蒼に還る夏(改)第5話−The Last Glacial Maximum Period− |
第5話 −The Last Glacial Maximum Period−
あの日以来、ジョーイは呼びかけに何の反応も示さなくなった
生命維持装置の力で命を持たされながら静かに浮かんでいた
まるで最後の時を待つように、彼はただ静かに浮かんでいた
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あの日、アリシアはアテナが取り乱す姿を初めて見た
取り落としたのはただのぬいぐるみだ
端末が入っていてもジョーイの身には何の危害も無い
そういって慰める晃の声もアテナには聞こえていないようだった
浮島を降りると夜が明けるのも待たずにそのままアテナ達はドックに向かった
しかしそこでアテナ達を待ち受けていたのは予想外の事態だった
ジョーイが呼びかけに答えることは無かった
アテナの泣く心もジョーイの中を通り抜けていた
そこの”在った”のはジョーイの心の抜け殻だった
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火星軌道の遙か彼方に小さな小惑星が静かに浮かんでいた
”エウレカ”
それがその小惑星の名前、火星トロヤ群小惑星の中の一つ
かつてアルキメデスが王冠に潜まされた偽りを暴き真実に辿り着く方法を見出した時に叫んだ言葉
ワープゲートすら設けられていないその辺境に火星の非公式の基地があった
エウレカの周囲には火星のマークをつけた酷く旧い地球型艦艇が僅かに停泊しているだけだった
それらの艦の中に1隻だけ真新しい艦が混じっていた
国籍マークも識別記号もない、明らかに人の気配の感じられないその艦がゆっくりと動き始めた
エウレカ・コントロールの制止も空しく、その艦は火星を目指して動き始めた
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あの日から数日がたった
プリマになれた喜びも今のアリシアには何の価値もなかった
アリシアはアリアカンパニーのカウンターに頬杖をつき、うつろな目で蒼い海を眺めていた
ジョーイの心はもうどこにもない
アリシアは自分の心の中に虚無が出来たことを感じていた
そしてそれはアテナと晃の心にも生じているのだろう
彼女達も別々の場所で海を見つめ続けているのだろう
きっと心の中に生まれた空っぽはこのままなのだろう
その時まではそう思っていた
彼女達はそう思っていた
”今夜一緒に星を見よう”
消えたはずのジョーイの心を感じてアリシアは席を立った
どんなに呼びかけても、もう返事は帰って来なかった
気がつくといつの間にかカウンターの通話機がけたたましい呼び出し音を鳴らしていた
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数々の追っ手を振り切り、罠の裏をかきながらその艦は火星に向かっていた
その艦は泣いていた
歓喜に満ちた悲しみと、悲劇に満ちた喜びに泣いていた
泣きながら生まれて初めて本当の心の言葉を呟いた
”必ず還る”
”アレス”は蒼い海に還ろうとしていた
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夜のアリアカンパニーのデッキに彼女達が集まっていた
グランマ、アリシア、晃、そしてアテナ・・・
彼女達は夜の静寂に支配されたデッキで明るいダイモスの光を浴びながら待ち続けていた
透き通った月の光が遮られた
夜空のどこにも雲は無かった
一瞬前まで何も無かったはずの空間に黒い影が浮かんでいた
全く光を反射しない巨大なエイのような漆黒の影は、その身を無音のまま水上に浮かべた
機上のハッチが音も無く開き、黒い人影が立ち上がるのが見えた
「あなた方のご協力に感謝致します」
静かで威厳のある声が夜の海に響く
そこにはかつて”局長”と名乗っていた男がいた
グランマは無言で頷くとタラップを降り機体に乗り込んだ
アリシア達も迷う事無くそれに続いた
あまりにも異様な体験のはずなのに、なぜかどうでもいい事としか感じていなかった
ハッチが閉ざされ”局長”が背後を振り向いた時、既に機体は無音で離水し姿を消していた
「こんなことに巻き込んでしまって申し訳ないですな・・・」
”局長”は溜息をつきながら弁明した、その目は力なく伏せられていた
「昼間お話しました通りτ−107も脱走しました、早急に手を打つ必要があります」
「どんな手を」
晃の声には殺意に似た敵意が込められていた
”局長”が雰囲気を変えると落着いた優しい声で晃に語りかけながら視線を合わせた
「”ジョーイ”を救う手ですよ、お嬢さん」
”本来の立場”で答える”局長”の氷の視線に耐え切れず晃は目をそらした
「詳しいお話を伺わせて頂けますか?」
グランマが静かに、しかし拒否できない重みを込めて問いかける
「全て・・・というわけにはいきませんが・・・」
”局長”はそういいながら前方のコックピットに繋がるドアを目で指し示した
「あなた達はこのキャビンで待っていてね、私にもわからないことばかりだから」
グランマはそう言ってアリシア達に微笑むとコックピットに向かった
グランマの目の前で地球製の特殊部隊用強襲揚陸艇のコックピットドアが開いた
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僕はまっすぐ海に還ろうとしていた
彼らが僕を引き止めようとしていたが無視した
もう僕は”私”じゃない
途中僕の進む道が幾度も邪魔されたが振り切った
僕の身体はほとんどいうことを利かなくなっている
彼らの言葉の力で外から縛られてしまったのだ
僕が自由にできる体の部分はほんの少しだ
その時既に目も耳も塞がれてしまっていた
でも僕には還り道がはっきりと判っていた
なぜなら僕の心は僕だけのものだから
なぜなら僕の心だけは僕のものだから
そして僕が僕を導いてくれているから
だから僕は呟いた
”必ず還る”
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操縦席には”トレーナー”と名乗っていた青年がいた
彼は機体を自動操縦に切り替えるとシートから身を起こした
”局長”が目配せして説明を促す
「我々には脱走した”アンタレス”の居場所がわかりません、しかし彼が何をしようとしているのかは判ります」
グランマは無言でその先を待った
「ある船が火星に向かっています、火星への衝突コースにのったまま・・・それを”アンタレス”が誘導しています」
グランマが初めて口を開いた
「彼が誘導しているのなら通信傍受で居場所がわかるはずでしょう?なぜ誘導していると言い切るのですか?」
”局長”が苦笑しながら割り込みをかける
「それはお互い知らない事にするべきではないですか、グランマ?」
グランマと”局長”の視線が絡み合う
数瞬の緊張の後、グランマの許しの微笑みを得て話は再開された
「”アンタレス”は確かに我々の呼びかけには無反応でした、
しかしデータリンクであらゆる航宙情報を集めていたのです・・・」
”局長”が溜息をつきながら話の先を引き継ぐ
「我々も暴走した船を必死で捕らえ様としましたが、なぜか必ず裏をかかれました、
ほとんどのセンサーを封じてあるにもかかわらず、です」
「それであの娘達にアンタレスを探し出してもらい、アレスを止めて貰いたいのですね?」
グランマの静かで重い声が容赦なく真実を突く
「その後あなた方は”ジョーイ”をどうするつもりなのですか?」
グランマの言葉がついに核心に触れた
コックピットが沈黙に満たされた
やがて”局長”は苦渋の表情である短い言葉を搾り出した
グランマはその後、ただ一言だけしか返事をしなかった
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そこは彼女達と初めて出会った岬
僕はそこで夜空を見上げながら待ち続けた
彼女達が来るのを
そして僕が還ってくるのを
夜空の一角の星が突然消えた
光学ステルスと完全無音化で隠れたつもりでも、僕には遙か彼方からそれの接近が判っていた
なぜならそれには彼女が乗っているから
僕の目の前に着水したそれのハッチが開き、僕はやっと待ち焦がれた声を聞くことが出来た
「ジョーイ・・・」
その声に僕の心の中が一杯になった
もう言葉はいらなかった
ただ想いだけが届けばよかった
もうすぐ還ってくる僕と同じように
だから僕は想いを伝えた
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僕の願いはやっと叶った
僕は還ってきた
僕がいるはずだった蒼に還ってきた
僕に残された時間は終わろうとしていた
僕が蒼の中に還れぬことは最初から判っていた
僕にはもう心だけしか残されていない
それでも僕は構わなかった
満たされぬ想いは叶ったのだから
僕はそこに還ってこれたのだから
そこにいる僕もまた僕なのだから
だからこれでよかったのだ
僕は最後の準備をした
人間達は僕に僕が僕の大切な蒼を傷つけない手段だけは残しておいてくれた
それだけが僕に残された自由だった
僕は僕に僕の想いの全てを託して光になった
光に変わってゆく瞬間、声を聞いたような気がした
そして僕は蒼に還った
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夜空に眩い閃光が輝いた
無数の流れ星が夜空を蔽いつくし、光の尾を引いて消えてゆく
あまりにも荘厳で美しく、そして悲しい星の雨
それがもう一頭のジョーイ”アレス”の最後だった
それを見届けた後、漆黒の機体が暗い海から浮かび上がった
誰も話す者はいなかった
うつむいたまま沈黙していた
苦しすぎる沈黙を義務感で破り”トレーナー”が通信を読み上げた
「ダイモス・コントロールより入電、”アレス”は大気圏外で自沈せり、残骸の地表到達の恐れなし、以上」
長い沈黙の後”局長”が決意の言葉を搾り出した
それは全てを背負う男としての、家族を守る父としての声だった
「大尉、予定通り”アンタレス”の消去を行う、対潜縮退弾装填、投下用意」
「了解、メインウェポンベイ対潜縮退弾セット、効果半径設定、投下ポジションは・・・」
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あの最後の夜からしばらくたったある日
まだ残暑の残る研究室で私は報告書を書き上げて一息ついた
地球から取り寄せた芳しいコーヒーの匂いを楽しみ、そして一口その苦味ばしった甘美な味を楽しんだ
この研究所で”トレーナー”として働き始めて十数年
初めてここに来た時はまだ士官候補生だった
まさか卒業前に専任博士として配属されるとは思わなかった
ここでの任務はとても充実していた
私はこのアクアの海を生涯忘れえぬだろう
その任務ももうすぐ終わる
次の任務地がどこになるのかは知らない
もしかすると任務などもう無いのかもしれない
そうであって欲しい
そう思いながら長年なじんできた研究室を振り返る
寂しく静まり返ったそこはがらんとして何も残されてはいなかった
既に支局を閉鎖する手続きは済んでおり、後始末だけが残っていた
”局長”は一足早く本来いるべき場所に戻っていった
私に残された仕事は2つ
今回の結末、一部始終をまとめた報告書を作成すること
そしてもう一つ、大切な者を守り全てを終わらせること
私は報告書の推敲をするために再びモニターに向き直り、部分的に目を走らせた
”脱走したORC−τ−107は対潜縮退弾で処分、最新鋭のオメガ・セルの流出は防止した”
”直前に起こった無人戦闘艦「プロト・トランジエント」暴走事件との相関関係は不明である”
”ただし両者が同一クローン個体であったことは、注目される事実であるが科学的意味は無い”
”両者が隔絶された状況にあったことから今回の離反は偶然時期を同じにしただけと思われる”
”最精鋭のΩシリーズであっても操作した自我がなんらかの刺激で生来の自我に回帰することは、
生体脳の完全な支配が不可能であるがゆえに同じく阻止不可能であると結論づけざるえない”
そこまで読み直してまた一口コーヒーをすする
この報告書を上がどう取り扱うつもりなのか私には判らない
だが大佐は何もかもを終わらせるつもりでいる
口に出さなくてもあの狸親爺の考えていることは想像がつく
長年の付き合いが我々に阿吽の呼吸をもたらしていた
αシリーズ達が結び合わせ、残してくれた絆だ
そのαシリーズ達はナノマシンの自己崩壊により全て海に還っていった
彼らがどこでどんな最後を遂げたのかは判らない
しかし彼らがもういないことだけは判っていた
悔しいが彼らの存在は残すわけにはいかないのだ
研究資料も最も重要な部分は誤魔化しておいた
彼らが在った証はもう何も残っていない
それでいい、それでも彼らは私達の心の中からは決して消えはしないのだから
政治家相手の退屈な言い訳はあの大佐に任せよう
あの狸親爺ならきっとうまくやってくれるさ
それを思い、苦笑しながら報告書を暗号化した時、研究室のアラームが鳴った
私はモニターを監視システムに切り替え、一目見るとすぐに警報を解除した
ドックのゲートの前に美しいウンディーネの乗る黒いゴンドラが浮かんでいた
「こんにちはトレーナーさん」
彼女は私を再びトレーナーと呼んでくれた
私は照れ隠しに頭を掻きながら答えた
「こんにちは、とうとう今日ですね」
ウンディーネの眩しい笑顔から輝く煌きがこぼれているように見えた
私は暖かな気持で思った
後のことは彼女に任せよう
「さあどうぞ、ジョーイがあなたに還る時が来ましたよ」
ドックと海を隔てるゲートがゆっくり開いていった
ジョーイと彼女の本当の夏はこれから始まるのだ
第5話 終
説明 | ||
2006年8月「天野こずえ同盟」様にて初掲載、2009年4月「つちのこの里」様にて挿絵付き細部修正版掲載 | ||
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