蒼に還る夏(改)第1話 − The Glacial Period −
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第1話 − The Glacial Period −

 

オールが軽やかに水を斬り、黒いゴンドラが海面を静かに滑っていった

 

小さな水上建築の前で、一人のウンディーネが黙々と船を操っている

 

オールに弾かれた水しぶきが初夏の日差しにきらきらと宝石のように眩しく輝いた

 

それはそのウンディーネの長く編まれた三つ編みの金髪の輝きととてもよく似ていた

 

ゴンドラの残す静かな航跡に黒い影が割り込むと威勢のいい声が海上に響いた

 

「ようアリシア!あいかわらず一人でしけた練習してやがんな!」

 

長い黒髪をなびかせた少女が黒いゴンドラの上で仁王立ちのまま雄雄しくのたまった

 

「一人ぼっちじゃ可哀想だから今日も嫌がるアテナを無理矢理連れてきてやったぜ!」

 

居丈高に宣言する少女の背後で褐色の肌の少女が眠そうな顔のまま小さく手を振る

 

そのしぐさは「自分が晃を連れてきた」とこっそり告げていた

 

アリシアは二人に柔らかな微笑を返すとデッキに佇む女性を振り返った

 

「グランマ、アテナちゃん達と合同練習に行ってきます」

 

アリシアの問いかけにグランマは笑いながらゆっくりと席を立った

 

「いってらっしゃい、私もそろそろお客さんとの予約の時間だわ」

 

その背を追うように直立不動の姿勢の晃が声をかける

 

「偉大なるグランマ!どうか立派な海の女になるための教えを私達に!」

 

アテナは後日、その時の晃の姿は体育会系(男子)にそっくりだった、と密かに打ち明けた

 

晃の声にグランマは笑顔のまま振り返る

 

「海の事は海の男に学ぶのが一番よ、今日は思い切って遠出をしておいでなさい」

 

「グランマー!どうか教えをー!」

 

コミカルな晃の悲鳴に笑いを堪えきれず小さく吹き出しながらグランマは自分のゴンドラに向かっていった

 

「今日も楽しい一日になりそうね・・・」

 

そうつぶやくグランマの視線の先には眩しい蒼い空と清清しい白い雲が広がっていた

 

 

 

  

グランマの白いゴンドラを3人で見送った後、晃は満面の笑顔で振り返り親指を立てて2人にウィンクした

 

「よし!本日もグランマの笑顔ゲット!」

 

ウンディーネなら誰しも憧れる”グランド・マザー”

 

その大きすぎる存在感ゆえに、気さくな付き合いと疎遠になりがちなグランマを笑わせる事が晃の楽しみの一つだった

 

「晃ちゃんはグランマのお気に入りね」

 

自分も嬉しそうに微笑みながらアリシアが晃の労をねぎらう

 

「・・・グランマは晃ちゃんが来るまで待っててくれたみたい」

 

それまで沈黙を守っていたアテナがポツリとつぶやく

 

「グランマはアテナちゃんのカンツォーネも毎晩楽しみにしているのよ」

 

夕闇の迫る宵に、アテナが一人船上で奏でる謳は彼女達の静かな安らぎだった

 

「男はともかくあたし達もそろそろ長距離に慣れなくちゃいけない」

 

晃が表情を引き締めて話を締める

 

ウンディーネの観光ゴンドラはネオ・ヴェネツィアの街中水路の巡回ばかりとは限らない

 

ネオ・ヴェネツィアの多島海にはさまざまな美しい風景があり、それに埋もれる様に産業遺跡が点在している

 

それら遠方の名所を希望する深い趣味をもった観光客もいた

 

廃墟美という芸術は遙か昔に地球で既に完成されていた分野だ

 

ウンディーネにとってそういった見る目のある観光客は特に心して案内しなければならなかった

 

海の流れを乗り切る漕ぎ手としての実力だけでなく、時の流れに佇む深い趣を理解する心も試されるからだ

 

同世代の中でも卓越した実力を誇る彼女達3人は既にネオ・ヴェネツィア市中はマスターし

 

シングルでありながらほぼプリマと同等の上級者向けの技量に挑み始めていた

 

「確かにあたし達はネオ・ヴェネツィアの街についてはほぼクリアしたわ!」

 

そこで晃は重々しく言葉を切る

 

「しかしあたし達のご先祖様がこの美しいAQUAを作り上げた頃のことはまだまだ知らない!」

 

晃はドン!と片足でゴンドラの前板を踏みしめると天を指差してポーズを決めた

 

「それこそが地球のコピーではない美しさ、時が育んだAQUA独自の美しさなのよ!」

 

晃の熱のこもった迫真の演説とは対照的にアリシアとアテナがほわんとした笑顔でパチパチと拍手を送った

 

「・・・とゆー訳でグランマの言うとおり今日は遠出するわよ!総員出撃準備!」

 

晃は以心伝心であまりにも途中をはしょっていきなり結論を二人にぶつけ、一方的に同意を求めた

 

「うふふ、ちゃんとお弁当3人分作ってあるわよ?」

 

「・・・飲み物も持って来ておいた・・・」

 

アリシアとアテナのゴンドラには既に準備が整っていた

 

「もしかして知らなかったのはあたしだけ・・・?」

 

自分が一方的に置いていかれていたことに気がつき晃が半眼で二人を睨んだ

 

しかし二人はその視線をあっさりとスルーするとするりとゴンドラを漕ぎ始めた

 

「それじゃあ晃ちゃんはアリア社長をお願いね」

 

微笑みとともにアリシアは滑るように先に立ち、アテナがそれに続く

 

「あ!おい!ちょっと待てってば!」

 

気が付いた時には一人だけ身軽な晃のゴンドラの中に、もちもちぽんぽんの火星ネコがちゃっかり乗り組んでいた

 

 

 

 

[管理局より ORC−τ−107へ 通信求む]

 

管理局が設置したピケットラインの中継ブイから圧縮された超音波シグナルが届いた

頭部に埋め込まれた知性ユニットがそれを解読し私に伝える

私はナノマシン製のコンフォーマルアンテナで覆われた2m以上ある背鰭を海面上に突き出すとリンクを繋いだ

[A/Cエリア境界を観光ゴンドラ3隻が越境しつつあり、アダンカスより守護を引継がれたし、ポジションは・・・]

私の脳裏に海域マップが浮かびそこに目標の情報が重なる、

現在位置、海流との合成移動ベクトル、将来予測位置・・・

[了解]

最低限の短い通信の後、私はたっぷり空気を溜め込んで深く潜った

普段ならこんな仕事は回ってこない

近海に出る観光客の守護はトランセタス・イルカのやることだ

だがアクア・アルタの時期はそうもいっていられなかった

ただでさえ広いネオ・アドリア海は警戒度の引き上げで更に広くなる

本来このあたりの海域を守るレジデント・オルカの群れはネオ・ヴェネツィアの漁師達を守護して散らばってしまっている

またA・エリアに張り付いているアダンカス・イルカをC・エリアに連れてくるわけにも行かなかった

オフショア・オルカ達は遙か沖合いにいる漁業船団に専属しているから最初から戦力外だ

つまり手が足りない分は私のようなトランジエント・オルカでカバーするしかなかったのだ

もっとも観光の閑散期であるこの時期に観光ゴンドラが沖合いに出てくることはまず無かった

今回のことはかなり珍しいイレギュラーといっていい

 

そして私はそのイレギュラーに今まで感じたことの無い胸騒ぎを覚えていた・・・

 

 

 

 

「すわっ!」

 

掛け声と共に晃のオールが一際強く水を捉え、他の2隻より半身抜きん出てブイを横切った

 

「わはははは!アリシア、アテナ、参ったか!」

 

勝ち誇る晃のゴンドラの舳先でアリア社長がなにやら勝利の舞を舞っている

 

「あらあら、晃ちゃん、ゴールはあの岬よ?」

 

アリシアは頬に手を当てて不思議そうに首を傾げた

 

「ぬな?!そういうことはスタートする前に言いな!」

 

晃の自分の事を棚に上げた抗議にアテナがほんわかと突っ込みを入れる

 

「・・・そもそもいつスタートしたのかわからない」

 

いつの間にか始まったゴンドラ競争のゴールラインはそれぞれ勝手に決めていたらしい

 

そして表情を変えぬままアテナもオールを持つ手に力を込め晃を抜き去った

 

「ぬう!それじゃゴールはあの岬!負けたやつが1曲謳う!OK!?」

 

晃は再び力を込めて漕ぎ始めながらルールを宣言した

 

「それじゃ私もがんばらなくちゃね」

 

晃の宣言を聞いてアリシアも微笑を浮かべたまま手に力を込め始めた

 

 

 

 

「うふふ、わたしが1位みたいね」

 

優勝を宣言するアリシアの微笑みを晃は半眼で睨みつけた

 

「準準優勝・・・」

 

マイペースなアテナがのほほんとつぶやく

 

結局あの後ゴールラインは延長を繰り返され、3人はいつの間にかかなり遠くの島の岬にまでたどり着いていた

 

「今日のところはこれで勘弁してやる!」

 

そう準優勝の勝利と敗北の宣言をしながらゴンドラにドスンと腰掛ける晃を2人は微笑ましい目で見ていた

 

「さすがにおなかがすいたわね、ここでお昼にしましょうか?」

 

岬の手前の砂浜を指差すアリシアの提案にアリア社長が飛び跳ねて賛意を示す

 

太陽は天頂に達しつつあった

 

「それじゃあアテナの罰ゲームは昼飯の後な」

 

そういって晃は勢いをつけてゴンドラを浜の柔らかい砂にのし上げた

 

アリシアとアテナがそれに習い、手近な岩にゴンドラを結わえ付ける

 

アリア社長は早くも昼食のバスケットを身体一杯に抱えて心地よい日陰に陣取っていた

 

 

 

 

ひとしきり騒がしい昼食の後、砂浜には静寂が訪れた

 

ただ打ち寄せる波の音を聞きながら晃はポツリとつぶやく

 

「3人一緒にプリマになれるといいな・・・」

 

いつもと違う晃の静かな口調に二人は返事を挟まずに耳を傾けた

 

「でもプリマになったらこんな日は滅多になくなるだろうな・・・」

 

晃がようやくこぼした本音にアリシアはそっと微笑んだ

 

「大丈夫・・・」

 

滅多に見せない晃の寂しげな表情を見てアテナが慰める

 

「いつも海で繋がっているから・・・いつも同じ海にいるから・・・」

 

それを聞いていた晃が不意に不敵な笑みを浮かべるとすっくと立ち上がりフルスイングで叫んだ

 

「すわっ!それじゃ罰ゲーム開始!1番アテナ、謳えーーー!」

 

砂浜に晃の雄叫びと岩場をよじ登っていて晃に貝殻をぶつけられたアリア社長の悲鳴が響いた

 

「ぷいにゅ〜〜〜!!!」

 

 

 

 

”いい音だ、そしていい声だ”

 

素直にそう思った私はブイの手前から気配を消して3隻のゴンドラをそっと見守ってきた

見習い用の黒いゴンドラは普段見かける白いゴンドラと全く遜色ないほどのスピードで疾走していた

なによりもそのオールの水を斬る音は実に心地よかった

海の中であらゆる音を聞いて生きている我々にとってそれだけで並外れた技量の持ち主とわかるのに十分なほどだ

3隻のゴンドラは随分長い時間漕ぎ続けていたがある岬のところでようやくその船足を止めた

どうやらそこが目的地らしい

私は岬の反対側に姿を隠し彼女らの休息が終わるのを待つことにした

 

やがて忘れられない美しい謳声が響き始め、私は知らぬ間にそれに吸い寄せられていった

 

 

 

 

お気に入りのマンマ「NYANMAGE DX」でもちもちぽんぽんを一杯にしたアリア社長は

好奇心に任せて岬の岩場をよじ登っていた

 

「好奇心は猫をも殺す」この言葉は火星の猫達には伝えられなかったのだろうか?

 

先ほど晃に危険な好奇心を痛い貝殻で止められていたが懲りていなかったらしい

 

アリシアも晃もアテナの謳声に耳を傾けアリア社長の冒険には気がついていなかった

 

彼女達はアテナの謳う歌声に魅せられていた、そしてもう一つの存在も・・・

 

アリア社長は猫とは思えぬ重たい身のこなしで苦心惨憺の後ついに突き出た岬の突端に上り詰めた

 

ついにやった!もちもちぽんぽんが頂点を極めたのだ!

 

アリア社長はその小さな感動に打ち震え叫びだしたい高揚感に包まれていた

 

だがその叫びは別の震えで叫ばなければならなくなってしまった

 

アリア社長はうっかり下を見てしまいその高さを知ってしまったのだ

 

そしてもう一つ、その海面に突き出ている巨大な鰭を見てしまったのだ・・・

 

 

 

 

「ぷいにゅ〜〜〜〜〜!!!!!!」

 

突然、私の頭上からマヌケな泣き声と共に何かが落ちてきた

我に帰った私は彼女達に近づきすぎてしまったことを悟った

自分の落ち度を責めるのは後回しにして私は意識を目の前のそれに集中させることにした

接近しながら目標にごく弱いクリックソナーを浴びせ、その形状と内部構造を把握した

”目標は火星ネコ、恐慌状態と推測、ゴンドラに動き無し”

近くにいるかもしれない救助イルカにコールを送る、しかしやっと返ってきた回答はかなり遠かった

”至急到達可能範囲内に救助イルカの存在無し、目標救助代行の要を認む”

 

[最優先]

 

知性ユニットが発したアラートを認識した瞬間から”私”の中で何かが変わった気がした

怯えさせないようにそっと潜ると、尾鰭の一掻き二掻きで目標の真下に占位する

じたばたあがく火星ネコを静かに頭に乗せてやるとやっと漕ぎ出してきたゴンドラに泳ぎ寄せた

近寄ってきたのは1隻のゴンドラだけだった

どうやら間に合ったのはそれだけらしい

火星ネコを私の頭上から抱き上げた人間が何かかん高い声で叫んでいる

私はコミュニケーターの力を借りなければ人間の言葉がわからない

救助イルカは人間の言葉を話すことは出来ないが聞くことは出来た

人間の救助とAQUAのマスコットが任務の彼らにとっては不可欠だったからだ

 

愛される為には必要な能力だ

 

しかし我々には不要なものとして与えられていなかった

それでも船べりから身を乗り出した別の彼女は私に話しかけてくる

言葉はわからないのになぜか彼女が喜んでいることだけははっきり感じた

 

  

  

  

  

よかった、と思った

  

  

  

  

  

ふいに彼女が私の頭に触れてきた

頭部の複合センサーを触られて私はとっさに身を翻し深く潜るとその場を去った

潜りながら自分のミスを管理局に報告し、私の代行に救助イルカを送ってくれるよう要請した

 

 

 

 

「ぷいにゅ〜〜〜〜〜!!!!!!」

 

アリア社長の悲鳴に3人は意識を謳から引き戻した

 

その直後に岬の突端の影から聞こえた水音で何が起こったのかは容易に想像がついた

 

とっさに駆け出した晃が手近なゴンドラに取り付き懸命に押し始める

 

いつの間にか潮の引き始めた砂浜にゴンドラは沈み込み想像以上の重みを感じる

 

晃はそれぞれ別々のゴンドラを押している他の二人を呼び寄せた

 

「1隻でいい!3人で一緒に押すのよ!」

 

3人がかりでゴンドラを海に押し出し、素早く飛び乗ると最高の力で漕ぎ始める

 

岬を回った瞬間、彼女達のアリア社長を案ずる不安は凍りついた

 

水しぶきを上げて溺れるアリア社長

 

そしてその背後から音もなく近づく人の背よりも高い黒い背鰭・・・

 

「あ・・・あ・・・ああ・・・」

 

現実を認めたくないあまり漕ぐ手を止めてしまう晃

 

それは命を守ることを放棄する行為

 

しかしアリシアは一瞬の硬直の後、晃に向かって叫んだ

 

「このまままっすぐ漕いで!大丈夫だから!」

 

「お、おまえ、なにを言ってるんだ・・・?!」

 

現実を受け入れられない故に前に進めない晃の手からオールを奪うと

  

アリシアはアリア社長と巨大な背鰭めがけて漕ぎ始めた

 

アリシアの悟ったことに気づいたアテナが船べりから身を乗り出す

 

アリア社長は巨大な黒い影の上にしがみついたままゴンドラに合わせるように停まった

 

硬直していた晃はその瞬間、我に帰って素早くアテナをゴンドラ側に引き戻すと

 

鷹が兎を仕留めるようなスピードでアリア社長をすくい上げた

 

「これで大丈夫ね」

 

ほっとしたアリシアの穏やかな声を耳にして晃は激昂しかけた

 

「なにをいってるんだ!?相手は鮫だぞ!早く逃げなきゃ!早く・・・」

  

「大丈夫・・・」

 

強い口調の晃の声をアテナの柔らかな声が遮る

 

「この子はシャチさん・・・」

 

「・・・・・・・・・・・・・・・え?」

 

絶句したまま晃はゆっくりと体ごと視線をそれに向けた

 

その背鰭はゴンドラに立っている自分の身長ほどもある

 

その体躯の大きさはゴンドラを遙かに上回る

 

その黒い体の頭の辺りに白い大きな模様が見えた

 

きっちり十秒、それを見つめ続けた晃は腰が抜けたようにへなへなと座り込んだ

 

「お、脅かしやがってこの鯨め・・・ステーキとベーコン、どっちで喰ってやろうか?」

 

アリア社長の命の恩人に随分と酷いジョークを投げかけて彼女は元気と落ち着きを取り戻した

 

「ありがとう・・・」

 

アテナは静かに優しくシャチに語りかけた

 

彼女の知識には火星イルカが人の言葉を聞き取れるとあった

 

もしかするとこのシャチも言葉がわかるかも知れない

 

たとえ言葉は通じなくても想いは通じる、なんの確証もないのになぜか確信を感じた

 

「それにしても立派なシャチね・・・」

 

アリシアが黒い背鰭を見上げながら感嘆の言葉を漏らす

 

一瞬でそれをシャチと見抜いた彼女の知識と洞察力を持ってしても目の前のシャチは驚くほどの存在感だった

 

視線を下げ、艶やかに照り返す黒い身体を見つめていたアリシアの表情が不意に曇った

 

背鰭の前縁部に沿って走る一条の艶の無い黒い金属色、それは明らかに人工的な何かだった

 

他の皮膚と見分けがつかない広大な背鰭も8角形や6角形の幾何学模様で埋め尽くされている

 

そして美しい滑らかな曲線を描く体躯に描きこまれた白い文字

  

「酷い・・・」

  

アテナはそれが意味する真実に気づきそっと手を伸ばしシャチの頭を撫でた

 

そんなアテナの想いとは裏腹に、手を触れた刹那、大きな水音を立ててシャチは深い海に姿を消した

  

 

 

 

 

 

彼が残した証は、彼の尾鰭がアリシアのゴンドラの手摺りに刻んだ深い傷跡だけだった

 

 

 

 

アリシア達が帰り着くまで数頭のイルカがひっきりなしにゴンドラの周りを泳いでいた

 

やがてアリアカンパニーにたどり着いた時、3人は僅かな異変を感じた

 

いつもの笑顔のまま3人の帰りを迎えてくれるグランマの傍らに見慣れぬ制服を着た青年が佇んでいた

 

ゴンドラを繋ぎ終えるとグランマは3人をフロアに招きいれた

 

薫り高い紅茶が5つ、ミルクが1つテーブルの上に並ぶ

 

その香りを僅かな間楽しんだ後グランマが話を切り出した

 

「こちらは海洋管理局のトレーナーの方よ」

 

穏やかな声の紹介を受けて制服の青年が起立し、アリシア達に深々と頭を下げた

 

「今回は当方管理下の装備が大変なご迷惑をおかけいたしました、

 そのことについて管理局からお詫びに参上いたしました」

 

聞きなれない言葉に途惑うアリシア達にかまわず青年は続けた

 

「あの装備にはあなた方のC・エリアでの航海の守護を任せていたのです、

 それがかえって脅やかすような結果になってしまって・・・誠に申し訳ありません」

 

その言葉には確かな誠意がこもり、その謝罪が役所の手続き上の行為でないことは

誰でもはっきりと感じ取ることができた

 

しかしアリシアの胸中にはどうしても納得できないわだかまりが生まれていた

 

 

 

「なぜあのシャチさんを「装備」と呼ぶの?」

 

 

 

アリシアはほんの一瞬、その言葉が自分の口から出たものと錯覚した

 

アリシアの隣に腰掛けたアテナがいままで見せたことの無い冷たい視線で青年の視線を捕らえていた

 

「・・・・・・・・・失礼しました、あの”オルカ”は人々の安全を守るために我々が配備・・・

 いえ、育て教え、そして導いたものなのです」

 

その後も管理局の青年の謝罪は続き、最終的にグランマがそれを受け入れた

 

だがアテナはその間ずっと、ほとんど上の空で話を聞いてはいなかった

 

 

 

 

すっかり初夏の日の暮れた夕闇の中、帰路につこうとする青年をアリシアが呼び止めた

 

「トレーナーさん」

 

「はい・・・何か・・・?」

 

不審そうに振り返る青年にアリシアはためらいながらも切り出した

 

「彼に・・・あのシャチさんにもう一度会わせてもらえないかしら?」

 

「・・・・・・・・・」

 

困惑の表情で口をつむぐ青年にグランマが助け舟を出す

 

「今すぐご返事を、といっても困るでしょうね、お返事は後日で結構ですよ、

 ・・・そうそう管理局の局長さんには"グランド・マザーからのお願い”と伝えていただけますか?」

 

伝言の真意を悟った青年が表情を固くして了解の旨を返し静かに立ち去っていった

 

晃はそのやりとりの間、ずっと憮然とした表情で顔を背け、青年を見ようともしなかった

 

 

 

 

[気にすることは無いよ ORC−τ−107]

 

数日後、ネオ・ヴェネツィアのドックに呼び戻された私を待ち受けていたのは叱責ではなく激励だった

[確かに君らしからぬミスだが、誰にも被害は及んでいない、ただちょっと驚ろかしてしまっただけさ]

コミュニケーター端末を介していつものトレーナーの青年が陽気に話しかけてくる

[理由は何であれ、あれは私のミスだ、何らかの罰則の適用が必要だ]

私の回答に青年は笑って返してきた

[じゃあ、お望みの通り罰を与えようか?当分の間、君は出撃禁止だ]

やむをえまい

狭いドック内で過ごすのは苦痛だし、何よりも仲間達が忙しい最中に欠員を出すのは良心の呵責を感じる

しかし守るべき人間達に恐怖を味あわせた罪は必ず贖わなければならない、

それは私自身のけじめとして”私が私に望む私の意志”だ

[ついでに禁固刑じゃなく懲役刑にしてやろう、少しギャラリーの相手をしてもらうよ]

私の呵責とは対照的な明るい声でトレーナーは理解不能な言を発した

ギャラリーだって?私を観光客相手のイルカ代わりに使うつもりか?我々オルカの存在は外部に隠蔽すべきはずだが?

[実は先日のウンディーネ達が君をご指名でね]

もはやトレーナーの戯言は良識を疑うレベルだった、だがこちらの混乱を無視してトレーナーは一方的に話し続けた

[しかも要望の主は”グランド・マザー”だ、海洋局も観光局の重鎮の要望は断れない]

”グランド・マザー”?あの圧倒的な操船技量の持ち主が私に何の用があるというのだろう?

棲んでいる世界が違う以上、いかに私に蓄積されたデーターとはいえ役には立つまい

[どのみち君は最新鋭のナノマシンに換装する予定だったんだ、それがちょっと早まっただけさ]

今度の理由は理解可能だった、私はトランジエント・オルカの中でも最精鋭の「α個体」だ

新型ナノマシンのテストベッドに出来る限り優秀な個体を用意したいのは当然のことだろう

[そんな訳で君には換装の期間中、彼女達の遊び相手になって欲しい、3週間の休暇さ]

 

トレーナーの無邪気な笑い声が、その時の私には堪らなく苦痛だった

 

 

 

 

「ようこそ、お待ちしておりました、”グランド・マザー”」

 

管理局局長が恭しくグランマを出迎え、随伴したアリシア達にも席を勧めた

 

局長室の上品だが簡素なソファーもグランマには自然な姿で似合った

 

テーブルの上にコーヒーが5つとミルクが1つ、やがて先日のトレーナーが到着しコーヒーが6つ並んだ

 

「それで本日お越しのご用件とは?」

 

局長はにこやかに切り出した

 

「あら?そちらのトレーナーさんからは”面会”についてご了解いただけたと伺っていますわ」

 

グランマが笑顔のまま問い返す

 

「ええ、もちろんそれは存じておりますとも、私がお伺いしたいのは面会の”目的”の方ですよ」

 

局長の口調に悪意は無かった、ただ純粋な困惑と疑念が込められていた

 

「そちらのお嬢さん方に怖い思いをさせてしまいましたことは重ねてお詫びいたします、

 ましてそちらの社長さんの味った恐怖感についてはお詫びのしようもございません」

 

局長とトレーナーは再び深々と頭を下げた

 

「そのことはもうよろしいのです、こちらの誤解もあるのですから」

 

恐縮する二人に向かってアリシアが言葉を挟む

 

「お許しいただけてありがとうございます」

 

局長は感謝の念を込めて答えを返した

 

「ただあのシャチに会いたいだけなんだよ」

 

唐突に晃が投げ捨てるように言い放った

 

本来なら失礼極まりない態度だが局長の泰然とした笑顔には微かな変化すら起らなかった

「では”τ−107”に会って何をなさりたいのですか?」

 

かわりに今度はトレーナーが口を挟んだ

 

トレーナーがシャチをシリアルナンバーで呼んだ時、晃は露骨に顔をしかめた

 

重い雰囲気がその場を満たす

  

「・・・・・・”彼”が泣いているような気がして」

  

気まずい沈黙の中、アテナが呟く様に漏らした言葉が室内に異様に響いた

 

アテナの言葉に今まで平静を崩さなかった局長が隠し切れない怪訝な表情を浮かべるのは4人全員が気づいた

 

しかしその傍らでトレーナーが微かに目を細めるのに気づいたのは一人だけだった

 

テーブルの上に並べられた2つのコーヒーと1つのミルクは空になったが、4つのコーヒーは最後まで手付かずのままだった

 

 

 

 

「ではこれからあのオルカのいるドックにお連れします、まずこれをお付けください」

 

トレーナーはアリシア達に小型軽量のヘッドセットを手渡し、目の前で自分もつけて見せた

 

「オルカはイルカと違って人間の言葉を聞き取れるようにはしていません、

 そのため会話にはこのコミュニケーターを介する必要が有ります」

 

そういいながら4人の装着状態をチェックしていく

 

「これはオルカがイルカに対して知的に劣っているからではありません、ただ必要ないだけです

 トランジエント−αは強化により全てのイルカとオルカの中でも最高峰の頭脳を持っています

 部分的な能力に限定すれば人間の知能をも遙かに超えており、IQ240以上を発揮します」

 

想像を超えた答えに晃は絶句した

 

「なにしろ最近の”彼”は地球の北欧神話に凝っているほどですからね」

 

そういってトレーナーは屈託なく笑う

 

しかしアリシアはそれとは裏腹に沈んだ気持でいた

 

 

 

それほどの”心”を閉じ込められてどんな世界を味わっているのだろう?

 

 

 

俯いて瞳を閉ざすアリシアの肩をアテナがそっと叩く

 

顔を上げたアリシアはアテナと視線を絡めると小さく頷いた

 

「さあどうぞ、このゲートの向うがドックですよ」

 

トレーナーの声と共に水密シャッターが開き外界の眩い光が差し込んだ・・・

 

 

 

 

 

  

  

そしてこの日から私と”彼”の思い出が始まったのです

 

第1話 終

説明
2006年8月「天野こずえ同盟」様にて初掲載、2009年4月「つちのこの里」様にて挿絵付き細部修正版掲載
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