TS物(タイトル失念)3
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――三日目

 

 朝、日光が差し込む洗面所の前で、ゴム紐片手に髪型をどうしようか悩んでいる自分に気付いてはっとした。

 今までは髪型なんて気にしなかったんだが、なんかついさっきまで「どういう髪型が似合ってるかな?」とか思ってた。

「まずいよな、この傾向」

 似合ってるかな、から可愛いかな、に変わったらなんとなく後戻りできないと思う。自分で意識的に注意して行こう。

 それはそうと髪形が決まらないのも事実だ。こういうときは見た目よりも実用性とか機能性というものを追求した方が良いかもしれないな。

 じゃあ、まあポニーテールとかかな。手櫛で髪の毛を纏めてゴム紐でパチンとやれば良いだけだしな。

 そう思って俺は髪の毛を後頭部で纏めるように手で寄せていく。

「あ痛たたた!」

 ゴムが髪の毛を巻き込んだ。痛い痛い痛い、慌てて髪に絡みつくゴムを外そうとするが、余計に髪の毛が絡まる。

「んぎぎぎ……」

 ブチブチという嫌な音を立てつつも何とか髪の毛からゴムを外す。外れたゴムを見ると、何本か髪の毛がくっついていた。これだけ取れればそりゃ痛いって。

 髪を結ぶのって意外と難しい。そう思ってじわりと溢れた涙を拭き取る。女になると涙腺も弱くなるんだな。

 女の武器といわれる所以は出しやすさもそのうちなんだろう。多分。

「メイ様、どうかなさいましたか?」

 洗面所の外で待っていた綾芽さんが声を掛けてくる。そうだ、綾芽さんにやってもらえば良いんじゃないか。

「綾芽さん、ちょっと頼みたい事があるんだけど」

「なんでしょうか」

 相変わらず整った身だしなみで完璧な身のこなし、しっかりしている人って堅苦しく感じる事もあるけど見てて悪い気分はしないな。

「ちょっと髪の毛をポニーテールに結びたいからやり方教えて、っていうかやってくれないかな?」

 そう聞いて綾芽さんは俺に一瞬だけ、変な物を見るかのような視線を向けてきた。なんでだろうと一瞬思ったが、答えは案外簡単に思い当たった。

 そういえば、俺が男だって事を綾芽さんは知らないんだったな。良い年した女から「髪の結び方分からないから何とかしてくれないか」と言われて変に思わない方がどうかしている。

「申し訳ありません、取り乱しました。では、髪型のセットをさせていただきます」

 だが、それについては深く追求せず、俺に後ろを向かせて、髪の毛に櫛を入れ始めた。兄さんに深い詮索はしないよう言われているのか、もしくは使用人としてのガイドラインか、どっちにしてもややこしい事にならなくてよかった。

 男だって知られちゃいけない、とかそういうわけじゃないが、説明しろとか言われると、俺自身が状況を理解していないわけだから無理だと言わざるを得ないしな。

 櫛は途中で引っかかることなくすんなりと落ちていく、別に女の髪なんて意識した事は無いが中々良い髪をしているんじゃないかなと直感的に思った。

「出来ました、メイ様」

 きゅっ、と髪の毛が引っ張られる感触と共に声を掛けられた。洗面台の鏡を見ると一房の黒い髪が俺の後頭部で揺れた。

 ちょっと軽く触ってみる。腰が強く、それで居て滑らかだ。綺麗な髪の毛なんだが素直に喜べない自分が居る。

「似合ってる、かな?」

「お似合いだと思いますよ」

 だよな、もうなんかちょっとだけ嬉しく思う自分が嫌だ。男と女の教会が曖昧になっているというか女の方に引っ張られてるのが自分でもわかる。

 一つ大きく溜息をつくと、また綾芽さんに変な顔をされた。俺の苦悩も理解されないな、しかし。

「じゃ、行きますかね、俺の……」

 俺の家に、と言おうとして言葉を止めた。状況をしらない綾芽さんにまた変な目で見られちゃ溜まったもんじゃない。

「……髪型も決まったしね」

 髪の毛をくるくると弄びながらそう言ってごまかした。変に言い訳すると余計怪しまれるかもしれないが、まあばれてくれたらそれはそれでありがたいし。

「お、二人とも準備終わったみたいだな」

 廊下に出る扉からリョウ兄さんが顔を出した。昨日やってくれると言っていた事の結果は道中教えてくれるらしい。

 本当のところ、俺は直感的に戻る方法は無いんじゃないかと思い始めていたが、情報があるならそれに越した事は無い。

「女性の居る脱衣所には一言かけてからお入りくださいと常日頃申し上げているはずですが」

「う……悪い悪い、すっかり忘れてた」

 綾芽さんの冷ややかな顔と言葉で咎められ、兄さんは申し訳なさそうな顔で謝った。

 うん、まあ多分俺のことをまだ男として見てくれているんだろうな、そう思った。

「綾芽さん、そうリョウ兄さんを責めないでやってよ、見られて減るもんじゃないしさ」

 そう思ったからこそ兄さんをフォローするつもりで俺は言ったんだが、それが余計に拍車をかけたらしい。

 いや、リョウ兄さんのフォローに失敗したわけじゃない、さっきから綾芽さんが抱いているであろう疑問についての事だ。

「失礼ですがメイ様、あなたはどこか奇妙な雰囲気がありますね、まるでその身体になれていないかのような」

 身体がビクッと反応する。やましい事など何一つ無いはずなのに、なんでこんなに萎縮するのだろうか。

「気付いたか、黙ってたがコイツは元々男で、一昨日、近頃多発している超常現象に巻き込まれて女体化したクラスメイトだ」

「え、ちょ、兄さん!?」

 何見も蓋もない言い方で本当の事言ってんだよ。と続けそうになったが、昨日「主従関係ではしっかりとしている」という話を思い出した。

 そうだな、リョウ兄さんと綾芽さんの間柄なんだからそれ位の言葉で信じてもらえるのかもしれない。

 しかし俺の予想とは裏腹に、綾芽さんは小さく溜息をついた後に兄さんを睨み付けた。

「何を言い出すかと思えば……若、私はからかわれるのが嫌いですと以前から申し上げていたはずですが」

 おいおい、どうすんだよリョウ兄さん。兄さんの説得力ある話に期待してたんだから俺としてはどんどん立場が悪くなっているような気がしてならないんだが。

 心配になって兄さんに視線を送ると、送られた本人は俺に一瞬目配せをしてから口を開いた。

「まあ落ち着けってば、お前だってコイツの振る舞いには違和感を持ってたんだろ? 事実関係は昨日のうちに俺が調べておいたし今回は嘘じゃない」

 今回は、って事は兄さんいつもからかってんのか。そりゃ信じてもらえないわな。さっきまでの不安を視線にのせて兄さんに送ってみた。

「なるほど、少しは信用しても良さそうですね、一応は納得しておく事にしましょう」

 まあもちろん兄さんはその視線を気にする事も無く、綾芽さんの言葉に一度だけ大きく頷いた。

「えーと、綾芽さん?」

「あなたがもし男性だとしても、外見上メイ様と呼ばせていただきます」

 とりあえずは信じてくれるのだろうか? 流石はリョウ兄さんだな、人を信用させる力は流石の物だろう。

 しかしそれを悪用するとは感心しないな。なんかもうそこら辺の力をフルに使えば生徒会長とかそういうポストを狙えるかもしれないのに。

「……じゃあ、そろそろ」

「若、ここに居ましたか」

 準備も大体終わったころ、さあ出発だというところで、廊下の向こう側から要さんが歩いてきた。それも随分と急いだ調子で。

「どうした?」

「義父様がお呼びです。なんでも昨晩の長時間のパソコン使用に関して聞きたい事があるようで」

 うわ、昨日随分と遅くまで調べてくれたんだな……こりゃちょっと責任を感じちゃうな。

 リョウ兄さんは髪の毛をバリバリと掻いて、大きめに息を吐くと、仕方ないという風に口を開いた。

「アヤメ、メイを連れて行ってやってくれ、サカタとの合流地点はいつもの公園前だ」

「かしこまりました」

 そういった会話をした後、兄さんは要さんに付いて行ってしまった。

 仕方ないな、俺も兄さん抜きは少し心もとないが、贅沢は言ってられないだろう。

 

 外は昨日一昨日と比べ物にならないほど暑い、ロングヘアーをそのままにしていたら鬱陶しくて引きちぎりそうなくらいだ。髪の毛を結んでもらっておいて本当によかった。風も嫌に湿り気を含んでいて、風で涼むなんていうのは到底出来そうも無いほどだ。

 昨日昼食を食べたいつもの公園で、私服のちびっ子が待っていた。昨日の制服姿も着られている印象が強かったが、私服姿を見ると完全に中学生だ。

「姉さんおはようございます! 今日はいい天気ですね」

 この日差しを「いい天気」と言う根性は俺には無い、このクソ暑い状況だと「夏も近いですね」が俺の最大限ポジティブな発言だろう。

「千穂様、おはようございます。本日若は義父様からの説教により今回不参加となりましたのでそれを報告させていただきます」

「え、シショー居ないんですか」

 露骨にテンション下がったような顔をしてちびっ子は呟いた。どうも兄さん目当てだったようだ。

「とりあえず、行くところにさっさと行こうか」

 テンションの下がったちびっ子に何故か優越感を得つつ俺は自宅へ向かうことを提案する。なんだかんだで丸一日放置していた家のことが気になっているのは、やっぱり長年染み付いた世話焼き気質とかそういうものだろうか。

「……姉さん、彼女は?」

 こっちにあからさまに聞こえるボリュームでひそひそ話しを始める。なんだこの俺がここに居るべきじゃない人間みたいな会話をしやがって。今日のメインは俺だぞ。

「彼女はメイ様、今日真奈美様の家にて家事のお手伝いをされる方です」

 綾芽さんの説明にはやはりというか当然というか、俺の中身が「男」だということについては触れていなかった。まあここでややこしい解説を挟んで時間を浪費するのは熱気的な問題で辛いからな。

「そうですか、じゃあ仕方ないですね、行きますよー」

 コレだから女は、とぶつくさ言っているとちびっ子と綾芽さんはさっさと歩き始めてしまった。いやいや待ってってば、道は分かってるけど一人で日曜日の町を歩けるほど身体に慣れてないんだよ。

 

 見慣れた道を歩いていくと、物心ついてからずっと住んでいた少しガタのきている集合住宅が見えてきた。

 昨日泊まらせてもらったリョウ兄さんの家と比べると、どうしても見劣りしてしまう。まあ仕方ない、俺の家は安さ重視で親が選んだらしいからな。

「真奈美様の家はここでよろしいですか?」

「はい、そうですよ姉さま」

 応えたのはちびっ子だったが、視線は俺に向けられていたように感じた。うーん、信じてくれてるのかカマかけているのか。まあいい方向に考えて笑いかけてみる。

「……」

 それを値踏みするように綾芽さんは俺をじっくりと眺める。しかしそれ以上は何も言わずに、俺の苗字が書かれたドアの脇にあるチャイムを押した。

「はーい、今あけまーす」

 チャイムの後、聞きなれた女の声が聞こえて程なく扉が開いた。

「え? ど、どちら様?」

 お前な、知らない人が出るかもしれないんだからチェーンくらいつけて開けろよ、全く俺が居ないとダメだな、この家は。

 おまけに部屋から漂う匂いは、やはり俺が出て行く以前よりも強くなっている。この中に入るのは少し勇気が要りそうだ。

「真奈美ちゃんおはよー、つれてきたよ助っ人」

 ちびっ子が真奈美に挨拶をして俺達二人の紹介をしていた。綾芽さんとちびっ子は臭い気にしていないようだったが、綾芽さんが眉間にわずかなしわを寄せたのを見逃さなかった。

「え、本当につれてきてくれたの!? 千穂ちゃんありがとう!」

 真奈美は満面の笑みでちびっ子に頭を下げた。いつもこんな調子で感謝してくれれば俺も少しは積極的に家事とか出来たんだろうな。まあ無い物ねだりしたってしょうがないんだが。

「じゃあ、まずはお掃除をお願いできますか、えーと……」

「私は綾芽と言います、彼女はメイ様です」

 言葉に詰まった真奈美に、綾芽さんは自己紹介をした。

「え、えっと、メイ……です」

 実の妹相手にする嘘の自己紹介、なんとも奇妙な感じだ。

 だが真奈美自身は特に疑うことなく無言で頭を下げた。恐らく女の俺について特に思う事はないのだろう。有るとすれば「知らない人だ」位の思考かな。

 男の俺のほうへ何かあるかといえば、まだ判断の仕様がない、しかし、ちびっ子の話を聞く限り家事の出来る人間が居ないと辛いという事は思っているようだ。

「じゃあ真奈美ちゃん、上がらせてもらいますよ」

「あ、うん、お姉ちゃん居るけど気にしないでね」

 扉を大きく開け放つと、強い日差しを浴びて部屋からもれ出た埃が光の粒となって可視化した。掃除機くらいは掛けられるだろうに、本当に俺頼りだったんだな、この家は。

 さて、このままいえの状況が以下に酷いかを観察していても仕方ない、俺は靴を脱いで自分の家に上がった。

 ちなみに靴は俺が男だったときと同じ物だ。買い忘れたと言うのもあるが、妹なり姉貴なりに気付いてもらえるかも知れない、という淡い期待をこめてはいてきたのだ。

 やっぱり慣れている場所というのはいいものだ、離れたのはほんの一日程度だが、ひどく懐かしいような気がする。そう考えるとこの家に充満する香水臭も中々おもむき深く……思えないな。

「さってと、まずは洗濯からかな、その間にゴミ捨てと掃除機掛けよう」

 シャツのズレを直すと、少し大きめに息を吐いて気合を入れた。そろそろ掃除しないといけないと思った矢先に出て行ったからどれだけ汚れているのかあまり想像したくないな。

「メイ様」

 掃除を始めようとした時、家に入ることなく足を止めていた綾芽さんが俺を呼び止めた。振り返るとどこか厳しい目で内装を見る彼女が居た。

「ちょっと汚れてて嫌だろうけどさ、頑張って掃除しようぜ」

「いえ、私が言いたいのは、行方不明となった彼は相当苦労していたようですねと、そう思っただけです」

 そっけなくそれだけ言うと、綾芽さんは綺麗に手入れされた革靴を脱いで綺麗に並べた。

 つまり、信用してないって事か、まあ俺だって逆の立場なら疑うだろうし、信じてくれるリョウ兄さんがお人よし過ぎるんだろう。

「ま、俺がやるのは変わらないけどな」

 今の目的は、真奈美と姉貴に俺の存在を保証してもらうことだ。もちろん綾芽さんにも信用して欲しいが、今は第一の目標について考えよう。

 そのためには俺の家事がいつもやっているように出来て、それに気付いて貰えばいいわけだ。

 ということで、まずは一番汚れている筈のリビングから浴室までの廊下、そして恐らく洗濯物が陸に打ち上げられた海藻のごとくなっているであろう洗濯機の周辺から始めよう。

「えっと、メイ……さん、私達はどうすればいいですかね?」

 はじめるぞ、と意気込んだところで真奈美から声が掛かった。いつもは俺の事なんか気にしないで部屋で携帯電話をいじってるかテレビ見てるくせに他人が居るとやはり表面上は協力的な素振りを見せているようだ。

「いい、いい、俺一人でやるからいつもどおりテレビでも見てろ」

「え……? あ、はい」

 一瞬変な物を見るかのような顔で俺を見たが、それも一瞬の事で、すぐにいつもの表情に戻って自分の部屋へ何度かこちらを見つつ入っていった。少し俺のことに気付いたのかな?

「じゃあ姉さん、アタシも真奈美ちゃんと遊んできますね」

 さっきから特にきょろきょろと辺りを見回すような事もしないで、ただ付いてくるだけになっていたちびっ子も、自分の役目は終わったとばかりに真奈美を追いかけていった。まあ何か役に立つわけじゃないからむしろそっちの方が助かるかな。

 さて、そんなことを考えるより今流行るべき事がある。既に床がざらざらと埃っぽいのは目を瞑るとして、まずは大きいメッシュ製の袋に下着類をすべて押し込んでしまう。

 そしてそれを洗濯機に投げ込んで洗剤と元々入っていた衣類とそこらに散乱しているものも含めて全部詰め込んで蓋をして、開始ボタンを押す。

 全く、何でこれ位の簡単な家事ができないのか……さて、この調子で掃除機とゴミ出しを済ませてしまおう。

 

 さて、掃除はこんなもんか。ゴミは……ベランダに纏めて置いたし洗濯が終わる前に姉の様子を見に行くか、

 掃除は二人の部屋以外を終わらせた。あの二人は前々から部屋の掃除は自分でやるといって聞かないのだ。もちろん俺が家事を始めた頃は何とかして掃除しようと躍起になった事を付け足しておこう。

「綾芽さん、とりあえずあのちびっ子と一緒に真奈美の部屋を掃除しておいてくれ」

 とりあえずは姉のほうだな、妹は友達来てるし聞き分けのないことは言わないだろう。

 だけどあいつは今までの経験上、休日だという事もあって恐らくぼけーっと布団の上で起きているとも寝ているともつかない状態で居るに違いない。

「かしこまりました」

 恭しく頭を下げると三十分ほど前に二人が入っていったドアをノックして中へ入っていった。

 さて、俺もやる気と根性を入れないとな、あのどうしようもないグータラは並みの気力では太刀打ちできない。

 手で頬をピシッと叩いて気合を入れる。そして綾芽さんの入っていった部屋の横にある姉の部屋をノック無しで開けた。

「うわっ!?」

 姉の部屋をあけた途端、白く小さな埃がむせそうなほど舞い上がった。そして目に入るのは菓子の空き箱や所々折れた場所のある雑誌の山、覚悟はしていたがここまでとは思わなかった。

 埃のスモーク越しに見えるベッドがこんもりと盛り上がっていて、それが定期的に上下している。どうやら寝ているらしい。

「ああ、もう、こんなに埃溜まるまで放置しやがって……」

 愚痴りつつもポケットに入れておいたゴミ袋二つに空き箱とプラ製包装を分別して詰め込んでいく、細かい分別も必要なのだが、とりあえず掃除機だけ掛けてしまいたいのでそういうのはあとだ。

 ざっとお菓子関係のゴミを片付けたあとは雑誌を何とかしよう。コレは迂闊に捨てると文句が出るので部屋の隅に積み上げておく事にする。さて、あとは小物を袋に詰めて掃除機をかければ良い訳だ。

「よしっ」

 短く息を吐いてもう一度気合を入れなおす。小物類については化粧品だけ集めればいいかな、それが殆どだし。そう判断すると、俺はビニールの小袋に口紅やら手鏡やらを詰め始めた。

「ん、うーん……アキラ?」

 手が止まる。まさかこんな時に限って起きてくるとは想定外だった。振り向くと一昨日ぶりに見た眠そうな目と寝癖のついた髪が見えた。

 どうにかこの場を穏便に済ませなければいけないわけだが、俺はどうするべきだろうか。

「あ、あー、っと、おはよう?」

 とりあえず様子見として挨拶してみる。起こさないために部屋は暗いままなので恐らく俺の姿は概形しか分からないだろうが、見知らぬ人が自分の部屋に居たら警察を呼ぶのが普通だろう。

「おはよう……でも、もうちょっと寝かせてね」

「え、ああ、うん」

 普通じゃなかった我が姉に感謝だ。ついでに寝ぼけている間に承諾をもらってしまおう。

 そう決めると、俺は早くも寝息を立て始めている姉さんに向かって、少し声を張って話し始めた。

「俺は妹に頼まれて掃除しに来たんだけど、ちょっと掃除機だけ掛けさせてくれよ」

「んー……」

 眠そうな声で承諾をもらえた。起きるように催促するような口調でしゃべりつつ許可をもらおうとすれば八割方成功する。それは長年培ったこの家で生活するためのスキルだ。

 というわけでパッパッと小物を袋に入れて纏めると、掃除機を廊下から引っ張ってきてスイッチを入れた。

 モーター音は静音仕様で起こすような事はないが、それでも物音を立てすぎないように注意はする。

 あんまり掃除をしないくせに、あるいは聞きなれない音だからか、姉さんは掃除機の音があまり好きではないのだ。

 つまり、音で起きる可能性がかなり高いというわけで、現に今布団がもぞもぞ動いているのは音を聞かないように布団にもぐりこんでいるのだろう。

 フローリングの床を覆う埃をどんどん取り払い、鮮やかな茶色が見える面積がどんどん増えていく、それだけでどれほどの期間掃除していなかったかが伺えた。

「おっと」

 掃除機をうっかり箪笥にぶつけてしまい、上に積み上げられていた紙の何枚かが落ちてきた。姉さんが起きないかどうか一瞬心配になったが、その直後「むー……」と気持ち良さそうな声が聞こえてきたので多分大丈夫だろう。

 気を取り直して落としたものを拾いながら掃除機をどんどん掛けていく。落としたものは恐らく大学の講義で配布された資料だろうか、それなりに難しいことが書いてありそうだな。

「……ん?」

 そのまま掃除機をかけつつ散らばった紙を集めていると、その中で一枚の写真が落ちていることに気付いた。

 その写真は、随分と裏面が黄ばんでいて、それだけでかなりの年月を経ているであろう事を想像できた。拾い上げて表面を見ると、小学生くらいの俺と真奈美、そして中学の制服を着た幼い姉さんが仲良さそうに写っていた。

 そういえばこの頃はまだ仲良かったんだな、写真の中で笑っている俺を見て思い出した。

 確かこの写真は、姉さんの入学式に校門前で母親に撮ってもらった物だったような気がする。今は俺達三人を放って置いて父親と一緒にどこか遠い空の下に居るはずの肉親を想って少しだけセンチメンタルな感覚に陥った。

「ん……」

 突然布団から声が聞こえて我に返る。そんなことを考えている場合じゃなかったな、姉さんと話をして男と女の俺をイコールで結ばなきゃならない事は確かだが、掃除が終わるまでは眠っていてもらった方が何かと便利だ。

 そういうわけで、俺は布団の中にいる怠け者を刺激しないように手際よく、かつ静かに残りの作業に取り掛かった。

 後の作業はそう手の込んだものではない、掃除機で埃を吸い取り、小物をきちんと並べるだけだ。

 掃除機を片付けて戻ってくると、俺は小袋に詰めっぱなしの化粧品とかこまごました物を机とかペン立てとか、あるべき場所に並べていく。

「う、うーん……誰?」

 突然、ガサガサという音と共に背後から声を掛けられた。そうあってほしくないことを祈りつつ恐る恐る振り返ると、願いとは裏腹に、眠そうな目をしつつもはっきりと意識を持った声で姉さんが俺に話しかけてきた。

「え、えっと、その、俺は妹の真奈美に頼まれて……」

 まさかこの状況で起きられるとは、想像していなかったといえば嘘になるが、ここまでタイミングが悪いのは、自分の不運を思いつく限り最凶の方法でで呪いたくなるほどだ。

 そしてこの後を想像するに、俺は恐らくアキラだと信じてもらう以前の問題でこの家から追い出されそうな気がする。

「ん……あ、真奈美が言ってた人? ごめんなさいこんな格好で」

 意外なことだが、俺の予想は外れて、姉さんは頬を赤らめて頭を下げた。少し拍子抜けだったが、それはそれで好都合だ。

「気にしないでいいよ、俺は終わらせたらすぐに出て行くから」

「……俺?」

 少なくとも髪形だけは直そうとついさっき俺が枕元に置いた櫛に手を伸ばしかけて、そのまま手が止まった。

「変な一人称かな? 俺は物心付いたときから同じだし変だとは思わないけど」

「ん、ちょっと弟と似ていたから、気に障ったかしら」

 ああ、なんか穏やかだと思ったらもしかしてまだ半分寝てるのか、好都合というかなんと言うか、いい加減起きろよと思う。

 気にしなくていい、という意思を首を振って伝えると、俺は窓に掛かったカーテンを開けた。柔らかとはお世辞にもいえない光だが、目を覚まさせるには丁度良いだろう。

 ついでに窓も開けて外の空気を取り込むと、埃っぽい部屋の空気が一瞬で初夏の湿った空気へと変換されていく。必要以上に爽やかなその空気は、恐らく姉さんの意識をまどろみに片足を突っ込んでいる状態から引きずり出してくれるはずだ。

 期待通り、姉さんはまぶしそうに目を細めると、布団から完全に身体を出した。どうやら完全に起きる気になったようだ。

「おはよう、姉さん」

「……?」

 俺の口調が男の時のままだったからか、もしくはただ単に呼び方が変だからか、姉さんは眉間に皺を寄せて俺を見た。気付いて欲しい一心でそれっぽい言葉を使ってみたが、むしろ警戒心を煽る結果になってしまったようだ。

「部屋はこんな感じでいいかな? じゃあ俺は昼飯作るから、それまでには完璧に起きてくれよ」

 少し失敗したかな、とは思ったが、俺はそのままアキラとしての言葉を続ける。

 それであるのが当然であるかのように振舞えば、人間というのはそれが変でも何とか納得しようと思考を働かせる物だ。その力を存分に利用して、俺は姉さんを納得させる事にした。

「う、うん、わかった起きておく……」

 姉さんは改めて目を擦り、大きく伸びをすることで、身体を寝ている状態から起きている状態へ移行させたようだ。

「ふぅ……でもやっぱりあなたってアキラと似てる、顔とかは全然違うんだけど雰囲気がすごく……えーと、お名前は?」

「メイって呼んで下さい……今は」

 「俺」が未だに残っている事を認められて、俺は舞い上がらんばかりに喜んだが、それと同時に冷静にならなければ、という思考が働いた。

 今、俺がアキラだといってしまえば恐らく姉さんはふざけていると取るかからかっていると取ってしまうだろう。「今は」そう、今は謎の少女メイとして振舞わなければいけない。そうしなければ姉さんの信用を得ることが出来なくなる可能性が高い。

「そう……じゃあメイちゃん。家の掃除から料理までやってもらってありがとう。私、とっても助かったわ」

「気にしなくていいよ、いつもやってることだし、でもこの部屋はもう少しこまめに掃除した方がいいと思うよ」

 いつもの俺には絶対といっていいほど掛ける筈の無い言葉に一瞬身震いしそうになったが、そこは何とか愛想笑いでごまかして、俺は部屋から退出した。

 

 食材の買出しについては、綾芽さんが掃除を早く終わらせたので気を利かせていろいろな物を買ってきてくれていた。

 掃除されたリビングに、次々と暖かい料理を運んでいく。昼食としては少し豪勢過ぎるかもしれないが、俺としても気付いてほしいので料理にも気合が入ってしまったのだ。

「うわ、随分一杯料理しましたねー」

 一足先に手を洗ったらしいちびっ子が、部屋に入るなりそう洩らした。その感想は俺としてももっともではあるものの、なんかちょっと癪に障った。

「作ってやっただけありがたいと思えよ。俺だってこの人数の食事を作るのはそんなにないんだ」

 そう言いつつ最後の料理をテーブルに載せる。まあ元々三人分しか作ったことがないおかげで、多少分量を間違えそうになったからこの量を作りなれていない、それについては間違っていないはずだ。

 テーブルの上には色とりどりの野菜や揚げ物、さながらホームパーティーでも始めようとしているのかとでも言うような品揃えだ。

「うわ、すごい量ですね……」

 続いて入ってきた真奈美も似たような感想を口にして席につく。それについてはもう良いから、別の感想も言って欲しい。たとえば「おいしそう」とかそういう感想をだな。

「いい匂いがすると思ったら、随分豪勢なお昼ご飯じゃない、メイちゃんお疲れ様」

 完全に夢の国から帰還した姉さんが、俺の今一番欲しかった感想をくれた。そういえば身内以外には「優しくて出来た姉」として通ってたっけ。そんなことを思い出した。

「メイ様、お見事でございます」

 からかってんだか馬鹿にしてるんだか分からない台詞を言って綾芽さんも席についた。女四人と男一人(?)でどこまで食べられるか不安は残るが、試してみる他ないだろう。

「いただきます」

 残る俺も席について両手を合わせて食事開始の合図をする。正直色々と掃除で疲れていて、空腹度がかなり高い状況なのは察して欲しい。

 まず一つ、唐揚げを口に放り込むと、いつも食べるから揚げの味がする。うん、いつもどおり我ながら中々の出来ばえだ。

「どうかな、俺としては中々上手くできたつもりだけど」

 周りの人間がある程度食べはじめた野を確認すると、俺は口の中の物を飲み込んで皆に聞いてみる。特に半分気付いていそうな姉さんの感想を特に聞きたかった。

「うまいですね、今度作り方とか教えて欲しいって思いましたよ」

「味付けにあまり癖がありませんね、料理に慣れている人間が料理したように感じます」

 うん、とりあえず身内以外からの評判は上々のようだ。さて、気になるのは家族の二人だが、俺の味だと気付いてくれるだろうか。

「うん、おいしいと思うよ……でも、なんか食べた事のある味、って言ったらいいのかな? なんか不思議な味」

 真奈美の感想。まあ今の俺と前の俺を同一視できていないからこんな感想になるのだろう。もう少し押せば気付いてくれるかもしれない。

「そうねー、メイちゃんがいればこの家も楽になるし、今日からここに住まない?」

 ……姉さんの一言でちょっと頭が冷めた。

 冗談だろうなってことは想像できる、それでも弟が行方不明になっているのにその冗談はキツいと思う。ましてや(気付いてないとはいえ)本人の前では。

 つまり俺は、家事をする機械か何かと思われているのではないだろうか、そんな考えが浮かんでしまう。そんなことはない、そう頭で否定したとしても心の底からどんどん思考は湧き上がってくる。

「メイ様、お加減が優れないようですが」

「あ、いや、なんでもない、ちょっとみんなの感想を頭の中で反芻してただけだからさ」

 顔を笑っている状態へ戻す、これで落ち込んで変な目で見られるわけには行かない、少なくとも姉さん達の真意を知るまでは。

 しかし、俺の表情にはどこかぎこちない部分があったらしい、どうにも綾芽さんがいる席の方からチクチクとした視線を感じる。そんなに見られても困る。

「ところで姉さん、ちょっとかいつまんだ話しか聞いてないけど家事担当の弟が今居ないんだろ。俺が言うのもなんだけど、ちょっとさっきの台詞は不用意なんじゃないか?」

 あくまで俺自身を俺自身として語らず、客観的視点として意見を言う。俺自身を同一視して欲しくないわけではないが、今は姉さんの台詞の真意を知りたかった。

 もし、万が一だが、これで何ともないと思えるような奴だとしたら俺はリョウ兄さんに頼んで別人として生きる道を探してもらう事にしようと思う。

「……うん、そうなの、ちょっと喧嘩をしちゃってね、昨日の朝からアキラ……弟がどこかに消えちゃったのよ」

 急激に声のトーンが低くなる。そして食卓に居る二人、姉さんと真奈美が目に見えて落ち込んでいる。その姿を見て俺は少し心が痛くなった。

「ご飯をつくれる人がいないのは確かに大変な事だけど、それ以前に弟が行方不明なのは心配だと思っているわ」

 そこまで言って落ち込んでいる二人は完全に箸を止めてしまった。

 まさかここまで影響を与えていたとは思わなかった。今まで気にしていないような素振りを見せていたのはもしかして考えないようにして精神の安定を計っていたのだろうか。

「えっ……と」

 言えない。

 こんな状況で、状況証拠だとか不確かな物だけを並べて俺がアキラだなんて間違っても言えない。

 いっそこのままメイとしてこの家に住み込みで過ごそうかと思ってしまうほどに二人の落ち込み具合は凄かった。

「ごめん、変な事聞いちゃって、とりあえず食べようか、また今度もちょくちょく作りに来てあげるからさ」

 俺にはそういうのが限界で、とても「アキラは俺だよ! 最近はやりの超常現象に巻き込まれたけど!」とは言えなかった。

 

 夕暮れの帰り道、まばらながら色々な人間が入り混じる雑踏をすり抜けて、俺と綾芽さんはリョウ兄さんの家へと歩いていた。

 自宅では、結局そのまま言い出すことも出来ずに夕方になり、帰る時間になってしまったのだ。

 また今度適当な頃合に訪問するという約束を取り付けて外に出た時に、口から大きく溜息が漏れたのを俺はしっかりと覚えている。

 それにしても、人の間をすり抜ける風は冷ややかだ。

 昼間の異常な暑さは過ぎ去り、今は丁度夕涼みにもってこいの過ごしやすい気温になっている。そして風も夜の方向から吹く冷えた物となっている。

「メイ様、よろしいですか?」

 ふと群青と茜と白のグラデーションをしている空を見上げて、これからどうしようかと考えていると、綾芽さんが俺を呼んだ。なんだろうか。

 振り返った先に居た綾芽さんは、今までの彼女と少し雰囲気が違うような気がした。

「まずはあなたの正体に対して懐疑的だった事をお詫びします。掃除の癖、配置の癖その他諸々の事象を掃除前と比較し、観察した結果、私はあなたを信用する事にしました」

「は?」

 え、それはつまり、俺がアキラだと認めてくれる。という事だろうか。

 それなら嬉しい事なのだが、できればあの二人が気付く最初でいて欲しかった。まあ高望みしてもしょうがない、信じてくれたならそれが一番だ。

「アキラ様、とお呼びしましょうか?」

「いや、まだメイでいいよ、周りの人に説明するのも面倒だろ」

 それに、まだ元に戻れる可能性はゼロではない、その希望が潰えない限り、俺は「アキラ」と「メイ」を区別して考える事にした。

「承知しました。では、私は夕飯の食材を買いに行かせていただきますので、メイ様はそのまま若の元へお帰りください。」

 頭を下げると、綾芽さんは俺が止める暇もないほどさっさと曲がり角を曲がってしまった。

「あ、ちょ……もう姿見えないし」

 少し心細いので、しばらく一緒に行動しようと思っていたのだが、曲がり角の向こうを見たときには、既に姿はどこにも確認できなかった。

「にしてもあの服装だから目立つはずなんだが、なんで影も形もなくなってるんだ?」

 人ごみがあるとはいえ、ここまで完全に姿を眩ませられると感心して溜息が出る。やっぱり鍛えてるんだろうか。

 さて、それはそうと本格的に暗くなる前に兄さんの家へ帰らなければ、前の冴えない空気みたいな男だった時はともかく、一応外見は女なんだし気をつけないとな。

「……?」

 そう決めて一人で歩き始めたが、ほんの少しだけいつもと周りの感覚が違うような気がした。

 どこか皆が俺と距離をとっているというか、避けられているのかもしれない。そんな風に感じる。これが女の特権という物だろうか。

 すこぶる楽な人生歩んでるなあいつら、女で普通の顔に生まれたら人生ずっとイージーモードというのもあながち嘘じゃないようだ。イージーはイージーで制約やら出来ない事も多いだろうからどっちが良いなんて比較は出来ないだろうが、ただ生きるだけなら楽だろうな。

 女の人生をうらやみつつ、俺はまた足を進める。日が長いとはいえ、沈む速さはかなりの物で、ほんの十数分程度で暗さがぐっと増す事を俺は経験からよく知っていた。

 まだ人通りは多いものの、それはここが大通りだからであって、ひとたび脇道に逸れれば、もう夜と同じように人気のない路地になってしまっているはずだ。

 そう思いつつも、兄さんの家へ行くには、人気の無い路地をかなり通らなければいけない。そこへは山のふもとを通って高級住宅街へ向かわなければいけないのだ。

 なにか変な人間に絡まれる危険性は少ないものの、ゼロではないという事を念頭において考えておきたい。

 そう考えつつ、俺は兄さんの家へと続く一つ目の曲がり角を通った。

「おっと、ごめん」

 曲がったところで、丁度居た人影とぶつかってしまった。俺は軽く謝ってぶつかった人の脇をすり抜けようとした。

「ちょっと待てよ」

 しかし何故か呼び止められた。俺は早いところ帰りたいんだが、もしかしたら時代錯誤な当たり屋じゃないだろうな。

 ちょっとだけ嫌な予感を抱きつつ、顔を上げると、いかにもテッちゃんと同類の人種が居た。

「お、可愛いじゃん。どう? これからカラオケとか行かない?」

「行かない」

 こういう輩は相手にしたくない、それにそろそろ完全に太陽が地平線に飲み込まれそうだ。少し急いで帰らないと、本格的に夜になってしまう。この身体で夜の町を歩けるほど俺は度胸が据わっていないのだ。

「おいおいつれないなー、そうだ、他にも友達呼ぶからさ、軽い合コンみたいに……」

 勘弁してくれよ、俺は深く溜息をついた。なんでただでさえ行きたくもない場所に行かないといけないのか、ていうか合コンに誘うって容姿に自信がないんだろうな。とか余計な事を考えた。

「悪いけど俺はそういうの興味ないし、今は早く家に帰りたいんだ」

「……俺?」

 俺の使う一人称に対して、怪訝そうな顔をする。説明もめんどくさいので、そのうちに俺は男の横をすり抜けた。

「ちょ、待てってば!」

 うろたえた様子で声を掛けられた後、俺の腕が強い力で引かれた。そのまま振り払おうとしたが、相手の力が強いのか俺の力が弱くなっているのか、振りほどく事が出来なかった。

「ふぅ、見た目かわいいんだからこういう楽しい事しとかないと損だぜ? だからさー」

 そんな事いわれても、俺としてはこの身体をエンジョイするつもりは微塵もないわけで、やるならお前らだけで勝手にやってろ、って感じだ。全く、男ってこんな奴もいるから困るんだよな。

 さて、こういう奴らってなんて言えば帰ってくれるんだろうか。俺とは価値観が違いすぎる存在だけにコイツの思考はどうにも読みづらい。テッちゃんとかもう強引過ぎるレベルだから断わられてるのを見ること自体あんまり無いしな。

「悪いけどマジで興味ないし早く帰りたいからとりあえずその手を離してくれ」

「っと、ごめん、でもさあ……勿体無いって言う俺の言ってる事もわかるっしょ? でさ、今日は無理でもまた誘いたいから電話番号とか交換しない?」

「しないって、ていうかなんで俺が初対面の奴に電話番号教えなきゃいけないんだよ」

 相手にしない、ひたすら否定的に対応をする。ついでにリョウ兄さんの家へ歩き始める。ここまでやっても男はしつこくついてきた。もうなんか相手にされなければされないほど興味を持つタイプなのだろうか。

「そんな事言わずにさあ、楽しもうよ」

 いい加減誰かに助けを呼んでみようか、男の時ならともかく、女の状態なら正義感強い奴が何とかしてくれそうだしな。

 女としての自分を利用する事に抵抗はあったが、この状況を起こしているのは女としての自分のせいだから自分自身からは大目に見てもらうことにした。

「あれ、メイさんこんな所で何してるんですか?」

 それとなく大通りの方向へ進路を変えて助けを呼ぶための準備を始めたとき、俺が向かう方向から声を掛けられた。

「メイさん、女性の一人歩きは結構危ないんですよ、気をつけないと」

 そういうお前はどうなんだ、と小さな影に突っ込みそうになったが、それはやめておいた。とりあえず俺の側に一人加わってくれた事に感謝だ。

「なんだガキじゃん、さっさと家に帰ってろよ、危ないぞ」

 俺を誘う時とは打って変わってそっけない態度で男は手で追い払う仕草をした。こういう態度を取れるって事は多分俺をナンパしようとしてたんだろうな、と予想できた。

 まあ、カツアゲとかそういう身の危険が迫りそうな事じゃなくてよかったな。いや、この先にいわゆる貞操の危機とやらがまっている可能性もあるんだが。

「ガキ言わないでください、これでも高校生です!」

 男の言葉に足を踏み鳴らしてちびっ子は抗議する。

「そういう態度がガキなんだって、もうちょっとお前は気付いた方が良いぞ」

「え、君の友達? じゃあついでにつれてってあげるよ、それなら君も安心だろ?」

 なわけあるかこの馬鹿、と言ってしまいたいが、なんとなくこいつはそれを言うと、余計にネチネチ言ってきそうだからやめておいた。

「えーでもこういう所はちゃんと訂正していかないと……ってそうだ、何してるんです? こんな所で」

 こんな所でナンパにあってる訳だが、このちびっ子が聞きたいのは俺がここに居る理由だろう。

 出来ればナンパされてるこの状況から開放してほしいのだが、上手くそういう方向に話を運べないだろうか。このままだとなし崩し的に俺とちびっ子がどっかにいく羽目になりそうな気がする。

「で、どうするの? 来るの、こないの?」

 いい加減ウザいなこの男、さっさと諦めてどこかへ行ってくれないだろうか。

「……とりあえずこの鬱陶しいのを何とかしてから話さない?」

 男を指差して言ってみる。馬鹿に馬鹿といって悪くないように鬱陶しい奴に鬱陶しい奴と言っても問題ないだろう。

 しかし本人はそう思っていなかったらしい。唐突に怒り出した。

「おい、ふざけんなよ、せっかく誘ってんのにさあ……俺って女の子は大好きだけど女の子に舐められるのは大嫌いなんだよね」

「安心してくれていいよ、俺もお前のモノを『舐めたくはない』からな……ちびっ子、行こうぜ」

 軽く鼻で笑うと、俺はどうせ目的地は同じであろうちびっ子を呼んで歩き始めた。

「おい、待てっつってんだろ、あんまりふざけすぎると俺もお友達呼んじゃうよ?」

 そう言って俺の視界に入るように携帯電話をちらつかせる。何だコイツ、いきなり変わった態度といい結局は絵に描いたようなジゴロか。

 俺としてはもう関わりたくないというのが総意な訳だが、こいつは未だに気付きそうにない。これは一体どうした物だろう。

「あーあー、もうしつこい男の人は嫌われますよ、私達は別にあなたと遊びたくなんてないんですから早く諦めてください」

 どう答えた物かと考えていると、ちびっ子が俺の言いたい事を大体代弁してくれた。

「ああ、ちびっ子の言うとおりだな、俺は早く家に帰りたいわけだからさっさと諦めるのがお互いのためだと思うぞ」

 両手を広げて興味なさそうなのを体全体で表現する。もうキッパリとハッキリとしっかり言っておくべきだろう。

「チッ……もういい、お前ら二人とも……」

 俺の仕草を見て怒ったのかなんなのかは知らないが、男は顔を伏せてなにやらぶつぶついい始めた。

「ぐがっ!?」

 そして、ちらつかせていた携帯電話を押そうとした瞬間、突如背後から延びた腕によってそれは地面へと落とされていた。

「申し訳ありませんが、彼女達は主人の客人ですので、そのような事はお控えください」

 携帯電話が地面に落ちる音と共に、平坦な声が男を挟んだ向こう側から聞こえた。エプロンドレスに身を包んだ綾芽さんが男の腕を締め上げていた。

「いだだだだっ、てめえ何しやがる!?」

「右腕の間接と筋を極めさせて頂きました」

 淡々と状況を説明しつつ、俺たちへの会釈も忘れない、その時俺は以前の価値観を忘れて綾芽さんを素直にカッコイイと思った。

「お二人とも、若の屋敷へお急ぎくださいませ、この夕暮れ時は特に女性には危険ですから」

 

 未だに何か喚いていた男を綾芽さんに頼んで、俺とちびっ子は早々にリョウ兄さんの家へ帰った。

「やあメイさん、それに今日は千穂ちゃんもか、若は丁度折檻から開放されたところですよ」

「こんばんは兄さん、シショーは今どこにいますか?」

 入り口では要さんが出迎えてくれた。しかし折檻が終わったところ、という事は俺が出かけてから帰ってくるまでずっとされていたのだろうか、すさまじいな兄さんの家庭環境は。

 まあ、俺のためにお仕置きを受けているような物だったろうし、後で謝っておこう。

「ここだ、ここ」

 廊下の奥から片足を引きずりながら、リョウ兄さんが出てきた。なんだろう、足の間接か何かをきつく責められたのだろうか。

 あのリョウ兄さんが顔を土気色にして、脂汗を滲ませてる事からも、そのすさまじさは想像できた。

「……ったく、もう数ある座り方の中でも正座だけはしたくねーな、足が痺れて死にそうだ」

 正座かよ。ちょっと俺の膝がガクッと脱力して下がった。なんだか心配して損をしたというかそんな感じだ。

「シショー、色々と頼まれてた情報集めてきましたよ」

 俺が呆れて苦笑いをしながら、綾芽さんが兄さんを尊敬してる理由ってなんなんだろう。と考えているとちびっ子がリョウ兄さんに声を掛けた。

 そういやコイツもだな、綾芽さんを師匠と仰ぐならともかく、なんで兄さんなんだろうか、そりゃ度量の広さは他を寄せ付けないけどさ。

「じゃあとりあえず俺の部屋に行くか……カナメ、悪いけど肩を貸してくれ、一人で歩くのがきつい」

 要さんがはいはい、と言ってリョウ兄さんの腋から腕を回して立ち上がらせる。足元のおぼつかないその様子は、さながら酔っ払いのようにも見えた。

「なあちびっ子、リョウ兄さんのどこが良いんだ?」

 兄さんが奥へ向かった後、それとなくちびっ子に声を掛けてみる。

 綾芽さんのカッコいい所と、兄さんのカッコ悪いところを続けざまに見せられた俺としてはちびっ子が惚れ込んだ理由を少し聞いてみたくなった。

「え? それはですね……簡単に言えば私を見つけてくれた事ですかね」

「見つけてくれた?」

 妙な言い回しが気になったので聞き返す。確かにコイツは小さいが、見つけられないほど小さいはずがない。一体どういう意味なのだろうか。

 その問いに、ちびっ子は胸を張って誇らしげに答えた

「シショーだけが、いつも外側でボーっとしてるだけだった私を見つけてくれて、外の世界に連れ出してくれたんです」

「……そうか、兄さんってそういうこともやるんだな、」

 やっぱり腕っ節の強さだと綾芽さんには負けるんだろうか、そう考えるとちょっと俺と同じ次元にいるような感じがして少しだけ親近感が沸いた。

「さあメイさん、シショーが待ってます。早く行きましょう」

 考えているうちに、ちびっ子は早々に靴を脱いで玄関へ上がっていた。慌てて俺もそれに習うと、靴を適当にそろえる。

 そういえば、俺はしばらく置いてもらっているからこの家にいるわけだが、ちびっ子は一体どんな用なのだろうか。

「そういえばメイさんはどうしてシショーの家に?」

 考える事は同じだったみたいで、立場が逆の内容で俺がしようとした質問をされて、俺は思わず笑みをこぼした。

「ああ、ちょっと色々あってな、数日この家に置かせてもらってるんだ……ところでそっちはどうしてなんだ?」

「私ですか? シショーに近所のうわさを集めてこいって言われたんでそれの報告です。いやあ真奈美ちゃんの家を掃除するのと夕飯に手間取って中々の強行スケジュールでしたが何とかなりました」

 噂とはどういうことだろうか、とりあえずなんにしても兄さんに直接聞くのが一番早いな。

 俺はそう判断して、ちびっ子と一緒にリョウ兄さんの部屋へ向かった。

 

 時計はもうすぐ七時を指そうとしていたが、辺りの明かりはまだ十分にあって、街灯の少ないここら辺でも、まだ雨戸を閉めるほどではない位には明るかった。

 そうは言っても出かけるにはいささか暗すぎる。あの時綾芽さんが仲裁に入ってくれなかったらどうなっていた事か。

「まずは、今朝の言えなかった報告からはじめようか」

 勉強机の上においてある何枚かの資料を兄さんはちゃぶ台に置いた。足の痺れはさっきまでやっていた親指のマッサージでほとんど取れたようだ。

 要さんにはすでに席を空けてもらって、部屋にいるのは俺とリョウ兄さんとちびっ子の三人だけだ。

「とりあえず今、ここ最近起きている超常現象に関して考察している権威ある人間はあらゆる学会のデータベースを参照してみたが、公式な形で発表してる物はごく少数だ」

 そう言ってちゃぶ台の資料を広げると「まあ見ての通り、公式見解も色々と食い違う部分が多々あるわけだ」と言って俺たちにも資料を確認するように促した。

 資料をちびっ子と額をつき合わせるようにして確認すると確かに「環境汚染や異常気象によるもの」「未知の毒素による幻覚症状」「集団催眠」など、見事にうさんくさい文字列が並んでいた。

「シショー、この資料役に立ちませんよ」

 数回読み直した後、ちびっ子が脱力したようにちゃぶ台に頭を乗せて言った。これに関しては俺も同意見だ。こんな信憑性のない情報から俺の姿が元に戻る方法なんて見つかりそうにない。

 しかしリョウ兄さんは、調子を変えずにちびっ子に答えた。

「ああ、つまり俺がいいたいのは専門家でも原因は分からないって事なんだ。簡単に言えば、少なくともこういう事件には科学的考察は無意味だって事だな」

 科学的考察は無意味……えーと、という事は本当になにが起きているのか訳が分からない状況なのか。

「こういうわけで、むしろ本命はサカタの報告だな、頼んだ」

 そう言って兄さんは視線をちびっ子に移す。頼まれていた情報とやらはそんなに有用な物なのだろうか。期待が膨らみ、これから出てくる情報に耳を傾ける。

「近所で何か起こってるみたいな噂は全然聞きませんね、もっぱら隣の市で起きてる超常現象の噂話ばっかりです。で、えーっと内容は……そう、でかい化け物が人を襲うとかそういう危ない物は全然なくて、朝起こそうとしたらその人が別人になってたとか命に直接害のないようなものばかりでした」

 なるほど、科学的に考えられないなら多数の同じような事件の法則を集めて統計的に考えればいいのか。兄さんってば頭いいな。

「なるほど……それで、元に戻ったような事例はあったのか?」

「すいませんシショー、答える前に一つ聞いていいですか。なんでこんな事を調べてるんです?」

 リョウ兄さんが話を先に進めようとしたとき、ちびっ子は不思議そうな顔をして兄さんへ質問した。

 兄さんはしばらく困ったような表情をしていたが、俺に目配せをすると、静かに話し始める。

「……そうだな、俺に友人がこれらの事に巻き込まれているんだ、理由ほそれだけだ」

 兄さんは事実をぼかしつつも事実を話している。その友人は俺だってばらしてもいいような気がしたが、よく考えればそう言ったところでこんな唐突なカミングアウトは信じてもらえないだろうと思い直した。

「そうですか、ならそれ以上は聞きません……それで、元に戻ったケースですけど、いくつかあった変身系の超常現象のうち、一つの例しかありませんでした。確か……突然年齢が若返って数日後にまた突然元に戻ったっていうケースですね、元に戻った時のスイッチみたいな物は特に話されていませんでした」

「え、ちょ、てことは元に戻れる望みはかなり薄い上に元に戻る方法は分からないって事かよ」

 ちびっ子の話を総合的に判断するとそうなるような気がした。そして、それほ恐らく間違っていないだろう。

 現に俺が言った後、兄さんはほんの少し苦い顔をしていたし、それは多分そういう事なのだろう。

「……ところでメイさんがなんでこんな話を聞いてるんですか?」

 ちびっ子が眉間に皺を寄せて兄さんに質問を投げかける。

 あ、そういえば俺の正体ってコイツには知られてなかったんだっけ。ちょっとまずったかな。

「……そうだな、まあお前なら信じてくれるだろう」

 「余計な事を言うんじゃない」って感じに目配せを俺に向かってもう一回した後、リョウ兄さんはちびっ子に状況の説明を始めた。

 俺としても、うっかりしていたとは思ったが、何もそこまで睨む事はないんじゃないか。そもそもこんな状況になったのは俺の所為でもないし、俺が俺だとばれそうな発言をしたとしても別に構わないだろう。

「さっき話しただろ、最近の超常現象に俺の知り合いが巻き込まれていること、そんでこの間お前に頼んだのは、アキラっていう俺の知り合いが行方不明になったかもしれないから情報を集めて来いって言う事だ」

「なるほど、そのアキラさんって言う人が今大変な事になってるんですね!」

 そこまで聞いて、ちびっ子は嬉しそうに指をパチンと鳴らした。

「まあ、そういうわけだ、それを踏まえてコイツがここで会話に参加してる事を考えてみろ、それで理由は分かるだろ」

 気だるそうにそう言って、兄さんは重心をずらして身体を伸ばす。さっきまでの正座が、やはりまだ体のあちこちに影響を残しているのだろう。

 一方ちびっ子は、しばらく頭の中にある二つの情報を線で結ぼうとしばらくうつむいて唸っていた。ここまでくれば答えは出たようなものだと思うんだが、どうにもコイツには想像力という物が欠落しているらしい。

「つまり……メイさんとそのアキラさんは同一人物、と?」

 しかし無い頭を絞って考えたのか、しばらく待っていると何とか正解にたどり着いたようだ。

「まあ、そういうわけだ。流石に性別が変わったのは色々と問題だろ」

 軽く頷くと、リョウ兄さんは伸びをした状態から姿勢を正して座りなおした。

「それでサカタ、元に戻れた事例については詳しく聞いてきてあるんだろ?」

 これ以上の質問は認めない、とでも言うように、兄さんはちびっ子の返答を聞くことなく、報告の続きを促す。

「え、ええもちろんです……ただ、詳しくは聞いたんですが、どうにも要領を得ないものでして」

 要領を得ない、か……それはつまり具体的には分からないという事だろう。少しだとしても期待していた自分としてはやはりがっかりする部分もある。

「具体的にはどういうことだ?」

「うーん『気付いたら治ってた』だとかそんなんです。どうにも解決方法は時間でしかないような気がしますね」

 兄さんはしばらく考えていたが、俺のがっかりオーラを読み取ったのか、その場の空気を取り繕うかのように話題を変えた。

「ん、そういやそろそろ夕飯か……サカタ、今日はお前も食べていけ」

 その表情はいつもと同じように平然とした顔だったが、俺には少し焦っているように見えた。

「良いんですか? シショーの家ってご飯の準備大変そうなのに」

「むしろ今ぐらいの時間に女を外にほっぽりだしたほうが親はうるさいんだよ、だから気にすんな」

 ちびっ子は割と乗り気でその提案に賛成したが、俺としてはやはりまだ元に戻れる希望を持てずにいる今の状況がかなり辛かった。

 しかし、自分の身体だというのに自分でもよく分からない事が起きて、しかも専門家に聞いてもそれが分からないままという状況は、なんとも不安になる状況だ。

 ここは、リョウ兄さんや周りに頼りっきりにならないように、自分自身がどういう状況に置かれているかを考えなければ効果的な対策を考え付く事は難しいだろう。少なくとも今はそう感じる。

 

 湯船に張られたお湯は少し熱いくらいで、体全体が清められていくような心地よい感触と共に熱が身体にしみこんでいく。男だった頃の好みは変わっていないようで一安心だ。

 しかし、この身体に変わった以外で俺は何か変わった場所はあるのだろうか。もしあるとすれば……

 すでに二日ほどたっているというのに、こういうことを考えるの今更という感じがする。でもまあ考えてしまったわけだからそこら辺は大目に見て欲しい。

「メイさーん、湯加減どうですかー?」

「ん、結構いい感じだぞ」

 脱衣場につながるドアからちびっ子の声が聞こえた。さて、あいつは入りたがってるんだろうし、俺はそろそろ上がって部屋に戻るかな。

「じゃ、私も入りますかね」

 そう思って水音と共に立ち上がった瞬間、ガラッと勢い良く脱衣場のドアが開け放たれた。もちろんその先にいるのはタオルを巻いているとはいえその下は全裸の……

「おい馬鹿、ついさっき俺の中身は男だって言っただろうが!」

 慌てて目を逸らして湯船に入りなおす。コイツの思考回路イカレてるんじゃないのか、って思うほどに堂々としていたのが印象的だった……ってそういう目で見てるわけじゃないんだよ俺は。

「いいじゃないですか、どうせ今は外見的に同性ですし、そもそも私は男の人だった頃のあなたを知りませんので気にしないです」

 俺が気にするんだ。といってもこの手の輩は馬の耳に念仏という奴だろう。しかしこのまま精神的な混浴を行うのはいかがな物か。

 これから上がろうにもなんかさっき座ったばっかりで立ち上がるのもなんだか変な感じがするような気がする。

「と、とりあえず、俺は上がらせてもらうから!」

 いやいや、そもそも考えてみればなりふりかまっていられない状況だし。早いところこの場を抜け出してしまおう。

「せっかくですし、お背中お流しいたします。ですよ」

 話を聞いていないのか、俺の意見を却下しているのか、手に持ったタオルで身体を隠しつつ立ち上がった俺の目の前にちびっ子が手を広げて立ちふさがった。

 まあ、その、真奈美とか姉さんの裸についてはよく見ていたわけだから女の裸を見る事については何の抵抗も無いし、異性に裸を見られる事もなんともないんだが、女になった自分を見られるのはなんとなく恥ずかしい。

「いや、いやいやいや、いいから、俺もう洗ったし!」

「そんな事言っても女の子になってからそんなにたってないんじゃないですか? しっかり洗うところを教えてあげますから遠慮せずに」

 そう言ってちびっ子は身体の割に強い力と身体相応のすばやい動きで俺をどんどんシャワーの側まで押して、腰掛けさせた。

「しかしシショーの家って広いですよねー、お風呂だけでも私の部屋と同じくらいくらいありますし」

 だめだ、言っても無駄を地で行く馬鹿と出くわすのは流石の俺でもそんなに経験した事が無いぞ。

 経験が少ないというのも、こういう馬鹿の対処が一番厄介だからで、その上さっき押された感じだと力でも勝てそうに無いから始末が悪い。下手をするとなされるがまま、というのが最善の選択肢になりかねないわけで、そうなるのはなんとしてでも避けないといけない、俺の尊厳的に考えて。

「はい洗いますねー、タオルどけますよー」

「ちょっ、だから止めろって、俺は……きゃっ!?」

 どけますよってレベルじゃないほど無理矢理力ずくでタオルを剥ぎ取られた。見事なまでに放物線を描く俺のタオルは、ちびっ子の背後にべちゃりと落下した。

「あ、うわっ、馬鹿っ! 変なところ触るなって!」

「暴れないでくださいよ、うっかり頭でも打ったら危ないじゃないですか」

 あ、おい馬鹿そこは触るなって……

 

 身体に力が入らない。

 いや正確には入れようとすらしていない、という感じなのだが、まあ身体を動かせないという意味では同じだろう。

 あの後結局俺は、ちびっ子に体中をまさぐ……いや、洗われてくすぐったいわ恥ずかしいわ情けないわで上がる頃にはすっかり亜消耗してしまっていた。なんというか、汚されたって言うのはこんな感じなんだろうな。

「結構綺麗な身体してるんですね、私びっくりしました」

「あー……」

 いつもの客間に敷かれた布団、その上で俺はうめくように返事をした。なんでか知らないけどちびっ子はこの部屋にいる。今日は止まる事にしたのかもしれない。

 少し一人で状況の確認をしてみたいと思っていたんだが、これだと難しいかもしれないな。まあこの身体じゃ考える事事態が億劫だし別にいいか。

「ところで本当に『元』男なんですかね? 触った感じで判断すると完全に女の子ですけど、どうなんですか?」

 無言で首を盾に振る。なんかもう声を出すのもめんどくさい。いっそのことまだ十時にもなっていないけど寝てしまおうか。いや、それだとコイツに色々されそうで怖いな。

「じゃあ安心ですね。シショー狙ってるライバルは少ない方がいいですから」

 ライバルねえ、まあ男同士ってのはありえないが、それ以上に帰ってくる途中のナンパ男とか見てたらむしろ男が嫌いになりそうだ。でも、だからといって女を好きになるとかそういうのも無いんだが。

 ていうか兄さんを狙う、とかそういう発想は無かったな。まあそんな選択肢がある時点で変だが、あるいは兄さんは俺を選択肢に入れてるんだろうか。入れてるとしたら、ちょっと嫌だな。

「顔は……まあそんなに良い方じゃないですけど、人柄のおかげで人気ありますからねー、男女問わず」

 まあ、それはそうなんだが、現に俺自身そのうちの一人だしな。

「安心しとけ、同性愛のケはないから」

 ようやく消耗した体力が身体に戻ってきたような気がする。とりあえず、もうあんな風呂は二度とごめんだな。

「ん、えーと、メイさんの言う同性愛ってどういう意味なんですかね、男? 女?」

 ああ、まあこの場合は男同士なんだが、かといって女の方に行くとなると身体的には女同士か。俺はどっちの性別と付き合ったら普通なんだろう。というかそもそも俺自身は現在思いっきり普通じゃない状況なんだが。

「あー……わかんね」

 考えるのがめんどくさくなった。あるいは考えているうちに気力が尽きた。もしくはその両方か、身体に疲れがどっと押し寄せてきた。

「とりあえず、俺はしばらく恋愛する気はしないな、自分のことで精一杯だ」

 今の考えとしては、それが一番正確かな。元々男の頃から女は好きじゃなかったし、男同士で、なんて考えたくも無かった。それが女になったからといって急激に変わるはずも無く、今までどおりと言えば良いのだろうか。

「つまんないですね、その気になればシショーも放っておけないでしょうし、強力なライバル出現! と思ったのに、拍子抜けです」

 兄さんが、か……あの人は一体俺の事を何だと思ってるんだろう、「元」男の友達として見てくれているんだろうか、もしくは「現在」女の友達として見ているのか、どっちなんだろう。

「ん、んー、眠くなってきたので私は寝させていただきますよ。おやすみなさい」

 伸びをするような声が聞こえた後、ちびっ子は俺の視界の隅で電気を消してもう一つ用意されていた布団に入るような動きを見せた。

 そして、すぐに聞こえてきた寝息を聞きながら、俺はさっきの疑問を反芻するように口にした。

「リョウ兄さん、俺のことは女として見ているのか、それとも……」

 よく考えて見れば、男として見ているならコイツと一緒の部屋にするはずが無いし、やはり女として見ているのだろうか。

「ん、ふぁ……ぁあ」

 疑問は尽きないが、それ以上に強烈な睡魔が襲ってきた。深く考えるのは明日にして今は寝てしまおう。

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