降水率。 |
突然の目もくらむような夕立が襲い、青年は慌てて公園のあずま屋に逃げ込んだ。
朝の天気予報では、降水率は三十パーセントにも満たっていなかった。青年は不機嫌そうにポケットから無地のハンカチを取り出したが、余計に気分が悪くなっただけだった。彼は頭からつま先まで残らずびっしょりと濡れている。
「よかったら、つかいなさいよ」
青年が立ち尽くしていると、簡素なベンチに腰かけた老人が、タオルを寄越した。改めて見回してみると、あずま屋には青年のほかに三人の人間が居た。老人は雨が降り出す前からそこにいたらしく、少しも濡れてはいなかった。
「どうも」
ぶっきらぼうに礼を言い、思念は忙しく顔と頭をぬぐった。汚れたタオルを持余して老人の顔を見るとぎこちなく笑うので、タオルをむりやりポケットに突っ込んだ。
「いきなり降ってきてしまうと、困るねぇ」
老人は青年の顔を見ず、あずま屋の屋根の中心を見つめている。青年が特に返す言葉もなく黙っていると、老人は続けた。
「今までも何回か、こういうことがあったんだ。けれど、そんな時は孫が迎えに来てくれた」
「はぁ」
青年はいつの間にか老人の独り言に付き合わされていることに気付いた。だが、なぜか目を離すことができない。たとえ無視して離れてしまっても、老人は怒りもせずただ黙るだけであろうことが容易に想像できた。
一瞬の迷いの後にポケットに押し込んだタオルを思い出した青年は、突っ立ったまま老人の言葉を聞いた。
「しかし、そういうことももう無いと思うとね。あの子はもう、自分の手の届かないところにいってしまった。追いかけることもしたくはない。ここに毎日来てしまうのは、もしかしたらまた迎えに来てほしいと思っているのかもしれないね」
老人はうすら笑いを、相変わらず天井に向かって投げかけていた。彼は確かに悲しんでいるんだろう。青年はこれ以上立ち入ることをしたくなくて、かつ黙って離れるのも躊躇われた。だから、もうこちらを見ていない老人に軽く会釈をして、なるべく距離を置くようにしてベンチに腰を降ろした。
まだ、夕立ちは勢いを損なわない。
「なあ、あの連中暗いよな」
ベンチに腰を降ろすと、肩に重りのようなものを乗せられた感触があった。
青年が何事かと右に振り向くと、青年よりも少しだけ歳を喰った男が、青年の肩に慣れ慣れしくひじを乗せて語りかけてきた。彼の上着は青年同様にぐっしょり濡れていて、濡れた布が合わさる感触がなんとも気分が悪い。
青年に鬱陶しそうに睨まれると、男は気色が悪いほどの満面の笑みを浮かべながらひじをのけた。
「冷てえ雨から逃げてきたってのに、屋根の下もこんなざまじゃ、イヤになっちまうよ。あんたはそうじゃないの」
たしかに老人も、端の方に座ってぼんやりとしている婦人も、纏う雰囲気はなんとはなしに暗い。それは外を降る雨とは、また関係がないものに思われた。
そうは思っていても、青年はうんともすんとも言わなかった。彼はこんな雨の日に、明るい気持ちにはなれないと思っている。
「なんだよ。あんたも連中と同じかよ。え?」
男は不機嫌そうに、地面に唾を吐きながら言った。これで無理に関わってくることもなくなったかと思えば、次の瞬間にはもう機嫌が直っていて、いやらしい笑みを浮かべながら、再び青年の肩に肘を置き、耳元で囁きかけるように言った。
「まあ、聞けよ。笑い話があるんだ。気分も爽快だぜ」
青年の有無を待たず、男は話し出した。
「おれには彼女が居たんだ。まあ、顔は悪くねえ。しかしこれがトンだ性格ブスでな。付き合い始めて一年も経たないで飽きちまったんだよ。ところが、別れようにもあっちが離しておかねえのさ。ここだけの話、おれは昔口に出しちゃ言えないことをたくさんやったんだ。んで、二度と別れるなんて言いだした日にゃ―― まあ、行くとこに行って全部おしゃべりしちまうからね、って脅しやがるんだよ」
男の息は酷くたばこ臭い。声も不快だった。
「そう言われるとなあ、ないがしろにできない。無理やり黙らせることもできたんだろうが、もう無茶はやらねえって決めてた。だからしょうがなーく付き合っててやったんだがな」
そこで男の喉がくくっ、と鳴った。よほど愉快でたまらない、とでもいうように。
「その女がな。おれが一番嫌いなやつと一緒にいっちまったんだ。気付いた時にゃさすがに驚いたけども、よく考えればラッキーだぜ。疫病神がふたりいっぺんに周りから消えちまったんだから。なあ!」
男は完全に興奮していた。目は炯々と怪しげな光を宿している。青年は早急に自分の体が震えていないか確かめる必要があった。しかし冷静に考えてもみれば、震えだしたらすぐにでも終わりだ。気付くといくらか気分が落ち着いた。
「そのうちにまたいい女でも見つけるさ。……なんだ。笑えなかったか。おれの話は?」
男のその言葉には、打って変って押し付けるようなものがなかった。
青年はふと、自分が大笑いをしたらどうだろうと考えた。しかし、そんなものは香奈がえても意味がない。彼は少しも笑えそうになかった。
「ふん。それならそれでいいや。おれはもう行くぜ。あんたも精々楽しく生きろよ」
男はそう言って、青年の肩を頼りに立ちあがり、手ぶらであずま屋の外に飛び出した。
夕立ちは、少しだけ弱まっている。
青年は何とも密度の高い夕立に疲弊した。ベンチに背中を預けて息をついていると、向かい側の隅に座っている、例の婦人が傘を持っていることに気がついた。今や夕立ちは普通の雨くらいの勢いになっていて、自分なら傘をさして帰るのに、と思うと不思議に気になってきた。
相手がぼうっとしているからといって不躾にじろじろと見ていると、ふとこちらを向いた婦人と視線が交わってしまい、追いうちのような頬笑みを喰らってしまった。青年はその瞬間からもう、何か話さなければならないと感じた。
「傘、使わないんですか」
肌で感じる空気は酷く湿っぽいのに、口の中は乾いている、
「ええ、ほら。わたくし草履を履いているでしょう? 止んでから帰らないと、だめになっちゃう」
青年は面を喰らった。だったら、そのかたわらの傘はなんなのか。結局、婦人は青年の質問にはきちんと答えてはくれなかった。
「あのひとがおまえには和装が似合うね、って言うから着てきたのに」
「あのひと?」
「そう。わたくしのいいひと。もう別れたけれど」
向けられた婦人の顔は柔らかかったが、青年にはどうもそれがぼんやりと夢を見ているように映った。老人とは違って、婦人はまっすぐ青年と顔を合わせて喋っている。しかしながら、婦人は自分を見ていないように思えたし、自分も婦人を透かした向こう側を見ているような気分だった。
「酷い雨ね。降水率は低かったのに」
「あれは、あてになりませんよ」
「本当にね」
他愛もないことをひとつふたつ喋るにしても、青年はいちいち空気の塊を喰わされているような感覚をもった。手ごたえのなさというものを、これほどまでに感覚的に知った試しが、彼にはない。
違和感を噛みしめながらの世間話を続けていると、夕立ちはどんどん弱くなっていった。その足音がしないくらいにまで遠ざかったときに、ようやく婦人は顔をあげて立ち上がった。
「そろそろいいかしら」
ここまで弱くなったら、止むまで待てばいいのに。そうは思ったが、青年はとうとう口に出さなかった。挨拶もそぞろに立ち去る婦人の足元。今では滅多に見れなくなった草履の裏側がべろりと剥がれて揺れていたのが、なぜかこの日が忘れることのできないものになるであろうということを予感させた。
青年はそれからしばらくしても、まだ立てずにいた。彼はもう雨に濡れるのはごめんだったので、黙って座ったまま動かない。夕立ちはすでに霧雨のようになっているが、今は雨の一滴でも浴びるのは嫌だった。
青年はふとあたりを見回した。老人もいつの間にやら立ち去っていて、あずま屋には完全に彼一人が残されている。
聴こえなくなった雨の音を反芻させながら、彼は昔に祖母に教えられた「やってはいけないこと」の話を思い出し、どうやら自分はその禁忌を侵したらしいと考えた。
大したことではない。大したことではない。
自分で繰り返し納得をしたが、直後に大きなくしゃみを続けて二回したことによって、彼は少しだけ肝を冷やした。
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オリジナル短編小説。ある意味現実にありそうで、しかしとても理不尽なお話―― かもしれません。 | ||
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