血鏡に降る雪 |
白い。太陽も月も無い、雪の色を写し取った空がそこにある。連日降り続いた雪の名残か、昼間であるはずの空気はやけに夜の気を帯び、新たな来訪者の到来を告げている。緩やかに渡るそれは風を伝い、大地を染めて純白の鳥のように眠るだろう。肩にまで降りて体温を奪い、滑らかな肌を艶めいた氷に変えるだろう。
だが、と男は予想を抱く。今日はただの降雪に留まらない。静穏は肌を裂く吹雪となり、猛禽の如き鋭さを持つ。それまでになんとしてでも、この視察を終えねばならなかった。
吐き出した息が仮面を逃れて空に消える。雪深いロシアの奥地。その人里離れた森林に、バルログは部下を引き連れて佇んでいた。銃火器を背負った戦闘員が彼を起点に展開し、物々しい気配を清浄に組む。バルログは描き出された輪の内側をなぞりながら、どこまでも続く白銀を見晴らす。ここ連日行われたことだ。
この土地に新しい拠点を構えるつもりだとベガから聞いて、幾日が経っただろうか。バルログが足を運んできた理由は大したことではない。ただベガの期待に答え得る材料であるか、それを見定めに来たに過ぎない。安い用だとは思う。だが一部の代行を担う幹部としてシャドルーに名を連ねた今では、ベガの命令を退ける訳にもいかなかった。
(悪くはない)
渡り歩いた自然を顧みる。馴染みの無い者ならこの厳冬においても生気を失わぬ大木の数々に、ある種神秘的な生命力を感じられるだろう。バルログもまた静穏に恵まれた息吹に淡淡しい心地良さを得ていた。しかし、
「バルログ様」
その思索は明瞭な一声に失われる。見れば一人の部下が歩み寄り、手にした通信機に目を落としていた。何だ、という簡潔な問いに、男は先行した部隊と連絡が取れないことを告げ、更に電波障害は皆無であると付け加えた。つまり物理的な要素によって相互の安全を確認出来ない状況にある、と。
「故障か?」
「いいえ」
返ってきたのは否定だった。あくまでも通信手段の問題ではない、彼らが応じないだけなのだ。そう語る姿には一片の躊躇も見られない。
奇妙だと思う前に、バルログはほんの数十秒を熟慮に費やした。推測に注がれる瞳の青が一段と深みを持つ。不明者を捜索しなければいくらかの損失となるだろう。だが、ひっそりと息衝く緑にはうかがい知れぬ厳しさがやって来ようとしているのも事実だった。周囲の者に任せることも出来るが……原因が分からぬ以上確実とは言えない。
どちらにしろ、この秘境に長居するつもりは無い。既に充分なデータは集まっている。あとは申し分ないと伝え、その報告をベガが受領すれば終わるのだ。
傍らに佇む部下を順々に眺め、ただ一言令す。
「地図を出せ」
もしも判断の結果が分かっていれば、彼はそう言わなかっただろう。あとは落ちていくように――事は起こった。
あまりにも唐突だった。雪煙を切り刻んで飛来した影、それを認めた頃には反射的に身をそらしていた。こめかみを吹き抜ける風を感じ、突如として滑り込んだ暴力を軽やかに飛び越え着地する。悠然と身を立て直す彼の周りに、影は一つではない。一つ、もう一つ、人型は散り散りに捨て置かれ、これがシャドルーが育て上げた戦闘員だとは信じられぬ光景が広がっている。
この状況を作り出した原因が、彼の眼前にいた。
蓄えられた口ひげ。彫り付けられた古傷の数々。深紅のレスラーパンツに揃いのブーツといういでたち。どこまでも澄み渡る白銀にその赤は目立ち過ぎ、また攻撃的過ぎた。
しかしそれらを押し退け、何よりも目を引くのは、驚異的なまでにせり出した鋼の如き筋組織。バルログを完成された彫刻のものと例えるなら、相手は大巨人の名を冠するのが相応しいだろう。
その巨人の視線がぐるりと動いた。赤々と闘志を燃やす双眼がバルログを見咎め――すがめられる。
「お前は……バルログ!」
この反応をバルログは意外に思った。その瞬間に声質から記憶を辿り、巨人の正体に行き当たる。彼こそロシアプロレス界が誇る英雄、ザンギエフ。表向きは赤きサイクロンと称されるプロレスラーだが、その実“偉大なる指導者”に指令を受けて各国を飛び回る闇のファイターでもある。
唯一の邂逅は闘技場に潜む曖昧な薄闇。いつとも知れぬ記憶を一瞬にして呼び覚ますとは、彼が持つシャドルーへの敵対心は非常に強いものと見ていいだろう。
――だが、編み出した記憶は想起以上の意味を持たない。相手が誰であろうとどうでも良いことだ。昂る怒りは反逆者の存在を認めず、否定に傾くのみ。
「我が祖国ロシアに何の用だ」
「貴様が知る必要は無い」
肩に掛けた皮のケースを降ろし、中身を一息に抜き出す。ひらめく銀、それは氷点下に晒されながらも灼熱をもたらす、一体の鉤爪。数多の血を啜り殺意を体現したそれを、バルログは己の体の一部として取り付けた。
「程無く逝く身だ、知る必要も無かろう」
「そんなひ弱な肉体でこの赤きサイクロンに挑もうと言うのか?」
「ほう、そちらの言う“格闘家”は筋肉で出来た物差ししか持っていないらしい」
「なんと言ったところがお前が貧弱なのは変わらん、シャドルーなどオレが全て投げ飛ばしてやる!」
男が咆哮とも取れる宣言を発する度、凍える酸素がかすかな痛みを運ぶ。聞くに堪えぬ雑音だと言い漏らし、瞳に収められた冷徹を研ぎ澄ます。慈悲の面影も残さぬ青は闇路へと傾いていた。その傾倒を平然と受け止める巨人。戦いの条件は全て整った。
「永久の静寂すら物足りぬ。私の時を潰した罪、身をもって償ってもらおう」
「望むところだ。我が祖国の為、お前達を通す訳にはいかん。さあ構えろ!」
互いが互いを見詰め、昂りを鎮める為に挑む。
極寒のロシアに見守られながら対峙する両者。ここに雌雄を争わんと、張り詰めた緊張を破り熾烈な戦いが始まる――――はずだった。
「尋常に勝負だ、お前の血でロシアの大地を赤く染めてやろう!」
――お前の血でロシアの大地を赤く染めてやろう!
その言葉を言葉として認識した瞬間、バルログの思考がある芳香を帯びて中断された。
寒々しい夜のこと。満天の星が木漏れ日の代わりとして降り注ぐ夜に、冷たい血潮の香りが漂う。源は樹木の陰に潜む一体の美麗。思いもよらぬ深手を負い、全身に走る苦痛を逃がそうと零した吐息が、仮面の内側をしっとりと濡らす。押さえた腹部から滲む鮮血がジャケットを通り、点々と白雪に口付けていく。そんな姿でさえ美しい男。
「くっ……」
熱く滴る苦鳴。立ち上がろうとした双脚が虚しく雪を蹴り、横たわる彼を一層強く縫い止めた。負傷の苦しみより自由が利かなくなる寒さを厭ったが、立ち上がれぬ以上厭うことすら無駄だった。満足に操れぬ体に、どれほどの時が残されていると言うのか。凍える指先を思い、そのおののきに理解を灯す。長く続くまいと、直感からも経験からも行き着く先を予想した。予想が実感として満ちる頃に、恐怖を取り払った美を夢想した。黎明を待たずして男は逝くのだろう。ならば抗う理由がどこにあると言うのか。
あらゆるものに冷酷を注いできた瞳に、静かな諦観が浮かぶ。揺れる青。潤いの青。それは一瞬にして覚悟となり、免れぬ死の享受へと向かう。敗北の無様ではなく、ただ高潔の懐に降りる為にそれを選んだ。それもまた、格闘家としての理解の一つだったから。
感覚を無くし始めた指を解き、仮面の縁に掛ける。ゆっくりと、ゆっくりと外し、改めて凍て付く外気に、今宵と言う名の終焉に触れていく。月明かりに煙る呼吸。焼け付く喉。腑物までもがさらわれる夜半にはかすかな呟きも生まれない。それらの内側で、男はどこまでも続く大地の輝きを美しいと思った。分け隔て無く受け入れながら何者も寄せ付けぬ佇まいを残酷だと思った。それこそが美しかった。
ゆえにその抱擁を受けながら死に行ける自身を、最も美しい存在として認識する。美麗の深奥に待ち望む極致……あらゆる者に与え、あらゆる者を見詰め、あらゆる者から贈られる終末に、息を呑む。
――美しい……。
音にならない言葉。唇から紡ぎ出される呼吸は、渇きに満ちてなお美しい。
木の根元を探り、彼らの領域から抜け出す。そして寒空の真下に横臥し、無防備な姿を晒し、天を抱く。傷跡や素顔の全てを月光に照らされながら、バルログは穏やかに目を閉じた。白銀に咲き誇る赤き華。透き通る肌は真の雪膚となり、頂いた風花を乗せて久遠に沈む。
ロシアの大地が赤く染まりし頃。朝陽に導き出される氷の彫像に絶対の美が封じられていることを、人々は知らない。
「…………何だ?」
眼前の男に対する当惑を隠しきれず、眉を寄せるザンギエフ。
これまで侮蔑以外の感情を持たずに眺めていた姿態が、急に妖しい艶を持ち始めた。わずかに覗く肌は厳冬によるものではない朱に染まり、風にさらわれる金糸さえ零れるような熱を放つ。
何より、ふと気に留めた両眼に宿る光が――どこか苛烈な嗜虐心に似ていないだろうか。それはまさしく狂気めいた殺気に他ならず、燃え盛る闘争心を更に強く導いていく。
(勝負の一言で人格をも変えてしまうとは……小さいだけではないということだな……)
ごくりと喉を鳴らし、陶酔から帰還する前の男へ狙いを定める。そして大いなる勘違いを胸に抱いたまま、赤きサイクロンは丸太の如き豪腕を差し上げて疾走した。
が、美の領域に守られたナルシストは強い。無意識にも関わらず身を翻し、すんでのところで突進を回避する。ザンギエフはその姿勢を保ち、自然に形作られた雪塊に激突した。飛び散る白が額に掛かり、貫通した腕が広々とした空洞に入り込む。
(これは……!)
投げ捨てた危機感が耳元でわめき立てた。一気に手を引き抜き、わずかに揺らいだ肯定を心に前方を睨み付ける。この感触。忘れもせぬ、ザンギエフの本来の目的はここにあるのだから。
一陣の風が地を割り雪を駆け生まれ出す。今まさに冬眠から目覚めた熊は狂える猛獣と化し、獲物を引き裂かんと牙を剥き出した。猛獣から繰り出されるド級のタックルがザンギエフを捉え、しかしそれを受け流しもせず真正面から受け止める。
「うおおおお!」
押し倒されそうなほどの衝撃。だがそれを猛然と押し退け、肉を抉らんとする牙をかわし、骨を砕かんとする爪を徹底的に封じる。懐に押し入られた獣は進撃を許されず荒れ狂い、互いの咆哮が交じり合う只中で激しい抵抗を繰り返すが、抜け出せない焦燥に叫びを重ねるに留まった。彼らは組み合ったまま地面に深い溝を掘り、動かない。動かない。動く。動かせない。次々と襲い来る凄まじい重量を耐えしのぎながら、ザンギエフは真の野性に心を躍らせていた。そうだ、これこそが大自然なのだ。バルログがかざす鉄の鉤爪とは違う、純粋なる闘争なのだ――。
(…………爪?)
死闘のさなかにはたと思い出す。挑戦者は、バルログはどうしたのか?
一瞬の間に振り返ったザンギエフは目を剥いた。いつのまにか意識を取り戻した戦闘員が、バルログを取り巻いているではないか。彼らは見るからに必死だった。上司に声を掛け、手を振り、肩を揺すり、足元に跪き、話が通じないと見るや否やこれを両脇から抱きかかえて連れ去っていく。ブーツの先端が雪景色を裂くのも構わず、かくして仮面の貴公子は猛スピードで引き摺られたまま退場した。
「待て、勝負はどうした!? 勝負、勝負ッ! ムウウゥン!」
バルログを追い掛けることも叶わず、かと言って熊との格闘を放棄することも出来ず。足踏みが雪化粧を硬く踏み締める。
その内にちらちらと舞い落ちるものが頬を濡らし始めた。小鳥の囁きを模した降雪は徐々に勢いを増し、荒々しい吹雪となって森中を飲み込む。
雪深い山林に巻き起こった事件。彼らが無事に帰還出来たかどうか、それはバルログを強制帰国させたベガ以外に、誰も知らない。
説明 | ||
バルログ+ザンギエフのギャグっぽいもの。バルログはやっぱり戦っている時とナルシストやっている時が素敵だね!ベガ様は名前だけ。2009年のゲスト原稿。 | ||
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ストリートファイター バルログ ザンギエフ | ||
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