カラザ |
空の色は灰色がかった藍色で、今日は若干仕事が多そうだなぁと溜息を吐く。空塗りの連中め、最近はこんな空模様ばっかじゃねえか。なんて毒づいたところでどうしようもない。第一彼らだって自分たちの意思で空の色を決められるわけじゃないし、そもそも今は雨季の真っ盛りだ。自分にとっては一番の稼ぎ時なわけだし仕方がない。目をつぶることにしよう。
そう自分に言い聞かせつついつもの梯子に手を掛けると、ひょいひょいと上へと登って行く。さすがにもう慣れきったものだ。去年の今頃は大変だったなぁ。なんてことを思いながら、登る登る。
梯子登りはペースが大切だ。とは、先代の口癖。特に若いうちは最初っから飛ばしすぎて上につく頃にはへばってる奴が多すぎて困る。早く上に行くのも大事だが、それよりも確実に登ってそのあともしっかり働く。それができてようやく一人前だ。登るだけでいいんならその辺の人形連中でもできるんだからな。わかったか? ぼうず。
当時は、そんなもんか。と軽く考えていたけど、こうして一人前の雲蒔きとして働き始めてから、その言葉の意味がよくわかるようになった。と、思う。仕事場がカラザ℃辺に移ってからは先代に会う機会がなくなってしまったのが少し残念。まあ、あっちはあっちで元気にやってるとは思うけど。
そんな事を考えていると、ようやく梯子の中腹くらいにきていた。眼下には、見慣れた牧歌的な光景が一面に広がっている。
何度見ても、平和な心和む景色だ。
僕の住む国は、自然豊かな小さな国だ。歴史は古く、神話の時代から続いている。らしい。数年前の地殻変動の影響で他国との繋がりが完全に断たれてしまっているとはいえ、元々が自給自足の国家体制であったことと、国民の四割近くが人形であることから、国を維持することは案外簡単だったらしい。詳しいことはわからないが、少なくとも学校ではそのように教わってきた。
人形というのはこの国に限らず存在している人間によく似た自立した存在であり、その頑丈さや食事等を必要としない体質から、主に人間では危険度の高いとされる職種で働くことの多い種族である。が、この国ではそのような過酷な状況が存在しないため、人間と変わらぬ生活を送っているのが常ではあるが。
だが、人間と人形がどんなに似ていても、肉体的な接触は禁止されている。それは人形が人間よりはるかに力を持っていて、少し触れただけで大怪我をしてしまう可能性があるかららしい。やっぱり、実際にそのような理由で怪我をした人間を見たことがないので何とも言えないけど。
そしてこの国で何よりも特徴的なのは、空とカラザ≠フ存在だろう。この国の空は、大きなドーム状の殻のような層に覆われているのだ。
それが、この国が神話時代から続いているといわれる所以である。
神話によると、昔神様が地上で暮らしていた頃、太陽の輝きがどんどんと強くなり、地上に生物が住むことができなくなってしまった。そこで神様はこの星をドーム状の殻で覆い、太陽の光を届かなくした。ということになっている。そしてこの殻の存在のおかげで仕事ができているのが、空に色を塗る『空塗り』だったり、その空に応じて雲を蒔く『雲蒔き』だったりする。今では受け継ぐ人の少なくなってきた、伝統的な職業だ。
僕は少なくともこの仕事に誇りを感じているし、空塗りの連中も少々ウマが合わないところがあるとはいえ、自分の仕事に手を抜いたりはしない。一部の人間や人形たちが賤職だ、奴隷の仕事だと揶揄することもあるが、基本的には温かく迎え入れられているのが現状である。
そしてカラザ≠セ。
僕は登るのを一旦止めて、振り返る。
そこには、真黒な細長い塔が、比喩ではなく空へと続いている。
神話時代の神様が空を支えるために建てた世界に六本あるという巨大な塔。その姿が卵の殻と黄身とをつなぐ様に見えることからつけられたカラザ≠ニいう呼称。時の番人が住むという、未知の塔。
初めてこの地区に配属された時、その存在感と違和感に圧倒されたのを今でも忘れることができない。そして、それ以上に忘れることのできない一つの出会い。
腕に付けた時計を確認すると、その時間が迫ってきている。
塔に目を凝らし、数秒。それは、姿を現す。
塔の窓の向こうに、少女が一人。
二秒に満たない、邂逅の後、上へ上へと塔の中の螺旋階段を登って行く。
その姿は、神話に描かれた塔の守人。時の番人。全ての人形の原型。そのどれにも似てどれにも似ない。そんな不思議な魅力を持った少女であった。
一年と少し前、ここに配属されて初めて彼女を見たときから、僕は少女に心奪われていた。そして、彼女をほんの一瞬でも目にするために、毎日この時間にこの梯子を登っているのだった。我ながら女々しいなとは思うが、それしか彼女に会う方法がないのだから、仕方がないだろう。なんて自分に言い聞かせる。
よし、それじゃあ今日も頑張って働きますか。
いつものようにそう気合いを入れなおして、さらに梯子を登る登る登る。
梯子の頂上まで来ると、空が一気に近くなる。すでに乾ききったペンキ特有の匂いが鼻を掠める。
とりあえず一息つくと、鞄から雲の種を取り出す。空模様と照らし合わせて、少し暗めの雨雲を選択すると霧吹きで水をかけ、空に蒔く。
雲の種がいっせいに開花して、広がっていくこの一瞬が、僕は好きだ。少ない水で反応する種はどんどんと大きくなり、やがて一つの雨雲を生み出す。
梯子のレバーを動かして少し北へ進み、同じように種を蒔く。
眼下に雲の畑が広がっていく。
大体二時間ほどかけて、一帯の雲蒔きは終了する。最後に始めの位置に梯子を戻し、ゆっくりと時間をかけて梯子を降りて行く。
雲蒔きの事故で一番多いのがこの、一連の作業が終わってからの梯子を降りるときに起きていると言っても過言ではない。何せあんな高所で雲蒔きを行っていると、存外体力や精神力を使うもので、さらに今日のように雨雲を蒔いたあとは梯子に水滴が残っている場合もあって足をすべらせやすい。とはいえ、ここ数年、そのような事故は起こったこともないし、よっぽどのことがない限りそんなことはないのだが。
そうしてゆっくり時間をかけて降り終えると、一日の仕事は終わりになる。基本的に雲は一日中もつ算段になっていて、再度蒔く必要は例外を除いて無いと言っていい。時計を確認すると夕方近くで、雲の切れ目からはせっせと空を夕焼け色に塗っている空塗りたちの姿が小さく見える。
なんだよ、またあの色ってことは明日も雨雲かよ。と愚痴りつつ、荷物を整理し家へと向かう。
ふと振り返った先にはカラザ≠ェ相変わらずの違和感を携えて、ずっしりと鎮座していた。
そんないつもと変わらないあの日から数日後、ラジオから雨季の終りが近づいてきていることが告げられ、僕は夜中にも関わらず仕事へと向かうことになった。
年に数回の、例外のためだ。
雨季ではあるが深夜にもなると、昼間に蒔いた雨雲は小さくなり所々から夜空が顔を出すようになる。星一つない、漆黒の空と、かすかに光を放つ月。
この国の空は覆われているが、太陽と月が存在する。原理はわからないけれど、いつも同じところから動かず、ただ、朝と夜に順繰り順繰り顔を出す。
その月を横目に、僕は梯子を登る。ゆっくりと、登る。
雨季が終わりに近づく頃、僕の仕事は深夜になる。それは、昼に晴れを作るための仕込みのためだ。深夜に雲を蒔くことで夜明け前から雨が降り始め、夕方前にはやむようになる。そうして数日をかけて雲の量を減らしていき、雨季の終りを演出するのだ。
これは唯一雲蒔きが、自らの意思で判断し、空塗りに空の色を決めさせることのできる機会であり、腕の見せ所だったりもする。まだ本職にして二年目ではあるが、先代からは何度もそのコツを教わり、種や水分量の研究も一通り済ませてある。そして何より充実感が得られやすい、非常に心が躍る時期だ。
暗い中をゆっくりと登る登る。
つい、いつもの癖で半分まで登った際に塔の方を見てしまうが、そこに彼女の姿があるはずもなく、ああ、そういえばこの時期は彼女の姿を見ることができないのか。という今更の事実に気がつく。少し落ち込んだ。けど、落ち込んでもいられないと気合を入れなおし、登る登る登る。
ようやく頂上にたどりつき、見下ろした世界は、点々と灯る明かりが星空のように見える。星なんて見たことがないけれど、たぶんこんな風なのだろうなと思いを巡らせる。
そこから先は昼間と変わらない作業が待っている。雲を蒔き、北へと移り、また蒔く。
万全を期すためにいつもより多少時間をかけ、元の場所に戻り時間を確認する。このまま行けば、ちょうど日の出の時刻と重なりそうだ。
いつもより慎重に梯子を降り、中腹で一度雲の様子見上げる。よし、問題なく計算通りに咲いている。自分の仕事に満足をして、何の気なしに塔の方を振り返り、
螺旋階段を降りて行く彼女の姿が目に飛び込む。
昼間と変わらぬ、一瞬の邂逅。
僕は、目を奪われる。身動きをすることすら忘れていたことに気がつき、慌てて梯子を降りる。
彼女が、下へと降りてきている。
考えるまでもなく、当然のことだ。いつも登る姿が確認できるなら、毎日降りていることだって当たり前。だけれど、その当たり前のことに気が付いていなかった。
ふと思う。今自分が下に降りれば、彼女に出会うことができるのではないか。
それは、何の確証もない予想だった。けれど、確実にそうなるという予感が、僕の中を駆け巡っていた。
早く降りなければ。彼女に会いに行かなければ。
その一心で足を動かし、降りる降りる降りる。
地面に着いたのは、夜明けの五分前。カラザ≠ワでは走れば三分。僕は仕舞うものも仕舞わずに、雨に濡れながら駈け出した。服が濡れることも厭わずに、ただただ走る。
そうしてカラザ≠ノたどりつき、中をのぞいたその先に、彼女が、まるで空から降りてくる天使のように、ゆっくりと階段から降りてくる。階段から降り立ち、広い床を歩き壁に寄り、そこにある何かを押す。
夜が、明ける。
太陽の光が差し込み、遠くから、ほんの一瞬の積み重ねでしか見たことのなかった彼女の姿が、淡く照らし出される。
小柄な自分よりさらに小柄で華奢な体躯。腰まで伸びる漆黒の髪。細く、きめ細やかで柔らかな印象を感じさせる四肢。整った、けれどどこか幼さの残る顔つき。見たこともない、神話の中から出てきたかのような服装。そして、人形の象徴である背中のゼンマイ。
僕はただ彼女に見とれる事しかできなかった。一歩だって動くことさえできなかった。
やがて、偶然か必然か、彼女がゆっくりこちらを向き、視線が重なる。そして、その口が音を出さずに言葉を紡ぐ。
――お・は・よ・?
そうして僕と彼女は出会った。
彼女はカラザ≠ゥら出ることができないらしく、僕もいきなり中に入ることはできなかった。
彼女は相当古い人形であるらしく、声を出す機能がすでに失われているようだ。僕は彼女の口の動きを必死で追い、その言葉を理解するよう努めた。曰く、彼女はカラザ≠フ管理人であると同時に、この世界の朝と夜を切り替える仕事を任された人形らしい。半日をかけてカラザ≠フ中の階段を登り、頂上にあるスイッチを押して夜を作り、また半日をかけて階段を降り、ここにあるスイッチを押して朝にするのが役目であり、一年中ただひたすら階段を登り降りし続けるのだという。
まるで罪人のようだなと僕は思った。河原で石を積み重ね、ある程度重なると崩され、また積みなおす。どこかで聞いたそんな話にひどく似ているなと思ってしまう。けれど、彼女にそれを伝えることはできなかった。いや、伝える気すら起こらなかった。そんなことで彼女の顔を曇らせてはいけないと思ったから。
本当に短い間、時も忘れて話をした後、彼女はそろそろ階段を登らなければならないと云い、時間を確認すると、なるほど。この時間に登り始めていたからあの一瞬の邂逅があったのだなと理解した。
彼女が行ってしまう寸前、僕は彼女を呼び止め、明日もまた来てもいいかと尋ねた。
彼女は少し考えたあと笑顔を作るとゆっくりと頷き、そのまま階段へと消えていった。
僕は叫びだしてしまいそうな気持ちを抑え、仕事場の方へ走りだした。生まれて初めての感情だった。
それから毎朝、僕と彼女との会話は続いた。色々な他愛のない話をした。カラザ≠フ中しか知らない彼女に、僕は街の様子を伝え、仕事の話をし、愚痴ったり、おどけたり、他にも色々な話をした。彼女は、この国の古い話やカラザ≠フ中の話をしてくれた。
中でも僕の心を揺さぶったのは、夜のスイッチのある部屋の話だった。
夜の部屋はこの空を覆う殻の中を更に上へと進んだ先にあり、そこからは、何にも覆われることのない、本物の空が見えるというのだ。
本物の空には本物の月や星が瞬いていて、神話のように、太陽が輝きを強くしすぎて生物が住めなくなってしまった。という事実はないらしい。
夜にしかあの部屋にはいたことがないから、太陽は見たことがないけどね。
そう云って微笑んだ彼女の姿が、脳裏に焼き付いて離れなかった。
彼女と話すようになって数日が経ち、明日は雨季が終わりとなる朝。つまり、彼女と会話することができる最後の朝がやってくる。
いつものように他愛のない話をし、いつものように時間が過ぎ去り、いつものように階段へと向かおうとする彼女に僕は、明日がここに来れる最後の日であることを伝えた。
本心を言えば、これからも毎日ここに足を運びたかった。毎朝夜明けの時間に起きなければならないけれど、そんなことは彼女に会えるなら何ともないことだった。
けど、僕はそうしないつもりだった。僕は人間で、彼女は人形だから。これから先どんなに彼女を好きになった所で、僕と彼女は触れあうことすら許されないから。そうなってしまうなら彼女と話すのは明日で最後にして、これからはまた雨季が始まる前のように遠くから見つめるだけの方がいい。そうすれば記憶はきれいなまま残されるし、いつか、忘れてしまえるだろうから。
もちろんそんなことはおくびにも出さずに、ただ彼女には明日で最後だと、短い間だったけど楽しかったよと、ただそう伝えたかったのだ。
けれど僕の言葉を聞いた彼女は、一瞬驚いた顔をした後、少し悲しそうな顔をして、云ったのだ。
――もし最後になるなら一度だけ、夜の部屋に来てみませんか? これで最後なんて、悲しすぎるから。
僕はひどく戸惑った。どう答えていいのかわからなかった。その言葉から何かを感じていいのか、それとも単に友人としての感想なのか。
けれど、いつの間にか僕は頷いていた。頭で考えるよりも先に、体が動いていた。
そうして僕は明日、彼女と夜の部屋に行くことになったのだ。
帰宅したあと、僕は眠りにつくことができなかった。明日が雨季の最終日。完全な終わりの日を演出する必要があるのに、そんなことは頭の片隅に消えていた。ただ、彼女のことが頭を離れない。一瞬たりとも気を休めることができない。
気がつくと、時計が雨季最後の仕事時間を告げていた。自分が眠れたのかどうかもわからないまま、僕は仕事場へ向かった。
いつも通りの準備を済ませ、梯子を登る登る。
中腹で止まることもなく、頂上を目指し続ける。
いつもより早く頂上につき、種の準備を始める。種は二重にしてあり、先に大雨の降る種が花を開き、時間差で小雨を降らせる種が芽吹く。雨季の最後にふさわしい、僕の中での最高傑作。
本当ならこの雨の様子を最初から最後まで見るつもりだったけれど、今はそんなことも頭から抜けている。ただ、機械的に作業をこなす。
一連の操作を終え、元の位置に戻る。時間はまだ余裕がある。若干雨季も早く終わりそうだけど、まあ、いいだろう。
梯子に手をかけ、一段一段降りて行く。
自然とペースが上がる。
中腹まで来たところでカラザ≠フ方を見るが、やはり時間が少し早いからか彼女の姿はそこにはない。
あと半分だ、早く行って彼女に会いに行かなければ。その気持ちがどんどん僕を焦らせる。ただただ梯子を降りる降りる降り
足が滑る感覚。
一瞬の浮遊感。
『先に大雨の降る種』なんだ。滑るにきまってるだろ!
『ここ数年、そのような事故は起こったこともないし、よっぽどのことがない限りそんなことはない』だって? 馬鹿野郎。僕のことじゃねえか!
落ちて行く一瞬。そんな言葉が脳裏を掠める。
落ちる
落ちる落ちる落ちる
落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる
落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる
落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる
落ちる落ちる落ちる落ちる
落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる
落ちる落ちる
落ちる
落ちる
落ちる
僕は、意識を失った。
体中が痛い。ひどい吐き気と激痛が、全身を襲う。
一瞬の間のあと、自分が梯子から落ちたことを思い出す。幸い、命だけは助かったみたいだけれど、到底、動けそうにない。
ははは。慣れ始めた頃が一番怖いってこのことか。せっかくの雨季最終日に何やってんだか。いや、こうして雨にうたれてるってのは、雲蒔きにはお似合いなのかもしれない。今は雨が弱まってきてるってことは二段目に移ったってこと……
――今何時だ!
痛い体を無理やり動かして時間を確認する。
すでに日の出から九時間。あと雨季が終わるまで一時間。そして、
――日の入りまであと、四時間。
畜生こんなとこで寝てる場合じゃねえだろ! なんで誰も起こしてくれねえんだよ!
やつあたりなのも自業自得なのもわかっていた。けれど、そう怒鳴りつけないと自分を許せなかった。そう叫ばないと、立ちあがれない気がした。
まだ間に合うか? と一瞬でも考えた自分を殴り飛ばしてやりたかった。間に合うか、じゃない。間に合わせるんだ。
体の痛みも吐き気も、何もかもを忘れて、立ちあがる。
激痛。
二、三歩歩いて倒れる。
それでも、立ちあがる。
行かなければならない。絶対に彼女のところに行かなければ。
何度も倒れながら、繁みに嘔吐しながら、それでもカラザ≠ヨと向かう。走ってたった三分の距離を三十分以上かけて、ようやく、たどり着く。
体の痛みは、麻痺でもしてきたのか、少しずつ感じなくなってきていた。本来ならその方が危険だと気づけるのだろうけど、そんな冷静な判断なんてしていられなかった。
カラザ≠フ入口は、開かれていた。その奥の、階段へと続く道も。
僕は迷うことなく、その階段を登る登る登る。まるで梯子を登るように、階段に両手をつき、ひたすらに登る登る登る。
途中で何度も吐きそうになった。けれど、彼女の空間を汚したくなかったから、必死にこらえた。全身に痛覚が戻り、痛みに意識を失いかけることも何度もあった。それでも、彼女のことだけを思い、ただただ、登り続けた。
何時間たったのだろう。不意に、見覚えのある景色に突き当たった。何度も梯子から彼女を見ていた、唯一の窓。ここから見える梯子は本当にちっぽけで、たよりなくて、まるで自分自身を見てるみたいだなと思った。
一瞬の僕≠ニの邂逅を終え、さらに上を目指す。どれだけ時間がたっていたのかはわからないが、窓の外には晴れ渡った空ときれいな夕焼けが見えていた。まだ、日の入りには間に合う。まだ大丈夫だ。大丈夫なんだ。
何度もそう自分を鼓舞して、登る。
『最初っから飛ばしすぎて上につく頃にはへばってる奴が多すぎて困る。早く上に行くのも大事だが、それよりも確実に登ってそのあともしっかり働く。それができてようやく一人前だ』
先代の言葉が耳元で響く。悪いな先代。僕はまだ一人前には程遠いみたいだ。でも、今は早く上に行くことが何より大事なんだ。
もしかしたら声に出ていたかもしれないけど、そんなことはどうでもよかった。ただ、上を目指すことしか考えられなかった。
登る。
登る。登る。
登る。登る。登る。
不意に、視界に、何かが、映る。
ああ、僕は、間に合ったんだ。
そう思った瞬間に、全身から力が抜ける。
一瞬の浮遊感。けれどそれは続くことはなく、微かな温かさに、包まれていた。
目を開けると、彼女の顔があった。
長いまつげ、整った鼻筋、少し大きな瞳と、やわらかそうな頬。
それらが、今まで見たことがないほど近くにあった。
そして、後頭部に感じるやわらかな温もり。
彼女はゆっくりと話しだす。
時間になっても僕が来なかったけれど、自分はもう行かなくてはならなかったこと。先に登っていたが、僕の声がしたから少し遅くなってもいいから待とうとしてくれたこと。それでも全然来ないから不安になって降りてきたこと。そして、ボロボロの僕を見つけたこと。
ここまで運ぶのは大変だったんだから。と彼女は微笑む。本来なら人間一人なんて簡単に運べるけど、私はもう古いから、と。
そうして僕を運んで、四時間くらい遅れてからようやく夜のスイッチを押したこと。下の国ではみんなびっくりしてるだろうね。と、また笑って云う。
僕は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。全然間に合ってない上に、彼女に助けられていたなんて。そして彼女の仕事にすら支障を与えてしまったなんて。
そんな僕の様子を見かねてか、彼女は僕の頭をなでながら、大丈夫だよとまた微笑む。
僕は気恥ずかしくなって、無理やり体を起こし、
視界には、見たことのない満天の星空が、溢れるほどに広がっていた。
梯子の上から見下ろした町の明かりなんて比べ物にならない、あまりに綺麗で圧倒的な星の海。
きれいでしょ? と彼女は笑う。僕は言葉が出てこない。
彼女の後ろには、巨大な月。嘘のような完全な円を描く、満月。
彼女は立ちあがると、僕に手を差し出す。今更ながらに人間と人形が触れ合うことが禁止されていることを思い出したけれど、そんなことはもう今更な気もしたし、そもそもここは殻の上。つまりあの国の外なんだ。だから、大丈夫。
なんて言い訳を考える前に、体は自然と動いていた。
彼女に手を差し出し、掴み、思いっきり引っ張って、力いっぱい抱き締める。
彼女は一瞬驚いた顔をしたと思ったらすぐ笑顔になり、同じように力を込めてくる。
僕と彼女はそうやって、抱き合い、笑いあって、くだらないことを話して、空を見上げて、馬鹿みたいにはしゃいで、触れ合って、いつの間にか、静かな眠りについていた。
その頃僕らの国では、朝が夜まで続いたかと思えば、夜が一日中明けなかったり、雨季が終わった途端に雲ひとつない空が延々と広がっていたりと、色々あったみたいだけど、それはまた、別のお話。
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