古泉一姫のHIRO・2 |
中学一年生編
あれから数カ月が経った。
中学受験は無事合格を果たし、第一志望校へ入学した。この中学校は、自宅から結構離れていたのでアパートを借りて一人暮らしをするようになった。入学式から数日過ぎているが、生活に関して別段困ってはいない。小学生の頃から料理や家事もまた義務としてやっていたからだ。
両親とは一人暮らしをする直前まで変わらない関係だ。相変わらず勉強や塾、学校のこと以外は話題に出ることすらなかった。一人暮らしが数週間過ぎたが両親からの連絡は一切なかったことからして、その他心配は何一つしてはいないのだろう。
こんなものなのだ。所詮、親と子の関係なんて。
ただ、中学に入ってからは今までと比べても分かる位、劇的に変化が訪れた。入学早々、同じクラスの女子生徒数人と笑いながら話をする事が出来たのだ。第三者から見ればこんなこと別段珍しくもないと思われるだろうが、小学校時代からはとても考えられないことなのだ。それぐらい、小学校時代には友人との付き合いほど希薄なものは無かった。
このような変化がきた原因もわかっている。
「彼」だ。「彼」と出会ってから私の全てが変化していったのだ。しかも良い方向へと。彼のあの笑顔がなかったら、ずっと小学生の頃のままだったかもしれない。
あの笑顔を忘れる事は今後数十年経っても忘れる事は出来ないだろう。彼が私にとってのヒーローであるように。
そう、この中学一年生から多かれ少なかれ色んな変化が私に訪れたのだ。
既に咲き尽した無数に並んでいる桜の木々に、春一番を思い出させるその時期には不釣り合いな風が吹き付けている。
私は中学校への登校の最中……この一本道の桜の木の下でしゃがみながらもがいていた。
今までにない頭痛、吐き気、めまい、体全体にきしむ痛みが私を襲う。しがみついているだけでも精一杯で、今にも倒れそうだった。
ようやく立ち上がることはできたが、脂汗が次々と滲み出、足は原因不明の震え、そして吐き気が未だに私を襲っている。視界も徐々にぼやけ始めた。
……だめだ、意識が薄くなってきた。
その時私の眼に映ったのは、姿形がまるで違う二人の人物だった。
一人は二十代半ばの若い青年、もう一人は初老の女性だった。
「ここにいましたか。やっと見つけましたよ」
「ふむ、これはいけない。既に完了してしまいましたか。早く治療をしなくては。さあ、つかまりなされ」
ぼやけた視界のせいでこの二人の表情がよくわからないが、青年の方は内心ホッとしたような口調ではあった。その傍らで女性が私を抱き抱えて背負い込んだ。
「あ…あなたたちは……?」
「貴女と同じ仲間ですよ。……貴女が苦しみだした瞬間にですけどね」
「え……何……で……」
次の言葉を言いかけたところで完全にブラックアウト。青年の言った事を問いただすこともできず気を失ってしまった。
……
……
……
「う……ん」
柔らかな薄い布団と固めの枕の感触がする。確か登校中だったはずだ、どうして寝ているのか。
視界が広がると、見慣れない風景が映った。寝惚けながら辺りを見渡すと、一台の小さな机とテーブル、カーテン、それに私が今寝ているソファーのみと必要最低限のものしかなく小ざっぱりとして、かつ殺風景な部屋だった。
「おや、ようやく起きられましたか」
私がソファーに横になって寝ている隣で朝の登下校中に出逢った見知らぬ青年が木製の椅子腰掛けていた。
「よほど副作用が激しかったようですね。気を失うだけならまだしも、顔が真っ青になったまま夕方まで寝てましたからね、正直肝を冷やしましたよ」
肝を冷やしたって、そんな笑顔で言われても。本当に心配していたのかも疑問に感じてしまう。……え? ……副作用? 夕方?
私は慌ててカーテンの閉じてある窓へ向かって外を確認した。
見慣れない街だった。少なくとも自分が現在暮らしているところでないのだけは確かだ。さらに驚く事に太陽は既に沈む段階に入っており、徐々に薄暗くなり始めていた。
……ちょっと待ってほしい。今は何時なのか?
「今は午後の四時過ぎでしょうか。まあ大丈夫でしょう、現在滞在しているのは貴女が住んでいるところの隣町のとあるマンションです。車で行けば20分ほどで行けるところですのですぐ帰れますよ」
「いや、それも気になりますが……貴方がたは?」
「これは失礼。私は森園生と言います。あと今はいませんが私の隣にいた連れは新川と言いまして、」
「あの、自己紹介もいいですが貴方がたは何故私をここへ?」
「あぁ、そういえばまだその事を話していませんでしたね。少し混乱させるかもしれないので手短に申し上げますと、」
「貴女には、ある人物によって特別な力が備わったのです」
「特別な……力?」
「はい。そしてその貴女を私たちは迎えるために探したのです。同じ能力者としてね」
「……その能力とは何でしょうか?」
「はい、その能力とは……おっと、もうこんな時間だ。病み上がりで申し訳ありませんがこれから貴女にお見せしたいものがあります。ここからだと、少々遠くなりますが」
何だ、この流れは。助けてもらい個室で休息させてもらったのは素直に礼を言うべきだろうが、今朝出会ったばかりで何処の誰とも知らない赤の他人にハイ分かりましたと了承するのは誘拐犯に疑いもなくついて行ってしまう子供の様なものでかなり危険が伴うだろう。
「あの……倒れたところを助けて頂いて大変申し訳ありませんが、学校に行かなければならないのでお断りしたいのですが」
そう、まさに登校中にあの今まで味わったことのない苦しみが訪れたのだ。もう授業は終わっているが、行かないわけにはいかないだろう。担任に対しての考慮もあるのだが、半分以上はどうみても雰囲気が怪しい彼らの要求に対する拒絶が理由だが。
「それならば心配いりません。学校には既に連絡しておきましたので」
「……は?」
この人は何を言っているのか。何故私が通っている中学校を彼らが知っているのか?
いや、そもそもどうして私があの桜道を登下校で使っている事を彼らは前もって察知していたのか?
「ついてきて……くれますよね?」
多分、彼らに出会った時点で私には拒否権というモノなど端から存在していなかったのだろう。
突如私を襲った今まで味わったことのない苦痛。何者か分からぬ青年と初老の女性。未知の世界へと引きずり込まれる予感。
新たな恐怖に遭遇した気がした。
再び私は自分の意思とは関係なく流されていってしまうのだろうか。
外に出ると、タクシーが玄関の前に停まっていた。森と名乗った青年があらかじめ呼んでおいたのだろうか。青年は助手席に、私は後部座席の左側に座った。運転手は何も言わずにエンジンをかけ、私たちを乗せたタクシーは走り出す。
窓を眺めると、やはり自分が住んでいる街とはかけ離れた場所で自然が多く、少し田舎に近い感じがした。
「これから行くところまでしばらく掛かりますので、先程の話の続きをしていきましょうか」
「私に特別な力が備わった……という話ですか?」
「そう、それについて私たちの組織全体、さらには私たちが貴女を登校中から引っ張り出さなければならなかった理由についてです」
……やはりかなり危険な匂いのする。間違いない。自分の知らない正体不明な、それもかなり大きい事に巻き込まれている。
ゴクッと唾を飲み込む音が聞こえる。私は覚悟を決めて彼が話す事柄を聞き入れる。
「貴女は、世界がいつから存在していると思いますか?」
「……ビッグバンの爆発が起きてからじゃないのですか?」
「世間ではそういう風になってますね。ですが、我々は世界が三年前に創造さえたという考えを全面的に支持しているのです」
この人はいきなり何の前振りもなくトチ狂った話を持ちかけてきたのだろう。この人たちの事と関係があるとは到底思えないのだが。
「その話と私の力とどう関係してくるんですか?」
「まあ、まず話を聞いてください。私たちの上層部の方々はこの世界全体がとある存在が見ている、ある種の夢のような存在だと考えているのです。なにぶん夢ですからその存在にとっては我々にとって一般的な現実の世界を創造したり改変することなどは赤子がおもちゃで遊ぶことに等しいでしょう。そのような、世界を自らの意思で創ったり壊したり出来る存在――我々、人間はその存在を神としています」
何処の宗教団体の話を持ちかけてくるのだろうか。神なんて農耕などで技術的にまだまだ乏しく食糧を十分確保出来なった時代に祈る事で豊作を願うための自然の身代わりの様な存在なのだ。つまり人々の信仰によってあるべき存在となるわけだが、彼の言っている神とは少々意味が異なっているようだ。
「まさか、貴方たちの団体はその神を信仰している……なんてことは言いませんよね?」
「まさか。ただし、その神様を信仰こそしていないものの、注目はしています。神の実態は何なのか、行く末を見守っている上で、世界を改変したり崩壊させないよう支援しているのです。」
「……」
「それが、我々『機関』の活動内容、および目的です」
呆れた。まさか巻き込まれたのが宗教団体の傍らだったとは。
もっと訳の分からなくて何をしているのか想像できない集まりとはいかないまでも、それに近いものに捕まったのだ。
「さて、次はその神についてですが……その前に目的の場所に着いたようですよ」
よく見ると穏やかな田舎町の雰囲気とは一変して、何処にでもある住宅街の道路の端に車は停まっていた。
私と森が降りるとタクシーはそのまま走り去ってしまった。こんなところで一体何をするのだろうか。
「人間原理という言葉は知っていますか?」
「まだ終わってないんですか?」
「はい。まだ話の途中でしたので」
ここまで来て先の話をするのか。まあ私も少し気になってはいたのだが。
えっと、人間原理……確か宇宙の存在は人間が観測できて初めてその存在を確認できたっていう人間本位的な、いうなれば屁理屈だった気がする。
「ふむ、少々言葉は汚いですが大正解です。確かに人間本位で科学的ではない。しかしここで面白い事実が出てきます。『宇宙は何故人間の生存に適した形で創造されたのか』という事実が」
言いたい事は分かる。重量定数やブランク定数、粒子の質量比……あらゆる値が少しでもずれていたなら私たちの世界は無かっただろう。いや自分や目の前にいる森でさえ存在していないだろう。
「それで、先程の話と接点が見当たらないんですが」
「わかりづらくてすみません。例えで出したもので。先程話の中で出た『とある存在』のために」
「貴方がたが神と崇めている存在の事ですか?」
「その通り。……まあ貴女は既に知っているはずでしょうが」
「……それで、私に見せたいものとは何でしょうか?」
「おや、貴方には分からないのですか? こう話している間にも既に気がついておられると思いましたが。目の前のこれが」
彼が何もないところへ手を伸ばすと、その空間がまるで寒天のように歪み彼の指が半分吸い込まれていた。
病み上がりなので幻覚を見ているのかと思った。なんせ目の前には現実ではあり得ないような光景が映されているからだ。
「そうか、ここは……。では貴女も私がやったように手を伸ばしてみてください」
正直恐怖を感じ一歩後ろへ下がってしまったが、今更あとには引けないので勇気を振り絞って手を伸ばした。
……? 何の感触もない? あの変な歪みは全くなく、ただ空気を突いているだけだった。
「あの、これってどういう」
「う〜ん、初めてだからってわけじゃないはずなんだけど。すぐにできるはずなんだけどな」
髪型が崩れない程度に頭をかき、ぼそぼそと独り言を言っている。
私はただひたすら森の指示が出るのを待ち続けていた。……信用していなかったではないかって? もちろん、今はまだ信用に値する人物とは言えないが目の前に起きている現実の存在が少なからず私を彼らの世界に吸い寄せていったのかもしれない。
「まだ聞きたくなかったんだけどな〜。この際だから仕方ないか」
「まだ何かあるんですか?」
「いや今度は貴女に質問します。……君、もう、『分かってる』よね?」
「っ!? な、なにがですか?」
「貴女に身に着いた力の事ですよ。その力をどう使うか、自分以外の誰が同じ力に目覚めたか、そして誰によって力を授かったのか。この力を授かった者はその瞬間からそれらが全て頭に流れ込み、自分が何をするべきか分かるようになるはず。貴女も例外ではない」
気付かれてしまった。誰にも知られたくない事を彼は既に察していたのだ。
そう、登校途中に倒れる直前に、膨大な知識が脳の隅々まで染み込むように私の一部となった。力の正体、使い道、そしてそれを授けたもの。
彼の、顔が焼きつくようにインプットされた。もう死ぬまで離れられない様に。
「なんで……なんで、彼が」
私は、訳が分からなくて泣いてしまった。
彼がこんなことをする意味が分からないし何故私にこんな無責任なものを渡すのかと憤慨したのも原因の一つであるが、それと同時にこんな人間離れした事を彼が起こしたという事は、彼に何かが起きたのだ。私自身何も彼の助けになれなかった事を深く悔やんだのである。
どうして今更になって、彼が「涼宮ハルヒコ」が頭の中から離れないのだろうか
「……分かりました。私の手を掴んでいてください。今日だけは許します」
森が私に優しく手を差し出した。私はよく分からずに差し出された手を掴んだ。森は先程歪んだ空間があった場所に手を伸ばす。ここでやはり寒天のように空間が歪み……
次の瞬間、私の周囲全体が大きく歪み、そして世界は灰色になった。
当たりに人っ子一人おらず、乗用車のエンジン音や工事などの雑音は一切消え、不思議な静寂が漂っていた。
「……私も甘いですね。こんなことで、許してしまうなんて」
森は聞こえないくらいの音で舌打ちをし、先へ進む。
「ここが何処だかは、わかりますよね?」
「……はい、彼の深層部分」
「そう、私たちは閉鎖空間と呼んでいます。とりあえず、まずは貴女はこれから私たちがすることを見学していてください」
返事はせずに軽くうなずく。
辺りを見渡すと、私たちが先程いた場所と全く同じだった。何枚ものチラシが貼ってある電柱、路地に停めてある乗用車。
ふと、この光景のある一点に目が移った。そこは私の周囲とあまり変わらない閑静な住宅が並ぶ一帯であった。家しかなく注目するものなんてないはずなのに何故か目を離す事が出来なかった。まるで得体のしれない者がどこかに紛れ込んでいるような気配さえ感じた。
そう思った瞬間、凄まじい突風のようなものが吹き、気付いた時には塀に体を叩きつけられていた。
「かはっ!」
肺に溜めこんだ空気が一気に吐き出された。体全身に強烈な痺れが発生し、体が全く言う事を聞かない。
「大丈夫ですか? ……早速登場しましたか。対処が少し遅れてしまいましたね」
森は私に声をかけた、が首から上だけは姿を現したモノの方へ向いていた。
徐々に姿を現したソレは、まるで人間の様にゆっくりと上体を起こす。人間とは言ったが、その姿は私たちとはかけ離れたものだった。五階建てのビルよりもはるかに高く、身長の倍はあるであろう長い腕、中身がないのか半透明で所々宝石のように輝いている。これほど大きいのにもかかわらず、重量を感じさせない姿だがその巨体を前に踏み潰されそうな圧迫感さえ感じた。
「分かっているとは思いますが、アレを我々は『神人』と呼んでいます。貴女が知っている、彼の化身の一部だと思えばよろしいでしょう」
彼が話している間にも神人という名の巨人は腕を大きく振りかぶり、周りの住宅を薙ぎ倒していった。
やはり質量の法則を無視しているような気がするのだが。
「おっと、暴れ出したようだ。急がなくては」
彼は目を閉じると突如周りに赤い球体が発生し、彼を包み込んだ。するとそのまま宙に浮き、彼の身体がみるみる小さく、赤く変化していった。最終的に野球ボール並みの大きさの赤い球体になった。
その球体はそのまま一気に速度を上げ、巨人の方へ向かっていった。ぐんぐん速度を上げ、一気に巨人の腹部に突進した。その直後、巨人の周囲を拡散するように爆発したのが分かった。よく見ると、複数の赤い球体が同じように巨人に対して総攻撃をかけていた。
一つの球体が巨人の腕を、円を描くように回転し真っ二つに切ってしまった。それに続き、他の球体も巨人の身体を次々と切断していく。
ついに巨人は形を保つ事が出来ず、砂のように崩れ、そして土にかえっていった。
巨人の姿が跡形もなくなると、赤い球体たちは各々に散っていきそのうちの一つが私の方へ向かってきた。形を歪ませると、徐々に人の形に変わっていき最後には元の青年の身体に戻っていた。あれだけあの巨人を攻撃したにもかかわらず、余裕を感じさせる笑みをしている。
「ふぅ……。ご覧になりましたか? これが私たちの主な任務であり、彼のストレス解消の手助け……と言えばいいでしょうか」
森が私のところまで来た時には既に普通に動けるぐらいに回復して、途中から立ちながら彼らの戦闘を拝見していた。
今更ではあるが、改めて自分が置かれている立場が異質だという事を実感した。実は登校中に既に死んでいて、その死んだものを導いたのがあの青年と老婆だった。……できればそう思いたかった。こんな形で、彼の事を聞いてしまったばかりに。
「今のが、私にも……使えるのですよね?」
知識や感覚は既に体に染み込んでしまっていて、やり方を聞くまでもなく今すぐにでもできるはずなのだが、それでも敢えて疑問形で森に尋ねてみた。
「はい。これからすぐにでも参加して頂きたい……ところですが、如何せん貴女はまだ病み上がりで彼から能力を授かったばかり。しばらくは演習として日々鍛錬して頂きましょうか」
「あの、私……」
「その次の言葉はあとで聞きましょう。それよりもこれから素晴らしいものが見られますよ」
そう言うと彼はちょうど灰色の空のてっぺんを指差した。
「ご覧なさい。もうすぐ始まります」
空を見ると一部分にひびが入ったと思ったら、鶏の卵が割れるように次々とひびが入り、そして最後には外のまばゆい光を放ちながら灰色のガラスが崩れていった。まるで幻想のスペクタクルの様に。
気付いたら彼に案内された場所にいた。先程の静寂感は皆無で、乗用車などの騒音や夕日が照らすいつもの光景が広がっていた。
「貴女は先程何を言おうとしたか分かりませんが、これだけは言わせて頂きます。どうか彼のためにその力を使っていただけませんか?」
心臓がぐらっと揺らいだ気がした。何故この人は私が言おうとしている事が分かるのだろう。
信じたいというよりは信じたくなかった。別にこのような不可思議な現象から逃避したいというわけではなく、彼がストレスで出現させた巨人で町を破壊し、挙句の果てにそれに森や新川たちに無理矢理能力を与え、永久に消える事のない戦いに巻き込んだ。
憤慨もした。失望もした。……しかし、やはり思うのだ。彼はこんな自分勝手で傲慢な人ではない。そう見える行為には何かしら意味がある。そう信じたい自分がいる。
それでも、今までの自分の生活が一変してしまう恐さもあり、参加はしたくない。でもそれでは彼が……。
私は自身の葛藤の中で溺れていた。
途端、急に体が倒れそうなくらいの立ちくらみに襲われた。何事かと思う間もなく、私の目の前に更なる信じ難い光景が映し出された。
「……どうしたんですか? まさか今になって何も見えないし感じないなんて、無責任な事は言いませんよね?」
「……」
「行かなくていいんですか? 貴女なら一目散に駆け出していくとばかり思ったのですが」
「……」
「……なんだ、やはり私の思い違いですか。今日能力が身に着いた時から彼の事がずっとまとわりついて離れなかったはず。それなのに貴女は目を覚めた時も、車で移動中の時もそれについて何も問わなかった。『何故、誰とも知らない人が頭の中から出てくるのか』と。それを問わなかったという事は……。覚悟はできていたんじゃないかと思いましたが、ま、『赤の他人』では仕方ないですね」
この人は何も知らないで。いや、この人は私が葛藤の中で悩んでいる事さえも見抜いている。
全く、何故この日初めて出会った、まさに赤の他人のことが理解できるのか不思議でならないが、今はそんなことを考えている暇はない。
「貴方は……意地悪ですね」
私は疾風の如く駆け出した。早くしなければ。
彼が、大勢の男に暴行を加えられている。
彼に再び会える事に感激したとかそんな事は今はどうでもいい。もしかしたら彼の命まで危ないのだ。
場所は既に特定している。私の運命が変わった公園だ。
車でこの地に来た時には気付かなかったが、この街は、私が小学生の時に住んでいたところだった。以前の記憶と脳に流れこんだ光景を元に走り続ける。
息を切らしながら走り続け、ようやく例の公園に着いた。入口までさしかかったとき、絶句した。
涼宮ハルヒコがブランコの囲いにぐったりと寄りかかっていた。それはまるで生命のない人形のような状態で、顔は下を向いていてよくわからない。
私は急いで彼の傍へ駆け、彼をその場に仰向けにさせた。
出てきた顔は殴られた痕が酷く、頭からは血が流れ、多分この周辺にあるであろう中学の制服はずたずたに引き裂かれていた。
「ってぇな。誰だよ……俺は見世物じゃねぇんだよ」
私に気付いて警戒したのだろう威勢を放って拒んでいるが、声が潰れて聞き取りづらく以前の溌剌な面影は今はどこにもない。
「ごめんなさい。近くを通りかかったら見かけたので……ちょっと待って」
私はどうにか彼の傷を少しでも回復するように、持っていたハンカチをそばにある蛇口まで行って水で濡らし、彼の所々傷ついている身体を拭いていった。
こうなると知ってたのだから、森にでもせめて救急箱を借りればよかった。切羽詰まった状態とはいえ、我ながららしくない行動をとってしまった。
彼の身体を拭いていくと、痛みで顔を歪めて私を睨みつけてくる。
「痛ぇ……。もっと優しくしろよ……」
「はいはい、分かりましたよ」
傷も多く、軽傷ではない状態だが少なからず喋りかけてくることで少しは安心する事が出来た。
それにしても、こんな近くにいるのに私の事は気にならないのだろうか。別に私に早く気付いてほしいわけではないが、普通ならこれほど近くにいるのならどうしても姿が目に付くはず。
「あの、私が、見えますか?」
「いや……目が……腫れてて、よく見えねぇ……」
そうか、だから何も言われる事はないのか。納得した。
頭の血も拭き取り、とりあえず汚れてそうな箇所は拭きとった。彼も出会った時と比べると、幾分楽になって横になっているようだ。
「それで、何があったの? どう見ても人為的な怪我よね?」
「……なんでついさっき会った奴にそんな事を話さなきゃならないんだ?」
「治療費」
「……ちぃ。わかったよ、ったくほっとけば治るっつーのに」
彼は嫌々ながらも私の質問に答えてくれた。
「……を描いてたんだよ」
「なに? 最初の方がよく聞こえなかったわ」
「宇宙人にメッセージを描いてたんだよ」
宇宙人にメッセージ?
「あれ」
ゆっくりと上体を起こして座り、砂場の方を指差した。
焦っていてよく分からなかったが、何やら魔方陣のようなものが地面に描かれている。見た感じはチリにあるミステリーサークルのようだが、似て非なるもので何をモチーフにして描かれたのか分からない。
「あれを描いている途中で、歩いている奴が馬鹿にしやがったから殴ってやったら返り討ちにあった」
馬鹿にされたから殴ったって……。子供が馬鹿にされて短気になって相手に突っかかるみたいではないか。
それで、その返り討ちにされた相手とはどんな相手だったのか?
「高校生。うぜぇ不良グループだったわ。十人はいたな」
十人……。流石の彼でも相手が悪すぎる。それでも果敢に相手に向かっていくのは以前と変わらないが。
変わらないが、何か以前の彼とは違う気がする。それが何かは分からないが。
「……あんたも、やっぱり変だと思うか? 宇宙人なんて信じていることが」
彼の潰れている目でも分かるぐらいの真摯な眼差しだった。
私には分かる。これでも彼は大真面目なのだ。自分の求めているものを探すために。
私はいくつか言葉を選びながら彼に言う。
「他に、何か探して、いる?」
「ああ、未来人、超能力者……かな?」
やっぱり。
「見つかった? あとの二人」
「見つかってねぇ。見つかってるんだったら宇宙人で苦労しねぇよ」
不意に笑ってしまった。あの時から変わらずに探し続けている彼に呆れというか、相変わらずというか、本当に面白い人だと改めて思ったのだ。
しかし、このような反応をした私を、彼は快く思わなかったようだ。
「お前……やっぱり馬鹿にしてるな?」
「いや、私は」
「やっぱりみんなそうなんだ。学校のクラスの連中なんてみんな周りのやることで満足している奴らばかり。そんなんで何が楽しいんだよ? 周りが平凡に楽しんでいるものなんて、面白くもなんともないのによ」
「その人には、その人なりの楽しみ方もあると思うわ。他の人たちの悪口は良くないと思う」
「……」
彼は横を向いて黙ってしまった。
少し経って、彼はやる気のないような気のない声で話す。
「あ〜あ。色んな事を試したけど、宇宙人も見つからない。未来人もいない。それどころか、超能力者もいない。俺、今まで何をしていたんだろう。何だか馬鹿らしくなってきた」
「ちょっと……いい加減ふざけるのはやめて」
「ふざけてなんかねぇよ! 俺は今まで本気でそいつらを探してきたんだ。様々な書物とかで実践方法も試した。でも、そいつらを見つけられない。手掛かりさえ見つからない」
私は目を丸くして彼の怒鳴る声で怯んでしまった。彼のこの変わりよう、涙を浮かべながら怒りに染まっている様を見て、私ははっとした。
絶望。以前私にとりついていた悪魔だ。自暴自棄になり、時には死をも選ぼうとしていた。今いるこの場所で、彼の眩しすぎるくらいの笑顔で這い上がる事が出来たのだ。
ならば……次は私が彼を救う番だ。
「何だよこんなつまらない世界! もうこの世なんか無くなっ……な!?」
彼のまだ傷の癒えない顔に思い切り叩いた。
彼は痛さのためか、突然のことだったからか呆然としていた。
「なんでそんな事を言うんですか……? 貴方は、出逢いたいと強く願ったのでしょう? 見つけると決めたら何が何でも探すのではなかったんですか?」
彼は未だ呆然自失。開いた口がまだ塞がらない。
私が彼に感じていた感じは、これなのだ。むしろあれからずっと成長していない、彼自身の子供の部分だろうと思う。
「もうこの世界がつまらない何て言わないでください。面白いことだって、絶対にあるはずですから」
顔全体が熱くなっていく。
私が彼を叩いた事も、彼に偉そうなことを言ってしまったことも、これが全て私の本心である事を分かってほしかった。
ただ、それだけなのだ。
彼は下に俯いて返事がない。そのまま永遠と言えるくらい長い時間が過ぎた。
ここで沈黙を破ったのは彼だった。
「……もう大丈夫だから、ほっといてくれ」
「だから私は!」
「わかってる! あんたのおかげで怪我も落ち着いてきたし、あんたの言いたい事も理解した。だから……一人にしてくれ」
眉に力を込めて叫ぶ彼に、さすがに私はこれ以上何も言えなかった。
そして無言で「こっちくんな!」と言っているような気がして、この場にいてはいけないような雰囲気が漂っていた。
私は何も言わずに立ち上がり、彼に背を向けてその場から退いていく。
「……ありがとよ、可愛い顔の名無しさん」
後ろから小さい声で呟くのが聞こえた。
再び顔が熱くなっていく。それでもこんな顔を見せまいと何も言わず、振り向かずゆっくりと立ち去っていく。
住宅街の細道を歩いていると、見慣れた人物が待ち構えていた。森と言う青年だ。まるで私が始めからここを通る事を知っているかのように余裕のある笑顔でだ。
「お疲れさまでした。どうでした? 大好きな彼とのご対面は」
「一言余計です。対面については……最悪ですね。会わなければよかったと後悔していますよ」
「ほう、それはそれは」
皮肉たっぷりに言ってやったが、何でもないかのように返答する様子を見ると一部始終もしくは全て知っているようで、やはり侮れない人だと思った。
それはともかく、本当に最悪だった。私の力では彼を救う事など出来なかった。私は彼に救われたのに、彼は私など何も見えていなかったのだと思い知ったのだ。
私はここにいる。貴方の望んでいる者が目の前にいる。思い切り叫びたかった。しかし、彼はそのようにしたところで果たして私の言う事を信用しただろうか? 信用されるくらい私を見ていただろうか。
答えは、ノーだろう。
「私には彼が貴方をどう想っているのかは知りませんが、一つ興味深い事が起こりましたよ」
「……なんですか」
「先程いつもより巨大な閉鎖空間が発生しました。正直言ってかなり焦りましたよ。何といっても世界が崩壊するのではないかと思うぐらいの規模の大きさでしたから。ですが、直後に何故か急速に縮小してしまったのです。それもいつもの半分以上に。おかげでいつもよりも神人の討伐が楽でした。……さて、それについて心当たりがありますかね?」
「さあ? 何が言いたいのかさっぱりわかりませんが」
彼がわざとらしく質問するので私も対抗してみたが、旗色は悪そうだ。
「まあ弄るのはほどほどにして、ここからが私が言いたい事です。大規模の閉鎖空間が発生したにもかかわらず途中で勢力が弱まったという事は、彼のストレスの一部が解消されたということです。そしてその時彼と一緒にいたのは貴女一人。……何が言いたいのかは察して頂けますね?」
「……」
既に理解はしていた。私の声が彼に少なからず届いた。それが分かっただけで嬉しかった。
ただ、その時彼の眼に映ったのは私自身ではなく、会ったことのないただの赤の他人なのだ。決して私だと気づいていないだろうし、再び彼と出会っても私の事など記憶の片隅にも置かれていないだろう。
……それでも、
「森さん、私の持っている力はすぐに使えますか?」
「そうですね、先程もおっしゃいましたがまずは少々訓練が必要ですね。いくら知識などがあっても上手く使いこなすには相応の技術が必要ですから」
「では、今からでもその訓練とやらを受けさせて頂けないでしょうか?」
「ふむ……かなり厳しいですよ。貴女にできるかどうか……」
「私に能力が身に着いた時点で覚悟を決めていた、そう思っていたんですよね……?」
「はは、確かにそうだ。これは一本取られましたね」
機関という集団の目的や彼らの思想していることなんて私にはどうでもいいことだ。
だがあの神人という巨人を倒せば彼の助けになるなら、彼を救う事が出来るのなら、私は喜んで機関とやらと手を組もう。
彼のためにこの身を削れるのなら本望だ。
「さて、色々話している間にまた閉鎖空間が発生しました。では早速ですが軽く訓練でもしましょうか。それとも今日のところは見学にしときますか?」
「まさか。もちろん訓練を願いますよ」
森の言う事だ。多分とてつもなく辛い訓練になるだろう。しかし、それでも地面に這いつくばってでもやらなければならないのだ。
彼を救うヒーローとしての第一歩をここから歩んでいくために。
説明 | ||
前回http://www.tinami.com/view/251596の続きで、機関ではお馴染みのあの二人が出てきます。一姫さんがどのような思いで機関に所属していくのかを覗いてもらえれば幸いです | ||
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