happiness 〜A dog tale〜 |
……いつも通り、平凡で退屈な日曜日だった。
何もすることもなく、かつ何かする必要もない。
部屋で一人ただ時間のみを無為に浪費するだけの1日。
しかし当時の俺はこんな生活を嫌だとも変えたいとも思ってはいなかった。
この日この瞬間まではこんな1日が日常だったし、これからの日々もそうなるはずだった。
「ピンポーン」
突如部屋に鳴り響いたチャイムがベッドで横になっていた俺の寛ぎの時間を奪った。
「全く…
俺の安らかな時間の邪魔をするとは一体どこのどいつだ……」
よたよたと裸足のまま玄関に向かいドアの鍵を開ける。
「よっ!元気にしてるか!」
耳障りな声が半開きのドアの向こうから俺の耳に飛び込んできた。
「……哲か」
向 哲(むかいさとる)。
俺の悪友……というか鬱陶しいただの隣人兼クラスメイトである。
突っ走り気味な性格でいつも馬鹿なことをやらかし、その度に俺を巻き込みやがる。
「元気なのはお前だけだ阿呆。
俺は今大切なリラックスタイムを奪われてご立腹なんだよ。」
「まあそう言わずに入れてよ。
お邪魔しま〜すっ!」
哲は勢いよく玄関の扉を開けようとした。
「バタァァァン!」
しかしチェーン錠が掛けられていたために、逆に引っ張った反動でドアが大きな音を立てて閉まった。
すぐさま哲はドアをチェーンが伸びる限界まで開け、10センチ程の隙間から俺に訴えかける。
「ちょっ!お前チェーンかけてたのかよ!
お陰で危うくドアに挟まれるところだったぞ!」
「当たり前だ。
お前みたいな不審者が来ても家に入られないよう万全を期している。」
「不審者言うなよ!
俺たち、親友だろ!?」
「……すまん、良く聞こえなかった。」
「俺たち、し・ん・ゆ・う・だ・ろ!?」
「あぁ、確かにお前はし・ん・にゅ・う・しゃ、だな。」
「ひでぇっ!」
こんな馬鹿なやり取りを数十回繰り返した後、哲が俺の家に上がり込んだ頃にはもう一時間近くが経過していた。
「ったくよ〜、
お前ほんっっとにひでぇよな〜!」
「悪く思うな。
まぁ一種のブラックジョークだと思ってくれ。」
「冗談にも限度があるっつーの!」
一通り俺に怒りをぶつけた後、ふぅ、と一息おいて哲は俺に訊いた。
「……ところでさ、お前動物って好きか?」
「動物ねぇ……そりゃあ好きだよ。
野菜と違って上手いし栄養も高いしな。」
「食べ物の話じゃねーよ!
俺は真面目な話してんだ。
動物が可愛いと思うかって話だよ!」
「まぁ水族館とか動物園とかでぼーっと眺めてるのは好きだな。」
「そうか。
だったら一つ頼みがあるんだ!」
そう言うと哲はどこからともなく一匹の犬を引っ張り出した。
「お前……そいつ一体どこから引っ張り出してきたんだ…」
「まぁ細かいことは気にするな!
とりあえずさ、今この子の飼い主を探してるんだよ。」
「飼い主ねぇ……」
「親戚の家で産まれた仔犬で、他の子はちゃんと飼い主が見つかったんだがこいつだけはまだ見つからないんだ。
俺んちには既に気の荒いやつが一匹いるしさ。
なあ頼むよ!
こいつの飼い主になってくれ!」
またか……
哲は昔からこういう困った人や動物がいると放っとけないらしく、助けてやらないと気が済まないらしい。
そしてその度に俺が巻き込まれるのだった。
「いきなり家に来るとは何かあるとは思ったが……
こういう事か。」
「こういう事だ。」
「……断る。
俺はペットなんて育てる気は更々ないし、そんな甲斐性もない。」
「そんなことはないだろ。
俺お前が本当はすげえ優しい事を知ってるんだぜ。
猫が学校の木に登って降りられなくなってた時も、助けるのを手伝ってくれたじゃないか!」
「あれはお前が俺を勝手に巻き込んだだけだ。
お陰で覗きに間違えられて俺まで頭を下げることになった。
しかも木っていってもせいぜい3、4メートル程度だろ。
猫だって最後は普通に地面に飛び降りてきたじゃないか。
どう考えても助ける必要なかっただろ。
大体、動物を飼った経験のない俺に犬を育てろって事自体が無理な話だ。」
「そこをなんとか!
今頼れるのはお前しかいないんだ!」
一向に哲は引き下がる気配がない。
このやり取りを哲の隣で聞いていた仔犬も、不穏な空気を察してか目にうっすら涙を浮かべ、必死に訴えかけるかのように俺を見つめている。
「う……」
そんな目をされるとさすがの俺でも罪悪感を覚えてしまう。
「……しょうがないな、新しい飼い主が見付かるまで俺が面倒見てやる。
ただし、一時的に、だからな!」
「ありがとぉぉぉぉぉ!お前なら引き受けてくれると信じてたぜぇぇぇ!」
そう叫んで哲は涙を流しながら俺に抱き着いてきた。
「やめろ気持ちわりぃ!さっさと帰れこの馬鹿!」
………こうして俺の平凡な生活はまたしても哲によって奪い去られたのであった。
俺は困惑していた。
目の前には一匹の犬。
そう、友人の哲に押し付けられた例の仔犬である。
「……世話をしろと言われてもなぁ」
俺には犬を飼った経験はおろか、犬に対する知識すらも一切ない。
何を食べさせればいいかとか、しつけとか散歩とか。
一体この仔犬をどう扱えばいいのかすら俺には全くわからなかった。
「仕方ない……哲に聞くか。」
俺は仔犬と共に哲の部屋を訪ねた。
といっても哲の部屋は俺の部屋のすぐ隣なので人の家を訪ねるって気分にはなれないのだが。
「ピンポーン」
元気のいいチャイムの音が響く。
それと同時にドアの向こうから犬の鳴き声が聞こえてきた。
その声で仔犬は怯え、今にも泣きそうな顔をしている。
「怯えるなよ、ドアの向こう側じゃないか。」
そう言うと仔犬は俺の顔を不安そうな目付きでじっと見つめ、目に溜めた涙を拭った。
……一応俺の言葉はきちんと理解できてるらしい。
動物ってもっと馬鹿な生き物かと思っていたが、どうやら小さい子供くらいの知能はあるようだ。
そんなことを考えているとガチャンと錠を回す音が聞こえ、ドアが開いた。
「何だ、そっちから来るなんて珍しいな。」
「聞きたいことが色々あったからな。
犬の飼い方とか餌の種類とか……」
「さっきは聞かずに追い返したくせに。
わざわざ聞きにくる位ならあの時に聞いとけよ。」
「お前みたいな不審人物を長く家に置いとけるか。
家の中のものをひっくり返されでもしたら大変だからな。」
「どれだけ俺信用ないんだよ……」
「仕方ないだろ。
お前の普段の行いが悪いせいだ。」
「俺別に法律に引っ掛かるような悪いことは何もしてないと思うけど?」
「いいや、してるぞ。
刑法201条『リラックスしている人間の邪魔をしてはならない。』」
「そんな刑法はねーよ!
大体201って俺の部屋番号じゃないか!」
会話の最中も、部屋の奥からは犬の鳴き声が響いてくる。
「今日は一段と元気みたいだな。」
「まあお前が来てるからな。
あいつ俺以外の人間や犬に対しては容赦なく吠えまくるんだ。」
確かにこれではこの臆病な仔犬と同居させるのは無理そうだ。
「にしても……名前何て言ったっけ?」
「ランディだよ。」
「あぁ、そうそう。
何でお前あの犬にランディなんて名前を付けたんだ?」
「え〜?だってカッコいいじゃんか。
子供の頃から犬を飼ったらランディって名前にしようって決めてたんだ。」
ふ〜ん……
カッコいいねぇ……
俺には古臭くてシュールな名前にしか感じないが。
というかどう考えてもあの犬はカッコいい系の犬じゃない。
もしかしてこんな性格になったのって、そんなダサい名前を付けられたせいじゃないか……?
「ところでその子、名前まだ付けてないのか?」
「あぁ、名前っていわれてもなかなかピンと来なくてな。」
「じゃあ俺が付けてやろうか?」
「遠慮する。
大体お前に名前付けさせたらまたろくでもない名前になりそうだ。」
「なんでだよ!
俺のネーミングセンスを疑ってるのか!」
「疑うどころか全く無いとさえ思っている。
どう考えてもあの犬にランディってのは似合わなさすぎるだろ。」
「失礼な!ピッタリじゃないか!ほら見ろ、ランディもこんなに喜んでる。」
「さっきあれは俺が来てるから吠えてるってお前言ってたじゃないか………」
「細かい事は気にするな!
あぁ、そうそう。
犬の飼い方の話だったな。」
「おっと忘れてた。
しつけとかはどうしたらいいんだ?」
「基本的なしつけとかはもう親戚の家で済ましてあるらしい。
あとはわからないことがあったらこれを読んでくれ。」
そう言って哲は「ワンちゃんの飼い方」という可愛らしいピンクの薄っぺらい本を手渡した。
「大体のことはこの本に乗ってる。
それでも分からないことがあったら遠慮なく俺に聞いてくれ。」
「おぉ、サンキュー。じゃあ何かあったら深夜4時位に遠慮なく聞かせてもらうよ。」
「お前、『リラックスしている人間の邪魔をしてはならない』んじゃなかったのか……」
自室に戻った俺は、早速哲から貰ったピンクの冊子を開き、読み進めた。
表紙をめくると、可愛らしい仔犬の写真が目に飛び込んできた。
「もう犬を飼ってる奴にそんな写真見せても意味ないような気がするが…
そんな写真を見るくらいだったら自分の家の実物の犬を見てろよ。」
等と我ながら腹黒い考えを巡らせながら読み進めていく。
「なになに……
『人間は大丈夫でも犬にとっては害になるものがあるから気を付ける。
また油物や塩分・糖分は控える』ねぇ……」
今まで俺の主食と言えばコンビニ弁当とかレトルト食品とか、油分も塩分もたっぷりなものばかりだったし、中に何が入ってるのかもさっぱりわからない。
「仕方ない……自炊するか。」
一応家には自炊に必要な炊飯器やら調理器具は一通りは揃っていた。
……ま、長らく押し入れのなかで眠ったままになっているわけだが。
早速俺は押し入れの戸を開いた。
仔犬は少し離れた位置に座り込んで興味津々といった目付きで俺を観察している。
「俺、そんなに珍しい事してるか?」
なんだかそうやって見詰められるとまるで監視されてるようでやりづらい。
「気にするな、相手は犬なんだ……」
そう何度も自分に言い聞かせる。
ホント、俺何やってんだか。
両手に力を込め、気合いを入れた。
「よしっ!捜索開始!」
ガサガサ……
ガサガサ……
「久しぶりに出すな。
たしかこの辺りだっけか……」
物で溢れ帰った押し入れに手を突っ込み、手探りで炊飯器の位置を確かめる。
手を動かす度に紙袋やバッグなどが擦れあい乾いた音を放つ。
それと同時に溜まった埃が宙を舞い、俺の周りに降り注いだ。
今更ながら早いうちに整理しとくべきだった……と後悔した。
「お、あったあった。」
ようやく指先に炊飯器の手応えを感じ、思い切り引きずり出す。
「くそっ……なかなか出てこないな………。
よしっ」
思い切り踏ん張り、全体重を利用し炊飯器を引っ張った。
「スポーン!!」
手応えがなくなったと同時に、炊飯器が押し入れから勢いよく発射され華麗に宙を舞った。
しかし土台のバランスが崩れたのか、引っ張り出したと同時に押し入れの物たちが雪崩のように俺に襲い掛かってきた。
ガラガラガラガシャーン!!
「うわぁああああああああああ!!」
騒音と大声にさっきまで興味津々に眺めていた仔犬は、目を丸くして驚いた様子でこちらを見下ろしている。
「……何見てんだよ」
沢山のバッグや雑貨類に体を埋められ、まるで砂風呂に入っているような状態で俺は仔犬に向かって言った。
幸いにして俺に怪我はなく、炊飯器も少し傷が付いたがちゃんと正常に機能するようだった。
「全く……哲のやつ……結局あいつのせいで部屋中ひっくり返す羽目になっちまったじゃないか……」
ブツブツと呪文のように愚痴を呟きながら米を磨ぐ。
「確か洗っても水が白くなくなればいいんだったっけな……」
白いご飯を炊くという行為すら、俺には久しぶり過ぎてもはやそのやり方すら忘れてしまっていた。
「くそっ、なかなかしぶといな……
ええい面倒だ、もうこれだけ洗えば十分だろ!」
とりあえず米は磨ぎ終わった。(ただし、俺基準では)
「水の量はっと……
しまった、何号とか計ってなかった……
まあいいや、とりあえず目分量で入れとくか。」
お袋が家事をしていた光景を思い出しながら、なんかそれっぽい量の水を入れる。
次は炊飯器にその釜をセットし、炊飯開始!
……本当にこれでいいのか不安になるが、まあ食べられればそれで問題ない。
次はおかず……なのだが。
「………ない。」
自炊などしばらくしていない俺の冷蔵庫の中には料理の材料など一切なく、ジュースとレトルト食品しか入ってはいなかった。
「時間的にスーパーはもう閉まってるしコンビニには生鮮食品は置いてないしな……。
こうなったらもう魚肉ソーセージだけでいいだろ。
これだったら有害そうなものも入ってなさそうだし。」
とりあえずソーセージを切って、皿に並べて完成。
………実に質素だ。
むしろ今までのインスタント生活の方がよっぽど豪勢だったと思う。
ま、仕方ない。
これが今の俺にできる精一杯の「夕食」なのだ。
俺だけインスタント物を食おうとも考えたが、さすがに仔犬にだけこんな質素な夕食を食べさせるのは可哀想だ。
……そう考えると、こいつの世話を引き受けたことを少し後悔した。
「飯できたぞ〜。」
ピンク色のソーセージが並べられた皿を部屋に運ぶ。
すると仔犬はこんな残念な食事にも関わらず尻尾をぶんぶんと振り回し喜んでいるようだった。
「ちょっと待ってろよ、ご飯持ってきてやるからな。」
そう言って炊飯器を開ける。
中の米はかなり固そうだったが、一応食べられそうではあった。
「水が足りなかったか……」
反省しながら茶碗にご飯を装る。
「ほら、飯だぞ………」
顔を上げると皿にあったはずのソーセージは一切れもなく、あるのは仔犬の満面の笑みだった。
「こいつ………俺の分まで食いやがった………!」
さっきまでの俺の苦労や苦悩を一切無駄にされた俺の怒りなど気にもしない様子で、そいつは嬉しそうに尻尾をブンブンと振り回していた。
結局その日の俺の夕食はいつものようにカップラーメンとなった。
「そういえば、その子の名前は何にしたんだ?」
翌日、様子を見に来た哲が俺に尋ねた。
「あぁ、そういえば名前まだ付けてないんだ。」
「マジかよ、この子が来てからもう1日経つんだぜ。
いい加減付けてやらないと可哀想だろ。」
「どうせ後で別の奴に引き取られるんだろ。
だったらむしろ名前を付けない方がいいんじゃないか。」
「飼い続けるつもりはないのかよ。」
「全くない。」
「お前、本当に冷たいんだな……」
「何を言う。
この犬のことを案じてるからこそだ。
このまま俺の家にいたらまともな生活なんて出来やしないだろ。」
「お前が生活改善しろ。」
「断る。
俺は早くあの頃のぐうたら生活に戻りたいんだ。
生活改善なんてしてたまるか。」
「ほんっっっっとに冷たいなお前………。」
すると哲はまたどこからともなく本を取り出した。
「……四次元ポケットかお前は。」
「だから細かい事は気にするなよ。
ほら、これでも読んで少しは料理を勉強しろ。」
手渡された本を見るとそこにはポップな書体で「愛犬と食べる手料理講座」と書かれていた。
「だから俺は生活を改善する気は更々ないって……」
「じゃあその炊飯器は何だよ。
昨日まで無かったじゃないか。」
「それは………」
「とにかくだ。
その子の為にもお前がしっかりしないといけないんだよ。
この子がいる間だけでもいいから、ちゃんとしたものを作って食べさせてやれ。」
「お前はどこぞの世話焼きのおかんか。」
「俺はおかんでも何でもいいから、とにかくその子をもっと大事にしてやれ。
何なら俺が今この子の名前を付けてやろうか。」
「断る。
お前のネーミングセンスで名前なんて付けられたらそれこそこの子が可哀想だろ。」
「俺のセンスを疑うっていうのか!」
「どう考えてもお前ん家の犬に『ランディ』はないだろ。」
「いいじゃんかっこよくて。
あいつだって喜んでくれたしな。」
「どうだか……本当はものすごく嫌がってたりしてな。」
「お前ってホントにひどいやつだな……」
哲が部屋を出ていった後、俺は貰った料理の本を読んでいた。
「ほ〜、どれもなかなか美味そうだな。」
写真に目を通しながらパラパラとページをめくっていく。
「ほぉ、栗ご飯ねぇ。」
栗……か。
ふと思ったのだが、こいつの毛色、なんか甘栗の中身みたいな色してるな。
茶色にクリーム色を混ぜたような、どことなくシックな色。
「お前の名前………
『マロン』ってのはどうだ?」
仔犬に話し掛けてみた。
すると仔犬は尻尾をぶんぶん降りながらニコッと笑った。
……名前を付けて貰った事が嬉しかったのだろう。
「気に入ってくれたか?」
その問いに仔犬は、満面の笑みで答えてくれた。
こうしてここに愛犬『マロン』が誕生したのである。
夕食の材料を買いに行こうと家を出ると、偶然哲と鉢合わせた。
「おっ、哲か。
どこ行くんだ?」
「ああ、ランディの散歩だよ。」
見ると手にはリードを持っている。
そしてその先に、繋がれていた。
そう、ランディである。
黒い毛にふさふさの尻尾、仔犬のマロンよりも更に小さな体。
なんとランディはその名前に似合わず可愛らしい小型犬だったのだ。
「やっぱりランディって柄じゃあないよなぁ……」
ランディを見ながら呟く。
するとランディは、ううう〜、と唸り声を上げ、俺の方を睨み付ける。
どうやら怒らせてしまったようだ。
「おいおい、そんなに怒るなよ。
ランディって名前が気に入らないって事は分かるからさ。」
しかし俺の言葉にはお構いなしにランディは大きな声で吠え始めた。
「わんっ!
わんわんっ!」
……もしかして、こいつは名前が気に入らないんじゃなくて、俺が名前を否定したから怒ってるのか?
「すまんランディ。
よく似合ってると思うぞ、ランディって名前。」
そう言ってみる。
すると驚くべきことにランディは突如ピタッと泣き止んだのだ。
マロンにしてもそうだったが、やはり飼い主から名前を貰うってことは犬にとってこの上なく嬉しい事なのだろうか。
一生のうち一回だけ貰える、最初で最後の一番大きなプレゼント。
犬ってやつは、実は結構純粋で乙女チックな生き物なのかもしれない。
「そういや俺ん家の犬……マロンって名前にしたんだが。」
「おっ マロンか。
可愛くていい名前だな。」
「お前に誉められてもあまり嬉しくないな……
じゃなくて、マロンのことだ。
俺は今まで一度もマロンの鳴き声を聞いたことがないんだ。
もしかしてあいつ声が出ないのか?」
「いや、そんなことはないよ。
ただあんまり鳴かない子もいるってことさ。
他の仔犬は貰われていく中、どうしてあいつ一匹だけ貰い手が見付からなかったのか、知ってるか?
他の仔犬たちは鳴いたり人間にすり寄っていったりして積極的にアピールをしてたんだ
でもあの子だけは大人しく隅っこでただ見てるだけだったらしい。
だからあの子だけ最後まで取り残されたんだ。
もしかしたらマロンは控えめな性格なのかもしれないな。」
言われてみれば、マロンは性格自体かなり大人しい気がする。
今まではしつけがよくできてるからなのだとばかり思っていたが。
「ま、犬にもそれぞれ性格ってのがあるし、あんまり不安がらないことだ。
犬だって人間の気持ちが分かるんだしな。」
「それはマロンが来てから嫌と言うほど分かったよ。」
「飼い主が不安がれば犬も不安になる。
ま、お前がしっかりしてればマロンの性格も少しは活動的になるかもな。
じゃあ俺はランディと散歩に行くから。
またな。」
「ああ、ありがとな。」
哲は何故か少し驚いた素振りを見せたが、すぐに走り出したランディによって引っ張られて道の向こうに消えていった。
買い物を終え家に帰る。
辺りは既に薄暗くなっていた。
「ガチャっ」
玄関の扉を開ける。
部屋の中はもうほとんど光が届かず真っ暗だ。
「ただいま〜。マロン?」
何の反応もない。
部屋に入り、電気を点ける。
「マロン……?」
そこにはマロンが
………倒れていた。
「おいっ!マロンっ!」
必死に呼び掛ける。
まさか病気……?いやでもさっきまではそんな様子ではなかったし……
パニックになる俺。
嫌な想像が頭の中を巡っていく。
「…………すー…………」
何か音が聞こえる。
音に向かって耳を済ましてみる。
「すー………すー………」
どうやら音はマロンから発されている。
寝息……のようだ。
「寝てるだけ、なのか……」
安心し、ヘナヘナと全身の力が抜ける。
まあ仔犬だし、無理もないか。
俺は気持ち良さそうに眠るマロンに布団を掛けてやった。
そういえば一度もマロンを散歩に連れ出してないと気付いたのは、マロンが家に来てから既に4日が経った頃だった。
これまでは世話だとか夕食の調理なんかに精一杯で、散歩のことなどすっかり忘れていたのだ。
こいつの運動らしい運動と言えば、俺が立ち上がって歩く度に、まるで刷り込みされた小鳥のようにぴょこぴょこと俺に付いてくること位だった。
しかもその移動距離は部屋から台所とか、部屋からトイレといった僅か数メートル、10秒も掛からないようなものでしかない。
「このままだと運動不足だな……
よし、散歩に行くか。」
幸いにしてマロンには譲り受けた時から首輪とリードは付いていたし、今すぐにでも散歩に連れ出せる用意は出来ていた。
「ほら行くぞ、マロン。」
そう言うとマロンはとびっきりの笑顔で尻尾を振り回した。
外の空気はまだ朝の涼しげな温度を残していた。
吹き抜ける風が気持ちいい。
「ん?どうした?」
マロンは震えていた。
……寒いのか?
いや、そうではなさそうだ。
両手で俺のシャツをギュッと握り締め、目に涙を浮かべながら俺の顔を見上げる。
……外が怖いのか。
まあ無理もない。
哲の話によればこいつの生まれた所は結構な田舎で、散歩といえば専ら田園風景の広がる畦道だったらしい。
しかしここは都会と呼べるほどではないが車は走っているし、人も沢山いる。
マロンにとってはこのありふれた街路ですらさぞかし怖いのだろう。
「大丈夫、怖くないからな。」
そう言って頭を撫でてやる。
すると少しは落ち着いたのか、強張っていたマロンの表情が緩んだ。
「ほら、歩くぞ。」
一歩ずつ、マロンが取り残されないようゆっくりと歩みを進める。
マロンは俺のシャツを握ったまま、俺のあとをついてくる。
普通の犬だったら逆に人間の方を引っ張り回したりすることもあるとかテレビで見たことがある。
その点このマロンは控えめなせいか自分から先に進もうとはしない。
初めての犬がこいつで良かったな、そう思った。
………公園に着いた。
決して大きいとは言えないが、比較的綺麗に整備された公園だ。
「ここらで一休みするか。」
草むらに腰を下ろす。
マロンもそれを見て俺の隣に座る。
……二人でぼーっと空を眺める。
雲は静かに空を流れていく。
辺り一面からはサラサラという、風が草むらを鳴らす音が響いている。
そして風が止むとその音も止み、辺りを静寂が包み込む。
微かに聞こえるのは、マロンの息遣いだけ。
静かで穏やかな時間。
しかしそれは以前の退屈で孤独な穏やかさとは違う。
心の中がホッとするような、そんな穏やかさだった。
「……そろそろ帰るか。」
そう言って立ち上がる。
マロンも少し遅れて立ち上がった。
歩き出そうとすると、マロンは俺のシャツの裾を引っ張った。
少し残念そうな顔をしていた。
まだここにいたいのだろうか。
「そんな顔しなくても、明日でも明後日でも、いつだってここに来れるだろ。
お前が行きたいって思えば、俺がいつだって連れてきてやるからさ。」
するとマロンの表情がぱぁっと明るくなり、項垂れていた尻尾がバタバタと勢いよく動き始めた。
「ほんと、犬ってのは単純な生き物だな。」
しかしその単純さが俺は好きだったし、だからこそ可愛いんだと思った。
そして、そんなマロンのことを「可愛い」と思えるようになっていたことが、俺自身驚きだった。
最初はあれだけ嫌だ、嫌だと思っていたというのに。
「お〜い、今からピクニックに行こうぜ〜!」
朝10時、閉まったドアの向こう側から哲の大声が響いた。
「……ったく朝っぱらから……」
寝起きで重いまぶたを擦りながら玄関の扉を開ける。
「いきなりなんだよお前…
近所迷惑じゃないか。」
俺がそう言うと哲は慌てて口を塞いだ。
……今さら黙り込んだところで近所迷惑になった事実は変わらないし、既に時遅しなのだと思うのだが。
「……で何だっけ、ピクニック?
なんでいきなりそんな事言い出したんだ。」
「いや〜、天気予報では明日からしばらくは雨だって言うしさ、それまでに行っておきたいと思ったんだ。
マロンが来てからもう一週間経つだろ?
そろそろ皆で思い出作りをしたいなって思ってな。」
「そう言えばあいつが来てからもう一週間経つのか……。
全然気が付かなかったな。」
思えばマロンは一週間前にはここにいなかったのだ。
時の流れが早いことを実感すると同時に、たった一週間でマロンのいる生活に慣れてしまった自分自身の順応性に驚かされる。
「じゃあ二時間後に弁当作って持ってくるから、お前も作っとけよ。
どっちが上手く作れるか勝負だかんな。」
「望むところだ、お前が見て卒倒するくらいすげぇ弁当を作ってやる」
「……ふぅ。とりあえずこんなもんか。」
綺麗な二等辺三角形をしたサンドイッチをランチボックスに詰め終え、俺はため息を一つこぼした。
具材はきちんと犬の健康に考慮したものになっている。
「残り物の有り合わせで何とかなったな……。」
バッグに出来上がったサンドイッチと水筒を詰めていると、玄関の扉を叩く音がした。
扉を開けると、そこには哲が大きなリュックを持って立っていた。
「よっ!準備できたか?」
「今終わったところだ。
それにしてもでかいリュックだな。
お前、山にでも登るつもりか。」
「いや〜、シートとかボールとか持って行きたいものを用意してたら思いの外多くなっちゃってさ。」
「そんなもん得意の四次元ポケットから出せばいいじゃないか。」
「俺は未来のネコ型ロボットか。」
「そうでなきゃマジシャンか超能力者の類いだな。」
「あ〜もう細かい事は忘れて、さっさとピクニックに行こうぜ!」
弁当の入ったボストンバッグを肩にぶら下げマロンと共に外に出ると、そこにはランディの姿もあった。
相変わらずこちらに向かって唸り声を上げている。
「こいつも一緒に連れていくのか?
マロンは大丈夫なのか。」
「まあなんかあったら俺が抑えるし、実は一度もマロンとランディを会わせたことがなかったんだ。」
「何かあってからじゃ遅いと思うが……」
哲に連れてこられたのは以前にマロンを連れてきた公園だった。
「ここでするのか。
人目につくし恥ずかしいんだが……」
「いいじゃん別に。
景色も綺麗だし、何より犬たちを遊ばせるのにはちょうどいいだろ。」
見るとマロンはもう草むらに座り込んでいる。
もうここから動く気はないらしい。
「仕方ないか……我慢するか。」
何よりマロンのお気に入りの場所だしな、ここは。
早速マットを広げ昼食を取る。
時刻はもう既に2時を回っている。
昼飯というより3時のおやつで良さそうな時間だ。
「見ろよ俺の特製弁当〜!」
プラスチックの弁当箱を開け自信満々に中の弁当を見せ付ける哲。
中身は海苔弁当だった。
ご飯に乗った味付け海苔、オーソドックスに鮭と卵焼き。
確かに男の料理ということを考慮すれば目を見張る物がある。
だが…。
「それ、全員で食うには無理がないか?
鮭とか取り皿もないのにどうするんだ。」
「しまった!
お前に勝とうと内容にこだわりすぎて肝心なことを忘れていた!!」
「仕方ないな……」
そう言って弁当箱を開ける。
「お、サンドイッチか。」
「しかもちゃんと犬にも安全な具材ばかりだ。ほら、お手拭き。」
「……負けたよ、完敗だ。
まさかお前がここまで考えて弁当を作ってるなんてな……」
「ま、俺の実力ならざっとこんなもんさ。
さて、罰ゲームはどうしようかな。」
「ば、罰ゲーム!?」
「そうだな〜、例えばリュックを被って阿波おどりとか……」
俺の言葉を掻き消すようにランディが俺に吠えかかってきた。
「ううぅ〜〜っ!わんわんっ!!」
「はいはい、冗談だよ冗談。」
「お前今絶対本気だっただろ!!」
「さあ、なんのことかな。」
「うさんくせー。」
哲はへそを曲げたようにそっぽを向いた。
「…………お前さ、変わったな。」
「変わった?
何がだよ。」
「マロンが来てからさ、お前、少し優しくなった。」
「やめろよ気持ち悪い!お前まさか……」
「何だよ人が真剣に話してるのに!」
「わんわんっっ!」
会話は再びランディによって掻き消された。
「とりあえず、弁当食べようぜ。
俺朝から何も食べてないんだ。」
……公園で二人と二匹、サンドイッチを頬張る。
たまにはこういうのも悪くない。
マロンも元気に尻尾を振り回して喜んでくれているみたいだしな。
食事中は意外なことにランディは静かだった。
というか、俺が哲と話している間のみ、ランディは吠えるようだった。
またマロンに対しても、心配とは裏腹にあまり吠えかかったりはしなかった。
しかし哲がマロンを撫でたり、話し掛けたりすると急にランディはマロンに対して吠えかかる。
もしかして、これは………
「そろそろ帰るか。」
ランディとボールで遊んでいた哲が言った。
空を見るともう茜色に染まり始めている。
「そうだな、帰るか。」
俺も同意する。
さて、肝心のマロンはといえば、遊ぶわけでもなくただシートの上ですやすやと眠っていただけだった。
なんてマイペースなやつなんだ……
しかしその寝顔はまるで天使のように可愛らしかった。
思い出作りとはいかなかったが、ま、この寝顔が見れただけでも良しとしよう。
でも起こすのは少し申し訳ないな。
仕方ない。
俺は哲の力を借りてマロンを背中におぶり、そのまま帰ることにした。
俺が部屋に辿り着いた頃には既に空は真っ暗だった。
まだそんな時間でもないのに。
恐らく、頭上に雨雲が来ているのだろう。
部屋のベッドにマロンを下ろし、布団を掛けてやる。
……すやすやとよく眠っている。
「全く、俺の努力も知らないで。」
俺はマロンが目を覚まさないよう明かりを着けず、外から入り込んでくる街灯の光に照らされたマロンの寝顔をじっと眺めていた。
「………ポーン………
………ピンポーン………」
俺はチャイムの音で目を覚ました。
「……ん……俺…寝てたのか……」
外ではザーッというノイズのような音が響く。
どうやら雨が降っているようだ。
重い頭をむくりと上げる。
変な体勢で寝たせいか首が痛い。
「ピンポーン」
チャイムはまだ鳴り続ける。
このチャイムが、再び俺の生活を一変させることになるとは、まだ俺は考えもしていなかった。
「今日でお別れか……」
マロンの頭を撫でながら呟く。
そう、今日でマロンとは離ればなれになるのだ。
そんなことも知らずに、マロンは頭を撫でられたことが嬉しいのか幸せそうな笑顔を浮かべている。
……昨日の夜、俺の部屋を訪れたのは哲だった。
「何だよ、こんな夜遅くに……」
哲の表情にいつもの笑みはなかった。
俯いて、暫く黙り込んだ後、ゆっくりと口を開いた。
「…………見つかったんだ、マロンの飼い主。」
「見つかった……?」
「あぁ。
俺も何度もお世話になってる親戚の夫妻なんだけど、喜んで引き受けてくれるってさ。
いい人だってことは俺が保証する。
可能なら明日にでも引き取りに来るそうだ。
どうする?」
「………そうか。」
ならば迷う必要はないだろう。
そもそもマロンは一時的に俺の家で預かっているだけだ。
そして何より、俺の所にいるよりもその人の所にいる方が、食事にしても環境にしても家よりずっと良いだろう。
「マロンの幸せを考えたら、それが一番だと思う。
こんな狭くて汚い部屋より、もっと広い家で暮らす方がマロンも喜ぶだろ。」
「本当に……いいのか?」
「あぁ。そういう約束だったしな。」
………そう、これもマロンのためなんだ。
マロンには幸せに……俺よりもずっと幸せになってほしいから。
俺はマロンとの別れを決めたんだ。
「ピンポーン」
チャイムが鳴り響いた。
いよいよ来たんだ……。
ドアを開けると、そこには人の良さそうな丸顔のおばさんが立っていた。
「初めまして。
話は哲君から聞いてます。
この子がマロンちゃんね。」
おばさんは俺の背中にくっついて来たマロンを見つめる。
マロンは初対面の人間に少し怯えている様子だった。
「はい。ちょっと変わったやつだけど、大人しくていい子です。」
「そうなの。
この子のこと、本当に大事に思ってるのね。」
「そんなわけでもないですよ。」
「……本当にいいの?
この子と離ればなれになってしまって。」
「はい。
マロンが幸せになれるなら。」
「そう……
家は一軒家だし庭も広いから、のびのびと走り回れるわ。
私も夫も犬好きだし、我が子のように可愛がるつもりよ。」
「一つお願いがあります。
この子を必ず……幸せにしてください。」
「わかったわ。
この子は私たちが責任をもって幸せにします。」
「ありがとうございます。」
「あと、少し遠いかもしれないけど、いつでもマロンちゃんに会いに来ていいわよ。
きっとこの子も喜ぶわ。」
「ありがとうございます……」
いよいよ別れの時間が迫ってきた。
マロンを車に乗せようとする。
しかしマロンは俺にしがみついて離れようとしない。
「マロン……分かってくれ……
これはお前のためなんだよ……」
思わず涙が出そうになるが、それを必死に堪える。
マロンは俺の表情を悲しげな顔で見つめていたが、しばらくすると俺を掴んでいた手を離した。
「さよならだ、マロン。」
そう言って車のドアを閉める。
「それじゃ、この子を頼みます。」
「えぇ。
その思い、しっかり受け取ったわ。」
車がゆっくりと動き出す。
マロンは俺の顔を見続けていた。
「わんっっ!わんわんっっ!!」
初めて聞いたマロンの鳴き声だった。
俺は雨で車が見えなくなるまで、ずっとその場に立ち尽くしていた。
まるで涙を流すかのように、水滴が傘から滴り落ちていた。
再び俺に、退屈で平凡な日々が戻ってきた。
何もすることがなく、する必要もない。
ただベッドに横になりぼうっとしているだけの時間。
俺はこの時を待ち望んでいた。
待ち望んでいたはずなのに。
どうしてこんなにも苦しいんだろう。
体にぽっかりと穴が開いたような、大切な物が抜け落ちたような…。
何気なく机に目をやると哲からもらった料理本が置いてあった。
……このくらいの時間には、今日は何の料理を作ろうかって、毎日考えてたな。
しかし今日はその必要はない。
もう料理を食べてくれる相手はいないのだ。
カップラーメンでも、レトルトカレーでも、何でも好きなものを食べていいんだ。
しかし、そんな考えとは裏腹に、食欲は一向に沸くことはなかった。
気が付けば時計の針は9時を指し示していた。
「……そろそろ夕食を食べないとな。」
体をベッドから持ち上げ、台所に向かう。
カップラーメンでも食べようか……と思ったが、自然と俺の手は炊飯釜へと向かっていた。
無意識のまま米を研ぎ、釜をセットする。
……一週間前まではまともに炊くことすら出来なかったのに。
次に冷蔵庫から卵を取りだし、中身を皿に出してよくかき混ぜる。
塩を軽く、一つまみ加える。
そしてそれを熱したフライパンに入れしゃもじで混ぜる。
……スクランブルエッグだ。
簡単だが、今日の夕食が完成した。
「いただきます。」
ご飯が炊き上がる頃には既に11時を過ぎていた。
テーブルで一人、夕食を取る。
聞こえるのは、外から響く雨の音だけ。
あの軽やかな足音も、尻尾が床を叩く音も、もうしない。
……寂しいのか?
俺は、マロンがいなくなって寂しいのか?
ついこの間までは早くいなくなって欲しいと思っていたのに。
夕食はもう全て平らげてしまった。
空っぽのお茶碗と小皿がテーブルの上にぽつんと乗っかっている。
「マロン……向こうでもちゃんとやれてるだろうか」
そんなことを考える。
そして手放した事をほんの少し後悔する。
しかし、これで良かったんだ。
マロンの幸せを考えたら、これが最良の選択肢だったはずだ。
俺のような不甲斐ない、まともに料理もできない、犬の扱い方もよくわからない、
こんな駄目な人間のところでくらすよりも、あの夫妻のもとでのびのびと、何不自由なく暮らす方が良いに決まっている。
俺がマロンと一緒にいたいと思うことは、言わば俺のエゴだ。
自分勝手な望みでしかないのだ。
それではマロンを苦しめるだけだ。
……これで、良かったんだ。
雨はまだ降り続ける。
茶碗についた白飯は、もう既に乾燥し固くなっていた。
朝7時、俺は目を覚ました。
寝ぼけ眼をごしごしとこする。
「マロン、布団ちゃんと被ってるか……?」
習慣的に枕の上で頭を転がし、横を向いた。
しかしそこにマロンの姿はなかった。
……そうだった。
マロンはもういないんだった。
胸の中に切なさと悲しさが込み上げてきた。
……なんだかベッドから起き上がる事さえ面倒に感じる。
「いっそこのまま寝とくか……」
そう思った矢先、部屋中にチャイムの音が響いた。
「ピンポーン」
まるでゾンビのようにゆらゆらと体を起こし、玄関のドアを開ける。
「よっ!」
哲が立っていた。
「なんだよ朝っぱらから……
人のリラックスタイムを邪魔するな……」
「懐かしいなその単語!
いやぁ、マロンがいなくなって落ち込んでるんじゃないかと思ってさ。」
「落ち込むかよ。
元の生活に戻っただけだ。」
「そうか〜?
大分へこんでるように見えるけどな。
とりあえず、鏡見てきた方がいいぜ。」
「鏡……?」
「頭。
寝癖立ちまくりだぜ?」
洗面所でドライヤーとブラシを使って無理矢理寝癖を引っ張って直す。
……なんとか見れる位には直ったか。
鏡を見ると確かに哲の言うように、かなり酷い顔だ。
目の下にクマができ、髪はボサボサ。
こんな状態なのに、自分自身では気が付かないものなんだな。
部屋に戻ると哲が大きなポテトチップスの袋を持って待っていた。
「な〜、これ食べようぜ〜!」
「お前またどこから……」
「細かい事は抜き抜き!」
そう言って袋を開ける。
じゃがいもの香ばしい香りが部屋中に広がる。
「……仕方ない、付き合ってやる。」
二人でテレビを見ながらポテトチップスを頬張る。
「……なあ、お前さ。
本当は後悔してるんじゃないのか?」
「何をだよ。」
「マロンのことだよ。
本当はもっと一緒にいたかったんだろ?」
「だから何度も言うが俺は一時的に……」
「強がるなよ。
今のお前はそれを言い訳にして自分を慰めてるようにしか見えないぞ。」
「…………そんなことは………」
言葉が詰まった。
何も言い返せない。
「……だが、マロンはここにいるよりもあの夫妻の所にいる方が、幸せになれるんじゃないか?
俺はお前の言うように冷たい人間だし、犬を飼うことにも慣れてないし。」
「……それも言い訳にしか聞こえないな。」
「だったら言い訳でも構わない。
これは俺が決めたことなんだ。」
「……なら俺は何も言えないな。」
「じゃあそろそろおいとまするよ。」
空になったポテトチップスの袋をくしゃくしゃと丸め、哲が言った。
「ああ。
心配かけて悪かったな。」
「やっぱりお前マロンが来てから少しだけ変わったな。
昔は絶対そんなこと言わなかったもんな。」
そう言い残し哲は自分の部屋に戻っていった。
変わった……か。
マロンがいなくなってから初めて分かった。
俺は確かにマロンに会って変わったんだということを。
マロンがいなくなれば以前の生活に戻れると思っていた。
何も考えずに1日を過ごせると思っていた。
けれど実際はどうか。
俺はマロンがいなくなってから、ずっとマロンのことばかり考えている。
以前より料理が上手くなった。
……マロンに会って変わったことばかりだ。
俺は……
そんなことを考えていた矢先、玄関の扉からドンドン、という音が響いた。
雨のせいか………?
いや、そうではない。
どうやらドアの向こうから誰かが叩いているようだ。
慌てて玄関に向かい、ドアを開ける。
そこにはずぶ濡れの哲が、真っ青な顔をして立っていた。
「なんだよ、帰ったんじゃなかったのか。」
「ランディが………ランディがいなくなった………!!」
「いなくなった……?」
思わず俺は聞き返した。
哲は荒い息遣いで必死に状況を説明する。
「俺さ……部屋の窓の鍵を閉め忘れてたみたいでさ………
帰ったら……ランディが………」
「いなくなってたと。」
「そうなんだ……
どうしよう…!
外はこの雨だし……
街中で迷ってたりしたら……
もし車にでも轢かれたら……!
うわぁぁぁぁランディぃぃぃぃ!」
パニックを起こす哲。
「落ち着け!
この雨だ、そう遠くには行ってないだろ。
とにかく探すぞ!!」
ビニール傘を片手に俺たちは家を出た。
大粒の雨が傘を叩きつける。
「お前はあっち側を頼む、俺はこっちの道から探し始める!」
「わ、分かった!」
酷い雨で視界は最悪、周囲の物音すら轟音が掻き消している。
「くそっ!
おーい!ランディーー!!」
大声を上げるが、この豪雨の中では恐らくランディに声が届くことはないだろう。
「仕方ない、地道に足で探すしかないか。」
俺は傘をたたんで走り出した。
服を、体を雨が濡らしていく。
シャツが肌に貼り付き気持ち悪い。
だが、俺はもう失いたくない。
マロンも、そしてランディもだ。
初めてランディと会ったとき、俺はただ「吠え癖のある鬱陶しい犬」位にしか思わなかった。
犬なんてただ邪魔なだけのものだと思っていた。
だがマロンと出会ってから、どうだろう。
犬もきちんと感情があって、その行動には何らかの意味があることを知った。
そして理解した、ランディが吠えるその意味を。
「………ランディ……。」
この前ピクニックで訪れた公園。
そこに、ずぶ濡れで座り込むランディがいた。
「ランディ!」
急いで駆け寄る俺。
それに気づいたランディはこちらを向き唸り声を上げた。
「ううぅぅぅ!!!」
構わず近づく俺。
「わんっ!わんわんっ!!」
ランディは激しく吠えたてる。
それでも俺はランディに向かって歩みを進める。
「がぅぅぅぅ!!」
ランディは声をあげ俺の右手に噛みついてきた!
激痛が走る。
「……ランディ!」
俺はランディを抱え込んだ。
もう逃げ出せないように。
ランディは俺の右手をくわえたままだ。
血が雨と共に草を濡らす。
「ごめんな、ランディ。
お前は本当は、哲に近付いてほしくないだけだったんだよな。
俺やマロンが哲と楽しそうに話すのを嫉妬してただけなんだろ?
最近は哲が俺やマロンに構いっきりだったから、愛を確かめたくて逃げ出したんだろ?
……大丈夫だよランディ。
お前が思っている何倍も何十倍も、哲はお前の事を愛してる。
それに、俺達もだ。
ランディ、お前はみんなに愛されてるんだよ。」
するとどうだろう。
右手に噛みついていたランディの顎の力が、ふっと抜けたのだ。
そして俺の右手を離すと、ゆっくりと俯いた。
まるで反省する子供のように。
「……ランディ!!」
後ろから声がした。
……哲だった。
「ちょうど良かった。
ランディが見付かったぞ……」
そう言い掛けた時、哲の怒号が響いた。
「馬鹿!!」
今までのへらへらとしたものとは違う、初めて聞く哲の怒りの大声だった。
「お前、どれだけ俺が心配したと思ってるんだ!!
俺だけじゃない!!
こいつだって、お前を必死に探してくれたんだぞ!!
どうして……お前は……」
そう言って哲は崩れ落ちるように膝をつき、ランディを抱き締めた。
雨でずぶ濡れになったその腕で。
病院で傷の手当てを受けた俺はカウンターで会計を済ませていた。
「すまないな、怪我させちまって……。」
哲が珍しく反省の色を見せている。
「謝るなよ、お前らしくない。
怪我も大したことなかったしな。
ランディだって俺を傷付けるために噛んだ訳じゃないだろ。
俺に近付いてほしくないから、追い払うために噛みついただけだ。」
「……そうか。」
「お前こそ、もうランディに愛想つかされないようにもっと可愛がってやれよ。」
「当たり前だろ。
ランディは俺の相棒だからな。」
相棒………か。
……俺はこの傷を通して、ランディに教えられたような気がする。
ランディの幸せ、それが哲と一緒にいることだったのと同じように、
俺の幸せ。
それはマロンと一緒にいることなのだということを。
もう今の俺にとっては、ただ退屈な日々など、もう幸せの内には入らない。
マロンがそばにいて、ただ尻尾を振って俺に付いてきてくれる。
俺がマロンの世話をして、それにマロンがとびきりの笑顔で応えてくれる。
こんなちっぽけで、本当に何気ない事こそが、今の俺にとっての幸せなのだと。
会計を終えた俺は哲と共に病院を出た。
雨はもうすっかり上がっていた。
時計を見るともう6時になろうとしていた。
外は雲と日没で真っ暗になっている。
「マロンに、会いに行こうと思う。」
俺は哲に言った。
「……そうか。」
そう言うと、哲はどこからともなく一枚のメモを取り出した。
そこには住所と地図が書かれていた。
「……もう『どこから出した』なんて下らない質問はするなよ。」
「ああ。
ありがとうな。
お前には本当に感謝してる。」
「別に感謝されるような事は何もしてないよ。それにしても、いつ行くつもりなんだ?」
「そりゃあすぐにでも行きたいが、向こうの都合ってのもあるしな……。
明日か明後日位に……」
「心配するな、絶対そう言うと思って夫妻にはもう連絡してあるんだ。
今すぐ、行ってこい!」
「……分かった。
お前の事は一生……忘れないよ。」
「今生の別れみたいに言うなよ!
相変わらずひでぇ奴だな。」
そう言って哲は笑っていた。
「ここか……」
バスと電車を乗り継ぎ、示された場所に辿り着いた
既に時計は9時を回っている。
辺りには街灯はちらほらと立ってはいるものの、照らし出されるものは草むらと田んぼばかりで、まさにのどかな田舎、といった具合だ。
そしてそんな中に佇む、一件の家屋。
そこはなかなか立派な白い屋根の一軒家だった。
「おや、いらっしゃい。」
聞き覚えのある声だった。
……昨日マロンを迎えにきた、あのおばさんだった。
「哲ちゃんから連絡を貰ってねぇ、待ってたのよ。
ささ、こっちこっち。」
おばさんに案内されたのは何故か玄関ではなく、家の裏庭だった。
「一体……」
俺がおばさんに尋ねようとすると、おばさんは静かに、と合図をした。
そして庭の奥の方を指差す。
……何か動くものが見える。
少し近付き、よく目を凝らして見てみる。
………マロンだ。
そこには直立不動のまま空を見つめ続けるマロンの姿があった。
「家に来てからずっとああなのよ。
きっと待っていたんでしょうね、あなたを。」
……そうか。
会いたいと思っていたのは、俺だけじゃなかったんだ。
マロンも、俺が迎えに来てくれることを信じて、待ち続けていたんだ。
「やっぱりあの子は家では預かれないわ。
だって、あんなにも健気にあなたを思い続けているんですもの。
さあ、行ってあげなさい。」
おばさんが俺の背中を押した。
「ガサガサッ」
俺の足が草を踏み締めた音に、マロンはビクンと反応し、そして振り向いた。
1日ぶりに見る顔。
だった1日会えなかっただけなのに、とても長い間会ってなかったような気がする。
お互い顔を見つめたまま、しばらくの間沈黙が続いた。
「……待たせて悪かったな。」
しばらく考えた末、こんな言葉しか出てこなかった。
するとマロンは目に涙を溜め、そして俺に抱き着いてきた。
今までで一番強い力で、シャツを引っ張られた。
その小さな手は震えていた。
「ごめんな……。」
俺もマロンを抱き締めた。
体にマロンの体温が伝わってきた。
とても、とても暖かかった。
……俺はマロンと出会って知った。
一人ではないことの喜びを。
そして、本当の幸せは気付かないほどに何気ない、ささやかなことなのだということを。
いつの間にかマロンは泣き疲れて俺の腕の中で眠っていた。
幸せそうな寝顔だった。
俺は空を見上げた。
マロンの見ていた空だ。
雲は既に消え去り、一面に綺麗な星空が広がっていた。
まるで、俺の住んでいた町の、無数の家々の明かりのように。
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犬が人間と同じような姿をしている、そんな世界のお話。 | ||
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