St.バレンタインデーの憂鬱
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■St.バレンタインデーの憂鬱1

 

 

 冬休み直前の試験の結果で、ミカエルはオールAの判定を取った。無論、学校で最優秀の成績だ。

 冬雪が通っていた地上の学校と違って、百点満点のペーパーテストの結果じゃなく、論文も実技も、担当教官以外の試験官によるABC評価だ。全ての教科でA評価をはじき出した学生は、天使学校の長い歴史の中でも、そう多くはない。本人には勿論言わなかったが、光輪を持たぬ学生としては、天使学校初だろう。

 ご褒美にどこか好きなところに連れて行ってやると言ったのは、純粋に喜ばせてあげたかったのが半分、一緒に出かけられたら楽しそうだという下心が半分。

 だから。

「……神殿に行っても良いですか? 水盤の間に行きたいんです」

 おずおずとこう切り出された時には、拍子抜けした。

「神殿? あんなとこ、いつだって行けるだろ?」

「そういう訳にはいきません。本来は神聖なる場所なんですから、理由がなきゃ、天使以外は立ち入り出来ないんですよ」

 ミカエルは至って生真面目な顔で首を振っている。

「でもさあ、君はあそこで育ったんだし、家みたいなものでしょ」

「家じゃないです。確かに神殿のお世話になってましたけど、僕には本来、家なんて無いんですし」

 冬休みに寮に残る手続きをしたと聞いたとき、どうして神殿に戻らないのと尋ねたら、ミカエルは帰る理由がないと答えた。どういう意味かと重ねて問うと、学校に残って勉強したいのだと言い――あの時にも、何かを誤魔化していると感じてはいたのだが、そんなふうに思っていたのか。

「それじゃみんな寂しがるよ。ミカエルに会いたがってると思うんだけどなあ」

「…………」

 だがミカエルは、ラファエルから視線を逸らすと、俯いてしまった。どうやらこれは、案外根深い問題かも知れない。

 ラファエルはふと思い出していた。

 冬雪がまだ子供だった頃――あれは確か夏海が生まれて一年くらいだろうか。鈴原家が引っ越したことがある。

 鈴原の祖父が建てたそれまでの家は老朽化していて、学校に近い別の地所に建て直したのだ。両親は、これから成長する子供達のためにも、その方がいいだろうと言っていた。

 生まれてからずっと住んでいた家を離れた寂しさもあったように思うが、冬雪だった自分は、すぐに新しい家に慣れた。

 あれはきっと、家族が一緒に居たからだ。家という器よりも、鈴原家の人々が、冬雪にとっては「家」を示す場所だった。

 神殿詰めの天使は、辞令によって決まる。転任もするし、長く赴任している天使は、そう多くはない。ミカエルの世話を交代で見ていた天使達も、きっと入れ替わり立ち替わりだった筈だ。

 ……生まれたときから暮らしていた場所でも、神殿は、ミカエルにとっては「家」ではないということか。

 ラファエルは身を起こすと、ミカエルの頭に軽く手を乗せた。

「分かった。じゃあ、神殿に連れてってあげるよ。でもそれとは別に、今度僕ん家おいで」

 ミカエルは目を丸くして、おずおずとラファエルを見上げた。

「ラファエル様のお宅に……?」

「うん。それから二人で相談して、遊びに行く場所を決めよう。眺めのいい場所とか、楽しそうなとこ、探しておくからさ」

「楽しそうなとこ……」

「うん。そう言えば天界人の街の方に遊園地が出来てるっていうしぃ、お弁当持ってピクニックに行くのもいいよね〜」

 うきうきと答えるラファエルを見て、ミカエルは少しきょとんとした後、腰に手を当て、唇を尖らせた。

「ラファエル様、もしかしてご自分が遊びたいだけなんじゃないですか?」

「……へ?」

 今度はラファエルが、目をまん丸に見開く番だった。いや確かに、その指摘は、あながち間違ってはいない。何しろラファエルとしては、デートがしたい。

 ミカエルはきっぱりと首を振る。

「お宅にお招きいただけるのは嬉しいですが、それなら勉強を教えてください。僕は一日も早く天使にならなきゃいけないんですから、遊んでる暇なんかありません!」

「……イケズ」

 

 

 思い通りにはいかなかったが、ラファエルとしては、休みの一日を一緒に過ごせるというそれだけでも十分に幸せなのだから、取りあえずはお勉強会でもいいことにした。

 だがその前に、ミカエルたってのご希望の、神殿へのお散歩だ。

 冬休みに入って数日が経ったある日、ミカエルと待ち合わせをした。

 約束の時間に待ち合わせ場所の校門へ行ったら、ミカエルが既にきっちりと制服を着て、門柱に寄りかかっている。

「待った〜?」

「いいえ、今来たところです」

 返事を聞いて、ラファエルは盛大に吹き出してしまった。腹を抱えて笑い転げてしまう。

「ラファエル様?」

 ミカエルは不思議そうにしているが、なんて完璧なやりとりだろう。素晴らしい。デートはこうじゃなきゃ。

「あのう……僕、変なこと言いましたか?」

「ううん〜、変な事なんてなーんにも言ってないさ。待たせてごめん」

「いえですから、本当に来たばかりで……」

「分かってるけどぉ〜」

 笑いが止まらない。あんまり笑っていたら、ミカエルが目に見えて不安そうな顔をし始めたので、ラファエルは慌てて咳払いした。

「じゃ、行こうか」

「はい」

 だが「はい」と言ったまま、ミカエルはラファエルを見上げている。

 しばらく経って、お互いに首を傾げた。

「行かないんですか?」

「行かないのかい?」

 同時に同じことを言ってしまい、また首を傾げた。

「飛ばないんですか?」

「歩かないの?」

 ミカエルが唇を尖らせる。

「だってラファエル様がいつも、飛ぶって言い張るから」

「僕もミカエルは歩くって言い張るだろうと思ってたんだけど」

 言い返した後で、はたと気付いた。

 ……ということは、さっきの見上げてきたあれは、さあどうぞ抱き上げてくださいということだったのか。

 ミカエルは「そういうことなら」とごく当たり前の顔で頷いて、すたすたと歩き始める。

「じゃあ行きましょうか」

「ミカエルちょっとまって!」

 ラファエルはミカエルの肩をがっしりと掴むと、満面に笑みを浮かべた。

「やっぱり運んであげるから〜!」

「いえでも、今日は時間もありますし、お手を煩わせるのも……」

「歩くの面倒だしぃ、飛んだ方が早いしぃ。ね?」

「……はぁ、まあいいですけど」

 ミカエルは少しきょとんとしている。ラファエルはもう一度咳払いをして、身を屈めた。

「じゃ、ちょっと失礼」

 いつもよりも丁寧に抱き上げる。ミカエルも大分慣れた風に、ラファエルの方へ重心を傾けた。軽く肩に掛かった手が愛しい。

「じゃ、飛ぶよ。ちゃんと捕まっててね」

「はい」

 羽を広げると、気持ちまで大きく広がる気がした。舞い上がると、ミカエルの手に、きゅっと小さな力が入った。

 この間までは何も考えずやっていたことだったのに、気持ちを自覚したら、途端に少し照れくさくなった。

 膝裏に回した手に、いつもよりも力を入れてしまった気がする。黙ってこの重みを感じていたい気もしていたが、何か話をしないと、無意味に強く抱きしめてしまいそうな気がしたから、適当なことを言ってみた。

「少し重くなった?」

 ミカエルは辺りの景色に気を取られている様子で、上の空で答える。

「かもしれません。背が伸びましたから」

 それからふと気付いたようにラファエルを見て、首を傾げた。

「重いなら歩きますよ?」

「ぜーんぜん。ミカエルがもう二、三人いたって平気〜」

「またそんな馬鹿なことをおっしゃって」

 ミカエルは呆れ顔で答えた後に、ぽつりと付け加える。

「……まあ、居るようなものかもしれませんけど」

「どういう意味?」

「だって僕は、三つの魂のうちのひとつですから」

 ミカエルは淡々としている。

「でもぉ、それって別に、ミカエルが三人って訳じゃないじゃない。他の子は他の子、ミカエルはミカエルでしょ」

「……まあ、そうですけどね」

 ――触れられたくない事柄なのかもしれない。ミカエルの声から、そう感じた。

 特異な出自は、彼の心に複雑な影を落としている。他の誰もが持たぬ、彼だけの影。前からそれは感じていたが、ミカエルがこうして、僅かばかりと言えど口にするのは初めてかも知れない。

 言葉を重ねる変わりに、結局、抱きしめる腕に力を込めた。初めて会ったときより大きくなったとは言え、まだまだ少年の体付きだし、そもそも骨組みが華奢なようだから、大人になっても、ミカエルはきっとすんなりとした体躯を保つだろう。

 触れ合った場所から僅かに速い脈を感じるから、やはりこうして抱えられて飛ぶのは、緊張することなのかもしれない。

 ――触れられるというのは、すごいことだと、改めて思う。

 大事な人の存在を、全身で感じることが出来る。

 

 神殿に到着して、水盤の間に入ると、ミカエルはすぐに自分で操りはじめた。気の巡らせ方を教えたのが夏。入学してたったこれだけの期間で、魔界の風景まで覗くことが出来るようになった成長ぶりに目を見張る。

 水鏡の上には、太陽のように明るい少女が居て、家族と笑い転げていた。

 彼女の名はノエルというのだと、以前ミカエルが教えてくれた。ミカエルと同じ根を持つ魂から生じた命だと思うと、何だか彼女までもが愛おしい。ノエルの頭上には、小さな可愛い光輪があって、仄かな光を放っていた。

 ――ミカエルの光輪は、今頃、暗い箱の中で、同じように光を放っているのだろうか。

「……良かった、幸せそうだ」

 ミカエルがぽつりと呟いた。

「ノエルはいつも家族に囲まれていて……楽しそうです」

 ミカエルの瞳は、水盤の向こうの朗らかな家族を写して和んでいる。だがシトリンのような大きな瞳は、ほんの少しだけ、切ない色を滲ませているようにも思えた。

 ラファエルは少し考えた末に、敢えてストレートに尋ねる。

「羨ましい?」

 ミカエルはラファエルをちらりと見た後、水盤に目を戻す。しばらく考える素振りを見せた後、静かに答えた。

「どうでしょう。でも……初めて彼女を見たときは、そんなことを思った気がします」

 プライドが高くて努力家で、他人を羨むなどということがついぞ無いミカエルにしては、素直な返事だ。

 ノエルを見つめる眼差しは優しい。彼が彼なりに、ノエルのことを慈しんでいるのがよく分かる瞳の色だ。神殿に居る間も、時折おずおずとラファエルに頼んできて、この水盤の間で、ノエルを見ていることがあった。

 ラファエルは微笑ましい気持ちに、ほんの少しだけ焼き餅を乗せて問いかける。

「ノエルのことが好きかい?」

「そりゃあ好きですよ。彼女は僕の一部ですし、僕は彼女の一部ですから」

「……一部?」

 当然のように答えたミカエルに引っかかりを覚えて、ラファエルは眉を寄せた。

「ええ、だって同じ魂を共有しているんですから」

「まあ……そう言えばそうなんだけど」

 なんだろう……なんだかとても嫌な感じがする。まるでミカエルが、自分自身とノエルをないがしろにしているような、そんな響きの言葉だ。

 互いを互いのパーツとしか思っていないような、そんな……。

 だが、ラファエルがそれを問いかけるより、ミカエルが穏やかな顔で口を開く方が早かった。

「彼女がああやって保護されて、幸せそうに暮らしているところを見ると、安心します。僕には……僕には彼女のために出来ることが、なんにもないから」

「…………」

 ミカエルの顔は、普段よりもずっと柔らかだ。それに間違いなく、彼女を思いやる心に満ちている。

 ――複雑だね、心ってのは。

 ラファエルは苦笑して立ち上がり、ミカエルの肩に手を置いた。

「君にも出来ることはあるさ」

「え?」

 肩越しにラファエルを見上げる黄水晶の瞳に微笑みかける。

「見守ることだよ」

「見守るだけ……ですか?」

 ミカエルは訝しげだ。

「大事なことさぁ。誰かに見守るってのは、それだけで相手の力になるものだよ。考えてもごらんよ。君がもしノエルの立場だったとして、君をずっと見守って、心配して……幸せを祈ってくれている誰かが居るとしたら、どう思う?」

「…………」

 ミカエルは考え深げな面持ちで、水面に目を落とす。水鏡の中では、金髪の少女が、飽かず朗らかに笑い続けている。

「ノエルが大事なら、見守るんだ。そしてノエルを知るといいよ。いつかそれがきっと役に立つから」

「……はい」

 ミカエルは素直に頷いた。水面の上でミカエルの繊手が閃いて、映像が波紋に変わり、消えた。

「もういいの?」

「はい。見たい物は全部見ましたから」

「そっか。じゃあ、悪いけど外でちょっと待っててくれる? すぐに行くからさ」

 ミカエルが外に出た後、ラファエルは水盤の上に手の平をかざした。地上の、日本の風景が眼下に広がる。一気に町並みがクローズアップされて、一軒の家が見えてきた。視点は屋根を通過して、屋内に入る。

 綺麗な栗毛色の髪を持つ女が、掃除機を片手に鼻歌交じりで掃除をしていた。その近くの部屋では、窓辺に腰掛けて、ぼんやりと空を眺めている少女がいる。プールの塩素で赤茶けた髪は、以前より少し短い。

 屋根の上は雪で覆われているのに、窓を開け放したまま、白い息を吐いている。彼女の瞳は、空の向こうを透かし、ラファエルの居るこの場所までをも見通そうとしているかのように遠い。

 ラファエルは眼を細めた。

 ――人に物を教えるというのは、不思議なことだ。

 自らが口にした言葉が、自身が忘れかけていたことを呼び覚ましてくれることがある。

 正式に教官となって、学内に宿舎を与えられてからも、折に触れてはここに来て、鈴原の家族を見てきた。いつだって、自分にはもう何も出来ないのだという、諦めの気持ちと、罪悪感を感じながら。

 自分の犯した罪は罪。それはそれとして心に留め置かなければ意味がないが……それでも、見守り続けることだけは出来るのだ。

 ――夏海。僕はずっと、君を見守っている。

 いつだって冬雪の後をついてきた、可愛い妹。ずっとずっと……君が天に召されるその日が来るまで、見守り続ける。

 玄関から、チャイムの音。玄関に出た母が、夏海を呼びに来る。夏海が顔を輝かせて迎えに出た先には、かつての親友、快の姿があった。

 

 ラファエルが水盤の映像を消して外に出ると、入り口の横で、ミカエルが神殿付きの天使にちょうど話しかけられていた。

「君はどこから来たんだい?」

「いえ、僕は――」

 多分、ここに着任したばかりの天使なのだろう。光輪を持たないのに天使学校の制服を着た子供を、珍しく思ったに違いない。悪気はまるでないのだろうが、ミカエルには苦痛だろう。

 ラファエルは苦笑して、ミカエルの肩に手を置き、声を張り上げた。

「無礼であるぞ!」

「……は?」

「こちらはその方よりもずっと長く、神殿でお勤めになっておられた、やんごとなき御方である!」

「ちょ、ちょっと、ラファエル様ぁ!」

 目を丸くしている天使に笑って、ラファエルはミカエルを抱え上げた。

「お待たせ。さ、帰ろうか」

 舞い上がると、まだぽかんとしたまま空を見上げている天使に、ミカエルが声を張り上げる。

「あ、あの、失礼しました! さっきのはラファエル様の冗談ですから――うわぁぁぁ!」

 そのまま猛スピードで飛んでみせたら、ミカエルがすっかり目を丸くしていたのが、おかしくてならなかった。

 

 

 それからしばらくは、穏やかに日々が過ぎていった。

 休みの間に、幾度かラファエルの官舎へミカエルを招いた。本人の望み通り、残念ながらお勉強会になってしまうのが常だったが、一度は外に連れ出してピクニックに行くことも出来たし、ミカエルが前よりももっと、自分に近付いてきているようにも思えて嬉しかった。

 ミカエルの素顔は案外無愛想な少年だが、自分と居るときは、色々な顔を見せてくれる。怒った顔や困り顔、途方に暮れた顔や、慌て顔。それが嬉しくて、ついからかいすぎては叱られる。そんな他愛のないことすらも、楽しくて仕方がなかった。

『家族』の仕組みを、創世神が地上から取り入れ、天界に人が暮らすようになってから長い。地上の行事も天界人によって持ち込まれ、天使達の間にも、少しずつ浸透している。

 新年はミカエルと一緒に迎えた。天界人が集まって出来た街で、祝いの花火が上げられるのを、見に行ったのだ。

 初めて見る花火に、ぽかんとしていたのが愛らしかった。大きな瞳に、色とりどりの火花が映り込んでいて、ラファエルはすっかり、空を見るのを忘れ、ミカエルの瞳越しに花火を見ていた。

 ――そんなふうに日々を過ごすうちに、幾度か、キスをしたいと思ったことがあった。

 ミカエルがふと教科書から顔を上げた瞬間。湖と雪を頂く山脈を臨む草原で、空を見上げたミカエルの横顔に目を取られた時。花火をじっと見ていたミカエルが、「きれいですね」と呟いて、ラファエルを見上げてきた時。

 なんでもない顔をしているのが、精一杯だった。柔らかそうな唇に意識が吸い寄せられて、触れたくてたまらないのを我慢した。

 気持ちは日増しに大きくなっている。まだしばらくは待とうと思っていたが、いつか言葉になって、唇から溢れてしまうかもしれない。

 そんな予感を抱きながら、新学期が始まり、二月。地上では恋人達が愛を告げあう日が訪れていた。

 

 

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■St.バレンタインデーの憂鬱2

 

「はい、ラファエル様、これもらってください!」

 渡り廊下で呼び止められたラファエルは、二年生の少女から手渡された包みに顔を綻ばせる。

「これはチョコレートかな、ありがとう」

「私のも、もらっていただけますか?」

「勿論喜んで。教務準備室に飾らせてもらうよ」

 今度は赤い薔薇を一輪受け取る。ここに来るまでにも何人かからプレゼントをもらっていたから、両手に荷物になっている。

 歓声を上げて去っていく少女たちを見送って、ふと中庭に目を下ろしたら、ミカエルの水色の髪の毛が目に飛び込んできた。

「……ふうん」

 ミカエルは例によって、あの優雅な作り笑いを浮かべている。その周囲には女の子が数人。どうやらプレゼント攻勢にあっているのは、自分だけではないようだ。

 しばらくそこで待っていたら、対応を終えてミカエルが上ってきた。渡り廊下に出てすぐに、ラファエルに気付いて顔を上げる。

「ラファエル様。そんなところでどうなさったんです?」

「愛弟子のもてもてっぷりの見学〜」

 ミカエルは呆れた顔をして肩を竦め、ラファエルの両手を見ている。

「ラファエル様だって、色々もらっていらっしゃるじゃないですか」

「まあね〜。僕もてるほうだしぃ」

「そんなことをおっしゃってると、そのうち呆れられちゃいますよ」

 眉をつり上げたミカエルが追いついてくるのを待って、並んで歩き出した。自分と同じように花束も持っているが、小さな箱もいくつか抱えている。

「何もらったの?」

「さあ。多分匂いから言ってチョコレートじゃないかと」

「ふうん、日本式だ。流行ってるの?」

「この間ラファエル様が、授業でお話しになったからじゃないですか?」

 実際、チョコレートを送る風習は日本だけではないが、日本ではチョコを送ることが圧倒的に多いと、先日の人類学の授業で話をした。

「日本から来た天界人に育てられた子かもしれないよ。ああ、そうだ、日本式だとね、三月十四日にお返しをするんだよ。クッキーとかマシュマロとか、キャンディーとか」

「へえ! あ、続きは教室で聞かせてください。由来とか色々、ノートにまとめないと」

「いや、そこまでするような話でもないんだけどさぁ」

 ラファエルは苦笑した後、おもむろに切り出した。

「……で、なんて返事するの?」

「返事……ですか?」

 ミカエルはきょとんと見上げてくる。

「だって、愛の告白をされたんだろ? お返事しないの?」

「した方がいいんでしょうか?」

 ミカエルは不思議そうな顔をしている。

「そりゃそうじゃない? 相手は返事を待ってるんじゃないのかなあ」

「返事って言っても……うーん…………」

 ミカエルは考え込んでいる様子だ。……良かった。少なくとも、プレゼントを贈った少女の中には、ミカエルの心を動かす子はいなかったようだ。

「クッキーあげるとか、キャンディあげるとかマシュマロあげるとか。そういうことしないの?」

「だって、お返ししたら駄目なんじゃないんですか? お付き合いを了承する返事になってしまうんじゃ」

「必ずしもそうじゃないけどねー。まあ、お礼みたいな物でさ。ケースバイケース」

 実際、自分がもらったものだって、大半は日本風にいえば『義理チョコ』のはずだ。平等にお返しをして、相手も喜んで終りという類の。

 ミカエルは「決めた」と小さく呟いて、きっぱりと続けた。

「手紙を書いて、お断りします」

「お付き合いはしないんだ?」

「しませんよ。僕は忙しいんですから」

 あまりにもすげない言葉に、ラファエルはちょっとだけ複雑な気分になった。そんなことはないと思うのだが……多分そうだと思うのだが、仮に自分が告白したとして、同じことを言われてしまったらどうしよう。

 そのまま妙な沈黙が降りて、二人で黙って教室に入る。

 自分の席に荷物を下ろしたミカエルを置いて、教務準備室に行こうとしたら、呼び止められた。

「……ラファエル様こそ、なんてお返事なさるんですか?」

 心臓がどきりと鳴った。

 ミカエルはまるで探るような上目遣いで、ラファエルを見ている。気になって仕方がないという顔で。

「そうだなあ……」

 ラファエルは頭をぽりぽりと掻いて、視線を逸らした。

「僕も断りの手紙でも書こうかなあ」

 

 それから午後の授業を終えて、清掃の時間になった。ミカエルはこの教室のたったひとりの生徒だから、毎日の教室の掃除は、必然的に彼の役目になってしまう。

 本来ならば五、六人の生徒が収容できる教室を、毎日ひとりで掃除をするのも寂しいだろうと、時折ラファエルも手伝うことがあった。

 半分邪魔をしつつ一応多少は手伝いもした後、教壇に寄りかかり、板書を消しているミカエルを、何となく眺めている。

「……あれぇ。君、大きくなったねえ」

 不意にそのことに気付いた。冬休みに入ってすぐの頃、ミカエルも同じようなことを言っていたが、あの時からさらに伸びている。

 ちょっと前までは、背伸びをしても黒板の一番上には手が届かなかった。黒板を掃除するときには、軽くジャンプをしていたのが可愛かったものだ。

 それが今は、ほんのちょっとつま先立ちをするだけで、ちゃんと手が届いている。

「ええ、最近また背が伸びたみたいです」

 ミカエルは黒板に目を向けたまま、当たり前のように答える。

 ……幼いとばかり思っていたのに、日に日に成長しているのだ。

 傾きかけた陽射しが逆光になって、ミカエルを縁取っている。ちらほらと舞い飛ぶチョークの粉が、光の粒のように見えた。髪の毛が陽の光に透けて、黒板を見上げる横顔が、とても綺麗だった。

「……ねえ、ミカエル」

 殆ど無意識のうちに呼びかけていた。

 ミカエルが振り返る。軽く首を傾げた髪が分かれて、普段は隠れ気味になる彼の瞳が、自分を見ていた。

「君のことが好きだよ」

 自分が言ったのではないような気がした。器から水が溢れるように、ひとりでに唇から言葉が溢れ出ていた。

 とうとう言ってしまった。もう少し……せめて卒業までは待とうかと思っていたのに。気持ちを自覚して、まだほんの数ヶ月。自分でも思っていたより保たなかった。

 でも、これで良いのかも知れないとも、心のどこかで感じていた。気持ちを伝えることで、ミカエルの孤独感を、少しでも拭うことが出来るかも知れない。

 これからは僕がずっと一緒に居る。だからもう寂しくないと――

 ミカエルは不思議そうにラファエルを見ている。何を言われたのか、まだ理解していない顔だ。それがとてもあどけなく思えて、気が付いたら微笑んでいた。

 なんて返事をしてくれるだろう。いや、その前に、言われたことを理解したら、どんな反応をするだろう。

 照れるだろうか。慌てるだろうか。それから……それから、どんな顔を見せてくれる?

 ――だがミカエルは、戸惑った顔はそのままに、静かに答えた。

「ありがとうございます」

「……え?」

 ラファエルは言葉をなくした。ミカエルは一言礼を言った後、黒板の方を向いてしまう。繋ごうと言って手を伸ばしたのに、素通りされた気分になった。

「あのぉ……ミカエル。それだけ?」

「それだけって……それ以外になんて言えば?」

 ミカエルは、普段とまるで変わらない顔をしている。ラファエルの方を見ようともしない。

 ……これは予想外だ。どう反応すればいいのか分からない。自分の中で時が止まってしまったみたいだ。

 黒板を完璧に拭き終えたミカエルは、窓辺に立って黒板消しを叩いている。呆然とその後ろ姿を見ていたら、ミカエルがくるりと振り返って、首を傾げた。

「どうなさったんですか。おかしな顔をして」

 ――まるで分かっていない?

 冗談だと思われたのだろうか。もしかしたらそうかもしれない……とは思うのだが、でも。

 ラファエルが返事をしないものだから、肩を竦めて黒板叩きを定位置に戻している。

「……あのさ、ミカエル」

「はい、なんでしょう」

「だからその……好きだよ」

「それはさっきもお聞きしました」

 にべもない。こうまで言われると、どう続ければいいのか、まるで分からない。その上こんなことまで言われると、もう笑うしかない気分になった。

「それでラファエル様は、さっきからどうなさったんです」

「……落ち込んでるんだけど」

「そうみたいですね。だからどうしてってお聞きしてるんですけど」

「まさか君、僕が落ち込んでいる理由が分からないの……?」

「分かってたら聞きませんよ」

「振られたからだよ」

 教壇に寄りかかって半ば自棄で答えたら、驚いた顔で聞き返された。

「振られた!? ラファエル様がですか? そんな馬鹿な!」

「…………」

「……え、まさか、本当に?」

 本当にも何も。ミカエルは心なしか、不機嫌そうな顔をする。

「誰に振られたんですか?」

「……君に」

 ミカエルは目をまん丸に開いて瞬きすると、ふくれっ面をして腰に手を当てた。

「もう、またふざけてるんですね。本気で心配したのに」

「ふざけてなんかいない。僕がさっき言ったこと忘れたの?」

「覚えてますけど。だからふざけてるんですねと言ってるんです!」

「……違う、そうじゃない」

 どうしてここまで言葉が通じないんだ。どうして信じてもらえない?

 これまでが、からかいすぎたのか。それで信じてもらえないのか?

 でも、今までに好きだと言ったことはないし――それを冗談で言ってしまうには、気持ちが育ちすぎていたから――何より、本気で口にしたのだ。それなのに伝わらなかったらどうすればいい。

 不意にもどかしさが募った。苛立ちに似た感情に支配されかけた。

 教壇についた手に力が籠もって、乱暴に口を開いていた。

「そうじゃないんだ。そうじゃなくて、僕は君を――!」

 

 愛している。

 

 ……音にしかけて、ラファエルはその言葉を呑み込んだ。

 この状況で口にしてしまっては、いけない気がした。

 この気持ちは『愛』という言葉に、本当に値するのかと……急に自信がなくなった。

 軽々しく言っていい言葉じゃない。それに、精一杯の思いを込めて口にして、それすら信じてもらえなかったら、どうすればいい。

 沈黙したラファエルに、次第に不安になったのだろう。ミカエルが顔を曇らせている。

「ラファエル様、どうかなさったんですか?」

「……振られちゃった」

 ラファエルは笑った。だが、きっと上手く笑えなかった。

 姿を消して、教室を出る。情けない顔をしているのを、これ以上ミカエルに見られたくはなかった。

「ラファエル様……?」

 ミカエルの呼ぶ声が聞こえたが、応えなかった。

 

 ひとりになって、校舎の屋上に飛び上がる。誰にも会いたくない気分だ。とにかく今は、ひとりにして欲しい。 頭の中は混乱を通り越して、止まったままだ。

 屋根の上に寝ころんで空を見上げると、小さな雲が、ゆっくりと流れていた。ぼんやりとその行く末を眺めているうちに時間が過ぎて、空が茜色に変わり、闇が舞い降りる頃になって、やっと心が呟いた。

 ――自惚れ……だったのかな……。

 あの子もきっと僕のことを好きだと、そう感じていたのだけれど。

 同じ気持ちを返して欲しくて好きになった訳じゃないけれど、こんな展開は予想だにしていなかった。さっき「振られた」とミカエルには言ったが、実際はそれ以前のところで立ち往生だ。告白すら信じてもらえないだなんて。

 光輪が落ちるのって、こんな気分の時なのかなと、ラファエルは溜息をついた。

 生憎というか、幸いにというか、頭の上の輪っかは落ちる気配ひとつない。この程度では、まだまだ足りないらしい。……とすれば、ミカエルが抱えた闇は、きっと想像していたよりもずっと大きくて深い。

 どうして言葉が通じなかったのだろう。

 冗談だと思ったから? それだけであそこまで空振りするだろうか。まるで壁に向かって話しかけているような気分だった。

 言葉が通じないときには、他にも考えられる原因がある。価値観の違い、お互いの暮らした環境や教育の違いなどによる差。思考のベースとなるものが違っていれば、自ずと話は通じにくくなる。だが、それらはいずれも埋められるものだ。……大抵の場合は。

 前提として、理解し合いたいという、双方の意志がないとどうしようもない。

 ラファエルは身を起こし、片膝を立てた。夜空を睨み据えて爪を噛む。

 これはもしかすると、真剣に考えなければいけない事柄かもしれない。ミカエルに恋をしてしまったひとりの男としてだけではなく、彼の担当教官として、守護天使として。

 早急に結論を出してはいけない。自分が見てきたミカエルが、きっと全てではないのだ。

 

 とにかく一度教室に戻らないと、今日もらった品物を持って帰れない。 灯りの落ちた校舎を、教室を目指して歩いていたラファエルは、途中でふと足を止める。

「……あれ」

 教室の中に、ミカエルの気配がある。音を立てぬようにそっと扉を開け、隙間から覗き見ると、窓辺に佇んで外を眺めていた。教室の中は外と同じく暗く、窓硝子に映り込んだミカエルの姿も薄かったが、沈んだ顔をしているのは分かった。

 下校時間はとうに過ぎていて、早く寮に戻らないと、夕飯を食べ損なってしまうだろうに。

 ……もしかして自分を待っていてくれたのだろうか。

 胸が締め付けられるような心地だ。駆け寄って、あの華奢な背中を抱きしめてしまいたくなる。

 でも、それはしばらく我慢だ。べたべたするのも、少し控えた方がいいだろう。自分が為すべき事は、今までとは別の角度から彼をちゃんと見ることだ。

 ラファエルは深呼吸をして、今度はわざと音を立てて教室の扉を開ける。だが、振り返ったミカエルは、何も言わず不思議そうに首を傾げた。

「ミカエル?」

 声をかけたが、反応がない。まるでラファエルを透かして、廊下の向こうを見ているような遠い目だ。

 ――……僕が見えていない?

 だが、ラファエルがどきりとした次の瞬間に、ミカエルはすぐに眉をつり上げた。

「もうっ、ラファエル様、どちらに行かれてたんです!」

「え、えーっと……」

 ものすごい剣幕でつかつかと近付いてくると、ラファエルを見上げて、腰に手を当てる。

「急に姿を消されるなんて、一体どういうおつもりなんですか!」

 ミカエルの目は、ちゃんとラファエルを捕えている。……さっきのあれは、気のせいだったのだろうか。

「ラファエル様、ちゃんと答えてください!」

「その……ちょっと屋根の上に〜……」

「屋根の上に、こんな時間まで!? また昼寝でもなさっていたんですか!?」

「うん、まあ……えーっと。そんなもの、かなぁ……」

 どうやらラファエルが姿を消した理由は、いまだに分かっていないようだ。

 ミカエルはラファエルの顔をじっと見ていたが、長い長い溜息を落とした。小さな手がそろそろと上がり、ラファエルの方へ伸びてくる。触れてくるかと思い、一瞬鼓動が早くなった。だが結局、ミカエルは躊躇するように、ラファエルの袖の生地だけを、ぎゅっと握りしめる。そして項垂れてしまった。

「……僕が悪いことをしたのなら、ちゃんと仰ってください。僕……直します。ちゃんと努力しますから」

「……うん」

 俯いた小さな頭を抱き寄せようかと手を伸ばしかけて、宙で止める。拳を作って、そっと下ろした。

「心配かけてごめんね、ミカエル」

 そして、一生懸命考えてくれてありがとう。……でも多分これは、努力だけではどうにもならない問題なのだ。

 それより気に掛かるのは、さっきのミカエルが、一瞬、ラファエルを見ていなかったこと。

 ――まさか、本当に見えていなかったんじゃ?

 胸の中に不安が湧き起こる。

 ほんの一瞬のことだったし、気のせいだと思うのだが……いや、希望的観測は避けよう。目を逸らさず、可能性のひとつとして、ちゃんと胸に止め置かなければ。

 窓硝子に目を投げると、そこに映る自分の顔は、暗く険しかった。

 

 

 寮に戻ったミカエルは、すぐさま食堂に向かって遅い夕飯を済ませた。いつものリズムが崩れてしまった。今日やる予定だった勉強を、急いで済ませないといけない。

 まったく、あの人は時々突拍子もないことをするから。戻ってきたときはもう怒った様子はなかったが、結局、どうして姿を消してしまったのかが、よく分からないままだった。ラファエルは何も言ってくれないし――

「…………」

 ノートの上の書き取りが、ちゃんと頭に入ってこないことに気が付いて、ミカエルは眉を寄せた。

 ラファエルが姿を消した謎がちゃんと解けていないから、そちらが気がかりで集中出来ないのだ。

 ラファエルが居ない間も、ずっとずっと原因を考えていた。多分きっかけは、あの言葉。

『君のことが好きだよ』

 ラファエルの声を思いだした途端、心臓がとくんと小さな音を立てた。

 ……あれ、どういうことだったのかな。

 ミカエルは瞼を閉じる。脳裏に、放課後のラファエルの姿が、はっきりと甦った。

 綺麗な目が、少し照れくさそうに細められていた。教壇に寄りかかって、こっちを見ていた。窮屈そうに折りたたまれた羽が、夕日を浴びていた。

 好意を持ってもらえているのは、とても嬉しい。ラファエルは自分の気持ちを明け透けに表現する人だから、少なくとも嫌われているとは思っていなかったし、分かっていたつもりだった。

 それでも好きだと言葉にしてもらえたのは嬉しかった。だから自分としては珍しく、素直に礼を言った。

 今日がバレンタインだと気付いたのは、会話の途中。例によって、良いからかいのネタを見つけたと思ったのだろうと、ほんのちょっと腹を立てもした。

 可愛いと連呼するのだってそうだった。ラファエルを相手に、真面目に照れるのが間違っているのだ。大体、天使ともあろう者が、同性相手にあんな冗談をいうのはいかがなものだろう。礼を言った自分が、馬鹿みたいじゃないか。

 でも……本当に間違っていないのだろうか。見落としていることはないのか。

 その不安は、ラファエルに取り残されてひとりぼっちになり、窓の外の陽が落ちるにつれて、深くなっていった。

 ラファエルは不満そうな顔をしていた。とても悲しげな……。あの明るい人に、あんな顔をさせてしまったことが苦しかった。失望させたのではないかと、それだけが気に掛かった。

 どう答えたら良かったのだろう?

 少なくともあの返事は、ラファエルが求めていた言葉ではなかったらしい。自分も好意を示せば良かったのだろうか。

 ……でも、それは恥ずかしい。慣れていないのだ。ましてや相手がラファエルじゃ、とてもじゃないけど言えない。好意を受け慣れているラファエルのことだから、おかしな意味に取られることはないだろうけれど。

 試しに「僕も好きです」と言い返すところをシミュレートしてみたら、それだけで何だか暴れ出したい気分になって、両手に顔を埋めた。

 頬が火照る。駄目だ。親愛の情を示すのはおかしな事ではないだろうし、他の人にならいくらでも言えると思うのに、ラファエルが相手だと、想像するだけでも恥ずかしい。

 大体、言わなくても、ラファエルには分かっているだろうに。自分は今、ラファエルの指導が無いと、何一つ出来やしない存在だ。彼が教官になってくれたから、ようやく学校に居られるくらいの……。

 ……それなのに、どうしてあんなに傷ついた顔を……あの程度のことで。

 ミカエルはペンを置いて、窓の外を眺めた。室内の光が反射した窓は、映りの悪い鏡のようで、外の闇は深かった。途方に暮れた自分が映っていて、ひどく情けない。教室にひとり残されたときも、窓硝子に映っていたのは、こんな顔だった。

 課題で出される数学の公式を解く方が遙かに楽だ。解は殆どの場合決まっていて、パズルを解くように迷う必要が無い。……ラファエルの心が分からない。なんと答えれば正解だと認めてもらえるのか、あの人と話をしていると、時折見当もつかないことがある。

 

 ――……まさかとは思うけれど、本当に恋愛感情を示された、とか……。

 ミカエルはふと浮かんだ考えを即座に打ち消した。

 そんな馬鹿なことがあるはずがない。だって、相手はあのラファエルだ。同性で、教官で天使で、みんなの憧れの的の。

 今日のように、女の子に告白をされたことは、幾度かある。どうやら自分の容姿を好む人がいるらしいということも、一応分かっている。

 だが彼女たちの言葉のどれも、ミカエルの胸を打たなかった。好意を示されるのが嬉しくないわけではなかったが、その全部に、ミカエルはただありがとうと答えた。

 付き合ってくれと言われたら、或いは気持ちを訊き返されたら、友達としてと返事をしてきた。

 自分が彼女たちに好まれるようになったのは、ラファエルの真似をして笑うようになってからだし、きっと普段の自分を見たら、誰もあんなことは言ってこないだろう。

 割れた欠片。半端な存在である自分を、彼女たちは知らない。優秀な成績も、落ち着いて見えるであろう立ち居振る舞いも、裏でどれだけ努力をして勝ち取ったものかを知らないのだ。

 頑張って頑張って、自分はようやくここにいる。光輪を落としたのに天使学校に在学できているのは、ラファエルが教官になってくれたから。後は努力の成果だと、自分が一番よく分かっている。

 他の皆が当然のように持っている物を、自分は持っていない。

 ――でも、ラファエル様は知ってるんだよな……。

 ミカエルはノートの上に、こつんと顎を落とした。

 半端なことも、何も持っていないことも、どれだけ足掻いているのかも。あの人は全てを知っている。何も持たず、不格好に穴に沈み込んでいた自分に、唯一、手を差し伸べてくれた人。

 

『君のことが好きだよ』

 

 無意識のうちに、服の胸元をぎゅっと握りしめていた。拳の下で、心臓がとくとくと音を立てている。

 ラファエルは天使だ。みんなが憧れるような、最高の天使だ。

 恋愛感情というのが、どんなものなのかも、自分にはよく分からない。でもラファエルが、同性で、おそらくは随分と年も離れた自分に……皆のような天真爛漫な光も持たず、光輪すら無く、半端で、ただ努力していることくらいが取り柄の自分に、そんな感情を抱くとは、とても思えないのだ。

 ――いけない。こんなことを考えている場合じゃない。

 ミカエルは唇を噛んで身を起こすと、ノートに再び目を落とした。

 今回は最優秀の成績を取れたけれど、次もそうとは限らない。

 大体、自分の光輪はまだ戻ってこない。もっともっと頑張って、もっともっと努力しなきゃ。じゃないといつまでたっても、天使になんかなれやしない。ひとつに戻ることも出来ず、半端で卑小なままの自分で居なければならない。

 ノエルを護らないと。天使になって本来の姿に戻るために。

 あの紛い物の魔界の家族達は、ノエルをその日まで保護する器として、役に立ってもらわなければ。些か頼りないが、保護されていないよりはマシだ。少なくとも彼女が楽しそうにしている間は、光輪は落ちないだろう。今はただそれを見守るのだ、ラファエルの言う通りに。

 大きな光を持っていても、何も出来ぬノエル。近くには居られないが、きっと自分が護る。それが自分の役目で、望みだ。

 ――こんな自分とは、さっさとさようならしてしまうために。

 あり得ない妄想にうつつを抜かしている余裕は、これっぽっちも無いのだ。

 

おわり

説明
ようやく色恋沙汰ちょっとだけ。ちゅーまであと二本。
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あんなことやそんなこと。 BL 天なる ラファミカ 

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