花盗人 |
人攫いなどと言う風習が在った事を、私は今更ながらに思い出していた。
かつて鬼や天狗は、気に入った人間を見つけるや、我が物にせんと力尽くで攫っていった。
餌として喰らうのか、妻として娶るのか、それとも酒を酌み交わしただけで土産を持たせて帰してやるのか。
攫った人間をどうするかこそ様々であったが、人攫いと言う行為は彼らにとって呼吸をするくらいに当たり前な物で、それを行わないなどと言う選択肢は始めから彼らの中には存在しなかった。
けれど鬼が世界を去り、人が夜を恐れるのを止め、天狗が人との関わりを避け。
長い長い時の流れの中で、人攫いと言う名の文化は少しずつ磨耗され、何時の間にか彼らの中から綺麗さっぱり消え去ってしまっていた。
それは幻想郷と言う狭い世界の中で、天狗と人が再び近い存在と為りつつある今でも変わらない。
きっとこれからも、人攫いなどと言う錆付いた風習が復活する事は無く、天狗と人間は古とは違う新たな関係を築いていくのだ。
千の時を生きた天狗である私、射命丸文は既にそんな時代の到来を受け入れる準備が出来ていた。
いや、ひょっとしたら私はずっと望んでいたのかも知れない。
天狗と人が、わだかまり無く手を繋ぐ事の出来る世界を。
『好きな人間を攫いたいと思うのは、私達の性だ』
けれど今、そんな私の脳裏に反響するは、かつての鬼の知人の声。
今になって遥か昔のあの言葉が、やけにはっきりと蘇る。
嗚呼、何時からだったろう。
自分の被写体を―――――博麗霊夢を攫いたいと思うようになったのは。
――――――――花盗人―――――――――
「どうも、文々。新聞です」
「アンタも飽きないわねぇ」
桜舞い散るなどと言う言葉がぴたりと当てはまる博麗神社の境内。
花びらのカーテンの中心で何をするでもなく佇んでいる霊夢に向けて、私はいつもの様に新聞を差し出した。
対して、ぶっきらぼうに新聞を受け取る彼女の逆手には、鮮やかな真紅の唐傘一つ。
雨も降っていないのに何事かと一瞬逡巡するものの、なるほど、これだけの花びらが振ってくれば傘も欲しくなるか。
顔に振ってくる花びらを手で払いながら、桜の木枝を仰ぎ見る。
「凄いですね、まるで桜の雨です」
「でしょう? こんな雨の中で傘をさすと言うのも中々贅沢だとは思わない?」
淡い桃色の花びらが次々と中空から降り注ぎ、仄かな香りと共に一面を儚く染める。
その中で霊夢はくすくすと、空間を楽しむかのように微笑みを浮かべていた。
どうやら風情漂う桜の雨も相まって、今の彼女はかなりの上機嫌であるらしい。
博麗霊夢と言う名の人間の表情は日本の四季のようにコロコロと変わる。
喜怒哀楽がハッキリしているが故に、自身の感情が至極素直に表情へと顕れる。
字面だけ並べれば酷くわかりやすい人種に思える、けれど実際の彼女は何処か掴みどころの無い雲のような存在だ。
ただあるがままの姿としてそこに在り、手を伸ばしても決して掴み取る事はできない。
そんな人懐っこさと神秘性を併せ持った彼女の不思議な魅力に惹かれて、私は彼女を追いかけるようになったのだった。
もう五年以上昔になるだろうか、当時の天狗と巫女の関係を思い描きながら、私は乾いた笑みを浮かべる。
こうして出会うきっかけを思い出してしまうあたり、私が既に彼女に捕らわれてしまっている何よりの証拠なのかもしれない。
やれやれ、始めはただの取材対象としか見て居なかったと言うのに、何処で間違えてしまったと言うのか。
下を俯き自虐的な溜息を吐く私に向けて、霊夢は笑みのままで語りかける。
「アンタ、この後の配送は?」
「いえ、霊夢で最後です」
「そ、なら丁度よかったわ。せっかくだから一献付き合いなさいよ」
「これはまた、霊夢からお誘い頂けるとは珍しい」
「ここまで見事な桜の雨なんて滅多に見られないからね。肴に一杯やるにしろ、一人占めしても寂しいだけだし」
なるほど、と私は一つ頷いた。
確かにこれだけの見事な光景、これでお酒を入れないと言う方が幻想郷では無粋というもの。
普段は来客を鬱陶しく思っているようなそぶりを見せている彼女だが、実はこれでいて寂しがり屋の気がある、一人でよりも二人で楽しむ方が彼女にとっても楽しいのだろう。
ならば当然そんな彼女の誘いには応えてやるのが礼儀と言う物だが、正直な所私は申し出を受けるか否か迷っていた。
―――――攫いたい。
恐ろしかったのだ。
これ以上彼女に近づく事で、霊夢を攫ってしまいたいと言うこの欲求が今以上に強まってしまう事が怖かったのだ。
現にこうして彼女と何気ない会話を交わしている今でも、心の奥底では「彼女を攫いたい」と欲求の獣が声を上げている。
今はまだ獣の声は小さく、耐えるのはそう難しい事ではない。
けれどあの御方の仰ったとおり、好きな人間を攫ってしまいたいと思うのが私達の本能だったとしたら。
霊夢に好意を抱けば抱くほど、彼女を攫ってしまいたい衝動が強くなってしまうのなら。
このまま踏み込み続ければ、きっといつか私は耐えられなくなる。
いつか本当に幻想郷の要である博麗霊夢を攫ってしまう。
そうなってしまえば射命丸文と言う天狗の全ては終わり、幻想郷に仇なす逆賊として賢者に討たれるか、罪の意識のまま自らそのちっぽけな命を絶つか。
はたまた本当に攫ってしまう前に薬氏にでも頼んで、自分の中から彼女の博麗霊夢を消し去るか、いっその事幻想郷から姿を消してしまうか。
どれを選択したにせよ、二度と彼女と共に在る事は出来なくなってしまう。
そんな未来の起こりうる現実が堪らなく恐ろしくて……私は自分が今どうするべきなのか、わからなくなってしまっていたのだ。
「花、嫌いだったっけ」
不意に、その声で現実に引き戻された。
慌てて顔を上げると、そこに在ったのは何処か困惑したような霊夢の表情。
どうやら私は余程、悲痛な表情を浮かべていたらしい。
しまったなぁ、と頭を掻いて、得意の作り笑顔を顔へと貼り付ける。
「いえ、大好きですよ。その眩いばかりの美しさも、呆れるほどの儚さも……妖怪もまた、自分には無い物に惹かれるのかもしれませんね」
「だったら」
「花に恋をするのは、愚か者のする事です」
言葉を遮りながら、私は雨降り空を仰ぎ見る。
その光景を素直に「美しい」と思えた、「ずっと見ていたい」とも思えた。
けれどそれを「手に入れたい」と思ってしまった時、きっと妖は後戻りが出来なくなってしまうのだ。
「妖怪と言うのはままならないものでね。美しいと思えば思うほど、惹かれれば惹かれるほど、見ているだけでは満足できなくなってしまう。何が何でも自分の物にしたくなってしまうんです。……私達だって花盗人になんてなりたくありませんから。ですから花には近寄りすぎず、遠くから見ているだけで満足するのが、私達妖怪にとっての賢い選択と言う物なんですよ」
全くもってその通りだと思う。
美しい花に魅了されて、分を弁えず近付き過ぎるなんて愚か者のする事だ。
私はその事を十分に理解していたのに、理解していた筈だったのに。
何時の間にか、自分自身が愚者へと成り果ててしまっていたと言うのだから笑えない。
「それに」
「それに?」
「鴉ですから、雨は苦手なんです」
そんな今思いついたような言い訳を口にしながら。
急に饒舌になってしまった事をごまかすように、私は努めて優しい笑みを霊夢に向ける。
上手く笑えているかはわからなかったが、これくらいしか自分に出来る事が思いつかなかったのだ。
はらはらと花の雨が降りしきる中、私達は二人静かに見つめあう。
踏み込むでもなく、遠ざかるでもなく。
今、私と彼女の間に存在する距離、手を伸ばしてもぎりぎり届かない空白、それをとても大切な物のように想いながら、目を瞑る。
私の緩やかな拒絶を汲んだ彼女が自分から離れていってくれる事、それを願って。
そうしてどれくらい時間が経っただろうか。
私の周りを包み込む静寂に、不意に乾いた音が入り込む。
ゆっくりと瞼をあげると、視界には穏やかな霊夢の表情と……赤い唐傘。
少女の左手に握られたそれが、二人を花の雨から守るべく、その鮮やかな傘布を広げていた。
そう、手を伸ばしても届かない筈だった二人の距離は、何時の間にか唐傘一つで包み込めるほどに近い物となっていた。
ぎゅう、と。
思わず私の表情が歪む。
どうしてだ、どうして近づいて来てしまうのだ。
雨が苦手だなんて、そんなのただの言い訳でしかなかった事など、とうに彼女は理解している筈なのに。
私の先程の態度が、他ならぬ拒絶であると、わからない筈がないと言うのに。
それなのに何故、私などを自分の傘の中に……領域に入れてしまおうとするのだ、この巫女は。
愚かしい少女の行動に歯軋りをしながら、もう一方で私はとうに気付いていた。
目を瞑ってただただ彼女の行動を待ち続けたあの時から、ずっと気付いていた。
本当は、他ならぬ私自身が、彼女に傘をさしてもらう事を望んでいたと言う事に。
そうだ、私はいくらでも逃げられたのだ。
踵を返してもいい、空へと飛び立ってもいい、彼女は決して私を追おうとはしなかったろう。
わざわざその場に留まり、相手が離れていく事を待ち続ける必要など何処にもなかったのだ。
否、そればかりか風を操る私ならば、彼女が近付いて来ている気配とて、容易に察する事が出来たのではなかったのか。
それをしなかった理由など、最早考えるまでも無い。
私は、『私は彼女から離れようとしている』と自分を納得させながら、心の奥底ではこうして彼女から近付いて来てくれる事を望んでいたのだ。
自分の責任を全て相手に押し付けて、にも関わらず彼女に受け入れてもらえる事を期待し続けて。
嗚呼、何と浅ましく、醜い女なのだ射命丸文と言う天狗は。
余りの自分自身への失望感に、涙を零してしまいそうなほどに胸が痛む。
そして、そんな醜い女の頬へと伸びるのは、桜の小枝のように細い少女の指。
「なんて顔してんのよ、アンタ」
「……あやや、何でもないですよ」
まっすぐに向けられた少女の瞳の色が、私の脳裏に確信めいた憶測を浮かばせる。
きっと彼女は、全て気付いている。
私が彼女を攫いたいと思っている事も、近付く事も遠ざかる事も出来ずに苦しんでいる事も、今私が自分自身に憤っている事も、全部全て。
気付いていなければ、先程まで笑みを浮かべていた彼女が、こんなにも物悲しい表情を浮かべる筈が無いのだから。
そう、彼女は他ならぬ私の為に左手で傘を差し、右手で頬を撫で、その瞳を悲しい色に曇らせる。
そんな目の前に在る事実の一つ一つが何処までも嬉しく、果てしなく悲しかった。
私達は何時の間にこれ程までに近い存在となってしまったのだろう。
彼女が取材対象から、知り合いへと変わった時、二人は良き友になれる気がした。
互いに表情は豊かで社交性も高い、けれど最も大切な部分には誰も踏み込ませようとしない。
何時でも誰かと共にありながら、その本質は孤高。
私達二人は似たもの同士、互いにそれを理解した上で、踏み込まない楽な付き合いが出来ると信じていた。
それがどうした事だ。
気付いた時には、近付きすぎていた。
知らず知らずの内に嵌り込み、気付いた時には既に抜け出せなくなっていたのだ。
『落ちる』と言う表現が何処までも相応しい、身の程知らずの恋が私を蝕んで行く。
何が花だ、これではまるで食虫植物のようではないか。
そんな事を考えながら苦笑を浮かべる私の頬を、食虫植物の右手は慈しむように撫でる。
「アンタは、花盗人になるのかしら」
少女の言葉に、桜の雨は勢いを増して行く。
まるで、二人の姿を外から隠すかのように。
もうこれ以上、自分の気持ちを偽る事は出来そうにも無かった。
春雨の中、私は諦めにも近い笑みを小さく浮かべ、少女の細い腰まわりへと手を伸ばす。
対する霊夢は私の顔を見つめたまま、微動だにしない。
否定も肯定もせず、ただただ在るがままを受け入れるように。
そうして二人、静寂と花びらで包まれた境内で見つめあいながらゆっくりと言葉を紡ぐ。
「今はまだ、とだけ」
「決めるなら早くなさい。花の一生は短いわ」
「……そうかもしれませんね」
そこまで言葉にすると、私は彼女へと顔を近づけて行く。
果たして花の一生が終わるのが先か、私が耐え切れなくなるのが先か。
そんなおぞましいチキンレースの結果など、今の私にはわかる筈もないし、わかりたくも無い。
それを行う事がどれだけ愚かな事か、そんな事は十二分に理解している。
それでも―――――
それでも、私は花へと手を伸ばす。
妖を蝕む毒を持った、その儚い花に。
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