【死神と少女】掴みそこねた偶然 |
その日、いつもは足を運ばない公園を訪れたのは知り合いに会いたくなかったからだった。
「…………………………」
七葵は泥に塗れた手の甲でぐいと頬を拭った。当然ながら汚れは頬にこびりつく。だがそれでも、涙の跡が残ることに比べれば幾分かマシではあった。
嘘つきと呼ばれ蔑まれること。或いは気持ち悪いと忌避されること。どちらももう慣れた。小学生にもなれば自分が周囲とは違っていることくらい理解できる。すなわち、今も七葵の視界を横切っている実体のない金魚や辺りを漂う影は普通の人間には見えないのだ。
桐島七葵は異質である。
七葵はその事実を受け止めている。泣いて暴れるような時期はもう過ぎた。結局、そうやって駄々を捏ねてみせても何も変わらなかった。相変わらず七葵の瞳には見えないものが見え、誰もその事実を信じてはくれない。両親や兄たちは表立って否定することはないけれど、「人前であまりそういったことを言ってはいけない」「連れて行かれるから」と口にする。彼らの優しさは愛であるということは七葵も知っている。だがそれは真実の理解ではないことも知っていた。
七葵はいつも一人だった。
「……でも、俺は、間違ってない」
見えるものを見えると言って何が悪い。きちんとこの目に映っているものを見えないと言い張るだなんて、それこそ嘘つきになってしまうではないか。
自分が意固地になってしまっていることは七葵も自覚している。だが、だからと言って今更後には引けなかった。
殴られた側頭部が鈍痛を訴えていたが、七葵はそれを無視した。やられた以上にやり返してやったのだ、この程度は耐えなければならないだろう。本当は嘘つきだの何だのという陳腐で独創性のない悪口など無視してやるつもりだったのについ手が出てしまった。こんな短気な自分は『桐島』に相応しくないのではないかと、不安がちらりと頭をよぎる。
「…………っく、…………」
「……?」
その時、落ち込みかけた七葵の耳朶に僅かな音が届いた。聞こえたのが不思議なほどに微かな――泣き声。
七葵は周囲を見渡した。公園にあまり人気はない。途中で何人かとすれ違ったのは覚えているものの、少なくとも今は人影すらない。ベンチも空のまま。
だが七葵はどうしてもあの泣き声が幻聴だったとは思えなかった。それほどに切羽詰まっていて、哀しみに満ちていて、胸を打つ声だったから。七葵は一つ深呼吸をしてから目を閉じ、耳を澄ませた。
「……ひっ…………ぐすっ……」
確かに聞こえた。七葵は目を開けそろりそろりと足音を潜めながら泣き声がした方向へ近づいていく。普段はあまり訪れない公園。だがそこに一際大きな桜の木があることは知っていた。声はその木の影から聞こえていた。
「!」
泣き声の主の姿を認めた瞬間、七葵は息を飲んでいた。呼吸が止まる。自分はまた見えないものを見ているのではないかと、そんな不安がふと胸を掠めた。
それほどに、桜の根元に蹲る少女は美しかった。
学校どころかテレビの中ですらこんなに綺麗な子は見たことがないと思った。長くてふわふわした黒髪も、可愛らしい服も、涙に濡れた瞳も、しゃくり上げているせいで歪んでいる顔立ちも、全てが幻想的だった。今は秋。桜が咲いているはずはない。にもかかわらず、舞い散る桜の花弁が見えるかのようだった。
「……な、なあ」
声をかけたのは無意識だった。少女がびくりと身体を揺らして顔を上げたのを見て七葵はようやく我に帰り、とんでもないことをしてしまったかのような後悔に襲われた。少女の瞳に怯えが浮かんでいたからだろう。
普段はどれだけ他人に理解されなくても黙って我慢できたのに、どうしてか彼女に誤解されることだけは耐えられないと感じた七葵は慌てて言い募った。
「お、俺は怪しい奴じゃないぞ! その、お前が泣いてる声が、聞こえて……」
あまりに挙動不審な七葵の言い分を信じたとも思えなかったものの、少女の瞳から怯えや恐れは消えたようだった。だが七葵を見つめるその目からは大粒の涙が零れ続けている。ガキ大将を泣かしたことこそあれ自分より幼い少女の涙に遭遇したのは初めてで、七葵は狼狽しきっていた。それでも黙り込むのはまずいという意識がどこかで働いたのか、言葉は勝手に唇から溢れてきた。
「……な、泣くなよ。なんで泣いてるんだ?」
少女を驚かせないよう先ほどよりいっそう慎重に足音を潜め、七葵は少女に近づいた。そっとしゃがみ込み、泣きじゃくる少女と目線の高さを合わせる。
その行動が何かのきっかけになったのかもしれない。少女は初めて泣き声以外の言葉を呟いた。
「……お母様が……」
「え?」
「お母様が、会ってくださらないの……」
少女の言葉は曖昧に過ぎた。七葵の常識では母親とは基本的に家にいるものだ。家に帰れば顔を合わせるし、寝て起きればそこにいる。そういう存在だと認識していた。だから少女の言う『母親が会ってくれない』という状況が七葵にはあまり理解できない。
どうにも自分の手に余る事情のような気がして、七葵は途方に暮れた。そもそも周囲から孤立してきた七葵は人付き合いの経験すらあまりない。そんな人間があどけない少女が一人寂しく泣き濡れるほどの状況に直面して一体何ができるというのか。
「どうして……? お母様ぁ……」
「……他の家族とか、は?」
「お父様なんて知らない……! ……他に家族なんて、いないもの。……寂しいの……ひっく……」
止まりかけていた少女の涙が再び溢れ出す。七葵はどうしていいのか分からず――そして、不意に閃いた。
「さ、寂しいなら俺が遊んでやるよ!」
少女が黒い瞳を大きく見開いて七葵を見る。その深い輝きに気圧されつつも、七葵はつっかえつっかえ言葉を補強していく。
「俺も、その……暇だし。今日はもう遅いけど、またここで会ったら遊んでやるよ。そしたらちょっとは寂しくないだろ?」
「…………………………」
少女は目を丸くしたまま言葉を発さず七葵を見つめている。実際は数秒だっただろう沈黙は、七葵にとっては十数秒にも数十秒にも数分にも思えるほど長い時間だった。やはり図々しすぎたかと、あまりの居た堪れなさに七葵が逃げ出そうとした、その瞬間。
花が綻んだ。
「……うん。ありがとう、優しいお兄ちゃん」
かーっと頬が熱くなるのを七葵は自覚した。そこで初めて、今自分の顔が泥で汚れていることを思い出して恥ずかしくなるとともに安堵する。あからさまに紅潮している顔を見せるだなんて、泥まみれの顔を見せるよりよほど耐え難い。
「あ、ああ! 約束な!」
七葵は照れ隠しのため僅かに顔を背け、大きな声で宣言した。自分でも分かるほどその声は裏返っていた。それを笑う声が聞こえてこなかったのがせめてもの慰めである。
いつの間にか少女の涙は止まっていた。だが冷静になると朱色に染まりつつある空が気になり始めたのか、少女は不安そうな顔をして周囲を見渡した。そしてポツリと呟く。
「……わたし、帰る」
「帰れるのか?」
「うん。大丈夫」
「そっか……」
七葵はこの少女がどこから来たのか知らない。今まで見かけたこともない。こんな綺麗な女の子、見たことがあれば忘れるはずがない。けれどどこかのお姫様のように見えるこの子が一人であまり遠くに来たとも思えないし、この近辺に住んでいるのだろうと七葵は見当をつけた。よくよく考えてみると確かこの辺りは高級住宅街だったはずだし、それなら少女の出で立ちにも納得がいく。
それならば仮に迷ったとしても今頃必死で少女を探しているであろう彼女の家の人間がどうにかするだろう。送っていくことを提案しようかとも思ったが、喧嘩の勢いで飛び出してきた七葵はこの近辺については詳しくない。見栄を張った挙句に二人揃って迷子になった、などという事態になれば目も当てられない。七葵は名残惜しい想いを抑えて立ち上がった。少女に笑いかける。
「じゃあ、またな」
「うん!」
再び正面から向けられた笑顔に赤面しつつ、七葵は少女に背を向けた。ここに来た時とは真逆の軽やかな足取りで駆けていく。そうして公園を出て帰路についてから七葵は不意に気づいてしまった。
少女の名前を聞いていない。
(……次に会えた時、聞けばいいよな)
だが結局、七葵は二度と少女に会えなかった。
会いに行かなかったわけではない。二度は確かに遠出して少女と出会った公園まで意気揚々と向かったのだ。だが日の高い時間から夕暮れ時まで待ってみても少女は一向に現れなかった。ベンチに座って彼女を待つ時間は、最初こそ楽しいものだったけれど最後の頃には退屈のあまり苦痛でしかなくなっていた。
そして三度目の正直を信じて公園に行くかどうか悩み、結論を出しきれないまま何となく訪れたあの丘で――七葵はかけがえのない友人、千代に出会ってしまった。
以降、七葵があの公園に足を運ぶことはなかった。それどころか少女と出会ったことすらほとんど忘れ去ってしまった。おそらくは初めての理解者を、初めての友人を得て浮かれていたのだろうと、今ならそう分析することができる。
だがそれは、結局のところ七葵はあの少女を見捨ててしまったという事実の言い訳にはならない。
(……ガキだったな、あの頃は)
授業が終わり、教科書を鞄の中に片付けながら。十年の時を経て高校生になった桐島七葵は溜息をついた。
口にすれば感激のあまり千代が五月蝿くなることは目に見えているので絶対に言わないが、あの頃の七葵は千代に出会えたことに舞い上がっていた。七葵以外の誰にも見えないし話もできないけれど、「普通の人に見えないものが見える」という七葵の言い分を全く否定せず(そもそも千代自体がその『普通の人には見えないもの』なのだから当然なのだが)、遊び相手になってくれた千代のことで当時の七葵は頭がいっぱいだった。
千代と過ごす時間は楽しくて、大切で、何よりも輝いていて。その時間があまりにも眩しすぎて、あの少女との幻想的すぎて現実のこととは思えなかった出来事をすっかり忘却してしまったのだ、と。
そこまで考えて七葵は自嘲の笑みを浮かべた。あれは七葵以外には誰も――千代でさえも――知らないことだ。誰に言い訳する必要もない。にもかかわらず何度もこんなことを考えてしまうのは、少女との約束を破ってしまったことに七葵が未だ罪悪感を覚えているということの証明に他ならない。
そんなものを感じたところで時間は巻き戻らない。つまり、その感情には何の意味もないというのに。
「おい、桐島!」
「ん?」
「呼んでるぜ」
唐突に名を呼ばれた七葵は思考を中断して顔を上げた。何なのだろうと思う暇もなく、七葵に声をかけてきたクラスメイトは顎をしゃくって教室の入口へと注意を促してきた。何となくからかい混じりに険のある表情を不思議に思いつつも彼が示した方向を見やれば、どこか所在なげに佇んでいる少女の姿。
なるほど、と七葵は心のなかで頷いた。これは確かに軽い嫉妬くらいは受けるだろう。
「ああ……」
「ったく、遠野さんに呼び出されるとか羨ましすぎるぞお前」
「そうか?」
『そうですよ!』
「そうだよ!」
今日も飽きることなく七葵の傍に控えている千代と、クラスメイトと。同時に勢いよく突っ込まれて七葵は思わず苦笑した。
平然と惚けては見せたものの、七葵も彼女――遠野紗夜にわざわざ呼び出されるというのが他の生徒に羨まれる状況であることは理解している。彼女は擦れ違う人の多くが振り返るほどの美少女で、浮いた噂一つなく、気品があってどこか声をかけづらい雰囲気がある。要は高嶺の花ということだ。実際、今も教室の其処彼処から鋭い視線が向けられているのを感じる。
とはいえある程度彼女の人となりを知った今となっては、「お前らが思っているほど大人しいお嬢様でもないぞ」と言ってやりたい気持ちも強い。ただ、どうせ嫌味か当てつけにしか受け取られないだろうことも分かるので口にはしない。
「遠野。どうした?」
七葵はクラスメイトに軽く礼を言い、廊下で待つ紗夜に近づいた。彼女の友人である宮沢夏帆がいないことを一瞬怪訝に思ったものの、すぐに思い直す。いくら友人とは言え四六時中一緒にいるわけでもあるまい。七葵と千代の場合とは事情が違うのだ。
七葵に声をかけられた紗夜は小さく頭を下げた。長い黒髪がふわりと揺れ、仄かな香りが鼻腔をくすぐる。
「わざわざ呼びつけて申し訳ありません、桐島先輩。……それとこんにちは、千代さん」
『こんにちは、お嬢さん!』
後半は周囲に聞こえないように小声で、けれどきちんと七葵の隣を見て。応じる千代の声も弾んでいる。七葵以外には誰にも認識されることのなかった千代はこうして声をかけてもらえることが嬉しくてならないんだろう。それは七葵も同じだ。千代を肯定されることが七葵を肯定することに繋がるからかもしれない。
「気にするな。何か用があるんだろう? 遠慮なく言え」
七葵は口元を緩めつつも紗夜に用件を促した。七葵にとって紗夜と千代の会話は微笑ましくずっと見ていても飽きないものではあるが、波長が合うのか何なのか放っておくといつまでも喋り続けていることがよくある。さすがに10分間しかない休み時間でそれをやられては困るし、わざわざ学年の違う教室までやってきた紗夜にも無駄足を踏ませることになってしまう。
「あ、はい。あの、今日のお昼なんですけど……」
気を取り直して語り始める紗夜。その姿が先ほどまで思い出していた記憶の中の少女に重なる。
出会ったこと自体を忘れ去っていたあの少女のことを思い出すようになったのは、紗夜と知り合いになってからだった。緩くウェーブする黒髪や可愛らしくも品のいい顔立ち、何よりも身に纏う儚げな空気がよく似ているのがきっかけだったのだろう。
とは言えあの少女と紗夜が同一人物だと思うほど七葵は夢見がちな人間ではない。それに少女は母と父以外に家族はいないと口にしていた。しかし紗夜には兄がいる。七葵も挨拶したことがあるが、紗夜とよく似た顔立ちの青年だった。血が繋がっているのは間違いない。
だから紗夜にあの少女を重ねてしまうのはただの七葵の感傷だ。それ以上でも以下でもない。だが、もしかすると。紗夜を放っておけないと思うのは、つい手助けしてしまいたくなるのは、七葵があの少女に何もできなかったことの罪滅ぼしをしたがっているということなのかもしれない。それが投影という名の自己満足、逃避であることは頭では理解しているのだが。
「……………………先輩? あの……」
『七葵君? お嬢さんの話、ちゃんと聞いてる?』
「ん……? ……っ、ああ、すまん」
紗夜と千代がそれぞれ呼びかけてきた声で七葵はハッとした。思考に没入していたことに気付いて慌てて意識を現実に戻せば、不審げに七葵を見つめている二組の瞳。七葵はバツの悪さに視線を泳がせた。ほぼ一対一だというのに話に集中していなかったなど失礼にも程がある。
だが紗夜は七葵の気まずさを察したらしく、執り成すようにくすりと笑みを零した。そして僅かに表情を曇らせて首を傾げる。
「桐島先輩がボーっとなさるなんて珍しいですね。……お疲れなのですか?」
『七葵君はちょっと頑張りすぎるところがあるから心配だよ』
口々に心配され、七葵は思わず苦笑した。自分は友人に恵まれているとつくづく思う。
「いや、単純にちょっと考え事をしていただけだ。疲れとかそういう理由じゃない」
「そうですか……? それならいいのですが」
一応は納得してくれたようだが、紗夜はそれでも気遣わしげな態度を崩さない。七葵は紗夜のそういう優しさを好ましく思う。同時に、彼女は彼女自身こそを心配してやるべきだとも感じた。
気取っているようで若干鼻につくと思っていた紗夜の振る舞い。だが親しくになるにつれてそうではないのだと気付いた。紗夜はただ怯えているだけだ。だから周囲に壁を作っている。それはとても強固で、壁の中に隠れている本当の姿を目にすることはできない。
彼女が何に怯えているのか、七葵には推し量ることすらできない。たとえ理解できたとしてもそれを乗り越えなければならないのは七葵でなく紗夜自身だ。だから紗夜は他人を思いやっている暇を少しでも自分と向きあう時間に使うべきだと七葵は思う。だが、それでも。
「心配してくれたことには礼を言う。ありがとう」
「いえ、そんな……」
彼女の意識が自分に向けられているというのは嬉しいものだ。どうしてそう思うのかという根本を突き詰めるつもりは七葵にはない。少なくとも、今はまだ。
七葵は笑って、紗夜の頭に掌を置く。軽く撫でてやると紗夜はくすぐったそうに微笑んで首を竦めた。千代が隣で何か言いたそうにしていることには気付いていたものの、どうせ大したことではあるまいと無視する。
「あの、改めて言いますね。今日のお昼は日生先輩が用事で来られないそうですので、その連絡をしにきたのです。とりあえず私の用件はそれだけですから。ではまた」
「ああ、後でな」
『さようなら、お嬢さん』
丁寧に頭を下げてから去っていく紗夜の背中が廊下の角に消えてから、七葵は教室の中に戻った。その足取りがいつもより軽いことは千代だけが知っている。
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七葵+紗夜 若干ネタバレ。幼少期捏造というかifというか。 こんなすれ違いがあったらいいな、という話。 |
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