八雲紫の神隠し |
少女は駆けていた。
広がるのは茫漠たる木々の群れ。
追ってくるのは夜の闇。
苛むのは激しい葉のざわめき。
――そこは中天を埋め尽くす星が広がる暗黒の森。
大の大人でさえ二の足を踏む、人が寄りつくことを許さない異世界だった。
「…………っ」
小さく息が漏れる。
走る足は疲れか恐怖か、大きく震えていた。
もはや「走る」体裁すら整えていないほどに。
そもそも帯できつく結ばれた藍の着物を纏ったその姿は、お世辞にも足場の悪い道を走るのに向いているとは言えない。
事実、着物の裾はあちこちで引っかけたせいで破れてしまっている。
それでも少女は走ることをやめない。
逃げるように。
あるいは何かに追い立てられるように。
浮かぶ悲愴な表情が、少女の内面すべてを物語る。
この道の果てに何があるのか、少女は知らない。
ただ前へ進むことにこそ意味があった。
後ろを振り返ることは許されない。
――ただ、前へ。
その先に何があろうとも決して救われることはない――他ならぬ少女自身が、それを理解していたとしても。
道は途中から坂となり、やがて道とも呼べないものとなり、いつしか完全に森の中に取り込まれても、少女は走ることをやめなかった。
まるで足を止めてしまった瞬間、己自身の「歩み」までが止まってしまうとでも言うかのように。
とっくに体力の限界に達した少女の体は、そうして何かに突き動かされるようになお前へと進む。
しかし、それでもすべては終わりに至る。
その道の終着点にあったのは――
「そん…な…………」
少女がその場にへたりこむ。
それは同時に、少女の何かが折れた瞬間でもあった。
深い深い森の中。
――そこには、朽ちかけた小さな神社がぽつんと建っているだけだった。
人が住んでいる気配はない。そもそもこんな山奥に誰が住むと言うのか。
何かを期待していたわけではない。
しかしそれでも、目の前に厳然と突きつけられた現実に抗えるほど少女は強くなかった。
ふらふらと、吸い寄せられるように神社の境内に踏み込む。
普通なら夜の社に対して怖れを抱いてもおかしくなかったが、長い恐怖にさらされた果ての絶望に、もはやまともな理性は残っていなかった。
かすれた文字で「…麗神社」と書かれた社の中は、思ったよりもずっと広い。
やはり人の姿はなく、長い間放置されているのだろう、床や壁からは腐食した木の匂いが漂っている。
以前、誰かが住んでいたことを示す調度品がわずかに残り。
そのかつての生活の痕跡が、独りの少女の心に深く突き刺さる。
広い空間の真ん中に、少女はうずくまった。
そこで初めて涙が出てきた。
「……う……っく」
嗚咽が漏れる。そして一度決壊すると、もう止まらない。
少女は号泣した。
――大好きだった両親に裏切られ、売られたこと。
――中の良かった友人から侮蔑のまなざしを向けられたこと。
――買い取られた先で道具のように扱われ、逃げ出したこと。
――そうして今まで森の中を走り続けたこと。
それらすべての事実が少女の心を蝕む。
視界が涙で埋まるほど少女は泣き続け。
そして――出会った。
「数奇な夜があったものね」
その声は突然聞こえてきた。
痙攣するように体を震わせる少女。
泣くことも忘れて見上げると、そこには一人の女性が立っていた。
それまで人の姿はなかった。なかった――はずだ。そもそもここまで近寄ってきて、声をかけられるまで気がつかないことがあるだろうか。
「この場所に人が訪れるなんて。それも幼子が一人、こんな夜更けに」
しかし、実際に女性はそこに在った。
闇の中にあってなお映える金色の髪、身にまとう洋装のドレス――田舎育ちの彼女は話でしか聞いたことがなかったが――は、終わりを迎えた社の空気さえ捻じ曲げる存在感を放っている。
明らかにまともな人間ではない。
――化生だ。
少女はそう確信した。
「ここを夢と現の境と知っての来訪かしら?」
「夢と…現?」
理解しても、不思議と恐怖は湧かなかった。
いや、むしろ逆だった。
「そう。ここは現の終焉にして夢の発端。人と化生の狭間の地」
「夢の…発端…」
「博麗結界を纏う私が『視える』ということは、現の理から外れたのでしょう?」
女性の言葉はそのほとんどが理解を超えるものだった。
だが、何故か理解できる。言葉ではなく、感覚として。
「私を…誘っているのですか?」
そう言うと、女性は何故かわずかに驚いたような顔をした。
それから口元に笑みを浮かべ、
「聡い子ね。思った通り――」
そこで少女は、何故自分が女性に対して怖れを抱かないのかを理解した。
つまりこの女性は、
「――同じ、なのですね」
再び涙が頬を伝う。
「親も友も失った時、私は一度『死にました』。心はもはやこの世に在らじ」
女性は無言で右手を虚空にかざした。
すると何もなかった空間にぽっかりと穴が開いた。
穴の奥は闇の中においてなお昏い深淵に包まれ、覗き見ることは適わない。
「聡い子よ、貴女の名は?」
「私は――」
少女は己の名を告げた。
「そう、いい名ね。私は八雲紫、神隠しの主犯と呼ばれる方が多いけれど」
神隠しという言葉を聞いても少女に驚きはない。
「怖れぬなら進みなさい、私と理を共にする人の子よ」
促されるまでもなく、少女は自らの足でその穴に踏み込んだ。
落ちるような、あるいは昇っていくような酩酊感。
遠くから聞こえてくる神隠し――紫の言葉が、現で聞いた最後の言葉となった。
「幻想郷は、貴女のすべてを受け入れることでしょう――それはそれは残酷な話ですわ」
森に踏み込んだことを知っても、少女を捜索しようとする者はいなかった。
親も、友人も、少女を買い取った商人でさえも。
誰もが知っていたのだ。この季節、森に踏み込んだ者は時に『神隠し』に遭うと。
それは冬も終わり、山の木々が春を告げ出す頃。
一人の少女は、そうして現世から姿を消した。
「霊夢ー、いるかー、いるよなー、邪魔するぜー」
「了承も得る前から勝手に入ってくるんじゃないわよ!」
霊夢が叫んでもどこ吹く風とばかりに、縁側から侵入してきた魔理沙はどっかりと腰を降ろすなり卓袱台に置かれた煎餅に手を伸ばした。
「よく人の家でそこまで我が物顔で振る舞えるわね」
「褒めるな、照れるぜ」
「照れる知恵があるなら先に恥じなさいよ」
社の奥から戻ってくるなり皮肉を飛ばす霊夢にもやはり動じない。
乗ってきた箒を壁に立てかけ、帽子も脱いで脇に置いた魔理沙は、暑そうに手でぱたぱたと自分を仰ぎながら、
「しかし今日はあっついなー」
「暦の上では春も半ばだしね、いつまでも冬服のままじゃそりゃ暑いでしょ」
「また寒くなったら損した気分になるじゃないか」
「知らないわよ、そんなの」
言いながら、団扇で仰ぐ。
「で、今日は何の用?」
「あぁ、実は――」
と、
「隙あり」
抑揚のない声で、ふいに霊夢が団扇を虚空に振り下ろした。
正確には――虚空から現れ、煎餅へと伸びた手に向かって。
「いたっ。もう、いきなり酷いじゃない」
虚空から顔が生えた。
と思った一瞬後には、八雲紫の全身が姿を現している。
「どいつもこいつも、人の家の食料に群がるんじゃないわよ」
叩かれた手をさすりながらわずかに涙を浮かべる紫に対して、霊夢は冷然と言い放つ。
「寝起きでお腹が空いてたのよ」
紫が反論めいた我儘を言う。
「妖怪は妖怪らしく人間を襲って食べなさい。そしたら退治してあげるから」
「それが巫女の台詞かよ…」
横でうめく魔理沙は無視。
「退治できるかはともかくとして」
紫のまなじりが下がる。
「たまには――それもいいかもしれないわね」
底冷えするような響きに、それまで軽口を叩いていた2人も思わず押し黙る。
霊夢に至っては早くも臨戦態勢で、
「人を襲うのが妖怪の理なら、それを討つのが博麗の理よ。そこに例外はないわ」
「先に提案したのは貴女の方でしょう?」
「だから提案通り退治してあげるって言ってるのよ」
場はすでに一触即発の状態。
「はいはい、そこまでにしとけ」
そこに割って入る魔理沙。
「で、私が来た理由だけどな」
「……マイペースもそこまでいくと病気ね」
「褒めるな、照れるぜ」
その横でしれっとした顔で煎餅をバリバリ齧る紫に、霊夢は深々と嘆息。
「里の外れに住んでる婆さん、知ってるよな」
そう切り出す魔理沙に、
「もちろん、昔から何かとお世話になってるもの。里であの人に面倒を見てもらってない子供なんていないんじゃない?」
その老婆は、里でも子供好きとして有名だった。
彼女自身には子供はいなかったが、代わりに里人すべてが彼女の子供だった。
幼少時代に親に捨てられたせいだと揶揄する者もいたが、その真否を知る者は誰もいない。そもそも里の人格者として知られる彼女、揶揄する者の方が批難されるという有様だったので、真実を暴きたてようとする下世話な者もまたいなかった。
「あのお婆さんが…どうかしたの?」
魔理沙は一瞬逡巡したように目を逸らした後、
「亡くなったらしいぜ」
「……そう」
つぶやく霊夢は表情を下げていたため、紫の手がふいに止まったことに気づかない。
「永くないって話は、聞いていたけどね」
「里では神葬祭を開くらしい」
「なら、遠からずその話が私のところに来るでしょうね」
神主不在のこの社では、時に巫女が祀りを任されることがある。
「教えてくれてありがと。……どうしたの、紫?」
そこでようやく霊夢は紫の異変に気づいた。
紫は何か思索にふけるように虚空を見上げていた。
「霊夢」
「…何よ」
ひたりと見据える紫の瞳に、わずかにたじろぐ霊夢。
「夢と現の境に在って、その隔たりを越える機会を得たら……貴女ならどうする?」
「藪から棒ね、今に始まったことじゃないけど」
霊夢は少しだけ考えた後、
「…進むわ。その先に何があるかは別として、ね」
「そう」
薄く微笑んだ紫の足元に隙間が開く。
沈んでいく姿が残した言葉は、
「彼女の意思は――遺志は、受け継がれたということね」
後日行われた神葬祭。
彼女の遺体には、誰が手向けたのか、裾が破れた小さな藍色の着物が置かれていた。
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