【初音ミク】1925 |
帽子を目深くかぶり直しながら、青年は何事か含んだように笑んだ。唇だけのそれがやけに印象に残って、私はついつい振り返る。
不思議なことだが、この街の中で、彼の周囲だけは落ち着いたものだった。
まるで、周りが彼だけをすり抜けているような印象さえ受ける。
足早に過ぎ去る人波の中を、ゆったりと闊歩する──あまりに異質なその空気は、注意を引いても何らおかしくないはずなのだが、今のところ彼に意識を向けているのは、この私、ただ一人だけのようだ。
相手の歩調がなかなか不規則なせいか、それとも私が此処で立ち止まっているせいか、思うほど距離は開かれていなかった。一目見ただけの他人に、何故こんなにも引き付けられるのか──考えてみるもなかなかそれらしいことは浮かばない。
「……」
開いた唇から声はなく、微かに息の音が漏れるだけ。分かっていたこととはいえ、私は落胆した。
少しは慣れてきたと思っていたが、まだまだのようだ。
世界から音が消えたわけではないものの、自分だけの音を失ったという現実は、どうにも空虚な気分になる。
そうか、私にはもう、誰かを呼び止めることも叶わないのか。
駆け出しかけたところを、留まる。
彼の後ろ姿が人に遮られて見えなくなると、何か重要な機会を逃したような、そんな気すらして、ひどく憂鬱になった。
そんなときである。
どこから出てきたのだろう、見知らぬ少女が、鼻先で人懐こく笑ったのは。
「何をお求めですか?」
彼女の軽快な動きに合わせ、二つに束ねられた髪がぴょんと跳ねた。
面食らっている私を、真ん丸い二つ目がじろじろと観察している。
何かを言おうとしても、声を持たない私は虚しく口を動かすことしかできない。
「……ふうむ」
やがて、その子は得心したように顎に手を撫でながら、私と目を合わせる。
たったそれだけで、心は浮き立ちそうになり、その理由が分からない私は、また戸惑った。
「貴女は、貴女の声が欲しいのですね。……少し割高になりますが、ご用意できますよ」
──この子は唐突に、何を言っているのだろう。何故私が口をきけないことが分かったのだろう(もっとも、先程の動作から察したとも考えられるのだけれど)──。
そんな具合に様々な疑問が飛び交う中でも、その商談は、この上なく魅力的であった。
割高になるけれど、私の声が用意できるだって? 声とは金で買えるものだったのか、知らなかった。
「どうします? 買われますか?」
普通に考えて、ありえない話である。ありえない話なのだが、気付けば私ははっきりと頷いていた。
千載一遇よりも、もっと希薄な機会に巡り会ったのだと、しきりに何かが訴えている。
私がこくこくと首を振ると、彼女は何事か含んだように笑んだ。唇だけのそれは、やけに印象に残る。
パチンパチン、と素早くそろばん玉を弾いて、私へと。その額には目玉が飛び出しそうになったが──金で再び声が戻るのならば安いものじゃない。と、心の中で「私」が言った。
嗚呼、口座に入っているものを使い果たしてでも、それで足りないならば、お家に頭を下げてでも、なんとかしなければ。
財力というものを有り難く思ったのは、生まれて初めてのことだ。
とん、とん、爪先でリズムを刻んでいた彼女は、にいっとわらう。
「さあ、コウカイの準備は、お済みですか? ……人生はゆるりと往く、船の旅」
航海の準備。この非現実的な場面でのそれは、事をひどくロマンティックに思わせる。
すい、と顎を持ち上げる手は、私を見る目は、いつの間にか変わっていた。少女のものから──否、女のものから、男のものへ。
「……あっ」
先刻見失った相手の姿に、驚いて漏らしたその声に驚いて、そうこうしているうちに「彼」はすっと体を引いた。
相変わらずの笑みのまま、後ろ向きに一歩踏み出す。
「毎度、有難うございました、もうお会いすることもないでしょうが、どうぞ、よいコウカイを」
再び他人に遮られたと思うと、もう、そこには誰もおらず、いつもと同じように、人々が急ぎ足で行き交っているだけだった。
説明 | ||
買えないものなどないのです *自己解釈SS *原曲(sm8430328) *サムネは頂いたイラストよりお借りしてます |
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