枯れた日々【和風静帝】 |
――枯れ井戸は黄泉へと続く。
誰から聞いたのか静雄は帝人と会うとその言葉が頭の中で繰り返された。
黄泉などと馬鹿馬鹿しい。帝人に幽鬼を思わせるところなど一つもない。当たり前のように陽射しの下を歩いている。だというのに静雄が帝人に連想するのは水のない井戸。乾ききった枯れ井戸。ただの穴。死の穴だろうか。頭の中で帝人と重なる。
その手に触れたこともある。冷たいどころか熱すぎる子供の指先。産まれたばかりの弟を思い出すほどに脆くて驚いた。硬さのない柔らかすぎる指は百姓の子供ではなく、何処かの姫様に思えた。もちろん想像でしかない。静雄は姫様になど触れたことなどない。それでも、自分の母親を見ているから普通の女性の手がどうなっているのか知っている。水仕事をしていれば指先はあかぎれる。男ならば尚のことやわらかさなどなくなるのが普通。子供であればあるだけ百姓の指先は痛ましいものになる。痛ましいと思うのもおかしい。それが世の中の当たり前なのだ。
位が高ければ高いほど男は武術を教え込まれて血豆が出来、そのうち柔らかさの失われたゴツゴツとした男の手になる。荒れていない指先は姫様だ。
強くない男など男ではない。
いつの世でも強さが全てだ。
静雄はそんなことに嫌気が差していたが現実を否定する気はなかった。使えるべき主人の居ない力は意味がないものだ。そもそも力は自分のモノではない。裏切られた気分になりながら両親に迷惑をかけないために静雄は故郷を後にした。狭い村で後ろ指を指されて生きていく気はなかった。自分の癇癪の捌け口を求めたわけでもなかったが自然と静雄は戦場にいた。
他人の生死に感じ入る心をこの時代に持つ者がいることを静雄は帝人と会うまで知らなかった。
それは静かな出会いだった。
朝露が煌めいて、鳥たちが僅かに鳴く、遠くから滝の音が聞こえていた。その中で静雄はただ飢えていた。
駆り出された戦はおかしかった。見たことのない武器でよくしてくれた年上の男は死んだ。来るはずの援軍もなく静雄は孤立した。
有象無象のはぐれ者の集団だったが三下というほどではなかったはずだ。静雄は怪我をしながら生きていたが、生きているだけだった。仇を取る気もなく、しくじったことに腹が立った。空腹に苛立ちは燃え上がるところが燃料不足でくすぶって気分が悪い。
目の前にチラつく野うさぎを狙ってみるも自分自身がふらつくだけで成果は出ない。掴まえられない。逃げながらも野うさぎは後ろを振り返り静雄の姿を確認する。そして静雄は野うさぎに飛びつく。逃げられる。止まって振り返る。何度もそれを繰り返した。遊ばれているような態度に悪態をつく気力もなく静雄はうさぎを追う。
知らない土地の森など迷い込んだら出られない。いくら敵から逃げたとしても木々の栄養になる気はなかった。失敗したと少しは思ったが、うさぎが居なければ木の実やきのこがあるだろうと実りの季節に期待した。浅はかではあったが他に考えることも出来ない。
「お疲れですか?」
籠いっぱいに薬草を摘んだ少年に声をかけられる。
それが帝人との出会いだった。
静かな始まりだ。
擦り切れて怒る気力もない自分に静雄は笑った。食べようと追い求めたうさぎは少年の腕の中で震えている。
「飼ってるのか?」
「特にそういうわけではないですけど……僕にはこれって食べ物じゃないです。お腹空いているなら、どうぞ」
首元を掴まれて静雄へと渡されそうなうさぎは緊張に耳を小刻みに震わせていた。脱力してしまう。
「わりぃ、いいや」
空腹で頭がおかしくなっていると思いながら静雄は折角の食べ物を拒絶した。噛みついて生肉を食べるのも火を起こすのも面倒になってしまった。近くの木にもたれて少年を見れば井戸に腰掛けて手に持っていた葉っぱをうさぎに食べさせていた。
「やっぱりお前のなんじゃねえか」
少年は「違いますよ」と笑ったがいつの間にかうさぎの数は増えていた。毛玉の群れはもう肉の塊には見えない。静雄は理由が分からなかった。空っぽの胃は何かを求めていたというのに心の方は満足していた。
「俺は誰かに会いたかったのか」
「誰でもいいんですか?」
不思議そうな顔をする少年に独り言を口にした恥ずかしさを思う。
「誰だって最期に誰かに会いたいと思うだろ?」
首を傾げる少年からは同意は得られそうにない。
「おやすみなさい?」
「死にたくねえけどな」
少しズレたような少年がどうしてここにいるのか静雄は気になった。解き明かしたいとまでは思わないが悪足掻きのように会話をしたい。
思えば人と会話をすることはあまりなかった。自分の性質のせいだとしても暴力は言葉ではない。村から出ることを引き留めてくれた弟ともっと話せばよかったのかもしれない。
「頑張れば何とかなったのか……」
後悔を口にすれば近くから「そんな上手くいきませんよ」と笑い声。少年が静雄の血の流れ続ける腕に息を吹きかける。痛くて少年に対してか傷に対してか腹が立った。けれど少年の真剣な瞳に「どうにかできるのか」と尋ねてしまう。やはり死にたくないのだろう。
「鉄を、鉛ですか? もらってしまったんですね。このままだと傷が塞がらないで肉は腐っていきます」
「知らねえ。見たことねえ筒が」
「様子見に使われたんです。新しいものがどれほどのモノか自分の兵ではなく流れの者をぶつけて計った」
「俺は死ぬのか」
「死にませんよ。生きる気があるなら」
どこかはぐらかされている気がしたがどうでもいい気分だ。少年が静雄を撫でる指先が優しくて心地が良かった。他人にこんな風に触れられるのは初めてかもしれない。誰とだって距離があった。それは淋しいことだった。
「死ぬ気はねえ」
「生きる気は? 大切なのは前を見ることです」
自分よりも年下の何も知らないような子供に偉そうなことを言われても静雄は腹が立たなかった。
「生きる気があるなら薬草を使いますけれど、どうでもいいんでしたら、そのまま死んでください」
「あぁ、そうだな。使うなら生きなきゃな」
「崖の近くにあった痛み止めですから高価なんですよ」
少年はそう言いながら惜しげもなく静雄の傷口に塗りこんだ。赤紫に肌が染まるが痛みは和らいだ。
そんな気がしただけかもしれない。勘違いだとしても構わない。少年の指先は優しかった。
「おまえ、名前は?」
「目が覚めてあなたが覚えてたらお話ししましょうか」
答えになっていない少年に峠を越えないと自分は死人なのだと理解した。無駄なことはしないのだろう。このまま静雄が目を覚まさなかったら少年が弔ってくれるのだろうか。それとも、森の動物たちの餌か。
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静帝和風パラレルコピー本の冒頭抜粋。 | ||
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