【テスト投稿】トベル回想録
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 あの頃は何を学んでいただろうか。

 最低でも、ルソーの社会契約論だとか、仮定法過去完了だとか、モル質量だとか、高次方程式だなんてモノは知らなかった。何も知らなかったけど、世界の大半のことは知ったような顔をして山中を闊歩していた。

 でも反対に、今じゃあもう忘れてしまったこともたくさん知っていて、そういったかけがえのない財産の存在をふと蘇らせたりもする。校庭に新しく造られた傘の骨組のような登り棒が流行って、初めて登ったときの達成感、様々な登り方を友達に披露する昂り。大探険と謳って近所の杉林の道なき道を掻き分ける興奮、シダの森から空に吸い込まれていく杉の幹を見上げる不安。そうして親にめっぽう叱られて、でも怖いもの知らずの友人とまた冒険を実行する。

 そういうことが当たり前だったんだ。

 学校が鳥籠ではなくて、勉強が苦痛じゃなくて、夢がまだあたたかい料理のようであったころの話だ。

 そう、たくさんのことを知っていた。

 好きなところへ走っていけることを知っていて、自由に、何からも囚われず、格式なんてなくて、やることすべてが自分流で、やることすべてが単純だった。後先のことなんて考えずに突っ走っていた。

 それはそう、例えば、あの小学四年生の時の事件がそれだった。

 

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 奏は――((神子元|みこもと))((奏|カナデ))は、クラスのアイドルだった。

 女子よりも男子とよく遊んでいた奏は、オレたちにとって最も近い異性であった。それに運動神経は女子の中でも群を抜いていて、男子の一部は奏の足と体力に付いていけなかった。それに加えて成績は優秀――頭脳明晰なんて言葉は知らなかった――で、またその整った顔立ち――容姿端麗なんて言葉は知らなかった――でみんなは憧憬、敬愛、羨望のような、言葉にならない感情なんかも含めてまとめて全部魅入られてしまったらしい。

 らしいというのは、オレは例外だったからだ。奏を古くから知っていたから、憧れも何も無かった。物心ついたときからちょっかいばかり出されていたから、好かない奴という認識の方が強かった。

 いつも強気でいて、ドッジボールになるとわざと顔面をぶつけにくるんだ。当たっても謝りもしない。逆に開き直るような奴だった。

 

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 ところが、クラス替えの緊張感が和らいできた六月か七月頃になって、急に奏の口数が減った。奏自身は普段通りに振舞っているつもりなのだろうけど、ふと見せる翳りに違和を感じた。

 そういう日もあるだろうなあ、と思っていた。でも、奏の顔色は日に日に青白くなっていった。何か悪い病気に掛かったのではないだろうかと心配したりもした。でもあいつは寝不足の一言で済ました。

 奏はいつもオレをいじるけれども、嘘は一度も吐いたことはなかった。奏の言うことは必ず正論なのだ。図星だからと言って怒っても、うまい具合に丸められてしまう。だから黙って頷くしかなかった。

 でも、そいつは嘘だったんだ。

 女子からのいじめによって、奏は精神的に追い込まれていた。あの奏がオレなんかに助けを借りるほど状況は悪化していた。ねえ助けて、助けてよ統流、と。でもオレの乏しい想像力では経験移入することは難しかった。

 だからきっと、あんなひどいことを言ってしまったんだ。親身にならない、見放した一言を。

 いや、違うな。

 それは今作ったばかりのファンタジーだ。

 実際はもっと単純で、残酷だ。

 いつもオレのことを見下してきた奏のことが滑稽に見えたんだ。いつもいじめてばかりで、泣かせてばかりいるオレに助けを求めるなんて、気でもおかしくなったのだろう、と。

 だから高慢なことを言ったんだ。ちょっとした仕返しだ。

 すると奏は血の気の引いた顔を凍らせたかと思うと瞳を潤ませた。印象的な幻灯はその一瞬を確かに捉えていたものの、奏は途端に踵を返し、家路を駆けていってしまった。

 そのまま家に帰るとお袋が迎えてくれた。統流、おかえりなさい、どうしたの? 尋ねられた。多分ベランダから喧騒が聞こえたのだろう。別れ際に大声で馬鹿と叫んでいたから、とろいお袋も気付いたのかもしれない。だって奏が助けてって言うんだもん、オレのことちょっかいばかりだすのにさ、だから断ってやった、日頃の仕返しだよ。そう答えると、お袋は悲しい顔をした。

 統流、男の子はね、どんなときでも、女の子を守ってあげなくちゃ、だめなんだよ。

 奏は男みたいだから守らなくてもいいだろ、それに奏は男の子にも負けないもん。

 オレは強気だった。

 多分、奏が逃げ帰ったからだ。奏よりも強いんだ、今までの自分なんかよりずっとずっと強いんだ。だからお袋にも勝てるんだと、根拠のない自信に燃えたぎっていた。

 お袋は再び悲しい顔をした。

 強いってことはね、『力』だけじゃないのよ、統流には、強い『心』を持った、男の子になってほしいわねえ、悲しんでいる子を、やさしく守ってやれる、そんな子に。

 そう。

 お袋には勝てなかった。

 オレは面倒くさがり屋だ。

 でも、冷酷なわけじゃない。

 座右の銘と言えるほどのものじゃあないが、お袋の言葉が指針となったことに間違いはないだろう。

 

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 奏ちゃん、今、悲しんでるかも、しれないわね。

 現にその時、オレはランドセルを玄関に置いて、学校へと走りだしていた。特に遊ぶ約束はしていなくても、放課後学校へ行けばみんなが遊んでいるのだ。

 オレにできることは何か。力もなく、弱虫で、凡才で、体力も人並み程度で、誰も特筆する点を挙げてくれはしないだろう。

 でも、動かなくちゃいけない。

 その原動力は、格好いいから、それだけだろう。気分は騎士道物語の主人公だったに違いない。

 だが、現実は騎士とは程遠いものだった。

 そもそも果敢なる騎士のように一人で魔王と立ち向かう、そんな勇気はこれっぽっちもないことくらい目に見えていたから、クラスを統括していたモリオこと丸山杜男に奏の件を話したのだ。するとモリオは、なんだお前神子元の一人や二人も守れないのかと笑われた。他にいたクラスメイトにも笑われた。

 悔しかった。

 こんなの理不尽だ。みんな奏のことが好きなくせに、強がってるんだ。実のところは、誰もいじめを発見していなかったからと、オレがクラスの底辺階級の身で、それなのに奏と一番仲がいい(ように見えた)から僻まれていて、なおかつプライドだけ高くて、茶化されるとすぐ小さな嘘を吐くから信用されていなかったからだ。奏の緊急事態を告げても、また穂枝の早とちりだろと笑っているのだ。

 屈辱に自尊心を傷つけられたオレは、大声を上げて、憎悪の塊を爆ぜようかと思った。そんなとき、モリオの隣に立つガリメガネこと……本名は忘れてしまったが、やせ細ったガリ勉眼鏡が一歩前に出た。

 ((穂枝|ほえだ))氏の言い分、一理ありますね。

 

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 まるで専門用語を並びたてる口調のガリメガネは眼鏡をきりりと上げた。

 少なくとも神子元氏をいじめる動機はあります、しかしながら、我々は誰一人として彼女がいじめられている姿を目撃した者はいない、ですが、だからと言って彼女にいじめがない証拠にはなり得ない、我々がいない時間帯に――即ち休み時間中にいじめは行われていると思われます。

 淡々と述べるガリメガネは、学級男子の頭脳だった。学級委員という肩書と見た目とは裏腹に大のイタズラ好きで、クラスを挙げての一大イタズラを行う際の計画立案には大抵奴が携わっている。クラスの王がモリオだとすると、その宰相たる地位がガリメガネなのだ。

 なら、明日の昼休み、俺とガリメガネがスパイしに行く。お前らは外で遊んで待っていろ。

 その一言でその日は解散となった。

 その日は久しぶりに眠れなかったと思う。全員で何かをやらかすこの楽しさはもう味わえないのかもしれない。そしてそれによって奏が救われるのかと思うと、これ以上の大作戦はないんじゃないかと思ってならなかったし、今もそうだと思う。

 そんなオレたちに待ち構えていたのは、女子たちであった。

 無論正面から待ち伏せているわけではない。間接的に、オレたちを圧倒させたのだ。

 女子たちのいじめというものを、まだよく理解していなかったのだ。理解していたつもりになっていただけだったんだ。

 これは、スパイの報告をしたモリオとガリメガネの証言である。

 教室の入り口には見張りがいて、クラスの人や先生が近付いたら即座に知らせるようになっている。二人は遠くから全力疾走でクラスを横切って中を確認したらしい。奏の席付近に女子たちが集まっていたそうだ。

 放課後、誰もいなくなった教室で奏の机の中を確認すると、そこには折れた筆記用具と、女子が書いたとは思えない汚らしい字でシネやらキエロやら、それ以上にひどく心をえぐり取るような暴言で書き殴られた紙切れが幾つも見つかった。

 モリオとガリメガネはいじめの存在を認めた。しかし、いじめといえば暴力だったオレたちにとって、女子の陰湿ないじめは恐怖として認識された。

 

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 閉め切った教室の中で、いじめから奏を守るための座談会が繰り広げられた。

 議論の点は大きく二つ。

 一つは奏の身を守ること。

 そして、奏の所持品を守ること。

 この二つだ。

 奏の身を守ることは、休み時間中ドッジボールをすることでまとまった。今思えば全員教室にいれば一石二鳥な気もするのだが、それを提案する人は誰もいなかった。なぜなら、誰もが奏の近くにいたかったからだ。教室で男子全員が奏の側に付いていたら不自然だし、不公平でもある。それならばドッジボールというルールの枠に奏を入れた方が平等だと、直観的に浮かんでいたのだろう。

 奏の所持品を守るために、数名教室に男子を残す。奏と一緒に遊べない犠牲者はモリオによって強制的に決められた。不満を持ちながらも、王者の強権には逆らうこともできず、悔しみと一緒にその勅令を呑みこんだ。

 唯一つ配役が残された。

 それは、奏をドッジボールへ連れていく役だ。

 これが意外にもたらい回しされる役割であった。最もおいしい役だと思うのだが。

 高校になったオレたちが再び会を開いたとするならきっと高倍率の席となるだろう。

 しかし、小学四年生にとって女の子というものは触れてはならない神聖なものであった。思春期に突入する一歩手前のオレたちは、異性という存在を自覚し、困惑し、面と向かえばそれだけで言葉を失ってしまう。それが恋と呼ばれるであろうものならば、余計にどう接すればいいのか戸惑うことになるだろう。

 だからみんな、この役になることだけは拒否をした。モリオがなんて言おうとも、これだけは頑なに首を横に振るのだ。

 穂枝、お前がやれ。とモリオに指図される。最後の手段、と言った表情だった。お前にだけはやらせたくなかったが、もうお前しかいない、何を言ったって無駄だ、やれ。そう語る表情だった。

 オレと奏は家族同然の間柄で、ドッヂボールの誘いごときで恥なんてものは生じなかったし、喧嘩もよくしたりする。昼休みに誘うのもいつもオレが担当だった。これ以上の適役はいないが、みんな認めたくなかったらしい。

 

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 翌日、いつもと同じように奏を誘う。最近の奏は誘っても断られてばかりで、その日も奏の首は縦に動かなかった。だから奏の腕を取って走りだしたんだ。

 抵抗されると思った。振りほどかれて、触らないでと怒鳴られる覚悟だった。

 でも奏は、黙って走られるがままに走った。

 ……照れていた。

 そうだ、奏はそのとき照れていたんだ。

 助けてくれてありがとう。

 そう言ってくれているようで、ああ救えたんだなと、魔王から奏を取り返せたんだなと、胸を撫で下ろしていた。

 同時に、奏を守ってやれた達成感を満喫していた。

 守ってやる。

 ずっと近くにいるから。

 助けを求められたら、すぐに手を伸ばせるように。

 何があっても、奏を守ってみせる。

 そのときオレはそう誓ったはずだ。なのにオレはその決意を忘れてしまっていたんだ。あれは真似事遊戯の延長線上だったのか?

 いつから忘却の彼方にいってしまったんだろう。

 天端台高校に行くと決めたのは親との不和が主因であることに今更訂正の余地はないが、その背を押したのが奏の県外受験だった。もし奏が地元校を受験すると言っていたら、不満はあれど地元に残っていたと思う。独りで飛び出すほどの勇気も覚悟もなかったし、何より奏と離れ離れになるのは……嫌だった。

 ああ。

 そうか。

 オレは、奏のことが好きだったのか。

 意地悪で、ちょっかいばかり出して、辛口で、正論ばかり突きつけてくる奏のことが。

 滅多に見せない恥じらう顔をし、不器用な言葉を使って誤魔化そうとする奏のことが。

 ……今だって、好きなんだ。

 

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 理由なんてない。

 あのときの情熱はいつの間に失われてしまったようだ。もう消炭のような代物になってしまっているのかもしれないけども。初心はこれ以上思い出そうとしても引き出しの奥底すぎて届かないだろうけど。だから平気で吉佐美と付き合えたんだ。

 でも、消炭だって捨てたもんじゃあない。確かにあのときのように勢いよく燃えたりはしないだろう。踏み潰せばすぐに紛々となり、風にでも吹かれて消え失せるだろう。

 でも再燃させるとなれば、どんな上質な炭よりも早く熱を宿すことができる。

 まだ手遅れじゃないはずだ。まだきっと。

 いや、手遅れとかそんな話じゃあないな。過去の出来事なんてどうでもいいんだ。

 奏のことが好きだという事実。

 それだけで充分だ。

 鳥の鳴き声がいつも以上に明るい。朝が到来していた。一睡もしていないのか熟睡していたのかはしらないが、随分体が軽く感じられた。

 弁当作らないとな……習慣化した一日の始まりを、また今日も行おう。

 いつまでも思い返すばかりじゃいけない。今日は今日だ。けじめはちゃんとつけないとな。

説明
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自分の書いた長編小説の一節。
名義は城ヶ崎ユウキ。歌麻呂ではない。
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