跳馬と少年 |
最初のそれは18世紀の末、フランスの軍人が作ったと言われてる。
蒸気で走るそれはバランスも悪くて不恰好で、けれど、そこから歴史が始まった。
94年の5月だった。
一人の英雄が風になってしまった。
彼は四歳で操って見せ、それから三十年間、第一線を駆け抜け続けた。
忘れない。
彼があそこで、あの場所で誰より一番早く、最も輝いたヒーローだったのを忘れない。
彼が風になったその年、もう一人の英雄が誕生した。
皮肉な話だけれど、その英雄は風になってしまった彼の最後を間近で見ていた。
そして、追い越していった。
赤い、赤い靭やかな駿馬を駆る姿は誰にとっても間違いなくニュー・カマー、ニュー・ヒーロー。
走る。
疾風る。
暴れ馬は走る。
風を切り裂き、空気を引き裂き。
恋焦がれた胸の高鳴りの如くエンジンが刻む。
終末のように黄昏に染まる街をスウィング・バイする。
どこまであっても、車は機械だ。
だから分かり合えない。寄り添えないのか。
ボクに車を教えた人は言う。
分かり合えないと思っていたら、いつまでも分かり合えない。
コーヒーに流したミルクのように、何時迄経っても渦のまま。
分かろうと言う気持ちがあって、分かりたいと思って側にいて。
何度も裏切られて……そうするとそれでイヤな所も見えてくる。
イヤな所もイイ所も全部認めて、纏めて、それで好きになるの。
アクセルペダルを軽く抜き、トルク抜けを実感する。
このマシンにシフトノブはない。あえて言えばパドル操作でギアの組み換えを操作するくらいだ。
直接的な、感覚的なドライブはさながら意識がダイブする。それほどダイレクトでダイナミック。
が、決して車と一つになんてなれない。このマシンに乗っている、操作をしている。
ボクはまだこの機械と心を通わせるなんてできないでいた。
ボクは事故を起こした。
大きな、大きな事故だ。
マシンの心臓であるエンジンを潰し、鍛え上げられたアルミのボディを叩き割った。
大いに悔やんだ。自らの技量不足が原因だ。
新車を買った方が早い、修理したとしても元の性能に戻る保証はない。
そう言われたとしても……ボクはこのマシンが好きだから首を縦には振らなかった。
事故を起こす前にほんの一瞬だけ、本当に僅かな時間だけこのマシンの気持ちが分かった気がした。
それは走ると言う宿命にあるのだ、と。
車はどこまで行っても車だ。
ガレージに置いて満足する物でも、ましてや博物館に寝かせる宝物でもない。
走らなければ、走らなくては。その強いトラクションから理解した。
分かりたい、もっとコイツが何を求めるのか、何をしたいのか。それを知りたかった。
そして……踏み込んでしまった。スピードの領域に。
腕を潰した。足を折った。細かい傷なんて数えきれなくて、肋骨も何本も折った。
死。
意識しない訳がなかった。
その時に過ぎったのはあの風になった英雄だ。
彼は……あの瞬間何を見たのだろうか。
彼も……強く死を自覚したのだろうか。
あの時、ボクはマシンの望みを裏切った。
ハンドルを切り、ブレーキが壊れる程踏みしめて。
これはその報いだろう、と。麻酔と痛み止めで白濁した意識の中で考えていた。
いっそあの時一緒に風になっていれば、ずっと一緒にいられたのかもしれない。
そんな後悔もある。人としてこれは間違っているのかも……いや間違っている。
それでも、だ。
マシンと一つになる瞬間の高揚は他に何があるのだろうか。極上の麻薬を脊髄に流しこむように、変えがたい快楽だ。
一度知ってしまったら、忘れられない。もう降りられない。
ノーソング、ノーライフ。それがかつてのボクで、作った道だ。
ボクはその道から降りた、正しくは逃げた、だ。
マネ事じゃない、本当の自分を知りたくて、そうやって逃げ出した。
誰もボクを責めない、誰も問わない。案外アッサリとしていて拍子抜けした。
そこから、ただ何も無い、空気のような時間が過ぎていった。
一日が長い。けれど一年がライフルのように過ぎ去って、気付けばどれだけの時間が過ぎたのだろうか。
それはいつしか消える泡みたいな時に聞いた音だった。
甲高い、天使の吹くラッパの轟音に似ていた。あるいは暴風。
真っ赤なカブリオレがスキール音をかき鳴らし、その姿が網膜に焼き付いた。
忘れもしない。黄昏の朱に染まる空よりも赤いボディに見惚れてしまった。
身の丈、と言う言葉がある。
ようするに自分の中の基準だ。
これが美味しい、不味い。あれが気持ちいい、気持ち悪い。カッコイイ、カッコワルイ。
人それぞれに持っていて……それが基準に自分の世界と物語が回る。
服を選ぶ時、ほんの少し大きいのを選ぶのは基準が大きくなる事を期待してだ。もしくは服が縮む事を予測して。
結局は自分の身の丈に合うように、必ずこの先合うように、と選ぶ。
ボクが、自分が選んだそのマシンは身の丈に合っていたのだろうか?
答えなんて分からない。
ただ、自分の基準の中で最高の物を見つけてしまって、それに合うように育とうと願って選んだ。
後悔なんてあるはずが無かった。
それを自分が受け入れたとしても、相手がそれを受け入れるかは別の問題だと気付くのにそんなに時間はかからなかった。
御そうとすれば暴れ、受け入れようとすれば振り回される。
チグハグな関係の中で距離を少しづつ探る時間が始まった。
最初は歩くような速さで始まったとしても、言うまでもなく走りだせば音すら遅れる。
そんな速度についていける訳がないと、どこか気持ちが冷めていた。
だから着いて行けないと分かったフリをして、ああムリなんだと自嘲していた。
そうしていればイヤでも周りは気付く。
宝の持ち腐れ、ガレージの肥やし、金持ちの道楽、と。
他人の目を気にする程度の器しか持ってないボクでも……このまま終われないと火が入るのにさほど時間はかからなかった。
踏み込む。
強く、踏み込む。
恐れずにその領域に。
そうすれば見える世界がある。
このマシンは音だけじゃない。
世界すら、時間すら後にして走る。
分かって、そして、再び恐れる。
自分に合わないと思い知らされる。
跳ね馬? 暴れ馬? 駿馬?
違う。そうじゃない。
これは間違いなく穴馬だ。
侮れば騎手が死ぬ。
じゃじゃ馬だ。
歯噛み。
身の丈に過ぎた、爆撃のようなエンジンの鼓動についていけない乗り手は、いつか名も知らぬ町の住民に叩き落される。
ならばここで結局引いてしまえば良いのか?
……そんな事ができるはずが無かった。もう諦める事なんて支度はなかった。
走り出す。
人は生きる中でストレスを常に受けて、抱えて、そうやってどうにかやっていく。
ストレスを解消するには遊ぶ、食う、寝る。
浪費して、エネルギーを蓄えて、そして休むと言う事だ。
けれど、それは代替手段に過ぎない。
走る事のストレスは、走り続ける事でしか昇華できない。
アクセルと覚悟を踏みしめ、ガソリンと騒音を撒き散らし、タイヤと神経を擦り減らし、オイルを減らし寿命を縮めて。
そうして知る。
そもそも分かろうとしていなかった自分を。
分かろうとしなければ、分からない。
知ろうとしなければ、知りえない。
一つずつ理解していく。
一を知れば大体二や三までは簡単に分かる。
そうやって五くらいまで理解する。頑張って、突き詰めてようやく辿り着いた七。
ここからは途端に難しくなる。
分からないと思い悩む、分かろうとしても見せてはくれない。だから磨く。
誰かに自らを説明しようとすると語れるのがその七がせいぜい。
だから、自らを示すために自らを観察する。
自らの身の丈を握りしめているかと問い掛け続ける。
そして本当に合っているのかと問い詰める。
合わせるんじゃない、合わせようとするんじゃない。
ゆっくりと少しずつ。それは海にスプーンで塩を注ぐ事かもしれない。
無駄とは思わないけれど途方も無い時間と力がいる。
シルクロードを行くキャラバンが落したダイヤモンドの指輪を探す事かもしれない。
それでも砂をかき分けて這いつくばって探し続ける。
ボクたちには制御し切れないものがある。ボクは辞められない。進むしかないんだ。
英雄は、そう言って風になった。
慣れ親しんだシートは包み込むように受け入れてくれた。
握り締めるハンドルはアザのように落ち窪んでいた。
軽く載せたアクセルペダルは五年も履いたシューズのように迎える。
キーを回して、おはよう、ご機嫌いかがと挨拶すれば、頗る上々だと言う。
じゃあ、始めよう。
唸るばかりのエンジンはせっついて、待ち望むのだ。
シーサイドから照り返すサンシャワーの中に走りこんだ。
きっと……もしかしたら、もう二度とこのマシンがボクに語りかける事はないかもしれない。
歩み寄ろうとしないかもしれない。
それでも走り続ける事は辞めないだろう。分かろうとするだろう。
そうすれば、ある日気まぐれなお姫様が零す可愛げのように一つになれるかもしれない。
だからボクはこの車と行く。いつまでも、どこまでも。どちらかが命潰える日まで。
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