翼 |
■翼1
『ノエルを護りなさい』
「のえる?」
ミカエルはシトリンの瞳を、傍らに立つ人に向けた。
――いや、それが本当に人なのかは分からない。幼い彼の目には、殆どが光の塊としか見えなかった。
目を灼くような光ではないから、見つめることは出来る。その中にうっすらと輪郭を作る影は人の形に似ているが、それはこの人が、自分と話をするために、分かりやすい姿を取っているからなのだと、教えられる前に理解していた。
『ノエルを護りなさい』
大いなる意志は、再び繰り返す。光の中の影が水盤を指さした。繊細なレリーフの施された巨大な水盤は、ぬめるような光を帯びた白い石で出来ている。石にはよく見れば淡い桃色の斑が浮いていて、大理石に似ていた。平たく円いその器は、大人が両手を広げたよりもまだ大きい。清浄な水がたたえられていて、その表面を波打たせながら、どこか遠くの風景を映し出していた。
自分と同じ年頃の幼女の姿がある。
――彼女がノエル。なんて愛らしい。
緩いウェーブを描いて跳ねる金色の髪は太陽の色。瞳は澄んだブルー。光の加減で、海を宿したようなエメラルドグリーンにも見える。自分とはちょうど、瞳と髪の色合いが逆になっているのだと気付くと、なんだか少し嬉しくなった。頭上には彼と同じ、小さな光輪をいただいている。
無邪気に笑い転げる姿。ミカエルは一目で、彼女のことを好きになった。
『あれはお前にとって大切な存在』
ミカエルはその声が、耳から聞こえているのではないことに気付いた。直接心の中に響いてくるのだ。
少女が楽しそうに笑っている。水盤から声が聞こえた。
「あら、ノエルちゃん、どこを見ているの?」
ノエルがいつの間にか、こちらを見ている。――いや、実際に見えているわけではないだろう。だが彼女は水盤のこちらに立っているミカエルを見上げるように、大きく目を瞬かせ、くしゃりと笑み崩れた。何かを掴もうとするように、小さな手をこちらへ伸ばし、開いたり閉じたりしている。
唇が漏らすのは、意味のない音の羅列。彼女は自分と違って、まだ話すことも出来ないのだ。
か弱くて小さな存在。柔らかそうな、明るい何か。
「ノエルちゃーん。そっちには何もないわよ?」
「虫でも見てるんじゃないの?」
「きっとお化けがいるんだぜ」
「非科学的だよ。ありえないね」
「非科学的とな。魔族の言う事じゃないのう」
「きっとパパを見ているのでごじゃるよ。なあノエルちゃん」
彼女の周囲には、種族もまちまちな魔族達が居る。鬼の巨漢が、まるで宝物のようにノエルを抱き上げ、頬ずりしていた。
きゅんと胸が痛んだ。
――いいな。いいな。
胸の奥底の深い場所で、ミカエルが呟いている。ミカエル自身も気付かないほどに小さな声だ。
よく分からないけれど、あそこは温かそうで、明るそうで、こことはまるで違っている。
『ノエルを護り導き、ノエルから学びなさい』
隣に居た人はそう言い置いて、いつの間にか、姿を消していた。暗い部屋の水盤の傍で、ミカエルは映像が消えてしまうまでずっと、水面に映る楽しげな家族に見とれていた。
「ノエルを護りなさい」
また別の者が言った。
彼は二枚の白い翼を持っていた。美しい金の巻き毛、頭に頂く光の輪。ミカエルが住むこの場所に、一番多く居る者達だ。優雅で美しいが、誰も彼もがとてもよく似ている。穏やかで気品に満ち、いつも微笑みを浮かべている。
彼らは天使、この天界を表わす者達。
「成長が遅いようですね。このノエルという断片は」
水盤の間は、今日は天使達が笑いさざめく場と化している。ミカエルはその中央で、所在なく立っていた。
水盤からは、ノエルの無邪気な笑い声が聞こえてくる。
「確かに。純粋で愛らしいが、何も出来ない。いつまでも赤子のようだね」
「純真ではあるようだが、知性には欠ける」
「その分はきっと、このミカエルが補うよ。彼は賢いからね」
「なるほど。確かにね」
――胸がムカムカする。
ミカエルはさっきから、正体不明の気分の悪さを、ローブを握りしめることで耐えていた。
彼らに向かって何かを喚きたい。特に、ノエルのことを話しているときの彼らには、掴みかかって殴ってやりたい気がしていた。
だけど、こんな考え方は間違えているのだ。だってそんな乱暴な事をする者は、ここにはひとりもいない。水盤から覗くノエルの「家族」達は、時にそんなふうに争っているけれど、あれはとても野蛮なことなのだと、ミカエルは教わっている。だから、ミカエルが今抱えている気持ちは、間違っていて、野蛮なことなのだ。
――大体、掴みかかろうにも、天使達に実体はない。
「彼女ひとりでは、天使にはなれまいね。無垢ではあっても、何を為すこともない」
「ではミカエルひとりではどうだい?」
「彼にはノエルの持つものが足りない。やはり割れたせいだろうね」
「もうひとりの存在は?」
「さて。だがノエルとミカエルが上手く融合を果たせば、如何なる性質を持っていようと、彼らに呑み込まれていくだろう」
「善なる者がふたりだ。例え残りひとりに多少の歪みが生じていても、問題はない」
「ああ、なるほどね。数に勝る方が残るということかい? ならばなおさら、『ノエル』の善性と無垢は重要という訳だ。最後のひとりの歪みを消す為にも」
納得のいった顔をした天使が、彼らの群れから離れ、ミカエルの元へふわりと舞い降りる。ローブをぎゅっと握ったまま、険しい顔をしたミカエルに、清らかな声で告げた。
「ノエルを護りなさい。あれは君に必要な者だ」
またある者は言った。
「ノエルを護り導きなさい」
神殿の図書室で、ミカエルは本に目を落としていた。とにかく少しでも多く学んで、知識をこの身に入れるのだ。ノエルが学べぬ分、せめて自分が。
少し離れたところから聞こえてくる会話を、そうして本に目を落とすことで、聞こえぬふりをする。
「ふむ、あれが『ミカエル』か」
「私は先の戦いで、熾天使ミカエルの軍に居た。ミカエル様はもっと光り輝く強い存在だったよ」
「あの方と同じではないさ」
「だが『ミカエル』の名を持つ者だ」
「仕方がない、今はまだ欠片なのだから」
「いずれひとつに戻れば、補い合うということだな」
「魔界にいる『ノエル』とやらが、光の部分を持つそうだ」
「なるほど。いずれは、あの光が天上に増えるということか」
天軍に所属するらしきその猛々しい天使は、翼の音を大きく立て、まっすぐにミカエルの前に舞い降りた。
そして力強い声で告げる。
「ノエルを護り導きなさい」
融合を果たし、『天使ミカエル』となりなさい。
「早く元の姿に戻れると良いね、ミカエル」
「はい、天使様」
「君が早く一人前の天使となれるように、僕も主に祈りを捧げよう」
「ありがとうございます、天使様」
ミカエルは無邪気な天使達と別れ、本を抱え黙々と歩く。その面は険しく暗かった。
――祈りを捧げて、何になるのだろう。何の役に立つと?
祈りを捧げれば、ノエルを護り導けるのか?
何も知らないノエル。何も考えないノエル。純真で素直な光の存在。必要不可欠の者。
いつか来るその日の為にも、自分は学ばなければならないのだ。彼女に足りぬ物を補えるよう、彼女を導けるよう。考えるのは自分の役目。彼女は光で無垢なのだから。
祈りには意味がない。祈っていても、自分の知識は増えないじゃないか。
ミカエルは真っ直ぐに前を見て、白で覆われた神殿の廊下を突き進む。
とにかく早く天使になるのだ。誰が見てもそれと分かる、翼ある者に。本来の姿に。そうすればもう、誰も、誰も、自分たちにあんな事は言わない。
――天使にならなきゃ。早く天使にならなきゃ。その為にも、ノエルを護らなきゃ。
自分ひとりだけじゃ、どうしようもないのだから。
そのまま神殿の前庭を突っ切って、図書室へ行こうとしてたミカエルの足下に、金色の何かが落ちた。ミカエルは何気なく目を下ろす。
それがなんなのか、瞬時には理解できなかった。そしてやっと理解した途端、喉の奥から、声にならない悲鳴が漏れた。
天使学校への入学が決まって、あとは入学式を待つばかりの、十三歳の夏のことだった。
■翼2
「ほら、おいで!」
父親が子供を呼ぶ。笑いながら駆け寄る子供の頭上には、小さな光輪。辿々しく走る少年を背後から見守る母親にも、まろぶように腕の中に入り込んだ子供を抱く父親の頭上にも、光の輪は見られない。
「よーし、転ばなかったな、偉いぞ!」
父親は少年を抱き上げると、笑いながら頬にキスをする。
天上の世界での、一般的な家族の姿。ミカエルは公園の木立の影から、そっとそんな光景を見ていた。
――どうして自分はひとりなのか。その疑問を初めて抱いたのは、いくつの時だっただろう。
天上は基本的には天使の世界だ。天主に仕え、地上の人々に尽くすために存在している天使達。彼らは身体を持たないが、羽化の前には実体を持つ。魂から肉体を得たばかりの幼い天使を育てる為に、身体を与えられ、天界での生を許された人間達が、少数ながら存在していた。それが天界人だ。
彼らは概ね、清く生きて天に召された地上の人間。コウノトリに預けられた天使の魂を孵化させ、彼らが天使となるその日まで、我が子として大切に育てる。
――どうして僕はひとりなんだろう。
ミカエルは木立の陰、暗い場所から、仲むつまじい家族を見て眉を寄せた。
どうして自分がひとりなのか。本当はちゃんと分かっている。
コウノトリにアクシデントがあって、ミカエルの魂は分裂してしまった。創世神自らが拾い上げ、その手の平で孵化したミカエルに、親はいないというそれだけのことだ。
創世神がミカエルの親だと神殿の天使達は教えてくれたが、親というものは、あそこにいる家族達のような、常に共にある者のことを言うのだろう。魔界にいるノエルの「家族」達のように。
自分にはそんなもの、存在しない。
――いいんだ。
ミカエルは本をぎゅっと抱いて、踵を返した。
――あんなの、偽物なんだから。
偽物で、紛い物で、作り物。ちゃんと本で読んだから知っているのだ。
本当の家族は、人間の世界にあるものだ。手の平の上ではなく、胎内で子供を作り、増えていくものなのだ。昔々、何の理由があってか、創世神が『家族』の仕組みだけを天界に取り入れた。
だから天界で言う『家族』は、システムを機能させるために作られたもの。ミカエルの世話は、親切な天使達が、代わる代わる焼いてくれる。人の手を借りるまでもなく、奇跡の力を使えば、子どもひとりの世話など大した手間ではないのだから。
『家族』なんて、無くても同じ。自分にはいらないもの――
……でもじゃあ、どうしてこんなに、気持ちがすかすかするのだろう。身体のどこかに穴が空いていて、空気が漏れているみたいだ。
ミカエルの小さな足が、朝露につやつやと濡れた草原の上で止まった。
靴紐が解けている。ミカエルは溜息を落としてしゃがみ込み、紐を結ぼうとした。
だが、上手く行かない。ミカエルの小さな手は不器用にしか動いてくれず、靴紐は歪んだ形になる。
気に入らない。ミカエルは唇を曲げて、紐を解いた。そして丁寧に結び直す。だがどうやっても綺麗な形に結べない。
どうしてもどうしても気に入らなくて、ミカエルは重たい本を膝の上に置き、身を屈めた窮屈な姿勢のまま、何度も紐を結び直した。
「坊や、どうしたんだい?」
背後から声をかけられて、ぴくりと肩を揺する。いつの間にか噛みしめていた唇が、痛くなってきた頃だった。
「靴紐が結べないの? 私がやってあげましょうか」
姿を見なくても、さっきの親子連れだと分かった。近付いてくる足音。多分母親のものだろう。優しげな明るい声。きっととても善良な人なのだ。天使の育て親として選ばれるに相応しい――
だがミカエルは、背後の足音が自分の前に回り込むより早く立ち上がった。
「いえ、結構です。ちゃんと出来ましたから」
素早く頭を下げると、そのまま駆けだした。
――嘘だ。靴紐はまだきちんと結べてはいなかった。走っている間に簡単に解けてしまって、足の下で絡まり、踏んでしまった。
「……っ!」
無様に転んだ姿を、あの親子連れは見ただろうか。ミカエルは歯を食いしばって、すぐに立ち上がる。
――天使にならなきゃ。
気持ちがすかすかするのは、きっと魂が欠けているせいだ。自分だけが天界の仕組みに入ることが出来なかったのも……そう、親がいないのも、あの馬鹿な鷲のせいなのだ。
ひとつに戻ってしまえば、きっとこんな気持ちは無くなる。ノエルも未だ見ぬもうひとりも、きっときっと、同じ気持ちを、同じ望みを抱えているはず。
頑張らなきゃ。絶対に頑張って、天使にならなきゃ。
◇◇◇
「自己嫌悪の海に沈み込むのは楽しいかい?」
突然耳に飛び込んできた手厳しい声は、風を紡いで音にしたような響きで、ミカエルの心に響いた。
声の主が言っていることを、理解出来た訳ではなかった。言葉はただ音として吹込まれただけで、意味はなさなかった。
だがそれでも、唯一聞こえた声だったのだ。今まで誰のどんな優しい言葉にも、どんな叱責にも、少しも心揺るがされなかったのに。
「登っておいで」
柔らかなのに強い声。
「登っておいで。僕は君が登ってくるまで、ここで待っている」
――待っている。
ミカエルの心の中に、再び小さな風が起こった。いつものすかすかとした、身体の穴を吹き抜けていく虚しい風ではなくて……夏の暑い日に、そっと首筋を撫でていく涼風のような。
その人の声は、少しずつミカエルの心を波立たせた。
時に怒らされたり、呆れさせられたり。ミカエルの心の上を、悪戯するみたいになぞっていく。
少しも優しくはない言葉。からかうようなことばかりを言う。それなのに、不思議と不快ではなかった。いつの間にか、話しかけられることを待ちわびていた。
声が途切れてしまって、漠然と寂しさを感じはじめた頃。代わりに聞こえてきた楽器の音色は、その人の声とよく似て、澄んだ響きをしていた。
――何の音?
ようやく意識が明確になってきていた。ミカエルはそっと顔をあげる。
ミカエルの意識が途切れたときには、まだ辺りは明るかった。あれから一体、何時間が過ぎたのだろう。いつの間にか空は夜の色に変わっていて、星が大きく瞬いていた。
確かに綺麗な空だなと思って、おかしな気分がした。
さっきまではずっと、悪い夢の中に居たような心地。誰かに話しかけられていたことはぼんやりと覚えているが、何を言われたのかまでは思い出せない。でも、空が綺麗だと言われた気はしていた。
視線を僅かに下ろすと、穴の縁に腰掛けて、ギターを弾いている天使がいる。
不思議な天使だ。姿が夜の闇に溶け込んでいる。黒衣を纏っているせいだ。彼の姿は、夜空に黒く沈む庭園の風景に馴染んで、一枚の絵に見える。真っ白な羽根ばかりが、月の光を浴びてほのかな光を帯びていた。
ミカエルの視線に気付いたのか、黒衣の天使がこちらを向いた。そして呆気ないくらいの明るい声で、ミカエルに話しかける。
「こんばんは。やーっとこっちを見てくれたね」
――この声。意識がぼんやりとしていた間に聞いた声だ。まるで風のように涼しげで、時には少し皮肉に、時には力強く呼びかけてきた。
「…………貴方は?」
「僕はラファエル。君は?」
「……僕の名前は、もうご存知なのでしょう?」
割れた魂の欠片。ミカエルの存在は、一頃その物珍しさから、天界の話題になったらしいし……それに、とうとう光輪を落としてしまった。噂になっていない訳がない。大体、ラファエルを名乗るこの天使が穴の縁にいるのは、ミカエルが光輪を落としたことを知っているからだろう。
ラファエルは軽い笑い声をあげる。
「でも自己紹介はしてくれなくちゃ。その方が仲良くなれる気がしないかい?」
仲良くなってどうすると?
少しも意味を見出せなくて、ミカエルは唇を噛んで俯く。
「こっち向いて」
「…………」
返すべき言葉が見あたらなくて黙っていたら、ラファエルはからかうように声の調子を上げた。
「せっかく可愛い顔してるんだからぁ、ちゃあんと顔を見せてくれないと。じゃないと僕が楽しくないだろ?」
「なっ」
何を言っているのだ、この天使様は。
思わず顔を上げたミカエルを見て、ラファエルは実に楽しげに笑った。毒気を抜かれて、ミカエルは肩を落とす。
こんな天使、見たことがない。見た目も奇矯だが、言動はもっと変だ。普通の天使様は、こんなふうに人のことをからかったり、意地悪を言ったりはしないものだ。
どんな顔をしているのだろう?
ミカエルは上に居るその人を、まじまじと見た。逆光になっているし、遠いから顔がよく見えない。天使は綺麗な顔をしているのが普通だけれど、この人もそうなのだろうか。
ラファエルはギターを芝生の上に下ろし、今度は真っ直ぐに吹き付けてくる強い風のような声で言った。
「輪っか、落っことしたままでいいのかい?」
――視界の端に、自分が落とした光輪があることに、本当は気付いていた。
庭を歩いていたら、何故か突然、光輪が落ちた。怯えと驚きで震えながら、それでも拾い上げようとした途端、今度は身体が土に沈んだ。穴はどんどん深く広がって、這い上がろうとしても、身体が重くて――
焦りと恐怖。ミカエルに話しかけ、助言を与えてくれようとした天使達の声も、まともに耳には入ってこなかった。
まるで腕か足がもげて落ちたような気分だった。さっきまで肉体の一部だったものが取れてしまう恐怖は、経験した者にしか分かるまい。思い出すと、全身が震えた。
「お祈りしてごらん、戻れって。そうしたら必ず、輪は君の頭上に戻る」
――輪っかは怖い。
もう、あんな思いはしたくない。大体、誰に祈れと?
そう思った途端、小さな地響きが聞こえた。身体がまたずんと重くなる。あっと思ったときには、胸の辺りまで土に埋もれていた。
ころころと小石が転がり落ちてきて、土砂の崩落がようやく静まった頃に、そっと声を掛けられた。
「……おーい、聞こえる?」
「…………はい」
「責めた訳じゃないんだ。さっき言ったのは本当のことだよ。……ま、でもしばらくは、この話はやめておこうか」
輪っかの話はしたくないけれど、この天使が話しかけてくれるのは嫌じゃない。そっと顔を上げて、それから目を瞬かせた。ラファエルは穴の縁に立って、真っ直ぐにこちらを覗き込んでいる。ミカエルは彼の姿のアンバランスさに、ようやく気付いた。
「ああ、この羽根?」
ラファエルは気軽な仕草で自分の左肩を指さす。そこにあるべき羽根は無かった。
「むかぁしさ、戦争でちょっとねー」
「戦争って、魔界とのですか?」
「そうそう。今は平和だけど、前は色々あったから」
「……あの……飛べるのですか?」
失礼だろうかと思ったが、恐る恐る訊いてみる。ラファエルは何でもないことのように答えてくれた。
「勿論。見ての通りさ」
軽く空に舞い上がる。空を見上げて飛ぶ仕草と、すんなりとした顎のラインが作る影。片方だけの羽根が、月光を弾いて、とても綺麗だった。この天使は片方の羽根を落としているのに、こんなに身軽に飛ぶのだ。
ラファエルは地上に舞い降りると、力強い声でミカエルに問うてきた。
「――天使になりたいかい?」
「…………」
「天使になりたいかい?」
――なりたい。その為に今まで頑張ってきたのだ。天使になって、誰にも馬鹿にされない存在になりたくて。
声には出さなかったのに、片翼の天使は、ミカエルの気持ちを汲み上げてくれた。
「なら、僕が君に天使のことを教えてあげる。天使学校で、手取り足取り、僕の知ることの全てを教えてあげる」
「貴方は……天使学校の先生?」
「そうだよ」
「僕は……僕は、天使に……なれますか?」
なれますか? こんなに半端な存在でも。
もう自分には光輪もない。ノエルのように素直な光も持たない。ひとりだけでは、どうやっても天使にはなれない天使の欠片。そんな僕でも、『何か』になることは出来ますか。
夜空を背景に、ほのかに光る片翼を持つ天使は、力強く答えた。
「なれるさ」
多分、この瞬間に、心は決まっていたのだ。
試験をクリアしなければ生徒にはしないと言われても、迷いはなかった。試験ならば、努力でパスできるという自信がある。今までだってそうしてきたのだ。その内容が、この穴から抜け出すことだと言われたときには無理だと思いかけもしたが、真剣な顔で言われて、気持ちが動いた。
「絶対に登れる。――僕を信じて」
ラファエルは身を乗り出して、ミカエルに手を差し伸べている。……こんなことをされたのは、初めてだった。
あの手を取ったら、天使になれるのだろうか。何かを変えることが出来るのだろうか?
あの手のところまで頑張ったら、この息の詰まるような世界から抜け出すことが出来るのだろうか……?
あの人の元へ行きたい。 いつしか強くそう願っていた。
身体は思うように動かなかった。首を巡らす程度のことならば出来たが、手足を動かそうとすると、鉛を詰め込まれた袋を操っている気分になった。
幾度も斜面を滑り落ちた。傷だらけになって、その度に心がくじけそうになる。だが、頭上を仰いで、無言で手を差し伸べ続けるラファエルを見ると、再び這い上がるための力がわいてきた。
彼はなにも言わないのに、その全身から励まされているように思えた。
頑張れ。頑張れ、ミカエル。 そう繰り返されている気がした。
地表が近付くごとに、身体の重さを忘れていた。少しでも近くにと、それしか考えていなかった。だが。
「あ……っ!」
あと少し、というところで、手元の土が割れた。完全にバランスを崩して、上体が反り返る。落ちる――!
「ミカエルッ!」
咄嗟に手を伸ばしていた。ラファエルもまた。
指先が触れる。大きな手の平が、力強くミカエルの手を掴んだ。
――そこから地表に出るまでのことは、よく覚えていない。ただ必死に這い上がっていて、気が付いたら、ラファエルに抱きしめられていた。
ミカエルの息が止まる。
『よーし、転ばなかったな、偉いぞ!』
……誰かに抱きしめられるというのは、こんな気分になるものだったのか。直に触れた人肌は、生暖かくて妙な感じだ。全身を包み込まれてしまうと、むずむずして逃げ出したくなった。
だって落ち着かないのだ。泣きたくなるような喚きたくなるような、訳の分からない気持ち。こんなの今まで知らなかった。
でも逃げ出すと失礼だろう。相手は自分の先生になる人だし、多分これは、自分の頑張りを褒めてくれているのだろうし……ああ、でも、いいのだろうか。さっきラファエルは、天使になるために天使の力を借りてはいけないと言ったのに、手を借りて登ってしまった。そのせいで天使になれなかったらどうしよう?
「あのう……」
「あ……ああ、ごめん。ちょっと驚いたから。ねえ君、どうして――」
「あの、ありがとうございました。でも、手を引っ張っていただいたのは、力を借りたことになるんじゃ……?」
ラファエルは少しきょとんとした顔をして、あっさりと答えた。
「……いや、それは大丈夫。このくらいならどうってことないよ」
「良かった」
そう言ってもらえて、ようやくまともに息が吐けた。少し勢い込んだ様子で尋ねられる。
「ねえ、君。君は普段から天使に触れるの?」
「え? ……いいえ、そんなことは。そういえば触れますね」
ラファエルはひどく驚いている様子だが、そんなに驚くほどのことだろうか?
だってラファエルは手を差し伸べてくれたし、自分はその手を掴みたいと思った。天使は実体を持たないのだから、触れられないのが当たり前だと、理屈の上では分かっていたが、差し伸べてくれたからには掴めるものだと、自然とそう信じ込んでいたのだ。
今もラファエルは、ミカエルの腕をしっかりと握りしめている。ミカエルからすれば、こっちの方が困る。慣れていないのだ。
それどころかラファエルは、頬にそうっと触れてきて目元を撫でたりするから、くすぐったくなってしまった。
もじもじと身体を縮こまらせていたら、ようやく解放してもらえて、それでやっと落ち着いて、自分の教官になる人の顔を見ることが出来た。
端整な顔立ちに涼しげな目元、褐色の髪とアメジストのような紫の瞳。他の天使達のようにふわふわと柔らかな美しさではなく、天軍の天使達のような猛々しさでもない、独特の魅力。快活で明るい、印象の強い人だ。身に纏った黒い服と片方だけの羽根が、よりこの人を不思議に見せている気がする。
――なんだかどきどきする。本当にこんな人が、自分の先生になってくれるのだろうか?
「あの。僕、本当に天使学校に入れるのですか? 輪っかが落ちていても?」
「勿論。僕にちゃんと辞令が下りてるんだから、間違いないよ」
すぐさま返ってきた言葉は、力強くて迷いがない。だからミカエルは、本当に嬉しくなってしまった。
「良かった……。なら、絶対に僕は天使になります。ちゃんと勉強して、なってみせます!」
「まあ、そう力まないで。ゆっくりやっていこう」
ラファエルは何の気負いも感じさせない優しい笑みを浮かべて、頭を撫でてくれる。
……本当に困る。すっかり汚れてしまっているのだから、この人の手まで汚してしまう。
そんなふうに思っていたから、お風呂に行こうと言われたときにも気にしなかった。
ただ、抱き上げられるとは思わなかったし、そのまま空を飛ばれてしまうとも思っていなかった。初めて見る空からの風景に目を回してしまい、混乱の連続だ。
それに何より、そのまま一緒に風呂に入る羽目になるとは、思ってもみなかったのだ。
■翼3
「あのう……」
「なあに?」
「あのう。僕、ひとりで洗えます……」
さっきから楽しそうにミカエルの頭を掻き回している背後の人へ、そっと言ってみた。
「うん、分かってる。でも僕が洗ってあげたいだけー」
気安すぎるくらい気安い天使はそう言うと、どこからともなく取り出した器にお湯を汲んだ。これは『桶』とかいう物で、人間界の、アジアの一部で使われる入浴グッズ……らしい。さっきラファエルが作った物だ。大理石で作られた浴場に、檜で出来ているとかいう桶が似合わない。今座っている黄色い丸い椅子も、ミカエルが触れたことがない『プラスチック』とやらで、質感に馴染めなかった。
「じゃ、お湯かけるよー」
ミカエルは慌てて、さっき教わった通りに目をぎゅっとつぶり、息を止める。それと同時に、頭からお湯がざぶりと降り注いだ。
――よし、今度は上手く行った。
ミカエルは拳を握る。さっきは心構えが出来て無くて、鼻に水が入って苦しい思いをしてしまったのだ。
「次行くよー」
急に声をかけられて、慌てて息を詰めて目をつぶったが、一瞬遅かった。
「わっ」
むせかえるミカエルの背を叩きながら、ラファエルは楽しそうに笑っている。
「あはは、油断しちゃ駄目だよ。次、リンスね」
ミカエルは耳から両手を離しながら、ラファエルに訴えた。
「あのう……っ、僕本当にひとりで出来ますから!」
「だから知ってるって。僕がしたくてしてるだけー。それともミカエルは、僕に触られるの嫌?」
「嫌とか……そういう事じゃなくて……」
そんなことを聞かれると、困ってしまう。嫌かと問われると、そうではないのだ。ただ困ってしまうと言うだけで。
うんと小さな頃には、多分誰かにお風呂に入れてもらったこともあったのだろうが、ちっとも覚えていない。自分の裸を人に見られるのも、物心ついてからは初めてのことだ。
大体、こんなふうに構われること自体に慣れていない。ミカエルの周囲に居たのは天使ばかりで、彼らはミカエルの世話以外にも、それぞれに役目を持っていて、忙しかったから。
ラファエルはミカエルの困惑に気付いているのかいないのか、どこまでもお気楽な調子だ。
「嫌じゃないならいいじゃない」
「でも、困ります」
「どうして?」
「どうしてって……」
言葉が見つからなくて黙り込んでいたミカエルの手に、リンスのボトルが渡された。
「うーん、そっか。じゃ、ひとりでやってごらん」
……もしかして、怒ったのだろうか。せっかくの親切を断るような真似をして。
恐る恐る背後を見たが、ラファエルは頬杖をついてニコニコと笑っているだけだ。
「髪の毛につけて、ちょっと時間を置いて、それからすすぐんだ。分かった?」
「あ……はい」
教えられた通りにボトルの頭を押すと、添えた手の平にリンスが落ちて、花の香りがあたりに広がった。どうやらこれも、人間界にある物を模して作ったらしい。自分の教官は、人間の世界に造詣が深いようだ。
そもそも、風呂に一緒に入ることになったのだって、「人間界には裸の付き合いって言葉があってね。親しくなるには一緒にお風呂に入るのも大事なんだよー」なんて言葉に押し切られたせいだ。
人を導く天使が、人の風習を知るのは大切なことだと言われてしまうと、ミカエルに断れよう筈がない。
言われた通りにリンスをつけてしばらく置いた後に洗い流すと、ラファエルは優しい笑みを浮かべて、ミカエルの頭を撫でた。
「はい、良くできました」
……頭を洗ったくらいで褒められるなんて、まるでもっと小さな子供みたいだ。
「気持ちいいねー、ミカエル」
「はい」
二人揃って湯船につかる。隣に座ったラファエルは本当に気持ちが良さそうで、至って上機嫌だった。
――ほんとに、変な天使様。
ミカエルは口元までお湯につかって、こっそりとラファエルを見る。
指先や膝にあった擦り傷は、さっきラファエルが癒やしてくれた。天使の力を借りたことにはならないのかと不安になったが、そんなミカエルの気持ちを見透かしたように、ラファエルは大丈夫だと笑った。この天使が微笑むと、不思議とほっとさせられる。
どうやらラファエルは、癒しの力を得意としているらしい。彼が触れた場所はほんのりと温かくなって、ただそっと撫でただけで、傷は容易に消えてしまう。
――それなのに、どうしてこの人には、こんな傷があるのだろう?
ラファエルの身体には、背中から胸に回る大きな傷跡が残っていた。お湯で温められると、それが赤く色づいて、余計に目立つ。近くで見ると、本当にひどい傷だ。まるで羽根を掴んで、力ずくでもぎ取ったような。後ろから前に力一杯に引きちぎらないと、きっとこんな傷にはならない。
「あの……奇跡の力で治すことは出来ないのですか?」
そっと尋ねると、ラファエルは自分の肩に軽く触れた。
「ああ、これ? 無理みたい。無くした物は戻すことが出来ないって事なんだろうね」
「無くした……?」
「うん。羽根が残ってたら、くっつけることも出来たかも知れないけど、目の前で食べられちゃったからー」
「え……?」
ミカエルは息を呑む。ラファエルの口調はふざけているが、もし本当の話だったら、とても凄惨な出来事だったのではないだろうか?
「そんな顔しないで。もう痛くはないんだよ。手間はかかったけど、傷は塞がったし」
そうは言うが、心なしかラファエルの笑みは苦い。ラファエルはお湯の中で片膝を立てると、膝頭を台にして頬杖をついた。
「僕らはこの世界に身体が無いというだけで、どこかの空間に存在はしているんだろうね。相手が悪魔みたいな強いエネルギーを持つ生命体なら、空間を超えて接触できることがあるんだ。戦いの場では意志の力も強くなるものだし」
だからさ、と言い置いて、彼はミカエルを見る。
「だから、君は多分、とても意志の力が強いんだろう。こうして触れあえるんだから」
ラファエルの手が伸びてきて、ミカエルの頬にそっと触れる。さっきみたいに目元を撫でられて、何だかとても居心地が悪かった。
「あ、あの……あんまり触らないでください」
「どうして? 嫌?」
「嫌……とかじゃなくて。でも……」
何でこんなに、この天使様は自分に触りたがるのだろう。触れあえること自体が珍しいというのは分かるのだけど、何だか恥ずかしい。
ラファエルはミカエルをじっと見ていたが、まるでミカエルの心の声が聞こえていたかのように言った。
「だあって。嬉しいんだもの」
風呂を上がると、まずは部屋に戻って仮眠を取れと言われた。ちっとも眠くなくて気付いていなかったが、そういえば昨夜は、徹夜をしてしまったのだ。確かに少し寝た方がいいだろう。
お休みなさいと頭を下げたミカエルに、ラファエルは回廊の奥を指さす。
「ミカエルの部屋ってあっち?」
「は、はい。そうですけど、あの、僕ひとりで戻れます」
「なんだ、ばれちゃった」
ラファエルは笑いながら肩をすくめると、ミカエルの肩を軽く叩いた。
「じゃあお休み。また後でね」
後でね。
学校が始まるまでは間があるけれど、ラファエルはどうやら、学校以外の場でも、自分に会うつもりのようだ。何だか少し面はゆい。
ラファエルはミカエルに手を振って回廊から出ると、軽く羽ばたいて、どこかへ飛び去ってしまった。
――変なの。
僕の先生になるのは、とてもとても変な天使様だ。
真昼の空に羽根を翻す黒衣の天使を見送って、ミカエルは踵を返す。不思議と胸がわくわくしていた。
――天使学校に入れる。
天使になれるんだ。
眠るようにと言われたけれど、嬉しすぎて、少しも眠る気になれなかった。
◇◇◇
ミカエルと別れたラファエルは、再び水盤の間に戻っていた。
天地をあまねく見晴るかす水鏡は、ラファエルの存在に反応して、仄かな光を浮かべる。そしてすぐに、地上に住まう少女の姿を映しだした。
夏海はやはり暗い顔をして、アスファルトの上を歩いている。
(ごめん……)
ラファエルは水盤の縁に腰掛けて、悲しい顔をした少女に、心の中で話しかける。さっきまでの明るさが嘘のように、その面は沈み込んでいた。
――ごめん。君たちをこんなに悲しませてしまったのに、僕は今日、とてもはしゃいでいた。ほんの少しの間とは言え、君たちのことを忘れかけていた。
ひとりになった途端、浮かれていた自分を自覚した。それで気付いたのだ。 割り切って天上に戻ってきたつもりだったが、少しも割り切れてはいなかったことに。
無論、後悔をしている自覚くらいはあった。人として生きた間に覚えたぬくもりの優しさや温かさ、その大事さを惜しむ気持ちも自覚しているつもりだった。それらを失ってしまったことの哀しみと、地上に残る家族達から、『冬雪』を奪い、大きな苦しみを与えてしまったことへの痛みも――だが、それらは思っていたよりもずっと大きく、心を占めていたのだ。
暇つぶしだ、情報を仕入れるためだと自分に言い訳をしながら、ここに通い続けていたのも、きっとそのせい。
彼女たちの哀しみを想っているのか、自分自身の哀しみに囚われているだけなのか、自分でもよく分からない。天使に相応しくない、なんて得手勝手な考え方だろう。
……でも、辞令が下りてよかった。それがあの少年に関わる仕事で良かった。もしそうでなかったら、きっと自分は、いつかどこかでバランスを崩していた。
そう思うと同時に自嘲する。ほらまた、自分ひとりが慰めを得たことを喜んでいる。……勝手だ。
――気をつけないといけないな。
ラファエルは片膝を立てて頭を凭れ、瞼を閉じた。
ちゃんと自分で加減をしないと、あのミカエルという少年に嫌われてしまいそうだ。 失った全てを埋めてもらおうとするように、のめり込んでしまいそうな予感がする。
そんな執着を出会ったばかりの彼に押しつけるわけにはいかない。自分が手放してしまったものは、とてつもなく大きい。きっと彼には重荷にしかならないだろう。……気をつけないと。
そう思いながらも、気持ちの揺らぎは水面に現われていた。目を閉じたラファエルの横で、水盤に映っていた少女の姿が揺れ、別の者の姿が混ざりはじめていた。波紋の一筋毎、交互に人の姿が入れ替わる。縞模様のように複雑に入り交じった水面に映るもうひとりは、ベッドの上で嬉しそうに天井を見上げる、黄水晶の瞳を持つ少年の姿をしていた。
<終>
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続き物の2話目。ラファエルに会うまでのミカエルと、出会いのミカエル視点。 | ||
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あんなことやそんなこと。 BL 天なる ラファミカ | ||
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