【アザゼルさん】永劫回帰【ベーさく】 |
魔界の一角で知った顔を見たベルゼブブは、僅かに眉間に皺を寄せた。ジメジメとした水辺ですすり泣く女。芥辺の契約するアンダイン。同じ事務所で顔を合わすことの多い彼女であるが、基本的には親しいという程の仲ではない。
「……ベルゼブブ?」
顔を上げて名を呼んだ女に、心の中で舌打ちをすると、ベルゼブブは意地の悪い笑顔を向けて口を開いた。
「また蹴り飛ばされたんですか?お止めなさい。人間に肩入れするなどバカバカしい」
皮肉げな言葉を吐いたベルゼブブを見上げたアンダインは、意外そうな顔をして口元を緩める。長い前髪が顔を隠してしまい、表情など見えなかったが、ベルゼブブは緩められた口元を見て、腹立たしげに更に言葉を吐いた。
「何が可笑しいんです」
「貴方が言うとは思わなかった。貴方だって随分あの女に肩入れしてるじゃないの。アザゼルもだけど」
あの女というのが誰を指すのか解ったベルゼブブは、不快そうに顔を歪めると、アンダインの傍へ歩み寄り彼女の腕を掴んだ。
「莫迦にするのは楽しいですが、莫迦にされるのは気に食わない」
ベルゼブブが睨みつけるが、アンダインはまた薄く笑っただけであった。魔界の貴族たる自分が水精ごときに莫迦にされたのが気に入らないベルゼブブは、更に深い皺を眉間に刻む。
「……でも、人間が好きなの」
「理解できませんね。アレは寿命も短いし、弱い。そしてなにより愚かだ」
「だからよ」
己の腕を掴んだ手をゆるりと振りほどくと、瞳を細めてアンダインは微笑んだ。芥辺の事務所内では結界の力で悪魔は本来の姿ではいられない。それはあくまで、芥辺の能力のなせる技で、そうそうあることではないのだ。現にアンダインも、今ベルゼブブの目の前にいる美しい姿で度々人間界を訪れ、そして人間の男と恋をする。その度に悲恋となり、人の口から語られる物語を紡ぐのだ。
一度過ちを起こせば、学習してもいいものだとベルゼブブは思うのだが、アンダインはそれでも同じことを繰り返す。
「愚かで脆弱だから愛おしいの」
淡く微笑むアンダインが不快で、ベルゼブブは思わず視線を逸らした。報われない恋に酔いしれているのかと考えると不快で仕方なかったし、それで何か利益があるのかと思わずにいられない。人間と悪魔の関係は、利害関係の一致から成り立つ。イケニエを召喚の度に要求するのはその為だ。あの芥辺とて、それは無視することはできないし、無視したこともない。それが世界のルールなのだ。
「……いつかあの人も死ぬわ。人間ですもの。そんなの解ってる」
殺しても死なないのではないかと錯覚さえするが、死は確実に自分たち悪魔より早く訪れる。
「そして、死んだらまたメソメソ泣くのですか。理解できませんね」
不快感に顔を歪めながら言うベルゼブブを見上げて、アンダインは微笑んだ。
「そうよ。そして、泣きながら待つの」
「何を?」
「また会えるのを」
「何を莫迦な……」
突拍子もない言葉を吐いたアンダインに、ベルゼブブは驚いたような顔をして言葉を零した。その様子を見て、アンダインは笑った。
「同じ魂の色をした人をまた探すの。そして、また恋をするの」
転生輪廻という概念が人の世には存在する。それは知識としてベルゼブブは知っているが、アンダインが信じているとは思わなかったのだ。唖然とした顔をしたベルゼブブを眺めながら、アンダインは更に言葉を続けた。
「悪魔のように長生きはできないわ。でも、人は生まれ変わるの。何度でも。その度にまた恋ができるなんて、素敵じゃない?」
バカバカしいとベルゼブブが一笑する事ができなかったのは、本気で信じて、アンダインがそれを続けてきたからであろう。人間界を彷徨い、あの無駄に多い魂の中から己の恋した男の魂を探し出す、気の遠くなるような作業。芥辺もまた、彼女が何度も恋した魂なのだとしたら、笑う気は不思議と起きなかった。
「他の悪魔に魂を取られないように……いつも傍にいるの」
蹴られても、罵られても、アンダインは絶対に芥辺の所へ戻ってくる。ただでさえ彼の傍には悪魔が多い。それは脆弱な肉体とは逆に、強い魂を愛するが故の愚かな行為。何度も何度も恋して、探し続けた魂。
「……理解できませんね」
「きっと貴方にもいつか解るわ。何度も探すに値する魂に触れればね」
淡く微笑んだアンダインを眺めながら、ベルゼブブはその言葉を心の中で反芻した。何度も探すに値する魂。長い長い時間を生きてきて、そんな事は一度も思わなかった……筈である。
「時間よ止まれ……なんて泣いても仕方ないもの。だから私は何度でも人の子の世界に行くの」
「すみません。お忙しかったですか?」
見慣れた事務所の光景に、ベルゼブブは暫し沈黙したが、目の前の召喚者に視線を向けて瞳を細めた。
「えぇ。大事な話をしている所だったんですけどね」
そう言うと、佐隈は驚いたように瞳を見開いて、申し訳なさそうに頭を下げた。
「えっと、すみません」
「仕事ですか?」
「いえ、カレーを作りすぎたのでベルゼブブさんにおすそ分けを……って思ったんですけど。忙しいのでしたらまたの機会に……」
「貴方、召喚しておいて対価もなしに魔界へ帰れと言うんですか?食べますよ」
ベルゼブブの言葉に、佐隈はほっとしたような顔をして、それでは行きましょうか、と彼を抱き上げた。短い手足。魔界にいる時とは別のぬいぐるみの様な身体。己の手を眺めながら、ベルゼブブは小さくため息をついた。
いつも指定席の芥辺のデスクは空で、先に召喚されたのであろう、アザゼルが、スプーンを持ったまま佐隈を急かす。
「さくぅ!腹減ったでぇ!べーやんええからはよ食べような!」
子供のように駄々をこねるアザゼルに、佐隈は、はいはい、と返事をすると、彼の隣にベルゼブブを降ろして台所へ向かう。ちらりとベルゼブブはアザゼルに視線を向けて、またため息をついた。
「なんや、べーやん。辛気臭いなぁ。カレーやで。さくのカレー。好きやろ?」
「……ええ。好きですよ」
レトルトカレーも食べてみたがアレはどうにも好きになれない。どういう訳か、佐隈の作るカレーがいいのだ。そう考えて、ベルゼブブは不快そうに顔を歪めた。彼女の作るカレーだけがいい。そんな今まで当たり前であった事が、不思議なことに思えたのだ。
「アザゼル君」
「なんや?」
「サクマさんのカレーはずっと食べれるのでしょうか」
「はぁ?そら、さくと契約してたらずっと食べれるんと違うか?」
何を言っているのだと言わんばかりのアザゼルの反応に、ベルゼブブは小さく、そうですよね、と返事をした。契約していれば食べられる。当たり前の事だ。それにどうして今まで気がつかなかったのだろうか。そう考えて、ベルゼブブは、水辺で泣きながら愛した男の魂を探し続ける水精の事を思い出した。
―─またサクマさんのカレーが食べたくなったら、私は貴方と同じ様に、魂を探しに行くかもしれない。
人は死ぬ。絶対にだ。ベルゼブブ自体がそれを忘れていた訳ではない。けれど、あえて考えないようにしていたのかもしれない。愚かなのはあの水精なのか、現実から目を背けていた自分なのか。
そんな事を考えながら、ベルゼブブは佐隈がカレーを持ってくるのを待った。
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