たくさんのキス |
■たくさんのキス
天使学校、春のとある日。一学年の教官を集めた会議の席上で、議長を務める天使は美しい声で言った。
「では次は、保健体育の授業で行っていただく性教育についてですが」
ぎく。
清らかな面の天使達の中、冷や汗を流した教官が一名。表向きは何とか平然とした顔を取り繕っていたが、何しろ些か後ろめたいことがある。タイムリーなことに、彼は昨日の昼間、教え子にちょっかいを出したばかりだった。
「こちらが今年度版のマニュアルになります。今年は去年と変更点はありませんが、念のため内容をご確認の上、よろしくお願いします」
奇跡の力でふわふわと飛んできたマニュアルに飛びついて、大急ぎで中身を確認すると、ラファエルは元気よく手を挙げた。
「はいはいはーい。質問がありまーす」
「何ですか、ラファエル」
「いつの間に天使学校は、生殖行動以外の性行為を否定しないようになったの?」
議長を務める天使は、おっとりと答えた。
「さて、かれこれ四、五十年にはなりますかねえ」
「君、知らなかったの?」
隣に座っていた同僚が首を傾げて、ラファエルは肩をすくめる。
「僕が天使学校の教官をやってたのなんて随分前のことだし、ほんのちょっとの間だったもん。最近のことはさっぱりだよ」
以前やっていたことがあったからこそ、見習い期間免除ではあったのだが、正直、前にどんなことを教えていたかなんて、殆ど覚えていない。
「昔は確かに、欲望を否定する方向に指導していた時期もありましたがね」
同僚の言葉の後を引き継いで、議長が続ける。
「天界の昨今の方針としては、あまり抑制しない方向で動いています。そしてより良い状態へ導くのが主眼です」
「より良い状態って?」
にこやかに議長は答えた。
「出来るだけ、愛し愛されて持つ関係に導くって事ですよ。まあ勿論、愛の形も様々ですが」
「ど……、同性愛は?」
議長は首を傾げる。
「地上の様子をご覧になっていたならば、お分かりでしょう。天界が禁じている訳がないじゃありませんか」
あっさりと答えた議長を見て、ラファエルは頭を掻いて笑いだした。
「だ、だよねー。いや、ははは、分かってはいたんだけど、ちょっと気になってさあ」
顎に手を当てると、鼻歌交じりに何度もうなずく。
「なるほど、なるほど。それはいいね。いいことだね〜!」
黒衣の天使の同僚達は、不思議そうに顔を見合わせた。
「ラファエルはどうしてあんなに機嫌がいいんだい?」
「さあ……?」
同じ頃、うららかな陽射しの差し込む食堂で昼食をとっていた一年生達は、声をひそめて言い合っていた。
「今度、性教育があるんだってさ」
「性教育って、何を勉強するの?」
「知らないの? 人間がどうやって子供を作るかだよ」
「ああ」
基本的に天使の卵達は純粋で性的に無知だ。それでも多少の知識やタブー意識はあるようで、ちょっと顔を赤くしている。そんな中、平然と頷く一年生がひとり。
「でも、それは大事なことですね。我々は人を導く立場になるのですから、何でも知っておかなければ」
こくこくと当たり前のように頷いているミカエルを見て、周囲の一年生達が感心した声を上げる。
「ミカエルは落ち着いてるなあ」
「もうそういう勉強もはじめてるのかい?」
「いいえ。でも予習はしなければなりませんね。どういったことを習うんでしょう」
「なんだろうね。キスについてとか?」
誰かが言った言葉に、別の誰かが笑って首を振る。
「キスなんて、僕らだってするじゃないか」
「そういうのじゃないんだよ。性行為的なキスだと、舌を入れたりするらしいよ」
ミカエルが突如として凍り付いた。隣に座っていた男子生徒は、ミカエルの異変には気付かぬ様子で身を乗り出す。
「え? なんでなんで?」
「さあ……。楽しいんじゃないの?」
「どこが?」
「さあ…………?」
反対どなりに座っていた女生徒達が、溜息混じりに眉をひそめた。
「もう、いやね、男の子達はそんな話ばっかりして」
「ねえミカエル、あなたもそう思うでしょう?」
「そ……そそそ、そうですね」
ミカエルは慌てた様子で、何度も激しく頷いている。
「ミカエル、どうかしたの? あなた様子が変よ」
「い、いやあ、べつにどうも。あはははは……」
作り笑いに失敗しつつ、ミカエルは必死になって思い返していた。
昨日ラファエルにキスをされたとき、舌……入れられた気がする。いや、確かに入れられた。キスをされたこと自体が不思議すぎたからか、細かいことまで気が回っていなかった。
前に見た親子連れが頬にキスをしていたのと、似たり寄ったりだと思っていたのだが、今になって思えば、キスをされてあの時の自分みたいに慌てふためく子供も、嫌がる子供も見たことがない。
もしかしてキスにも色々種類があって、あれとそれとは切り分けて考える必要があったのだろうか。……考えたこともなかった。
ああいや、しかし、本能的には分かっていた気もするのだ。だって不純な感じがしたし、何か違うと思ったればこそ、自分はあんなに抵抗したわけで。
でもあれが性行為のキスだったとしても、ラファエルと自分じゃ同性なんだから子供が作れる訳じゃないし、じゃあ一体、何の意味があるのだろう。
駄目だ。まるで分からない。こういう場合は、基礎知識が不足しているのだ。性教育の授業があるならば、勉強せねばなるまい。ラファエルに教えてもらって――と、そこまで考えて、今度は顔から火を噴く。
――なんてことだ。自分にあんなキスをした当の本人に、教えを請わねばならないのか。何だか自分でもよく分からないが、それはとてもとても、恥ずかしいことではないか?
皿の上のポテトサラダを意味もなくかき混ぜながら、真剣な顔で考え込むミカエルを見て、周りの生徒達が首を傾げる。
「……ミカエルはどうしてあんなに真っ赤なんだい?」
「さあ……?」
「そういえばさあ、学生間の交際禁止って規則も、いつの間にかなくなってるんだねー」
「その規則が消えて、かれこれ数百年になりますよ」
「へえ〜……」
資料をめくりながら首を傾けていたラファエルは、顔を上げると上目遣いに議長の顔を伺った。
「……念のため聞きたいんだけどさ。これって、性教育の内容を生徒が活用しちゃっても構わないって事?」
ラファエルの問いに、議長が半ば呆れ気味に首を傾げる。
「貴方はこの件になると、やけに熱心ですね」
「いやほら、僕、先生やるの久し振りだからー、何事も勉強勉強」
「まあ、熱心なのはいいことですが……。生徒間についても、合意の上での行為であるのなら、特に止めることはありません。本人達の自由意志に任せる方針になっています」
「ほう!」
「とは言え、本人達が性教育の内容を実践することは殆どないでしょうけどね。概ね、人間を知るための知識として教えています」
「ど――」
どうして実践する事がないなんて言い切れるの?
そう尋ねようとして、ラファエルは口をつぐんだ。
尋ねるまでもない。天使の雛達が恋をするのはままあることだが、その関係はせいぜいキスまでで、プラトニックに留まるのが常だ。
彼らは殆ど肉欲を持たない。自分たちがいずれは肉体を無くすことを、本能で知っているからだ。
――そう、肉体を無くすのだ。天使になってしまったら、ミカエルだってきっと……。
僕らはいつまで触れあえるのだろう?
あまりにも基本的なことなのに忘れていた。出会ったばかりの頃は、日々触れられるかどうかを確かめずには居られなかったのに、いつの間にか、当たり前になりつつあった。
……でも本当は、少しも当たり前のことではないのだ、自分たちにとっては。
ラファエルは頬杖をついて視線を落とす。初めて会ったときのミカエルのように、いっそ地中に沈み込みたい気分だった。
「ラファエル、どうかしたのかい?」
「…………」
呼び声もまるで耳に入っていない様子のラファエルに首を傾げた議長が、他の天使に問いかける。
「ラファエルはどうして急に落ち込んでるんだい?」
「さあ……?」
ファイルで肩を叩きながら、溜息混じりに職員室を出たら、誰かの小さな驚き声。胡乱な視線を上げると、ちょうど通りかかったミカエルが、引きつった顔をして立ち竦んでいた。
可愛らしく整った顔が真っ赤に染まっている。急にどうしたのかは知らないが、自分を見て恥じらっていることはよく分かった。
「……やあ、また会えたね、ミカエル」
冗談めかして挨拶したら、ぴくりと跳ねて俯いてしまった。『午前中に会ったばかりでしょう』と突っ込まれることを期待していたのに、しどろもどろな挨拶を返された。
「こ……こんにちは。ごきげんよう」
「どうしたの、そんな顔して」
「いえ、べ、別にどうも……」
お互いに会話がぎこちない。近付いたら尚更真っ赤になって後ずさるのが、可愛いような小憎らしいような。午前中に会ったときは、いつも通りのミカエルだったのに、急に昨日のことを思い出しでもしたのだろうか。
「今から教室に行くんだよね。一緒に戻ろうか」
ミカエルは真っ赤な顔のまま首を大きく振った。
「い、いえ! 僕はひとりで行きますから!!」
「……同じ教室に行くのに、別々に戻るの?」
「いやまあ、そりゃあそうなんですけど……」
黙って様子を見ていたら、ミカエルは少し困った顔をしながらも、ラファエルの傍まで来た。
「じゃ、行こうか」
「……はい」
ラファエルが歩き出すと、一歩遅れてついてくる。肩越しに、俯いて歩くミカエルの姿を見た。
揺れる髪の向こうに透けて見える小作りな顔。華奢な肩。教科書をしっかり握りしめた細い指。吹き抜けで陽射しを遮る屋根のないこの渡り廊下にいると、色素の薄いミカエルは、陽に透けてしまいそうに見えた。
――卒業まで、あと二年と少し。卒業はイコール、羽化を意味する。
触れ合うことが出来る時間は、もしかしたら、もうそれだけしか残されていないのかも知れない。
「ラファエル様?」
視線を感じたのか、ミカエルが訝しそうにラファエルを見上げた。ラファエルはにっこりと笑うと、ミカエルを手招く。
「ちょっとおいで〜」
「何か?」
「いいからー」
渡り廊下を渡りきって、日陰に入る。首を傾げてついてきたミカエルの腕を掴んで引き寄せた。咄嗟に反応が出来ず、バランスを崩したところを抱き寄せ、素早くキスをする。
「わっ!」
慌てた様子で胸を押されたが離さない。さっき通り抜けてきた向かいの校舎から、足音が聞こえる。他の教室に向かう生徒達だろう。羽を広げて自分たちの姿を覆い隠すと、もう一度唇を落とした。
「ちょ……っ、ラファエルさまぁ!」
顎を持ち上げ、驚きに開かれていたひんやりと冷たい唇を塞ぐ。有無を言わせず舌を差し入れ、歯列をなぞった。小さな舌に触れてくすぐる。絡めて探り、軽く吸った。いつの間にか加減を忘れて貪っていた。
最初はもがいていたミカエルの身体から、次第に力が抜ける。腰に回した手で支えてやると、腕にかかる重みが愛おしい。
チャイムの音と同時にそっと唇を離す。生徒達の足音はとっくの昔に遠のいて、あたりはしんとした空気に包まれていた。
ミカエルの唇が赤味を増してつやつやと光っている。指先で乱れた髪を整えてやると、とろんとした目でラファエルを見ていたミカエルは、急に我に返った様子で、一歩退いた。半べそをかきながら、濡れた唇を拳で拭っている。
「な……っ、なんてことするんですかぁ!」
「だーいじょうぶ。ちゃあんと羽で隠してたから、誰も気付いてないってー」
「そういう問題じゃありませんっ。ぼ、僕、知ってるんですからね。こういうキスは、簡単にするものじゃないんですよ!」
「あれぇ、そんなこと誰に吹込まれたの。そりゃ確かに滅多にするものじゃないけど、して悪いものでもないよ」
「そうじゃなくて、何で僕にするのかと僕は訊きたいんですっ」
「君が可愛いからって昨日も言っただろ? それとも、他の人とキスしてもいいの?」
まあ、しようと思ったって出来やしないのだが。
ミカエルは思ってもみないことを言われた様子で、口をぱくぱくさせている。
――まったくもう、この子は。
ラファエルは軽く腰を折ると、笑いながらミカエルの顔を覗き込んだ。
「僕が他の人とキスしたら、君、嫌じゃない?」
「……もうっ、ふざけてらっしゃるんですね!?」
「心外だなあ。ふざけてなんかいないさ。この真剣な顔を見てたら分かるだろ?」
「ちっとも真剣な顔なんかしてないじゃないですか!」
「うん、だって嬉しいしー」
「おっしゃっていることが滅茶苦茶です!!」
ミカエルの華奢な身体を、両腕で囲い込む。性懲りもなくもがいている彼の耳元で、あえて明るく言った。
「ねえミカエルー。僕たち、これからいっぱいキスしようねー」
「なっ、なんで!?」
「したいからー……ってことにしとこうかな」
ミカエルが天使になったらどうなるのか、見当がつかない。今こうして触れあえること自体が奇跡なのに、それ以上のこととなると、想像の埒外だ。
でも、天使にしてあげると約束した、あの誓いはだけは破れない。……この先に何が待っていようと、それだけは自分の役目なのだ。
忘れてはいけない。あの約束があったから、自分たちは今ここに居て、こうして触れ合っているのだから。
……ならばせめて、今は。
<END>
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