あるひとつの結末 |
ひとつの森がありました。
森はとても深くて、背の高い樹が、ずっとそこで育ってきた樹が数え切れないくらいありました。ときどき降る雨が細い川をつくり、やがて大きな泉へと流れ込みます。そうしてたっぷりと潤った土からは、また新しい芽がいくつも飛び出、森の未来を受け継ぎます。春の月はやわらかく夜を照らし、ときどき薄い雲にひょいと隠れてしまいます。
やがて夏が来て、新月の空から十日続けて雨が降ると、残りはずっと晴れるのでした。森の木々はみんなそれを知っていたし、そこに住むリスやトリたちはその季節が待ち遠しくて、春の残り香をつつきながら毎日空を見上げます。昨日も雨だった、明日はどうかな。いくつもいくつも数えるうち、また朝が来て、夜が来ます。くりかえしそうやっていると、いつのまにか雨の季節は終っていました。
雨が止んだ日の夜、森一番の泉のほとりはとても賑わいます。泉に近いところには大きな岩がひとつあって、そこからまるい円になるようにしてイキモノが集まってきているようでした。夏の月は煌々と輝き、空にぽっかり白い穴をあけます。それに反射して、たくさんの生命がなにか話をしています。
「おれは前は南国に住む鳥だったのさ。きれいな青い羽根を持った」
「あたしは白いウサギだったわ。大草原を毎日走り回った。とても気持ちいいのよ」
そんなふうに聞こえます。そんな生命たちがすべてニンゲンの姿をして見えるのは、私が人間だからでしょうか。トリたちには彼らが色とりどりのトリに見え、木々には新緑の若木がふわふわ揺れているように見えるのでしょう。とにかくそんなふうにして、泉のまわりはだんだん騒がしくなってきました。
生命はいくらかの期間身体と結びついていますが、あるときを境にふっとイレモノから自由になります。そしてしばらくは世界を見て回ります――はじめはもといた場所の近くをうろうろしていますが、だんだん遠くへと移動してゆくのです。あるものは海の底深くを奇異な形のイキモノといっしょに泳ぎ、またあるものは大空高くから地上のピラミッドを四角形に眺めてみたりするのです。いくつもの生命と出会っているうち、雨が降ります。そうやって全ての生命は、この森に戻ってくるのでした。森に名前はありません。身体と結びついている間、生命はこの森のことを覚えてはいません。
「ねぇ あなたは次に何になるの?」
横たわる古木に腰掛けていた真っ白の服の男の子に、真っ赤な服を来た女の子が話しかけました。女の子はもうニコニコして、ぴょんぴょん飛び跳ねています。男の子はすこし驚いたような顔をしましたが、すぐににっこり微笑んで、自分の隣をぽんぽんと叩きました。女の子はまた嬉しそうに、そこに腰掛けました。
「さっきそこでね、トラ模様のお姉さんが宙返りしていたわ。とっても軽快なのよ」
女の子は思い出してクスクス笑います。女の子はいろいろな話をしました。今まで見てきたものを思いつくまま、流れ出すように話すものですから、ひとつひとつの話はあまり繋がりません。だけど大きく身振り手振りで喋り続ける女の子と見ていると、男の子も楽しい気分になってくるのでした。
「わたしはまだ決めていないんだけどね。あんまりたくさん見てきたから、選べなくなっちゃって」
だからあなたと同じにしようかな、と思ったのだと、女の子は言いました。
「ぼくがなりたいもの?」
男の子も首をかしげます。ちょっとだけ考えるようなしぐさをして、ふとカラフルな服を着た、向こうで歌っているものを見つめました。
「インコさん?」
女の子が尋ねます。男の子が首を横に振ったとき、円の真ん中にある石の上に誰かが立ち上がりました。それに気がついたものが、ひとり、ふたりとそちらへ向き直ります。
「おかえり」
その声に、みんなしんとして聞き入りました。もう誰も、ひとつも音を出すものはなくなりました。
それはみんなとは少しちがう姿をしていました。その青年は、金剛石のカケラを振りまぶしたようにチラチラ光るローブを着ていました。裾の方や袖口のところからは、向こうの風景がちょっと透けて見えます。ぐるっとまわりを見渡すと、青年はまた口を開きました。
「長い雨の季節も終った。すぐにあの日が来る――」
「誕生の日、だわ」
男の子の横で女の子が呟きます。青年はそれをしっかり聞きつけて、満足そうに頷きました。
「そう、これからきみたちは新しい身体を選んで森を出て行くんだ」
森にいる誰もが、青年のほうを見ていました。見ていましたが、心の中ではなにか探るようにして、なにかなりたいものをじっくり思案するものもいましたし、すっかり決めてしまったようで目を輝かせているものもいます。
「誕生の儀式は明日の晩だ」
両手を広げて青年は言います。
「そのときまでに決めておくことだ。わかっていると思うが」
そこで息を継ぎ、眉をひそめて、充分に確認するようにみなをもう一度見渡して
「規律は破るんじゃないぞ」
と続けました。まわりからのわかった、というふうな反応を見ると、青年はニコッと笑い、両手を挙げて、お祭りを続けようと言いました。どこからともなく歌がはじまり、飛んだり跳ねたり、だんだんもとの騒ぎに戻ってゆきます。
男の子はそっと女の子に耳打ちします。
「ねえ、規律ってどんなもの?」
すると女の子はいちど目を丸くして男の子を見ましたが、すぐにクスクス笑いを忍ばせた笑顔になりました。
「知らないの?」
「ここに来てまだ少ししか経ってないんだ」
うつむいたままそっと前の方を見ると、泉に映った満月の光に集まるようにして、小さな女の子たちがふわりと飛び交っているのがわかります。満月色のワンピースの裾をそよそよさせて、岸ではそれに合わせて若い女の人がソプラノで高らかに歌っていました。
「ぼくはニンゲンになりたいんだ」
「ニンゲン?」
女の子がぴくりと眉をひそめます。
「どうしてニンゲンなんかになりたいのよ」
口を尖らせて、足で古木をがしがし叩きながら女の子が言いました。
「うん」
男の子は頷いて、顎に手を当ててしばらくなにか考えて
「うん」
とまた頷くと、女の子の目をしっかり捉えて
「ニンゲンは嫌いなの?」
と聞きました。
「あたりまえよ!」
女の子はぱっと立ち上がると、ちょっとだけ声を荒げます。
「少なくとも、望んでなるもんじゃないわ!」
「どうして?」
あくまで静かに、男の子は尋ねます。
「あなた知らないの?ニンゲンは、ニンゲンはね」
すうっと息を吸い、女の子はそこから一息に続けました。
「この惑星で唯一、生命をムダにするイキモノなんだから!」
女の子の頬は赤く火照って、今にも泣き出しそうな目をしていました。
「そうよ、ニンゲンのほかにむやみに誰かの生命を奪うものはないわ。わたしは小鹿だった。そう、こんな森に住んでいたわ――だけど、ニンゲンが来た」
女の子は静かに口にします。
「森は焼き払われて……理由なんて知らないわ。仲間たちは皮を取られ、追いやられて、ついに食べるものも住むところもなくなって、ひとつ、またひとつと命を落としたわ。結果、ひとつの森が消えうせてしまったのよ――ニンゲンの身勝手な娯楽のためにね」
「キミも?」
「ええ、わたしも」
それきり誰も黙ったままで、泉を舞う少女たちをただただじっと見つめていました。あれはもしかするとホタルだったのかもしれない、と男の子は思いました。
「だけどニンゲンは変わることができる」
突然、男の子が呟くようにして言いました。
「たくさんのニンゲンがいて、誰もが誰も同じように生命を考えてるわけじゃない。それに」
あくまで淡々とした口調で紡がれる言葉を、女の子はちょっと拗ねたような表情で聞いていました。
「ニンゲンは変えることもできる」
「何を?」
「ニンゲンは他のニンゲンや生命に積極的に働きかけることができる。そのものの将来に大いに干渉することができる――それが良く働くか悪く働くかは、たしかに紙一重ではあるけれど。そうしてお互いが作用しあって、お互いを成長させることができる。自分を高めることができるんだ」
男の子はふと空の奥のほうを見るようにして顔を上げました。月明かりがその顔を照らし出します。
「ぼくは以前、どんな生命として生きていたのかを覚えていない。だけどもニンゲンに対して、そういうふうな考えを持っている。……ぼくはキミが羨ましいよ」
そっと男の子がやわらかく微笑んでみせた横顔を、女の子はじっと睨んでいました。
「仲間に愛されていたからこそ、森を愛していたからこそ、ニンゲンを憎める。……ぼくはどうしてこんな感情を持っているのかわからない。果たしてなにかに愛されていたのか、ぼくはなにかを愛していたのか?どういう過程を積んで、こういうふうに感ずるぼくがあるのか」
まるで演説をしているかのように遠くを見ている男の子の目線を遮るように、女の子は立ち上がりました。男の子の真正面に立つと、月明かりが女の子のシルエットをあらわにします。影がさしているせいで、表情はよく見えなくなりました。
「ニンゲンは同じニンゲンをも傷つけるわ」
「そうだね」
「必要もないのに、自分の感情だけで、よ。そして自分の生きた痕跡を残そうと躍起になる。自分で自分の生命を絶つものだって!」
「だから、いつまでたっても傷つけあう」
「なのに、変われる?いつも口先ばかりよ、ニンゲンなんて。共存、共生、自然保護――なんてキレイな空言かしら」
「行動を始めているニンゲンだって、もう少なくないさ。確実に広がってる。キミはどう思う?」
矢継ぎ早に話していた女の子は、ぴたりと口を閉ざしました。
「そういうニンゲンもしっかりいるってこと。キミは心底ニンゲンが消えて欲しいと思ってるわけじゃない」
女の子はしばらくぴくりとも動かず、うつむいてじっとなにかをこらえるようにしていましたが、それはどうすればうまく伝えられるか、適切な表現を見つけられずにあれこれ思案しているからでした。
「そうよ」
やがて話し始めます。いつのまにかホタルの少女はいなくなり、喧騒もごく僅かな話し声を残すのみとなっていました。女の子はそれに気付いていましたが、休みたいとは少しも思っていませんでした。
「わたしは世界中を見てきたの。本当はわかっていたわ、この地球の一員として、誰もが気持ちよく過ごせるように活動しながら生きているニンゲンがいるってこと。共に生きることを望んでいるニンゲンがいるってこと。だけどわたし、どうしても許せなかった。誰かに聞いて欲しかったの」
肩が僅かに震えています。女の子がどんな表情をしているか、見えなくとも男の子には想像がつきました。だけど男の子は静かに、何も言いませんでした。話し声は続きます。
「悔しかった。ただ憎むことしかできない自分がいた。なにもできなかった……優しいニンゲンだっていっぱいいるのに、どうしてわたしたちは出会えなかったんだろう」
女の子の背中で、寝ぼけた銀色のサカナがぴしゃんと一度、跳ねました。
「わたしはあなたと誕生の日を迎えることはできない」
「えっ?」
男の子は思わず聞き返しました。女の子は、泣いてはいませんでした。最初会ったときほどのニコニコ顔ではありませんでしたが、目を細めて愛らしく微笑んでいました。
「この森では他の生命を貶すような言動は禁じられているんだ」
突如背後から飛び出した声に驚いて、男の子は振り返りながら立ち上がり、女の子の横に立ちました。そこにはさっき見た、ローブを纏った青年が、さっきのとおりの笑顔のままで立っていました。
「それが唯一の規律なんだ。鹿の子、君は罰を受けなくてはならない」
「罰?」
不安げに男の子は女の子と青年を交互に見やります。女の子は静かに目を閉じ、身動きしませんでした。畏れているような雰囲気は、ありませんでした。
「彼女に誕生の機会は与えられない」
「そんな!」
初めて感情を顕わにした男の子の叫びに、女の子は少しびっくりしたようでしたが、すぐにもとの表情に戻りました。青年はひとつも表情を変えず、ふたりを見守っていました。
「わたしはこれでよかったの。あなたに会えてよかった。ちょっとだけ、素直になれた気がしたの……規則のこと、言ったらきっと、あなたはわたしを止めたでしょう?」
女の子は笑みを絶やさず、片足をぶらぶらさせて語りかけます。
「ニンゲンになりたい、なんて言うから。つい気持ちが昂っちゃったんだわ。ニンゲンにただ憧れてるだけなんじゃないかって。なんでそんなこと思ってるのか、わからなくて。でも今は違う。なにも後悔なんてしていないんだから」
「少年」
またいきなり、青年が男の子を呼びました。月は森の真上に昇り、誰もの表情がよく伺える明るさになっていました。
「彼女はそう言っている。規律は守らなくてはいけないし、破ってしまえば相応の罰があるのも当然だ。それに存在が消えてしまうというものでもない」
「だけどあんまりだ、こんなの!」
男の子は必死に青年に訴えかけました。自分にできることはなにかないのか、ただ一度でも女の子が誕生できるチャンスはないのか。それらを押し黙って聞いていた青年は、やがてひとつの提案を男の子に投げかけました。
「それなら、こういうのはどうだ?」
青年は一息置くと、女の子と男の子を交互に見やってからひとり頷きました。
「少年、君はニンゲンとして次の生を生きたいんだな?」
「はい」
男の子もしっかり頷きます。
「君がニンゲンとして己の生をしっかり生き抜くことだ。途中で諦めてしまったり、無為に過ごしたりしてはいけない。もちろん、誕生した君はこの森で起こったことを一切覚えていない。君が抱くニンゲンへの感情も。それでも君は、それができると自信を持って言えるのか?」
「はい」
男の子は拳をぎゅっと握り締め、決意の色を瞳に浮かべて答えました。青年の視線から目を逸らさず、まっすぐに答えました。青年はそれを見て深く頷くと、今までのものに何倍も増した笑顔で、男の子と女の子の左手をとりました。
「なら、約束するといい。少年、君がこの森に無事に還ってこれたとき、彼女の非をすべて許そう。そのときはまた、ふたりで話をするといい……」
そう言うと青年はふたりに握手をするよう促し、自分は手を離しました。男の子と女の子はしっかりと、お互いの手を取りました。
「ありがとう」
女の子がそっと囁きました。男の子はなにを言えばよいのかわからなかったので、黙って女の子の笑顔を眺めていました。
「きっとこれからこの森には、私と同じようにニンゲンのこと考えてる生命も来ると思う。だから、わたしはここであなたのことを教えてあげることにするわ。いろんな生命にね」
女の子の言い方があんまりさっぱりしていたので、男の子が感じていた不安や不満はすっかり消えてしまいました。
泉のまわりがまた騒がしくなってきました。いつしか夜は明け、空が白んできていました。晩に歌い、踊っていたたくさんの生命たちは、ゆっくりと、しかし次々に泉に入ってゆきます。一度身を沈めた生命が浮かび上がってくることはありません。ああやって誕生へと向かうのだと、男の子は知りました。ふたりは手を繋いだまま、昨日の古木に座っていました。よく見渡してみると、地面に腰を据えて動こうとしない生命もいくつかいることに気がつきました。
「自ら誕生しようとしない生命もいるの。理由はそれぞれなんだろうけどね」
女の子が教えてくれます。男の子はちょっと理由を想像してみようとして、すぐにやめました。順番が迫ってきていたのです。
「自ら命を絶ったものは」
古木の脇に立っていた青年も、泉の様子を見ていました。
「この森に還ってくることはできない」
今のはちょっとした独り言だよ、とにこやかに呟きます。女の子はふふ、と笑いました。
「さあ、そろそろ行ったほうがいい」
それを合図に男の子は立ち上がり、最後にもう一度女の子の手をぎゅっと握りました。女の子も合わせて立ち上がります。
「約束、ね」
女の子は最初会ったときのようなニコニコ顔で、男の子の手を離し、その背を軽く押しました。男の子ははじめ歩いていましたが、こらえきれず走り出しました。泉に飛び込む瞬間に、ちらりと女の子がぴょんぴょん跳ねながら大きく両手を振っているのが見えました。
それっきり、しばらくの間は男の子は森のことを記憶の底に追いやってしまうことになります。
「行ってしまったな」
「ええ。行っちゃった」
泉のまわりは静けさを取り戻し、さわさわと木々が擦れる音がやけに大きく聞こえます。女の子は首を傾いで、青年に尋ねました。
「すべての生命はこの森に還ってくるんでしょう?」
「ああ、そうだ。だけども」
青年は女の子の質問の意図をしっかり酌んでいるというふうに、なにも聞き返しはしません。
「自分で命を絶ったり、それに等しい行為をしたり……日々を無駄にして生きるとかして生を終えた場合、生前の記憶はすべて失われてこの森に来るんだ。なにもない、真っ白の状態さ」
言いながらイタズラっぽく笑います。
「そうなってしまうのは、ニンゲンのほかにいないんだよ」
「ふぅん……」
女の子は一度目も口もぽっかり開けて驚いていましたが、それについてはなにも言いませんでした。そのかわりにとびきりの笑顔で
「わたしは、ずっと待っているわ」
とだけ言うと、ぴょんと跳ねて遠くに見えた新たな生命たちを迎えに行きました。
「……それでも、心の底深くに刻み込まれた感情ってのは、残っちまうもんなのかもな」
すっかり青くなった空を仰ぎ、残された青年はふぅと息をつきました。陽の光が散らばる泉の水面を、軽く吹き行く風がゆらゆら揺らします。
「俺も待ってるぜ、少年」
説明 | ||
4年前に学園祭用に書いたもの。台本元として書いたけどステージ抽選に落ちたのでお蔵入りでした | ||
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