キス |
■KISS
「ラファエル様! ラファエル様……っ!」
天使学校の傍にある小高い丘を、息を切らしてのぼりながら、ミカエルは声を張り上げた。午後の授業開始を示す鐘が鳴り響いて、もう十分以上が経つというのに、彼の担当教官は教室に姿を見せなかったのだ。
こんなことは前にも何度かあったから、ちゃんと見当はついている。大方、学校裏の丘の上で昼寝をしているうちに、寝過ごしてしまったに違いない。
「まったくラファエル様はお気楽なんだから……!」
ミカエルは丘のてっぺんで足を止める。この丘の先は次第に下り坂になって、黒々とした森に呑み込まれていく。ラファエルのお気に入りは、一番眺めの良いこの原っぱだが、今日は姿が見えなかった。
「ラファエル様ーっ!」
視線を上げると、視界に白いものがちらりと入った。 少し離れたところにぽつんと立つ、広葉樹の巨木。青々と茂る派の隙間、太い枝の端からだらしなく垂れ下がっているあれは……もしかして、天使の羽ではないだろうか。
駆け寄って見上げると、今度は見間違いようのないあの黒衣も、しっかりと確認できた。
「ラファエル様ぁっ、授業が始まりましたよっ、起きてください!」
下から精一杯に声を張り上げるものの、黒衣の天使はぴくりともしない。すっかり熟睡しているようだ。
「まったく……」
何やってるんだか。ミカエルは眉をぴくぴくと震わせた。
天上界の木は巨木が多い。この木もそうで、おそらくラファエルのところまでは、軽く十メートルはあるだろう。入学してからの一年で瞬間移動くらいは出来るようにはなっていたが、跳べる距離はまだ限られているし、足場の悪い木の上への移動は難しそうだ。
困り果てた末にもう一度呼んでみて、それでも目を覚ましてくれなかったから、仕方なく自力で登ることにした。
「何で僕が、こんな、こと、しなきゃいけないんだ! まったくもう……!」
えっちらおっちらと登っている自分が情けない。ようやくラファエルが居る枝に手がかかって、ミカエルは勢いをつけて身体を持ち上げる。
「わっ……っと」
ラファエルが寝ているから、足をかけられるスペースが少ない。バランスを崩しかけて、慌ててすぐ上の枝を掴み、何とか体勢を立て直した。横で自分の生徒がもがいているというのに、薄情な教官は少しも目を覚ます様子がない。
……だけどまあ、ほっとした。いつかみたいに、体調が悪いわけでは無さそうだ。顔色は普通だし寝顔はのんきだし、寝息は安定している。
ミカエルは幹を伝って、そろそろと身を屈めた。
ラファエルの長めの褐色の髪が、顔に触れてくすぐったそうだ。形の良い唇は、僅かに微笑んでいる。眠っているときにまで、この人は笑っているのかと思うと、なんだか気が抜けてしまった。
「……もう、いい加減起きてくださいよ」
少しだけ自分よりも日に焼けた肌。傍にいると日向の匂いがするのは、こうやって外で昼寝しているせいだろうか。
――と、ミカエルは我に返って、少し赤くなった。
なんで自分はこんなにまじまじと、己の教官の姿など眺めているのだ。そもそもたたき起こすつもりで登ってきたのだから、ちゃんとしないと。
目を閉じて大きく深呼吸。
でも、怒鳴りつけるつもりで目を開けたら、目の前の太い枝の上に、黒衣の天使の姿はなかった。
「え? え?」
まさか、落ちた?
慌てて地上を透かし見ても、木の葉越しに見える地上には、柔らかそうな草が微風にたなびいているだけで、落っこちた天使はいない。
途中の枝に引っかかってはいないか、それとも目を覚まして、他の枝に移ったのか。……自分がここにいるのに?
「ラファエル様! ラファエル様、どこに行かれたんですかっ!?」
「ここだよー」
目の前の枝が大きく揺れて、ラファエルの顔が、逆向きの至近距離に現われた。
「わぁぁぁっ!」
慌てふためいた途端、足を滑らせた。あっと思ったときには、落下が始まっていて、風が逆巻く。目を閉じることも忘れたその刹那に、視界を影が覆って、ふわりと身体が浮き上がっていた。
「あはは、びびった?」
黒衣の天使が快活に笑いながら、ミカエルの腰を片手で軽々と抱いていた。
「び、びびったって、そんな――うわあっ」
ラファエルが大きく羽ばたいた途端、梢がぐんと行き過ぎていく。自分がラファエルに抱かれたまま、さっきの丘の遙か上空に浮いているのだと気が付いた途端、すうっと血の気が引いた。
無意識のうちにしがみついていた。心臓がとまりそうだ。おかげで頭の中が真っ白になってしまった。
「大丈夫、落とさないから」
「あっ、当たり前ですっ! 落とされたらたまったものじゃないですよ!」
「はは、それもそうか」
ラファエルは快活に笑って、柔らかに眼を細める。
「起こしに来てくれたんだ? ありがとう、ミカエル」
「あ、いえ……別に」
間近にあるアメジストみたいな瞳に気を取られ、半ばぼんやりそう答えて……ふと、目を奪われていた。
なんて涼しげな目元だろう。瞳が澄んでいて、陽射しにきらきら光っている。あんまり近くにあるものだから、ついしげしげと眺めてしまった。
ここまで間近で、この人の顔を見たのは、きっと初めてだ。なにしろほんの五センチほどしか離れていない。
そりゃ、ラファエルは割と触りたがる方だし、話しをするときにはさりげなく視線を合わせてくれるけれど……。
――いや、最近はそうでもないかな。並んで立つときにも、ひとり分の幅が開くようになっていた。あれは、いつからだっけ……?
物思いに囚われすぎて、ラファエルの瞼が伏せられたことにも気付かなかった。その顔が僅かに角度を変えて、近付いてきていることにも。
唇に柔らかなものが触れたなと思って、それからようやくミカエルは、ラファエルにキスをされたのだと気が付いた。
「……え?」
目の前にほんの一瞬、珍しく真剣な顔。だがすぐに崩れて、いつもの気楽な表情に変わる。
「んー」
ラファエルはぺろりと自分の唇を舐め、今度は天使らしくない危うい笑みを浮かべて、眼を細めた。
「もう一回してもいいよねぇ?」
「…………え?」
「もらった」
戸惑っているうちに、再び唇を塞がれる。柔らかで温かで、僅かに濡れた――体温が一気に上昇していくのを感じた。慌てて胸を押し返すと、ラファエルの格好が格好だから、自然、肌に触れてしまうことになる。手の平に直に感じる素肌に、余計に真っ赤になった。
「暴れると危ないよ〜」
さっきまでは右腕だけだった筈の腰の戒めが、いつの間にか、両腕になっている。身体のあまりの密着具合に、ちょっと気が遠くなりかけた。
「な、な、な、なななななっ」
真っ赤になって口をぱくぱくとさせるミカエルに、ラファエルは平然と答える。
「八」
「か、数を数えている訳じゃありませんっ」
「蜂?」
「虫の話でもありませんっ!」
「えーっとじゃあ――」
とぼけた顔で空を見上げるラファエルを見て、ミカエルは拳を握りしめ、首を振った。
「鉢植えの話でも八寒地獄の話でも八王子の話でもありませんっ!!」
「すごいすごい。君何でそんなこと知ってるの?」
「そりゃ勉強したからに決まって――そんな話をしてるんじゃないんです! な、なんで僕にこんなことっ!」
「キスの理由なんて、厄介なこと聞くなあ。……うーんじゃあ」
ラファエルは唸ったあと、心なし照れくさそうにこう答えた。
「ミカエルが可愛いから! ……ってことにしておこうか」
脱力するしかない。もう本当に何を言ったらいいのものか、皆目見当もつかない。
大体、信じられない。天使はこんなことはしないものだ。もっと高潔で清純で、もっともっともっと。
「そ、そうだ。これは夢だ。夢に違いないっ、夢なんだ……っ!」
ミカエルは自分の頬を自分でひっぱたいてみた。
……痛い。多分今のは手形がついた。それなのに、おやおやと言いながらミカエルのほっぺたをふうふうする片翼の天使も消えないし、痛みも今のところ消えてくれない。何より唇の感触が、まだしっかりと残っていた。
「……夢じゃない」
「へえ。夢じゃないかって思うほど、僕とのキスが嬉しかった?」
一度は青ざめた頬に再び朱を散らし、ミカエルはラファエルを睨み付けた。
「ち、ちがっ」
「血が騒ぐほど嬉しい?」
「そうじゃな――」
「そうじゃないけど嬉しい」
ミカエルは地の底を這うような声で、ラファエルに訴える。
「ラファエル様、何が何でも嬉しいって事にするおつもりですね……!?」
「だって、ほんとは嬉しいんだろ?」
無邪気な顔で笑う天使から、ミカエルは目を逸らす。
「う、嬉しくなんかありません! もう、いいですから早く下ろしてください!」
「本当に嬉しくないの?」
「だからそう言っているでしょう!」
「本当に〜?」
「何で疑うんですかっ!?」
不満そうな教官は、途端に愁いを帯びた顔になって、真剣に首を振った。
「ミカエル。僕は教官として君に再度言うよ。天使になりたいならば、嘘を吐いてはいけない」
「だから何でそこで疑えるんですっ! もう、いいから下ろしてくださいっ!」
「あーもう。暴れると危ないって言ってるのになあ」
遙か下に、さっきまで自分が居た草原が見えている。それどころか、天使学校がある山間の窪地の、全体が軽く見渡せた。直径十センチほどのこんもりと丸い緑は、きっとラファエルが寝床にしていた大きな木。この高さじゃ、落ちたらひとたまりもない。
ラファエルは飄々とした態度を崩しもせず、含み笑いを漏らした。
「じゃあこうしよう。もう一回キスさせてくれるか、正直に嬉しいって答えるか。どっちかを選んだら下ろしてあげる」
「なっ。ほ、他の選択肢は!?」
「ないよ。さあさあどっちだい? もう一回キスするか、嬉しいって認めるか! 制限時間は十秒!」
ミカエルは顔をひきつらせて叫んだ。
「どちらかを選ぶくらいなら、落ちた方がマシです!!」
「素直じゃないなあ。僕は君を落としたくないよ?」
「なら勝手に僕が飛び降りますーっ!」
力一杯に暴れて、ラファエルの手を無理矢理解こうとしたミカエルの耳に、ラファエルの溜息と、静かな声が吹込まれた。
「時間切れだよ、意地っ張り」
「え?」
声にほんの少し不穏なものを感じた気がして、動きを止めた。……いや、止まった。心臓を掴まれたような不安を感じて、硬直してしまったのだ。
ラファエルの少し翳りを帯びた目が近付いてくる。反射的に瞼を閉じた途端、さっきよりもずっと乱暴な仕草で、唇を塞がれていた。
ミカエルの背が跳ねる。ぬめる舌先で唇をなぞられて、驚いた拍子に、口を開けてしまった。その僅かな隙間を逃さず、ラファエルの舌が入り込んでくる――
「ん……っ」
今度は全身が火照った。目眩がするのは、瞼を透かして差し込んでくる、強い陽光のせいだろうか?
ラファエルの舌は乱暴にミカエルの口腔を探り、舌に絡まり、誘い出す。舌先を強く吸われて、ひくりと震えた。
力が急激に抜けていくのは、きっと足が地に着かないせいだ。落ちてしまいそうで怖くて、いつの間にかラファエルの服をぎゅっと握りしめていた。
随分長い時間が経った気がしたが、実はそうでもなかったのかも知れない。唇がゆっくりと離れて、ラファエルが、彼にしては無愛想な声で告げた。
「もう降りてるよ」
「え……あれ?」
目を開けると、確かに周りの風景が低い。足はしっかりと地面を踏んでいる。一体いつから?
握りしめていた拳の中から、服がするりと引き抜かれて、直前まで目の前にあった彼の気配が消える。慌てて身を翻すと、ラファエルは学校に向かって歩き出していた。
「ラ、ラファエル様……」
「ん〜?」
「……怒ったのですか?」
何故自分はこんなことを聞いているのだろうと思ったが、何よりそれが気になった。ちょっと前から、ラファエルは時々こんな態度を取るようになって、その度に訳が分からないのだ。
「べぇつにぃー」
背を向けたまま答えるラファエルの声は、拗ねきっている。
「やっぱり怒っていらっしゃるじゃないですかぁ!」
肩越しに振り返ったラファエルは、唇を尖らせていた。
「怒られるようなことをしたと思ってるんだ?」
「そんな……訳じゃ。でも…………」
でも。
本来怒って良いのは自分の方なのだ。授業をすっぽかされて、おどかされて、空中につり上げられて、それどころかあんなことまでされて。
……でも、そんなふうに背中を向けられると。
顔を上げることも出来ないミカエルの耳に、軽い溜息。それから少しおどけた声。
「ミカエルのイケズー」
恐る恐る顔を上げると、ラファエルはいつも通りの笑みを浮かべ、ミカエルを手招きしていた。
「ほら、行こう、ミカエル」
変わらぬ口調にほっとする。柔らかな視線に、こわばりがほどける。
「……まったく、なに考えていらっしゃるんですか」
ミカエルの肩から、ようやく力が抜けた。
あれから何とか遅れを取り戻し、全ての授業を終えて、寮に戻った。予習復習も完璧に済ませ、シャワーも済ませて規則正しく、いつもの時間にベッドに潜り込む。
静まりかえった部屋。暗くなって、物音ひとつ聞こえない静寂の中に身を置いたら、急に身体が沈み込んでいくような、不思議な感覚があった。
――なんだ、これ。
ミカエルは首をひねる。なんだかついさっきまでずっと空を飛んでいて、今この瞬間、地上に降ろされたみたいだ。
そう言えば、午後はずっと空を飛んでいるような気分だったっけ。勉強はいつだって楽しいけれど、午後の授業は、ラファエルとのほんのちょっとのやりとりも、いつもより楽しかった……ような。いやむしろ、今思えば、浮かれていたような。
――そんな馬鹿な。
ミカエルは顔をひきつらせた。あんなことをされて、浮かれるだなんてあり得ない。錯覚だ。勘違いだ。
あえて渋面を作る。むしろ怒るべきだろうと、ミカエルの頭の中で理性は訴えているのだ。
だが、しばらくはそうしてしかつめらしい顔を作ってはみたものの、いつの間にか、唇に手を当ててぼんやりしていた。
……何だか、自分で自分のことが、よく分からない。
殆ど無理矢理みたいにキスをされたのに、何で自分は怒るのを忘れてしまっていたのだろう。
瞼を閉じると、唇の感触や、息をするのも苦しいくらいの舌の動きを思い出す。背中に感じた腕の力強さや、頬に触れた風、瞼越しの陽射しや、飛翔するときの、逆流するような血の流れを思い出していた。血の気が昇る。全身が熱い。
すごいことをしてしまった気がした。キスなんて、普通しない。
いや、しているのを見たことはある。昔、まだラファエルに会う前に、遠くからそっと覗き見た親子の姿が目に浮かぶ。父親が光輪を頭上にいただいた、小さな子供の頬にキスをする。
……でも自分には縁遠いものだった。
『だって、ほんとは嬉しいんだろ?』
今この瞬間に、再びあの問いを受けたら、何と答えるだろう?
気持ちがふわふわする。どうもおかしい。熱でも出ているのではないだろうか。こんなことを考えている場合じゃないのに。
――そうだ。こんなことを考えている場合じゃないのに。
頭の中にキリを打ち込まれたような気がした。頑張って天使にならなきゃいけないのに。誰にも馬鹿にされない、完全で強大な天使に。
いつも頭の中で繰り返しているその言葉を思いだした途端、ミカエルの顔から、表情がかき消える。刷毛で一塗りされたような変化だった。
もう寝なければ。明日も朝から学ぶために。おかしな事に気持ちを取られる訳にはいかないのだ。
同時刻。学校の端に建てられた教職員用の家のひとつ。瀟洒な細工の施された窓辺に、ギターを抱えた片翼の天使の姿があった。部屋の明かりはとうに落とされている。彼の手はギターをつま弾いてはいるが、意味のない音階や和音を時折刻むだけで、視線は空に向けられていた。夜空を通して、昼間の空を懐かしむ。
――……しちゃったなあ、キス。
ラファエルの頬には、僅かな苦笑が滲んでいた。
ベタベタするのは当分お預けだと思っていたのに、これじゃまるで逆じゃないか。
キスしたいなと思ったことは幾度もあったけれど、これまでは何とか堪えていたのだ。彼の本心はともかく、拒絶は目に見えていたから。
それなのに、あの黄水晶みたいな色をした大きな目で、珍しく肩の力が抜けた素直な顔で、あんなに近くで自分を見るから。だからとうとう、我慢が出来なくなってしまった。
告白だって、もっと待とうと思っていたのに我慢が利かなかったし、案外自分は、そういう性格だったのかも知れない。
「これはどういうことなのかな……」
一度は人として生き、触れることの心地良さを覚えてしまった自分と、あの孤独な魂を巡り合わせたのは、どんな運命の流れなのだろう?
本来ならば触れ合えないはずの自分たちに、あんな接触が許されているのは何故? 今のところ、咎められる気配ひとつなくて、だから余計に不思議なのだけれど……。
――それにしたって、ミカエルのあの顔。
思い出す度に笑いが漏れる。好きだと言ったときにはあんなふうだったし、キスをしたときだって嫌だとばかり言っていた癖に、午後の授業中はやけにはしゃいでいるように見えた。自分ではそのことを分かっているのだろうか。
――いつまで保つかなあ、僕の理性は。
ラファエルは、より深く苦笑を刻んだ。何しろ想い人とは、明日からもずっと二人きりの授業なのだ。今後、自分の理性がどうなってしまうのだか、自分でも予測がつかないのだが。
ラファエルは最後にもう一度だけ、無意味な和音をかき鳴らして、ギターを腕の中から消した。そして眠るためにベッドに向かう。瞼を閉じたら、昼間の冷たくて柔らかな口付けを、リアルに思い出してしまうだろうと分かっていた。
<END>
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ようやっとちゅう。ファーストセカンドサード。 | ||
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