あの空
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■あの空1(序)

 いつだって「ここではないどこか」があるのではないかと思ってた。

 子供の頃、四歳下の妹と草原で遊び、ふと見上げた夕焼けの空。祭の日の華やかな飾りと、時計塔と校舎の隙間から覗く、切り取られた青空。そこから呼ばれている気がしてならないことがあった。

 きっとあの雲の切れ間に「どこか」はあるのだ。

 幼い頃からずっと、幻の場所を感じながら生きていた。

 家族は好きだった。学校も、友達も。

 恵まれていて何の不自由も無い。幸福だと思っていた。不満ひとつ無い生活の中で、心が迷うのは、「どこか」のことを思うとき。

 

――行かなきゃ。

 

 どこに、と問われても、きっと答えられなかっただろう。楽しく過ごしている時間に、ほんの一瞬胸をよぎっては、目に見えぬほどの小さな傷を心に刻んでいく、不思議な感情だ。

 

――行かなきゃ。

 

 もしかして自分は、とても薄情な性格をしているのだろうかと、そんな戸惑いを覚えることもあった。

 こんなにも皆に愛されて、こんなにも満ち足りているのに、どことも知れぬ場所を求めている自分。

 誰にも話せなかった。親友の快にも、両親にも、小さな妹の夏海にも。

 ずっと秘め続けていた「どこか」

 郷愁ではない。ただいずれはそこに行くのだと、子供の頃から思って……いや、知っていた場所。揺るがしようもない決定事項として、胸に根ざした不思議な土地。

 

――行かなきゃ。

 

 見上げた空から話しかけられるごとに、胸に占める違和感。噛み合わせの悪いパズルのピースを、持て余すような不思議な気持ち。考えても考えても、原因の分からなかったこの気持ちの正体は――

(このせいだったんだ……)

 彼は病室に突っ立って、ベッドの上で瞼を閉じた人の姿を眺めていた。かつて自分自身であった筈の、「鈴原冬雪」の姿を。

「お兄ちゃん……っ、お兄ちゃ…………っ!」

 妹の夏海が、可愛らしい顔を涙で汚して、冬雪の手にすがりついている。その小さな手の温みを、涙の冷たさを、ほんの少し前までは確かに感じていた筈だ。胸を痛めながら、その頬を撫でてやりたいと思いながら。

 だが今はもう分からない。ベッドの上に横たわるのは、かつて冬雪であった肉塊で、今の自分とは最早繋がりのない身体だった。

 彼は冬雪をただ見つめている。伏せられた瞼の青さも、色を失った頬も、つい最前まで自分が宿っていた肉体なのに遠い。あの身体の生が終り、引き剥がされるように新たな生を得てすぐに、彼は悟っていた。

 もう戻れないのだ、この身体には。――そしてあの穏やかな生活にも。

「目を開けてよぉ……っ、どうして、どうしてなの……!?」

 喉を引き裂かんばかりに嘆く少女の声に、胸が軋む。だがその痛みも、フィルターをかけたようにどこか遠い。

 これは決定事項。「鈴原冬雪」が生まれるずっと前から、決まっていたことだから。

 

 彼は顔を上げる。病院の天井が透き通り、夕焼けの空が広がった。そこに光が見える。ふたつ……みっつ。降下する光は次第に強さと輝きを増している。

 眩かったが、手庇を作ることもなく、彼の目は光を見据えることが出来た。その中には翼持つ者の姿がある。彼らは降下の速度をゆるめると、ふわりと病室の床に着地した。

今や辺りは光の洪水だ。泣いている妹も、佇む父と母も、ベッドの上で瞼を閉ざす「冬雪」の姿も、光にかき消されてしまった。彼らに見えるはずがないと分かっていても、目を射られないかと心配になる。

 声なき声が彼を呼んだ。

「お迎えに上がりました、ラファエル様」

 ラファエル。……そうだ、それが自分の本来の名だった。

「貴方様のご帰還を、心よりお喜び申し上げます」

「我等が主が、天上でお待ちでございます」

 天上。天界。ここではないその「どこか」の正体。言葉として聞いてしまうと、ただ淡々と胸に落ちた。

「悪いね。わざわざ迎えに来なくても良か……」

 彼――ラファエルは、言いかけて、たたらを踏んだ。迎えの天使のひとりが、心配そうにラファエルを見る。

「ラファエル様、どこかお加減が?」

「ああ、大丈夫。久し振りだから、ちょっとバランスを取り損ねちゃった」

 軽く答えて手を振った。……忘れていた、この身体のことを。

 いつの間にか己の背に、巨大な翼が生えていた。ただしそれは一枚だけだ。重みを感じる訳ではないが、やはり片翼だけでは微妙に重心が狂う。だがその曖昧な感覚にも、すぐに馴染んだ。

 ラファエルは僅かに苦笑する。冬雪として生きていたときの方が、肉体としては完全だったじゃないか。完全な生を捨て、不完全な身に生き返ったということか。

 だが、これが本来の姿。この片翼の身こそが自分。傷を癒すために、一度は人の子として地上に生まれ落ちたが、これであるべき所に戻るのだ。予定調和のひとつとして。

 ――そうだ、ずっと感じていたではないか。ここではない「どこか」の存在を。……戻るだけのことなのだ。

 ラファエルの手がふわりと上がる。天使の持つ奇跡の力が身を包むと、彼の足下から、さらに光が溢れた。光は糸となって紡がれ、一糸まとわぬ彼の身にまとわりつき衣と化す。

 完成した衣服を纏う己の姿を改めて、ラファエルは眉をひそめた。

 純白の衣。以前着ていた物を、多少今様にしただけなのに、違和感があった。気分にそぐわないのだ。

 少し考えた末に、ラファエルは再度腕を上げる。今度は上から順に、衣の色が変わっていった。深みのある黒が、純白の衣を滲ませていく。今夕焼けを呑み込んでいこうとする夜空のような色だ。所々に差し色を入れ終え、満足そうに頷いたラファエルを見て、天使達は不思議そうに顔を見合わせた。

「何故衣をお染めに?」

 黒は必ずしも邪悪を示す色ではないが、天使が着るに相応しい色でもないだろう。ラファエルは彼らに軽く笑って答えた。

「んー? ちょっとね、喪に服しちゃおっかなーなんて思ってさぁ」

「喪……でございますか?」

「うん、ほら、彼のね」

 光に慣れた目に、ぼんやりと見える人間達。ベッドの上に横たわるかつての自分。

 迎えの天使達は顔を見合わせている。彼らの顔には怪訝そうな色と、諦めの色が混ざって見えた。そう言えば、以前から自分は、変わり者の天使として知られていたっけ。

「……さ、行こうか」

 ラファエルは振り切るように、自分から背を向けた。

 声が聞こえる。夏海の嘆きの声が。父母の啜り泣きが。

 だが自分はもう、戻れないのだ。「ここではないどこか」を感じていた頃、その場所がとても遠かったように、今はこの病室が、ついこの間まで過ごしていた筈の自宅や学校が、今は遠い「どこか」だ。

 

 ラファエルは片方の羽根を羽ばたかせる。飛翔が始まり、露払いよろしく舞い上がる天使達の後を追った。行くべき場所は、もう分かっていたから。

 ――ただ最後に、小さな妹が精一杯に流す涙を、せめて拭ってやりたかったと、そう思った。

 

 二度と叶わぬ夢だけれど。

 

 

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■あの空2

 

 

 

 その巨大な水盤は、悠久の昔から神殿の奥深くに座していた。薄い桃色の斑の浮いた、大理石に似た石で出来ている。

 明かりひとつ無い暗い部屋の真ん中に、足のついた巨大な水盤だけが置かれている光景は、普段はひどく殺風景なものだが、今は水盤の中央から溢れる光が、部屋の中を照らしていた。光は水盤に施された精緻な彫刻を鮮やかに浮かび上がらせ、それで一層、彩りを増している。

 水盤の上には、すんなりと長い指を持つ手がかざされていた。その手が、巨大な水盤に光を与えているのだ。だが光の導き手は、対照的に闇に沈み込むような格好をして片膝を抱えていた。

 黒衣の天使、最近天上に戻ってきたばかりのラファエルだ。

 辞令が下りるまでの空白を、ラファエルはこうして、水盤の傍で過ごすことが多かった。

 水盤の清らかな水は、魔界の深部や天上界の高み以外の、あらゆる場所の過去、もしくは現在を映す。許しを得た上位天使が使えば、未来を映し出すことも可能らしいが、大天使であるラファエルには、そこまでのことは出来ない。

 ラファエルは水盤で、自分が居ない間の世界の過去を見つめていたのだ。地上から戻ってきたばかりの自分に、どんな役目が割り振られるかは分からないが、知識は得ておいた方がいい。

 ――というのは建前で、半分は暇つぶしを兼ねている。天上界は娯楽に乏しい。

 半分が暇つぶしだから、意識はすぐに脇に逸れて、意図していたのとは違う光景を映し出した。

「……まただ」

 ラファエルは苦笑する。水盤の中には、ほんの少し前まで自分もよく歩いていた、アスファルトの道路が映し出されていた。道路の上では、セーラー服姿の少女がひとり、項垂れて歩いている。

 ――夏海……。

 ラファエルの面から、笑みが消えた。

 水盤に移し出される少女の顔が、ラファエルの意志に呼応して拡大される。

 可愛らしい顔をした少女の、瞼が少し腫れぼったい。夜になるとずっと泣いているせいだ。昼間の今は、涙など枯れ果てた様子で、脱力した暗い顔をしている。

 あれからどのくらいの時が経ったのだろうか。地上と天上では、時間の流れ方が微妙に異なっているようで、具体的な日数は分からないが、地上はまだ、夏休みの最中のようだ。おそらく夏海は、水泳部の練習に向かっているのだろう。彼女が何かをぶつけるように、水面に身を躍らせる姿を、ここに来てから何度も目にした。

 眠っている彼女の思考が見えてしまうこともある。

 ――幼い日に遊んだ草原の夢を、繰り返し繰り返し見ている夏海。

 夏海の心は停滞している。あの日の病室から、少しも動いていない。

 ……やはり最後に、涙を拭ってやりたかった。そうすれば夏海の心を、少しは慰められただろうに。

 自由にならなかった身体。夏海が泣き出した頃には、もう指先ひとつ動かなかった。この身体に生まれ変わった今となっては、その望みを叶えることは、さらに困難だ。

 ……もうどうしようもない。『鈴原冬雪』であった頃には、触れることはあんなに容易だったのに。あの温かさも冷たさも、血潮の流れる強さも、二度と感じることは無い。

 触れ合うことでしか得られぬ慰めを与えることは、自分にはもう、二度と出来ないのだ。

 水盤は、術者が真に見たいものを映し出す。だからこれは、ラファエル自身の未練。愛していた家族を悲しみの中に突き落としたことへの。そして今はもう、何も出来ぬことへの――

 

「ラファエル様、こちらにおいででしたか」

 入り口に現われた天使が、ラファエルを呼んだ。ラファエルに手招かれて、天使は不思議そうに近付いてくる。

 手が届くほど近くまで来ると、ラファエルは何の前触れもなく、彼の腕に手を伸ばした。指先は天使の身体を通過して、向こう側に突き抜ける。――いや、自分の手が相手の腕を通したのかもしれない。

 触れあえぬのが当たり前とは言っても、不作法なことに変わりはない。その特徴の無い面を持つ天使は、少し困惑気味に眉を寄せた。

「いかがなさいましたか」

「やっぱり触れないなぁって思ってさ」

「……はあ」

「つまんないね」

 ラファエルは肩をすくめた。

「……本当につまらないなあ」

 ラファエルが手を一振りすると、水面に波紋が起きた。水盤に浮かんでいた少女の姿が、泣き崩れるように乱れて消えていく。小さな欠片になって揺らめき、完全に消え去った後には、ただ白い光を放つ、静かな水面が残っていた。

「ところで、僕に何か用事があったんじゃないの?」

 天使は頷くと、実に恭しく、一枚の紙を差し出した。

「大天使ラファエル様。貴方に天使学校教官の辞令が下りました」

「天使学校の教官?」

 そろそろなんらかの仕事を割り振られるだろうとは思っていたのだが、意外なものが来た。

 天使が掲げる紙片を、ラファエルは指先で軽くつまみ取る。何の変哲も無い真っ白な紙には、なかなか勢いのある筆文字で、『君は天使学校の教官です。よろしくな。』と書かれていた。

 ……誰が出しているのかは知らないが、相変わらず本気なのかふざけているのか、よく分からない辞令だ。これを書いている誰かとは、何となく気が合いそうな気がするが。

「僕は構わないけどぉ。いいのかなあ、最近の天界事情もよく分かんない僕に、大事な天使候補生を任せちゃって」

「さあ。わたくしにはその辺りのことは」

「ま、それはそうだよねえ……」

 ラファエルだとて、誰がどんな意図を持って事態を動かしているのか、はっきりとは分からないのだ。平天使で、ただのお使いである彼に、分かろう筈もない。

「それから、一緒にこちらも預かっております。ラファエル様に受け持っていただきたい、来期入学予定者の資料だそうです」

 手渡されたのは薄いファイルだ。使いの天使は、無表情なまま続けた。

「少々難しい学生でして、お嫌なようでしたら、断ってくださって構わないとのことでした」

「ふうん?」

 難しい生徒。そう聞くと逆に興味がわくのが、ラファエルの性格だ。口元に笑みを浮かべて開いたファイルには、少女めいた美しい顔立ちの少年が、生真面目に口を引き結んでいる写真が貼ってあった。

(へえ……)

 ちょっとだけ目を奪われた。男の子なのは分かるが、随分と可愛い顔をしている。顔立ちはまだ幼いが、目元が少しきつくて、意志の強さを覗かせていた。

 肌が白い。シトリンと同じ色の瞳は、硬い光を放っている。アクアマリンの髪は長めで、せっかくの綺麗な顔を隠しぎみだ。瞳も髪も肌の色も、宝石を集めたみたいな色合いだから、表情の硬さもあいまって、彼を精緻な細工の作り物のように見せている。

 名前は何というのだろう?

 ファイルの上部に目をやると、ミカエル、と天界文字で書いてあった。

「ミカエルという名前の……生徒?」

 ラファエルは眉を寄せる。ミカエルといえば、セラフ……つまり熾天使の地位にある者、あるいはヴァーチューズのひとり。天軍の将、神の右に座す者。天界がまだ魔界と争っていた頃の、天軍の総大将だった勇者だ。猛々しく断罪する者、火を表わす天使。天使の王子とも呼び讃えられる天使の中の天使。

 位が上の天使になると、エネルギー体のような存在で、人の姿をしていない場合もある。普通の天使達は、殆ど彼らの姿を見ることもない。大体、同じ天使が複数の階級に属しているとも言われるのだから、天界の構造も奇々怪々だ。

 当のラファエルだとてそうだった。

 彼自身はまるで重要視していない事柄だし、アークエンジェルとしての自分しか認識していないが、天使ラファエルの名を持つ者は、セラフであるともヴァーチューズであるとも、パワーズとも、スローンズとも言われている。

 下から二番目の階級の、人間界で言えば平のサラリーマンかせいぜい係長程度の自分に、そこそこ礼が尽くされるのは、『ラファエル』の名あってこそ。天使の名は、そのすべてが、天主から与えられるのだから。

 だからこの少年は『ミカエル』となるべくして生まれた存在、ということでもある。雛である以上、扱いは他の雛と変わらないが、潜在能力の大きさは計り知れない。

「試験の成績は……すごいね、一番だ。この子のどこが問題なの?」

「貴方様は地上においででしたのでご存じないと思われますが、ミカエルの魂は、現在三つに分裂しております。十三年前の出来事です」

 確かに。次のページを捲ると、事務的な文字で、ごく軽く同じことが書いてあった。

「分裂? どうしてそんなことに。――いや、いい。自分で見てみるよ」

 ファイルを閉じて水盤に手をかざすと、水面は容易にその時間、その場の風景を映し出した。水盤の縁に乗ったラファエルの膝の下に、コウノトリが現われた。コウノトリは魔界の表層、黄昏色の空を飛んでいる。籠の中には光の玉。天使の魂だ。

 魔族と天使は根を同じくする者。その命は『混沌』から生じる。『混沌』は魔界にあり、コウノトリはそこから天上まで、天使の魂を運ぶのだ。

 そのコウノトリが、何かから逃げまどっている――鷲だろうか。ちょっと変わった鷲だ。魔の匂いがする。魔女の使い魔なのかもしれない。

 コウノトリの籠が揺れる。右に左に。籠の中から、光の玉が落ちる。

 ――大きい。これは魂としては、かなり強いものだ。だが、遙か上空から落下した魂は、谷底の地面に激突し、三つに割れて跳ね転がった。

 横から水盤の表を覗いていた天使が、補足する。

「そのうちのひとつは、主が直に拾い上げられました。それがミカエルです」

「残りふたつは?」

「ひとつは魔族の手に。とは言え、運良く健やかに育っている様子です。ひとつは同じく魔界にあるようですが、身を隠しているようで、状態の把握が難しく――」

「ふぅん……なるほどねぇ」

「それに、元々ミカエルは、情緒に不安定な面があったのですが、昨日の昼に、とうとう光輪が落ちてしまいました」

「……え?」

 光輪。頭の上の輪っか。天使の天使たる証しで、これがなければ自分たちなんて、人の格好をしたインコみたいなものだ。いや、光輪が落ちれば羽根もおちるだろうから、インコどころかただの幽霊か。

「それで?」

 目を丸く見開いたラファエルに、天使は感情のこもらぬ棒読みで続けた。

「今は神殿の中庭で、地中に埋まっております」

「……地中に?」

「はい」

「埋まっている? 今も?」

「はい」

 天使は頷く。

「付け加えますと、自重が増したことにより今でも少しずつ沈みつつあり、天界から堕ちる可能性も出ております」

 その言葉を聞いた途端、ラファエルの意識に呼応して、水盤に映る風景が変わった。

 とてつもなく大きなクレーターが、神殿の美しい前庭に出来ている。植え込みや花壇の真ん中に、なんとも不作法なすり鉢状の窪み。ぽっこりと開いたその穴ぼこの中央に、蟻地獄よろしくはまっている人影は、写真で見たのと同じ、綺麗な青い髪を持っていた。

 ……これは大事じゃないか。ラファエルは半ば呆然と呟いていた。

「楽しいことになりそうな生徒だなあ……」

 

 

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■あの空3

 

 天界で一番階層の低いこの辺りで、創世神にもっとも近い神殿。その丁寧に整えられた芝生の前庭に出来た巨大クレーターの周囲には、殆ど人がいなかった。

 いや、一応遠巻きにして、心配そうに見守っている者もいるのだが、手をこまねいている様子なのだ。案内してくれたさっきの天使が教えてくれる。

「誰が何を言っても、身動きひとつしないのだそうです」

「へぇ……」

 ラファエルは軽く浮遊すると、片方だけの羽根を羽ばたかせる。穴の縁にふわりと降り立つと、中を覗き込んだ。

 山の端へ落ちかける夕日は、真っ赤な陽射しを強く投げかけている。ラファエルの作る影が少年の上へかぶさったが、彼はぴくりともせず、真っ直ぐに前を睨んでいた。黄水晶めいた瞳は、写真を見たときに感じた通り硬質で、本当に鉱物のようだ。

 何を見ているのだろう?

 ラファエルはポケットに手を突っ込んで目を眇める。彼の視界には、目の前の土塊しか入らないだろうに。

 

 光輪が落ちるのはどんな時か。天使である自分自身を、否定するときだ。光輪は天使たる証しなのだから。 彼は己を否定した。そしてその重みが、彼自身の身動きを許さない。

 穴は広く深い。直径は軽く三十メートルを越すだろう。深さも十メートルくらいはありそうだ。光輪を落とした者も、地に埋もれていった者も見たことはあったが、こんなにも周囲に大きな影響を与えた者は初めて見た。

 ひどく痛々しく思えた。誰にも助けを求めず、ただ前だけを睨み付ける少年。胸が苦しい。俯いて歩く夏海を見て、胸を痛めたのと同じように。

 ラファエルは穴の縁ぎりぎりにまで近付いて、真っ直ぐに少年を見下ろした。

「――自己嫌悪の海に沈み込むのは楽しいかい?」

 少年の肩がぴくんと震える。彼は前を睨み据えたままだったが、確かに反応があった。

 輪を落としてしまうと、天使を認識できなくなる場合が多々ある。つまり、ただの人になってしまうということだ。だが、彼の耳にはまだ、天使である自分の声が届いている。……これならば間に合うかも知れない。

 ラファエルは遠巻きに見守っていた天使達に声を上げる。

「あのさあ。彼が登ってくるまで、二人だけにしてもらえるかなぁ」

 すぐにそこかしこで、羽ばたく音が聞こえはじめる。ラファエルに辞令の下りたことは、彼らの耳にも入っていたのだろう。ラファエルに任せようという空気が、その羽ばたきには含まれていた。

 穴の中にもう一度視線を戻すと、ラファエルはもう一度彼に呼びかける。

「登っておいで」

 いらえはない。少年の瞳は真っ直ぐに、そそり立つ土壁に向けられたままだ。

「登っておいで。僕は君が登ってくるまで、ここで待っている」

 聞こえているだろうか。最初にかけた言葉に、僅かながらに反応があったから、多分、耳には届いているのだと思うのだが。

 ラファエルは軽い息を吐くと微笑む。強情に前を見据え続ける瞳。どうやら彼は、相当な頑固者だ。長期戦を覚悟して穴の縁に腰を下ろし、しばらくは少年を観察することにした。

 腰の辺りまで土の中に沈み込んだ華奢な身体。身に纏った白いローブは、すっかり泥で汚れてしまっていた。色白な頬にも髪の毛にも、容赦なく土が降りかかっている。

 穴の途中に、金色の小さな物が埋まっているのを確認した。きっとあれが、彼が落とした光輪だろう。 使いの天使は沈み続けていると言っていたが、少なくとも自分がここに来てからは落ち着いているようだ。

 山の端に沈みかけていた夕日は、欠けていく月のように、どんどん面積を狭めている。 真っ赤に燃えた空には、宵闇が迫りつつあった。神殿の上に広がる空は既に深い藍色に変わり、星が静かに瞬き始めている。

 こうして改めて見ると、久し振りの天界の風景も悪くないと気付いた。戻ってきてこちら、屋内にばかり閉じこもっていたから、景色などろくに見ていなかったのだ。

「天気がいいから、きっと今日の夜空は綺麗だよ」

 ラファエルは空を見上げて眼を細める。やはり少年の返事はない。

 ――いいさ。どうせ時間は山ほどある。落下が止まっているのなら、気長にやっても良いだろう。

 

 それから数時間は、無言だった。少年の出方を見ていたのだが、空を眺めていて飽きなかったのだ。

 予想していた通りの、美しい夜空。自分がまだ冬雪だった頃に、家族で旅行に行った山里の空を思い出す。夏海がまだ小さくて、星の多さにはしゃいでいた。

 大気はこちらの方が澄んでいるから、星はあの時よりももっと大きく見える。この光景を見せてあげられたら、どんなにか喜ぶことだろう――

 ほんの少し寂しくなって、ラファエルはもう一度少年に語りかける。

「ねえ、そこ、暑くない? それとも地面の中って涼しいかい? 埋まったことがないから、こればっかりは分かんないんだけどさあ」

 もっとも、今頃冬雪の肉体は、灰になって地中に埋まっているだろうけど。

「勿体ないね。こんな日に空を見ないなんて。それとも土の中には、空よりも楽しいものが見えるの? ミミズでもいる? それともモグラ? 木の根っこ?」

 また少し、少年が身じろいだ。最初に声をかけた時ほどの変化ではないけれど、ほんの少し、指先が動いたようだ。

「……面白いなあ」

 彼の耳に届かぬ程度に小さく呟いて、ラファエルは頬杖をつく。

 さっきまでこの辺りにいた天使達は、きっとその優しさでもって、彼に言葉をかけたのだろう。或いは厳しく叱責でもしたのだろうか。

 天使は人を導くのが役目。そのやり方は正々堂々として正攻法だ。だが彼は、そのどれにも耳を貸さなかったという。

 ……なるほど。少し分かった気がする。きっと普通のやり方では無理だ。彼は多分、とても頑固で意地っ張りなのだから。

 ラファエルは頬杖をついたまま、ニヤニヤと続ける。

「君、もしかしてミミズが好きなんだ?」

「…………」

「だからそうして埋まりっぱなしなんだろ? 昨日の昼からだっけ。良く飽きないねえ。よっぽど好きなんだね」

「………………」

「まあそんなにミミズが好きなら、そうしてずっと見ててもいいとは思うけどさぁ。……僕は星空の方が好きだなあ」

 ラファエルはもう一度、空を見上げて見せた。横目でちらりと見るが、少年が動く様子はない。だが、彼の意識がこちらに向き始めている気はしていた。

 

 それからまたしばらく、そんな調子で話しかけてみた。多少は反応があったものの、それ以上の変化はなく、からかいのネタも尽きたので今度は片手を軽く振り上げた。

 こんな星空の下に似つかわしい道具を作り出そう。もしかしたら、彼の興味も引けるかも知れないし。

 辺りの気が手の平に集まりはじめる。地火風水、この世を生成する数多の者達。頭の中にイメージを浮かべると、彼らが集い、形を取り始める。天使の招きは彼らにとっても喜びだ。馳せ参じる者達への感謝を心の中で告げれば、容易に一本の楽器が現われた。

 アコースティックギター。地上に居た頃、昨年の誕生日に、父さんがくれた――

『若い頃に、僕が使っていた物だ。冬雪、お前にあげよう』

 テレビで再放送をしていた古い青春ドラマを気に入って、ギターを弾いてみたいと言ったら、物置から探しだしてくれたのだ。少し照れくさそうな顔でくれた、古いアコギ。

 ラファエルは手の中のギターを見つめる。冬雪が持っていたのと、瓜二つだ。 完成したギターの出来は良かったが、ラファエルは眉を寄せていた。

 ……違う。これは父さんがくれたギターじゃない。やっぱりあれは、世界にたったひとつの物。今は地上の冬雪の部屋に残るあれだけが、唯一無二の。

 ――同じであってはいけないのだ。

 少し考えた末に、ラファエルはギターの表面に指を滑らせる。天使の羽根をモチーフにした模様が、ギターの表に焼き付いた。もう少し模様が欲しい、いっそ馬鹿馬鹿しいくらいに可愛らしい模様はどうだろう。そう思ったら出てきたのは、えらくファンシーなハートマーク。やはりハートマークといったら、色は赤だろうか。

 ギターにデコレーションを施してみたら、次第にラファエルは楽しくなってきた。こんな模様、きっと夏海あたりが見たら、趣味が悪いと唇を尖らせるだろう。だが、今はこのくらい華やかな方が、気分が楽になりそうだ。

「――よし!」

 表も裏もデコラティブになったギターを見てラファエルは満足げに頷き、さっそくそれを膝の上に抱えた。

 最後にギターを弾いたのはいつだろう。あれは入院前のことだから、数ヶ月は経ってしまったのか。指はちゃんと動くだろうか。暇を見ては弾き続けて、ようやく様になってきたと思っていたところだった。お前は上達が早いって、父は少し悔しそうに笑った。

 まずは指慣らしも兼ねてスタンダード・チューニングを。低音弦から押さえて、音を出していく。

 それから運指代わりに、定番の禁じられた遊びなど鳴らしてみて、指の関節が自由に動くようになったところで、気分の赴くままにあれやこれやとかき鳴らした。

(……おかしな話だな)

 ラファエルは苦笑する。身体を無くしているのだから、指の動きなんて、意志ひとつでなんとでもなりそうなものなのに、最初はやはり腕のなまりを感じた。身体があった頃の記憶を引きずっているせいか。

 それもあるのだろうが、おそらく意志の力なのだ。なまっているのではないかという思いが、実際の指の動きを鈍らせる。 穴の底に佇む少年も同じだ。こんな自分は嫌いだという思いが、身体を重く沈ませる――

 

 視線を感じて、ラファエルはそっと穴の底を見た。少年がいつのまにか、不思議そうに、ギターをつま弾くラファエルを見上げていた。

 ラファエルはギターを弾く手をあえて止めず、少年に語りかける。

「こんばんは。やーっとこっちを見てくれたね」

「…………貴方は?」

 初めて聞いた彼の声は、変声は迎えているようだが、どこか幼い。声の出し方をようやく思い出したというように、しゃべり方は少し辿々しかった。

「僕はラファエル。君は?」

「……僕の名前は、もうご存知なのでしょう?」

 少年の口調には、ラファエルに対しての警戒心が滲んでいた。ラファエルは軽く肩をすくめる。

「でも自己紹介はしてくれなくちゃ。その方が仲良くなれる気がしないかい?」

 少年は苦い顔で俯いて、また前を睨んでしまった。どうやら彼は、心底自分に嫌気がさしているようだ。

「こっち向いて」

「…………」

「せっかく可愛い顔してるんだからぁ、ちゃあんと顔を見せてくれないと。じゃないと僕が楽しくないだろ?」

「なっ」

 絶句した少年が、ラファエルに顔を向けた。何かを言い返そうとしたようだが、言葉が出なかった様子だ。夜なのが残念だ。多分あの子は、真っ赤になっているのではないかと思うのだが。

 ラファエルは軽く声を立てて笑い、ギターを芝生の上に下ろした。そして笑みを押さえ、彼の耳に確実に入るように、はっきりと尋ねた。

「輪っか、落っことしたままでいいのかい?」

「…………」

「お祈りしてごらん、戻れって。そうしたら必ず、輪は君の頭上に戻る」

 だが、そう訊いた途端に、腰を下ろしていた地面が崩れた。

「!?」

 ラファエルは咄嗟にギターを手にして舞い上がる。どっと崩れる土塊が、穴の底に転がり落ちていく。地響きを立てて、穴が一気に深くなった。腰まで土に埋もれていた少年は、今は胸の深さまで沈んでいる。

 しまった、どうやら地雷を踏んでしまったらしい。

「……おーい、聞こえる?」

「…………はい」

 振り出しに戻ったかと恐る恐るかけた声に、一応返事が返ってきて、ほっとした。彼が掘った穴の縁に舞い降りて、ラファエルは底を覗き込む。また少し遠くなった彼に話しかけた。

「責めた訳じゃないんだ。さっき言ったのは本当のことだよ。……ま、でもしばらく、この話はやめておこうか」

 輪の話をしないという言葉に、安心したのかも知れない。少年は再びラファエルを見上げる。大きな黄水晶の瞳が、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。

「ああ、この羽根?」

 ラファエルは問われる前に、自分の左肩を指さす。さっきまでは、彼の位置からはラファエルの側面が見えていた筈だ。今飛び上がったことで、きっと初めて気付いたのだろう。

「むかぁしさ、戦争でちょっとねー」

「戦争って、魔界とのですか?」

「そうそう。今は平和だけど、前は色々あったから」

「あの……飛べるのですか?」

 遠慮がちな問いかけ。

「勿論。見ての通りさ」

 もう一度軽く飛翔してみせるラファエルを、彼は呆気にとられて眺めていた。実際、自由自在とはいかない部分もあるのだが、飛ぶことは出来る。

 彼の顔には、ラファエルに対しての興味が見て取れた。ラファエルは地に降り立つと、声に力を込めて、彼に問いかけた。

「――天使になりたいかい?」

 返事はない。戸惑いを隠せぬ瞳が、月明かりに揺れている。

「天使になりたいかい?」

 もう一度問うと、今度ははっきりと強い視線が、ラファエルを捉えた。

「なら、僕が君に天使のことを教えてあげる。天使学校で、手取り足取り、僕の知ることの全てを教えてあげる」

「貴方は……天使学校の先生?」

「そうだよ」

「僕は……僕は、天使に……なれますか?」

「なれるさ」

 ラファエルが言い切った途端、少年の顔が泣き出しそうにくしゃりと崩れた。だが、本当にそれは、幻のような一瞬の変化。彼はすぐ、元通りの無表情に戻ってしまう。だがラファエルは、その小さな変化を見逃さなかった。

 彼の写真を見たときに、精緻な宝石細工のようだと思った。きっとその裏には、作り物めいた容姿だという心があった。……今、その作り物に命が吹込まれるのを見た。

 ぽかんと開いた口から、ひとりでに呟きが漏れる。

「……かわい」

「え?」

 少年は不思議そうにラファエルを見上げる。

「何でもないよ」

 ラファエルは軽く手を振って、何とか緩んだ口元を引き締めた。

「でもね。試験をするよ」

「試験? 天使学校への入学試験ですか?」

 天使学校は、天使の魂を持つ者が通う場所。天使となるべくして生まれた者なら、誰でも入学することが出来るが、入学に際しては一応試験を行う。入学審査の為ではなく、その後、個々の学力や資質に応じた教育を施すための試験だ。

「それはもう終ってるだろう? 君は最高の成績でパスした。――そうじゃなくて、これから行う試験は、僕の生徒になる為の試験だ」

 少年はぎゅっと唇を噛む。そして力強く拳を握った。急に元気になって、声を張り上げる。

「頑張ります! 僕、絶対に試験に合格しますっ! どんな試験ですか!?」

 ラファエルは答える。

「登っておいで」

「え?」

 少年の目が、大きく見開かれた。

「そこから登ってくるんだ、自分の力で。そうしないと学校にも通えないだろう? 僕は穴の中で授業をするつもりはないよ」

 少年は拳を握ったまま、戸惑った顔をしている。

「でも……身体がとても重いんです」

「登れるよ。そう信じてごらん」

「何度も試しました! 登ろうとしたけど、でも登れないんです!」

 彼の声は悲痛だ。言葉の通り、きっと何度も這い上がろうとして、そして諦めた。自分自身を否定する心の声に、呑み込まれていったのだ。

 

 ……例えば光輪を落とし、地中に沈み込んでも、泣いて心の重荷を溶かし、身体を軽くする者もいる。他愛のないことで笑わされて、いつの間にか穴から抜け出していた者もいる。

 でもこの子は多分、そのどれもが出来ないのだ。

 泣くことも笑うことも、自分に許さない。――だからこそ、その自己嫌悪はどこまでも根深い。身動きすら許さなくなるほどに、自分自身を追いつめる。

 人の言葉に耳を貸せないのも、励ましの言葉を受け入れる素地が無いからだろう。

 ならば今は、自分の足で這い上がるしかない。結局そうでなければ、自分自身が納得出来ない。多分そういう性格なのだ。

 彼の瞳は不安そうに揺らいでいる。ラファエルの言葉を信じたいという思いと、信じられないという思いの拮抗が、大きな目から溢れていた。

 ラファエルは一言一句が間違いなく彼の耳に届くように、力を込めて告げる。

「僕は手出しが出来ない。天使になる者は天使になる為の手段として、天使の力を借りてはならないという決まりがあるからね。……だから君は自分の力で、そこから這い上がって来なきゃいけない」

 この羽根で彼の元まで飛び、奇跡の力で土の中から出してやるのは容易だ。だがそれは、彼の為にはならない。

 ラファエルは噛んで含めるように、ゆっくりと彼に語りかける。

「絶対に登れる。――僕を信じて」

 いつの間にか、穴の底に向かって手を差し伸べている自分が居た。

 手を出したところで、自分は彼の手を取ることは出来ない。夏海の手を握れなかったように。頬に流れる涙を拭ってやれなかったように。この身体は不自由で、触れることで誰かを助けることは、二度と無い。

 ……分かっていたが、差し伸べずにはいられなかった。

 少年は真剣な面差しで、ラファエルと、ラファエルが差し出した手を見ていた。そして長い長い迷いの末に、綺麗な形の唇を、きゅっと強く噛みしめた。

 その繊手が土塊にかかるのを、ラファエルは息を詰めて見守っていた。仕草は重たげだったが、確かに彼は、自らの意志で登りはじめたのだ。

 

 少年は、少しずつ確実に登っている。

 ――そうだ、大丈夫。きっとやれる。

 声をかけたくなったが、あえて無言を通した。ラファエルが言うまでもなく、彼自身が胸の内で、自分に言い聞かせているのが、聞こえる気がしたから。

 自らが掘った穴は深く、地表は遠い。ましてや彼は今、本調子の身体ではない。白い指先が土にまみれ血が滲む様を、手を差し伸べたまま、ただ見詰め続けた。目を逸らさぬことだけが、自分が出来ることだと感じていた。

 時折少年の足が滑る。小さな小さな悲鳴と、転がり落ちていく身体。

 だが彼はすぐにラファエルを見上げると、やはり唇を噛んで、再び這い上がるために腕を伸ばした。

 いつの間にか気持ちが同化していた。自分自身が、もがき苦しみ、足掻いているような気がしていた。指先が土を抉る痛みと、滑り落ちて擦り傷や打撲だらけになる痛みまで、我が身に感じている気がした。

 ――そうだ、自分は確かに、その痛みを知っている。ついこの間まで身近にあったものだから。

 天界に数多居る天使達の中で、自分はきっと、一番彼に近いのだ――

 登ってくるまでの、長い長い間。差し伸べ続けた手と、少年との距離が、少しずつ少しずつ縮まっていた。登るにつれ、彼の動きが僅かながらに軽くなっているように見えた。

 身を乗り出していた。少しでも近くにと思う心がそうさせていた。……もうすぐで手が届く。触れたくても触れられない手だけれど、もう少しで。

 ――だが。

「あ……っ!」

 二人同時に声を上げていた。少年の手元の土が割れて、崩れたのだ。もう少しだという気のゆるみが、少年のバランスを崩した。滑り落ちるのではなく、落下する姿勢で、少年の身体が仰け反る。

「ミカエルッ!」

 救いを求めるように伸ばされた少年の手と、ラファエルの手が重なる。――そしてしっかりと握りあわされた。

 

 ――え?

 

 目を見開く。……確かに触れている。自分の手が、彼の小さな手を握りしめている。

 華奢な少年の身体が地上に現われ、ラファエルの手をよすがにしながらも這い上がるのを、ラファエルは確かに見た。

 

 どうして? 触れられる筈が無い。自分にはもう、身体は無いのだ。肉体を持つ者達とは少し違う次元に属した存在。血潮のうねるような肌のぬくもりは、遠くに行ってしまった筈なのだ。

 無意識のうちに、奇跡の力を使ってしまったのか?

 ――いや、違う。

 上がってきた少年を、いつの間にか抱き寄せていた。自分は何もしていない。力の消耗を感じない。それなのにこの手の平は、湿気を吸って重たくなったローブと、その下に泳ぐ小さな身体の感触を得ている。華奢な作りの肩や背中を、確かに感じている。

 何故? この子の力なのか。それとも、あの瞬間、触れ合いたいと願った互いの意志の力か。

 ――まだこの手に触れられるものが残っていただなんて。

 ラファエルがあまりぺたぺたと触るものだから、少年はすっかり戸惑っているようだ。

「あのう……」

「あ……ああ、ごめん。ちょっと驚いたから。ねえ君、どうして――」

「あの、ありがとうございました。でも、手を引っ張っていただいたのは、力を借りたことになるんじゃ……?」

 心配で仕方がなかったのだろう。ラファエルの言葉を遮るように、彼は不安そうな顔で言った。

「……いや、それは大丈夫。このくらいならどうってことないよ」

 ラファエルは拍子抜けして答える。奇跡の力を使った訳でもなさそうだし、ラファエルの手を掴んだにせよ、彼は最後まで、あの長い坂を自力で這い上がったのだ。……大体、天使の持つ奇跡よりも、もっと大きな奇跡が、今、ここにあるというのに。

「良かった」

 少年はほっとした様子で、肩の力を抜いている。どうやら彼は、驚くべき事が起こったことに、まるで気付いていないようだ。

「ねえ、君。君は普段から天使に触れるの?」

「え? ……いいえ、そんなことは。そう言えば触れますね」

 やっと気付いた様子で、不思議そうにラファエルを見ている。だが、ラファエルが感じているほどの驚きは、彼の中には無いようだ。

 ラファエルの両手は、今もしっかりと彼の両腕を握りしめていた。一度離したら、二度と触れなくなるのではないかと、少し不安になる。だから片手だけをそっと離して、彼の頬に当ててみた。

 ……間違いない。ちゃんと触れる。確かに上気した肌の温かさと弾力を感じている。

 指先が無意識のうちに、目元をなぞっていた。ありもしない涙を拭うように。

 少年は少し恥ずかしそうに、そして困惑した様子で身を縮こまらせている。……離れがたいが、あまりベタベタ触ってもいけないだろう。そっと解放してやって立ち上がると、彼はようやく落ち着いた様子で、ラファエルを見上げた。

「あの。僕、本当に天使学校に入れるのですか? 輪っかが落ちていても?」

「勿論。僕にちゃんと辞令が下りてるんだから、間違いないよ」

 少年は力を込めて拳を握る。もうすっかり、身体の重さは忘れてしまったようだった。

「良かった……。なら、絶対に僕は天使になります。ちゃんと勉強して、なってみせます!」

「まあ、そう力まないでいいからさ。ゆっくりやっていこう」

「はいっ!」

 意気込んでラファエルを見上げる姿が愛らしい。軽く笑って、彼の頭を撫でた。

 土ですっかり汚れてしまった髪の毛が、ごわついてしまっている。そんな感触ですら、手の平に優しかった。こうして撫でてあげられることが嬉しい。

「ああ、そうだ」

 ラファエルは軽く羽ばたいて、さっきまで彼が居たクレーターに降り立つ。土に半ば以上埋まって頭だけをちょこんと覗かせていた光輪を手にして、もう一度彼の元に戻った。

 少年は不安そうな面持ちでラファエルを見ている。その目は自分の光輪を見ようとはしなかった。

 また沈み込まれてはことだから、ラファエルは小さな輪を、ポケットにしまい込む。

「これはしばらく僕が預かる。君の気持ちが落ち着いたら、返してあげるよ」

「は、はい。ありがとうございます」

 少年はあからさまにほっとした様子だ。

 しかし一体何を思って、輪を落としたのだろう。自己嫌悪なのは分かるが、そこに至るまでの経緯が分からない。長い目で見ながら、少しずつ、そのあたりを確かめて行かなければ。

「あ、そうだ。えっと……」

 少年は急に生真面目に顔を引き締めて、直立不動できっぱりと言った。

「僕、ミカエルといいます」

 どうやらさっきラファエルが言った、自己紹介をしてくれというのを、実戦しているようだ。なんて素直な子なんだろうか。笑いがこみ上げてきて、ラファエルは口に手を当てて吹きだしてしまった。

「うん、知ってるけどね〜」

「……自己紹介しろとおっしゃったじゃないですか」

 ミカエルは馬鹿にされたとでも思ったのか、不満そうな顔をしている。

「分かってる。君は偉いね」

 もう一度撫でると、やっぱり少し困惑した顔をしたが、ぺこりと頭を下げた。

「よろしくご指導願います」

 夜が明けかけていた。藍色の夜空が少しずつ淡く色を変え、天界特有の、虹色の空が広がりはじめている。明るいところで見るミカエルの瞳は、写真で見たのと同じシトリンの色をしていたが、全身が汚れきっている分、綺麗な作り物ではなくて、ひとりの可愛らしい子供に見えた。

 

 気が付けば、近くの空に、幾人かの天使が舞っていた。白い羽根と白いローブが、美しい明け方の空に映えている。ラファエルの言葉通り、ミカエルが上がってくるまで、様子を見ていたのだろう。

 ラファエルはミカエルの肩に手を置くと、そちらに向かって、堂々と声を張り上げた。

「辞令を受けるよ。この子は僕の生徒だ!」

 ラファエルの手の下で、十三歳にしては小さな肩が、ぴくりと揺れる。視線を下ろして微笑むと、ラファエルを見上げていた小さな子供は、少し気恥ずかしそうに俯いてしまった。

「さあて。まずはお風呂にでも行こうかー」

 ラファエルの言葉に、ミカエルも素直に頷く。

「そうですね。汚れちゃいましたし」

「僕が連れてってあげるよ」

「えっ!?」

 目を丸くしたミカエルが返事をする前に、問答無用で、小さな身体を抱き上げた。

「あ、あのっ、ひとりで歩けます! 下ろしてくださいっ!」

「駄目だよ。大人しくしてて」

 ミカエルが暴れ出す前に、空に舞い上がる。腕の中でもがく小さな人の温かさや、重みが愛しい。

 ラファエルの片方だけの羽根が、今の気持ちと同じように、伸びやかな弧を描いて羽ばたいた。

 

<END>

 

説明
二人の出会いから亀の如き歩みでじわじわとー。なラファミカ1話目。「あんなことやそんなこと」がシリーズ名です。
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あんなことやそんなこと。 BL 天なる ラファミカ 

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