フロンティアから空に
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「……だめだわ」

 

 シェリルがヘッドフォンを外してためいきをつくと、規則正しく響いていた包丁の音が止まり、アルトが振り返った。

 

「ん?」

 

「あぁ、なんでもないの」

 

「うまくいかないのか?」

 

「……そうね」

 

 そう言いながら、シェリルはレコーダーの、消去、のボタンを押す。

 

 バジュラ戦役と呼ばれるあの戦争のあと、フロンティアの人々は、新しい大地を手に入れた。その大地は、当然のことながら、まっさらな自然のままの大地で、そして瓦礫の山と化したアイランド1は、もう人はほぼ住めない状況にあり。新しい星でのフロンティアの復興は急ピッチで進んではいたが、それでもなかなか一朝一夕では、以前のような文化レベルにまでは戻らない。

 

 そんな中シェリルは、ベクタープロモーションにマネージメントを依頼して、ランカと一緒に、バジュラ本星に根を下ろした新しいフロンティアの各所を、チャリティライブで回っていた。それはそれで楽しいし、新しい大地を得たとは言え、今までの生活を失った人々の、心の支えになれるものなら、自分にできることはしたいと思っていた。

 

 そうしてランカと共に、フロンティア中を回っているシェリルだったが、時折、一度はギャラクシーのスパイとして死刑宣告まで受けたシェリルに対して、フロンティアにバジュラが来たのはおまえの所為だと、そのように心ない言葉を投げつけられることはあったが、それはシェリルも覚悟の上だった。

 

 その後、アルトやランカをはじめ、シェリルを知る人々の尽力により、シェリル・ノームは、ギャラクシーの陰謀に直接関与していたわけではないことが正式に裁判で認められ、無罪を言い渡されはしたが、それでもシェリルは、自分がなにひとつ罪も負っていないと考えてはいなかった。

 

 確かに利用されただけかも知れないが、それでもフロンティアの人々を苦しめた計画の、その一端を担っていたのは事実だと思っていた。

 

 だからそんな中、自分が歌うことで喜んでくれる人たちがいることはとてもうれしかったし、一時は歌うだけで生命すら脅かされるような状況だったことを思えば、今こうして生きていて、人々の前で歌うことができるだけで、充分すぎるほどに満足の筈だった。

 

 けれど心の奥では、もっと大きな望みが、どうしようもなく頭をもたげているというのがほんとうで。

 

 取り敢えず今は、ギャラクシーにいた頃と同程度の設備のあるところで、レコーディングをして、新しいアルバムを出したいというのが、いちばんの望みだった。そしてそれは現在のフロンティアでは無理なのだった。

 

 ギャラクシーにいた頃は、シェリルは自分専用のスタジオを、自宅の地下に持っていた。あれはただ金をつぎ込んだだけはなく、機材はすべて自分で試して、厳選して吟味して、シェリルの求めるものをすべて詰め込んだ、最高の秘密基地だった。

 

 そのギャラクシーもバジュラに襲われ、きっとあの相棒とも呼ぶべき地下室も、宇宙の藻屑と消えたのだろう。まだネットワークにアップロードしていなかった、マスタリングをしていない新曲のデータもあったのに。

 

 生きていて、そして歌えるだけで幸せだ、と。そんなささやかな幸せを噛みしめていられた数ヶ月前。自分はやはり欲張りなのだとシェリルは思う。今はもうそれだけでは満足できなくて、以前のような大がかりなステージをやりたいと思いはじめていたし、もう一年以上新しいアルバムを出していない。できることなら、また銀河を横断するようなツアーに出て、自分を待っていてくれるたくさんの人たちに、直接この歌を届けたかった。

 

 ツアーは、体調なども考えて、もう少し先に見送ることにしたとしても、今どんどんできている曲を、とにかくちゃんとした設備で、優れたミュージシャンの手を借りて、完全な形に仕上げたかった。そのためには、どこかもう少し設備が整った星に行く必要がある。けれどフロンティアを離れたら、アルトと離ればなれになってしまう。

 

 料理をしているアルトの後ろ姿を、シェリルはじっと見つめた。

 

「……いやよ」

 

 ちいさく、誰にも聞こえないくらいの声でつぶやいたつもりだったのに。アルトはそれにすら気づいてしまう。

 

「ん? 何が」

 

「……なんでもない」

 

「さっきからそればかりじゃないか」

 

 アルトは料理をする手を止め、蛇口から水を流して手を洗ってタオルで拭くと、エプロンを外してシェリルのそばに座った。

 

「どうした?」

 

 やさしく、穏やかな表情で、顔をのぞき込んでくるアルトを見ていると、心の底から温かな気持ちが沸き上がってくる。だからシェリルは思うのだった。そばにいたい、離れたくない、もうどうしたって彼を失えない、と。

 

 シェリルはアルトの肩に頭を預け、目を閉じた。その頭を、抱えるように撫でる大きな手。

 

 けれど、こんなにも温かくて幸福な場所にいるのに、それだけでは満たされきることができなくて。何故なら夢が生まれてしまうからだ。未来に向かって走り出したいと、わくわくする心が。それがある限り、ただ温かいだけでは満たされない。いまここにある、やっと手にした安らぎは、長い間、何より自分が求めてきたものの筈だったのに。

 

 歌いたい。今は心の中にしまわれているこの音たちを、最高のものに仕上げて、シェリル・ノームの歌を求めてくれるすべての人たちに届けたい。あふれてしまう。止められない。この気持ちを押しとどめてしまったら、きっと、どれほどに温かな場所にいても幸せだと思えなくなる。

 

 それは呪いにも似た力だ。神に奇蹟を手渡された歌姫の、背負うべき宿命。

 

 求めるものが足りない。どれほどに誤魔化しても、きっとそう長くは、この場所にいられない。

 

 

 

 

 

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 その日は、春らしい温かな陽気に満ちた、気持ちのいい日だった。

 

 野外に誂えられた簡素なステージで、シェリルはランカと歌っていた。歌っている間は何もかもを忘れられるし、殊に彼女と一緒であれば、歌う喜びは何倍にも増すのだった。

 

 いくつもの舞台を共に作り上げてきたからか、或いは初めて同じステージで歌ったあのときからそうだったのか。ランカとのステージは、それほど綿密な打ち合わせをしなくても、いつでもうまくいく。少し目を合わせただけで、お互いの思いが通じ合う。

 

 ランカとは一緒にいる時間も長いから、言葉を交わす機会も当然多かった。けれどどれだけ女の子同士のかしましいおしゃべりを重ねても、ステージで、歌に乗せて互いに心を交わす、その言葉ではない会話の密度には到底届かない。

 

 今ではシェリルは、言葉にされていないランカの思いの殆どを知っていると、自信を持って言い切ることができるし、ランカもきっと同じだ。やはりその繋がりは、初めて船上ステージで共に歌った時から存在していたようにも思う。

 

 自分にとってアルトがどうしても必要な存在であるように、ランカもまた運命的な相手なのだろう。だからどうしてこの幸福を振り切って、この星を発つことを考えねばならないのかと、シェリルは考えてしまう。アルトとランカ、自分の心を満たしてくれるはずの人たちが、ここにいるのに。

 

「シェリルさん?」

 

 ステージを終えて、舞台袖に引っ込んだシェリルに、ランカが呼びかけた。

 

「なあに?」

 

「何か考え事ですか」

 

「……相変わらず、察しがよすぎて困るわ、ランカちゃん」

 

「私それほど明敏じゃないですけど。でもシェリルさんのだけはわかっちゃうんですよね」

 

「ふふ」

 

 スタッフから差し出されたタオルを受け取って汗を拭き、シェリルは笑った。

 

「ランカちゃんとのステージが、楽しいなって思っていたのよ」

 

「いきなり改まって、どうしたんですか。それが考え事の中身ですか?」

 

「そう」

 

 ステージの向こうから、観客のアンコールを求める声が響いている。

 

「さ、アンコール行くわよ、ランカちゃん」

 

「そっか、シェリルさんには、終わりが見えちゃったんですね」

 

「……え?」

 

「楽しかったのにな、一緒にシェリルさんと、こうやってフロンティア中を回るの。でも仕方ないかな」

 

 ちょっとふくれっ面をして、それから笑うランカを見て、シェリルが焦った声を出した。

 

「ちょっと待ってよランカちゃん、あたしまだ何も」

 

「え、やだなあシェリルさん、そろそろフロンティアを出たいんでしょ、次のことがどんどん浮かんで来ちゃって、それで頭がいっぱいなんですよね。私も銀河の妖精シェリルさんの、あのすごいステージ見たいし、ちゃんと仕上げられた新しい歌も聞きたいから」

 

「どうしてわかるのよ!」

 

「え、どうしてわからないと思うんですか!?」

 

 逆にランカに驚かれてしまって、シェリルには返す言葉がない。

 

「アルトくんはなんて言ってるんですか?」

 

「何も言ってないわ、だってあたし、アルトに、そんなこと考えてるって、相談してないもの」

 

 そうシェリルが答えると、ランカが、はあぁ、と大きくためいきをついた。彼女の感情に合わせて動く緑の髪が、ぺたんと脱力する。

 

「だめですよシェリルさん、早く相談しなきゃ。アルトくんにだって都合があるんですから」

 

「あ……」

 

 ランカの言葉が、胸にぐさりと突き刺さった。

 

 そうだ、当然のことながら、アルトにも都合がある。今日も彼は、楽屋でこのステージが終わるのを待ってくれている。体調が回復し、ランカと一緒にチャリティライブを始めてから、ライブの時は殆ど、そばにいてくれるのだった。マネージャーでもないのに。

 

 けれどほんとうは、彼には彼の都合があるのだろう。S.M.Sの任務も、シェリルのライブの日は全部非番にしている。そうさせているのは自分なのかも知れない。彼の生活を、そうして踏み躙っているのは。

 

「うん、そうよね」

 

 シェリルはきゅっと唇を結んで、決意を秘めた表情で頷いた。

 

「……シェリルさん?」

 

 ランカが心配そうな顔を向ける。それには構わず、シェリルはきっぱりと言った。

 

「みんなが呼んでるわ。行くわよ」

 

 

 

 

 

 

 

「シェリル」

 

 アンコールを終えて、自分の楽屋に戻ると、アルトが笑顔で向かえてくれた。

 

「今日もいいステージだったよ」

 

「……ん」

 

 閉めたドアの前で立ち尽くしてしまったシェリルを、アルトがふわりと抱きしめる。

 

「ちょっと、あたしライブあとなんだから、汗かいてる……」

 

「気にするな」

 

「気にするわよ、あんたの服についちゃうじゃない」

 

「そんなの洗えばいいだけのことだろ。……どうした?」

 

 アルトの腕の中で顔を上げると、やさしい瞳が一直線に、自分を見つめていた。そのアルトの顔を見て、胸が、きゅんと痛む。

 

 フロンティアを離れるというのは、ライブのあとこうして迎えてくれる彼が、そばにいないということなのか。

 

「アルト」

 

 自分を抱きしめるその腕が温かくてたまらない。どこにも行きたくない。ずっとここにいたい。今このときで時間が永遠に止まってもいい。

 

 けれど。

 

「シェリル?」

 

 ぎゅっとアルトの胸に顔を埋めて、その見た目よりもずっと逞しい背に両腕をまわした。耳に伝わってくる鼓動。彼の音。ただ自分の為だけに、ここにこうしていてくれる、やさしい人の心臓の音。

 

 この人を、縛りつけているのだろうか。自分のいるここに。そう思うとシェリルはかなしくて仕方がなかった。自由を、自分の意志を奪われるのは、シェリルにとって最も耐え難いことのうちのひとつだった。それこそ歌を失う次くらいには。けれど自分は、それを彼に強いているのだろうか。

 

 彼には散々弱さを見せてしまった。だからアルトはずっとそばにいてくれるのかもしれない。手をかけて心をかけて、シェリルがさみしがらないように。傷つかないように。まるで真綿でくるむように、大事に、大事に。こわれもののように。

 

 そうしていつまでも、それを当然のことと受けとめて、何にも気づかぬふりをして、身勝手にアルトを縛り続けるのか。自分だって自由に歌を歌いたいといつも願っている。それなのに大切な人を、自分の弱さを見せびらかし縋って縛るなんて。そんなのは嫌だ。

 

 ほんとうは自分は、そんなに弱くはないはずなのに。

 

 

 

 

 

 

 

 その頃、隣の楽屋で、ランカはエルモと話していた。

 

「シェリルさん、アルトくんに何も話してないんだなあ」

 

 重たいアクセサリーを外しながら、ランカは言った。このちいさな掘っ立て小屋のようなライブ会場に、技術の粋を集めたホログラム投影機など勿論ない。だから衣装も、まな板のようなちょっと淋しいボディも、完全に自前だ。

 

「え?」

 

「シェリルさん、どこか他の星に行くなら、早めに相談しなきゃだめだと思うんですよね。いくらS.M.Sが自由の利く職場だって言っても、他の星に異動ともなれば、アルトくんだって早めに希望を出したりしないといけないだろうし、小隊を率いているくらいなんだから、代わりの人を見つけたりする都合もあるだろうし」

 

 着替えのために、カーテンで仕切った部屋の隅に一角に入り、ランカはひらひらのレースの衣装を脱ぎ捨てた。可愛い衣装を着るのは好きだけど、ステージ衣装というのはそれなりに面倒なものでもある。ランカはさっさと普段着に着替えた。タータンチェックのレトロな昔ながらのデザインのスカート。今年はフロンティアではこれが流行っている。シェリルが着れば子どもっぽくておかしいだろうが、一歳違いでしかない筈のランカにはよく似合っていた。

 

 カーテンの向こうから、エルモの声がする。

 

「やっぱりシェリルさんはそろそろフロンティアを離れるつもりでしたか……。まあ、今のフロンティアでは、できることが限られますからね」

 

「そうなのよ」

 

「確かにシェリルさんは、もっと都会の、設備が整った船団に行った方がいいでしょうね。今のフロンティアでは、シェリルさんを引き立てる高技巧のステージも作れないし、シェリルさんが出していたアルバムのような、最高音質でのレコーディングも無理でしょうから。……今までシェリルさんは、フロンティア出身でもないのに、フロンティアのために命が燃え尽きる寸前まで歌って、人々を救ってくれたんデスね。その後もこうして、ずっと、一銭にもならないチャリティのライブを続けてくれて。……そろそろ銀河の皆さんに、妖精をお返ししないといけませんね、フロンティアで独占せず」

 

「ね、ほんとに、淋しくなるけど……」

 

 ランカは鏡を見ながらためいきをついた。この楽しい日々がいつまでも続けばいいと、思わずにいられなかったけれど、それでもシェリルはいつまでも自分の憧れだから、彼女が先の未来に向かって飛びたいと願うのなら、それを見まもりたいと思う。その飛翔を見ていたい。

 

「ランカちゃんはどうするんですか、この先」

 

「私ですか? 私は今のところフロンティアを離れるつもりはないから、これからもずっと、エルモさんにお世話になります」

 

 にっこり笑ってそう言うと、エルモが、大げさなパフォーマンスを伴った歓声を上げた。

 

「あーそれはよかったデスよ! ふたりともいなくなってしまったら淋しいですから。でもいいんですか、ランカちゃんだって、他船団で大きなライブをやってみたりしたくはないんですか」

 

「それはしてみたいけど、今じゃなくていいです。それに、あの派手な大がかりなステージも楽しかったですけど、どっちかというと私、こういう、ドサ回りみたいにこじんまりとしたライブの方が好きなんですよね、下積み時代を思い出して」

 

 変な着ぐるみを着て、フロンティアのあちこちで営業をして回った頃を思い出して、ランカは懐かしさに目を細めた。あれからまだ二年と経っていないというのに、随分と昔のことのように思えた。

 

「あー。あの、シェリルさんが初めてフロンティアでライブをしたときの、ユニバーサルバニーがもういちど見たいなあ」

 

 ランカはうっとりとつぶやいた。

 

「見たいですねえ。あのライブは始まってすぐに中断されてしまって、とても残念でした。きっともっとたくさんの仕掛けがあったことでしょうから」

 

 エルモが言う。ランカはぴょん、と立ち上がって、気合いを入れるように拳を振り上げた。

 

「よーし、シェリルさんのそんなライブが、またフロンティアで見られるように、私は歌でフロンティアの人たちを励まして、早くあのライブができるようなホールを作れるようになるくらいまで、復興させなきゃ。がんばるぞー!」

 

「いいデスね、それはスバラシイ目標だと思いますよ、ランカちゃん!」

 

 ふたりは手を取り合い、誓いを新たにして笑い合った。

 

 

 

 

 

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「……というわけなんだが。どうだ、アルト」

 

「アグレッサー、ですか」

 

「ああ。興味あるだろう?」

 

 訓練あと、アルトは部下たちと機体整備をしていた。いくら階級が上がっても、機体整備を疎かにするようでは飛行機乗りは勤まらないと、アルトは思っている。それに自分が命を預けている機体を知り尽くしておくのは当然だと思っていた。

 

 そしてそれだけではなく、要するにもともと、アルトはこのバルキリーという機体が好きなのだった。趣味も興味も、最終的にはすべてが、バルキリーに乗ることに集約されてしまう。

 

 以前はただ空を飛べればいいと思っていた。けれど実際に、大気のある星を飛ぶという夢が叶って、思う存分に広い空を味わったとき、その興味は消え失せるかわりに、今度はもっと、飛行機乗りとして別の深みに向かって行った。それは歌舞伎の芸をきわめることとよく似ているとアルトは思った。バルキリーで空を飛ぶための、あらゆることをアルトは試し、その夢に没頭した。

 

 だからオズマのこの話が、うれしくない筈がなかった。

 

 けれど。

 

「興味はあります。でも教導部隊は、今のフロンティアにはなかったはずですが」

 

「ああ。フロンティアは今は復興に忙しくて、教導部隊編成どころの話じゃない。だから別の船団に出向ということになるだろうな」

 

「別の船団、ですか」

 

「そうだ。アグレッサーになるには、研修にまず、年単位の時間がかかるからな」

 

 アグレッサーへの推薦。それは希望してもなかなか実現化しない、ある類のパイロットにとっては夢のような話だった。アルトのように、バルキリーという乗り物を愛してやまない飛行機乗りにとっては特に。それゆえにこの話が来たのだろうが。

 

「おまえなら、願ってもない話だと、飛びつくかと思ってたよ」

 

 背後から、ミハエルが声をかけてきた。

 

「……ミシェル」

 

「俺もさっき隊長に声をかけられたんだ」

 

「おまえは行くのか?」

 

「ああ」

 

 一も二もなく答えた、ミハエルのことを、アルトは羨ましく思った。

 

「おまえも即答で引き受けると思ってたよ。……シェリルか?」

 

 唐突に図星を突かれて、アルトは一瞬言葉に詰まった。アグレッサーの研修は、どんなに優秀なパイロットでも、最低一年はかかるという。

 

「……そうだ。シェリルをひとりにさせたくない」

 

「おいおい。シェリルは、おまえに頼り切らなきゃ生きていけないような、そしておまえの進みたい道を邪魔するような女じゃないだろう」

 

「ああ、そうだよ。シェリルにこの話をすれば、一も二もなく、行けって言うに決まってるさ」

 

 誰よりもそばにいるシェリルに、アルトは空へのあこがれと、日々バルキリーというものに乗って思うことを、延々と語り続けてきた。それこそ他の女にだったらとっくに愛想を尽かされているだろうと思えるほどに。そんなアルトの空の話を、シェリルはいつでも、いつまでも、目をかがやかせて聞いてくれる。アグレッサーという仕事は、今までアルトがやってきたことの集大成と言える仕事になるだろう。それをシェリルがわからないはずがない。

 

 だけど平然と、あんたの夢が叶うのよ、行きなさいよ、と言って自分の背中を押したあとに、ひとりきり残された部屋で、シェリルが淋しさにふるえるのかと思えば、とても行く気になどなれないのだった。

 

「俺がそばにいなかったら、ライブが終わったあとに、楽屋に戻ってきたシェリルを抱きしめる腕がない」

 

「……おまえよくそれを人前で臆面もなく言えるよな」

 

 呆れ果てたようにミハエルが言った。

 

「馬鹿。これは結構重要なことなんだ」

 

 このときアルトは完全に、後ろで作業をしている部下たちのことは失念していた。全員が手を止めて、訓練の厳しさで知られるアルト早乙女中尉の後ろ姿を、呆然と眺めているのを、このときアルトは見ていない。

 

「それにしたって過保護すぎないか、シェリルが、そんなにか弱い女の子にはとても見えないんだが」

 

「シェリルはさ、見た目と中身が結構違うんだ。心にもないことばかり言うし、大変なときほど、人の手を振り払って強がるし。手がかかって仕方ない。だからいいんだよ過保護なくらいで……」

 

 そこではっと、アルトは周囲の視線に気がつき、口を噤んだ。それをミハエルがにやにやしながら見ている。

 

「まあ、シェリルのそんな所も、わからないでもないけどな。だけどシェリルが、自分のせいで、アルトの足を止めさせたなんて知ったら激怒するだろう」

 

「……そうだろうな」

 

 シェリルは確かに、弱い面を持ち合わせてはいても、いつだって自分の手で自分の人生を切り開いてきた。そんな彼女のかがやくような強さを、勿論アルトは知っている。けれど、その強さこそが脆さに直結する、そんなあやうさがあることをどうしても否定できない。

 

 シェリルに必要なのは、彼女の戦場とも言えるステージを降りたときに、がんばったな、と抱きしめてねぎらう、その腕だけなのだろうとアルトは思う。それさえあれば、シェリルは自分の翼で、望むままに、どこまでも飛んでいけるだろう。それこそ身に降りかかる、どんな困難も打ち破って。

 

 その眩しい後ろ姿を見ていたいから、アルトはステージから降りたシェリルを抱きしめられる場所に、いつでもいたいのだった。

 

「で、どうする」

 

 オズマがもういちど、アルトに訊ねた。

 

「……すみません、少し時間をください。考えます」

 

「わかった」

 

 オズマは頷き、そしてしみじみと言った。

 

「ランカはそういうのが必要ないんだよな。芸能界に入ると聞いたときは心配したが、ランカはシェリルとは逆で、見た目よりずっとタフで強い。……それはそれで、ちょっと淋しいんだが」

 

 そのオズマの言葉に、ミハエルが答える。

 

「そう育てたのは隊長でしょう。ランカちゃんは、欠けるところのない愛情の中で育ってるから」

 

「そ、そうか?」

 

 オズマが柄にもなく照れた顔をする。それを見てアルトは、シェリルのことを考えていた。女王様然とした見た目とは裏腹な、彼女の繊細さや、やさしさ、人に向ける愛情の深さは、きっと彼女を育てたグレイスが、それだけシェリルをたいせつにしてからなのだろうと。

 

 それでもシェリルの孤独が癒されなかった理由を、アルトは知っていた。その擬似的な親子関係が、そこに確かに存在しているある愛情の理由が、単に契約によるものでしかないのではないかという疑いを、グレイスを失う直前まで、払拭することができなかったがゆえだ。

 

 ずっと不安だったのだろう。愛情を注がれて、それに溺れたいと願いながら、当然のように享受したいと思いながらも、どうしてもそれができずにいた。

 

 記憶にある幼いシェリルが、そんな恐怖に怯えて、不安の中で日々を過ごしていたのかと。フロンティアでシェリルに再会した時の、あの、歌への情熱にあふれた、自信に満ちた姿が、それほどに不安定な土台の上に、必死の思いでシェリルが築いてきたものなのだと考えると、胸が痛くなるのだった。

 

 だからもう二度と、彼女に不安な思いをさせたくない。無理に笑ってほしくなどなかった。シェリルを抱きしめて、誰にも傷つけさせないように護っていたかった。

 

 

 

 

 

 

 

「明日はごめんな、やっぱり仕事を外せなかった」

 

「何言ってるのよ。このあたしが、あんたがいなきゃ歌えないとでも思う? 心置きなく働いてらっしゃい」

 

 シェリルは、明日もランカと一緒に歌うことになっていた。そしてアルトは、どうしても外せない重要な仕事があるとのことで、以前からこの日はライブを見に来れないのだと言っていた。

 

「ねえアルト、明日来られないなら、お昼にデートしたいわ、デート」

 

「昼って」

 

「ランチくらい食べるでしょ。だからお昼頃、そっちに行って待ってるわ」

 

「うわ、来るな、来るなよ、S.M.Sのビルのロビーに、シェリル・ノームがいたら大騒ぎだ」

 

「馬鹿ねえ。一見わからない程度には変装するわよ」

 

 そう言いながらシェリルはソファから立ち上がり、相変わらず料理を作っているアルトの、背中から抱きついた。

 

「どうした?」

 

「ううん。そのまま、料理作ってて」

 

 アルトの背中に顔を埋めて、それから耳をあててみる。胸元に耳を当てたときのように、鼓動は聞こえない。

 

「ライブ終わったあと、俺がいないと、淋しいか?」

 

 アルトが唐突に、そんなことを言った。だからシェリルは精一杯あかるい顔をして笑う。

 

「何言ってるのよいきなり。そんなの今回が初めてじゃないでしょ。あんたがいてもいなくても変わらないわ。あたしはプロよ、そんなの当然じゃない」

 

 精一杯強がって、そんなことを言ってみたが、明日のライブでは、いつも楽屋で待っていてくれるアルトがいないのかと思うと、アルトに投げた言葉とは裏腹に、淋しくなってしまうというのがほんとうのところだった。

 

 まだグレイスがそばにいた頃は、ライブが終わると、舞台袖にいるグレイスが、よく頑張ったわね、と言いながら必ず抱きしめてくれた。その瞬間がシェリルはとても好きだった。眩いライトの下、張り詰めきった緊張が、その腕の中でほどけてゆく気がして。

 

 今、グレイスがいなくなっても、自分がこうして歌い続けていられるのは、きっといつでもそばにいてくれる彼のおかげなのだと思う。どうして彼は、自分がいつ温かな手を必要とするのかをわかってくれるのだろう。

 

 そしてアルトも、極力ライブの時は予定を空けるようにしてくれているようだったが、それでもやはりどうしてもアルトがやるしかない仕事もあって。

 

「ああ、そうだな。俺がいなくても、おまえは完璧なステージを観客に見せるだろう。知ってるよ。だけどさ」

 

 そう言うと、アルトがくるりと振り向いて、それからシェリルを見つめて、唐突にぎゅっと抱きしめた。痛いほど強く。

 

「アルト……?」

 

 いきなり抱き寄せられて、シェリルはアルトの腕の中で、訝しげにその名を呼んだ。彼は普段、こんな愛情表現をする人ではないから。

 

「ライブが終わって、俺がそばにいないとき、おまえが他の誰かにかけられた言葉で、俺が抱きしめるのとおなじくらいに安心するのが悔しいんだ」

 

「な、なに言って……」

 

 あまりに唐突な、赤裸々な心情の告白に、シェリルの方が思わず赤くなって慌てた。けれどまっすぐにシェリルを見る、アルトは真剣な顔をしていて。

 

「おまえがひとりだとさみしがるから、そばにいるわけじゃない。俺がおまえのそばにいたいから、おまえのことを見ていたいから、だからここにいるんだ」

 

「……アルト?」

 

 照れもせずにその口からはっきりと語られる彼の愛の言葉に、うれしさを憶えながらも、シェリルは、胸のうちに不穏な予感が広がるのを、止めることはできなかった。

 

 彼が今、どうして突然、普段なら恥ずかしがってなかなか口にしないような、こんなことを言い出したのかと。

 

 

 

 

 

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 次の日。シェリルは軽く変装して、S.M.Sのビルにやってきていた。ロビーのソファに身を沈めて、自動販売機で売っていた、紙コップの紅茶を飲みながらアルトを待っていると、パイロットスーツを着た若い青年たちが話している声が耳に入ってきた。

 

「あれ、びっくりしたよな! 昨日の早乙女中尉の」

 

「ああ!」

 

 わっと笑いが起きる。アルトの名が耳に入ってきて、シェリルは耳をそばだてた。

 

「まさかあのひとが、人前であんなことを言うなんて」

 

「アルトさん、シェリル・ノームとつきあってるってほんとうだったんだ」

 

「馬鹿、おまえ知らなかったのか。でもお似合いだよな。俺シェリルの大ファンだからさ、週刊誌とかで、シェリルと噂になってる男とかを見るたびに、絶対許さねえって思ってたけど、アルト中尉なら仕方ないや」

 

 自分の名前までもが出てきて、思わずシェリルは帽子を深くかぶり直した。週刊誌のネタなどどれも嘘っぱちだ。ギャラクシーにいた頃も、そしてこのフロンティアに来てからさえ、身に覚えのないいい加減な話題の中に山ほど登場させられている。そのようなことは今更過ぎて、シェリルは何とも思わない。

 

 そしてどうやら自分のほんとうの恋人は、彼らの話題の中心になっているらしい。部下たちの話している声の調子を聞く限り、アルトは彼らに好かれ、尊敬されているように思えた。うれしくなってシェリルは、くすりとちいさく笑った。

 

 それにしても、人前であんなことを言う、というその内容は、どのようなものだったのだろう。その先に、自分とアルトがつきあっているという話題が続くようなことを、彼は人前で言い放ったのだろうか。

 

「そうそう、あれは驚いたよ。俺がそばにいなかったら、ライブが終わったあとに、楽屋に戻ってきたシェリルを抱きしめる腕がない、だもんな!」

 

 それを耳にして、シェリルは飲んでいた紅茶を吹きそうになった。かあっと頬が熱くなる。人前で一体、何を言っているのだろう彼は。

 

「だけど早乙女中尉、実際どうするんだろう。アグレッサー候補に抜擢なんて、あの人にはまさに天職だと思うのに、やっぱり断っちまうのかな」

 

 シェリルは思わずまばたきをした。どういうことだろう。アグレッサー候補。そのような話は聞いていない。いつも仕事のことは、事細かに話してくれるのに。

 

 アルトに、仕事やバルキリーについての話を延々と聞かされているうちに、いつの間にかシェリルも、軍やS.M.Sに関してのこと、バルキリーについての知識はかなりついていた。だからアグレッサーという仕事は、間違いなく彼の興味を惹くものであることもわかる。なのに断ろうとしている?

 

「ああ。昨日の様子だとそうかもな。あの真面目な人が、臆面なくあれだけの惚気を人前でぶちまけたんだぜ。やっぱり恋人を置いて他船団に行くなんて考えられないんだろう、アグレッサーの研修は、フロンティアでは受けられないから」

 

「……え!?」

 

 シェリルは思わず立ち上がっていた。そのシェリルの声に驚いて立ち止まった、若いパイロットたちの前で、シェリルはサングラスを外す。

 

「わっ……ほ、本物!」

 

 先程、シェリルの大ファンだと言った青年が叫んだ。

 

「ちょっと今の話、詳しく聞かせてもらえるかしら」

 

 

 

 

 

 

 

 士官用の食堂の隅のテーブルで、アルトはランチプレートを前に、ためいきと共に言った。

 

「……なんだ、聞いたのか」

 

「聞いたのか、じゃないわよ!」

 

 シェリルが、バンと音を立ててテーブルを叩く。

 

「おい、目立つからもうちょっとおとなしくしてくれ」

 

 アルトの言葉に、シェリルが辺りを見回すと、こちらに注目していたらしき人たちが、みんな一斉に目線をテーブルに落として食事を取り始める。

 

「……どうして行かないのよ、あんたの夢でしょ、行きたいんでしょ!」

 

 多少声をひそめて、シェリルは言った。

 

「行かないとはまだ言ってない」

 

「だけど即答しなかったんでしょ。あんたの部下たちが噂してたわ、アグレッサーの推薦、断るんだろうなって」

 

「俺が言ったんじゃない、勝手にやつらがそう解釈しただけで」

 

「そう解釈するようなことを、あんたが言ったんでしょ!」

 

「別に俺はまだ何も言ってない、考えさせてくれって」

 

「だからどこに考える余地があるのよ、なんで行くって言わないの」

 

「だっておまえ……」

 

 シェリルはじっとアルトを睨んだ。彼の言いたいことは大体わかっていた。シェリルがいるフロンティアを離れるという選択ができなかったのだ。それでわかった。昨日唐突にあんなふうに抱きしめられた、その理由も。

 

「あたしはあんたの荷物になるなんてまっぴらよ。足を引っぱるのも。それくらいならひとりでいた方がずっといいわ」

 

「おまえがそう言うってわかってたから言えなかったんだろう!」

 

「当然よ。ちょうどいいじゃない。お互い一度離れて好きなことやってみましょう。あたしもちょうど、フロンティアを離れて、もっと音楽活動に適した船団に行ってみたいって思ってたの」

 

「シェリル、だから昨日言っただろう、俺は」

 

 必死に食い下がろうとするアルトに、シェリルはできる限り穏やかな表情を作って、告げた。

 

「……ねえ、アルト。別れ話をしてるわけじゃないわ。あたしは今フロンティアにいるけど、あんたと違って、もともとここの出身というわけじゃない。だからずっとここにいるつもりじゃなかったのよ。ランカちゃんとチャリティライブを続けるのも確かに楽しいし、あたしが歌うことが、少しでもフロンティアの人たちの力になるならと思ってる、それはほんとうよ」

 

「…………」

 

「だけどね、あたしにも夢があるの、アルト。今のフロンティアじゃ、あたしは思うように音楽を作れない。歌は歌えるわ。そして曲を作ることもできる。だけどあたしが思うような音を作り出すための設備は、今のフロンティアにはないの。あたしの思い描くステージを再現するための、最新技術を投入したコンサートホールも。それにあたしは、もっと遠くへ行きたい、フロンティアだけじゃなくて、銀河のあらゆるところで歌いたい。あたしの歌を求めてくれてる人のところへ行きたいの。……どちらにしても、いつまでも一緒ってわけには、いかないのよ」

 

 アルトはじっと、無言のまま、シェリルを見ていた。その真意を測るかのように。だからシェリルは微笑んだ。

 

「一度離れてみましょう、あたしたち」

 

 

 

 

 

-5ページ-

 

 シェリルはひとり、道から外れて草の地面を歩いていた。

 

 踏みしめる、ハイヒールのブーツの下の地面は瑞々しく。そこには命の息吹が感じられる。

 

 大気のある星を飛んでみたい。そんなアルトの気持ちがわかる気がした。

 

 機械化が進んでいるギャラクシーから来たシェリルにとっては、たとえそれが人工のものでも、フロンティア船団の自然はとても美しいものに映っていたけれど、今踏みしめている、何億年も昔から存在してる大地と、足もとでゆれる草花のその生命力を感じてみれば、あのときのフロンティアでさえ、やはり偽物の生命を内包しているだけだったのだと思わざるを得ない。

 

 シェリルは思いきり、春の薫りがする空気を肺に吸い込んだ。そして空を見上げる。アルトはこの空を、存分に飛んだのだろう。満足したのだと、彼も言っていた。そして今新しい夢へと繋がる道を提示されている。

 

 見上げた空は夕暮れ時。空の端はいつか見た綿菓子のようなやわらかな桃色をしていて、燃え上がる橙の夕陽は空の半分までを染め上げる。そして天蓋の半分はもう暮れていて、またたく一番星を抱く空は藍を流したような深い色。

 

 この美しい星を、シェリルは確かに愛していた。毎日姿を変える大自然の中で、歌う歌は大気に解け、きらめく水も光も、シェリルの心に染みこんで新しい歌を歌わせてくれた。

 

 けれど、そんな美しい自然に囲まれながらも、自分があれ以来ずっとここにいた理由はただ、彼がいたから。その一点に尽きるのだとシェリルは思った。

 

 アルトがいなければ、この夕陽の美しさはきっとシェリルの心に届かなかった。

 

 けれどそれでも、潮時だと、シェリルはそう考えていた。互いが互いを思い合うあまりに、足を引っ張り合うような関係に陥ってどうなるというのか。

 

 無限の空。アルトが求めたもの。それは自由の象徴。

 

 本質的に、自分たちは自由に慣れていないのだとシェリルは思う。

 

 両親を失いギャラクシーのスラムを彷徨っていたシェリルは、グレイスに拾われたあのときに、生命を繋ぐための対価を支払った。それ以来ずっと「フェアリー9」はギャラクシーの管理下にあった。緩やかに死に至る病を身の裡に宿し、人ならざるものの心を動かす力を、この歌に纏わせて。

 

 フロンティアに着いたときに、グレイスに覚悟を問われて自分は言った。シェリル・ノームは、いつでもどんなときでもただ、全力で歌うだけ、と。

 

 他人からは自分はきっと、奔放にも自由にも見えただろう。けれどシェリルがほんとうの意味で、自分の意志で自由に振る舞うことができるのは、ステージの上に立ち歌う時だけだった。そしてどれだけの思いを込めて、願いを重ねて歌っても、所詮自分は偽りの歌姫。この歌はギャラクシーの計画のうちに、道具として育てられたものなのだと、シェリルは思っていた。

 

 そしてアルトへの思いを自覚したときに、自分を縛っていたのは、急激に進行しているV型感染症だった。もう未来がないのに、彼に思いを告げてどうなるのかと。そう思い必死に自らを律した。

 

 そして自由を奪われていたのは、きっとアルトも同じだったのだろうと思う。歌舞伎役者の一族に産まれ、幼い頃から芸を仕込まれて。そこから逃げるように空へ飛び出そうとしたけれど、その先で軍人として戦いに身を投じることになり。

 

 それがゆえに、互いにわかり合えるものもあった。そんな自分たちは、縛られてしまう状況に、慣れすぎているのかも知れない。だからシェリルは思うのだった。一度離れて、すべてのものから自由になるという選択が、あってもいいだろうと。

 

 その先で、互いに縛り合うことなく、一緒にいられると思えるのならそれがいちばんいいのだろうし、物理的に触れあえる距離を失ったときに途絶えてしまう関係であるなら、きっと遅かれ早かれいつかは破綻するだろう。

 

 だから平気。彼がそばにいなくても。もしもこの先、一度離れたあと、二度と道が重ならないことを思い知ることになったとしても、今まで彼がくれた温かさを支えにきっと生きていける。あれだけたいせつにされ、愛してもらったのだから。もう大丈夫。

 

 濡れた頬をつめたく通り過ぎてゆく、新緑の香りを含む風は、さらさらと気持ちがよかった。シェリルは手に持っていたサングラスをかけた。

 

 今日のライブ会場は、S.M.Sのビルからそれほど遠くはない。タクシーを呼ぼうと思っていたが、数十分歩けばたどり着けるほどの距離だ。こんな顔では車を拾って乗り込むことすら恥ずかしい。もう歩いていこう。

 

「……あぁ、これじゃメイクが大変だわ」

 

 ステージに上がる人間が、本番前に顔を崩すなんてありえないことだと、シェリルは苦笑しながら、帽子を深くかぶり直して歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 ライブはこの日も盛況だった。

 

 アンコールの声を聞きながら、舞台袖でシェリルは、左の耳につけているイヤリングに触れた。彼の声が聞きたかった。今日はステージを終えても、待っていてくれる人は誰もいない。そして彼と離れたら、これが日常になる。

 

 そう思った瞬間、身を切るような淋しさに襲われて、シェリルは思わず目を潤ませた。

 

「シェリルさん?」

 

 ランカが、そんなシェリルの様子に気づいて声をかけた。相変わらず彼女はこんな時ばかりは目聡くて、困ってしまう。

 

「ごめんね、大丈夫」

 

 シェリルはにっこり笑うと、ランカの手を引いた。

 

「さ、アンコール、行きましょ!」

 

 シェリルはしっかりと顔を上げて、光のあふれるステージに踏み出した。大丈夫。自分には歌がある。ステージが。だから淋しくなんてない。ひとりで歌うことなんてなにも辛くない。

 

「みんな、ありがとう!」

 

 ステージに戻り、シェリルがそう言うと、わあっと歓声があがった。

 

 以前ツアーで回っていたときには考えられなかったようなちいさなホール。それでもこうして、歌を聞いてくれる人たちの声を身近に感じながら、ランカと歌うのはほんとうに楽しかった。そして楽屋に戻ればアルトが待っている、そんな日々がいつまでも続けばいいと思っていた。それでももう次の夢を見よう。

 

 あふれて止まらない、ステージと、歌うことへの夢を叶えるために。そして自分は歌さえあれば、ひとりでも歩いて行けるのだと、彼に伝えるために。

 

 スポットライトがシェリルを照らし出す。ダイレクトに当たる、ライトの熱と眩しさに、シェリルは目を細めて笑った。けれどその光が、唐突に遮られた。

 

 パン、という銃声と共に、ライトが切れて暗くなり、硝子の破片が飛び散る。

 

「え……!?」

 

 一瞬、何が起きているのか、シェリルにはわからなかった。そのステージの上に、客席からひとりの男が駆け上がってきて、叫んだ。

 

「こんなチャリティライブなんかで、だませると思うなよ! おまえが来たから、フロンティアはバジュラに襲われたんだ」

 

 ランカが怯えたように立ち尽くす。舞台袖から警備員が走り寄ってきた。そのときシェリルが見たものは、男の手の中にある小型爆弾。スイッチが押される。

 

「危ない……!」

 

 間に合わない。咄嗟にシェリルは、そばにいたランカをステージの下に突き飛ばしていた。と同時に響いたのは、あたりをゆるがす爆発音。

 

 その瞬間にシェリルが呼んだのは、ただ、愛しい人の名前。

 

「アルト」

 

 直接当たったスポットライトよりも、更にまぶしい光が、シェリルの視界を奪い尽くして。そして唐突に暗転した。

 

 

 

 

 

 

 

 

-6ページ-

 

 

 子守歌が聞こえていた。それは誰の声だったのか。もう憶えてもいないほど、遠い記憶。

 

 アイモ、アイモ、と。やさしい声が、遠く近く、耳をすべり胸の奥に落ちる。ひとしずく、ふたしずく。恵みの雨、その水が、しみこむように。

 

 それはやさしい、光に満ちた記憶。そして胸に抱くのは、疑う余地もない絶対的な思慕。充ち足りた安心感。奪われることなど考えもしなかった、陽だまりのような幼い日。

 

『シェリル』

 

 愛しくてたまらないというように、たいせつにたいせつに呼ばれるその名前。

 

『あなたのことだけは、どんなときも護るから』

 

 それは誓い。

 

『だから、幸せになるのよ、シェリル』

 

 祈りが胸を浸す。

 

 幸せに、と。その祈りを、いくつか見た。今まで生きてきたその間に。

 

 ひとつではなかった。

 

 

 

 

 

「……シェリル!」

 

 

 

 

 

 舞台が暗転したように、唐突に光量が落ちた。そしてシェリルは、目をあける。

 

 先刻見た幻の中の景色とはうって変わって、そこは暗かった。目に映るのは、壊れた壁、倒れた柱、割れた照明。何があったかをシェリルは思い出した。

 

 ふうと長い息をつき、胸の中の空気を吐き出してから、シェリルは身を起こそうとした。その瞬間足に酷い痛みが走り、思わず叫んで踞った。

 

「あっ……」

 

 そのときになって漸く、足に何か重いものが乗っていて、動かせないのだとわかった。崩れた瓦礫の下敷きになっているのだろうか。

 

 ずきずきと足から脈打つ激痛が這いのぼり、シェリルはぎゅっと目を閉じた。その痛みに耐えようと、肩で息をつきながら、シェリルはアルトのことを考えていた。自分がいない時にこんなことになって、彼は自分を責めたりしないだろうかと。そんなことにはならないでほしかった。アルトが悪いわけではないのだから。それでもきっと。

 

「アルト……」

 

 痛みに再び意識が遠ざかる。その向こうに、シェリル、と自分を呼ぶ声が聞こえた気がして、シェリルはうっすらと目を開けた。それがまるで、彼の声のような気がして。ああ、もう幻聴が聞こえるほどなのか、とシェリルは自嘲気味に笑った。彼はここにはいないのに。

 

 けれど。

 

「シェリル!」

 

 今度ははっきりと、声が聞こえた。押し潰され間断なく痛みを訴えていた足もとが軽くなる。目の前の瓦礫が取り除かれ、天井が見えた。そして。

 

「大丈夫か、シェリル!」

 

 必死の形相でシェリルに近づき、抱き上げる、それは幻でもなんでもない、本物の彼の姿で。

 

「……アルト……?」

 

 アルトの腕の中、無上の安心感を憶えて、シェリルは泣きそうになった。

 

「シェリル……」

 

 名を呼ぶアルトの声が震えている。シェリルはそっと、アルトの顔に手を伸ばしてふれた。その頬がつめたく濡れていて、シェリルは驚いた。

 

「なに……してるのよ、どうしてあんたがここにいるの……」

 

「ライブハウスで爆発があったって通報がきて、すぐ飛んできたんだ」

 

「ランカ……ちゃんは……? それに、」

 

「ランカは無事だ、おまえが咄嗟に下に突き飛ばしたおかげで、怪我ひとつない。犯人も死んでない、S.M.Sの警備部隊が捕まえた。客にも重傷者は出てない」

 

 シェリルが聞きたいことと、心配していたことを、シェリルが聞こうとする前に、アルトが全部言ってくれた。

 

「よかった……」

 

 シェリルがそう言うと、ぎゅ、とアルトが、シェリルの体を抱きしめる。

 

「くそっ……なんでこんな、俺がいない時に」

 

 腕の中から見上げたアルトの表情は、心底悔やんでいる様子で。怪我の痛みで朦朧としながら、それでもシェリルは思った。せっかく互いの夢を追うために、離れようと決めたのに、こんなタイミングで心配かけてはいけないと。

 

「馬鹿ね……。こんなことくらい、予想済みよ……。あたしが、してきたことを思えば、ありえないことじゃないわ……」

 

 そう言うと、シェリルをまっすぐに見下ろす、アルトの目が、滲んでゆれた。

 

「そんなわけないだろ、おまえの所為なんかじゃ……!」

 

「ああ、も、うるさい……。あたしは大丈夫……。ひとりでも、誰かがいても変わらない。あんたが心配なら、警備スタッフでもシークレットサービスでも、何でも雇うわ……だから、あんたは行きなさ……」

 

「馬鹿!」

 

 なんとか絞り出したシェリルの言葉は、アルトの怒鳴り声に遮られた。

 

「おまえのそんな言い分に、今更俺が騙されると思うか。馬鹿にするなよ、おまえがひとりで大丈夫だなんて、そんなこと俺が少しでも考えると思うのか!」

 

 シェリルは無言で、アルトの顔を見上げた。綺麗な顔が、まるで怪我でもしたように痛みに歪んでいて。

 

「ひとりにしないって言っただろう、どこにも行かない、おまえのそばから離れない、そして空も飛ぶ。……一緒に行こう、シェリル。おまえがその歌を、銀河の果てまで届けたいんだったら、それに俺もついていく」

 

「……っ、何、馬鹿なこと言って……! あたしはいやよ、あんたの夢を踏み台にして……」

 

「違うんだ、シェリル。おまえがS.M.Sを通して俺を雇えばいい。個人専用の護衛機と、そのパイロット兼シークレットサービス人員として。大規模なツアーをするなら必要だろう。そしてS.M.Sにはそういう業務もある」

 

「え……」

 

 シェリルは驚いて、まばたきをした。

 

「それから、ちょうど俺が出向を打診されてたのはオリンピアなんだ。あそこにならあるんじゃないのか、おまえが求めるだけの技術も環境も。活動拠点にするには、うってつけの場所だろう」

 

「オリンピア……? それは、そうだろう、けど……」

 

 オリンピアには、シェリルもツアーで幾度か訪れたことがあった。人口も多く、ギャラクシーと同程度の科学力や技術力を保持する大船団。

 

「で、おまえがツアーに出てないときには、俺はオリンピアのS.M.S支部で仕事をしながら研修を受けて、アグレッサーになるための勉強をするよ。どうせ一朝一夕でなれるものじゃないんだ」

 

「アルト……」

 

 シェリルの目の端からぽろぽろと涙がこぼれて落ちた。それは痛みの所為ではなく。ただもう胸がいっぱいで、何も言葉にならなくて。

 

 ほんとうは、離れたくなんてなかった。ほんのわずかな間でさえも。

 

「俺は確かに空を飛んでいたい。やりたい仕事だってある。だけど翼がないのに、どうやって空を飛べばいいんだ。……おまえを失ったら、俺はきっと何もかもを失うんだ。今はもう、おまえの向こうにしか、俺の空はないんだ」

 

 シェリルはアルトに抱かれたまま、そこから腕を伸ばして、アルトを抱きしめた。

 

「うん……アルト……」

 

 

 

 

 

 

 

 光の中、聞こえた子守歌は、記憶の向こうに残る、母のものだった。

 

 幸せになるのよ、というその祈りを、シェリルは確かに聞いた。

 

 そしてそれは幾度も自分に注がれた想いだった。

 

 グレイスの、アルトの、そして出会って心を交わした、多くの人たちの。

 

 

 

「そばにいるから、ずっと」

 

 アルトの子守歌のようにやさしい声を聞きながら、シェリルは目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

説明
マクロスF二次創作。アルシェリでサヨナラノツバサから2年後くらいの物語。フロンティア〜オリンピアの話。
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