誰かと誰かの対話篇・3 |
私の勤務している学校でのこと。
職員会議を終え、雑務を片付けようと戻った部屋の戸を開けると、私の耳にこんな会話が届いた。
「――でね、ちょっとこれを見てみて欲しいんだ」
「えっと……写真、ですか?」
声は部屋の中から聞こえてきている。
念のため言っておくと、ここは一般教室ではない。図書準備室――普通ならば足を踏み入れるのは私のような担当職員と図書委員くらいしかいない、縁のない者には入学から卒業まで縁がない場所だ。生徒が放課後にお喋りをしにわざわざやって来るような所ではない。
ないのだが、この春からここに図書委員でもない生徒が居つくようになっている。
一応、原因の一端は私にあると言えなくもない。彼女――いや、彼女が所属する部活の状況を鑑みれば、この部屋に居つくことになるのは無理もないことだとは思う。割り当てられた部室がここの隣にある資料室――部屋の容積の限界まで物を詰め込もうという意図が垣間見えるあの魔窟――で、その隣にあるここ図書準備室の主がその部活の顧問だったとしたら、こちらに居つきたくもなるだろう。この部屋は適度に広くて来客用の椅子と机があってその上お茶の用意までされているのだから。
私は顧問とは言っても事実上肩書きのみで特別何か指導をしたりはしていないのだが、そこのところは彼女にとってどうやら問題ではないようだ。実際のところ文芸部の活動内容を考えれば顧問が口を出す余地などほとんどないのだから、当の部員にしてみればいてもいなくても大差はないのだろう。ただ活動の保証さえしてくれればいい、といったところではないだろうか。それが活動そのものに加えて活動場所にも及んだ、という話。
問題の魔窟に好んで入り浸る生徒も一人いることはいるが、彼の感性は間違いなく一般とはズレていると思う。彼によれば「ここの物を見てるとインスピレーションが沸くんですよ」とのことなのだが、私には埃に塗れてまであの中を歩きたいとは思えないし、歩く理由もない。色々と妙な物が見えていて面白そうなのは認めるが。
ともあれそういう事情から、私としてはあまりうるさくしない限り彼女がここにいることを黙認するつもりではあるのだが――
「ショバ代を頂こうか」
なにやら部屋中に甘い香りを漂わせているのを黙って見過ごすわけにはいかないのだった。この匂いはクッキーか何かか。甘いものは大好きな私だ。仕事の前に一休みも悪くないだろう。うん。
「あ、先生」
「お邪魔してます」
彼女――麻生柳(あそうやなぎ)と、もう一人の生徒が顔を上げる。一年生の図書委員。名前は確か鎌田だったか、この子もこの部屋ではよく見る顔だ。梅雨が明けた頃からしばしば受付の担当日以外にも姿を見せているように思う。
「よもや部屋の主を差し置いてのんびりお茶会と洒落込むつもりではあるまいなー」
言うと、麻生は笑みを浮かべて、
「大丈夫です、ちゃんと先生の分も用意してありますから」言いながらなにやら脇のかばんから白い箱を出すと、椅子から立ってこちらに差し出した。「どうぞ。お土産です」
「お土産?」箱の包装を見る。「――ああ」
北海道の土産として名高い、赤いロゴマークのバターサンドだった。
先週二年生たちが修学旅行に行っていたことに思い至る。
「どうだった?」彼女たちの脇を通って奥の事務机に向かいながら、訊く。
「寒かったです」
「そりゃそうだ」
窓際の机は射し込む夕陽で朱色に染まっていた。バターサンドの箱を置くと、その包装もまた朱で覆われた。椅子を引いて腰掛ける。背もたれがキシリと音を立て、それから少し遅れて、かすかな冷気が全身を包む。
この地域でも季節はもう晩秋の域に入っているのだ。それが北海道ともなれば、もう初冬と言っても差し支えないだろう。そろそろ雪も降ろうかという時期にどうしてわざわざそんな寒い所を選ぶのかと思ったが、ふと思い当たることがあった。尋ねてみる。
「登別とか行った?」
「行きましたよ。地獄谷とクマを見ました」再び椅子に座った麻生が答えた。
案の定だ。大方、教師陣の誰かが温泉に浸かりながら雪見酒でも一杯やろうとか考えたのだろう。学年主任あたりはそういうの特に好きそうだ、と顔を思い浮かべる。
「あ、じゃあこのクマってその登別のクマですか?」
鎌田が声を上げた。
見ると手に写真らしきものを持っている。旅先で麻生が撮ってきたものらしかった。そう言えば戸を開けたときにそんな会話をしていたか。
「うん。クマ牧場のクマなんだけどね、どう思う? それ」
「えっと、どう、っていうのは?」
「ぱっと見の感想でいいから」
「はぁ」
彼女たちが二人の会話に戻ったのを見て、私はサイドテーブルの上のカップを取って引き出しから取り出したティーバッグを入れ、同じくサイドテーブルの上にある電気ポットのお湯を注いだ。安物のお茶ながらそれなりにいい香りが湯気に乗って鼻をくすぐる。
ちなみに今の一連の動作の中で私は一度も席を立っていない。全てこの椅子から手が届く範囲に置かれている。そんなことしてるから太ったのかな、と思ったところで、急にバターサンドのカロリーが気になって箱の裏側を改めようと手を伸ばした。
そして夕食は控えめにしようと決心した。
「開脚前転の途中で起き上がれなくなって後ろにころんって倒れたみたいなカッコしてますね」
鎌田の声。
何となくその光景を想像する。
いわゆるM字開脚が脳裏に描かれた。
二人の方へ目を向けると麻生の方はなにやら苦笑していて、
「実里(みのり)ちゃんがピュアな子でよかったよ」
そんなことを言った。どうやら私と似たようなことを考えていたらしい。
「え? 何がですか?」
「今時実里ちゃんが持ってるみたいなピュアさは貴重だから大事にしてね、うん」
「……はぁ」
私としては二十代になってもそのままだったら逆に嘘っぽくなるから今のうちに思春期を通過しておけと思うのだが、そんなことを言ったところでどうにかなるものでもなし、ここは黙っておくことにする。
「と言うか、ちゃんとこの写真の背景を説明しないとダメだったね。ごめん」麻生が言った。「クマ牧場の中で『クマのおやつ』っていうのが売られてるんだけどね、それを檻の中にいるクマたちに投げて食べさせてあげられるんだよ」このくらいの袋で、とジェスチャーを入れる。「で、その写真のクマは、そのおやつをねだってお客さんに愛想を振りまいてるってわけ。私さ、それ見てて、その子たちはどうしてそんなことをするようになったのかなあと思って」
「それは……そうすればおやつをもらえることを学習したからですよね」鎌田は答えた。
「うん、まあ、そうなんだけど……」歯切れの悪い返答をする麻生。「檻の中で飼われてて、野生じゃないっていうのも分かるんだけど。何と言うか、その行動がすごく不自然で腑に落ちない感じがしたんだよ」
「ああ、なるほどー」
「それで実里ちゃんならどうかな、って訊いてみたんだけどね」
「うーん……」
鎌田がうなって黙り込み、そこで会話が一旦止まる。
私はカップからティーバッグを引き上げると机の引き出しの取っ手にそれを吊るし(もちろん後でもう一度使うためだ)、お茶を一口含んだ。
しばらく味わったあと、飲み下す。
「確かに不自然と言うか、お客さんに媚びてる感じもしないでもないですね」鎌田が口を開いた。「でも、わたしはかわいいと思いますよ、これ。その場にいたら多分その『クマのおやつ』を投げてあげると思います」
「そう?」
「お人形でもない本物のクマがこんなカッコするんですよ? かわいいじゃないですかー」
鎌田は満面の笑みと共にそんなことを言った。
「……そうですか」
疲れたような引きつり笑いで応える麻生。
少し麻生に同情した。半年ほど見ていて思うのだが、鎌田はどうも夢想癖というか、夢見がちオーラとでも表現すべき空気を漂わせている。きっと今も、彼女の頭の中にはテディベア的な可愛らしさの仰向けクマさんにつぶらな瞳を向けられている情景が広がっているのだろう。私はクマ牧場に行ったことがないので分からないが、おそらく鎌田が想像しているような世界はそこにはないと思う。いつか現実を目の当たりにしたときにショックを受けたりはしないだろうか、というのは余計な心配のしすぎか。
それはさておき、と、いよいよカロリーが詰まった箱に手を伸ばす。
「麻生ー。お土産、ありがたく頂くよ」箱を見せながら言う。
「あ、はい。どうぞ」麻生はこちらを向いて少し微笑んだ。
ぺりぺりと包装紙をはがし、それから箱を開ける。箱の中にいくつも並ぶ銀色の包みからはすでにバタークリームのほのかな香りが漂っていて、ここから先に進めばもう後には引けないということを私に知らしめた。もちろん今更後に引くつもりはない。
手を伸ばす。
包みを開く。
解き放たれた甘い香りをひとしきり堪能した後、一口。
咀嚼し、飲みこむ。
最後にお茶を一口含んで喉を潤す。
「もう死んでもいいくらいおいしい」
「死んじゃダメですよ」苦笑いで麻生が言ったが、本心なので仕方がなかった。今なら辞世の句だって詠めそうだ。ところでこのまま死んだら死因は何になるのだろう。安楽死?
「……あー」意味不明になりつつあった思考を、とりあえず変な声を出して断ち切る。「うん。カロリーが心配だけどとてもおいしい。ありがとう麻生」
「どういたしまして。カロリーのことは言いっこなしです、私と彼女ももう諦めてます」
「あはは」鎌田の方も苦笑する。
「いやいや、君らはまだいいよ、若いから体も動くだろう」手を振る。「私なんかもう三十過ぎだよ? この間部屋の模様替えをしたんだけどな、その二日後に筋肉痛が来たときは戦慄したよ」
「え、先生、旦那さんとかに手伝ってもらったりは――」
「ちょ、実里ちゃん」麻生が慌てた声を上げた。
「いいよ、麻生」気を使ったらしい彼女を制止して、私は答えた。「あいにくと私は未婚なんだよ。する気配もない」
「わぁ、そうだったんですか? すみません……」
「いいって」しょげる鎌田に微笑みかける。「今回みたいに時々男手が欲しくなることもあるけどな、それ以外は特に欲しいとも思えないから。まあでも、私みたいになりたくないんなら――」笑って、「君たちは早めにいい人を捕まえなさい」
「はぁ……」麻生がまた苦笑し、
「あ、あはは」鎌田もまた苦笑した。
二人とも何か心当たりがあるらしい。あるいは心当たりがないから苦笑しているのか。ともあれ、そこで会話がひと段落する。
カップに手を伸ばしてお茶を一口。
遠くで運動部の掛け声がかすかに響くのを聞く。
「ところで」と、私は口を開いた。「部活動真っ最中のはずの麻生にちょっと訊きたいんだけどな、いいかな?」
「何ですか?」皮肉には応じずに、麻生。
「うん。麻生さ、物語を書くときにどのくらい読者を意識してる?」
バターサンドの礼としては少々不相応かも知れないが、たまには文芸部の顧問らしいことを言ってみてもいいだろう。
「……ああ、そうなんです、そこなんですよ」思い出したような口ぶりで麻生が言った。「クマ牧場を離れてからもずっとさっきの話のことが気にかかってて、この違和感は何なんだろうって旅行の間中考え続けてたんですが――」
「さっきの話って、おやつとクマの話ですか? ……あ、それでわたしなんですね」中空を見つめていた鎌田は麻生の方へと視線を戻し、「わたしは『クマにおやつを投げる側』ってことですね」
察しのいいことだ、と少し感心した。つまりはそういうことだ。
檻の中のクマとおやつを投げる観客の関係は、そのまま物語の書き手と感想を返す読み手の関係に一致する。
檻の中のクマは様々なアプローチで観客の気を引き、おやつをもらおうとする。観客はそのクマたちを見て、気に入った子におやつを投げる。そうしておやつをもらったクマは学習し、新たにパフォーマンスを編み出したりして、さらに観客に対しアプローチを繰り返していく。例のM字開脚がそのパフォーマンスにあたるわけだ。
物語の書き手と読み手の関係もこれと同じ。書き手はまず物語を書いて読み手に読んでもらう。読み手はその物語を気に入れば感想を返したりするし、そうでなければそのまま読み捨てたり、あるいは批判したりもするだろう。そして、それを受け取った書き手はそれらの反応を糧にして次の物語を書き上げていく。
書き手である麻生が気にしていたのは、その受け取った反応にどう対処するか、という所だった。つまり――
「書き手が読み手にM字開脚するのは麻生的に気に入らない、ってところなのかな?」
「ぶっ!」
見ると麻生が口に含んだお茶を吹きこぼしかけていた。フグのように膨らんだ頬をしぼませ、お茶を飲み込んでハンカチで口をぬぐいながら「何言うんですかいきなり先生っ」とそんなことを言ってくる。まあ言いたくもなるか。
「あの、先輩、急にどうしたんです? えっと、先生?」
と鎌田の方はと言えばこれは本当に分かっていないのか、不思議そうに私と麻生とを交互に眺めている。もしこれが本当は理解していながら知らない振りをしているのなら相当に食えない女だと思うが、普段の様子を見ている限り、どうも演技というわけではなさそうだ。それすらも演技だったとしたら驚愕なのだが。
「冗談はさておいて――」そんな彼女たちの様子を一切無視する形で私は続けた。「麻生としては、その写真のクマみたいに『お客に対して媚びる』ようなアプローチの仕方が不愉快だ、ってところなんじゃないか?」
「……ええまあ、気に入らないって程じゃないですけど、あまり好きではないです」半目でこちらを見上げつつ答える麻生。「私が感じてた違和感も、多分その辺りが原因なんだと思います」
「だろうね」うなずいて、私はカップに口をつけた。お茶を一口含んでから、「鎌田はどう思う? その辺」と相変わらずぼんやりしていた鎌田に話を振る。「つまり書き手が読み手に対して媚びることはどうなのか、ってことなんだけど」
「えっと、読み手として、ですよね?」鎌田が問う。私はうなずいた。
「うーんと……」考えをまとめているのか、鎌田はしばらくの間天井辺りに視線を這わせた後、おもむろに口を開き「率直な話、読み手としては面白い物語を読めればそれでいいってところだと思うんですよ」と言った。
「それはまた率直なことだね」苦笑する。
「ある物語が面白く感じられない理由っていうのにもいろいろあると思うんですけど、『媚びているように感じられる』っていうのもその中のひとつなんだろうとは思います」
お茶を一口すすって、彼女は続けた。
「書き手の作った物語に対して『媚びている』と読み手が感じるのがどういうときなのかっていうのは、ちょっとあいまいなんですけど……」また視線を天井に向け、「そうですね、『物語全体の流れ』と『物語の中に含まれてる要素』がうまく噛み合ってないように思えて、その『要素』が例えば流行に乗っかったものだとか、読み手が求めているものとズレているものだ、……なんて思えたときに『媚びている』って感じられるんじゃないかな、とわたしは思います」
「待って待って、どういうこと?」麻生が声を上げる。
「書き手が媚びていようといまいと、その作品が『媚びている』と受け取られるかどうかは読み手によりけり、ってところかな」私は助け舟を出した。「さっきのクマの写真のときもそうだっただろう? 麻生はその写真を見て不自然だと思ったけれど、鎌田の方はそれをかわいいと思った。その違いだよ」
まず『クマはかくあるべし』という基本知識があったとする。そこに『仰向けになって転がる』という、客受けはするけれど基本知識にはそぐわない要素が入ったとき、そのクマの状態を受け入れられるかどうかは人それぞれ、ということだ。麻生はそれを拒絶し、鎌田は受け入れた。
「で、さっきの質問に戻るんだけどな」と私は言葉を続けた。「麻生は物語を書くときにどのくらい読み手のことを意識してる? これはつまり、書き手としてどのくらい読み手に媚びていると思っているか、っていう質問になるわけだけど」
訊ねると、麻生はうつむき加減で口元を抑えて黙り込んだ。
そのまま数秒が過ぎる。
「……私は」おもむろに語り始めた麻生の声には、自分でも不確かなものを探る慎重さが滲んでいた。「自分の心の中に生まれた世界を表現したいって思いが第一だったから……、最低限物語として破綻しないように気をつけてはいますけど、それ以上は特に何も」してないです、と彼女は口の中で呟く。
例のクマに対して抱いた感想からすれば、予想通りの答えだ。
「媚びているつもりはほとんどない、ってことだな。なるほどね」鎌田の方を向き、「そんな感じなの? 鎌田。麻生の物語は」
「そうですね、とりあえず今まで読ませてもらったものでは、脈絡なくテニスとか錬金術とかメイドさんとかが出てくるようなことはなかったです」鎌田は微笑んだ。羅列されたのはおそらく最近流行している要素なのだろう。「わたしは先輩のお話、好きですよ。すごく綺麗で」
にっこりと笑う鎌田に、
「あ、ありがと」麻生は照れたような笑みで応えた。
私はそんな二人を眺めつつ、ぬるくなったお茶の残りを喉に流し込む。
空になったカップに、吊るしておいたティーバッグを戻す。
「一応、文芸部顧問っぽいことを言わせてもらうとな」二人の方を向いて、「読んでもらいたい読者層を絞って、そのニーズに合わせて物語を書く、っていうやり方もひとつの方法だと私は思う」
「え?」麻生がこちらを向いた。
「愛嬌を振りまくことでおやつをもらえる機会が増えることもある、ってことだよ」言う。「もちろん、その愛嬌が受けるかどうかはお客の意思に委ねられるわけだけどな。要するに、書き手の意志を優先するか、読み手のニーズを尊重するか――どちらを選ぶとしても、大事なのはつまり『媚びている』と読み手に思われないようにすることなんじゃないかな? さっき鎌田も言ったけど、読み手は『面白い物語を読みたい』の一言に尽きるんだから」
「あ……、そうですね。『媚びている』かどうかは読み手が判断することだから、書き手の私がそれを意識はしても、むやみに振り回されたりする必要はないんですよね……あれ?」
急に黙り込む麻生。
「どうかした?」
訊ねると、麻生は眉間にしわを寄せ口元に手を当てて、
「いえ、何か最近似たような話をどこかでしたような気がしたんです。どこだったかな……」
そう答えた。
もちろん私に分かるわけはないので、私は何も言わず、カップに電気ポットのお湯を注ぐ。
「とりあえず、お茶のお代わりでも飲んだら?」勧めてみたが、
「あ、いただきます」
しかしそれに応じたのは鎌田だけだった。
「でもやっぱり、私はこの写真のクマみたいな『とにかくまず私を見て』って雰囲気は好きになれないなぁ」
数分して、麻生は思い出すのを諦めたのか、話題を元の位置に戻した。
「職人気質と言うか、潔癖だな。麻生は」バターサンドの残りをほおばりながら私は言った。挟み込まれたレーズンがアクセントとなり、口の中で絶妙な味わいを醸す。生きててよかった。
「潔癖って、そんなことないですよ」不満そうに口を尖らせる麻生。
「いや、潔癖だよ」クリームの余韻を味わいつつ。「そもそもさ、麻生はどうして物語を書くんだ?」
「それは――、さっきも少し話しましたけど、自分の心の中に生まれたものを表現したいっていう……」
「うん、表現したいんだろう?」笑みを浮かべる。たぶん意地の悪い笑みに映っただろうと思う。「『誰に』表現するんだ?」
「……ええと」言葉に詰まる麻生。
「何かを表現するって行動は、同時にいつも『それを受け止める誰か』が想定されているはずなんだよ。独り言でも、『自分』っていう相手がいる。物語なら――」
「例えばわたしですね」読み手代表が言った。
「うん。つまりひとつのコミュニケーションなんだよ、それは」言う。「そこで『ねえちょっと聞いてよ』と相手にアプローチをかけることは、そんなに不純なのかい?」
「いえ、ですけど――」
「しかも物語だよ、物語」麻生の言葉をさえぎって続ける。「言うに事欠いて物語。心の中を表現するったって普通に喋れば済むところを、わざわざそんな回りくどい方法選ぶんだから……しかも文章にして残そうっていうんだから、よっぽど何か分かってほしいものが心の中にあるってことなんじゃないのかい? そこで相手に『ねぇ、聞いてよ』ってもちかけるのは間違ったことなのかな。どう?」
「……うー」問いに、麻生はうめき声で答えた。「頭では理解してるんですけど……」
私は一つため息をつくと、
「読者あっての物語なんだよ、麻生。あまり独りよがりにならないようにな」今度は微笑んで、そう締めくくった。
と、
「物語あっての読者でもありますけどね」鎌田が横から言ってくる。「ほら、この写真のクマだって、おやつを投げてくれるお客さんがいなかったらこんなことは覚えなかったと思うんですよ」と先ほどのM字開脚クマの写真を見せ、「お客さんはかわいいクマの姿を見られれば幸せだし、クマはおやつをもらえれば幸せです。お互いがいて初めてみんなハッピーになれるんですよー」
ほわわんと笑う。
「…………」
「…………」
鎌田の周りにだけ違う世界が生まれた気がした。
麻生と二人して黙り込む。
「……はっぴー?」何とか声を絞り出すと、
「はい、ハッピーですっ」全力の笑顔でそう返される。
何というか、根こそぎ気力を奪っていく笑顔だった。
金属バットがボールを打ち返す音が妙に高らかに外で響く。
そして、そのまま部屋に静寂が満ちる。
その間にこにこと笑い続ける鎌田は、見方によっては多少怖くもあった。
「……ええと」麻生が呟き、
「……はぁ」私は息を漏らす。
どうにも動かしようのない固化したような空気。
もしそこで開けたままだった部屋の戸をノックする音が聞こえてこなかったとしたら、私は多分窒息死していた。断言する。多分だが。
入り口の方を向く。ノックの主、一人の男子生徒が立っているのが視界に入る。
三年生の高見坂――隣の資料室に好き好んで立ち入る、例の変わり者だった。なにやら小脇にA4サイズの膨らんだ封筒を携えている。
彼は私と目が合うとゆるく微笑んで、「麻生君来てますか?」そう訊ねた。
私が答える前にもう麻生は立ち上がっていた。
入り口へ向かって「何か御用ですか?」と言いながら、きびきびとした足取りで歩いて行く。やけに姿勢が良い彼女の姿に、私はわずかな違和感を覚える。
高見坂は封筒を麻生に渡すと、「新しい話。感想いいかな?」とだけ言った。
「分かりました」平坦な声で答える麻生。
「よろしく頼むよ」言って彼は眼鏡の奥から笑うと、彼女の肩越しに私に会釈をして踵を返そうとした。
「あ、部長」その背に麻生が声をかける。「いつまでにお返しすればいいですか?」
「任せるよー」
そんな声が廊下から靴音に混じって届き。
そしてまた、辺りに静けさが戻る。
私は部屋の中、鎌田の方を見た。
目が合った彼女が私ににっこりと笑みを返す。
なるほど。
「すみません。えっと、何の話をしてたんでしたっけ」振り向いて椅子に戻る麻生の歩き方は数秒前のそれとは全く違っていて、
「いや……、麻生、一つ訊いていいかな」言いつつも、私は笑いをこらえるのに必死だった。
「な、何ですか? にやにやして」椅子の手前で立ったまま、不審げに眉根を寄せる麻生。
「あのさ、高見坂って、知的で冷静な女が好みだったりするのかな」訊ねる。
「へっ!?」およそ数秒前の様子からは想像できないような素っ頓狂な声を上げる。「え、なんで急にそんな話にっ?」
いや麻生、と心の中で突っ込みを入れた。
そこまで動揺して見せることはないだろう。面白いぞ。
「いやぁ、今までの話の流れと一緒でさぁ」私はもう笑みを隠そうとするのをやめ、「仮に高見坂がそうだったとしてだな、そういう女を演じて見せるのもひとつの『媚び』の形なのかなぁ、なんて思ったりなんかしたりしてさぁ」とさらに彼女をイジってみる。
「え、え、ですから、なんでそんな部長の好みとかの話になってるんですかっ」顔を赤らめてじたばたしながら、麻生。
うん、彼女には悪いがものすごくおもしろい。
「そう言えば、」と横から鎌田ののほほんボイスが入る。「高見坂先輩ってもう文芸部は引退してるはずですよね。先輩どうしていまだに『部長』って呼んでるんですか?」
ナイス鎌田! 天然キャラと見せかけて鋭い切り込み!
「実質的にもう麻生先輩が部長ですよね?」
「え、う、うぅ……」
「不思議だねぇ」私も鎌田に合わせてみた。
麻生はしばらくむーむー唸りながらせわしなく床の上に視線をさまよわせていたが、不意に顔を上げて部屋の時計に目をやって「あ、そ、そろそろ下校の時刻ですねっ!」と叫び掻き集めるようにして荷物をまとめると、「長々とお邪魔してすみませんでしたっ、失礼しますっ!」と言いながらスプリンターもかくやという程のスピードで部屋から出て行った。
否、逃げ去っていった。
嵐のような一連の行動は、私と鎌田と麻生の飲み残しのお茶を置き去りにし。
かき回された後の空気の揺らめきだけが部屋に残る。
鎌田がお茶をすする音。
「……いやあ」思わず呟く私。「あそこまで敏感に反応するとは思わなかったなあ」
「ちなみに、ですけど」カップを置きながらのんびりとした口調で、鎌田。「今まで麻生先輩たちを見てきての感じなんですけど、さっきの先輩の冷静な態度、むしろ高見坂先輩に近付き過ぎないように自分で引いてる防衛線みたいです」
「あ、そうなの?」
彼女はうなずいて、
「あと、先輩何度かラブストーリーを書いて見せてくれてるんですけど、ほとんどはヒロインの方から告白するお話でした」言って、微笑む。
「ふぅん……」
それはまた。
何と言うか。
直球だけど回りくどいと言うか。
「もしかしてさ」私は言った。「麻生があんなに読み手に媚びるのに馴染めないのは」
「はい」
これから言う内容をあらかじめ知っているような、それはすでに肯定の返事だった。
そうであると理解した私は、その先を言葉にするのをやめる。
代わりにどうでもいいような言葉をこぼした。
「なんか青春だねえ。晩秋だけど」
「ほんとですね」他人事のように鎌田は答えた。
「ところで、君もそろそろ帰った方がいいんじゃないかな」
「あ、はい」
荷物を片付け始めた鎌田を横目に、事務机へ体を向ける。
朱色の空気の中、私は色のないお茶を一息に飲み干した。
("actions & re:actions" is closed.)
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勤務先の学校で小耳に挟んだ高校生たちの会話。 | ||
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