切っ先。 |
彼の目の前には、くすみのない白塗りの椅子と、対照的に光沢のある黒塗りの机の他何もない。
灰色に閉ざされた部屋は、部屋と呼ぶよりもむしろ、「立方体の中」だとか、そう呼んだほうがしっくりとくるだろう。
扉も窓もない完全に閉ざされた空間に、彼はどのようにして自分が入り込んだのかまったくわからなかった。ただ、利き手の指が筆を持つ形に保たれたままだったから、何か書きものをしている最中にここにきてしまったのではないかと思われた。
思いつくことと言えばその程度で、あとはどんなに意識を絞っても他に浮かんでくることは何もなかった。ただ、彼はなぜか、ここに自分がいる理由を思い出すことがあまり重要でないように感じた。他に何か、目的がある気がする。
「やあ、ようこそ。来てくれてうれしいよ」
声が聴こえる。
彼が面を上げると、誰も座っていなかった白塗りの椅子に、いつの間にか十四五歳ほどに見える色素の薄い少年が座っていた。少年は机に頬杖を突き、意味深な微笑を湛えて彼を見つめている。彼は少年にうすら寒いものを感じたが、逃げ場はない。
「そんなに緊張しなくてもいいさ。ボクはいないものだと思ってもらっても構わない。所詮、ボクは君が成すべきこと成すための標でしかないんだから」
そう言って少年は姿勢を正し、懐に手を入れた。彼は思わず体をこわばらせたが、少年が取り出したのは刃渡り十数センチの短剣だった。
彼が見たこともないような装飾が施されたその短剣は、くさりかたびらを貫くためのエストクにも似て、先端が鋭く研ぎ澄まされている。
少年はその短剣を、予備動作を見せずにいきなり机に向かって突き立てた。樹脂のような不思議な光沢を放つ黒塗りの机は、想像以上に重苦しい音を立てて、刀身の四分の一ほどを呑みこんだ。彼はその一連の動作を微動だにもせず見ていた。
「さ、選ぶんだ。選んだら、思うことをすればいい。ボクはこれ以降これに触れることはないだろう」
そう言って、少年は短剣から手を離して、それから彼を迎えるように両手を開いて見せた。すると、何もなかった灰色にいくつかの写真が現れた。それらは無造作に画鋲で壁にとめられており、彼はそれらが「整理されていないもの」なのだと思った。
少年はそれきり何も言わずに彼を見つめているだけになったので、彼はおっかなびっくり足を動かして、順繰りに写真を眺めてみることにした。
一枚目。手近の壁に張られたそれには、なにか紙きれのようなものが写っている。注意深く見詰めてみると、それには何か印字がされているようだ。しかし、遠めに写されているせいか内容を読み取ることができない。
内容は読み取れなかったが、彼はそれに言いようのない焦燥感のようなものを受け取った。
「それは」
少年が口を開く。
「君が一番に憎んでいて、しかしなければならなかったものだよ。君はソレの否定に失敗した」
彼は自らの指が震えだしていることに気付いた。
息を飲んで次の写真を覗きこむ。次の写真には、灰皿と漫画、ゲーム機が写っている。それらが自分の記憶にどうしてもとっかかりを生むのだと知って、彼はいよいよ部屋から逃げ出したい衝動に駆られた。
「それは」
少年が再び口を開く。
「君が引きかえたものだ。君が取り上げられることを恐れるように、相手もまたそれを失うことを恐れる。だが、君は勇敢だった。だから、誰かもそれを認めざるを得なかった」
世の中はうまくできている。誰かが決断した時、同じように自分が苦渋の決断を迫られることもある。それが道理なのが不道理なのかは、彼にはまだわからない。
次の写真に歩み寄る。色あせた写真には、使い古された包丁だけが写されている。
「それで君は試したんだ」
少年は語る。彼は背中で聞いた。
「結局失敗に終わったけどね。きっと相手は、どんなに深く君を傷つけたか、それすらもわからないままだろう。裏切りは君の中だけにしかない」
彼は包丁の鋭さを思い起こす。あれは「痛そう」だった。あれを試練に使うには、いささか切れ味が良すぎたのである。しかし、鋭いがゆえの引力があった。彼はその鋭さに救いを求めたのであった。
次の写真には、机と椅子が写されている。学校に置かれている、なんの変哲もない代物だ。
「それは、長らく君の居場所だった」
少年の簡潔な言葉に、いつしか彼は頷いていた。そう、これらは彼の居場所だった。唯一、彼が彼で居られる場所だった。
そして、彼はその隣の最後の写真を眺めた。最後の写真には――
「それはね」
少年は心持ち声を低くし、笑ったように言う。
「君の異郷さ。わけがわからないもの。君が君のすべてをかけて理解しようとしても、結局受け入れられずに否定してしまったものすべて≠ウ!」
彼は長らく、最後の写真を眺めていた。彼の知らない色や形で溢れているその写真を見ているうちに、彼はこの場所でするべきことがなんであるか思いだしてきた。
――そうだ。選んで解放しなければならない。
彼はふらりと少年の前に戻ると、机に突き立ったままの短剣の柄を握った。素朴な装飾が施された短剣を、彼はそれまで握ったことがない。それだというのに、なぜか何度もこうして手にしたことがあるような気持ちもあった。
「選んだのかい」
少年の言葉に頷くと、彼は力を込めて短剣を机から引き抜いた。短剣はもっと抵抗を寄越すものだと思ったのに、意外にもすんなりと彼の手に収まった。
「すべきことはわかってるね?」
その言葉にも頷き、彼は――
短剣を逆手に持ち替え、その切っ先を目の前の少年目がけて振り下ろした。
すぐに残酷な干渉が伝わってくるのだと思った。しかし、彼は自分が寸でに腕を止めてしまっていることに気付いた。切っ先は少年の額の数センチ前で止まっている。動かない。
不可思議な力など働いていない。すべてが彼の意志であり、しかし彼は自身のその意志に戦慄した。彼は確かに選んだ≠フだ。それなのに、意志がその切っ先を留めてしまっているのだ。
「……そう。やっぱりそういう選び方をするわけか」
刃が届くまで数センチ。少年は嗤った。
「どうやら、君は痛みを受けているにも拘らず、大切なものが多すぎるみたいだ」
彼はすでに汗みずくだった。食いしばった歯が音を立てる。対照的に少年は、冷た笑みを張り付けたまま彼を見上げたまま動かない。切っ先を自分から逸らそうともしない。
「モノゴトを大切にできるのはいいことだとは思う。けれど、君は結局選ばなかったも同じなんだ。それがあとでどういうことになろうが、ボクはもう知らないからね」
そう言って、少年はゆっくりと右腕をあげ、
「目覚めの時だ」
ぱちりと指を鳴らした。
途端、彼の体を強い歪みのようなものが襲った。彼はそれが「引き戻される」ことなのだと知ったが、なにかを考える前に波のようなものにさらわれてしまった。
――そして目覚めれば、彼は自室のベッドの上だった。
慌てて起き上ると、先ほどまで見た夢の中のように全身汗みずくで、体がだるい。
彼は自分が間違ったのだろうか、と思った。手にはあの短剣の感触が残されている。痕がつくのではないかというくらいに握りしめたあの短剣の感触が、いつまでも残っている。
あれは夢で見た短剣の鋭さに、ローテーブルの下で酒缶と一緒に転がっている、アイスピックの切っ先を思い起こした。
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書き下ろし短編不条理小説。 説明不能なほど理不尽ですので、フワっと読んでいただくのが正解じゃないかと思いますw |
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