昏さを呼ぶモノ
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 コツリコツリと靴底が秒針のように一定の間隔で音を立てる。

 照明の薄暗さと無機質な壁や床が現実から徐々に乖離していっているような錯覚を起こさせる。けれど幻想的な風景には程遠いリアリズムに支配されている空間は、出来の悪い漫談を聞いている時のような寒気に満ち溢れていた。

 

 冗長な造りになっている廊下は一寸先が暗闇に侵されていて、不気味なほどに人間を拒絶する空気が滲んでいる。

 私は見えない仕切りを一枚一枚乱暴に壊しながら進み、その度に後戻り出来ないような感覚に襲われていた。

 

 コツリコツリという音はやがて私の足元から這い上がってきた。気が付けばそれは耳元で鳴らされていて、今自分が歩いているのかさえ分からなくなってくる。

 空気は僅かにだが喉に絡みつき、息苦しさばかりを覚える。

 

 

 

 

 私はあまり前触れなく立ち止まった。

 というのも視界の端に違和感を感じたからだ。

 それはすぐに何か分かった。視線を向ける。ぽっかりと欠けているように照明の一つが光を失っていたのだ。

 その一角だけが輝きを忘れてしまっているようで、見つめていると吸い込まれそうだと何故だか危機感を覚えた。

 

 規則性を乱すそれに対して私は快い感情を抱けずに、あるいは敵愾心にも似た感情を芽吹かせていた。けれどそれは単なる電球が寿命を迎えたというだけの事象で、それ以上の意味はそこになかった。

 

 理解と納得が対立をし、心がうねるのを感じる。

 

 私は瞬きをし、胸の中に澱み溜まっている濁りを嘆息に混じらせて外気に馴染ませた。すると肩が軽くなったような幾許かの解放感と清涼感を覚え、同時につい先ほどまで薄暗く感じていた廊下の照明も俄かに光を強めたように思えた。

 無機質な空間が温度を持ち始め、私は何故だか私を囲む壁たちが無性に愛しく思え、親しみを覚えたのだ。

 

 急な印象の変化に私は戸惑い、頭を振ってみたが景色は変わらないままだった。

 どうしたんだろう、と私は思った。

 

 壁に触れてみると重たさが温度に混じり私と隔たっている。少しの安堵を得て、暫くした後に私の胸中が寂寥感に彩られていることに気付いた。

 コツンと音が鳴った。自ら歩を進めていたことに気付いたのは少し経ってからだった。

 

 

 

 

 

 私はその時、確かに衝動と言って差し支えない感情に駆られていた。

 とはいえ、それは逃避的なものではなく、更に言えばネガティブなものではなかった。ただ言い知れぬ焦燥のような、嫌悪的な不吉の塊がすぐ後ろに貼り付いているように感じられたのだ。

 

 そして、それが私を追い立てるのである。

 

 だが私は走らなかった。走れなかったとも言えるかもしれない。鉛が靴底に沁み込んでいるのではないかと疑心するほどに一歩一歩が重く思えたからだ。

 錯覚かもしれないが、その時私は廊下全体に磁力のような、重力とはまた少し違う力が薄らと感じられる程度に満ちているのではないかと感じていた。

 

 無機質に廊下という空間を形成しているそれらに吸い寄せられ、いずれは同一化してしまうような、名状しがたい恐怖感に似た感情を抱いていたのだ。

 

 初めは夢を見ているのかと思った。走り出そうと躍起になるものの、まるで歩が進まない現象に似ていたからだ。だがしかし、どうだろう。私の踏んでいる人造石は紛れもなく現実的な質感を持っている。

 それどころか、纏わりつくような壁の重苦しさも、温もりを感じる照明の光も、絡みつく異様な雰囲気も、シアターを抜け出した瞬間に味わう途方のないリアリティと同じような呆気ない現実感に包まれているのだ。

 

 背反する印象は私に混乱をもたらす以外になかった。

 そしてざわついた感情を静める方法など私は知らなかった。

 

 

 コツリコツリと画一的に響く靴音は相も変わらず周囲の無機物と溶け合って粘着的な空気を生み出していた。

 私はといえば、正直なところ早く用事を済ませてしまいたいの一心だった。いや、寧ろ用事など投げ出してつま先の方向を反転させてしまおうかとさえ思えてくる程だった。

 

 それほど、いつも見慣れているこの廊下が不気味に感じれたのだ。

 

 多分なのだが、私は苛立っていたのだと思う。

 感情が対立するような、背反した印象を受ける不気味な光景など私は幾度となく見てきた。戦地を歩くというのは、そういうことだった。けれど今私が感じているそれは、基盤からして違うように思えて仕方がないのだ。

 

 最も近い言葉を探して、それが共感なのだと行き着いたのは、目的の部屋まであと僅かだという時だった。

 

 

 共振でも同じ意味なのだろうけれど、私の奥に潜んでいる醜いものが溢れでてきているような感覚がするのだ。それがやがて得体のしれないものに成り代わり、そこら中を彷徨っているように思えてしまう。

 けれど、ドロドロとしたはずのそれらは、この重く堅く覆われているコンクリート質の廊下には不釣り合いで、それがきっと不気味さという印象を呼び起こしているのだろう。

 

 室内は廊下よりも一段階ほど暗い蛍光灯で照らされており、外光を望めない造りになっているだけに部屋の明かりとしては少し不足な気がしてしまう。廊下と変わらない無愛想な壁面に再び息苦しさを感じたが、だからといって、取り立てて違和感を抱くほどのことでもない。

 

 少なくとも私はそう思った。

 

 

 

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 カタっと音が聞こえた。

 何かが倒れるような音で、乱雑に積み立てられたファイルケースが壁か床かにもたれ掛かったのだろうと判じた。放っておいても良かったのだが、生来の気質として私はそれを見過ごすことが出来なかった。

 一度だけ聞こえた音を頼りに、部屋の隅の方へと足を運んでみた。

 

 蛍光灯が部屋の真ん中に設置されている所為で隅は更に幾段か暗く、目を凝らしても輪郭ははっきりと見えてこないほどだ。

 手抜きな造りだ、と私は憤った。少なくとも蛍光灯をもう少しばかり明るいものに替えても問題ないだろうに、と思った。

 

 しかし、いくら憤ろうが思おうが反応はなく、部屋は明るくならなかった。

 

 暫く床に這いつくばるような姿勢で倒れたであろう薄いケースを探していたのだが、それらしきものは一向に見つからなかった。

 本当にあれはファイルケースの倒れた音だったのだろうか、そんな疑念が湧き上がってくる。それと同時に得体も分からない寒気が身体中をのた打ち回った。

 

 だがそれも杞憂の類だったらしく、床に転がっている装飾品が目に映ったのだ。

 ひょいと拾い上げてみれば、それは首飾りの類に思える形状ながら、辺りに鎖がまるで見当たらないのだ。奇妙な十字形のそれは、このくすんだ装飾台に似つかわしくない光沢を持つ宝石の類が中心に鎮座している。

 

 生憎のことだが私はこうした装飾品の類に対する知識は乏しく、宝石に関しても同様なのでこれに対してのちゃんとした価値は分からないのだが、それでもこんな暗室に近い資料室の片隅で見つけるようなものでないことくらいは分かった。

 

 きっと誰かが落としたものだろう、そう結論付けて私はそれをポケットにしまった。

 

 

 

 

 

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 その音は赤子の劈くような泣き声に似ていた。そして同時にこの世を呪いながら去っていく断末魔にも近いものだった。

 首飾りをポケットに入れようとした瞬間、背中から唸りとも叫びとも判じれないような声が聞こえてきたのだ。

 

 私は慌てて振り向いた。

 恐怖からではない。

 

 そんな声を私は生涯の中でただ一度も聞いた事はなかったが、それでも只事でない雰囲気を孕んだものだということは分かっていたからだ。しかし思い返してみれば隣室はおろか、廊下にすら私以外の人影は見なかったはずだ。

 いくら部屋が暗かろうが、こんな声を出す状態の人間が居れば気付く。

 結局、振り向いた所で私は散乱とした紙束以外を目に映す事はなかった。

 

 すると今度は紛れもなく恐怖感が湧いてきたのだ。

 今の声は何だろうか、そんなことを考えても分かるはずもなかった。ただ、少なからずそれはこの世のものが発したものではないと、微かに思った。

 だが、何故だか私はそれが呪いや恨みに派生したものだとは思えなかったのだ。私に害意を持って叫んだわけではないと、半ば確信するように思えていた。

 

 キィっと音がした。油を差し忘れてた扉がおもむろにしまったのだ。しかし、私と扉には数メートルの距離があり、けれどそこに誰かが居た様子もない。

 

 ついに私は、これは危ない、と思い至った。

 すぐさま扉を破ろうと走り寄ってみるものの、距離は私は思っていたよりも短くなかった。いや違う。私が遅かったのだ。先ほどと同じように夢の中で走っているような、疲労感ばかりが募り、まるで進まない現象に見舞われていたのだ。

 

 だがしかし、これは夢ではない。

 夢でないという確証はないながらも、あまりにリアリティに溢れるこの感情と質感は私に今が紛れもなく現実であることを教えていたのだ。

 

 唸り声はまた響いた。壁の向こう側から泣き喚いているように、地下の奥底から気狂いしているかのような声が、部屋中に滲み、満たしていた。

 

 

 やがて幾重に纏まった声に気をとられて私は気付き遅れたが、明らかに室内を照らしている蛍光灯の光は弱まっていた。

 

 その時になって私は、初めて怖いと感じた。

 

 それは生命の危機に起因するような恐怖心でもなく、もっと根源的な怖さだった。

 

 壁に近寄ることはおぞましく思えたが、しかし背を何もない空間に曝け出しておく勇気はすでに私にはなかったのだ。部屋の隅にバッと身を寄せ、薄暗い室内を飛び交う叫び声にただ身を抱き締め耐える他なかった。

 

 ヒステリックに高音な声は、吐瀉しているような低音の声と混ざり、惨たらしいまでに神経を逆撫でする。全身から汗が止まらなくなる。髪を掻き毟ってみようが声が止まず、肺を圧迫するような窒息感ばかりが募る。

 

 

 私は部屋で暴れ回っている声が無秩序な物でないことに気付いた。

 いや、人間からすれば果てしなく無意味で何重にも幾何学模様を重ねたような混然極まりないものなのだろうけれど、私は何故かそのフィルターを掻い潜れたのだ。

 

 吐き気を堪え、雑音のような叫びに耳を傾けると「ウィボダァ・ウィボダァ・サスラ」と決して規則正しくではないが叫んでいるのが分かった。

 

 しかしそれはどこまでも非人間的な呻き声で、到底意味のあるとは思えないその悲鳴の羅列に晒され続けていると、次第に私自身の思考も儘ならなくなってくる。もはや私は怖いという感情以外見当たらず、そして助けてという思考以外見つからなかった。

 

 ふと私の掌がポケットの中にある首飾りに触れた。

 

 その瞬間、叫び声は一層強まり、私はすぐに手を自分の耳に押し当てた。

 しかし声は消えず、それどころか強まったままで、まるで音が遮れていなかったのだ。半狂乱な思考の中で私は、不意にポケットの中にある首飾りの存在に思い至った。

 

 今度は故意に首飾りを掴むと、それをポケットから引き抜き、部屋の中央へと投げ捨てた。

 

 カツンカツンと乾いた音がしながら、それは床を数度跳ね、動きを止めた。叫び声はますます酷くなったが、しかしどういうわけか先ほどよりも遠ざかった気がした。

 つまり、あの首飾りから聞こえていたものなのだ。

 だかしかし、それはあまりにも非現実過ぎた。悪夢の類だ。けれど爪で引っ掻いた腕からは血が滲み、痛みが頭へと伝わるだけだ。

 まるで覚める気配はなかった。

 

 

 

 

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 私は胃の中にあったものを吐き出しかけた。

 それはあまりにも醜悪で、おぞましいという表現ですら役不足になるほどに、グロテスクなものだった。

 

 私はそれに近いものを見たことをあった。人間だった。戦地で見かけた遺体に近いのだ。それも臓腑が剥き出しにされたような、嫌悪感以外の感情を抱けないような姿のそれが、部屋の中央で、否、首飾りからはみ出し、蠢いているのだ。

 目を逸らしたいのに私は何故かそれを食い入るように見、口内が鉄の味に染まっても歯軋りは止まなかった。

 見開いた目はすぐに乾き、痛みを訴える。しかし、やはり蠢くそれから視線を逸らすことは許されず、眼球を乾燥から守るために涙腺から雫が溢れ出る。

 

 良く良く見ればそれは、投げた衝撃で欠けた宝石の亀裂から湧き出ており、あたかもあの首飾りに閉じ込められていたように思わせる。

 無秩序な叫びは臓物を纏わせているように思わす、その姿のいたる所から聞こえてくる。雨後の墓地から漂うような腐臭を伴うそれは、まさしく地獄と形容するにふさわしい光景だった。

 

 

 

 既に部屋の光が人工的なものでないことに気付いたのは、随分と後からだった。

 首飾りから湧き出している醜悪な存在を起点として、部屋から一切の光がなくなっているのだ。だというのに私は暗いという概念を僅かも抱くことをせず、それ故に余計に深淵へと誘われている事をはっきりと自覚したのだ。

 

 既に私が居る場所は資料室などの形状を保っておらず、それは矮小極まりない空間でありながら、宇宙すらも微塵であることを示しているかのような広大さを催すものであった。自己という存在が途方も無く無意味に等しいものであるような事実を突き付けられ、そして正しく……そう、正しくなのだ、私は自己を形成する全ての要素を失ってしまった感覚に陥っていた。

 

 

 私の前で蠢くそれは、次第に形を成していっているが、しかしそれも名状しがたい怪奇的な様相であり、心の奥底に潜んでいる恐怖と嫌悪感を徹底的なほどに引き摺り出すかのように、劣悪であり醜態極まりない病的な動きを絶えず続けており、気泡の様なものが表皮を膨れさせては耳障りな音を立て、下水にも似た吐き気を催す臭気を撒き散らしながら、弾けていた。

 幾重にも続いていくそれは、一見して沸騰している粘度のある液体……たとえばマントルの類を彷彿とさせたが、それにしてもこれほどまでに人におぞましい印象を与えはしないだろう。

 

 不気味に、そして何よりもこの世の物とは到底思えない、ある種の不条理さを滲ませるかのような光景は、気を違えようが決して触れることのない、しかしこの世界の原理的な、原始的な物のように思えて仕方がなかった。

 

 

 

 機械で支離滅裂に音声という音声を弄り、どこまでも非人間的な声色を追究したかのような、唸り声とも叫び声とも判じられない悪意に満ち溢れた響きが依然として鳴り止まなかった。 不愉快さしか感じさせない程の無秩序で不明瞭な音は、やはり「ウィヌダァ・ウィヌダァ・ウボス」とおおよそ人類には理解できまい言語を介して部屋中にバラ撒かれている。だがしかし、私には何故かそれが他者を拒絶するような類のものではなく、寧ろ誰かを呼ぶような雰囲気のあるものだという事実に思い至った。

 無論、私自身が何故それに思い至り、そしてまたそれが紛れもない真実であるかのように確信できたのかは分からないが、しかし狂を発した人種特有の、ある共有感を持って私は蠢く臓物の、劈く様な鳴き声を読解出来た。

 

 それは紛うことなく悲しみであった。自らの境遇を憐れみ、嘆き叫ぶようなものであった。

 誰かに創生され……もちろん私にはそれが誰であるか皆目見当もつかず、そもそもこの光景すら夢半ばであり、冷静な思考など既に消え果てているが……仲間を求めているような、そんな風に思えて仕方がなかったのだ。

 

 

 恐らくは私もまた創造された生命の一つであり、規範に即さず生まれた存在だからなのだろう。目前で蠢いている汚らわしさの果てにあるだろう、ある種の病的な醜さに囚われた生命体と、私は根源的には同じであるのだと言外に投げかけてくるように私の心の奥底にある何かがそう訴えかけて止まないのだ。

 それは命を他者によって創られるという、根本的な生命の営みから外れた物だけが分かち合えるだろう根底に横たわる昏さのようなもので、摂理から、あるいは万象といった類のものから疎外された後ろめたさに近い感情だった。

 

 

 

 

 臓物状の異形種は次第に膨張していく。

 それは細胞分裂に似た動きでありながら生命の神秘性など微塵もなく、ただ忌避を願うほどの冒涜さでしかなかった。

 私は何故だかそれを、逃げるという感覚を忘れ、ただそれを茫然と眺めていた。やがてそれが私を包み込もうが、それは私という全ての原理から外れた位置に居る生命体を、最期に還る場所へと導いてくれているかのように思えて仕方がなかったのだ。

 

 

 世界が暗くなった。膨張を続けた目の前の臓物状の異形種が私を飲み込んだのだと気付いたのは少し後になってからだ。

 

 混乱し、恐怖に渦巻く脳裏を横目に心はひどく安寧に満ちているような感覚で、それは原初に触れたような、自己が乖離していくような、不安定ながら調和の保てている、矛盾したものであった。しかし、その矛盾さを包括して納得させるような一種の強引な力強さが確かに存在しており、それこそが世界そのものの根源とも感じられたのだ。

 

 人が土に還るよりも先の、存在とも魂とも表現しにくい、生命の辿り行く終着のような場所。 神聖的だとも言え、同時に醜悪的だとも言えた。ただしかし、自分が今その生命の始まりと終わりを目撃しているという自覚はひどく薄く、それはやはりそうした理から遠退いた位置に居るからなのかもしれない。

 

 

 私は既に私という自己を形成しているものの殆どをこの広大な宇宙にも似た、しかし矮小な存在に溶け出してしまっているように感じているのだ。

 自身の乖離とはすなわち究極的には不安や恐怖といった感情から、また安堵や歓喜といった感情から、解放ないし離別することにあるのだと私は直接的に知った。

 

 それは間違いなく臓物状の異形種の中にある、その根源的な世界が私にもたらしてくれた知識なのだと、確信的に思えた。

 

 それは死ともまた別種の、どこか甘美にすら思える誘いで、そのまま身をこの原初にして終末の世界に託しても構わないとさえ思えてくる。

 

 

 

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 ほんの一瞬のキッカケであり、私自身が失念していたことでもあったが、弾かれたように自意識と言うものを取り戻した。

 カチャンと金属音が響いたのだ。

 それは最愛の人が私にくれたネックレスが立てた音であり、現実とこの悪夢に等しい虚妄塗れの空間を切り離す合図になってくれた。

 

 

 

「……なの、は」

 

 空ろに呟いた自分の言葉によって意識が覚醒していく。しかし、私が目にした風景は薄暗く閉鎖的な資料室でも、そしてあの奇怪極まりない悪趣味さの果てにあるような空間でもなく、あの冗長な造りになっている廊下の一角であった。

 

 ひんやりとした感触がやがて衣服を越え肌に到達する頃、自分が座り込んでいるのだとようやくに理解した。しかし立ち上がる気力は殆どなく、また激しい目眩の様なものが襲ってくるため今暫く姿勢を変えないことにしたのだ。

 不思議と誰かが近くに寄ってくる気配はなく、だからこそこうしてまだ壁に背を預け、倒れるように座っていられるのだろうけれど。

 

 壁に触れている箇所が徐々に冷え、温度的にもやがて壁と同化しそうな感覚に陥るが、それもあの超常に等しい現象を目の当たりにした直後では些か不足気味な感覚ではあった。

 

 掌を広げてみれば何もなく、同様にポケットの中を探したところで欠けた首飾りはまるで見つからず、そんなものは最初から存在していないかのような、けれど忘れられもしない、奇妙な欠落感を味わう。だがしかし、あの得体のしれない、そして寒々しいまでに恐怖的な存在に遭遇しないのであれば、そうした奇妙な感覚などいくらでも無視できるものであった。

 

 あの出来事は何だったのだろうか、と考えた。

 埒外であり、そもそも夢だったとさえ思えるような出来事に意味を求めたところで自身を納得させられるような言葉が出てくるとは到底思えなかったけれど。

 しかし、あの時に感じた昏さは間違えようもなく私が心の底に飼っているもので、人にあらざる存在である私が一生向き合い続けなければならないものなのだろう。もしかすればそれがあの臓物状の異形種を呼び寄せたのかもしれない。

 

 

 そう考えて私は一笑した。いくらなんでも感傷的すぎるのだと。だがしかし、それは薄ら寒い程に説得力を持っていて、否応にも真実であるように思わせられたのだ。

 

 とはいえ、そんなことを誰かに話した所で正気を疑われるか、良くて過労を心配される程度で、誰からも相手にされる事はないだろう。

 

 しかし、だとしても私はこの出来事に関して生涯において口外する事はないだろう。

 脳裏に焼き付くようにして残っている忌わしい怨嗟に塗れた不明瞭な叫び声を、しかし私は朧げながら理解してしまったのだから。

 

 

 それが指し示す真実は、神をも恐れぬ野蛮な者ですら生命の遺伝的に刻みこまれた恐怖を呼び起こされるような、痛ましい程に悪夢に似た病的な幻想にふさわしく、ただただ忌避し、忘却の果てへと追いやろうと願わざるをえないようなものだった。

 

 

 

 

 

 見上げてみれば照明は何一つ輝きを失っておらず、ただ光が規則的に途切れることなく灯されていた。それを見て私は得も知れぬ安堵感を覚えながらも、あの原初にして終末である、混沌の果てにあるだろう生命外のモノが辿り着く、生命の果てを観覧する空間に足を踏み入れる事は二度とないのだろうと、確信的に思えた。

 

 それを惜しいと思うのは、やはり自分が自己に対して意味を持ちたく願っているからなのだろうか?

 

 

 

 

 その疑問もまた、私は生涯口にすることはないだろうと、静かに誓った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

説明
クトゥルフ的手法の実験、主人公は一応フェイトさん。
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リリカルなのは フェイト・テスタロッサ クトゥルフ 

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