蒼に還る夏(改)第3話 −The Younger Dryas Events− |
第3話 −The Younger Dryas Events−
誰もいない暗い部屋の中でディスプレイがほの暗い影を浮かび上がらせていた
ディスプレイはゆっくりと青い単調な輝線を描きつづけていた
長い間放置されていたそのさびしい部屋の中にかすかな影の揺らぎが起こった
その輝線にほんのかすかな揺らぎが起こった、だがそれはすぐに消えてしまった
そのディスプレイには草原のように優しい緑色で”アレス”という文字が映っていた
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彼女達はシャチのぬいぐるみを抱いたままネオ・ヴェネツィアの街に繰り出した
海に棲む彼に地上の姿を見せることがどれほどの意味を持つのかはわからなかった
しかしそれでも彼女達はネオ・ヴェネツィアの街に、人々に、世界に、彼を導いた
自分が何を守っているのか?それは何の為なのか?それは自分の意思なのか?
そのことを本当に知らなければ彼は自分に還る事はないだろう
それがグランマの助言だった
だから彼女達は彼を抱いたままネオ・ヴェネツィアの街に繰り出した
アクア・アルタの街は海に包まれ閑散としていた
街も海の蒼さで満たされていた
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アリシア達が私を連れ歩くようになってから数日がたっていた
彼女達にも来るべきプリマ昇格試験に備えての準備がある
だから毎日街を案内できるわけではなかった
私は地上の世界に強い興味を示した
貪欲なほどに情報を飲み込み続けた
合同練習のとき、私はアリシアのゴンドラに載せられていた
まるでアリシアのゴンドラの船首像のように飾られていた
夜はアテナが私を持ち帰った
もともと彼女が創ってきたぬいぐるみだからだ
アテナはぬいぐるみを抱いて眠った
まるで慈しむように、
まるで愛でるように、
まるで還ってきた者を自分の腕の中で眠らせるように、
アテナはぬいぐるみを抱いて眠った
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[今日だけ外出許可を出してあげるよ]
トレーナーは笑いながら言った、あまりにも唐突だった
[今日はボッコロの日だからね]
最近のトレーナーは様子が変わった
まだ旧式ナノマシンの除去作業が完了しただけだ
いままでならもっと効率よく事を進めていただろう
どんな心境の変化なのかわからなかったが、とりあえず目の前のことを私は聞いた
[ボッコロの日とは何の事だ?]
初めて聞く言葉の意味を問いただす私にトレーナーは悪戯っ子の笑みを浮かべた
[彼女達の誰かに聞くといいよ]
そして今度はしかめっ面で笑った
[だけど渡す相手は一人だけだぞ?いくら君が”さかまた”だからって二股や三股はいけないぜ?]
[・・・?]
泳ぎ出て行く後ろ姿を、煌く海面の眩しさに目を細めて見ながらトレーナーは呟いた
「さて・・・”どちら”が反応を起こすかな・・・?」
そしてディスプレイに目を落とすと、滑るようにコンソールの上で指を走らせ
明日以降、換装を予定されていたナノマシンの指定を書き換えた
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私は晃に聞いた
[晃、教えてくれ、ボッコロの日とはどういう意味だ?]
[それをあたしに聞くのか?!]
なぜか晃は怒った
仕方なく私はグランマにボッコロの日の起源を聞いた
その由来を知ると私の中で誰かが反応したような気がした
なぜだろう?心の中のどこかで救いを求める声が騒いだ
急き立てられるかのように私は外洋を目指してまっすぐ泳ぎ始めた
その背をグランマが悲しそうな目で追っていることには気づかなかった
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私はまっすぐに外洋を目指した
海に棲む私に薔薇のあてなどあるわけが無い
だがかわりに一つのアイディアが浮かんだ
海の薔薇のように鮮やかな朱色した珊瑚を知っていた
紅珊瑚、あれならば贈るのにふさわしいだろう
しかしそれは保護されている
だからほんのひとかけらだけを砕いて持ち帰った
薔薇の一片というよりもむしろ血の一滴のような赤さに見えた
海に血を流させてしまったような気がして心の中で海に詫びた
私はその紅珊瑚の一枝をアリシアに贈った
紅珊瑚の本当の名が「血赤珊瑚」だとは気づかなかった
そしてアリシアの瞳に深い悲しみが湛えられていることにも・・・
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夜が来た
晃はまだへそを曲げているらしい
人間の女性の心理は理解し難い
もう一人、理解し難い女性が私の隣にいた
アテナ
彼女のゴンドラが夕闇の迫る海で私の隣に浮かんでいた
[あなたの本当の名前は?]
奇妙な女性だと思った
私にはシリアルナンバーが設定されている
そしてそれは2度目に会った時に紹介したはずだ
なぜいまさらそんなことを聞き返すのだろう?
質問の真意を諮りかね、沈思黙考する私の脳裏に突然一つの言葉が浮かび上がった
”僕は「アレス」なのかもしれない・・・”
思考を吟味することもなく、私は思いついたことをストレートに彼女に伝えた
それが何故なのかは判らない
そしてなぜその思いが伝わったのか、その時は自分でも判っていなかった
彼女は遠い目をして夜空を見上げ、物思いに耽っている様だった
やがてそれの意味する真実に辿り着くと寂しげな笑顔で微笑んだ
[わたしがあなたに名前をつけてもいいかしら?]
[それはかまわないが、便宜上の仮称ならばトランジエントで十分ではないのか?]
彼女は再び微笑んだ、今度の微笑みに寂しさは無かった
[ジョーイ・・・]
そう彼女は呟いた
歓喜
それを人名にもじった名が彼女が私にくれた名前だった
[トランジエントは”儚い旅人”・・・いつかは離れ離れになってしまうから・・・]
彼女の手が私に伸びる
[でもあなたはわたしに還ってきて欲しい、だから・・・]
そう言いながら彼女は私の頭部を撫でた
僕はそれを拒まなかった
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その夜、ドックに戻った私はトレーナーに問うた
[聞きたいことがある、過去に私に「アレス」という仮称をつけたことはなかったか?]
トレーナーも微笑んだ
いつもの陽気な笑いではなく、なぜか微笑だった
だがその微笑には祝福と同情が同時に含まれているような気がした
[それは違うよ、君はあのままなら「アンタレス」になるはずだったんだよ、【ジョーイ】君?]
世界は優しくも無ければ善良でも、ましてお人好しなどでは決してない
人々の幸せを守るものがお人好しであることなど決して許されないのだ
それが正しいと判ってはいたが、僕は憮然とした気持ちでトレーナーとのリンクを切った
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何も変わらなくても時は流れる
何も変えたくなくても時だけは流れていってしまう
彼女達のプリマ試験がいよいよ迫っていた
彼女達にとっても今年の夏は特別な夏だった
ゴンドラが浮島を目指して登ってゆく
合格祈願を兼ねてわざわざ夜光鈴を浮島に買いに行くことになったのだ
もっとも本音は海を空から眺めてみたいという僕の希望をアテナが他の2人に頼んでくれたからだった
僕は生まれて初めての浮島に胸を躍らせていた
僕達を乗せたゴンドラが空の蒼さに近づいてゆく
陸の緑と街の茶色、そして海の蒼さが眼下に広がっていった
しかし僕はその光景のひろがりに奇妙な違和感を覚えていた
僕はこの光景を見たことがある、それもずっと遙かな高みから・・・
そんなことなどあるわけがないのになぜかそれは確信だった
海面がきらきらと宝石のように眩しく輝いていた
まるで戦乙女の髪の輝きのように
僕はそれに見とれ続けていた
突然ゴンドラの中で晃が僕に話しかけてきた
「なあジョーイ、あたし達は誰が合格するように見える?」
「君達はまるでノルンのようだね」
ぼーっとしていた僕は間の抜けた食い違った答えを返してしまった
「エッダ」には描かれていなかったが彼女達の美しい髪はノルンにふさわしかった
「はぁ!?」
案の定、晃が「何言ってんだこいつ?」という目で僕を見返した
僕はさぞかしからかわれるだろうと覚悟したがあてが外れた
晃はニヤリと怪しげに微笑むと僕を抱き上げよしよしとあやした
「そーか、そーか!おまえもこの晃様が運命の女神様に見えてるのか!」
晃の場合は似ているのは髪形だけ、と言いたかったが身の危険を感じてやめておいた
やがてゴンドラが浮島に着くと一面にアクアの世界が見渡せる桟橋へと躍り出た
浮島から見るネオ・ヴェネツィアの街は海の蒼さに包まれていた
浮島の上には世界の遙か果てまで空の藍さが広がっていた
しかし空の藍さの向こう側に宇宙の暗さがある事は誰も気づいてはいなかった
夜光石の輝きは海の中で見るときとはまた違って見えた
海の中で見るその光は星の光のように見えていた
でも空で見るその光はなぜか儚い魂の光に見えた
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誰もいない暗い部屋の中でディスプレイがほの暗い影を浮かび上がらせていた
ゆっくりと単調な線を描きつづけていた青い輝線が波を立て始めた
長い間放置されていたそのさびしい部屋の中に再び魂の揺らぎが起こり始めた
その揺らぎは海の波のような確かな息吹へと変わりつつあった
緑色で表示されていた文字の隣に血のように赤い警告の表示が浮かび上がった
それこそが始まりの知らせだった
第3話 終
説明 | ||
2006年8月「天野こずえ同盟」様にて初掲載、2009年4月「つちのこの里」様にて挿絵付き細部修正版掲載 | ||
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