涼しき道
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 暗く、身体がその中へと消えていってしまいそうな闇と、歩く方の右を流れる河のせせらぎに包まれた道を行く。ざりざりと砂利を踏み進む音が刹那、喜助の鼓膜を揺らしては、蛍の光の様に消えていった。少し歪んで見える月暈が、ここ数日間の酷暑加減を顕現していた。

 

 何時迷い込んだとも知れぬそこは、暗く横たわる名も知れぬ河の岸であった。白く、大小様々な形の砂石により成る地は歩くには少し不安定で、長旅で疲れた喜助の足は、何度か転んでしまいそうになっていた。

 変わらない景色、深まる闇夜。果たして、この河原に終わりはあり、この夜が明ける時は来るのだろうか。熱を抱いた闇は喜助の心にも徐々に巣くい始めていた。

 

 白き河原に迷い出てから、おおよそ四刻半程歩き詰めた頃である。喜助の目に、一つの茅葺きが映った。壁は塗り固められてからそう長い年月も経っていないような家屋で、申し訳程度に誂えられた窓からは、ちらちらと仄明かりが漏れ出でていた。

 

「やぁ、こいつは助かった。仏様の思し召しに相違ない。ありがたや」

 履き古された足袋が石を踏む音の幅が狭くなる。

 今宵は、この家に世話になろう。

 長い旅の経験から、こういった場所にぽつんと在る家の者は、旅の者に対して悪い対応をしない事を、喜助は知っていた。何故ならば、彼らにとって旅人は、淋しい生活の中に突如現れた、極上の暇つぶしの相手なのだから。旅の道中の思い出などを面白可笑しく話してやれば、彼らは大変丁寧に旅人をもてなしてくれるのだ。

 家屋の前に辿りついて立ち止り、直立の姿勢になる。

「頼もう、頼もう」

 不躾に声を上げる喜助に、返事は簾越しに訪れた。

「どちら様」

「それがし、武蔵を出でて終の栖を探す道中の者。済まないが、今宵の宿を貸してはくれないだろうか」

「まぁ、武蔵から。それはさぞかしお疲れでしょう。どうぞ、狭い家ですが、宜しければお泊まり下さいな」

「かたじけない。それでは、失礼する」

 空気の熱には関心のなさそうにしている簾を除けて、屋内に入ると、途端、外との暑さの差を、喜助は肌で感じた。何故だか、この家の中は随分と涼しかった。

「あぁ、生き返るようだ」

「うふふ、そうでしょう。家の下に向かいの河から水を曳いているんです。だから涼しいの」

 得意気な声は、なかなかの美人が話すものであった。これはまた、運の良いことだと、喜助は胸の内に邪な思いを浮かべた。しかし、同時に気がかりもあった。

「この家には、あんた他に誰も居ないのか」

「ええ。独り身ですから」

「それはまたどういった訳で」

「私が独り身の訳ですか」

 女は口許を隠して笑った。言葉の綾による齟齬に気付いて、喜助はばつが悪いような心持ちになり、フケの多く溜まった頭を弱々しく掻いた。それから、取り繕う様に、「そうではない……その、あんたがどうしてこのような淋しい場所に一人で住んでいるのかということだ。気に障った様ならば、謝る。申し訳ない」

「うふ、楽しいお方ね。別段、声音にするのを憚る様な訳で独り住みをしているのでもありませんから、そうお気になさらずに」

 女はまた愉快そうに笑った。単に、翻弄されている喜助の姿が女の目に面白可笑しく映っているのかもしれなかった。

「そう。確かにこんな場所に女が一人で暮らすのも、妙な話に違いありませんわ。けれど、これが仕事ですから」

「仕事、というと」

「道案内ですわ。貴方の様にここに迷い込んだ方に進むべき道をお教えしておりますの」

「ほう」

 喜助は心の驚くままに声を漏らした。やはり、仏様の思し召しであろうと思った。偶然出くわした家が案内人の棲家であとたのだ。これを幸運と言わずしてなんと言うのか。

「そうですわね。河原に出てから、こことは反対の方に行かれていたら、それまででしたもの。本当に、幸運でしたわ」

 静かに、けれど楽しそうに、女はそう言った。仕事柄、他人の案内を出来る事が嬉しいのか、それともやはり暇を持て余していたのか、或いはその他の理由なのか。喜助は判然としないまま、とりあえず笑った。

「それならば、話は早い。明日の朝にでも案内してはくれぬか」

「はい、喜んで」

 そこで、女は一度黙った。次に口を開いた時、紡がれた言葉は、喜助にとって不可解なものであった。

「けれど、その前に一つだけ、お尋ねしたい事がございます」

「尋ねたい事というと、何だ」

 喜助は訝しんだ。行く宛もなくこの地に迷い込んで道を尋ねた自分に対して、尋ねたい事があるという。

「はい。ここからいけます、たくさんの方がいらっしゃる地には、二つございます。それぞれへ続く道もまるで違いますので、どちらの道をいかれますのか、それをお尋ねしたいのです」

 合点がいった。なるほど、確かにそれを行く者自身に尋ねなければ案内などできまい。喜助は歯を見せて笑った。

「では、その二つの道が何処へと続くのか、大雑把で構わぬ故、教えてくれ」

「……分かりました。少しだけ長い話になりますが、どうぞお聞き下さい」

 そう前置いて、女は静静と語り始めた。

 

「ここからいける二つの地。一つは河沿いの道をいき、一つは河を渡っていきます。

 河沿いを辿って着く先は、実に恐ろしく、苦しき地。凍てる大地に柱を打ちて家を建て、業火に飛び込み暖をとると云います。また、この地は迷いの地。そこに住む者は迷いと苦しみの中で生活していくのだそうです。また、その地へ至る道はあつく、そして、いけば最後、死ぬまで出られぬ土地だとも。

 河を渡って着く先は、実に楽しく、清き地。蛍舞う園に夕涼み、楽阿弥となりて日を暮らすと云います。また、この地は救いの地。そこに住む者は一切の恐れから解放され、ただ己の在るがままに過ごすことが出来るそうです。また、その地へ至る道は涼しく、そして、いけば失ったものを取り戻し、その魂尽きるまで共に在るとも」

 

 話し飽きた様に、女は長い髪を掬い、白い耳にかけた。

 

「さて、どちらを行かれますか。あつき道か、涼しき道か」

 

 女は笑った。

 

 

 

 翌日。喜助の案内を終えた女が茅葺きに戻ってきた時、簾の前に、年若い男を見た。

「どうかなさいましたか」

 喜助と似た様な身なりの男は、若干傾き始めた日の光の中、勢い良く振り返って女を見た。

「あぁ、良かった。この家の方ですか」

「はい。この地に迷い込まれた方に道をお教えしております」

 男の目が輝いた。

「それは助かった。実は私、その迷い込んだ者でございまして。宜しければ道案内を頼まれてはくれませんか」

 人好きのする顔をして頼み込む男に、女は二つ返事で了承した。

「ですが、その前に一つ、お尋ねしたい事がありますの」

「ほう。それは一体全体、何です」

 女は昨晩、喜助に話して聞かせた内容を、この男にも話した。

「どちらに行かれますか。あつき道か、涼しき道か」

 男は少し気にかかる事でもあるかの様に、ふむん、と顎に手をやった。そして、暫くの黙考の後、こう問うた。

「今までに迷い込まれた方は、大抵どちらに行きましたか」

 

「先ほど、お一方が涼しき道をいかれましたわ」

 

 女は笑った。

 

説明
数年前に書いたホラー(?)短編です。多少加筆修正を行いましたがだいたい当初のままとなっております。
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タグ
ショートストーリー 短編 ホラー 

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