四畳半ノ恋路 |
俺はどこで何を間違えたのか、そして何が正しかったのか。今となっては解りようがない。
大学一回生の春、俺は映画サークル「かるま」のチラシを取った。なんか楽しく映画作ってるよ、の誘いに乗った次第である。俺の算段は、「まあ所詮大学のサークルなんだから、女と交流して酒飲むだけだろう、そこに俺が求める薔薇色のキャンパスライフはある」筈だ………と。
しかし今になってそれは大いなる見当違いだった。
もしあの一回生の春にテニスサークル「しらはな」、怪しげではあるが興味をそそる「弟子求ム」、または秘密組織と掲げた「罵詈亜飯店」、……どれかのチラシを取っていれば俺の人生は変わっていたのかもしれない。いや変わってないのかもしれない。今になっては見当つかないものだが。
映画サークル「かるま」は、宣伝文句であった「みんなで楽しく?」という陽気さとはかけ離れた組織である事を、入会して二時間程で知る。
みんなで楽しく、などどこにいったのか、「かるま」はアラウディという男の言わば「城」であったのだ。当時大学二回生であったアラウディは「かるま」の頂点に君臨し、サークルを我が物とばかりに使い、思うがままに映画を作っていた。アラウディ主役の「ロミオとジュリエット」、アラウディ主役の「アレキサンダー大王」、アラウディ主役の「リア王」……。エゴがふんだんに散りばめられたその映画は、俺の思いとは裏腹に好評を得るから腹立たしい。
この独裁に耐えかね、俺は一人映画を作る事に決めた。鯛の尻尾になるよりは、鰯の頭になった方がマシだからだ。
反アラウディ派となった俺だが、勿論付いて来る人間などいない……と思われたが。一人、奇特な生物がいたのである。
そいつは変態と呼ぶに相応しい性癖、口調、面相を携えた男だった。俺が女だったら話し掛けられたついでに金的をおみまいしてダッシュで逃げるに違いない。
「あなた、酷い事仰る。」
その変態はデイモンと言った。
三回生になるまで、「かるま」の中で俺は辛酸を舐め続けた。機材を借りるにも反アラウディ派であるが為に土下座に近い行いをし、上映時にフィルムをすり替えられる等の妨害を受けた。俺はそれでも足掻いたが、アラウディ派の結束力には勝てず、結局上映会から締め出しを食らったわけである。
「畜生あの野郎、今に見てやがれ。」
「まだ言ってるんですか。こりない方だ。」
焼肉店でデイモンと二人酒を飲むなど、まだ豚と飯を食った方がマシなんじゃないのか。いや考えてみれば、デイモン以外に酒を飲みに行く程の友達がいない。悲しい事実だった。
思うに、こいつが焚き付けて来たものだから俺も意地になりアラウディと対立する羽目になったのだ。こいつと出会わなければ俺はもっと違うキャンパスライフを歩めたに違いない。
「お前と出会わなければ、俺は今頃素晴らしいキャンパスライフを手に入れてたんだ。」
「何言ってるんですか。貴方みたいなのは、何をやっても同じ事を繰り返しますよ。ま、何にせよ僕と出会ったからには、僕は全力で貴方をダメにします。」
「お前は死神か。」
「僕と貴方は運命の黒い糸で繋がっているのです。」
やかましいッ、とデイモンが嫌う椎茸を口に無理矢理詰め込んでやる。
「僕なりの愛ですよ。」
「んな汚えもんいるか。」
畜生。俺のキャンパスライフは最早後半戦だ。薔薇色にするには今からどうするべきなのか。ここで酒を呷っている暇があるならば、他にするべき事があるんじゃないのか。情けなくなって頭を垂らす。
アルコールがぐるぐる回り、再びデイモンに毒突こうとして視線をやると、何故かデイモンが見た事ある生物に見えた。
ぱくぱく焼いた肉を食べるその姿。デイモン?いや、デイモンじゃない。
ジョットだった。
「じょ………?」
「後ろの大広間にアラウディ一派がおるぞ。食べるなら早く。それから裏口から逃げろ。」
*****
ジョットは同回生かつ「かるま」の機材を担当する人間だ。あまりに有能な為、助っ人として「かるま」にいる。
金髪、美形と言うに相応しい顔立ち。寄っていく人間は男女問わず。しかしジョット自身が異常な程の防壁を作り人を寄せ付けない。
その例として二回生の時、撮影で遠出した事をあげてみる。アラウディがジョットも自分の一派に入れようと考えたのか、撮影の合間に「ねえ」と声を掛ける。それから「普段何をしてるのか」みたいな事を聞いたようだが、ジョットははっきりとアラウディに言い放った。
「何故お前にそんな事を言わねばならぬのだ?」
それからアラウディはジョットに話し掛けるのをやめた。俺はそれを見て、密かに「ジョットよ、自分の道をひた走れ」と心の中で応援したのを覚えている。
また古本市でバイトしていたのを見かけた事もあった。日陰でラムネを飲みながら本を読む姿には、まあ、ちょっと心が揺らいだ。
俺は大して興味もない児童文学を一冊片手に携え、ジョットに話し掛けた。
「これ一冊。」
「おお、………て、Gではないか。」
「バイトなんかしてたのか。」
「知人の頼みでな。暑いだろう、ラムネでもどうだ?」
足元のクーラーボックスに入っていたラムネを一本取り出したジョット。
一緒に飲んだあの甘ったるい味は未だに覚えている。
****
自分の食生活を語るにあたって、「あさりラーメン」は外せない。俺が住んでいる「嵐猫荘(らんびょうそう)」から徒歩五分程にある自然公園前に屋台がふらりと現れ、疲れたサラリーマンや足取りも定かではない学生の食欲を煽る。
食べてみるとあさりの味など微塵もしない。だがどことな?く癖になる味で、俺も足繁く通っている。以前、あさりを出汁にでも使っているのかと店主に聞いてみたが黙秘された。もしかしたら化学調味料の類かもしれない。思えば店主も怪しげな奴で、三つ編みに中華服、その上にエプロンを掛けグラサンをした、どこの不法入国者と通報したくなるような容姿をしている。………が、ラーメンがおしいので未だ警察沙汰にはなっていない。
そんな話をジョットにした事があった。あの例の合宿の時だ。
くだらねえ映画の一端を担う、いくつかのシーンを取り終えたがアラウディが飽きやがった。振り回されつつその日はお開きになった後、俺とジョットは木陰に腰掛けやはりラムネを口にしていた。
「いいな。私も食べてみたいぞ、そのラーメン。」
「じゃあ今度食いに行くか。あっちは屋台だ、逃げも隠れもしねえよ。」
「絶対だぞ。」
夕日が沈む赤の中、ジョットは笑った。正直に言おう。可愛かった。更に白状すれば俺はジョットに惚れている。幼なじみだから優位だとかそういう問題じゃない。要はタイミングと勢いだ。俺も並の男であるから、思いを伝えるという、自我を崩壊させなければならない行為については少しばかりの抵抗、そして照れがある。
だがその時、あさりラーメンが俺にチャンスをくれたのだ。
「あ。」
不意にジョットが一文字だけ発した。見ると額にひらひらの、蛾が止まっていた。
「ぎょえええええっ!」
「おおっ?!」
聞いた事が無い声を出し、ジョット必死に蛾を追い払う。すぐに奴は飛んでいったのだが、僅かながらにその体に触れたせいで「むにゅっとしてた。むにゅっとしてた」としきりに呟きだした。触っただろう右手は、自身のバックに繋がれている四つのキーホルダーを握っている。そりゃもう必死に握っては緩め、握っては緩めを繰り返していた。
「もう蛾はいねえぞ。」
「ほわっ!……すまん取り乱した。」
「そりゃなんだ?」
「ああ、これは"なっつまん"だ。なっつまんは五人で一つなのだが、一つどこかで無くしてしまった。」
冷静になったジョットが、横に置いていたバックを膝上に持ってきてそれを見せる。どうやらなっつまん、とはライオンのキーホルダーのようだ。触ってみるとむにゅむにゅしてスポンジと餅を足して割ったような感触。青、赤、桃、緑、確かに四つしかない。
「俺が見つけてやろうか。」
これ程までに大見得を切ったのはやはりジョットの前だからだろう。躊躇いも無かった。
「本当か?!」
「ああ。ま、この広い世界といえど、生きているからにはいつか必ずまた出逢えるだろうよ。」
*****
ともかく、何故あの変態が一瞬にして幼なじみに変わったのか。幻覚か。
俺は眼を何度も擦ったが、ジョットが肉を頬張る姿にしか見えなかった。
「早くしろ。袋叩きにされたいのか。」
「うっ?あ、ああ……。」
「勘定は済んでいる。店の人間にも話はついてるから早くしろ。」
なんつー手際の良さ。デイモンを一発殴りたくなったのは言うまでもない。
俺はさっさと立ち上がり、腰を屈めそこから脱出しようとした。
「すまねえ、ジョット。この借りは必ず。」
「借りはいいから、早く約束を守れ。」
「約束?」
「もういい。」
再び肉を食べ始めたジョット。もう見向きもされなかったので、焼き肉の裏口へと走った。畜生デイモンの野郎。
しかし約束って………。
家へと走りながら、俺はふと気付く。あさりラーメンの屋台が見えたのも偶然ではない筈だ。
「あなた。」
「はがっ?!」
不気味な鳴き声、いや人間の声がし俺は辺りを見渡す。闇夜に溶けつつ、そいつはいた。
「何か道に躓いておいでかな。」
「なに言ってんだ。」
"占いやります"、の看板を掲げ路上にテーブルを広げているそいつは俺の眼を見つめ何かを訴えてくる。ええい視線など合わせるなと思っても、そいつから出される引力的なものに引かれテーブルの前に立った。
看板、占いやりますの横に小さく「雨月」と書かれている。自分の名前か、それとも占いの名前か。どっちだっていい。
「あなたは才能がありながら、うまく使えていないようで。」
相手を褒め称えるのは交渉術の一つとは聞いていたが、今の俺にはその言葉があさりラーメンに匹敵する程の喜びを与えたとは占い師も思うまい。
「かるま」での苦行の数々、未だ薔薇色のキャンパスライフを掴めていない現状………俺はあっさりその占い師を信じ切ってしまった。
「ああ、その通りだ!何か打開策はねえのか?」
「コロッセオ。」
「はあ?」
「だから、コロッセオ。」
コロッセオとはイタリアの有名な観光地である。昔人間同士または人間と猛獣を戦わせ古代の娯楽、そして誇りの為に戦う事に使われた。コロッセオの内部には人力エレベーターらしきものがあったとされる作りや、不特定多数を招き入れる膨大な客席など、その時の英知を絞って作られた後が見られる。
いやいやいや、そんな観光地が今何の関係がある。コロッセオの前で嘘臭いグラディエーターの格好した詐欺師共と写真でも取れっつーのか。
「コロッセオと俺に何の関係があんだよ。」
「好機は目の前にあります。」
「だから。」
「好機とは好い機会ということ。」
「それは知ってる!だから好機はいつ来るんだよ!」
「それを掴むのは貴方しだいです。はい、千円。」
「おいい!!」
財布から札を半ば強引にもぎ取られ、俺はそこを後にした。
あさりラーメンの匂いがする。にっちもさっちもいかない今を救ってくれるのはあのラーメンだけだと涙目になった。
**
状況は最悪だ。説明するのも面倒臭い。
相変わらず「かるま」で泥水を啜っていた俺はついに何かが切れた。堪忍袋の緒ならまだいい。そんなものがパスタに思えるぐらいのものが切れたのである。
俺はアラウディに一泡吹かすべく、「かるま」在籍中に復讐する事を決意した。しかし映画を作るという信念は曲げてはいけない。
そこで思い付いたのが暴露映画だ。一月後にある定例上映回に合わせ、デイモンと共に制作する事に決めた。奴等が上映するフィルムを入れ替え、アラウディの暴君ぶりを日の下に曝してやる。
「─………ってやりすぎなんじゃねえのかこれは。」
「おやおや、今更ですか。」
まさかアラウディ宅に侵入してまで映画を撮っているとは思われまい。デイモン曰く、アラウディには決して口外出来ない秘密があるという。それは是非映画に入れなければ……とは思ったが、ここまで来ては犯罪である。
「……やめにしねえか。」
「何言ってるんですか!情けない。僕はそんな貴方に青春を捧げたんじゃありませんよ。さあ立ち上がりなさい。今こそ奴の悪行を暴くチャンスです。」
どこからそんな台詞を、呆れたが悪行を曝す事には賛成だ。
主はどこかに出掛け暗く静かになっている、そのマンションの一室に俺達は踏み込む。
中は大学生とは思えない程の暮らしぶりであった。三部屋に台所、風呂、トイレ、家具一式まで揃っている。順に懐中電灯で照らしていくと憎しみが次々と重なっていく。
「ああ、モノ触っちゃダメですよ。あの人神経質なんで。」
何故お前がそんな事を知っている。そんな突っ込みも空振り、デイモンは奥に進んでいった。そちらに俺達が望むものがあるようだ。
そこに入った時、俺は女の部屋と見間違った。女が好むような暖色の壁紙、桃色のカーテン。そして桃色のベッド……。まさか女と同性しているのか。窓側に置いてある椅子には誰かが座っていた。焦ったが、その誰かはぴくりとも動かない。
「彼の恋人ですよ。」
「は?」
懐中電灯を照らしたまま、デイモンは「彼女」に近づく。俺も一歩遅れて歩み寄った。
……人形だ。
「ダッチワイフと言うにはあまりに下品過ぎますね。ラブドールと言うらしいです。」
「あいつ、こんな趣味が。」
恋人と呼ばれたラブドールは人間と見間違う程リアルな作りだった。おまけにクソ高そうな着物を着て髪は綺麗に結われている。こう言っちゃなんだが、愛されているのはひしひしと伝わってきた。
「貴方のような万年発情期には解らない、高尚な愛ですよ。」
「……解らなくて結構。俺は生身の方がいい。」
「ほら、やっぱり解ってない」とデイモンは笑う。確かにこの人形は綺麗だ。だが俺のジョニーが反応するかどうかと聞かれたら別問題。
あのアラウディにこんな趣味が…と驚いているうちに、デイモンはとっとと隠しカメラを仕掛け終わっていた。この部屋を中心に、全ての部屋に仕掛けプライベートを丸裸にするというのが俺達の算段だ。ここまでくると暴露というか誹謗・中傷の類だが知らんふりをする。
「お?」
そんな映画作りに熱中している最中、俺は一つのキーホルダーを学内で拾った。どこかで見た事がある。
(ああ、これは"なっつまん"だ。なっつまんは五人で一つなのだが、一つどこかで無くしてしまった。)
これは白色をしたなっつまん……。確かジョットが持っていたものの中には無かったなっつまんだ。間違いない、これはあいつが落としたもの。まさかこんな形であっさりと見つかるとは………世界は広くない。狭いな、ジョット。
だがこれで俺はまた奴に関われるきっかけを手に入れたのだ。連絡してすぐに届けに行くか……?
いや待て。どうせ同じサークルにいるんだ、何をせずとも会える。今はあの映画の事もあるし、届けるのは後にしよう……。
なっつまんをズボンのポケットにねじ込み、俺はフィルム編集の為、暗室へと走った。
**
デイモンの交友関係は霧に包まれている。噂によれば複数のサークルに出入りし権力をふるいつつ、実は彼女もいてそりゃもう有意義なキャンパスライフを過ごしているとかいないとか。確証たるものはない。
そんな変態デイモンが慕っている人間を一人だけ知っている。そいつは嵐猫荘二階、俺の真上で暮らしている奴だ。どうやら同じ大学の先輩らしいのだが、何回生とははっきり解らない。
またとても浮き世離れした生物だとも確認出来た。朝、嵐猫荘を出る時に屋根で悠々と寝ていたり、夜に酒を片手にふらりとどこかへ行くのを見た事がある。なるべく関わらないでいよう、そう誓っていたのに、あさりラーメンにて会合してしまうところを見ると、どうやら味覚の相性はいいようだ。
あさりラーメンの狭い屋台の中で肩を並べ、俺達は無言で麺をすすった。
「おいおまえ。」
「………あ?」
そいつは咀嚼したラーメンを飲み込みながら俺を箸で差した。無礼な奴だ。
「嵐猫荘に住んでる奴だな?」
「……ああ。」
「時に俺はリボーンという縁結びの神だ。」
「は?」
ここまでイかれてる奴だとは思わなかった。せっかく頼んだあさりラーメンを残して逃げるか、食べきってこの神の話を真面目に聞いてやるか。
………俺はラーメンが惜しかった。
「お前は出雲で行われる神々の集まりを知っているか?」
「知るか。」
リボーンというこいつが言うには、出雲で神が集まり、誰と誰をくっつけるか、離すか話し合うという。その為に、そろそろ旅立つ準備をしていると。
言わせてもらおう。他にする事はないのか。
「それが俺に何の関係があるんだ。」
「………思いの他阿呆だな。」
男は着ていたスーツの胸ポケットから、ある一冊の本を取り出した。紐で閉じられ、紙は色褪せ年季だけは感じられる。
そしてとあるページが開かれ、俺に突き付けてきた。
「ジョットとくっつくのは、お前かデイモンかという事だ。」
………ちょっと待て。何故そんな話にまで発展する。色々おかしいだろう。本当に神かどうかも解らんこの男が男女の縁を決めるとか。あげくそれがジョットと誰か、俺かデイモンとか。ジョットに自由はないのか?
「お前が望むならば、ジョットとくっつけてやろう。」
「ちょっと、待て。」
「明日の昼までに俺の部屋に来い。」
男はそのまま、あさりラーメンの屋台から離れていった。嘘か誠か、信じられないなら信じた方がいいのだろうか。奴は異様な空気を曝し威圧感まで感じさせ妙に説得力があった。
しかし冷静になって考えてみろ。あのジョットだぞ。デイモンなんかと………いやジョットだからこそ、あんな変態を受け入れる器を持っている可能性がある。変に有り得ないとは言ってはいけない。
あさりラーメンを汁まで飲み干し、やはり今のは幻覚だったんじゃないのか、幻聴だったんじゃないのかと自分を正気に戻そうとしたが、隣にある空の器を見て、やはり正夢だったのだと知った。
「んん、遅かったですね。」
噂をすれば何とやら。部屋に戻ると、ホールケーキを思わせる、正方形の箱を持った変態が立っていた。
「不法侵入だ、とっとと出てけ。」
「まあまあ、これどうぞ。中はカステラです。アラウディの失脚祝いって事で。」
例の中傷映画だが、一昨日の上映会にて皆の眼の前に曝された。結論から言えば成功。勿論俺達は脱兎のごとく逃げ、未だ復讐はされていない。アラウディとあのラブドールがむにゃむにゃしている所で聞こえた、阿鼻叫喚の嵐さえ俺にとっては声援に聞こえ、三年も耐え続けた鬱憤もアルノ川に流せるというもの。
デイモンはいち早く逃げ、俺の新たな怒りを誘ったがまあこのカステラで無かった事にしてやろう。
「では、僕はこれで。一人むなしくカステラを貪り食って下さい。」
箱を押し付け、デイモンは嵐猫荘から出て行った。あいつ、本当に普段は何をしてるんだ……。
部屋に入って早速箱の蓋を開けた。箱いっぱいに、正方形のカステラが収まっている。こんな大きさのものを一人で食うなんて孤独の極みなんじゃないのか。こういうのは誰かと食べるべきじゃねえのか。
虚しさ、今まで「かるま」で耐えてきた仕打ちをふと思い出す。むしゃくしゃして、カステラのど真ん中をえぐるように掘り、手のひらをほぼ占領するそれを口にいれた。
そうだ、これは誰かと食べるべき大きさだ。例えば、ジョットとか。
「……………。」
穴が開いたカステラを見る。どかの闘技場のようだ。
(コロッセオ。)
コロッセオ………。まさか、いや、好機、いや………。占い師の言葉が頭の中でぐるぐる回る。ついでに、さっき会った神と名乗る人間の言葉も。
好機とは掴み取るものである。待つものじゃあない……。
つまり……!!
気がつくと俺は、嵐猫荘二階へと駆け出していた。
真上に住む部屋のドアを叩き気だるそうに出てきたそいつは、やはり神だとは思えない。
「デイモンは駄目だ。俺にしてくれ。」
「いいだろう。じゃあ明日の夜、並盛橋に来い。」
明日の夜……?明日っつったら、毎年恒例のデーチモ祭の日だ。
「出雲に行くんじゃねえのか。」
「………いいから。」
****
デーチモ祭はガイドブックに乗る程有名な祭、かつカップルのイベントの一つである。
昔、少年が一人が叶わぬ恋をし川に身を投げその供養をかねている、と言われているが今や縁日が所狭しと並び供養のくの字も忘れカップルを盛り上げているのみ。川と並盛橋を挟んだ辺りは人で賑わう。まったく逆の事をしているわけだ。俺もいずれは恋人と来たいとは思っていたが………。
とにかく俺は言い付け通り並盛橋の前までやってきた。すると自称神が橋の欄干に身を寄せて佇んでいるのが見えた。
「来たか。」
相変わらずのブラックスーツ。祭の中ではこの上なく浮いている。
「いいか、まずこの橋を渡れ。すると向こうからジョットがやってくる。適当に話し掛けて、茶でも誘いな。」
「………ちょっと待て。あんた、出雲に行って縁結びだかなんだかするんじゃねえのか。それじゃただのナンパだろ。」
「うだうだやかましい奴だな。何をするにも、布石、前置き、伏線は必要なんだよ。とっとと行きやがれ。」
尻を蹴られるように、俺は並盛橋を渡りだした。無茶苦茶だ。茶を誘う所か、こんな都合よくジョットが来るわけが───。
「!」
対岸から、並盛橋を渡る金髪が見えた。この闇の中でも解る。あれは間違いなくジョットだった。
俺達は導かれるように近付いてゆく。それと同時に、体が固まってゆくのを感じた。
「お、G。偶然だな。」
「ああ。」
「アラウディからは無事逃げられたか?」
「ああ。」
「それはよかった、では。」
「ああ。」
微笑を浮かべ、ジョットは俺の横を通り過ぎて行った。そうだ、この祭はジョットを喜ばすには素晴らしく最適なのだ。奴は大食漢だし、体に悪そうな色をした菓子や塩分多めな食べ物に眼がない。しかもこの「祭」という催し自体がデートに適している。見ろ周りの肉食動物達を。俺より遥かに動物としての使命を全うしていやがる。
ジョットはまだ遠くには言っていない。背中は見えている。だがどう待て俺。いくらお膳立てされたとはいえあざとくないか?いやいや、ここが好機なんだ、掴むべき。
汗を垂らしてジョットの背中を見ていると、ふと奴が並盛橋の十数メートル横にある黒曜橋を見て驚いたような仕草をする。周りにいた民衆も同じ方向を向きだしたので、俺も視線を移す。
するとそこ……黒曜橋の欄干に立つ馬鹿がいた。
奴は俺に向かって叫ぶ。
「ええいまどろっこしいですね、とっとと恋という堕落の穴に落ちなさい!」
「デイモン!んな所で何やってんだ!」
その姿は間違いなく、悪友デイモンであった。はっとして自称神を見る、そしてデイモンに再び視線を戻す。なる程そういう理由か。
「全部てめえの仕業か!」
「今こそ好機を掴みなさい!」
デイモンは欄干の上で叫ぶ。見物人は増えるばかりだ。
「でなければ僕はここから飛び降ります!」
「おい!俺の恋路とそれが何の関係がある。」
「それは僕にも解りません。」
俺が頭を整理しているうちに、ジョットが並盛橋欄干にに駆け寄り、デイモンに言う。
「危ないぞ、デイモン。落ちたら死ぬぞ。」
その時だった。
遠くから叫び声が聞こえ、見ると黒雲のようなものが橋と近付いて来る。ぞわぞわ空を浸食するように広がって来たそれ等大群は、ついに並盛橋を覆う。
「ぎょええええええっ!!」
「ジョット!」
それは蛾の大群だった。視界も見えなくなる程蛾達は飛び回り、ジョットの恐怖を煽る。
慌てて駆け寄り、咄嗟に抱きしめた。この時の心情はよく覚えていない。ただ蛾を追い払う事に必死になっていたのだろう。
しばらくすると蛾の大群は散り散りになり、方々へ消えた。ジョットは「むにゅっとぉお?」と呟きながら混乱している。俺はポケットを探ってみた。
「………はっ。」
手がお気に入りの感触を確認したのか、我に返る。ジョットはそれを確かめるように何度も握った。
「なっつまん………。」
「見つけてたんだ。忘れてた。」
落ち着き、安心しているのを見て俺も安堵する。そこでやっと、自分がジョットを抱き締めた事を思い出す。どんな釈明をすればいいのか、いや女々しいか。
口ごもっているうちに、ジョットは「デイモンは?」と聞いてきた。
黒曜橋欄干を見たが──いない。
「あいつ!」
案の定、デイモンは川に落ち右足を骨折していた。アホとしか言いようがない。
自称神が病院に連れて行ったのを見送って、やっと俺達は一息つく事が出来た。
デイモンが俺の恋路に、薔薇色のキャンパスライフに片腕突っ込んできたとかはどうでもいい。代償は奴にのみのし掛かって来たようには感じたが。
「──……G、なっつまんを見つけてくれてありがとう。」
「………いや。」
「どうだ、今から飯にでもいかないか。縁日の屋台では腹も膨れまい。」
「………じゃあ………。」
その後俺達がどうなったかは語らないでおこう。あまりに陳腐で話せる内容でもないからだ。
薔薇色のキャンパスライフだが、俺が三年棒に振ったという事と、デイモンに関わってしまったという事は最早変えようのない事実である。
「あの日」、「かるま」以外のチラシを取っていればまた違った人生になっていただろう。
しかしこうなったからには、良くも悪くもないと今までの日々を思い出すのだった。
終
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