蜜舐め遊戯 |
その味を知ってしまったことが既に罪だ。罪は甘い蜜のように魅惑的。愛とは罪を重ねて手繰り寄せるもの。だが、辿り着く先は地獄。
そう悟ってしまったその時から、女は坂道を転げ堕ちてしまった。想い人に妻子があることも理解していた。だがそれでも、と想ってしまった。
胸元に眼を向けると紅い痣が残されていた。それは男と求め合った名残。名残にすら縋らなくてはいられない、なんて惨めな女であろうか。
自分が滑稽に思えてならない。身体に刻まれた名残に縋り、それを愛の証だと思いたい。だがそう信じるにも男には妻子があり、詰め寄るともう少し時間をくれと曖昧に笑う。
ならば私は一体何なのだろうかと思う。女として求められているといえば聞こえもいいが、それは言葉を変えれば都合のいい、甘い言葉で男に股を開く売女と何が違おうか。
いや、売女ならば対価を貰うのだからまだいい。椿がもらうのは快楽と吐き出される精だけ。
短い逢瀬の時間は終わり、女の元に現実が押し寄せてくる。愛しているという言葉で一時の幸せに浸ったとしても、男が消えれば待っているのは寂しさと虚しさだけだった。
そしてやがてその寂しさと虚しさが募り、また男を求めてしまう。女には分かっていた。あの男はきっと自分を抱きたいだけだということが。愛しているという言葉を耳元で呟きさえすれば股を開く女だ。なんて尻の軽い女だろうか。もしかして彼も自分をそう思っているのかと考えて、論じるまでもない結論に自嘲気味に哂う。
男の子供はまだ二つで可愛い盛りだ。あの子を捨ててまで自分と添い遂げるとはどうしても思えなかった。
もしかすると私は、誰かに愛して欲しかったのだろうかと考えて頭を振った。いや、どこかで気付いていた。一人身の自分が寂しく、一人で過ごす時間があまりにも悲しいことに。だからこそ、男に誘われるがままに抱かれたのだから。
月明かりの下、女はふらりふらりと歩いた。どこに向かう目的もない。ただ、今自宅に戻れば、寂しさと虚しさに泣いてしまう。男の傍にいるたった数時間でさえ、女にとっては幸せだった。
もしかすると男を愛しているのではなく、男とつながり感じる快楽や熱を求めているのかもしれない。そう考えると、女には自分が淫乱な雌豚に思えた。
街灯がちかちかと点滅している。それを見上げて女は小さな溜息を吐く。それは凍てた空気の融けて消えた。
胸元の紅い痣に触れる。痣を中心にじんじんと熱を持っているかのように疼く。あれだけ抱かれておきながらまだ抱かれたいのかと、嫌悪感が湧いた。
舌は身体の全てを舐め回し、吐き出された精の全てを女は受け止めた。それが愛されている証であり、愛している証だった。
だが繰り返す度に自分が穢く思え、死にたい気持ちになった。男には妻子がいる。それは明確な絆であり、身体だけの関係とは全く違う。
男と妻との間には、出会い、恋をし、愛を育み、婚姻を結び、子供を授かったという軌跡がある。それはどうやっても消えない、そんな事実だ。
だが自分の男との間にあるのは不貞と裏切りと、快楽だけだ。後ろめたく仄暗い感情が混ざり込んだ穢い愛情なのだ。いや、もしかするとこれは愛ではないのかもしれない。
点滅している街灯はまるで、自分と男との脆い絆のようだ。ならば灯りが消えたその時、絆も切れるのだろうか。
いつの間に、こんな情けない人間になってしまったのだろう。寂しいからといって妻子のある男を愛するなんて、そんな不貞が許される筈がない。
だがならば自分は彼を愛してはならなかったのだろうか。出会ったのが妻のほうが先だった。そんな小さな理由で否定されるほどに罪深い行為だったのだろうか。愛したのは自分だけではない。男も自分を愛してくれているはずなのに。
都合のいい女、きっとその通りなのだろう。だが都合のいい女には都合のいい女なりの事情がある。例えば妻子から男を略奪したとして、それを責められたとしても、それを甘んじて受ける覚悟くらいはある。
道すがらにある公園に足を踏み入れた。自動販売機で暖かいブラックコーヒーを買い、ベンチに腰を下ろす。
知ってしまった蜜の味は、信じられないほどに甘かった。男の精が甘いのか不貞の蜜が甘いのか、それは分からない。ただ、心の何処かで気付いていた。この関係はいつか終わってしまうのだと。
ブラックコーヒーの苦い味が舌先を刺激する。そういえば男はこれが好きだったのを思い出す。影響されて、男の傍にいる時は同じようにブラックコーヒーを飲んでいた。馬鹿みたいだ。そんなことをしても何も変わらないのに。
舌を絡めれば苦いコーヒーと煙草の香りがして、それは媚薬のように身体を火照らせる。だが、どうしてそれが媚薬だろうか。熱に浮かされていただけだ。不貞の蜜に酔っていただけだ。
愛してくれているのならば、全てを捨ててでも求めてくれるはずだ。だが男は妻子を捨てない。それは決定的な答えであるように思えた。
そうか、やっと気付いた。
最初から答えは出ていた。男はただ妻とは別の女の身体を愉しみたかっただけで、愛してなどいなかったのだ。
そう、最初から答えは出ていた。分かっていて甘え、分かっていて溺れ、分かっていて味わった。
苦く穢く醜く悪臭く、甘い甘い蜜の味を。それは男だけの責任ではない。不貞を働いたのは男だけではなく、妻子の存在を知りつつも男を愛した自分もなのだから。
女はブラックコーヒーを飲み干すと、空き缶をゴミ箱に向かって投げ捨てた。空き缶は弧を描いて飛び、ゴミ箱の縁で弾かれた。
それを見た女はくすくすと笑い始めた。ゴミ箱すら自分を受け止めてくれないことがあまりにも滑稽だった。不貞を働いた罰とでもいうのだろうか。
お腹を抱えて笑いながら、女の頬を涙が伝う。やっと決意ができた。やっとこの蜜舐め遊戯を終わらせることができる。
分かっていたことを分からないふりをしてきた。ブラックコーヒーと煙草の香りに酔わされて、受け止めた精を愛と思っていただけなのだ。
馬鹿としか思えない。
そしてそんな馬鹿は笑われて当然だ。だから自分を笑い飛ばそう。
寂しさや虚しさははきっとずっと消えないだろう。でもこうやって不貞の蜜に縋っていたとして、一体何が変わるだろうか。
数時間の逢瀬を繰り返しても、共に暮らす女と子供には敵わない。
今、こうしてここで全てを笑い飛ばそう。明日から真っ直ぐに生きていく為に。
頬を伝う涙は不思議と温かかった。そして首筋の赤い痣から、少しずつ熱が抜けていく。
そうか、そうなんだ、こうやって彼を過去の人にしていくんだと、妙な感覚の中で悟った。
夜空を見上げると、まん丸なお月様が女を見て笑っていた。女の寂しさや虚しさを、笑い飛ばしてくれていた。
だから女は泣きながら笑い続けた。滑稽な女にはお似合いの結末だ。不貞の蜜が例え甘かろうとも、その蜜は所詮は毒なのだ。いや、それを毒と気付かずに死ねれば幸せだったのかもしれない。
だが、もう気付いてしまった。
きっと、これが自分にとっての真っ直ぐな路なのだろう。これを悲劇的な結末だと、映画の女優のように嘆けばそうなる。だが、これは悲劇ではない。これは滑稽な喜劇なのだ。だから、もっともっと笑おう。
笑って笑って思いっきり泣いて、心の中に溜まっていた澱みや彼への愛も全て捨ててしまおう。
明日からはブラックコーヒーは飲まない。飲むのは甘いカフェオレだ。これから先、付き合う男には絶対に禁煙させよう。
思う存分に笑った後で、女は頬を伝う涙を拭った。そしてもう一度夜空に輝く月を見上げると、それをじっと睨むように見詰める。
捨ててしまってもきっと、忘れることはできないだろう。彼と過ごした数時間の逢瀬は、今でも蜜色に彩られているのだから。
だがそれを知っているからこそ、これからを真っ直ぐ歩けるはずだ。今度は妻子持ちとの不貞ではなく、ハーレークインロマンスくらい蕩けるほど甘い恋愛をしよう。
女はゆっくりと歩き出した。
夜空のお月様は、女を優しく見守っていた。
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月夜に彷徨う女。原稿用紙十枚、恋愛。 | ||
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