」

 

たった一人の見送りは音無さん。

彼女の問いに、沈んだ微笑みで小さく頷いてだけ答える。

 

搭乗アナウンスが遠くから響く。

ユックリと進み始める歩。

 

「ねえっ!? 本当にっ!?」

 

背に響く、彼女の問いかけとも叫びとも聞こえる声。

 

一度だけ振り返る。

 

 

答えたのは、瞳に浮かんだ涙。

そして、再びの薄い微笑み。

 

 

それがこの国に残した、私の『最後の言葉』

 

異国の空から、雨が降り頻る。

 

あの時も、こんな雨の日…だったっけ…。

 

立ち止まり空を見上げながら、ふとそんな事を思う。

 

うん。

時間が要るんだ、と思う。

あの人の前で、再び素直な笑顔で笑えるには。

 

 ――――

 

その蒼い鳥は、世界と言う名の空を飛ぶ。

又、何時かあの温かい宿り木に留まれる事を思い描いて、今日も飛び続ける。

 

その手から毀れ落とした片翼を、再び取り戻せる事を信じて。

 

 

雨は、未だ今日も冷たい。

 

 

 

 

 

〜 蒼い鳥・異聞 〜 end

 

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